【陸奥】 南部氏 【清和源氏】
津軽もだけど僻地過ぎて誰も手を出せなかったのが幸いしたな 南部は江戸期がクソすぎる主早死にしすぎだし三奸居るし
現代で言えば北朝鮮のようだった 久しぶりに烈風伝で
南部〜九戸政実独立シナリオやりたくなってきた 青森県南部町教育委員会は4日、戦国大名の南部氏が15〜16世紀前半に拠点を置いた聖寿寺館跡(同町)から、クマの犬歯を加工した中世アイヌ文化の装飾品が出土したと発表した
アイヌと南部かあ 聖寿寺館跡からは明で製作された陶磁器が出てるというしアイヌ人を仲介した
日明貿易を南部もやっていたかもしれないな。 アイヌと南部というのはこれまで見られなかっただけに共同通信も記事にしてたな 南部氏の館に住んでいたアイヌ人は貿易商みたいな存在だったのだろうか。
明朝から陶磁器や銅銭を仕入れてそれを南部氏に売り、
南部氏からはアイヌ人の貿易商に針や鎌、斧といった鉄製品を買っていたとか。 分家の子孫が同じ大学の史学科に居たわ。出自をアピールしまくっててダサかった。 明銭は分かるけど陶磁器を輸入したとして何に使ったんだろう?
当時の和食には陶磁器は合わないし、武士が華道って訳でもないと思うが 朝鮮や明の陶磁器なんて何千と出土してるぞ。蝦夷の山城から。 大浦家の始祖となった久慈氏と、浅瀬石千徳家の始祖だった
閉伊郡の千徳氏が津軽に赴いた理由って何かありますか? 土地を接収して代官を置いたとあるし、その見返りとして代替地を与えられたのかと。 南部の世嗣利謹も、津軽信順も房事にふけり多額の借財と餓死者の山を築いた暗君であり、幕府は南部、津軽双方を改易にすべきであった 戸沢 政房(とざわ まさふさ、永禄3年(1560年) - 寛永10年7月8日(1633年8月12日))は、出羽戸沢氏の重臣。
南部氏の一族で初名は南部五郎、後に杉山勘左衛門清康と称した。『戸沢藩系図書』のうち
「戸沢勘兵衛家系図」では南部政康の子孫とする。
子の清房は新庄藩家老として知行1700石、戸沢盛純(戸沢四郎兵衛家、戸沢忠盛の子孫)の娘を娶った。
清房の長女が同じく重臣の楢岡友清に嫁し、その子が新庄藩主となった戸沢正庸である。 >>130
南部も津軽も征服王朝みたいなもんだし江戸初期は恨んでいた民も多かったろうな 青森市の戦国時代ってどんな感じだったんだろ?
秋田市や盛岡市なんかは色々と分かってきてるけど青森市は微妙な感じがする 草深い青森の戦国時代なんて、猿蟹合戦のごときものにて、ただ田舎風にやれば良いのでおじゃりまする。 青森市の西半分は浪岡北畠。東半分は南部が領有していた模様。
だけど両家にしてみると中心から外れた場所だから大して重要視はされなかった 評価の対象になったのは阿曽沼時代の山城としての遺構だけどね。 ところで遠野阿曽沼氏の勢力範囲と石高はどの程度のもんのだろうか。
仮にも大名として扱われてるなら一万石以上は固い? 支配域は南閉伊郡。石高は約二万石くらいの小大名って感じがする 確かに親潮の影響で数年に一度は冷害になるけどその親潮が良好な漁場を産み出してるのも事実。
ただ冬の降雪量が少ない事もあり、日本海側の豪雪地帯の様に経済活動が止まってしまうことはまず無い 釜石市、大槌町あたりも遠野阿曽沼領だから海はある。 今回の六戸 町の件の十文字って、あの辺じゃもしかしてそれなりに歴史ある地域だったりする? 最終的に盛岡藩が成立する前の諸大名の石高ってのはどの程度なもんでしょうか。
時期としては斯波氏に攻め込む前の勢力について石高で示して欲しいです。
南部。斯波氏。稗貫氏。和賀氏。阿曽沼氏。これら全てを合わせて20万石になるようにしてください。 信長の野望で南部選ぶと領土は広いのに城がなくてスカスカだな >>146
史実では城がなかった場所に築城できる戦国ゲームなかったっけ? >>145
南部が6.5万石。斯波が5.5万石。和賀稗貫が6.0万石。阿曽沼が2.0万石。くらいか。
適当に見積もってみたけどそこまで大きくズレてないと思う。 江戸期では南部藩は20万石、津軽藩は10万石の
奥州の大藩であるが、対立して民政をおろそかにした罪は両方とも重い >>146
不来方城(作品によっては高水寺城)から名生城まで何も無いのは流石になあ
100km以上も離れてるんだし、せめてあと一つか二つは追加してもよさそう。
岩手県は広いのにたった一城しか無いのはアンバランス過ぎる 金ケ崎要害の追加とかしてほしいな。
あの辺は九戸、斯波、和賀、葛西が争奪戦を繰り広げた重要拠点だし 上方では言葉通じず、常に御国に帰りたい南部さん。伊達や最上に
ちょっと何言ってるかわからないと同じ東北でも言われてそうやな 南部利直だったか。上方の女は口が達者で小賢しいから好かん。
女は地元が一番良い。と地方選出の国会議員みたいな事を書状にしてたのは 最近よく野望シリーズに出てくるようになったマゾゲー大名の浪岡と南部の関係ってどうだったの?
ゲーム中だと友好度は平均以下がデフォだけど仲悪かったのかな >>155
それは安東家。安東愛季は浪岡と結び、滅亡後には庇護した功績で朝廷から侍従という役職を賜った
ちなみに東北の大名で侍従という役職をもらえたのは安東愛季のみ >>154
よく分かってないのが実情
分かってるのは浪岡北畠の津軽地方の支配を容認したことくらい 九戸政実は1582年の家督相続に不満を持ち、それが積もりに積もって
1591年の九戸政実の乱になったらしいけどそれまでの9年間は何してたの?
もっと早くやっていたら、それこそ前年の小田原征伐前なら中央軍も来れず
成功したかもしれないのに >>159
同時期に斯波詮直に叛旗を翻され岩手郡と、もしかしたら閉伊郡も奪取されたから
地理的に九戸政実が中心となって対応してたんじゃないか ということは斯波御所を滅ぼした翌年の1589年が九戸政実にとって
中央軍がやって来ずに、下剋上をなし得た可能性があった
唯一のラストチャンスだったのかもしれない事か >>24
宮古にある墓に広郷の流れを汲むって書いてるが真偽は定かではない