姉川合戦の真実 [転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日/グレゴリオ暦8月9日)に近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた合戦である。
織田信長は徳川家康を味方につけ、一方で浅井長政は朝倉氏との連合軍で応戦し、結果は織田徳川の連合軍が勝利した。
なお「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」と呼んだ。 姉川の戦いでの徳川家康軍の役割について教えてください 織田軍主力が横山城を包囲して
信長が自身の手勢と美濃3人衆で浅井破る間、丹羽と一緒に朝倉抑えていた 姉川の戦いでは、浅井軍が
織田の旗本に直接切り掛かっているんだよな。
桶狭間なみ。 浅井は自領地内なので防衛にド真剣
朝倉は正直、武将クラスは真剣だったとしても
足軽レベルになると士気は低かったかもしれんね
まあ想像にすぎんけど 浅井領の石高は、あとで石田三成のことからみても
20万石といったところか。
1万石あたり300人動員という基準から考えると、10万石で3000人、20万石で6000人。
浅井軍は5000人ぐらいいたみたいだから、18万石ぐらいかな。 無理すれば4人役でも5人役でもいける感じではある
ただ自国の防衛線にしては動員数が些か少なく感じない事もないかなあ http://hello.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1431689648/145
姉川で浅井朝倉と戦った際、徳川は寡兵で大勝してる
対して譜代と側近で固めた織田は三倍の兵力で辛勝
斎藤にも氏家達が寝返るまで一度も信長は勝てなかった
信長は野戦に弱い
長篠の勝因は信長より勝頼の采配ミスだし、長篠時は織田徳川連合なんで織田だけで勝ったわけではない
これって本当なんですか? >>7
近江の半分と考えると40万石ぐらいじゃ。
そこから西近江は将軍領と考えて、美濃近江国境付近が寝返って、
横山囲んだことだ浅井領が真ん中で分断されたような形だから、
浅井領の南半分はあまり動員出来ないといった感じか。
>>9
姉川に関しては>>3だな。
斎藤に関しては野戦では勝ったり負けたり、
そもそも国力でほぼ互角で負け続けてる相手に寝返る馬鹿がいるわけがない。
長篠に関しては勝頼の采配ミスでもあるが、勝頼をその状況に持ち込んだ信長がすごいともいえる。 しかもこのスレってわざわざ馬鹿がスレ立て代行スレで依頼して立てたスレなんだぜ
スレ立て考えた本人がなにも書き込まないならわざわざ依頼せずに
信長家康のスレや浅井朝倉のスレに書き込めっていうの 信長が自身の手勢で浅井破る間、徳川は丹羽と一緒に朝倉を抑えていただけなのに。 また織田信長と武田信玄の姉川の合戦で武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた歴史も知っていたと想像されます。
(By A) ミゾウユウの敗北に直面した武田信玄はカイガされなかったかどうか、そのユウムが心配ですが、
なにより、武田家の政策がハジョウしたことが深刻です。
後継者が信玄をフシュウして巻き返せるかどうか、その後のシュウビの課題でしょう。 浅井・朝倉がもうちょっと大大名だったらいい勝負になったろうに 朝倉氏自体に領土を広げるっていう発想が朝倉氏の末期以外に芽生えなかったんでは?
一応、成りあがりのエセ守護大名という立場上、周辺国を制圧して拡大していくっていうのもやりにくかっただろうし 隣が加賀だったからなー
義景の祖父の貞景時代の後半には一応越前統一してはいるんだが
孝景時代は周辺国に遠征はして影響力を高めているものの領土は増えていない
京と近いものだから中央の細川家の争いに巻き込まれたり
母の関係もあって美濃の争いに巻き込まれたり
義景時代になってようやく若狭を支配下にしてるような感じだが >>21
一応、一般的な朝倉氏の越前統一に対する認識はそういう感じなんだけど
正確に言うと朝倉氏の越前完全統一時期は1540年の孝景の時代なんだよ
戦国時代の越前は今の福井県嶺北地方よりもさらに大きくて
現在の岐阜県の一部の国人を孝景時代に傘下に収めて領土拡大してはいる そういえば朝倉氏は美濃の遠藤氏攻め込んだこともあるみたいだな 遠藤氏を攻めたというよりも
遠藤&東氏と縁組して美濃寄りの姿勢を見せた越前の国人を
越前側に引き戻すっていうのが理由だったんだろうが…
あるいはその国人が影響を持っていた宗教利権も手に入れたかったのか… 浅井や朝倉のそれぞれ興味深い話が出ても姉川スレじゃ誰も来ないわな
それぞれの専用スレに書くべきだわ
スレ立て依頼した馬鹿は死ね 同感、この戦いがクローズアップされるのは徳川軍が活躍したから、実際家康の勲章の一つだし
この戦いで戦死した浅井朝倉家の武将は多いけどそこまで大ダメージだったわけじゃない
この戦いの後、志賀の対陣とか結構織田家追いつめてるし、浅井朝倉家にとどめ刺したのは刀根坂の戦い
この戦いで朝倉家が事実上滅んだので援軍のいない浅井家も引きずられるように滅亡
もっともその前の三年間の争いで国力が衰退してたのも大きいが
ちなみに私は家康信者 活躍したのは高天神小笠原氏とその家臣だったんじゃ
全て三河武士の手柄にされたみたいだが http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
ヤクザグッズなら当店にお任せ下さいませ。
指定暴力団体代紋バッチ各組織出品中!!
画像を御覧くださいませ!! この戦いで浅井・朝倉が逃げたから比叡山が焼き討ちされた 麻生元首相による姉川合戦の真実!
織田信長と武田信玄の姉川の合戦で、武田の騎馬軍団が織田の鉄砲隊に負けた!
ソース
http://www.aso-taro.jp/lecture/kama/2005_6.html >>35
武田信玄が美濃を越えて近江に攻め込んだ時に、姉川の決戦が起こった!!! 磯野員昌が、織田信澄を養子にしておとなしく信長に仕え続けていたら
本能寺の変で、明智方として面白い活躍したかもしれないなあ /グレゴリオ暦8月9日
って、明日か。
真夏の戦いだったんだな。 ◆「得票0に疑義」と提訴 参院選でJAM組合員
http://www.sankei.com/affairs/news/160809/afr1608090021-n1.html
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。三宅洋平の得票では、
豊島区ではなんとゼロ票
中央区ではゼロ票。
江東区ではゼロ票、
荒川区ではゼロ票
足立区ではゼロ票
通常、こんなことは考えられない。
慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。 姉川の戦いで負けて浅井・朝倉は滅んだのではありません https://goo.gl/YdPog5
これが原因?本当??
ショックすぎる。。 俺等三河の兵が頑張って逆転起こした姉川の戦いが殿のアンチの奴等によって「後世の治世の為に、徳川が行った捏造だ!」って叫ばれるのは悲しい。しかも最近ではワイの側面攻撃も無かったことにされる始末...
アカンで。皆で擁護してくりー 言われてきた徳川が朝倉に負けたとかそういうのでないと 徳川が活躍して、徳川のおかげで勝ったとしているだけ。
神君家康を持ち上げるための徳川史観。とにかく徳川史観には、ねつ造が多い。
実際は、徳川は活躍していない、
岡山に陣を張っていたけど、そこも横山城からみれば、後方の陣。
突撃してきた浅井軍は、織田本陣に突っ込んでるから、織田が崩れた。
岡山は朝倉の陣の対岸にあるが、朝倉は三田村城に籠って動かず、
浅井が退却するまで戦を見守っていただけである。
崩れた織田を救ったのは、美濃三人衆だな。 地元には、もう一つ岡山があったもんで、つい勘違い。
今は削られて田んぼになってしまったが。 結果論にはなるが結局浅井勢は突入に失敗して大打撃を受けることになるが
しかも織田軍は崩されたというが坂井くらいしか被害がないから実際織田が崩れたというのも怪しい 崩れたという表現を使ったのは、
元々の信長の本陣から、奇襲を受けて、信長は本陣はかなり後退させている。
それは遠藤の墓がある場所まで、後退していることで証明できる。
距離にして1kmぐらいあるはずで、崩されたに匹敵してると思う。
元々、信長の本陣は、横山城攻め向けのもので、
小谷城や大依山から本陣がむき出しのままで、位置的に丸見えだ。
それに、その本陣の後ろには、誰も備えがいないのだから、
浅井からみれば敵本陣が一番前に来てしまっていることになる。そこを狙った。
あの織田の12段の姉川の配陣図は間違っている。
後世に徳川史観をもとに適当に描いたものだろう。
浅井の奇襲自体は、一応の作戦は成功してると思われる。
先陣の磯野員昌が佐和山まで帰陣していることで踏まえて、
信長本陣を突き抜けたと考えられる。 テレビでみた論を必死に書いてみたってか?
奇襲説はまだまだくそ弱い オレ様は、いつも、朝起きると、メシを作り、
PCを開ける
すると、画面が真っ暗である
言うまでもなく、まことの仕業である >>53
捏造にも理由があって三代将軍の徳川家光は戦国時代の戦の話が大好きで伊達政宗なんかの外様の勇ましい話をよく聞きたがっていた
これに譜代の大名たちが危機感を覚えて徳川譜代家臣たちがいかに家康公を助けたかという物語を作り、だから譜代家臣は大事にしてね!という将軍教育の一環から捏造が始まった
特に姉川の戦いは家光の祖父家康だけでなく母方の織田家と浅井家も関与しているので家光には身近なので家康の活躍=譜代家臣の活躍を強調すべき戦いだった 浅井も大活躍しないといけなかったのは必然というわけか 朝倉義景、浅井久政は姉川で討ち死にし、浅井長政は小谷城に引き上げ、再起を図るため、甲斐・甲府城の武田信玄に密使をつかわした。 >>66
再生数稼ぎの為のくだらない宣伝
戦国時代と全く関係ないので見る必要なし
無駄 この戦いはむごい死体が山積みになったようだな。
この時代の戦ってそこまで死亡率は思ってるほど高くないから
ここまでたくさん死ぬのは珍しい、だから当時の人も凄惨さにびっくりしただろう
信長は結局は人間を盾にして逃げ切ったが、、、 信長は姉川の戦いでもかなりの深手を負っている
花の慶次ではないがひとたび戦に出れば総大将といえども
大怪我や血にまみれる事は珍しくない >>71
これマジ?
戦国物語だったかなんかの司馬物で読んだら後方で指揮してるだけの描写だったからケガとは縁遠そうだった
怪我してたらその辺織り込みそうなもんだけど、それなりに盛り上げなきゃいかん案件だから面倒だったんかな 実際はかなりの深手を負っているようだ。だから信長を守り逃がす為に
雑兵だけでなく多くの人間の壁を作り何度も突進したらしい
そのあまりに凄惨な様子と死体の山からあの地名になっているようだ んな訳ねーだろwww
ようだ、とか、らしいとか言ってないで資料を出せよ統失 そんな人の悪口や批判はどうでもいいよ
てめえの自説をここで公開してみろボケカス
出来ねえなら消えろ!クソアホ人間 歴史の教科書くらいしか知らないレベルが良くここで書こうと思ったな?
はずかしくないんか!?笑 あの時代に大怪我なんてしたら感染症と隣り合わせだろ?
珍しくもなかったら、戦傷がもとで戦後まもなく死んでる大名が沢山いなきゃおかしくね。
大体大名でそれなら平武将レベルは毎戦、長篠レベルで犠牲が出てそう。 信長が傷を負い結果的に1番危なかった戦いになってしまった為に
肉の壁と肉弾特攻隊をつくり次々に特攻させその間に信長が逃げる作戦となった
しかしこんな事は戦国時代では良くあることで島津の退き口は感覚としては普通の事だった そんな危険な退却戦したなら織田側の有力武将も大量に死んだり怪我したりしたんやろなぁ?
っで?具体例上げてくれる? 戦国史は検証すればするほど後で書き改められたり加筆されたり物語されたりしている
特に徳川家や織田家の関わるものはねじ曲げや嘘がひどいといえる
一方比較的史実に沿ったものが多いのが上杉謙信や武田信玄などのものである
江戸時代以降にねじ曲がったものも非常に多いので、どうしても時の幕府が神君の伝説
としてしまったからだろう、、 歴史的に見てここの合戦も大幅に書き換えられてる可能性大
徳川の都合のいいように書かれとるな
実際ははかられた信長勢が本当に危機一髪信長を逃がし
凄惨な戦場となり大量の血を流しひどい死体の山となった 実際、徳川家光の時代になって家康以来の譜代家臣たちが疎んじられてると感じて自分たちがどれだけ活躍し、家康のために戦ったかを家光に聞かせようということがあったのは事実
特に姉川の合戦は家光の祖父(家康、長政)、母方の叔父(信長)が出てくるから譜代たちはかなり誇張して戦話していて、それが今の形になって残ってしまったと言われている >>84
実際数に押されて浅井朝倉が手痛く敗北したってだけ(織田勢はほぼ無傷で小谷城攻略の足場を確保) 姉川の戦いは浅井朝倉による横山城の救援が目的で浅井朝倉の戦略目標は完全に破綻した
現場指揮官や一族を多く失い軍の質は低下したとみてよい
また戦の結果浅井領は分断されてしまったし、二度と横山城を取り返す事は出来なかった
志賀の陣では息巻いて攻めるも直ぐに攻勢の限界点にたっして、織田に被害を与えるも得たものはほとんど無い そうかねえ
横山城を奪取したとはいえ小谷城と北国街道を織田方は完全に封鎖できていないので小谷城から山本山城の横の防衛ラインは無事だし、そのおかげで自由に琵琶湖に出れた
何より朝倉の援軍が来る北国街道のルートは最後まで確保できていた
その結果、志賀の陣でも浅井は自由に進軍できたし琵琶湖経由で佐和山城にも入れるから陸地だけで見ると分断されてるように見えるが実際は孤立させたとは言えない。近江中の一向一揆や琵琶湖の湊とも繋がってたしね
琵琶湖の水運というのも考慮に入れれば、この時点で浅井ー織田戦線は膠着状態というか、どちらも手詰まりというのが正確なんじゃない? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています