【陸奥】 南部氏 【清和源氏】
>>25
大名としては滅亡したけど荒廃した遠野に八戸氏が移封させられた際に
阿曽沼の子孫を取り立てて、治世に参画させたことで漸く遠野も安定したというし
八戸氏の家臣として生き延びたとも言われてる >>22
戦国時代の太平洋岸の交易路って大坂(堺)や京都(敦賀から琵琶湖経由)に通じてたのかな
そうでなければ大した利益上がらないような 太平洋側は志摩海岸、遠州灘、房総半島、三陸海岸といった難所が多く
動力源を持つ船が主流になる明治時代以前は西廻り航路がメイン そう言っていると土器作っていた頃からやっている太平洋岸の黒潮貿易を失念する 南部 実長(なんぶ さねなが)は、鎌倉時代中期の御家人。
南部光行の三男。八戸氏(根城南部氏)の祖。
日蓮の有力壇越として知られ、また甲斐国波木井(はきり)に居住したことから波木井実長とも呼ばれる。 父光行から甲斐国巨摩郡飯野御牧内にある波木井郷(現在の南巨摩郡身延町梅平一帯)を割譲され、地頭職を兼ねた。
嘉禎4年(1238年)、4代将軍藤原頼経が上洛した際には、兄実光と共に随兵を務めた。
文永6年(1269年)頃、鎌倉での辻説法を聞いて深く感銘し日蓮に帰依した。 同11年(1274年)には、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を波木井郷へ招き入れ、
まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった。
弘安4年(1281年)、十間四面の堂宇を建立寄進し「妙法華院久遠寺」と命名、また実長も出家し法寂院日円と号した。
弘安5年(1282年)9月、病身の日蓮は病気療養の為常陸の湯に向かう途中現在の東京都大田区池上に着くと病体が更に悪化し、実長への9ヶ年の感謝と死期の近いことを知らせる最後の手紙を送っている(『波木井殿御報』)。
10月13日朝、61歳の生涯を閉じた日蓮の遺言通り遺骨を身延の澤に埋葬し実長を中心に六老僧等で護った。 後代、長男実継の家系は陸奥国を地盤とする八戸氏(根城南部氏)として存続し、
本拠地である甲斐国波木井郷は四男(一説には長男とも)長義の家系が継承した。 鎌倉時代、
疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、
三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。
当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。
日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。
このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。
日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、
1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。 翌1282(弘安5)年9月8日、日蓮聖人は病身を養うためと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいましたが、
同年10月13日、その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)にてその61年の生涯を閉じられました。
そして、「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」という日蓮聖人のご遺言のとおり、
そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました。 その後、身延山久遠寺は日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、
約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました。
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています。 日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、
法灯は綿々と絶えることなく、
廟墓は歴代住職によって守護され、
今日におよんでいます。
日蓮聖人が法華経を読誦し、
法華経に命をささげた霊境、
身延山久遠寺。
総本山として門下の厚い信仰を集め、
広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣が絶えることがありません。 波木井氏と八戸南部氏は関係ないって現在ほぼ証明されてるけどな 甲斐に残留した南部氏もいると思うが、その後どうなったの? >>44
甲斐を追放された南部宗秀は会津で餓死したという真偽不明の出来事があるが、
奥州の南部氏のところに行こうとしていたと考えてもおかしくなさそう。 相馬大作事件(そうまだいさくじけん)とは、
文政4年4月23日(1821年5月24日)に、南部藩士・下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)を首謀者とする数人が、
参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件。
秀之進の用いた別名である相馬大作が事件名の由来である。
杜撰な計画と、事件前に裏切った仲間の密告により、
津軽寧親の暗殺に失敗したため、
秀之進は南部藩を出奔した。
後に秀之進は幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。 >>45
それ、私も思った
南部宗秀と笠井定明について資料がもっとあれば
南部と笠井と武田は元々繋がりが深かったみたい 北信景出奔は金山の利権争いに破れたからなんですか? 単に利直と折り合いが悪かっただけな気がするけどねえ。一家臣が大名と利権争いで
戦えるわけないし…功績のあった八戸氏でさえ屈辱的な田名部取り上げと
遠野転封の渋々承諾してるくらいであって 後藤又兵衛基次が黒田長政と相性が悪すぎて出奔したようなものだと思う。 ただし、大阪の陣で豊臣家が踏ん張って生き残り、そのうちに家康が死んだ場合の
「保険」として北信景を大阪に入場させたという見方もできるが。 しょぼー(笑
そんな中で九戸だ津軽だって内紛してたんかいw
悲しいなぁw 東北のように一村の石高が低いとそれなりの石高を家臣に与えるためには広大な領土を分け与えなくては成り立たない=必然的に家老や一門クラスには広大な領土を分け与えることになる=数十年経つとその家老や一門クラスが自立し始める→反乱を起こす
という南部の統治を云々する前に地理的な統治の難しさが北東北にはある さらに家臣団は自領地で事が起こった時に遥か彼方にいる当主の援護が期待できないため結果的に自分で解決しないといけない→結果的に自立心旺盛になる→もしくは自立心旺盛じゃないと統治できない 南部利直は石高に見合わない3000という多数の兵を引きつれて徳川幕府に忠誠をしめしました。 南部利直の時代には馬と砂金と鷹の商売で経済的に潤っていたよ 小田原の陣では信直も1000の兵を率いて青森から関東に赴いてるし石高は低いけど金はあったんだろうな 津軽氏相手に手こずり過ぎだから、もっと評価下げてもいい。江戸時代だと見栄張って石高維持のため無理して領民は飢饉で村離散し仙台藩に流出させてる >>60
あれは津軽を褒めるべき。
ニック・ボックウィンクルのようなダーティーな戦いに徹したのが良かった。 >>60
晴政や信直って津軽とろくに戦ってないんだけどな
むしろ安東や浪岡北畠との抗争が為信のメインだった 同族の甲斐源氏小笠原氏と同じぐらいマイナーレベルの武家なんだよな
ただし南部氏諸家には一戸氏、二戸氏、三戸氏、四戸が無くて五戸、六戸、七戸
八戸氏、九戸氏まであって、まんま地名として残っている
有名なのは、三戸氏と八戸氏で、三戸氏が後の盛岡の大名になっているとおもた >>27
宮古辺りにいたりしたのかな?
宮古にある墓に阿曽沼氏の子孫って書いてあるが本当かわからんのよね 斗南藩が散々苦しんだ不毛な土地を巡って争ってたのか。 <<69
農業的には不毛だけど海産物とか北海道とかからの交易品とかで潤ってた。
何といっても、金がとれた。 側室に耽溺して、若死にされるとその母親を側室にするとか、ちょっとおかしいです 何故か十三湊は使われなかったよ。室町時代に日本の交易港ベスト10である
三津七湊の一つとして繁栄していたのに 南部が金持ってたのは砂金と贈答用の鷹と馬のお陰
常識な シナリオにもよるけど南部晴政、石川高信、九戸政実の騎馬トリオによる突撃で北関東までは行ける。
そっから上杉か北条に侵攻するわけだが上杉は南部の上位互換だからいつも北条に向かってたな。 キター
『歴史群像』2019年12月号 (11月6日発売)
第2特集 南部氏VS.津軽氏 陸奥北部で展開された虚々実々の闘争 津軽が鉄砲と弾薬をサービスしてくれたが、佐竹藩は有効活用が叶わず連戦連敗 七戸の民だけど祖父から家臣の一族って聞いてる
真偽はわからん 信直の家督相続が天正9年説が強くなってきたと
家督は晴政→信直だと 野辺地、烏帽子山は、南部藩固有の領土であります。それを津軽藩は、幕府に檜を献上するという名目で無理やり奪い取ったのであります。 そろそろはっきりさせようぜ。
南部家の本家は盛岡じゃなく、八戸だよな。 何をもって本家とするか基準が分らんけど南北朝期に勢力を持っていたのは八戸
というか元が同じ甲斐南部出身っていうだけでどこまで同族意識があったか謎
分家で勢力争いして勝ったやつが本家の島津と一緒じゃね? >>86
八戸→三戸→九戸となるはずだったが北信愛のクーデターで九戸にはバトンが回らなかった 野望シリーズで九戸政実の戦闘や統率が高い根拠はどの戦が元になってるの?
wikiだとこれといって目立った功績がないようなんだけど >>96
寡兵での河崎城関連での葛西氏、小野寺氏との戦いが評価されてるのかと。
あと高水寺斯波氏を降した後の南下政策は九戸政実が主力っぽい あまり話題にならないけど八戸氏はどうして平地の根城に城を構えたんでしょう?
少し離れた場所には守りやすい高い台地があるのに >>100
やはり軍事より、行政や統治の利便性を選んだのでは? いうほど防御力は低くないかと。
大きい河川を水堀に利用してるから後ろは気にせず前方左右に集中できるし
平城だからこそ多くの兵士を長期間収容できるメリットもある。 八戸勝義が晴政に敗れて晴政家臣の新田(にいだ)行正の子、政栄に家督を譲ったのはいつぐらいなんだろう
八戸政栄が1543年生まれだから、それ以降のはずなんだが >>103
東北地方北部の戦争だと兵力も鉄砲も少ないから
まとまった数で籠城してしまえば
そう簡単には負けない。 八戸政栄の家督継承1548年。勝義は早世したことになってる。
wikiだと政栄の生年と家督継承が1年前にずれてる。正しくは1544年生まれ。
0歳を計算に入れて生年がずれ、家督継承した年は1歳から計算して間違えたな。 地名として残ってないだけで、四戸氏はいた。
櫛引清長と金田一彦三郎が四戸氏の一族。 >>101
それと今の八戸市と馬淵川。あと支流の河川は東北北部と他の地域を結ぶ
物流のルートだし、そこから得られる通行税を得るためには川沿いに城がある方が睨みが効きそう それにしても九戸城の所在地が二戸とか紛らわしいにもほどがある
二戸氏=九戸氏なのか 今でも一戸から九戸(四戸除く)の基礎自治体が残ってるのが凄いな
今の時代なら合併で無くなっても不思議で無いのに 津軽もだけど僻地過ぎて誰も手を出せなかったのが幸いしたな 南部は江戸期がクソすぎる主早死にしすぎだし三奸居るし
現代で言えば北朝鮮のようだった 久しぶりに烈風伝で
南部〜九戸政実独立シナリオやりたくなってきた 青森県南部町教育委員会は4日、戦国大名の南部氏が15〜16世紀前半に拠点を置いた聖寿寺館跡(同町)から、クマの犬歯を加工した中世アイヌ文化の装飾品が出土したと発表した
アイヌと南部かあ 聖寿寺館跡からは明で製作された陶磁器が出てるというしアイヌ人を仲介した
日明貿易を南部もやっていたかもしれないな。 アイヌと南部というのはこれまで見られなかっただけに共同通信も記事にしてたな 南部氏の館に住んでいたアイヌ人は貿易商みたいな存在だったのだろうか。
明朝から陶磁器や銅銭を仕入れてそれを南部氏に売り、
南部氏からはアイヌ人の貿易商に針や鎌、斧といった鉄製品を買っていたとか。 分家の子孫が同じ大学の史学科に居たわ。出自をアピールしまくっててダサかった。 明銭は分かるけど陶磁器を輸入したとして何に使ったんだろう?
当時の和食には陶磁器は合わないし、武士が華道って訳でもないと思うが 朝鮮や明の陶磁器なんて何千と出土してるぞ。蝦夷の山城から。