司馬遼太郎風に歴史を語るスレ
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歴史を語りたくなった。
筆者の情報源は司馬遼太郎だが、歴史はおもしろい。
「国盗物語」を手にしたとき、ふとそう思った。
その後、夢中になって読み老けた。
筆者が初めて司馬遼太郎を読んでのは中学2年である。
チンプンカンプンであった。
歴史を知らない中学2年では、まだ早いと言わなければならない。
司馬遼太郎の文面は、屋上から人を見るようなものである。
展開を楽しむものといっていい。
司馬遼太郎も同じことを言っていた。 ――信長の人生は純中満帆だったのか。
幾度か思ったことがある。
本願寺には苦戦をし、義昭には信長包囲網を敷かれ、上杉謙信にはお家芸鉄砲を破られた。
とくに義昭にあっては、利用するつもりが、目の上のコブだった。
信長は義昭の存在がうっとしくなり、ツイには室町幕府を滅ぼす。
本来、義昭擁護は建前にすぎない。
そのおかげで利用するものを失った。
次はどうするか。
天皇である。
天皇は日本国王のはずだが、今なら天皇家を意のままに操れる。
そう高を括り、その直後、本能寺の変に遭って没してしまった。 明智光秀は天皇を拉致し、本能寺に連れてくるはずだったという説があるが、これは信長が養子を強制しようと思ったのである。
その形式を真似したのが秀吉である。
信長没後、秀吉は天皇に養子を迫った。
しかし、断られたため関白になった。
なるほど。
秀吉は猿真似をしていたのである。
信長が構想し、秀吉が真似て、家康が全部持っていった。
たとえば信長が存在していなかったらどうなっていたであろう。
天下の構想も白紙になったうえに、秀吉も家康も存在していなかったのかもしれない。 >>1
>その後、夢中になって読み老けた。
老けたのかよ。 古本屋に「菜の花の沖」が6巻300円で売っていた。
換算して1冊50円である。
このあたり、読書家にしか喜びはわからない。
高田屋嘉兵衛という男がいる。
司馬遼太郎が取材にいったところ、ひどくいじめられていたらしい。
なんでも、喫茶店の店主の先祖がいじめていたというのである。
このいじめ事件について、店主は気にしていた節があった。
司馬遼太郎のいうところ、「いじめ」という単語は世界には無い。
日本人が意味する「いじめ」に適した言葉がないのである。
ヨーロッパには「いじめ」という言葉はなくて、文献を探ってみたところ、
中国にもなかった。
日本の「いじめ」は排他的で大きな穴のようなものであろう。
アジアの「亜」は大きな穴を示しているのだが、「悪」は大きな穴の
心と書く。
日本のいじめに共通したものがあるまいか。 余談だが、1日中2chに入り浸っているまこともいじめの被害者である。
まことは、2chでもその片鱗を残している。
よほど大きなトラウマを抱えた者は批判的らしい。
まことの2chでの社会批判は、いじめのトラウマかもしれない。
いじめで、骨の髄までトラウマが染み付いているのであろう。
日本にあっては、古来より村に出てはいけなかった。
村から出れないことによって、世の広さもわからない。
これは野心を持つ者を出さないという効果がある。
時の支配者にはそういう計算があったし、不合理なことでも通った。
村の外を知らないことで余計な概念もなかったはずである。 日本人にとって海とはただならぬ得体の知れない怪物であった。
村から出られないのである。
海なんて見れるはずがない。
海から来るものといえば、侵略者であったり、津波であったり、外人であったりする。
海から何かが来るとき、日本人は慌てだした。
このあたり、日本人にとって海とは歴史の訪問者なのである。 信長は異端児である。
変わり者といっていい。
変わり者について、信長は自分をよく知っていた。
片言のことしか話さず、必要以上のことを話さなかった。
信長は自身の領土を洋風にした。
世界を見ているのである。
しかも、暦も世界に合わせていた。
ただ、それを人に認められているかといえば、また別の話であった。
――安土は変わった文化だな。
という風説が広がった。
普通、時の支配者の真似をするものだが、誰も信長の真似をしようとはしなかった。
しかしながら、このあたりが信長のおもしろさかもしれない。
天下人の誇りと思っているのかもしれず、要するに変わり者と知っている信長の象徴で、弁説では語れない何かを持っている男なのである。 みかんはいつ輸入してきたのであろう。
一説に、遣隋使の頃、みかんの種を持ち帰ったと言われている。
やがて、日本中にみかんの木が蔓延した。
しかし、いつ頃にみかんの木が日本に存在したかは定かではない。
10世紀頃、薩摩でみかんの木の話が文献で記録されているらしい。 余談だが、徳川家康はオレンジを輸入している。
みかんではない。オレンジである。
家康は、北条との同盟の際、オレンジを送った。
氏直は首を傾げる。
みかんとオレンジの違いに気付かない。
「三河はみかんも取れないほど貧乏な国か」
そう思い、みかんを大量に家康に送ったという。
なんといっても、氏直は無能な男である。
みかんとオレンジの違いがわからない者に国を治めれるはずがない。
その後、あまりの無能さに信長にあきれられ、同盟を解約されるのである。 お正月には鏡餅の上にみかんを乗せるけど、あれは橙を乗せるのが正しい。
橙は代々に通じるので縁起が良いとされる。清和源氏の先祖の源満仲(多田満仲)が
描いた橙の絵が鑑定団に出た事がある。少なくとも平安時代には既に橙があって
縁起が良いとされていた事が判る。 6世紀頃、椎茸は貴重品だった。
輸入しなければ手に入らない。
いつ栽培されるようになったかは定かではない。
椎茸で出汁を取ったのが中国か日本が先か定かではない。
この意味のことに、筆者は首をかしげている。
なぜなら、筆者は大の椎茸嫌いだからである。
この時期、天皇は存在していたが、国としてしっかりと成立していない。
いろんな国の者が出入りしている。
国を追われ、高句麗も日本に逃げてきている。
アメリカ合衆国のような多国籍人種であった。 この時期、宗教もしっかりしていない。
空海が中国に渡って、恵果(阿闍梨)から密教を授かったと言われている。
空海が帰国した頃、京都と奈良で権力争いがあった。
すると嵯峨天皇は
「総本山奈良東大寺に行け」
と、言ったのである。
国が安定していなく、国は分かれており、むしろ空海の頃、国らしくなったのではないか。 小学生のとき、日本人が牛肉を食べるようになったのは明治だと聞いたが、11世紀頃の文献で牛肉を食したとある。
あの自称36歳のオバチャン教師はなにを言っているのだろう。
余談だが、卒業アルバムを見ると、自称36歳のオバチャン教師は40歳を越えていた。
話を戻す。
インドでは牛を神様としている。
牛肉を食べることは神を食べることであるとし、食することを禁止している。
しかし、日本では牛肉はおろか、肉そのものを食することを禁止していたのである。
むろん、肉を禁止した時期としていない時期はある。
日本ほど肉を禁止した国が他にあるのだろうか。
司馬遼太郎によると宗教上のこともあるが、国を治める者にとって、肉を食べて意気揚々とされるほうが怖かったのではないかと言っている。 意気揚々って何の事か判らんが、薩摩藩では豚とか犬とか食っていたらしい。
また全国的に鳥肉は食べて良いので兎も鳥の仲間という事にして一羽二羽と数える。 日本は何か事業を起こすとき、やたらとお上が規制していた。
たとえば新田を買うにも、お上に許可が必要だった。
登録させるのである。
しかも登録は買った者の物ではなく、公共の物であった。
つまり、貯蓄して買った新田を、お上の都合でいつでも取り上げられるのである。
日本では、下の者が力を蓄えることをお上が嫌った。
どこの国でも庶民が力を蓄えることをお上は嫌がるが、日本のばあい資源が少なかった。
それだけに規制が多かったのである。
日本の歴史を見れば、規制されたエネルギーが引き金になって革命者を出している。
意気揚々とされることをお上は嫌がったのである。
中世の終わりはこうした規制であり、民主主義の幕開けでもあった。 中世から民主主義に移行するのかよ。近世はどこ行った? >中世から民主主義に移行するのかよ。近世はどこ行った?
もうすこし歴史を勉強してからおいで。
あほらしゅうて答える気にもならない。 江戸時代、上方弁、つまり、大阪弁が標準語だったらしい。
しかし、大政奉還を機に東京の言葉が標準語になった。
これにおもしろくないのが京都である。
江戸幕府以来、江戸中心の政治になるが、京都人は京都が中心と考えていた。
が、明治維新をきっかけに京都は知らんぷりされている。
京都人にとって受け入れ難い事実である。 明治維新後、首都は東京ではなく大阪にしようという話があった。
戊辰戦争で江戸の機能も衰え、首都としてやっていくのは困難である。
それに対して、大阪は古来より栄えており、首都として十分だった。
江戸を捨てれば終わってしまうであろう。
江戸を東京とし、首都にしよう。
それが理由で東京が首都となった。 司馬遼太郎によると、京都大学は明治30年代に作られたと書いてあったが、調べてみると1867年だった。
仕方がない。
これで話を進めるとする。
京都人にすれば、首都機能をすべて東京に持っていかれおもしろくない気分である。
そして、京都大学が建った。
このとき、京都御前が戻ったと喜び、この上ない栄光と思った。
京都人は、他の県を見下ろす滑稽さがある。
京都の風習を知らなければ、鼻で笑うらしい。
元首都人の自己主張であった。 大阪人は、神戸人に嫉妬している。
爆弾発言と思うかもしれないが本当である。
神戸人を見下ろしたりして、大阪人は心が腐っているのではないかと思うほどの発言をしている。
神戸人はおしゃれで文化人が多い。
が、それを認めるのではなく、街レベルで計るのである。
神戸人は大阪人を下品と思っているのだが、格別の対抗意識は持ってない。 歴史を見ると、神戸を本拠地とした天下人はすくない。
資源が少ないのである。
六甲の水というものがあるが、その辺はよくわからない。
西には須磨寺という観光地があり、東には御影などの灘がある。
この灘の水が酒に合い、このため芦屋が栄えた。
正確には西宮らしい。
これだけ酒に合う水は全国でもめずらしい。
ただ、酒以外にはあまり合わなかった。
兵庫県に龍野市がある。
醤油によく合うようだった。
が、これも醤油以外にはあまり合わないようだった。
水を調べると、酒に合うものと醤油に合うものがある。
水にもいろいろあるのだろう。 >>24は、龍野の水が醤油に合うという意味である。
龍野は大河ドラマ「軍師官兵衛」の撮影現場にも使われている。
1942年ヒガシマル醤油が本格的な薄口を作った。 もうひとつ訂正したいのだが、>>22で京都大学創設は1867年と書いたが、1869年の間違いである。
1867年だと大政奉還があり、それどころじゃなかったであろう。
おそらく筆者は、よほど大政奉還が頭の中にあったのであろう。
一派虚しく大政奉還
筆者は理系に強い男で年表を覚えるのに苦労しなかったが、世の学生はこうやって年号をおぼえた。 京都大学創設の頃、シナ学が選択科目にあった。
当時、シナ学の書籍はフランス語訳しかなかった。
フランス語だと読みにくい。
どうしようもなかったであろう。
京都大学生は、シナ学を専攻してフランス語も学んでいる。
この時期、シナ学を専攻していた大学はなかった。
いかに、京都大学が東大に対抗していたのかがわかる。
ただし、京都大学の教授は東大を追いやられた者が多かった。 天下が安定してくると、信長は気でも狂ったのかと思うほどの悪行をしている。
典型なのが虐殺であろう。
しかし、信長にかぎらず、戦国時代の成り上がり者は虐殺に近いことをやっている。
都合の悪い者が邪魔なのである。
とくに成り上がり者の過去を知っている者はやっかいで、頭を抱えるほど都合が悪い。
(余計なことをしゃべる前に殺したほうがいい)
そういう妄想が頭をめぐる。
信長は、古い織田家の功労者、佐久間信盛・林通勝を比叡山に追放している。
その後、比叡山に刺客を送り殺そうとまでした。
これは単なる役立たずという思いではなく、昔の自分を知っているという信長の妄想である。
とても天下人の思考とは思えない。 武士道は江戸時代に出来たものだが、初期中期にはまだ存在せず、後期に出来たものである。
戦国時代にはまだ武士道はなかった。
戦国時代の時期は自らの保身を考え、力のある主君を探していた。
主君を間違えれば命が危ない時代である。
先祖代々使えていた家でも、主君が阿呆なら逃げた。
ただし、武士道の始まりは大阪の陣
と、司馬遼太郎は言う。
誤解のないようにいうが、少しづつ武士道に近づいていったのである。
大坂の陣の頃、落ちぶれた浪人は、後世に名を残したいという気持ちがあった。
このまま命を長らえるより、いっそうのこと戦で華々しく散っていった方が数倍いいと考えた。
真田幸村がその典型であろう。 大坂の陣の淀君の威張りようはどうであろう。
秀頼の威を狩る女狐の雰囲気を漂わせ、マツリゴトに口を出す。
そもそも、淀君は側室なのである。
なんの官位も持たないのである。
側室は主君の愛人だが、一緒の屋敷に住む。
が、地位はない。
正室所属で、正室に仕えるのである。
戦国時代の頃、正室が主君に側室を持つように勧めた。
それが当時の女の器量であったし、後継問題のため多く子は作っていたほうがいいと言いたかったのであろう。 戦国時代当時、食客という者達がいた。
わかりやすく言うと敗残兵である。
敗残兵は匿ってくれる者を探した。
とりあえず匿った者がメシを食わせて長屋でめんどうをみた。
この敗残兵が食客である。
当時、食客を迎え入れる家は持て囃された。
なぜかというと、器量人にしかできないからである。
戦がはじまると、その器量人の下で食客は働いた。
働きが良ければ召し抱えられる。
食客はそのために必死に戦った。 吉川英治が「宮本武蔵」を連載している頃、
「武蔵はどうやって食っている?」
と、噂になった。
答えは簡単である。
この当時、用心棒を募集している家は多くあった。
また、世が世のため、武芸者というだけで召し抱える家は多くあった。
武蔵はそういう家を頼りながら剣術修行をした。 ここで兵庫尼崎を語りたい。
尼崎は、今でこそ大坂の企業の工場地帯になっているが、当時は港もあり栄えていた、
尼崎の駅を降りると、雑巾のような匂いが漂っており、意外と下町である。
が、山口組の直系がいることから栄えているのだろう。 戦国時代、民衆はにんにくを食っていたが、坊主は喰べてなかった。
にんにくは匂いがキツク、民衆でさえ滅多に喰べない。
魔除けに良かったと伝えられていて、民衆は家の前に吊るしていた。
そのため、ヨーロッパでは吸血鬼がにんにくの匂いに弱かったとしている。
本能寺の変のあと、秀吉は備中大返しをし、光秀のいる山崎に向かった。
その間、休憩した地が尼崎である。秀吉は兵に持っているだけのカネと兵糧を渡し、さらに鶏肉、にんにくを与えた。
日本人は、宗教上(説であるが)肉やにんにくをあまり喰べない。
そういうときに、秀吉は兵に喰べさせたのである。
秀吉からすれば、光秀に負ければカネや兵糧など意味を持たず、鶏肉やにんにくを喰べさせたのは精力をつけさせようという思いがあったであろう。 日本の通貨の歴史は、金(ゴールド)とコメである。
金は、藤原氏、平清盛、足利義満、北条早雲、豊臣秀吉が扱った。
金で貿易に成功し、国を栄えさせた。
しかし、なかなか通貨として広まわらなかった。
秀吉は金を通貨にしようとしたと言ってよく、大名にも金で支払いをした。
が、民衆には金がなかなか回ってこなかった。
そのため、民衆には金に対する憧れがあった。
資料にもそれが残っていて、お伽話では金銀財宝がよく出てくる。
これらは安土時代のお伽話に多い。 男色を考える。
信長、秀吉、家康で考えてみる。
信長は男色があった。
本能寺にも蘭丸を連れてきており、身の回りを世話させた。
美しいものなら男女を問わなかったらしい。
秀吉は無類の女好きだった。
男色などあるがはずがない。
おねに隠れて浮気をして、信長が仲裁したこともある。
家康は、男女ともに興味が薄く、戦にも女を連れて行ったことはなく得体の知れないものがある。
ただ、築山のときはちがった。
婚姻したときは、まだ14のときである。
ほとんど性餓鬼というべき年で、たとえば築山が10歳年上であろうと生身の女なのである。
この時代24歳は年増であったが、いわば若い女よりも、目の前の築山に夢中であった。 (おや、こんなところに)
2年ぶりにこのスレに書き込んだのはどういう訳だろう。
2年前に男色について書き込んだ者の消息を祐筆に尋ねた。
すると、
「ソノモノハ、スデニ、コノヨノモノニ、アリモウサズ」
と返答が返ってきた。 死んだということか
そう>>40は重ねて問い質したが
「イノチハアリマス」
と要を得ない返事をぽつりとかえしたきり、その祐筆は石のごとく黙り込んだ
なにやら善からぬ事が>>40の周りに起こりつつあったが、運命の前に>>40は童児のように無邪気であった
これが平成十六年の春の初めのことである 「もともと>>41はこのスレッドを天地として生きてきた田舎侍でござる。軍を進めれば一揉みでござろう」
万座、声がない。
その田舎侍が、2年ぶりの書き込みに対し、わずか30分以内で返レスをしているのは一体どういうわけであろう。
諸将の中にはその薄気味悪さに、口を押さえて
「しっしっしっ」
と口を鳴らし中座する者もいた。 >>1
情報源が作家ってのはちとまずいぞ
フィクション入れ放題なんだから と>>43は言い放ち街を出て行った。
余談であるが、この後>>43は肥溜めに落ちてその生涯を終えたという。 司馬は脚本家だからな。
ストーリーのためならねつ造を平気で書き込む人間。
年寄のため登場人物を単純に善玉悪玉に振り分けるので注意。
こいつの歴史観を元にすると人生で大恥を掻くので注意しましょう。 と>>45は怒気を含んで一気にまくしたてた。
すると家康が、
「厠にゆけ」といった。
>>45は、小便などしたくありませんと反論するも、
「いいからいけ」
と再度促され、不承不承厠に向かった。 >>46
?
お前に文才が無い事だけは理解できた。 なだらかな小高い山が、兄弟のように三つ連なっている
筆者(わたし)は、この小高い山の麓へ向かう際、タクシーの運転手から三つ子の山について話を聞いてみた
運転手曰く、この辺りは数十年前までマムシ谷と呼ばれており、
三つ子の山はピクニックや気軽な縦走コースとして市民から親しまれているそうだ
周りには石垣も城下町の名残も今は皆無と言ってよく、新興住宅街や大学がそびえ往時を感じさせない
城下町を現在では下原(しもばる)という
石垣は名島城や舞鶴城の普請に使うため根こそぎ持っていかれた
筆者は、小高い三つ子山の中で1番高い山へ登ってみたいと思った
四半刻かかった
山頂まで登ると博多湾を一望でき、北は志賀島を西は博多の町を見下ろすことができる
その時、たれかの声が聞こえたような気がした
前日このあたりに住む古老から色姫の悲劇を聞いていたからかもしれない
400余年前、筆者と同じようにこの三つ子の山ーー立花山ーーから、戸次鑑連が博多湾を一望し、
東は毛利へ西は龍造寺へ南は秋月へ睨みをきかせていた
そう武田信玄をして、この人物と語り合ってみたいと言わしめた戸次鑑連、
いや立花道雪として高明なこの人物を思うと、筆が進みそうな気がしてならない >>39
司馬遼の家康像は戦に女を連れていくと汚らしく書いているし
壮年までは後家好きだから年増だからどうこうということはない
過去形と現在形がごちゃ混ぜになっている
>>49
司馬遼ならそれだけの材料で3倍くらい濃く引き延ばすことができるだろうな
しかし冒頭の文章としていかにも司馬遼が描きそうな入り方だと思うぞ (まだ、このスレッドは残っていたのか)
オレ様は、ニヤリと笑った
(楽しんでやがる)
戦国5ちゃんねるは、こうでなくてはいけない
5ちゃんねらーは、あくまで、奥が深くなくてはいけないのだ まこととかいう歴史音痴は、何しに戦国5ちゃんねるに
書き込んでいるのか
この男の書き込みは、浅さかである
ネット検索をして、その気になって書き込んでいる
それで、イッパシの通の顔をしているのである (とりあえず上げとくか)
とりあえず上げとかなければ、忘れられるスレッドになることを
オレ様は知っていた 司馬遼太郎の小説は、独特なので、歴史学者から
司馬観と呼ばれている
最近、筆者は、井沢元彦を読むのだが、司馬遼太郎と
そう変わらない 朝、シャウエッセンを食った
晩メシの残りだった
筆者は、茹でるのではなく、ボイルで焼く
つまり、油を引かずに、フライパンで焼くのである お湯で茹でると、時間が経つにつれて、干からびてくる
が、油を引かずにボイル焼きをすると、その進行を
緩めることが出来るのである
また、そのほうが旨みがある 辻本はその日思った「何て間の悪い時に地震が」、同じビルに入居してる高槻市長が
謝罪してる以上仲間と思われる。
しかし、もはや倒れた塀は戻らない、辻本に取って試練が始まった。 >>46の厠に行けのくだりに分厚い肩を持つ顎の長すぎた男はコウコウと笑ったかと思うと新緑の香りと鮮やかさにむせるような御斎峠を脛を素早く回転させながら一匹の猪に化したかと思う早さで駆け下りた >>15
竜馬が行くで岩崎弥太郎が言ってたな日本人は菜っ葉ばかり食べてるから浮世絵でも寝姿ばかりだって ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています