【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
聞いたことあるなあ。土岐氏で1450年頃に大金にかえたと。坂本龍馬なんかも遠縁になるそうな。
1560年頃に佐竹氏の助っ人として突如として那須地方に現れたり。 流れ者と言えば下野にも如水と同族の黒田氏がいるみたいだな >>620
それは嘘だな
下野の大金氏は那須の大金村の発祥であり承久記には既に登場している
つまり少なくとも鎌倉時代には大金氏として存在していた 馬頭町史によれば、那須記を著した大金重貞の系譜として土岐氏→金山貞房→金山貞徳→( )→大金重宣(1566年下野国那須郡小口村に移る)となる。
南那須の大金さんは、別系統ではありませんか。苗字が同じでも全員が同族とは限らないでしょう。 那須近辺は同族と考えるのが自然かと
全国でも那須近辺にのみ集中している訳だけど
いくつも系統があってたまたま那須にみんな移住してきたなんて事は絶対に有り得ないでしょう
西日本などにも極僅かに存在しているから別系統が全く無い訳ではないだろうけど
土岐氏云々は大金重貞の家系だけだと考えるべきかと 宇都宮氏は一時期美濃守護だったから、美濃と下野は交流がある。
有名なのは氏家氏とか。 武茂(宇都宮)泰藤の室は、土岐頼直の娘である徳子。
その縁で泰藤は、上和田城(愛知県岡崎市上和田町)を築くことになった。 >>626
氏家氏の嫡流は断絶したんだよな
断絶後に氏家城は芳賀氏庶流の居城になったし >>626
氏家氏は下野から美濃に直接じゃなく斯波氏の家臣経由してなかったか >>621
へぇ初耳
常陸の多賀谷氏の家臣に播磨赤松氏の一族いたけど、
同じように播磨から流れてきたのかな
南北朝時代の武将とか家って流動的だから
戦国時代になると意外な所に意外な家の末裔が土着してたりするな。 元々支配階級は流動的と言えば流動的だけどね
地生えの武士って殆どいないし >>625
那須の場合は他地方から名家が移住してきたのではなく
国人クラスが婚姻を重ねて地域集団になったんだろうね。
だから、あそこまで小さく纏まった
本姓藤原はたぶん仮冒w
宇都宮は朝綱から藤原氏と縁戚だから、藤原の系統ではあるんだろう
根拠地が欲しい藤原傍流と、血統が欲しい中原のハーフ的な 国造の那須直氏は、廣成や赤龍の存在がはっきりしている。彼らは白河郡の郡司であり白河軍団のトップでもある。
白河軍団の記録は1050年頃まである。従って国造系那須家に藤原氏系の方が、白河軍団が形骸化するころに婿入りされたと私は考えています。 宇都宮興綱が忠綱の息子説の証拠になる資料って何かないかね? 武茂郷ほかは一時、白河結城氏領となる。宇都宮氏の斜陽時代。かっこ悪いな 私怨で宇都宮国綱をパワハラ改易した浅野長政、許すまじ
浅野はえこひいきやワイロ要求で東北の諸大名を苦しめ、伊達政宗には絶縁されたクズ 浅野ってかなり嫌われ者だったみたいだね
一応秀吉の縁戚なのだし、あそこまで必死に権力闘争しなくても良かった気がするけど…
もっとも秀吉って案外、親類だからといって優遇しないからな いや、優遇されてたよ
当初は関東・東北の諸大名の申次役でメイン任されてた
その後、前田利家や蒲生氏郷、徳川家康、石田三成、増田長盛にその役を奪われ、
権威が転落したのは、他人に嫌われる所業のせいなので自業自得だと思われ 長政は、実力で抜擢された他の奉行たちと違う
北政所の縁者として高い地位にいただけの男
秀吉が信長家臣だったころから、長政が武功をあげたとか、蜂須賀・竹中・黒田のように謀略・調略・外交に貢献した話もない
辛うじて、出来のよい息子のおかげで面目を保っていたに過ぎない 浅野長重が宇都宮家に養子入ってたら
歴史も変わって忠臣蔵も無かったんだろうな 浅野長政は酷い奴だw
佐竹氏まで改易しようとしてたんだな
論説 「豊臣期関東における浅野長政」 (PDF)
第一章 浅野長政による取次大名の囲い込み
第一節 滝川一益と東国領主の関係
第二節 浅野長政による宇都宮氏の囲い込み
第二章 浅野長政による囲い込みの弦かい
第一節 浅野長政と佐竹氏の関係
第一節 浅野長政と伊達政宗の関係
https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1847/1/shigaku_49_18_32.pdf 佐竹は宇都宮と兄弟のように親密な関係だし、当初は常陸も浅野が管轄していたようだけど
次第に石田の方に傾いていたから、この際一緒に潰してしまおうと目論んだのだろう 佐竹を改易してたら、誰がそこに入ったんだろうか?
奥州仕置の主担当・蒲生氏郷、関東の申次役・前田利家、上杉景勝のうちの
いずれか2者が陸奥会津と常陸に入り、佐竹を20万石ぐらいでその跡地に
移すって感じなのかな
佐竹は、宇都宮のように領地没収になったのだろうか?
あるいは減封でどこかに飛ばされただろうか?
それとも、秀吉の分断政策により、佐竹宗家のライバルで、宗家とは別に
中央政府に接近していた佐竹義久と佐竹義宣に10万石ずつとかに
なっていたのだろうか? >>649
蒲生が下野と常陸の2国を与えられる予定だったらしいよ
まあ佐竹は改易を何とか逃れられたから結局下野のみになったけど ひどい話だわ
政権の都合や奉行の気持ち次第で簡単に改易とは
宇都宮家なんて
無害で早くから豊臣政権に友好的だったのに 結城の朝勝追い出しと浅野の宇都宮潰しは豊臣にとってもマイナスだったと思うわ
佐竹ー宇都宮ー結城の関係が健在だったら120万石に及ぶ勢力になるし
更に史実通り上杉が会津に移れば、これらの大名家は古くから連携してきた家だから徳川と十分に戦える
彼らが領地を接していては家康もうかうか領国を留守に出来ず、露骨な行動など出来ない
なのに中央の権力闘争でや彼らの関係をズタズタにして連携を取れなくしてしまった事は悔やまれる >>652
それはどうだろ?
彼等が、豊臣家のために徳川と戦ってくれるかどうかは微妙
結城氏は家康の子を養子にしたし、佐竹氏だって関ヶ原の際に隠居の義重や
分家の有力者義久は徳川方に付くよう主張した
上杉氏だって、敢えて徳川と対立しなきゃいけない理由は無い
下手したら、徳川がそれらの外様大名勢力を束ねて、関東に治外法権の
巨大な勢力を形成してしまう可能性もあった
豊臣政権としては、蒲生氏郷や木村吉清などの昔馴染みの大名を北関東や
南奥州に入れて、徳川と伊達・南部らを分断したいと考えるのは自然なことだろう >>653
豊臣家が武家の棟梁としての地位を保持している限り彼らは豊臣家保存の為に行動する
忠誠心というか保守的ゆえに
戦国末期に至っても室町体制の維持を図ってきた様に、中央から大義と名文を得て統治する事を絶対とするのがこの地域の体質と言える
関ヶ原でも佐竹らが身動き取れなかった要因として、どちらから発給されたものが秀頼の命令であるかを判断出来なかったと言う事がある
だから義宣も豊臣家には異心なく、秀頼様の支持に従うという旨をしきりに主張していた
まあ、確かにこれは道理だよね
本来、従うべきは主君において他になく、主君には異心なく仕えていたのに
石田と徳川が勝手な行動をして、それに従わないからといって処罰されるなんて非常に理不尽な話だ 下野の宇都宮と信濃の宇都宮と中津の宇都宮は同族なんすか? 信濃に宇都宮なんているっけ?
下野と中津と伊予はそのまんま親戚だよ >>656
間違いました、信濃は小笠原でした
しかし、下野や中津や伊予は親戚だったんすね。初めて知りました。 今でも大関家の子孫の方は居られるんでしょうか?
自分の遠い先祖が大関氏と関係があるようなので、ちょっと関心がありまして。
去年黒羽の大雄寺に行って代々の藩主のお墓を見てきたんですが、立派なお墓でした。
関係ない話をしてすみません。 大関氏の下野黒羽藩は幕末まで続いたし、当主の大関増勤は子爵にもなってるから
まだどこかに子孫はいる可能性は高い
もっとも大関増勤は、信長家臣の谷衛友の谷家からの養子だから、血筋としてどうなのかは
わからんが 大関氏は、常陸と下野に多い。名字の地は常陸の大関郷だった気がする >>659
大関増勤は他家からの養子だったんですね。
血筋自体は絶えてしまったのかなぁ。
自分も名字が大関で、代々伝わっている話と家系図だけですが、うちの遠い先祖が室町時代に、大関家の女性と結婚したのをきっかけに大関を名乗ったとなっているので、ここのスレを見て興味が湧いて書き込みしました。 大久保彦左衛門などの大久保氏。名字の地は黒羽藩にあった大久保村。
ここから宇都宮氏系の大久保氏は出た。これは本物。結城氏の去状に出てくる八郎在家のことか。この近くに大久保村はあったそうな。
八郎とは那須与一の兄弟の八番目のようだ。
一方で徳川氏側近の大久保氏は偽物。宇都宮氏と関係はない
系図偽装の三河武士 大関さんは東日本を中心に全国におおよそ3500軒、約2万人います
特に茨城、栃木に多い
色々な系統があるようなので全てが黒羽藩大関氏と同族ではないけど、少なくとも茨城栃木の大関家の大半は元々共通の先祖を持つ同族であったと見て間違いないと思います
ちなみに黒羽藩大関氏は先代までさいたま市に在住していました
二千点に及ぶ膨大な大関家の文書を旧黒羽町に寄贈しており、芭蕉の館で常時展示されています
先代は7年前に亡くなられましたが、現在はお子さんが跡を継いでいると思われます >>662
三河の大久保氏は、元々の名乗りは宇都宮氏系の宇津氏
大久保(大窪)氏を称したのは、松平清康・広忠・家康に仕えた宇津忠茂・大久保忠俊親子の
代からに過ぎない
下野の大久保村とは関係ない ちなみに大久保(大窪)姓も、越前の大窪藤五郎に家名を残すために譲られたもので
宇都宮氏系大久保氏に由来するなどと、三河大久保氏は一言も言っていない 宇津氏は、宇都宮氏と関係はありません。
岡崎市の方は、みんなで笑ってますよ。
徳川氏側近の宇津氏が、宇都宮氏に代えた理由は何だったのでしょうか。
太平記で有名な宇都宮泰藤の墓所近くに、大久保氏発祥の石碑もあります。 多くの何点かの大久保氏系図は次のようになっています。
宇都宮泰藤(幼少期に大久保村で遊ぶ)ー泰綱ー泰道ー泰昌ー昌忠ー忠与ー忠茂ー忠俊
泰藤の妻は、土岐頼直女 >>661です。
>>663
色々教えて下さってありがとうございました。 なお、太平記で有名な宇都宮泰藤と武茂泰藤は、同一人物である。 宇都宮という名門のルーツが欲しかったから偽装したのか? その通り。多くの岡崎市民は知っている。恥ずかしいかな馬頭町史も騙されている。
大名の系図は幕府に提出されている。今なら有印公文書偽装同行使にあたる。
小田原藩は遠いけれど、烏山藩は武茂氏の菩提寺から目と鼻の先にある。
供養された痕跡が全くない。関係ないから供養しなくても良いのであろう。 泰藤は越前での敗戦後三河へ落ち延びたんだから大久保氏がその後裔を称すのはおかしくないんじゃないか
実際に後裔であるかどうかは別として 落ち延びたと言っても上和田城を築いている。
大久保村は、泰藤の故郷。だから本物の大久保氏と偽装大久保氏の二通りがある。
本物は、故郷の大久保を名乗っても良いと思う。
それよりも宇都宮氏の領地が水戸藩ではなくて、いつの間にか黒羽藩の領地になったのが疑問である。
白河結城氏から戻された後に水戸藩成立の間に黒羽藩領になったようである。 藤の枝の果てとでも嘯いておけば済むものを
今でもB地区の人程、仮冒するけど昔も怪しい血筋の人は背伸びしたのかね
そして近年、実は貧農の子じゃない木下藤吉郎説とか出てくるし(笑) からと日本に出世の鑑
されば太閤秀吉が
素性を問えば其の昔
国は尾張の中村で
築阿彌彌助といふ猟師
妻は日吉の権現へ
心眼かけて懐胎し
程なく男子を生み落とし
其名を名づけて日吉丸
文化文政期以前のトッチリトン節では、猟師の子になっています。節は全然分かりませんが不思議なことに何処かで聞いたような気もします。 那須資晴は相当な戦上手だとおもうのに某ゲームでは評価すぐる 弓の名手の鮎箇瀬源蔵によって岩城の総大将志賀備中守は絶命した
時ならぬ岩城の志賀が流れ来て那須野の原の露と消えけり 資房
春になれば しが(氷)(志賀)こもとけて
どじょっこだの ふなっこだの
夜が明けたと思うべな
※資房のは、狂歌で宜しいのでしょうか。? 那須資晴は防衛戦では滅法強いけど
自分から攻めると大体敗れてたりして
あまり所領拡大できてないからね 直系かどうかは不明。同族であることは間違いない。
足尾銅山の元権利者だった志賀家は、あっちの方の元家老。
権利者になった経緯は、二宮尊徳の斡旋だという。
二宮尊徳も日本の公害の原点になるとは予想だにしなかったであろう >>678
那須氏の攻勢で思い出したが、先月に武茂城みてきたけど
多少急峻な地形ではあるものの規模は小さく、とても大軍を迎え撃てるような城ではないね
もっとも武茂氏はせいぜい1万石程度の所領しか持っていなかっただろうから
あまり大きな城を作っても人手が足りなくなるだけだが…
それでも完全に飛び地で孤立している武茂氏的には少々心許ない印象を受けた
あれでよく何度も那須氏の攻撃を退けられたなと思う 戦国時代末期に武茂氏は、佐竹方ですから孤立していませんよ。当時ずでに後の保武連(保内郷と武茂郷の連合体)の礎は出来ていたと思う。
武茂郷の大方は、那須与一が源平合戦屋敷の戦いの戦勝祈願で宇都宮の二荒山神社に寄進したもの。
従って那須氏は、武茂郷のために宇都宮氏と正面切って戦う気は起きなかったでしょう。
遥か古代に武茂郷の境明神峠は対蝦夷戦の前線基地になったところです。
ある程度の覇権が取れたところで那須氏は白河方面の国造も担当されたと思われます。西暦500年頃。
なにせ茨城県の大子町は長いこと陸奥国白河郡で、関東になったのは豊臣秀吉の太閤検地の時になります。
堺明神峠は、特徴がないという人がいますけれど、今は隠れてしまった特徴があるのですね。 武茂氏が攻められると
同じ宇都宮一族で佐竹に属する松野氏が援軍送ってたはず
武茂松野はお互い共同で軍事行動起こしたり相互関係近かったと思われる でも佐竹に属したのって天正年間の頃だと思われるし、それまで数百年よく生き延びられたなと
宇都宮佐竹も宇都宮広綱・佐竹義昭以降でこそ蜜月の関係になったものの、それ以前は両家とも極めて険悪であったし
松野氏もせいぜい2〜3千石程度の勢力であったようだが
100や200の兵で逆に那須氏に合戦しかけたり、攻めてきた那須勢に逆襲して資晴を討ち取る寸前まで追い詰めていたりと
この辺りの戦いは数の少ない方が勝つという法則でもあるのだろうか
もっとも、殆どが軍記ネタだから大袈裟に書いてあるのは間違いない
現実には双方睨み合って、数人負傷者が出たら兵を引くといった小競り合いだったと見るのが自然だな 13世紀 那須氏等から寄進されたばかり
14世紀 南北朝時代
15世紀頃 武茂郷は白河結城氏に譲渡されていた。常陸は山入氏の時代。
武茂氏と佐竹氏の直接対決はかなり少なかったと思います。 佐竹が一揆を克服して本腰を入れ始めたらすぐに従属せざるを得なくなったし
那須は終始家中の対立に悩まされて殆ど外征する余裕がなかった
状況的に恵まれていたと言うのはあるだろうね
しかし、武茂氏は自立性が高く宇都宮宗家とも不仲であった時期も多々あったがそれでも宇都宮一門である訳だし
佐竹が武茂氏を従属吸収した事について宇都宮と問題になる事はなかったのだろうか 15世紀後半に武茂六郎が宇都宮本家に叛乱起こしたけど鎮圧されて
その後宇都宮成綱によって兄弟の兼綱が送り込まれたけど佐竹に従属するまでどういう立場だったんだろうか
1516年に武茂郷で宇都宮と佐竹が戦った時は兄弟の縁から宇都宮に協力したのかな?
松野に関しては宇都宮等綱からの宛行状が残っているから少なくとも15世紀中頃は宇都宮に従属していた 道景(宇都宮等綱)去状 白河氏宛
上杉奥州跡塩谷三カ郷ならび武茂12郷事===
結城直あ寄進状 近津神社宛
下野国茂武大山田村
や八郎在家
武茂郷他は、永享11年(1439)から明応9年(1500)頃まで白河結城氏の所領です。
松野郷は別だということになりますと、余りにも孤立的です。
八郎在家とは、かつて那須八郎が住んでいた館跡だと思います。この付近がが宇都宮泰藤の故郷です。 ということは1510年に白河結城家が内訌を起こして衰退するまで武茂家は武茂郷にいなかったってことか? 一方で、白河結氏の1門の誰かが武茂郷にいたという話も聞きません。
それ以前に武茂氏が宇都宮氏宗家を継いだら、それを気に入らないと思った塩谷氏が不意打ちで殺害しているでしょう。
その為に武茂氏の断絶は、確実にあると思います。 武茂郷は等綱から白川結城氏に割譲されたようだけど、当時等綱は宇都宮家当主としての権力は無かったし
名目だけで実際は結城氏に渡っていなかった可能性はある
ただ、当時は隣接する依上保は白川結城氏の領地であったから支配する事は難しくなかったはず
1504年に至り、山入一揆を克服した佐竹氏が依上保を奪還したため武茂郷は孤立する事になる
それで放棄された可能性もあるだろう >>691
その時期に宇都宮成綱が兄弟の兼綱に武茂家を継がせて再興させたってことか
内訌を克服した佐竹に対する備えみたいな感じで
>>690
15世紀後半に宇都宮宗家に対して叛乱を起こした武茂六郎って人物で一度断絶した可能性があるね。あの時期の武茂家の動向ってよくわからないし 壬生氏が興ったのは1462年だそうですが、それ以前に壬生氏が治めていた領域を抑えていたのは小山氏でしょうか?それとも宇都宮氏でしょうか? 北部は宇都宮、南部は小山、西部は佐野の支配であった模様 壬生氏が京からやってきた名門壬生家説の胡散臭さは異常
江田郁夫 氏が唱えてる壬生氏は宇都宮一門説の方が納得できる
第一1462年といったら享徳の乱真っ只中で室町幕府と古河公方の仲は最悪で小山持政時代の小山氏は古河公方足利勢力の筆頭勢力でその影響力、軍事力は関東管領上杉氏に匹敵するほど
仮に壬生近辺が小山領だとしたら
当時の緊迫した情勢を考えると公方が最も頼りにしている小山氏の勢力を削いでまで壬生氏に領土を与える必要性も余裕もない >>694
鹿沼に鹿沼姓の小豪族がいなかったっけ? >>693
皆川領同様古河公方が直接支配してた領地じゃなかったっけ 代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道春文教授立会人そていFX博奕「ニューヨーク砂漠ソルトレイク」センター50代野村光金きぎょうむしゅっちょおしょくじけん
https://www.youtube.com/watch?v=jET485MS1Vw宇ドナルド)マック張内戦中華
40代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道春文教授ディズニーちゃくふく春分解雇FXさんどりしゅっちょう[ヘルシアノートン緑茶]
https://www.youtube.com/watch?v=oMbYLIPZQ6c寸止講演会自主責任
40代やらせ会員権収集がかり40代ニュース報道巨樹グルテンそてい十代FXセーブデータ遠隔消去KAR-Dローン(シュッ)しょうきょ家賃滞納決算20代かふぇまなー銀行光金動画蓄物牧場
電力自由化上野坂個人ニュー酢駅員サービス不足ホテルバイトワインパワーストーンギャンブル
マンハッタンタイ無料モニターパリ横浜人事部新橋飲酒運転チャイナタウン共済義援金とうせん★大阪人横抜き★ライブマネー
適正価格詐欺のうぜいカタールラスベガススーダンサンパウロチャイナタウンブックオフル流経営費福祉沖縄中華旅行絶句ロス九月決算ディレクタークビ30代不正労働ビザ
遊園地たかが監督(しん原宿あっせん安保上納金決算ドーピングニュース)井野頭3月経歴査定
虎の門20代無許可監督者保証医者横浜ポセイドンニュース外国人足立区情報(ブフランス西村ドナルドソフトバンク仏師アドバイザー退会処分NYダウ9月振高値ビジネス)
ヘルスケアミラン売却40代お手柄カジノプランナー警部補気象制御芸能デスクGMドカシ 武茂の系譜関係はちょっと整理する必要があるだろうな 武茂・宇都宮・塩谷の三兄弟周辺はあれをそのまま信用してる研究者のアタマを疑う 喜連川合戦の五月女坂って、氏家側から進むと峠を登り始めたような所なんだな
宇都宮尚綱はあんな所で無理押しして戦死したのか・・・? ちょうど五月女の所から山地に入るんだよな
迎撃するにはもってこいの所だけど、宇都宮方は数に恃んで力押ししようとしたのだろうか ∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
(| |)
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。 来るべき株式市場の崩壊は必然的に多くの失業者を出すでしょう。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤは何百万の人々に話しかけることのできるようなやり方で、まずアメリカに現れるのです。それから日本です。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
竹下雅敏 「どうも日本人のレベルの低さというのは、ドイツはUFOテクノロジーを完成させていたのに、日本は戦艦大和で喜んでいたという感じなのです。」 千本城に行ってきた
那須七騎の中でもマイナーな家だが、城は意外と大きく縄張りもなかなかの城だったよ
那須七家の中では黒羽城とこの千本城が気に入ったわ
大手から左にも道があって、そこを登っていくとちょうど主郭の真横に同程度の標高を持った高台に出る
出城というか砦というか何かしらの防衛施設があった事は間違いないだろう
ここは頂上の樹木が切り払ってあり展望台のようになっていて見晴らしがとても良い
そこから眺めていると在りし日の千本城に思いを馳せる事が出来た 千本城は最後には、茂木氏に渡ったような。
あの辺は近くに茂木城、千本城、飯村城があって面白いですね。 今日で宇都宮成綱が没してから500年の年が終わるのか 宇都宮家って常陸国にも版図があるのに信長の野望等のゲームだとなかったことにされているよね >>719
書籍の地図でもそういうのあるな
まぁ笠間はやりたい放題だったからな