相馬義胤〜伊達政宗に対抗した奥州屈指の戦国大名〜
〜相馬義胤の主な戦歴〜
永禄06年(1563年)【貝殻坂の戦い】・・・・相馬義胤○-●草野直清・青田顕治
永禄07年(1564年)【北目の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●粟野宗国
永禄09年(1566年)【小斎城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄09年(1566年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
永禄11年(1568年)【小島の戦い】・・・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
元亀元年(1570年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達軍
天正03年(1575年)【座流川の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍
天正04年(1576年)【駒峰城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達輝宗
天正04年(1576年)【冥加山の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正04年(1576年)【坂本城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正06年(1578年)【権現堂の戦い】・・・・相馬義胤△-△岩城常隆
天正09年(1581年)【子深田の戦い】・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗
天正09年(1581年)【矢野目の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正09年(1581年)【谷地の戦い】・・・・・・相馬義胤○-●伊達輝宗・政宗
天正10年(1582年)【金津城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正11年(1583年)【丸森城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正12年(1584年)【金山城の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達輝宗・政宗
天正16年(1588年)【三春城の戦い】・・・・相馬義胤●-○田村月斎
天正16年(1588年)【宇都志の戦い】・・・・相馬義胤●-○伊達軍・田村軍
天正17年(1589年)【常葉城の戦い】・・・・相馬義胤○-●田村軍
天正17年(1589年)【鳥の海の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正17年(1589年)【坂本犀鼻の戦い】・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【大沢の戦い】・・・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
天正18年(1590年)【蓑首城の戦い】・・・・相馬義胤△-△伊達軍
天正18年(1590年)【小豆畑の戦い】・・・・相馬隆胤●-○伊達軍
相馬義胤(そうま よしたね)は陸奥相馬氏第16代当主で小高城城主。
武勇に優れ義侠に富み、父・盛胤と共に伊達輝宗・政宗父子の宿敵として知られる。
相馬氏と伊達氏は親戚でありながら長年にわたって敵対関係にあり、
天文の乱・伊達稙宗隠居領争い・田村清顕後継争い等で激しく戦った。
義胤の領地(陸奥国行方郡・宇多郡・標葉郡)は現在の福島県相馬郡(南相馬市・相馬市・新地町・飯舘村)
および双葉郡の一部(浪江町・双葉町・大熊町・葛尾村)に当たる。
この浜通り北部一帯は東日本大震災では地震・津波・原発事故により大きな被害を受けたが、
相馬武士の子孫達は逞しく復興を進めている。
また義胤も行った平将門以来の軍事訓練でもある相馬野馬追(そうま のまおい)は、
今も伝統の祭りとして毎年行われている。 標葉領〜相馬領だった双葉町の避難指示区域解除へ
双葉町にも新山城とか城跡あるし行きたいな スレぜんぜん盛り上がらんな
オレのパンツは盛り上がってるのに 相馬の家老には岡部元信の子孫がいる。志賀直哉の先祖もいる。家中には中野宗時の子孫もいる。凄いだろ? 山が多く、平野が少ない日本で騎馬武者がホントにいたのかなあ? 木曽馬みたいに、頑丈で足腰が強く、山の斜面を歩くのが上手いのが
日本の馬なんじゃないの? 岡部とか志賀とか中野とか
農高のクラスにみんないたぞ
あれみんな子孫なんかな 極めて少ないのが馬洗(マアライ)と糞溜(クタメ)。 >>338
糞溜なんて苗字あるの?
俺のクラスには鼠屋(ねずみや)って人いて可哀相だった
広島出身だったけど >>>333
志賀直哉の先祖がいるって そいつ何歳なんだよ 相馬家の子孫がクラスにいたらどう呼ぶの?
先生は相馬様と呼ぶんかな >>327
これはありますよ。
特に郷土研究会では根強いですね。 博物館の学芸員は暇だろな
ここ何も無いからさ
博物館は受付だけでいいよ 人件費節約ね 以前雲雀が原祭場地の裏山にある博物館行ったなぁ
案内係の年配の男性が親切丁寧に南相馬の歴史を教えてくれた
今もお元気なんだろうか
当時は博物館前の線量計の数値がまだ高かった 相馬史に興味ある人は多いけど研究してる人は極めて少ない。 維新まで国替えなし、という大名は少ないからな。
九州の島津や伊東や大村
東北だと南部くらい? 戦国時代から幕末なら
津軽、大関、鍋島龍造寺、相良、宗、五島
伊東みたいに復帰ありなら諏訪や立花も >>358
津軽家は元々南部家の一族だったが、反乱し独立。
東北だと国替えなしは南部家のみでしょ。
鎌倉期に源頼朝から現在の青森県八戸市周辺を拝命し、山梨県からやってきた。
九戸政実の乱の後に、隣接する仙台藩伊達政宗への警戒のため盛岡へ本拠地を移す。
以降明治維新まで南部家は盛岡藩と八戸藩に分かれて存続。 >>360
津軽は国替えしていない。一度されそうになった事はあるが。
津軽の藩祖 大浦為信(後の津軽為信)は南部氏の庶流。1571年に現在の青森県弘前市
辺りにいた大浦為信が突如として南部家に対し反旗を翻し、津軽地方(現在の青森県
西側)の南部氏支城を次々に攻略、津軽全域を切り取り独立した。 相馬は一度だけ関東地方に国替えさせられそうになった。 博物館の学芸員の方ですね。
暇なんでここに発言の場を見出したのですね。 >>364
そのときに国替えしておけば震災で助かった人が多かった。 父ちゃんが偉かったのでは無く
その家臣が優秀で偉かったのです 大穴の逸話が本当なら改易免れたのは本多忠勝のおかげじゃないの? 戦場で戦う政宗の姿を見た相馬の武士はいないだろう
相馬勢は義胤を頭に笠懸の突撃をしたのに政宗は柵の奥で控えてる
だから、相馬勢に弱虫とか臆病とか散々言われてたな そんな記録があったな 相馬の殿様の名前は読みづらいんだから
ただでさえマイナー大名なんだから 読めなかったらどうしようもないべよ