相馬義胤〜伊達政宗に対抗した奥州屈指の戦国大名〜
〜相馬義胤の主な戦歴〜
永禄06年(1563年)【貝殻坂の戦い】・・・・相馬義胤○-●草野直清・青田顕治
永禄07年(1564年)【北目の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●粟野宗国
永禄09年(1566年)【小斎城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄11年(1568年)【小島の戦い】・・・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
元亀元年(1570年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
天正03年(1575年)【座流川の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍
天正04年(1576年)【駒峰城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
天正04年(1576年)【冥加山の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正04年(1576年)【坂本城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正06年(1578年)【権現堂の戦い】・・・・相馬義胤△-△岩城常隆
天正09年(1581年)【子深田の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正09年(1581年)【矢野目の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正09年(1581年)【谷地の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗・政宗
天正10年(1582年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正11年(1583年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正12年(1584年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正16年(1588年)【三春城の戦い】・・・・相馬義胤●-○田村月斎
天正16年(1588年)【宇都志の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍・田村軍
天正17年(1589年)【常葉城の戦い】・・・・相馬義胤○-●田村軍
天正17年(1589年)【鳥の海の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正17年(1589年)【坂本犀鼻の戦い】・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【大沢の戦い】・・・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
天正18年(1590年)【蓑首城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【小豆畑の戦い】・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
相馬義胤(そうま よしたね)は陸奥相馬氏第16代当主で小高城城主。
武勇に優れ義侠に富み、父・盛胤と共に伊達輝宗・政宗父子の宿敵として知られる。
相馬氏と伊達氏は親戚でありながら長年にわたって敵対関係にあり、
天文の乱・伊達稙宗隠居領争い・田村清顕後継争い等で激しく戦った。
義胤の領地(陸奥国行方郡・宇多郡・標葉郡)は現在の福島県相馬郡(南相馬市・相馬市・新地町・飯舘村)
および双葉郡の一部(浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村)に当たる。
この浜通り北部一帯は東日本大震災では地震・津波・原発事故により大きな被害を受けたが、
相馬武士の子孫達は逞しく復興を進めている。
また義胤も行った平将門以来の軍事訓練でもある相馬野馬追(そうま のまおい)は、
今も伝統の祭りとして毎年行われている。 何がどう屈指なのか?
規模や勢力範囲はとてもじゃないけど屈指とはいえないだろう
もしかして相馬義胤の評判を落としたいアンチか?
てか、よく見たら政宗相手には勝率低いなw >>2
冒頭に一次ソースのせた戦国スレは皆無だと知らないお前はおバカ >>3
領土がすべてじゃないよ。
大内義隆は領土広かったけど戦国大名としてダメだったし。
相馬は一時は伊達と互角だったから屈指(5本の指に入る)と言って差し支えない。
東北では@伊達A芦名B最上C相馬D南部、だいたいベスト5はこんな具合。 >>4
全く重複じゃない。信長スレは複数あるが重複とは言わんだろ。
このスレは奥州相馬義胤について語るスレ。あんたの紹介したスレは下総も入ってるし相馬全世代が対象。
このスレとは論点が違う。 相馬なんて福島の隅っこに十万石足らず領してたに過ぎない小大名だろ?
最後まで追い詰めない奥州の温い慣例のお陰で辛うじて生き延びた雑魚 大仏を燃やした三好らに危機感を持ったため
畿内では義昭将軍擁立にむけてお膳立てしてもらったのが信長。
義昭を蔑ろにした途端、信玄に追い詰められてたった兵1万しか動員できないまで無力化され
自暴自棄で京で乱逆無道の賊行為を働いた。
美濃は斉藤の元で統一されてる。 濃尾平野にあった井の口居城を攻略すれば簡単に美濃平定が完了するヌルゲーっぷりと違って
山谷国といわれた信濃は要害堅固を支えに群雄割拠する戦国っぷりで、
各地域に1000〜の兵が篭る国人だらけで篭城する敵相手に信濃全域で苦労したわけだ。
岐阜県の面積: 10,620 km2(井の口居城を落とすだけで一国平定)
長野県の面積: 13,590 km2(要害堅固・縦に領土が長く交通補給路に難儀・群雄割拠)
だいたい跡部氏や逸見氏らが専横していた甲斐では、
甲斐守護武田信重が甲斐への入国を将軍から言われても拒否するほどだった。
17年後に無理やり入国させたが穴山氏に暗殺される始末。
こんなに武田の基盤は崩壊していたわけだしな。 信長の周辺では、
1561年に 十河一存 斉藤義龍
1562年 三好義賢
1563年 細川晴元 細川氏綱 三好義興
1564年 安宅冬康 三好長慶
と相次いで主要人物が馬鹿みたいな勢いで死んでいき有力者が誰もいなくなっちゃう。
これで畿内は力の空白が生まれたんだな。
特に父祖に劣らず器量に勝りて一度は天下の乱をも相鎮めた人なりと
賞賛された長慶嫡男三好義興が22歳で死去したので長慶がボケ老人になったのが痛かったな。
この畠山高政と六角義賢の挟撃策に三好義興が芥川城で指揮して勝利したことで事実上、
畠山氏と六角氏が決定的に衰退することになり果て将軍を巡るシーソーゲームに終止符が打たれた。
そして三好は分裂崩壊し、大仏を燃やした天皇は激怒し疲弊しきった勢力群の外側にいる信長に上洛を促すことになる。 >>6
ほらな、身の程に合わないスレタイにするからこんなのが沸く
だからアンチの仕業なのかと疑われる 信秀は1541年伊勢神宮遷宮の際の材木や銭七百貫文を献上だけでなく朝廷に献金でも日本一。
朝廷に献金した金額ランキングが載っています。
1 織田信秀 四十万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
2 大内義隆 二十一.四万疋 天文四年(1535) 即位費
3 大内義隆 十万疋 天文六年(1537) 不明
4 三好長慶 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
5 今川義元 五万疋 天文十二年(1543) 内裏修理
ぶっちぎりのトップは信長の父親である織田信秀で、
彼は何と「ライバル」である今川義元の10倍近い金額を献金しています。
まだガキだった時の信長のお小遣いで超高級品だった鉄砲500が買える尾張の財力だったり、
信秀から尾張ほぼ一国+美濃大垣城+三河水野信元を引き継ぎ、
しかもむちゃくちゃ優しい道三が貢献とか
今川とも竹千代交換して和議が成り、信長ほどチートスタートな大名っていないよな。
超過保護大名斎藤道三
信長「お父さん知多半島の今川軍の城が気になって眠れません…」
道三「おぅおぅ他ならぬ婿の頼みとあっては何とかせねばな!して場所は?」
信長「松平家忠が村木城にいて水野信元が私に援軍要請してるが私では…」
道三「わかった。ワシの手勢の安藤守就を那古野城に援軍に派兵してやろう」
信長「有難う御座います!このご恩必ず返します」
義龍「なんで尾張のために美濃兵の血を流さないとならんのか?クソ爺を殺すしかねーな!」 信長って永禄2年2月の上洛の時、
公家たちに田舎者基地外軍団ガチきめぇとか思われてんだよな〜。
言継卿記に五百計り引き連れてきたが異形者多いって悪口を記されてるぐらいwww
都会で反社会的な不良チンピラを演じて、
風流かつ雅な歌舞き方を知らず誤解したダサい歌舞き方をしていたんだろうね…寒くて痛いガキ信長軍団。
所詮、信長は和歌すら出来ない文盲だから仕方が無い。
道三も天文21年6/22に、信長のことを外聞が良くないので、こちらも迷惑しているが、
関係が悪化するようなことにはならない。 それどころか捨て置けないので、
相談が必要だよ。まあ信長様は若年なので、
我々が多くの苦労するのはもっともなことだからねって、
織田秀敏に宛て、信長を皆で支えていこうって説得してるしな。
これが信長公記でデッチあげられた信長と道三の会見の元ネタだしな。
桶狭間の戦いを機にやっと家康が岡崎支配を開始なんてのもウソで
事実は今川がノリノリで後援してくれたので、
永禄2年5/16に家康は三河の家臣団へ向けて家中の掟を明示して、
のちの自立に向けての支配統治を開始してる。 信長が南奥州に生まれてたら
佐竹結城宇都宮相馬石川白河二階堂石川岩城猪苗代畠山の大連合に飲み込まれて瞬殺されてただろうな 信長の周辺なんて弱体化した勢力とか国力的に雑魚な勢力がほとんどだしね。
斉藤…幼君で混乱・クーデター騒ぎ、まともに抗戦するものもなく勝手に自落
伊勢…北畠木造長野神戸などが内訌で分裂、崩壊
六角…対浅井の敗戦や観音寺騒動で極度に弱体化
三好…長慶・義興・義賢らが死んで、結束力0のただの烏合の衆
足利将軍家…三好三人衆の決起で 権威が形骸と化し信長に助けを求める
上杉…御館の乱や新発田の乱で崩壊、葦名・伊達も協力して新発田支援
武田…勝頼の失政自爆と外交失敗で自爆、甲江和与反故の騙まし討ちにかかり、防衛体制解除 まーたSUBの昔のレスの盗用単発IDコピペ爆撃か。
>>17だけ見たことないから、
これだけはアンチ秀吉三成の織田チョンが自分で作っただけだな。
スレを建てたのもお前だろ。
武田厨を装い、昔のSUBレス盗用コレクションを使って爆撃コピペで、
政宗好きを信玄嫌いにし向けようとして自演www
チョンの工作ってさ、ほんとやってることがわかりやすいアホっぷりだなw 「信長の野望・創造」の相馬義胤の列伝をみたら
伊達政宗の「とりなし」が「取りなし」になってたな。 8>>20
創造は1570年(伊達稙宗死去)まで丸森城が晴宗派伊達になってるな。
独立勢力だったら本質をついてたかもしれないな。微妙だが。
伊達稙宗が丸森城主。
亘理元宗が亘理城主。亘理は天文の乱で稙宗派だったとしよう。
亘理城は丸森城の支城と見ることも出来るし、そうすると稙宗が2城の主。
稙宗爺さんが伊達晴宗と相馬盛胤の間で特に何もせずとも
がんばって生きていることに意味がある。
万が一、優勢の晴宗が小領主・相馬盛胤に襲い掛かっても
伊具郡と亘理郡が晴宗の敵対勢力になる可能性を残しておいてほしかった。
相馬は稙宗派残党として機能するわけだし、
晴宗が丸森城に襲い掛かってきたら、たぶん田村も軍勢出すぞ。
相馬でプレイしてみて思ったわ。ほんと惜しいな。
稙宗が相馬盛胤の息子の義胤に末娘を嫁に進めたのも
疑いを晴らすためだったんじゃないのかな。 >>21
稙宗死んだのは1565年だったか、すまん。 伊達稙宗が存命のうちは、亘理の矛先は晴宗流伊達に向いてもおかしくない。
国分もそう。
相馬盛胤の後室は武石流亘理氏から嫁いで相馬への人質としての機能を果たしているし、
盛胤の娘(義胤の妹)も亘理元宗の息子に嫁いで同様なわけだろ。
亘理が伊達輝宗の家督時に伊達の尖兵として参じるまで、
相馬と亘理は不戦関係とみていいな。
国分も稙宗派で何時、伊達から離反するかわからなかったから
輝宗も苦心して息子を国分の養子にしようとしたんじゃない。
輝宗は稙宗の孫で、義胤は曾孫だけど、年齢差は4歳しかない。
伊達稙宗――――伊達晴宗―――伊達輝宗―――伊達政宗
|
|―――――――亘理元宗――亘理重宗
|
|―屋形御前
相馬顕胤――相馬盛胤――相馬義胤
― ←一本5歳差ぐらい
× ― ←一本5歳差ぐらい
いや、10歳じゃ子供は作れんなw 一本10歳差だな 相馬が伊達を一時期圧倒してた史実知らん奴もいるんだな
当時は伊達領攻め込むなど蘆名と並んで奥州最強だったんだが 南奥州で唯一伊達に屈しなかった。相馬の人々はもっと誇っていい 宮城県の多賀城市で相馬盛胤義胤の連名による書状が
天童氏の古文書から発見された。
意味するところは、相馬方に味方するはずの青木弾正(刈松田城主:現在の福島市飯野町)
が伊達方に味方するようになったことを遺憾としつつ、
満毛丸を人質として抑留していることなどを理由に
同族の青木助六に対し相馬へ与するよう工作している。
いつごろの書状だろう・・・。
また面白いパズルのピースが発見されたな。 相馬と伊達の間で武将の寝返り多々あったようだな
亘理・田村・黒木・・・
青木もその一人かな
相馬にとって亘理と田村に寝返られたのが激痛だった
あれで伊達に歯が立たなくなった 戦国時代を通して中村と小高の本城まで一度も攻め込まれたことがない。
戦術的にも外交的にも高く評価していい。 相馬は独立大名として強調されるけど、
実際は伊達稙宗、蘆名盛氏、佐竹義重と従属先したたかに変えていった
地域との関係を密にして半独立状態を保ったのが本質だよ
相馬は従属を戦略にする視点に優れていた大名、真田家に似ている。 敵地に踏み込んで戦うのは上等手段。
でも、実力行使は最終手段だから追い詰められた結果ともいえる。 ちと 論評が退屈かと思われ
あ!と言わせる新味ある事柄はないか? そもそも相馬滅亡寸前話は講談で完全に架空話。
一次史料には存在しない。 また一次史料を見ると、相馬は小田原にすら行ってない。
秀吉から伊達への牽制の役目を負っていて すでに最上同様に安堵は約束されていたとみるべき。
そもそも相馬滅亡寸前話は講談で完全に架空話。 一次史料には存在しない。
また一次史料を見ると、相馬は小田原にすら行ってない。
秀吉から伊達への牽制の役目を負っていて すでに最上同様に安堵は約束されていたとみるべき。
>>隆胤が反撃した駒ヶ嶺
それ天正17年夏の下沢辺での十二所戦を
一つの戦いとして纏めて伊達有利な話として編集してる可能性が高い。
それに亘理浜へ攻め込む側は常に相馬側であり、
なんとか亘理と黒木が防衛してるのがやっとなのが現実。
11月に入ると岩城と和睦交渉し12月末に締結。
続いて正月から成実を窓口に相馬と和睦交渉開始している。
政宗は北条と同盟して佐竹口を攻めるために背後の安泰を望んでいる。
しかし3/2に白河表出馬の中止を聞いた相馬は一転して強気になり
和睦交渉決裂し、それを中島宗求から聞いた政宗は「サラサラ無念の事ナリ」と嘆いている。
>>相馬を滅ぼそうとしたのは政宗と片倉の書状から事実
政宗の虚言癖は異常で常に強気でデカイことを言い放ってるだけだから信用できない。
あのまま相馬を滅ぼすつもりで相馬と戦うなら佐竹と上杉と相馬にフルボッコされるだけ。
そもそも葦名を滅ばした時も、上杉が葦名支援で会津入りした途端に
政宗は相馬方面まで逃亡したから、上杉は会津から撤退し佐渡攻めを開始。
それを見た政宗が上杉が佐渡に行っててチャンスとばかり葦名攻めを再開して滅ぼしてるだけだし。
そもそも相馬滅亡寸前の講談話は
ことごとく義胤が惣無事令が届き小田原へ行くために中止されたと
書いているのばかりだが、とっくに惣無事令のことは知っているはずだし
義胤が小田原に行ってないのは5/29になってもいまだ小高城にいたことが
書状から判明してるのでデタラメなのがわかる。
こんなデタラメ内容を信じろと言う方がおかしい。
安東氏の書状から7月末に宇都宮で秀吉に実季同様に義胤と会談してるのが史実。
そして政宗が6/26「相馬出馬は関白様と申し合わせてる」と書いてるが
明らかに秀吉に騙されてるだけ。もしくは政宗のデタラメ。
三成経由で相馬はすでに安堵を受けていたからのんびりしていただけ。
これは安東や最上(父の葬儀やるから遅れる)ものんびりしていて
事前に秀吉への取り次ぎの手筋を通して安堵を受けていたことからもわかる。
ちなみに会津へ上杉が来たので逃げ出した政宗が正反対の場所である駒ヶ嶺・新地蓑頸城を5/19〜21に攻略。
政宗が上杉から逃げた時に、相馬はたまたま田村方面にいて、本国がら空きだったので攻略できた。
海を初めて見て高揚したのか新地蓑頸城で政宗は撫で切りパーティーしてるな。
相馬が急速反転してきたら、さっさと逃げて、上杉がいなくなった会津へ攻め込み
負けそうになったところで葦名家臣が義広背後で謀反して橋を焼き討ちするなどしたために
葦名兵が動揺して瓦解して政宗は頸の皮一枚つながった。
そもそも相馬文書に伝わった秀吉による禁制の朱印状が7月付けなのだから
5月下旬に相馬が小田原に着いてるわけがない。
それと兵部太輔・黒木上総守 越度無是非次第
この文章を持って討死したと解釈するのもどうかと思うがな。
5/29になってもいまだ小高城にいたとする書状の
年代特定が間違っていると思うがな。
実際は天正17年の書状を軍記の内容を信じて
兵部太輔・黒木上総守が討死した話と結びつけて天正18年としてるだけ。
さすがに小田原征伐最中の5月末にもなってバカみたいに戦ってるとは思えない
(しかも政宗も駒之嶺の守備配置を指示して小田原に向かってるのに)
ただ秀吉禁制朱印状の日付から相馬が宇都宮で安東ともども
秀吉に参陣してるのは事実として動かない。
それに反証できる史料がない以上は無理。 新地蓑頸城で政宗は撫で切りパーティー
人間のクズ政宗が安定した大量無差別虐殺者で安心した。 相馬義胤は伊達稙宗の曾孫で、最初の妻は稙宗の娘だから大叔母。
従兄弟婚とか叔父姪とかはこの時代あんまり珍しくないけど
大叔母はさすがにほとんどないだろうな。 >>28
あれ?
二氏とも独立勢力じゃなかった?
懇意していたって事? >>36
伊達輝宗の時代、亘理は半独立。田村はほぼ独立だが一時芦名盛氏に屈してる
亘理は伊達輝宗に不信感持ち独立するため相馬盛胤と手を組んだ
相馬盛胤は亘理、さらに田村清顕の支援もあり一時は伊達輝宗を圧倒、伊具郡を奪い伊達郡に攻め込んだ
ただしその間岩城に背後を突かれ相馬岩城国境の係争地を奪い返されてる
その後座留川の戦いで亘理が相馬を裏切って伊達方に寝返り相馬の優勢が終わる
ただ伊達輝宗も最上義光との戦いや御舘の乱への介入で相馬との戦いに専念できずこう着状態になる
相馬は盛胤から義胤に代変わりし、伊達は政宗が田村から嫁をとる
田村は芦名・佐竹・大内・二階堂に領土を狙われており相馬より伊達の援助が必要だった
相馬義胤は亘理は敵、田村は中立という苦しい状況になり政宗の台頭で劣勢になる
それでも盛胤義胤父子は輝宗政宗父子を野戦で撃破するなど強さを見せている
しかも畠山・大内・芦名も伊達に味方してしまいこれでは相馬に勝ち目はなかった
義胤は輝宗政宗に伊具郡の諸城を奪還され「植宗領のうち伊具郡は伊達領、宇多郡北部は相馬領」
という不利な条件で和睦せざるを得なかった 587 人間七七四年 sage 2014/01/05(日) 10:34:42.99 ID:9tdrz5VR
源氏も平氏も戦のときには南無八幡大菩薩を唱えながら戦った
八幡神と言えば源氏のイメージがあるが武家平氏もともに八幡大菩薩を信仰していたのである
桓武平氏の相馬家に伝わる八幡大菩薩の旗(福島県文化財)
http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/pic/10080.001/images/10080.001.00073.jpg 相馬と越後上杉(謙信)は懇意ではないか
奥相茶和記の最初に相馬顕胤の嫁となった伊達稙宗の娘は上杉定実の娘とある
これを軽く扱ってはいけない
なぜならば、相馬と伊達の骨肉の争いは
天文の乱の伊達稙宗と晴宗の争いの延長線上にあるからだ
上杉定実は長尾為景が擁した越後上杉家の当主だ。そして長尾為景は上杉謙信の父親。
相馬盛胤の母は越後上杉家出身、伊達晴宗の母は蘆名家出身となる
伊達家中では晴宗の母と盛胤の母の女の戦いがあったはずだし、
相馬にとって上杉謙信が味方になればこれほど心強いことはなかったはず。
晴宗の継いだ伊達家に相馬盛胤の母の記録には残らなかったが、
上杉家との争いがなかった相馬家の記録には残ったと見れば面白い
伊達晴宗は領内の西、上杉領に近い米沢に本拠を移し、蘆名家もすぐ西に上杉領と接する
天文の乱の発端の原因から見ても伊達・蘆名両家で越後上杉家と対決する姿勢を示したとみてよい
相馬家重臣藤橋胤泰の息子が義胤のお気に入りの僧侶を惨殺したとき、
上杉謙信に預けられ、僧侶のありがたさを諭されて柿崎景家付きになったり
義胤の鎧は謙信の厚く信仰していた毘沙門天の具足と呼ばれていたり、
義胤と謙信、相馬と上杉の関係にもっと注目してみても面白いと思う >>39 修正
×相馬顕胤の嫁となった伊達稙宗の娘は上杉定実の娘とある
○相馬顕胤の嫁の母親は上杉定実の娘とある
つまり伊達稙宗には越後上杉家から来た嫁と蘆名家から来た嫁がいた
どちらかが正室となり、どちらかが後室となっていた
結果、伊達晴宗の母親である蘆名盛高の娘が正室とされた >>39 修正
×相馬盛胤の母は越後上杉家出身
伊達家中では晴宗の母と盛胤の母の女の戦いがあったはずだ
○相馬盛胤の「祖母」は越後上杉家出身
晴宗の母と盛胤の「祖母」の女の戦いがあったはずだ
永禄4年(1561年)に上杉憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を
長尾景虎(後の上杉謙信)に譲ると
永禄6年(1563年)、室町幕府の記録には全国五十三名の大名が「大名在国衆」として上げられ、
奥州では伊達晴宗・蘆名盛氏が織田信長らと名をつらね、
相馬盛胤・岩城重隆らは「関東衆」として記されることとなる
相馬盛胤・義胤父子は、関東管領上杉謙信の傘下と考えていい 天文の乱の本当の原因は、伊達稙宗と晴宗の母親の夫婦喧嘩かもしれないな
伊達稙宗が蘆名家ではなく上杉家との懇意を政策上重視したならありえる話だ 現代でも相馬野馬追なんて軍事演習しているんだぜ、小戦やらせたら強い強い、相馬の道は直線だけど伊達領になるとグニャ、グニャ道になる、輝宗はうまく相馬を味方に付けていればもっと範囲を広げられたのにおしい。 結局、最終的には相馬は輝宗騎下になったから、
相馬は政宗のために二本松城開城に成功させ、
政宗の仙道制覇のために働いたね。
なのに政宗は田村を奪う野心から、
相馬歴戦の武将を銃殺させて弱体化させてしまった 永正期に起こった古河公方家内紛の際には古河公方足利政氏の命で
佐竹義舜と一緒に岩城氏が宇都宮成綱・結城政朝の連合軍と戦ったみたいだし
「関東衆」の1つとして記されてもおかしくないな 永禄6年の覚書における関東衆は後世の偽作って疑い出てるけどなー >>33>>47
なるほど。政宗マンセー史観から抜け出さないとならんね。
東北は政宗視点で語られてきたから、
畿内が嘘長公記の史観で騙されてるのと同様に歪曲がまかり通っている状況なんだよな。
毛利史観といい害悪な存在だよな。
むしろこの自己正当化の押し付け発信力を中小大名や滅亡大名の子孫も学んで本を出して欲しいな。 相馬面白いよ お堅い歴史史料本もいいけど
コーエーの絵とか動画とか使っていろいろやって遊んでほしいね
ビジュアルって重要なんだよな
野馬追も言ってみればビジュアル文化だよ 江戸時代の >>41
相馬盛胤義胤は謙信麾下じゃない
相馬が謙信の御意に従うという書状でも見つかったか?
証拠の書状もないのに適当な事いうな
>>47
相馬義胤は輝宗麾下じゃない
あくまで対等の和睦だ
伊達植宗隠居領のうち伊具郡は伊達領、宇多郡北部は相馬領という条件だった
人取橋の戦いの時義胤は佐竹蘆名方で参戦してる
もっとも戦闘には参加してないらしいが いや相馬は輝宗騎下だよ。
人取橋後に二本松開城するために政宗のために動いてるし。 義胤は早速、関白秀吉に従ったと見ればどうかな
義胤は「二本松城をとって和睦しろ」といっているだけだ
しかし、政宗は立て続けて蘆名を攻めたので秀吉の怒りを買った 伊達に領地を割譲して騎下になっていた相馬は、
領地を割譲したことが無駄にならないように伊達のために働いていた。
6/17に小笠原貞慶から田村へ惣無事の連絡がやってきて
家康が朝日姫を娶って秀吉に臣従し、上杉も上洛してきたことも知らされ、
上意に背いたら御追罰の旨があるからと言われた
伊達家が危機的状況にあると知った田村清顕と伊達実元が狼狽して、
輝宗騎下になっていた相馬に仲介してもらうために、
相馬盛胤夫人になってた
実元の妹(つまりは当主義胤の叔父が実元)に、
お取り潰し確定の伊達が相馬へ和睦の斡旋依頼を陳情してんだよ。
惣無事を守らないと名門畠山氏も滅亡になると聞いて畠山も相馬を信用して開城した。
伊達騎下の相馬は当然、伊達に有利な条件に誘導して和睦をまとめてくれた超恩人。 実元の妹?稙宗の娘だよね?
盛胤の正室は掛田の娘で後室は亘理の娘じゃなかった?それって亘理元宗の娘?
それとも義胤の正室になった伊達に帰した稙宗の末女?まだ生きてたんだ?
それともそれは亘理に嫁に行っていた義胤の妹(姉かも)の間違いなの? 伊達実元と亘理元宗は同一人物という歴史的発見だったりしてね 顕胤夫人(実元の姉)のことか?
生きてたら80歳ぐらいだけど >>55
領土争い勃発時から停戦まで全てのスパンで見ると、相馬義胤は伊達輝宗に領土割譲したわけじゃない
もとは伊達領だった地を相馬伊達で奪い合って伊具郡は伊達領、
宇多郡北部は相馬領ということで痛み分けだった
戦いの最後数年だけ見るからアンタそんな視野狭窄的な主張になるんだよ
そしてアンタ漢字間違ってる
騎下じゃない、麾下だ。騎下は中国式の漢字だ。アンタ中国人か?
相馬義胤が伊達輝宗麾下なら何で人取橋の戦いで相馬は佐竹蘆名方に加わったんだよ
相馬は伊達と対等の関係だったから、義胤は政宗に気兼ねせず義重に強く誘われて佐竹蘆名方についたし、
その後二本松城の和睦交渉も仲介できた。
和睦の仲介は双方と対等の関係にある者でないと不可能
第三次川中島合戦の今川義元しかり、河東の乱の武田晴信しかり
相馬は伊達とも佐竹とも対等の関係でどこにも従属してなかった
これが真実 相馬討伐をたびたび行ってた輝宗だが
天正5年3月には傘下の葛西晴信の援軍を遠方からわざわざ呼び寄せ攻略を謀ったが
7月に信長から謙信討伐するから本庄と語らって伊達も越後へ出兵せよって命令が来るわ
12月に晴宗が死んだり、天正6年3月に入ると謙信死去を乗じて、越後境警護名目で出兵したりで相馬戦線放置してた。
すると余裕が出た相馬は義胤へ家督が移る。
越後情勢を優先する伊達の次の一手が天正7年12月に田村から人質として愛姫を政宗の嫁にもらう事で相馬を牽制し背後を固める事。
田村清顕の妻が相馬盛胤の娘なんで盛胤は政宗の大叔父。
天正9年5月にやっと相馬攻めが再開され政宗の初陣と言うことで旗下の亘理、名取、宮城、二本松、須賀川、石川らも大動員して大規模出兵したようだ。
しかし信長配下の柴田が北国警護として越後方面へ侵入するからと連絡がきたので伊達の動きも止まったようだ。
天正10年3月に突如起こった田村と二階堂の小競り合いだったが
5月には輝宗は田村と須賀川二階堂の無事をまとめまげ南方を安定させる。
同時に相馬配下の小斎城代佐藤宮内が謀反し、
相馬が小斎城の近くに砦を築くと輝宗は二本松と大内を派兵し小斎城の防備を固めた。
輝宗は武田滅亡に伴い、滝川や由良に使者を送っているが、まもなく本能寺である。
この前後には武田滅亡が堪えたのか、佐竹や岩城に奥羽は伊達に従い中央政権と外交すると書状を出している。
佐竹には「羽奥両州諸家過半申し合わせている」
岩城には「蘆名や最上を始めとして奥口諸家が当家に〜岩城とは骨肉であり奥州は同じ一国」
これは後年に奥羽諸将を代表すると称した政宗が秀吉との外交をしたのと同様である。
これを受けて輝宗の圧力に耐えられなくなった岩城は天正11年7月に相馬との手切れと伊達の後詰めを承諾。
天正12年2月には三十三備の大軍で輝宗は相馬を攻める。
このころより田村と岩城が相馬との和睦交渉の許可を輝宗にお願いしてる。
外交ルートとしては田村が佐竹への使者に白河義親を使っていたようだ。
これにより岩城だけでなく佐竹からの名代も伴い田村清顕が宇多荘へ乗り込み条件をつめ
相馬が2城を伊達に譲渡する条件がまとまる。 この相馬側が一方的譲歩の降伏に近い条件になったのは伊達に屈服した田村や岩城が親類の相馬を討つのに忍びず
孤立した相馬も圧倒的兵力で攻めてくる伊達とのこれ以上の戦闘継続が難しいことを悟った結果だろう。
これを以って輝宗は中間・中人(成実曰く奥羽の流儀である無事の斡旋役の田村・岩城・相馬)の補佐を得て
小洞の数々を調停する奥羽の無事を主宰する上位権力としての陸奥守護職として公権力と徴税権を背景に
数々の小洞の上に君臨し養子をねじ込む権威を持つ伊達奥羽勢力圏を樹立したといえる。
さらに政宗が二本松城を攻めた時は田村清顕と義胤は政宗に援軍を出してる。
政宗が家督を継いだ時にもお祝いとして相馬義胤が使者を出してるし相馬は政宗配下なのは確実。
そういや黒川氏なんかも家督継承祝いの使者出してるな。
相馬は輝宗に金山城や丸森城を譲渡しての実質降伏の和睦を乞うて、親伊達路線になってるのに
わざわざ金山城や丸森城の返還を無駄にするわけないだろう。
そして人取橋では佐竹を牽制して奥州の流儀として中間、中人の立場になって佐竹と伊達の間を取り持った。
惣無事を聞いた田村が伊達に連絡し驚いた伊達と田村の依頼を受けた義胤が二本松開城交渉してるわけだが。 1563年には台頭してきた葦名盛氏と伊達晴宗のみが
幕府より認可された大名50余の中での奥州大名として名前が挙がっている。
1564年に晴宗は輝宗に家督を譲り、1565年に晴宗が争った父も死去
これにより相馬にとって伊達正統派として擁護する名目が失われ
譲られた旧伊達領を維持したい願望のみで戦ってたが
再び統合された伊達の力は日増しに圧力となり
盛氏末期の葦名は衰退し伊達の1人勝ちになり
岩城も田村も伊達に屈し、 奥羽で単独で対抗できず領地を返納し元の親伊達に戻ることになる。
また伊達実元は畠山や大内は配下に組み込み相馬と姻戚していく。
そして洞の吸収の完成により大伊達圏は完成し政宗に譲ることになる。
葛西は相変わらず伊達の力が必要で伊達の力がないと安定しない大崎は、最上義光の支援を受けて自立していく。
しかし伊達配下の最上は大内攻めに援軍を出しており、 相馬も畠山攻めに援軍を出すなどで
義光が真に自立するのは政宗が庄内無事令を発動して本庄と和睦させようとし始めたからのことで
大崎攻めをもって自立し、同時に大崎の自立も達成されることになる。
陸奥国守護職の任官で広く段銭・棟別銭徴収権と言う公権力を
伊達が保持してこれたのはでかいね。これのおかげで伊達は他家に対して
惣領&主家顔できる正当性を得て養子送り込みができるようになってるからね。
伊達傘下の葦名当主の謀反による死の動揺を、輝宗が「御念を入れられ」安定させて
姉妹の伊達未亡人を擁立し亀王丸の後見役となると政宗への家督譲渡へつながった。
佐竹は人取橋ではあくまで政宗を懲らしめる程度であり
成実曰わく「奥州の流儀」たる陸奥守護配下の中人・中間人(相馬)の仲立ちを佐竹は受け入れるつもりであり
それは晴宗以来の伊達を中心とした平和無事秩序の回復が図られたに過ぎない。 >>60-61
無理のある主張だな
宇多郡北部はもとは伊達領だった
相馬が伊達に降伏したなら宇多郡北部も伊達に返還するはずだが、
伊達が譲歩して宇多郡北部は相馬領と認め和睦した
それは伊達領を相馬に奪われたことであり見方によっては伊達の外交的敗北といえる
政宗の二本松攻めで援軍を出したからといって義胤が政宗に屈したわけではない
三方ヶ原の戦いで信長は家康に援軍を出したが、信長が家康の配下といえるか?
アンタの主張は矛盾だらけだよ
人取橋の戦いで義胤が戦闘にあまり加わらなかったとはいえ佐竹方に陣を張ったのは事実
これは中立とはいわないし相馬が伊達配下でなかった証拠そのもの
お祝いに使者出したからと言って配下とはいわない
北条氏政が上杉輝虎にお歳暮を贈ったが、氏政が輝虎配下だったわけでなかっただろ
使者や贈り物は友好関係の証拠であって主従関係の証拠ではない
あんたが熱心な伊達ファンなのはよく分かったが、自分の願望で事実を捻じ曲げるのは善くないな 元々って何十年前の話だよw
しかも伊達から相馬に贈られた領地であり、
さらに相馬がずっと実効支配し続けていた地だろ。
相馬は実効支配を続けていた地を伊達に返したが、
伊達はまったく損してないどころか利益を得てる。
一方的に相馬が割譲し譲歩してるじゃん。
だいたいもはや相馬一人で伊達に対抗できる状況に無いし、
輝宗は奥羽諸将は伊達に帰属して、
中央政権である織田と交渉するって佐竹にも宣言してるし。 >>64
もう世代交代しまくってるから、40年前じゃないかな。 >>64
植宗死去からだから18年前だ
植宗隠居領を贈るといったのは植宗であって晴宗は不承知
盛胤が武力で植宗隠居領奪ったんだから、
宇多郡北部は結果的に相馬が伊達から武力で奪い守りきったことになる
輝宗は宇多郡北部も取り返したかっただろうに。叶わず悔しかっただろうな
植宗隠居領争いは戦略的には領土を増やした相馬の勝利、伊達の負け
>>65
デタラメ言うなよ、隠居領争いは植宗死去から和睦までの18年だ。 なんで植宗が死んだ後に植宗が貰った地じゃないのに、
植宗死去からカウントすんだwwwアホか。
しかも相続したんだから相馬領じゃん。
で、下記の一次史料は?
輝宗は宇多郡北部も取り返したかっただろうに。叶わず悔しかった >>55>>56>>57>>58
歴史上に有名な掛田御前は二人いる
一人は掛田俊宗の正室 伊達稙宗の娘だったらしい
もう一人は掛田義宗の娘 相馬盛胤の正室 つまり相馬義胤の母親
この二人は同一人物か?
奥相馬茶和記には
掛田義宗の子は掛田俊宗「〜と云われる」という形で書かれている
実際は相馬氏側に伝わった義宗と俊宗が親子逆の可能性は十分にある
掛田俊宗の正室(稙宗娘)が相馬義胤の母親だったら、辻褄はあうか >>69
>なんで植宗が死んだ後に植宗が貰った地じゃないのに、
申し訳ないが日本語の文章になってないので意味不明
正しい日本語で書いて貰えませんか? 相馬の最盛期なんて相馬顕胤が生きていたころまででしょ。
子の盛胤の母は晴宗の姉だし世代からして、もう変わってるし。
はっきり言って相馬が伊達に対抗できた最大の理由が、
芦名の後ろ盾があったからだけど盛氏が失明してからの芦名には、
誰も挨拶しにいかなくなってるのを盛氏自身が嘆いているし、
同時に芦名家臣の一部が輝宗に挨拶に行くようになってしまい、
完全に伊達に対抗できる勢力なんて無くなったからな。
相馬が独立してたなんて白昼夢を見るなよw >>72
>相馬の最盛期なんて相馬顕胤が生きていたころまででしょ。
違う。盛胤の代に伊達本領に攻め込んだり佐竹本領に攻め込んだりして
伊達・佐竹に勝るとも劣らぬ精強さだった
>はっきり言って相馬が伊達に対抗できた最大の理由が、
>芦名の後ろ盾があったからだけど
一次資料も出さず空想に浸ってるんですね、わかります >>73
植宗が生きていた時はまだ、
相馬にも正統性がいまだあったから、求心力があり支えられただけだぞ。
植宗生存中に勝ちきれなかったから、
国力を消耗しきった相馬は一気に衰退した一方、
植宗が死んだことで伊達が統合一本化したため探題伊達氏はいよいよ強大化してる。
婚姻関係を駆使した植宗の死去で大勢は確定したので完全に時代の節目となってる。 >>74
>植宗が生きていた時はまだ、
>相馬にも正統性がいまだあったから、求心力があり支えられただけだぞ。
全く違う。無知が口挟むな
相馬が最も強勢だったのは稙宗死去後だ
稙宗死去後、盛胤は輝宗を圧倒
小斎城・金津城・金山・丸森城を片っ端から奪い取った
伊達は相馬に連戦連敗でフルボッコ状態、
父祖代々の地である本領伊達郡まで攻め込まれるなど壊滅状態だった ここまでどっちも何の資料も出さないとはたまげたなぁ・・・ 相馬盛胤が常に勝ち続けるほどそんなに優勢なら、
そもそも実効支配してる領地をわざわざ伊達に返還する必要ないし、
相馬の同盟者がことごとく輝宗側に鞍替えするわけが無いわw >>77
ぜんぜん勝ってない。相馬はジリ貧にされてる。 天文12年(1543年)・相馬顕胤、信夫郡(伊達領)に侵攻
【大森城の戦い】相馬顕胤 ○−● 伊達晴宗
【平沢の戦い】・・相馬顕胤 ○−● 伊達晴宗
天文1?年(154?年)・相馬顕胤、伊達郡(伊達領)に侵攻
【高子原の戦い】相馬顕胤 ○−● 伊達晴宗
永禄07年(1564年)・相馬盛胤、名取郡(伊達領)に侵攻
【座流川の戦い】相馬盛胤 ○-● 伊達晴宗
永禄09年(1566年)・相馬盛胤、伊具郡(伊達領)に侵攻
【小斎城の戦い】相馬盛胤 ○−● 伊達輝宗
【金津城の戦い】相馬盛胤 ○−● 伊達輝宗
【金山城の戦い】相馬盛胤 ○−● 伊達輝宗
永禄11年(1568年)・相馬盛胤、伊達郡(伊達領)に侵攻
【小島の戦い】・・相馬盛胤 △−△ 伊達輝宗
元亀元年(1570年)・相馬盛胤、伊具郡(伊達領)に侵攻
【丸森城の戦い】相馬盛胤 ○−● 伊達輝宗
(『東奥中村記』『奥相茶和記』『給人根元記』『伊達正統次考』) もちろん下記は笑どころですよね?
『東奥中村記』『奥相茶和記』『給人根元記』『伊達正統次考』
こんな糞が史料になるとでも?
特に3冊は相馬マンセー歪曲丸出しじゃねぇかwww 伊達正統次考?そんな資料ねーぞwww
wikiをパクってるからそーいう馬鹿なレスすんだよwww
伊達正統世次考のことだろw満足に資料名も知らないくせに無理すんな。
それ4代仙台藩主の伊達綱村が編纂したもんで、一次史料じゃないどころか
正確性にも疑問が付く出来の悪いもんだぞ。
つうかお前、実は読んですらいないだろw >>79
さすが相馬強いな、伊達をコテンパンに撃破してるじゃねーか
天文の乱で伊達稙宗方の中心人物として伊達晴宗を叩きのめしたのが相馬顕胤だ
相馬顕胤も相馬盛胤も伊達家本拠地の伊達郡まで攻め込んでるから、
当時の「相馬>伊達」の力関係が分かるな
伊達晴宗が本城を伊達郡の桑折西山城から置賜郡米沢城に移したのも相馬を恐れて逃げたからだ
桑折西山城は天文の乱で相馬顕胤の度重なる猛攻に晒され落城寸前だったから、
伊達晴宗は伊達家発祥の地・伊達郡から叩き出された格好だ
本城が落城寸前になるなんて伊達は余程弱小だったんだな
伊達晴宗が相馬顕胤の本城・行方郡小高城に攻め寄せたことなんか一度もなかったし、
小高城どころか宇多郡中村城に近づく事さえできなかったぞ
伊達晴宗は武芸の才能や軍略の知識がなかったのか? >>83
そりゃ相馬側の立場でマンセーしている資料だけを参考にしてるんだからなwwwwさすがキチガイwww >>84
天文の乱で伊達晴宗が相馬顕胤に壊滅的打撃うけたことも知らんとは情けない奴だ
伊達の一次資料出して反論してみろ 話を巧妙にズラしていてワロタw
晴宗時代ではなく、輝宗時代の話をしていたのに誤魔化し始めたなwww >>87
あんたが稙宗時代について語り始めたから俺があんたに合わせてやったんだよ
稙宗時代の相馬と伊達の抗争といえば天文の乱しかない
天文の乱で「相馬顕胤>伊達晴宗」であったことに反論できないということは、
「相馬顕胤>伊達晴宗」を認めるんだな?
自分の間違いを認めるなら謙虚でよろしい
以上より>>87が言い出した稙宗時代の相馬と伊達の抗争における力関係は、
「相馬>伊達」であることが結論付けられました 一次史料を一切出さずに軍記話をソースに出してる低脳っぷり・・・ >>89
ならお前軍記物でない一次資料出して反論してみろよ 「運」のパラメーターがあったら戦国一かもしれない
ほんとに面白いな 相馬氏ってメチャクチャ強いんだな、知らんかった・・・
あの奥州探題・伊達氏を一時は一方的にコテンパンに叩き潰してたのか・・・
相馬氏が好きになっちゃったよ・・・ まーた政宗厨が輝宗を無能馬鹿だと歪曲捏造してるのかw相変わらず気持ち悪いな・・・ 輝宗公は相馬氏に連戦連敗だったんだからダメ出しされても仕方ないな・・・ >>79
で、いつになったら、それの一次史料がここに書かれるわけ? >>97
で、いつになったら、伊達晴宗・輝宗が相馬顕胤・盛胤時代に優勢だったという
一次史料がここに書かれるわけ?
晴宗が顕胤に勝利したことなんてないけど、もしあるなら一次史料出せば? >>100
すごい、これまで見た中で最高の鎧かぶとだ
相馬義胤ってセンスいいんだな、ファンになっちまったぜ 相馬顕胤の前に伊達晴宗は連戦連敗だったからな
本当に伊達は情けない 相馬など最後まで追い詰めない奥州の温い慣習があったればこそ辛うじて生き延びられた小名に過ぎない >>60-61
織田政権に対する奥羽交渉全権を持つ探題伊達による南東北地域の統一が成立してたのに
なぜ政宗は直江の調略に騙されて、輝宗が御念を入れてまで後見していた蘆名を攻めを始めたんだろうな。
おかげで上杉は織田と新発田と蘆名と伊達の圧迫から息を吹きかえしたが。 大名だろうが小名だろうが辛うじて生き延びられた家しか知らんw >>62
>>葦名盛氏と伊達晴宗のみが幕府より認可された大名50余の中での奥州大名として名前が挙がっている
植宗と晴宗が敵対したことで伊達が真っ二つに分かれて共食いしてた時期が
植宗の死去で終焉を迎え、2つの伊達が統合された後の相馬じゃまったく伊達には勝てないわな。 >>107
稙宗が死んだのが永禄8年
その直後に相馬の猛攻が始まって永禄9年〜13年、元亀元年に伊達の城を
片っ端から攻め取ってるのだが無知なのか? >>109
『東奥中村記』『奥相茶話記』
で、お前はいつになったら一次史料出すの?
出せないのに人の批判ばかりして生きてるの? >>111
>それ相馬マンセー軍記じゃんwww
その情報のソースは?
お前いつになったら一次史料出すの? >>27
青木弾正は聞き覚えないけど青木修理なら聞いたことがあるなと
調べてみたら同じ一族なんだな
松田城は福島市(伊達実元・成実領)と
二本松市(畠山義継・大内定綱領)と川俣町(元・掛田領、後・伊達領)の中間地点か >>27
書状の義胤の花押を見てみた
岡田清一の研究どおりだと
これは最初期の義胤の花押だな
ということは天正12年より前の書状 >>109と>>111よ
早く一次史料出せよ
出せないの?
ハッタリ野郎なの?? 一生懸命に相馬氏の研究してるが発表の場がないし研究者も少なくて寂しいと
ここで粘着するしかないかw 研究って言うより、
相馬が主役になってる軍記の読者だろ。 などと一次史料すら出せず論破された負け犬伊達厨が
遠吠えしております
>>116-118
まだ一次史料出して反論しないの?
何週間も一次史料出せないなんて一次史料読んだことないの? 軍記話はいらんから一次史料出せと指摘されたら、
オウム返しで相手に一次史料出せと言い出して、
逃げ回るバカが相手だとやる気起きない。 輝宗時代より前の宮城県方面の史料が極端に少ないのも不思議だな >>120
自分が一次史料出せないなら人の批判する資格ないよな
もう黙ってろ 近所に長年かけて収集した史料を部屋一杯に蓄えていたお宅があったが津波で失った
郷土史料の損失も甚大だと思うよ 今後地元での新史料の発見は難しいな >>124
このように相馬に半世紀も苦戦させられた伊達が遠吠えしております
伊達が奥州の覇者とは笑い種、実際は芦名の自滅と佐竹の南進で漁夫の利を得ただけ 今でも相馬派と伊達派が2chに戦さ場を変えて500年に亘って戦っている。 天正3年に亘理元宗が相馬方から伊達方に寝返ったのが転換点だった
あれで相馬優勢から相馬伊達互角になった 仙台と相馬は宿敵だけど独眼竜政宗で相馬野馬追いが特別参加してるw zakzak by 夕刊フジ
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20140411/dms140411003-n1.htm
>>関ヶ原に際して日和見せざるを得なかった理由を懸命に家康に伝えた。
>>結果、弁明が認められて旧領に復帰することになった。孝行息子のおかげで義胤は復帰を果たしたのだ。
伊達や最上と違って義胤は父の盛胤とたたかわなかった孝行息子。
あと昔の縁故を忘れなかった忠臣の門馬泰経と島田治兵衛のおかげな。 信長の野望・創造の片倉景綱に爆笑したw
短縮ルートでの蘆名攻めの敗北や秀吉の侵攻速度の遅さなど
史実の情勢が伴わないと完全に政宗のイエスマンw
あれはひどいわ NHKBSで政宗再放送してる
順番から今度は平清盛かと思ってたがな
東北復興に絡めてだろうが肝心の相馬が名前だけで配役無しだったよな
CGで義胤を創って入れろや 配役は誰か良いか分からんがよ 仲代達也の伊達稙宗役をみてみてみたい
「乱」の一文字秀虎をみたらばっちりだ
戦国時代を相馬側の史観から悲劇的に描く
伊達稙宗の死去と
ダークツーリズムの相乗効果狙いだ 伊達政宗包囲祭とかあれば参加したい
政宗に敵対した武将由来の領地の特産品とかご当地グルメを
食っ足り食べたりしながら歴史を学習するの 顕胤時代から政宗が生まれるまで相馬氏で保管すればいいんじゃね >>133
最後に仙台城の政宗の銅像の前で
参加者全員で政宗の頭の形をした饅頭を
かじって月型にしてやる 神道・仏教から歴史、政治経済まであらゆる情報の宝庫!
本日の講義は【大日本帝国は生きている 武士道】です。
現代でも日本人の心に受け継がれている武士の魂…
日本刀とはまさに神が宿る神器とも言えるでしょう。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ 相馬って永禄から元亀は奥州最強だったんだよな
伊達が内紛で混乱してたのもあるけど向かう所敵なしだった
天正に入って伊達が輝宗のもと団結し始めると次第に形勢逆転していった >>132
二日後ぐらいの福島民放の新聞見たか?
芸能のところが仲代達矢の「乱」のインタビューだったw
新聞記者もみてるんじゃね、ここwww このスレの伸びイマイチだな
お前等なんで書き込まないんだ!
もっと書き込め! >>142
その名言知ってるとは中々の勉強家とみた!
相馬地方の人間だな? 伊達家と濃い血縁だったため最前線から指揮する相馬に、困った伊達家 強大な輝宗の傘下に入った相馬はなんであんなに従順だったんだろう・・・ 「疾駆の虎相馬義胤」というテーマでベストセラー本を誰かが書けば‥ 奥州相馬戦記の義胤の異名は「赤い稲妻」
デュラハンの義胤はルックスも扱いもWガンダムの「ゼクス・マーキス」
ガンダム好きすぎだろおまえらw 1577年輝宗が宇多黒木城(中村城すぐ北)の藤田兄弟を寝返らせて進出し
杉目に伊達の陣を布陣させ金山・丸森城(稙宗隠居城)を攻めた。
1581年の相馬進攻での伊達軍(亘理・名取・宮城・二本松畠山・大内・須賀川二階堂・石川)との小深田の激戦
(相馬側300騎だったが狭い谷という地の利で防戦し、血気の逸った初陣の政宗が片倉を身代わりにして敗走)
1582年の相馬の小斎城の佐藤宮内が援軍の将を斬って伊達に降伏。
小斎城には伊達軍が、城の周囲には伊達騎下の二本松畠山・大内備前親子が布陣し急遽、相馬が冥加山に砦を築く。
1583年3月に氏照から輝宗へ「奥州の伊達と関東の北条はさらに入魂すべき」と東日本を二分して統治しようとの手紙。
6月輝宗から義重へ「奥羽両州諸家のほとんどが私に申し合わせてご挨拶し織田と入魂するから奥羽にちょっかい出すな」
輝宗から岩城へ「相馬攻め出馬よろしく。織田軍がもし関東へ乱入するようなことあらば、葦名ら奥州諸家は伊達に属して戦う」
1584年5月、田村清顕(母が稙宗の娘・妻が相馬盛胤・政宗正室の愛姫は一人娘)が
金山・丸森城を伊達に譲渡しての和睦斡旋。これを機に10月輝宗は政宗に家督を譲渡(葦名盛隆が家臣に暗殺される)
このようにほとんどの諸将は輝宗の指示で動くまでになっており
そのほかに黒川氏や最上氏なども傘下におさめている。
大崎氏も伊達に頭を下げて兵を借りる始末だし、葛西も隷属。
上杉との新発田を巡る争いに敗れ失意のまま死んだ葦名盛氏死後のこれが所謂、輝宗75万石、支配圏150万石と号される云われである。
寒河江氏とか毛利系も伊達に従属してたろ。義守も義光との争いで輝宗が上山城主と一緒に干渉されたろ
義姫が輝宗に詰問したおかげなくせに。
最上の乱において里見氏の流れを汲むと言う
最上八楯の旗頭である天童氏なんかも武藤義氏らと伊達の後ろ盾を得て
最上を圧迫してるな。そこでスーパーヒーロー白鳥長久が大活躍。
1404年7月に奥州仙道の安積・岩瀬・耶麻・田村・白河の中小国人20人が傘連判状を書いて一揆契約
(白河の結城満政・佐々川の二階堂満祐・伊東祐時・御代田・田村季秀・猪苗代盛親・長沼砂弥性久など各郡主庶流筋で村落領主)
また1410年2月に奥州海道5郡の岩城・白土・好島・諸根・相馬・北口・松口・富口・楢葉・標葉らも傘連判状で一揆契約
こんな一揆を組まなきゃ生きて行けれない仙道や海道の弱小領主を服属させたってぜんぜんすごくねぇのに自慢の種にするのがアホ宗信者w
しかも葦名盛氏死去後の大内や二本松は明らかに輝宗側に付いていたのに政宗が難癖つけて敵対しただけ。
大内も二本松も弱小で伊達に刃向うなんて恐ろしいマネはしたくない。
政宗家督就任の挨拶に大内はきていたのに、その後離反されたw
二本松も親しくしてた輝宗に政宗との斡旋を依頼してるのに二人まとめて銃殺w
仇討ちと称して二本松城を囲むも当主が死去して混乱のうちにいる11歳国王丸の元で激しく抵抗され
政宗の大苦戦を見かねた相馬義胤が佐竹らが介入する前に和睦斡旋仲裁してくれたから開城になってなかったし
(撫切りが原因で政宗に騙されて自分達も殺戮される恐れから降伏せず大抵抗)
(相馬義胤は伊具郡丸森城・金山城を伊達に返還し和睦してあげたし、人取橋でも佐竹を牽制してくれた)
まっ義胤が三春へ見舞いに行った時に不意打ちし相馬重臣を銃撃殺戮して見事に政宗は裏切ってるが(恩を仇で返され相馬は最後まで大抵抗)
激情だけで政策を決める政宗ってアホすぎなんだよ。 伊達は輝宗から政宗に家督相続した時点で輝宗弟の国分らのいる今の仙台市あたりは確実に領土化してるし
黒川や田村・最上らが服属し
輝宗妹の須賀川や弟の石川や岩城らも勢力圏化してる。
だいたい宮城県南部は石巻あたりまで留守氏・仙台は国分氏で伊達が支配圏を確立してたし
まぁ留守領と葛西領なんて両属してたりでハッキリした国境線引きなんてないだろうが…
しかも葛西領なんて言っても国人がほとんど独立してたり反旗を翻して内乱ばっかだし。
留守と国分は輝宗の弟だし
晴宗の弟達(輝宗の叔父)は大崎義宣や葛西晴胤や亘理綱宗だしな。
政宗が家督継承する以前からすでにさんざん大崎や葛西は伊達の影響力によって内乱を誘発させられて弱体化しているな。
そもそも芦名と伊達は仲が良かった。
晴宗の姉妹花は芦名に嫁ぎ当主芦名盛興を生み、輝宗の姉妹瞳はその芦名盛興に嫁いでるくらい。
盛興急死後は芦名盛氏の命で養子二階堂盛隆と再婚し芦名家を支えた。
輝宗の姉妹芳は佐竹義重に嫁ぎ嫡男義宣を生み確実に親伊達政権を作りをして戦国時代でありながら戦乱を極力減らし東北地区の平和安定をはかっていた誰しもが認める盟主が輝宗だった。
政宗は家督を継ぐや芦名を奇襲し逆に大敗。続いて大内領で女子供から家畜まで皆殺し。
さらに二本松城で大苦戦した輝宗が心配し和睦交渉をしたら父を暗殺し親戚筋があまりのDQNにみな呆れ果てた。
すべてをひっくり返す蛮行を引き起こした暗愚基地害政宗。
伊達厨は輝宗無能→政宗天才を主張するが事実は違う。
中国をまとめた毛利元就よりもうまくやっていた伊達の伝統政策であった養子婚姻政策を推し進め、
さらに輝宗の鷹揚にして度量の広さから下々からも抜擢し将将は心服し殉死者まで出した指導力も調整力も優れた英主だった。
伊達厨は不当に輝宗をけなして家督を継いだ政宗は革命的天才とか歪曲しまくるアホ。
さらに戦歴は負けばかりなクセに上杉や佐竹に勝った勝ったと妄想歪曲を続けて信長以上の天才とか主張する低脳。 名盛隆急死で大混乱した蘆名をいち早く静めたのも伊達輝宗なんだよな〜。
蘆名重臣新国定通は「盛隆死去、之に依って洞取り乱れ候の処、御念を入れられ候故、静め被れ〜」と
輝宗が蘆名に圧力を入れたので、その御威光に蘆名の上下皆が喜んでます。
こんなに奥羽全域に威光があった輝宗だったが
家督を継いだ政宗がいきなり奇襲攻撃で蘆名を攻めて大敗して以来、
伊達の威光は地に落ち、失敗した政宗は邪魔になった輝宗を暗殺。
そのため佐竹義重からも妻の兄を暗殺した暴君から二本松を救う義戦として介入される始末。
直江さすがだよな。
織田伊達蘆名による御館の乱〜新発田の乱支援を打破するため、
愚鈍政宗を操り、上杉滅亡の危機を脱してるからな。
直江の謀略により政宗派閥がクーデターし、伊達の外交政策を上杉有利に変更させる。
輝宗の親蘆名政策から、政宗の親上杉政策への強制変更。
その結果、対立が最大限まで至り、政宗による輝宗暗殺につながる。
伊達家文書之一 339 伊達上杉二氏ノ連合
天正14年3/19 直江兼続→米沢へ
貴札拝贍、仍去秋至新発田表、雖被企御飛脚、
路次阨塞故、不罷通之由、御深切之處、
不淺被存候、殊爾來別而可被仰談由、
連々被申舒筋目候條、即被致雷同候、
就中貴国近隣遠邦、 面倒なので省略
上杉侵攻で蘆名と足並みをそろえていた輝宗が蘆名に嫁いだ姉妹の子の後ろ盾になっていたが、
政宗は直江の調略で、上杉との同盟をした挙句に蘆名攻め奇襲して大敗してんじゃん。
芦名に大敗したことで大内が政宗から離反。
芦名擁護の輝宗側に付いた二本松を攻めて、輝宗暗殺。
輝宗の仇討ち目的の佐竹の介入を招いて、
二本松攻め失敗して政宗逃亡。
惣無事違反で秀吉に睨まれた政宗のために、
伊達傘下の相馬が二本松を開城させる。
政宗の対外外交方針の大変更で、
輝宗が築いた大伊達勢力圏が瓦解したからね。
大伊達勢力圏内には最上洞や蘆名洞や相馬洞や大崎洞や葛西洞などを内包した
対織田外交奥羽窓口にして、佐竹を威圧し、北条と互角に外交する巨大伊達探題圏だったのにな。 相馬義胤・田村清顕・亘理重宗の三者で伊達輝宗を圧倒してたのに
亘理め裏切りやがって
田村も丸森城を返すべきとか伊達の手先に成り下がっては相馬の孤立無援じゃないか 最上義光が羽州を制覇した時期もひとつの転機になってんだな。面白いな。 郷土研究の会合にちょっと出てみたら、吾こそは郷土研究の第一人者が多数いて閉口したわ
各自の持論を展開したのはいいが、持論を一歩も譲らない。
わしの言うことが一番正しい人達ばかりでした。苦笑 >>156
皆さんプライド持って研究してるからね
相馬氏が題材だったのかな
俺も参加したかった 相馬義胤の研究の第一人者って誰?
研究会に参加したいな 南相馬市相馬市で研究やってんじゃね?
もうすぐ野馬追だし 一向一揆って誰が一番権力持ってたの?
蓮如の静止を聞かず信長と戦った人とか
居るらしいけど、寄り合い世帯だったん
かな?誰が一番偉いとかは無かったの?
合議制? 相馬義胤知ってる人って多くないんだろうか…
伊達輝宗・政宗と名勝負演じた猛将なんだが… 福島県では伊達・葦名に次ぐ勢力が相馬
ただ浜通りは仙道筋(中通り)に比べ辺境だから注目度低い
実力は伊達や葦名に互するものがあった
その相馬を伊達から守り抜いたのが義胤
政宗のような最高レベルの教育受けてないから主君の器で劣るものの行方・宇多・標葉三郡守った功績は高く評価できる BS伊達政宗見てたら 相馬との和睦の席に相馬の武将がいたが
誰なのか紹介ぐらいしろよ!NHKさん
NHKには相馬について意図的なものを感じるね >>163
NHKに限らず戦国ドラマ作ってるところで相馬野馬追委員会の
協力を受けたところは多いんだから、少しは配慮しろって思うな 俺の従兄弟が映画「風林火山」のエキストラで旗持って走ってた
主演の三船敏郎が野馬追いの行列さ出てたな
なして あんな大俳優がなんてみんな言っておったな
もう昔だなw いまは漫画家やイラストレーターの動きが熱い
SFイラストレーターの大物の加藤直之や
ゴジラで有名な開田裕二みたいなひとが
相馬野馬追のイラスト描いてくれてるよ 野馬追いを紹介されても 会場までどうやって行くんだい 南相馬市の原ノ町駅から野馬追会場となる雲雀原まで無料バス出てる
原ノ町駅まで福島駅と仙台駅から高速バス出てる
相馬野馬追のことなら何でも聞いてくれぃ >>168 アリガトさん
10年位前に野馬追いを原町市の野原で見たよ 暑かったよ
神旗争奪戦は迫力に欠けたね
実際に戦うのかと思ってたけど旗拾って走ってくるだけ 肩透かし喰らったね
騎馬戦やったら‥刀で叩くとか取っ組み合いするとか
どっち皆酒飲んでんだろ アチキも足軽で参加するよ >>174
親切で言ったのに、そんな返答するとはね。
おまえの家族全員親戚一同が、これからろくでもない
人生を送るように祈ってやるよ。 『歴史としての相馬 花は相馬に実は伊達に』の著者
岩本由輝教授がNHKに出てたからなんだろうと思ったら慶長地震のことだった
小高の同慶寺の記録から地震の記述が見つかったと
一時停止して見たら義胤の名前も見れた 探せば出てくるのは分かってるが徹底的に探す作業をやらない。
どの家の土蔵にも史料は残ってるはずだが探さない。面倒くさいから。
過去のことなど興味が無い人がほとんどだし、あっても文書が読めないから破棄される。
残ってるのは鎧とか鑓刀。目に見えて自慢できるものだけ。でもその由緒が説明できない。探せばあるはず‥由緒書き。
相馬市史編纂室が腰を上げて相馬地域の史料探しをやってみると珍しい史料が沢山発見された。
その調査も震災で中途で暗礁乗り上げ。早く再開しないと家主が替わる度に失われる速度が上がる。 相馬のローカルテレビ相馬行胤さんが講演しているのを始めてみた
広島カープのような復興の足がかりが
必要だというニュアンスは伝わった 相馬行胤さんは著書を残すべき。
地域の象徴としての野馬追。相馬家の当主と震災の経験はとても貴重。
400年後にも必ず大震災が来る。
著書からは思想も伺える。
いろいろな著名人との対談も想定できるし、対談するべき。
そしてその対談の映像を未来に残すべき。新しい人脈も生まれる。 相馬氏は軍閥政治が間違いであり、文人政治が正しいことを
文化人となってまず証明しなければならない。それが現代の闘い方。 戦国期の南奥州の諸大名の子孫を集めて茶話会でも開いてみては?
茶番になるか 面白い話がでるか wikiによると天正年間に政宗と義胤が顔合わせしてるって意外だな。
どんな内容の話をしたんだろう? 伊達政宗「いつか相馬を攻め滅ぼしてやる」
相馬義胤「いつか伊達を攻め滅ぼしてやる」
数年後、相馬は最上・大崎・石川・芦名・二階堂・白川・岩城の反伊達連合で包囲網を形成
北の大崎合戦・南の郡山合戦・東の田村合戦という三方面で激戦となる
伊達は大崎合戦の敗戦で苦境に立たされるも、反伊達連合は足並み揃わず決め手を欠く
伊達は敵の切り崩しにかかり、まず最上・大崎と和睦
さらに芦名・二階堂らと和睦したことで、あくまで徹底抗戦する相馬は孤立
田村合戦は伊達の完勝に終わり相馬勢は田村領からほぼ一掃されてしまう
年が明けると相馬は岩城と呼応して田村に侵攻、田村表は一進一退となる
しかし相馬が田村表に釘付けになってる隙に、伊達は相馬領北部・宇多郡を攻め新地・駒ヶ嶺両城を攻め落とす
さらに反伊達連合の盟主・芦名が摺上原で伊達に大敗し滅亡
さらに二階堂も滅ぼされ、石川・白川・岩城・大崎は降服し相馬は滅亡寸前に追い込まれる
しかし豊臣秀吉の力が東国に及ぶに至り、伊達、相馬共に恭順の意を示して奥州の戦乱は終結していった
伊達に徹底抗戦した誇り高き奥州の駿馬、それが相馬義胤である wiki読み返してみると人取橋より少し前らしい。
>>1の3度目の空白辺り。 なぜこのスレは盛り上がらないんだ
相馬義胤公が泣いてるぞ
お前らの相馬義胤公への忠節と尊嵩の念はその程度なのか! 相馬義胤がどれ程素晴らしい武将かお前ら知らんのか!
恥を知れ!!
恥を知れ!!
恥を知れ!!
恥を知れ!! 相馬が伊達を圧倒してたのは盛胤の代だからな
義胤の代は伊達に葉が立たなくなっちまった 世界の地方領主で、500年以上も同じ土地を領主として保持し続けた例は数少ない
陸奥相馬氏は、その数少ない例の1つ
その領主歴は、鎌倉開府から戊辰戦争終結に至るまで740年にも渡る 政宗の口添えで存続できた家
上杉、蒲生とか他所者来るの嫌っただけだと思う。 義胤は、東北に伊達を除いた共栄圏を確立した英雄。
これに伊達家は徳川幕府300年間苦しめられた。 >>192
良い例だよ
相馬氏は相馬の地を守り続けたんだ ワシは相馬 松川浦出身の人を嫁にしたので相馬氏の偉大さは事ある毎に聞く
自分とこは今川だったから羨ましい >>188
西軍に付いて1年か2年間改易されてたじゃん 昭和12年7月 7日 支那側からの発砲がきっかけで盧溝橋事件勃発。
昭和12年7月 9日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月10日 200人以上の支那兵が迫撃砲で攻撃再開。
昭和12年7月11日 現地停戦協定により一旦終息。
昭和12年7月13日 北平(北京)大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人死亡。
昭和12年7月14日 団河で支那兵の襲撃により日本兵1人死亡。
昭和12年7月20日 盧溝橋城の支那兵より日本兵に対し一斉射撃。
昭和12年7月25日 電線を修理していた通信部隊及びその援護部隊が支那軍の包囲攻撃(小銃、軽機関銃、迫撃砲)を受ける。(廊坊事件)
昭和12年7月26日 北平広安門通過中の日本兵が城壁上の支那兵より一斉射撃を受ける。(広安門事件)
昭和12年7月29日 3千人の支那保安隊が220人以上の在留邦人を虐殺する。(通州事件)
停戦協定を結んだにもかかわらず、支那側はこれら事件を次々に巻き起こしたのだ。
これだけでも開戦の口実に十分足るにも関わらず、日本は外交交渉での解決を目指した。
そして、支那側に最大限譲歩した和平案を用意し、上海において支那側との和平交渉に望む予定だった
8月9日当日、支那保安隊による大山勇夫海軍中尉と斎藤一等水兵虐殺事件が起こった。
続いて、支那政府は、英米仏伊四ヶ国の斡旋で締結された上海停戦協定に違反して次々と正規軍を上海に投入、
8月13日に日本海軍陸戦隊(国際条約により駐留)を包囲攻撃し、支那空軍も日本海軍の「出雲」や総領事館を爆撃し、
上海南京戦区の張治中司令官は総攻撃を命じた。
支那空軍は日本海軍や総領事館だけでなく支那市民や他の外国租界の建物まで空襲して爆弾を投下し、
多くの犠牲者(数千人)を出し、8月15日の張治中司令官の記者会見で日本海軍航空隊が上海を空襲し陸戦隊が砲撃
していると嘘を発表した。その結果一気に反日感情が高まった。これで日本軍の侵略が世界を駆けめぐった。
完全に支那の謀略である。 戦国時代の相馬と相馬家にとても興味があります
>>79
>(『東奥中村記』『奥相茶和記』『給人根元記』『伊達正統次考』)
このあたりの本てどうやれば読めるでしょうか?
図書館…? 微妙に書名が間違ってるな
東奥中村記
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763405
奥相茶話記
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885901/161
伊達正統世次考
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780471
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780472
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780473
御家給人根元之記
ttp://www.city.soma.fukushima.jp/digital/assets/25.asp
相馬給人根元物語
ttp://ci.nii.ac.jp/ncid/BA53119821
御家給人根元之記(相馬給人根元物語)は一橋大学に写本あり
それ以外は近代デジタルライブラリーで活字化されたものがオンラインで読める 相馬義胤も再評価されるべき大名だな
独眼竜政宗では扱いが酷かった
登場すらしなかった そりゃ、ただでさえ過疎板なのに
マイナー大名じゃ語る話題も少ないだろ 相馬をなめるなよ
震災にも挫けず懸命に頑張ってる
相馬市も南相馬市も標葉もな
お前らも相双地方にボランティア行け
小高の松本さんが待ってるぞ >>195
慶長7(1602)年5月から10月ぐらいの出来事だぞ?
よく調べもしないでデタラメばっかりだなこいつは >>182
意外にも田村合戦が起こるまでは
政宗との関係も小康状態で、そんなに悪くなかったんだよな。 しかし、こんなに餌がぶら下がってるのに、仙台藩百姓が
食い付いて来ないとは、奴は本当に死んでしまったんだねぇ 糞コテが死んで良かったじゃないか
ついでに数奇屋とかも居なくなって万々歳でしょ 我、敵を討って殆ど意に任せざるなし。なれど独り相馬のみは小敵といえど
服し難し。只、蜂房の傍を行くが如し。
これの原本て、どこですか? >>200
あれ相馬家の人間は一切画面に映らないんだよw
話題には上るんだけど最後まで1人も映らないというw >>212
その割には、浜通り北部はおろか、伊達郡信夫郡伊具郡まで支配している
強大な勢力、という設定でしたねw 天文12年(1543年) 勝善原 黒木弾正信房・大膳義房兄弟
永禄01年(1558年) 丸森城○
永禄06年(1563年) 坪田八幡 草野式部直清・青田信濃顕治の乱
永禄07年(1564年)05月 金津の小斎合戦
永禄07年(1564年) 北目
永禄08年(1565年) 小斎城○?
永禄10年(1567年)04月 小野村金谷合戦
元亀01年(1570年)04月 羽生川
天正04年(1576年)04月 亘理合戦
天正04年(1576年)06月 座留川
天正04年(1576年)07月 冥加山○
天正04年or05年(1577年)08月 坂本
天正05年(1577年) 雉尾川●
天正05年(1577年)08月 坂本城攻め
天正17年(1589年) 新地城●
天正18年(1590年)05月 ● 盛胤危機
義胤は輝宗には善戦してたんだな
亘理と田村の裏切りさえ無ければ相馬と伊達は互角だった
伊達の軍勢が越後介入に割かれて相馬表に寡兵しか回せなかったのも事実だが、
それを言えば相馬も対伊達戦だけでなく対岩城戦を抱えてた
夜ノ森や富岡(福島第一原発の一帯)で相馬vs岩城は熾烈 相馬と岩城は熾烈というほどかなぁ
岩城はドサクサまぎれに、侵入した感じ。 伊達市の歴史捏造がヤバイよ
梁川の八幡神社で、政宗が戦勝祈願した、ですと。
どんな文献に書いてあんだよ、そんなの >>212
今さらだけど
震災復興大河なら八重より相馬家やってほしかった >>212
今さらだけど
震災復興大河なら八重より相馬家やってほしかった 乱麻の如き戦国の南奥州にあって、義と節を曲げる事無く強かに生き抜いた
「一所懸命」の勇将相馬義胤。
「政宗の武威が募ったとてその旗下に名を残して何の甲斐があろう」
今、決戦の火蓋が切られる!狙うはひとつ独眼竜の首!
20xx年大河ドラマ「相馬勇将伝」放送決定! >>219
同感だ! 相馬義胤の大河ドラマ化を応援しよう!
事実に若干脚色して公開だ!
相馬義胤が伊達政宗を米沢城に攻め殺し、岩城常隆を核爆発で爆殺し、亘理元宗を切腹に追い込み、
田村月斎を銃殺し、佐竹義重を突き殺し、芦名義広を摺上原で滅ぼし、奥州を制覇するのであった! 相馬”顕”胤っていう名前は田村氏と関係あるんですかね?
”義”胤は佐竹氏との繋がりと関係があったりする? 盛胤も葦名盛氏と関係あるんですかね?
猪苗代盛胤もいて、ああ紛らわし 「盛」の字は平氏の通字だと思う
蘆名も相馬も桓武平氏の末裔だから ちなみに相馬盛胤は 平(たいらの)盛胤で直筆の書状が残ってるよ で、同時代に平氏の家紋の「揚羽蝶」を掲げた氏族に尾張の織田氏が上げられる 2011年『東日本大震災』→2012年『平清盛』→2013年『八重の桜』
NHK高校講座 第8回 第1章 古代国家の形成と貴族文化の誕生 武士の登場
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/resume008.htm
次回 第9回 2015/06/17(金) 院政と荘園 リンクミスしてたか
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/resume008.html
高校講座だけど時代劇ファンから見ると役者の高橋秀樹の話も聞けて面白かった
福島県の相馬地方の3つの妙見神社には氏神として平将門が勧請されている。 あーまたミスしてたか 次回 第9回「院政と荘園」は19日(金)
>>231
一部の研究者は相馬の苗字は平将門(相馬小次郎)に
あやかった「こじつけ」という言い方をしていた。
「千葉一族」様より
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen1/souma.htm
地方文化にミームとして残っていた情報をどう扱うかはデリケートな問題。
ぱっとみると確かにそうだが、よく考えてみれば、それは義胤の祖先の
千葉常胤という人物が、将門にあやかれるほどの力を持ったことを示してるわけだ。
現代の相馬さんはその名を脈々と受け継いできた、
そのことを誇りに思っていらっしゃるように見受けられた。 >>226
それは伊勢平氏限定というか清盛の周辺だけじゃ無いのか?
相馬の「胤」と蘆名の「氏」がそれぞれの通字なのにその上「盛」が平氏の通字というのは無い。
足利将軍家の通字の「義」を拝領することは稀にあるけど。
>>231
房総半島にあった相馬御厨という荘園に由来する。
相馬氏は 会津蘆名氏の全盛期、同属として協定を保つためという理由のほうが強いだろうね
「顕胤盛胤両代三郡館持並出騎之事」これの原書では相馬顕胤の弟・堀内近胤(母蘆名盛高娘、正室蘆名盛舜娘)は
相馬盛胤のすぐ隣に書かれている。つまり総大将と同格という別格扱いをされている。
うーん、相馬小次郎にあやかったというよりも、神格化した、というほうが正しいか。
祟り神(たたりがみ)は、荒御霊であり畏怖され忌避されるものであるが、手厚く祀りあげることで強力な守護神となる
と信仰される神々である。また、恩恵をうけるも災厄がふりかかるも信仰次第とされる。すなわち御霊信仰である。
その性質から、総じて信仰は手厚く大きなものとなる傾向があり、創建された分社も数多い。
平安京、京の都で長くとりおこなわれている祇園御霊会は、祟り神を慰撫し鎮魂する祭りである。
主祭神である「祇園神」「牛頭天王」はまさにこの意味での祟り神の代表格であり、疫病をもたらす厄神であると同時に、
手厚く祀る者には守護神として働くとされ、全国各地に牛頭天王社が創建された。
御霊信仰
非業の死を遂げ畏れられたもの、たとえば菅原道真や崇徳院、平将門は祟り神に部類される神として祀られている。
後半はWikipediaからの転載。 盛胤の「盛」は葦名盛氏から一字貰ったと考えるのが自然ではなかろうか
盛氏は盛胤の烏帽子親だし >>235
盛胤が元服したのは、天文の乱以降ですか?
盛胤が仙道ではなく、伊具郡に指向していったのは、葦名家との関係も
あっての事なのかな? >>235
その場合、普通は「氏」の方を与える。「盛」は蘆名の通字だから。 >>238
一字与えるのに通字とかは関係ない
まして相馬は家臣でも属国でもないし通字の方を与える方が理に適う
他の大名の例を見ても通字を与えるのは家格の高い家や重要な家である事が多いからね 普通は通字は与えない
通字を与えるのは特別な関係の時だけ、足利義満が北野義綱に与えたように
てか偏諱を与えるのって基本上下関係があるときでしょ。将軍家が全国の大名に稙・晴・輝をばらまいたように
葦名と相馬って対等な関係じゃないの?少なくとも主従関係じゃないでしょ 平将門の子孫ってほんまなん?
ほんとならすげーと思うけど
それはそれで逆賊の子孫って不都合な事はなかったんだろかと 伊達氏の洞の場合、家格と同じく当主の年齢も上下関係に影響したのかな。
そう考えると蘆名盛氏は長兄ではあるから。
それとは別の話だが
相馬顕胤は側室(西氏)の子だったが、父が早世してしまったので十四歳で家督を継いだ。
正室・蘆名盛高の娘に子(堀内近胤)がまだ生まれていない、あるいは幼少過ぎたため
大将にはなったのが顕胤という説は納得。
そして、顕胤の父の名前も盛胤、主従関係ではなかったかもしれないけど、親密な印象はあるね。 >>241
自分は岡田清一の研究を呼んで多少納得している。
大河ドラマとかで信長がよく舞っている「敦盛」。
それと同じ「幸若舞」の演目に「信太(しだ)」というのがある。
『信太』は、将門の孫である文国と姉千手姫の貴種流離譚です。
そのあらすじは、文国が姉千手姫の嫁いだ小山行重(将門を討った
藤原秀郷の子孫)から所領を奪われると、その後は人買い商人に売られ、
塩汲みに従事させられるなど諸国を流浪します。しかし、外の浜(陸奥湾)
で領主「塩路の領司」の養子となり、さらに多賀国府(宮城県)で国司から
その素性が認められると、小山行重を攻め滅ぼし、相馬郡でめでたく栄えた
というものです。
人買い商人に売られて塩汲みに従事し、最後は宿敵を討ち滅ぼすストーリーは、
「山椒大夫」に極めてよく似ています。「塩」に関する内容が豊富であること
、塩汲みの状態から、素性が認められて身分を回復するのが多賀国府であること
などから、おそらく日本海側で伝えられた「山椒大夫」と、関東地方に残された
将門の子孫伝承が多賀国府で結びついたと考えられます。そして、これを結びつ
けた人びととは、日本海側と太平洋側を往来する塩商人であったと思われます。
多賀国府(多賀城市)や遠く石川県金沢市に残されている信太小太郎の伝承は、
中世に発生した伝承が多少のかたちを変えながらも、それぞれの地域で現在に
いたるも語り継がれてきたことを示しています。
流行のエンターテイメントとして将門肯定観が先に敷衍していたんだな。 >>241
逆賊といっても昔のことです。奥州藤原氏の初代清衡の父も逆賊として首を切られたけど、
3代秀衡は陸奥守や鎮守府将軍に任官してます。 >>243
エンターテイメントっていうより、当時の教養の域かもしれないね >>240
通字を与える事は別に珍しくはない
足利将軍家ですら義の字はたくさんばら蒔いている
関東あたりだと真壁氏などは兄の氏幹は北条の通字を、弟の義幹は佐竹の通字を貰っている
他にも北条の通字で言えば太田氏資、上杉氏憲、成田氏長など
佐竹の通字では船尾義綱などが貰っている
共通して言えるのは係争地にあって格下の同盟者に与えているという事だ
というか関東東北においては所謂包括的な洞の関係があり
相馬は初めは伊達、次いで葦名、そして佐竹の洞中にあったから一字を受ける事はおかしくはない 奥州石川って弱小なのに代々将軍から偏諱を受けてるよな 石川昭光は佐竹義昭からだと勘違いしてたわ
義昭死んだときまだ昭光養子入りしてねぇや
石川家も直接支援難しい遠国の伊達からじゃなくて
葦名か佐竹から養子迎えてどちらかの洞中に組み込まれてたら
南陸奥の戦国史も多少違った形になって
相馬家にも影響したのかな? が、すべてを把握できてないかもしれない。
把握できてないものは、相手がまことではないと考えるべきで、
あるいは、忘れているのかもしれない。
なにしろ、まことは50代である。 >>246
ひろゆきの2ちゃんに書くとこっちで見れないのね
以下、考察用
大永4(1524)年、17歳になった相馬顕胤は岩城領に攻め入る。顕胤と重隆の間に伊達晴宗の妻
に重隆の娘・久保姫を斡旋する約定があったが、重隆が突如、白河義顕に嫁がせようとしたことから
軍事衝突に発展したらしい。(千葉氏の一族)
このとき伊達晴宗は5歳前後。
『塔寺八幡宮長帳裏書』天文3年(1534年)条には、蘆名盛舜が伊達稙宗に同心し、二階堂氏と共に
結城領の白河郡新城に出馬した。(wikipedia)
このとき伊達晴宗は15歳前後。
天文10年(1541年)頃に久保姫が伊達晴宗の正室となる。
このとき伊達晴宗は20歳前後。
天文10年(1541年)伊達稙宗幽閉事件。懸田義宗、伊達晴宗に幽閉された稙宗を相馬家臣草野直清の
親類である草野肥前と共に盗み出して懸田城に匿う。伊達晴宗、相馬顕胤いずれも軍勢を出すが、晴
宗は相馬氏の軍勢を見ると懸田城に攻め込んだため籠城戦となる。顕胤は近くの山に布陣し、状況を
見ながら懸田城と晴宗の両者に使者を送り、何度も晴宗の非行を諭そうと試みた。稙宗を伊達郡越河
の屋形に移すことで事態は収まったが、このとき伊達稙宗の提案で稙宗次女を懸田俊宗の後室(先年
に奥を亡くしている)に、懸田義宗の提案で義宗娘を孫次郎(相馬盛胤)の正室にと約束し三者は杯
を交わした。稙宗は晴宗の非協力を嘆いたという(『奥相茶話記』wikipedia)。
天文11年(1542年)6月、伊達晴宗による稙宗幽閉事件が(奥相茶話記説をとれば再び)起きる。
天文12年(1543年)ごろ 元服にふさわしいだろう年齢 盛胤14歳。
天文17年(1548年)天文の乱終結、義胤が生まれる。 >>237
伊達輝宗は蘆名盛氏と少なくとも1回は戦ってるのが史実。
独眼竜政宗もそうだけど山岡宗八の小説を基本にした物語にはまったく書かれていない。 今年の相馬野馬追を見に行ってくる
お前ら感想を聞きたければ俺の家来になれ 見に行くだけ?
出陣しないの?
宇多郷のリナちゃんに手を出すなよ >>253
いつのまに伊達家から偏諱受けてんだよ
山岡「荘」八だろ つか、なんで伊達家って、伊達騒動のときに、石高へらされなかったんかね?他の大名だと取り潰しとかでしょ? 藩主綱村は若年につきお咎めなしとされ、後見役の伊達宗勝が代わりに改易、土佐藩に
お預けとなった。 >>259
なるほど、教えていただきありがとうございますm(__)m 相馬野馬追祭り見てきた
相馬もののふの勇猛さと魂を垣間見れて感動した
みんなも来年は見に来いよ 奥州相馬氏の城・館
◇宇多郷【相馬市】
・中村城(相馬隆胤)
・黒木城(門馬貞経)
・熊野堂城
・鬼越館
・蓑首城(泉田甲斐)
・駒ヶ嶺城(藤崎久長)
◇北郷【南相馬市 鹿島区】
・田中城(相馬郷胤)
・江垂中館(佐藤好信)
◇中之郷【南相馬市 原町区】
・太田城
・牛越城
・明神館(岡田胤末)
◇小高郷【南相馬市 小高区】
・小高城(相馬義胤)
・村上城
・岡田館(岡田氏)
◇標葉郷【浪江町・双葉町・大熊町】
・権現堂城(岡田将監)
・請戸城
・泉田城
・新山城
◇草野郷【飯舘村】
・草野館
・小屋林館 小高小学校の校歌の作者が さとう宗幸だったような、誰か覚えてないかな?確認取れない? ちょっと分かんないなぁ
週末に小高へボランティア行けば?
地元の人が教えてくれるかもよ >>250
伊達は奥州統一戦で、負けていたかも知れん。
でも、相馬にはあんまり影響なく変化無しだったとおもう。
九曜紋の御家柄、曾祖母を持ち
伊達藩一門家中の子孫の勝手な妄想だがなぁ。 >>222
「顕」の字は そのころ全盛期だった白河結城家、結城家あたりが関係してるんじゃないかな。
その結城氏の勢力に北から圧力を加えていったのが、伊達稙宗。 相馬の先祖は、相馬小次郎こと平将門、伊達の先祖は藤原藤太秀郷という説があるが、
それが事実なら、因縁というか、先祖の時代から相争っていたワケか。 秀郷とは系譜が違うな
秀郷は藤原魚名の四男の子孫
伊達は藤原魚名の次男の子孫 >>266
結城と相馬は宇多郡を巡っての争いがあったからどうかね 義胤の鎧の兜飾りって、毘沙門天の像の背中の飾りと同じなんだ
それで毘沙門具足っていうんだろうね 初めて気づいた >>263
作者は誰か知らないし、何番だったか忘れたけど 歌詞だけ覚えてます
小高小学校校歌
歴史は 長く 紅梅の
その名に 残る 城跡の
桜の 花の 明るさは
小高の 里の 人心
我らは ここに 育ちゆく
たのしい たのしい
小高小学校
震災のあった年から小高区は住むことはできず、
夜間はまだ閉鎖された状態が続けています。
小高小学校から育ち行く子はいませんね。悲しいですね 藤葉栄衰記によると天正6年3月に権現堂(浪江町)で相馬と岩城・二階堂が戦ったそうだが本当なの?
夜ノ森を突破され大熊町・双葉町・浪江町まで敵の北上を許したなら大変な劣勢を強いられた事になる
まして伊達・亘理と伊具郡・宇多郡で交戦中だ
南北二方面での戦いを強いられ、当主になったばかりの義胤は大変だったろう 伊達輝宗って相馬盛胤に劣勢で伊具郡の大半取られた上、本領の伊達郡まで攻め込まれてるな
輝宗って弱かったんだな
蘆名や岩城の助勢ないと何も出来ないんだな wikipediaを見てるだけでも
矛盾を感じる描写がポロポロ見つかり疑問を感じています。
たとえば秀吉による伊達家VS相馬家への裁定
>6月5日、政宗は小田原に到着。秀吉から出羽・奥州の仕置を任された。
>片倉景綱は相馬氏について政宗留守中の戦闘(小豆畑の戦い)を言語道断とし、相馬討伐の許しを得ていた
>(天正十八年六月十四日 片倉景綱書状「原町市史中世編年史料」)。小田原より帰還した政宗は相馬攻めを計画した(天正十八年六月廿六日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。
>7月5日、北条氏政が豊臣政権に降伏。7月7日、政宗は大里城(岩瀬郡天栄村)に拠る矢田野氏の抵抗が未だ収まらなかったため、
>そちらに全勢力を傾け相馬攻めを延期した(天正十八年七月七日 伊達政宗書状「原町市史中世編年史料」)。
>7月26日、小田原征伐を終え奥州仕置に向かった豊臣秀吉は宇都宮に到着。
>義胤は三郡の本領を安堵された[13]。
無茶苦茶じゃないですか?
6月に相馬討伐許可を出しておいて、
伊達家が他のことに忙殺されて着手出来ずに居たら
許可から1ヵ月後に相馬家に安堵を出す。
秀吉が狂ってるのか資料がおかしいのかどっちなんでしょうか? 惣無事令についてはまだあります
1587年には佐竹と相馬に惣無事令が届く
佐竹は伊達家と蘆名家の和睦周旋を命じられる
↓
伊達家は無視して戦争行為を続ける(相馬もw)
↓
1589年、秀吉に近しかった蘆名家を伊達家が滅ぼしちゃう
↓
その1ヵ月後に秀吉から上杉家佐竹家に政宗討伐令が下る
相馬家も伊達家に抗戦する(が、肥大化した伊達勢力に劣勢)
↓
1590年、相馬家小田原参陣、伊達家小田原参陣
↓
その際に伊達家の小十郎が「相馬が惣無事令無視しましたよー」と告発
↓
秀吉「なにけしからん、相馬を成敗していいぞ」
↓
(1ヶ月経過)
↓
秀吉「義胤くんの領土を安堵します」
どこから突っ込んでいいかわからないぐらいへんてこです
秀吉が相当いい加減に朝令暮改してたと考えるしかないんでしょうか?
相馬家的には「関白に逆らう政宗討伐」という名分があったはずなのにいつの間にか消え、
伊達家敵には「ルール違反した相馬家討伐」の許可があったはずなのにいつの間にか消え… 秀吉はそういう人です。政宗が小田原への参陣が遅れたことは死に値すると白装束と
磔柱でパフォーマンスするとこれを許します。それで伊達家への討伐令は取り消しです。
相馬の場合も詳しい事はわかりませんが、秀吉個人が許せばそれで討伐令は取り消しなのです。 相馬と伊達の50年戦争
@天文の乱:で胤宗に味方した顕胤が晴宗と激突
A胤宗隠居領争い:伊具郡の戦いで当初は亘理が盛胤に味方し、盛胤が優勢、伊達郡にも攻め込む
B亘理が伊達に寝返って、形勢が互角になった
C田村が伊達と縁組みして伊達が優勢になり
D畠山が滅ぼされ 惣無事令とは言っても
秀吉の解釈・気分次第で割りとどうにでもなるから
政宗も相馬も運が良かったんだろ 相馬と伊達って南北朝の時から戦ってたんだな
相馬は斯波家長に従い北朝方、伊達は北畠顕家に従い南朝方
ほんと仲悪いんだな 亘理なんて同じ千葉常胤の子孫で共同歩調だったのに晴宗時代ぐらいから裏切る裏切る 相馬氏は奥州五郡一揆収束後の1440年頃滅亡の危機だったようだ
当主相馬高胤は宿敵の標葉郡権現堂城主・標葉清隆と寝返った行方郡牛越城主・牛越定綱に挟撃されて苦戦している
標葉清隆は相馬氏を滅ぼすため本拠を請戸城から権現堂城(小高城まで僅か5km)に移転し攻勢に出ている
当時の書状が残っていれば有り難いのだが 相馬盛胤は北は名取郡座流川、南は常陸国孫沢ま、西は伊達郡小島まで進出してたのか
伊達や佐竹を敵に回して一歩も引かなかったんだな 東はアメリカまで
インディアンを相手にして一歩もひかなかった 馬の差でアパッチ
白兵戦に持ち込めば相馬兵か
三船敏郎の侍映画「レッドサン」ではアパッチがやられてたなw 相馬と伊達は
アパッチ族と騎兵隊の戦いみたいなものか。 確かにここのスレは保守的だ。
浪江の旧家で発見された文書の一端を紹介したら消された。
不明な事柄は無視される。これでは相双の歴史は期待できない。 アパッチ族(というかインディアン全般)て
映画のせいで馬とセットみたいに扱われてるけど
彼等が馬に乗るようになったのって西洋人に侵略されてからよ
そこから滅ぼされるまでにそれほど馬術や騎馬襲撃戦法の積み上げがあったとは思えない
映画でやたら馬に乗ってるのは騎馬突撃してくるインディアンを白人が打ち倒す映像が勇壮になるからだけど
インディアンだって馬鹿じゃないんだからそんな撃たれまくるとこで騎馬突撃なんかするかw
伊達と戦ってた時代の相馬家は騎馬と鉄砲隊をどう組み合わせて使ってたのかなあ 江戸時代の相馬氏の投手の名前って
DQNネームのさきがけじゃないけど、よそであんまり見ない字を使ってるひとが多いね そうお?
改めて見てみたけど当時として珍しい字なんかないように思える DQNネームというか、それまでにないような変な字や形式の名前っていうのは
いつの時代も町民階層では現れてるんだけど
藩主家にはあんまりないよね
偉い人から字を分けてもらったり考えてもらったりする外交ツールなんだから
新奇なDQN文字なんか使ってる余裕ないしさ 江戸時代だと
将軍など高貴な人と諱被らないために
わざと難解な文字を名前に使ったりすることがあったと
何処かで見たことがある 【清水】 国民を大量に被爆病&被爆死させ、血税から20億円チューして雲隠れwww 【勝俣】
事故に直接責任のある清水・勝俣に20億円を支払い、東電社員の給与を15%上げたから不足したので税金で支援してほしい
https://twitter.com/tok aiama/status/760578933427359744
コンビニでレジ待ちしていて前の高校生
「期末テストの社会で「原発は賛成か反対か意見を書け」ってあったんだよ。だから俺、「反対」って書いたらバツで返された。意見書けってのにバツっておかしくねえ?」
https://twitter.com/guchirubakari/status/759515386014334976
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312
名無し 食べて応援で人が何人死んだみたいな無茶苦茶なこと、福島県の人に対してよく言えるな…。見苦しい。
https://twitter.com/tok aiama/status/720726309240836097
千葉麗子 「科学的根拠も示さず福島には住めないなどと風評被害をまき散らしている」
奥田知志 「薄い放射能〜大丈夫だっぺ〜食べて応援」 NPO法人抱樸理事長 SEALDs奥田愛基氏の父親
青山繁晴 「放射線障害で、つまりいわゆる放射能にやられたって意味では、亡くなった方はもちろんゼロで、治療を受けた人も、1人もいないんですよ。ね。
副島隆彦 「ホテル 放射能」を建設しよう。また、愚かな「放射能コワイ、コワイ」派の敵どもが、ギャーギャー騒ぐでしょう。 福島では、誰も死なない。[1792]
リチャード輿水 「なぜ、福島が安全なのか、10月11日(日)のRK佐久講演を聞けば、全部、わかるよ。」
ベンジャミンF フクシマが大変だ大変だって、あれはもうプロパガンダ、嘘八百なにもない。26分40秒〜
https://www.youtube.com/watch?v=KRd6O5bwN9M 原発事故に苦しむ福島県の相双地方を復興させるため、当地を支配した相馬義胤スレを盛り上げなければ
皆さん、相馬義胤について知りたい事あれば何でも言ってください!
父の相馬盛胤、祖父の相馬顕胤についてでもいいですよ! 相馬氏自体はそれなりに有名だけど
それぞれどんな人物なのかまではあまり知られてない。
各当主の特徴とかアピールポイントは? 相馬は太平洋のある東を除いて北・北西・南西・南に敵を抱えていた
すなわち北の亘理、北西の伊達、南西の田村、南の岩城
田村とは婚姻関係を通じて長く盟友の間柄だったが、田村合戦で田村が伊達の支配下に入ると敵に転じた 福島第一原発事故のおセンチって相馬領なんだよな
涙出てくる >>1
東北の戦国時代...伊達ですら盛り上がらないのに。 原発事故の最大の被災地は伊達領でなく相馬領
相馬義胤スレ盛り上げて復興支援しよう お前らもう少し相馬氏に関心持てよ
東北で最も昔から続いてる氏族なんだぞ 震災後に沢山の芸能人やリポーター、代議士達が来たけど
震災前に相馬に来たことある奴はほぼゼロに近い。
都内で震災直後の写真を見せて話してもウワの空でどこかの出来事て感じ。
ボランティアに来てくれた人たちの中には、参加によって会社での評価が上がるとか
高校生は大学受験で自己推薦の出願で評価を受けられるとか云々
これが現実。 野馬追祭りには行列帳に基づいた厳格な順列があると眺めていたが
大半の武士が兜を付けた府下給人ばかりになっていた。
身分の違いまでは厳格にはいかないようです。 野馬追は観光用のイベントだからね。
騎馬武者がいればそれでいいのw
詳しいことなんぞ 誰も知らねえしw 長い歴史のある相馬
でも、伊達や会津に比べると圧倒的に史料が少ない。
学芸員や研究者が暇そうだし、新史料があると聞くと
飛びつくもんねw 会津の民間研究者の方が語ってましたが
大河ドラマで注目されたおかげで、全国から歴史資料が集まったそうです。
相馬の資料も全国に散逸していて、ドラマなどで注目されれば集まりそうですよ。
震災ではなくて歴史的に注目されなければ駄目ですね。 相馬研究で有名なのって
岡田清一氏ぐらいしか知らんな >>317
史料は少ないと思うよ。
従弟の家系は家老職になって、明治に土着したのだが
昭和の中頃に土蔵を整理した時に古文書が沢山出てきたが読めないので焼いた。
高札も何本かあったがこれも不明で風呂の薪にしたらしい。
他にもいろいろとあったらしいが始末したんだと。
どの家もそうだと思うが、先祖のことなどに興味持つ子孫は100年にひとりらしいから無理もないわなw
こうやって史料は抹消されてゆくんだな。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪ また相馬野馬追の季節が来た。見に行きたいが金がない。無念 >>278
ここだけ見ると相馬も伊達に対抗出来る30万石クラスの大名でないとおかしいんだけど、
せいぜい伊達の十分の一ぐらいなのはどういうことなんだろ? 国の規模は関係ないのよ。
伊達の戦が下手だったのと相馬の傭兵たちのゲリラ戦が巧みだっただけ。 >>320
おふくろの実家には刀が沢山あって、それで薪割りしてたって、駄目になったら捨てたと。残った刀や槍は近所の士族だ!の通報でGHQが持ち去ったて聞いたよ。 ここのスレは相馬の正史?から外れるような事を言うと
すぐに削除されるから誰も意見を言わなくなった。 標葉領〜相馬領だった双葉町の避難指示区域解除へ
双葉町にも新山城とか城跡あるし行きたいな スレぜんぜん盛り上がらんな
オレのパンツは盛り上がってるのに 相馬の家老には岡部元信の子孫がいる。志賀直哉の先祖もいる。家中には中野宗時の子孫もいる。凄いだろ? 山が多く、平野が少ない日本で騎馬武者がホントにいたのかなあ? 木曽馬みたいに、頑丈で足腰が強く、山の斜面を歩くのが上手いのが
日本の馬なんじゃないの? 岡部とか志賀とか中野とか
農高のクラスにみんないたぞ
あれみんな子孫なんかな 極めて少ないのが馬洗(マアライ)と糞溜(クタメ)。 >>338
糞溜なんて苗字あるの?
俺のクラスには鼠屋(ねずみや)って人いて可哀相だった
広島出身だったけど >>>333
志賀直哉の先祖がいるって そいつ何歳なんだよ 相馬家の子孫がクラスにいたらどう呼ぶの?
先生は相馬様と呼ぶんかな >>327
これはありますよ。
特に郷土研究会では根強いですね。 博物館の学芸員は暇だろな
ここ何も無いからさ
博物館は受付だけでいいよ 人件費節約ね 以前雲雀が原祭場地の裏山にある博物館行ったなぁ
案内係の年配の男性が親切丁寧に南相馬の歴史を教えてくれた
今もお元気なんだろうか
当時は博物館前の線量計の数値がまだ高かった 相馬史に興味ある人は多いけど研究してる人は極めて少ない。 維新まで国替えなし、という大名は少ないからな。
九州の島津や伊東や大村
東北だと南部くらい? 戦国時代から幕末なら
津軽、大関、鍋島龍造寺、相良、宗、五島
伊東みたいに復帰ありなら諏訪や立花も >>358
津軽家は元々南部家の一族だったが、反乱し独立。
東北だと国替えなしは南部家のみでしょ。
鎌倉期に源頼朝から現在の青森県八戸市周辺を拝命し、山梨県からやってきた。
九戸政実の乱の後に、隣接する仙台藩伊達政宗への警戒のため盛岡へ本拠地を移す。
以降明治維新まで南部家は盛岡藩と八戸藩に分かれて存続。 >>360
津軽は国替えしていない。一度されそうになった事はあるが。
津軽の藩祖 大浦為信(後の津軽為信)は南部氏の庶流。1571年に現在の青森県弘前市
辺りにいた大浦為信が突如として南部家に対し反旗を翻し、津軽地方(現在の青森県
西側)の南部氏支城を次々に攻略、津軽全域を切り取り独立した。 相馬は一度だけ関東地方に国替えさせられそうになった。 博物館の学芸員の方ですね。
暇なんでここに発言の場を見出したのですね。 >>364
そのときに国替えしておけば震災で助かった人が多かった。 父ちゃんが偉かったのでは無く
その家臣が優秀で偉かったのです 大穴の逸話が本当なら改易免れたのは本多忠勝のおかげじゃないの? 戦場で戦う政宗の姿を見た相馬の武士はいないだろう
相馬勢は義胤を頭に笠懸の突撃をしたのに政宗は柵の奥で控えてる
だから、相馬勢に弱虫とか臆病とか散々言われてたな そんな記録があったな 相馬の殿様の名前は読みづらいんだから
ただでさえマイナー大名なんだから 読めなかったらどうしようもないべよ