姉川合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
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戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。
織田信長は徳川家康を味方につけ、一方で浅井長政は朝倉氏との連合軍で応戦し、結果は織田徳川の連合軍が勝利した。
なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。 /グレゴリオ暦8月9日
って、明日か。
真夏の戦いだったんだな。 ◆「得票0に疑義」と提訴 参院選でJAM組合員
http://www.sankei.com/affairs/news/160809/afr1608090021-n1.html
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。三宅洋平の得票では、
豊島区ではなんとゼロ票
中央区ではゼロ票。
江東区ではゼロ票、
荒川区ではゼロ票
足立区ではゼロ票
通常、こんなことは考えられない。
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。 姉川の戦いで負けて浅井・朝倉は滅んだのではありません https://goo.gl/YdPog5
これが原因?本当??
ショックすぎる。。 俺等三河の兵が頑張って逆転起こした姉川の戦いが殿のアンチの奴等によって「後世の治世の為に、徳川が行った捏造だ!」って叫ばれるのは悲しい。しかも最近ではワイの側面攻撃も無かったことにされる始末...
アカンで。皆で擁護してくりー 言われてきた徳川が朝倉に負けたとかそういうのでないと 徳川が活躍して、徳川のおかげで勝ったとしているだけ。
神君家康を持ち上げるための徳川史観。とにかく徳川史観には、ねつ造が多い。
実際は、徳川は活躍していない、
岡山に陣を張っていたけど、そこも横山城からみれば、後方の陣。
突撃してきた浅井軍は、織田本陣に突っ込んでるから、織田が崩れた。
岡山は朝倉の陣の対岸にあるが、朝倉は三田村城に籠って動かず、
浅井が退却するまで戦を見守っていただけである。
崩れた織田を救ったのは、美濃三人衆だな。 地元には、もう一つ岡山があったもんで、つい勘違い。
今は削られて田んぼになってしまったが。 結果論にはなるが結局浅井勢は突入に失敗して大打撃を受けることになるが
しかも織田軍は崩されたというが坂井くらいしか被害がないから実際織田が崩れたというのも怪しい 崩れたという表現を使ったのは、
元々の信長の本陣から、奇襲を受けて、信長は本陣はかなり後退させている。
それは遠藤の墓がある場所まで、後退していることで証明できる。
距離にして1kmぐらいあるはずで、崩されたに匹敵してると思う。
元々、信長の本陣は、横山城攻め向けのもので、
小谷城や大依山から本陣がむき出しのままで、位置的に丸見えだ。
それに、その本陣の後ろには、誰も備えがいないのだから、
浅井からみれば敵本陣が一番前に来てしまっていることになる。そこを狙った。
あの織田の12段の姉川の配陣図は間違っている。
後世に徳川史観をもとに適当に描いたものだろう。
浅井の奇襲自体は、一応の作戦は成功してると思われる。
先陣の磯野員昌が佐和山まで帰陣していることで踏まえて、
信長本陣を突き抜けたと考えられる。 テレビでみた論を必死に書いてみたってか?
奇襲説はまだまだくそ弱い オレ様は、いつも、朝起きると、メシを作り、
PCを開ける
すると、画面が真っ暗である
言うまでもなく、まことの仕業である >>53
捏造にも理由があって三代将軍の徳川家光は戦国時代の戦の話が大好きで伊達政宗なんかの外様の勇ましい話をよく聞きたがっていた
これに譜代の大名たちが危機感を覚えて徳川譜代家臣たちがいかに家康公を助けたかという物語を作り、だから譜代家臣は大事にしてね!という将軍教育の一環から捏造が始まった
特に姉川の戦いは家光の祖父家康だけでなく母方の織田家と浅井家も関与しているので家光には身近なので家康の活躍=譜代家臣の活躍を強調すべき戦いだった 浅井も大活躍しないといけなかったのは必然というわけか 朝倉義景、浅井久政は姉川で討ち死にし、浅井長政は小谷城に引き上げ、再起を図るため、甲斐・甲府城の武田信玄に密使をつかわした。 >>66
再生数稼ぎの為のくだらない宣伝
戦国時代と全く関係ないので見る必要なし
無駄 この戦いはむごい死体が山積みになったようだな。
この時代の戦ってそこまで死亡率は思ってるほど高くないから
ここまでたくさん死ぬのは珍しい、だから当時の人も凄惨さにびっくりしただろう
信長は結局は人間を盾にして逃げ切ったが、、、 信長は姉川の戦いでもかなりの深手を負っている
花の慶次ではないがひとたび戦に出れば総大将といえども
大怪我や血にまみれる事は珍しくない >>71
これマジ?
戦国物語だったかなんかの司馬物で読んだら後方で指揮してるだけの描写だったからケガとは縁遠そうだった
怪我してたらその辺織り込みそうなもんだけど、それなりに盛り上げなきゃいかん案件だから面倒だったんかな 実際はかなりの深手を負っているようだ。だから信長を守り逃がす為に
雑兵だけでなく多くの人間の壁を作り何度も突進したらしい
そのあまりに凄惨な様子と死体の山からあの地名になっているようだ んな訳ねーだろwww
ようだ、とか、らしいとか言ってないで資料を出せよ統失 そんな人の悪口や批判はどうでもいいよ
てめえの自説をここで公開してみろボケカス
出来ねえなら消えろ!クソアホ人間 歴史の教科書くらいしか知らないレベルが良くここで書こうと思ったな?
はずかしくないんか!?笑 あの時代に大怪我なんてしたら感染症と隣り合わせだろ?
珍しくもなかったら、戦傷がもとで戦後まもなく死んでる大名が沢山いなきゃおかしくね。
大体大名でそれなら平武将レベルは毎戦、長篠レベルで犠牲が出てそう。 信長が傷を負い結果的に1番危なかった戦いになってしまった為に
肉の壁と肉弾特攻隊をつくり次々に特攻させその間に信長が逃げる作戦となった
しかしこんな事は戦国時代では良くあることで島津の退き口は感覚としては普通の事だった そんな危険な退却戦したなら織田側の有力武将も大量に死んだり怪我したりしたんやろなぁ?
っで?具体例上げてくれる? 戦国史は検証すればするほど後で書き改められたり加筆されたり物語されたりしている
特に徳川家や織田家の関わるものはねじ曲げや嘘がひどいといえる
一方比較的史実に沿ったものが多いのが上杉謙信や武田信玄などのものである
江戸時代以降にねじ曲がったものも非常に多いので、どうしても時の幕府が神君の伝説
としてしまったからだろう、、 歴史的に見てここの合戦も大幅に書き換えられてる可能性大
徳川の都合のいいように書かれとるな
実際ははかられた信長勢が本当に危機一髪信長を逃がし
凄惨な戦場となり大量の血を流しひどい死体の山となった 実際、徳川家光の時代になって家康以来の譜代家臣たちが疎んじられてると感じて自分たちがどれだけ活躍し、家康のために戦ったかを家光に聞かせようということがあったのは事実
特に姉川の合戦は家光の祖父(家康、長政)、母方の叔父(信長)が出てくるから譜代たちはかなり誇張して戦話していて、それが今の形になって残ってしまったと言われている >>84
実際数に押されて浅井朝倉が手痛く敗北したってだけ(織田勢はほぼ無傷で小谷城攻略の足場を確保) 姉川の戦いは浅井朝倉による横山城の救援が目的で浅井朝倉の戦略目標は完全に破綻した
現場指揮官や一族を多く失い軍の質は低下したとみてよい
また戦の結果浅井領は分断されてしまったし、二度と横山城を取り返す事は出来なかった
志賀の陣では息巻いて攻めるも直ぐに攻勢の限界点にたっして、織田に被害を与えるも得たものはほとんど無い そうかねえ
横山城を奪取したとはいえ小谷城と北国街道を織田方は完全に封鎖できていないので小谷城から山本山城の横の防衛ラインは無事だし、そのおかげで自由に琵琶湖に出れた
何より朝倉の援軍が来る北国街道のルートは最後まで確保できていた
その結果、志賀の陣でも浅井は自由に進軍できたし琵琶湖経由で佐和山城にも入れるから陸地だけで見ると分断されてるように見えるが実際は孤立させたとは言えない。近江中の一向一揆や琵琶湖の湊とも繋がってたしね
琵琶湖の水運というのも考慮に入れれば、この時点で浅井ー織田戦線は膠着状態というか、どちらも手詰まりというのが正確なんじゃない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています