【宇都宮・那須】 下野の戦国大名2 【小山・佐野】
佐野は単独スレあるじゃん。過疎ってるけど。
足利は長尾スレ、将軍家スレどっちもある。 那須氏が那須与一の子孫というのはやはり伝説にすぎなかったか 非実在というよりも、平家物語ぐらいにしか出てこないのはおかしい、という程度では >>6
両毛と言えば由良
伊勢原と館林と足利も謙信から貰ってるし。
皆川の場所って
あそこは両毛じゃなくね?
あと鹿沼なんかも両毛じゃないよね。 >>11
足利長尾氏と由良氏がごっちゃになってる。 >>17
縁談を謙信が纏めたという話は何を元に?
あと館林城は広田氏に渡されてるのでは? 永禄13年2月に謙信が足利長尾から接収した
館林を広田に宛がってるよ。 長尾政長って越相同盟締結の直後に死んでたんだね。
しかも謙信に嫌われてた? 増山さんや津軽さんから養子も入れてましたが、結局大名の座から転落したのは気の毒としか言いようがありません >>21
軍事とか内政はそこそこ頑張っていたが、中央政権の応接がまずかった。
上杉憲当=上杉憲政の偏諱なんだね
もの凄い忠臣の予感 長沼氏って、真岡(旧二宮)の本領から、会津田島に行ったと思ったら
戻ってきたり。かと思ったら栃木市(皆川)の方に行ったり、と思うと
会津の方にも残ってて伊達政宗に加勢したり・・・どなたか詳しい方、
大まかな流れを教えていただけますか?? 皆川は両毛ではないが両毛を含む東上野から下総北部にかけての秀郷流藤原氏地域の一員で
皆川広照の娘が結城晴朝の養女として由良国繁に嫁ぐといった縁がある。
由良成繁、長尾当長の妻は秀郷流佐貫氏を下克上した館林の赤井氏出身で
成繁と赤井氏の子の顕長が足利長尾氏を継いで館林を支配した(一旦取り上げられたが)のも縁があってのことだろう。
由良成繁、渡瀬繁詮、佐野房綱、皆川広照…
この辺は外交センスに長けた武将が多かったが結局(家としては)不運なことになったね。 秀次付きの家老になってからは横須賀城だな
遠江横須賀3万石 古河公方勢力、最強の家臣って多分宇都宮氏だよね。
上杉氏のライバルだったし。 時代によって違うよ。
ってか「最大」じゃなくて最強ってw
まあ佐々木倫朗氏に言わせれば、佐竹が古河公方の与党だったか微妙な所らしいし、
里見は小弓方と考えれば、宇都宮が最強といえなくもないかもね >>32
市村高男氏によれば、天正期の結城氏単体での石高は、太閤検地後の数値に換算して一万石程度なんだって。
名目上は多賀谷・水谷は結城家臣だが、彼らの方が数倍強大だったみたい 水谷正村ってやたら戦に強いよな。
宇都宮領を攻めとって宇都宮の討伐軍を常にボコボコにしてついには手出しされなくなった。 >>34
> 水谷正村ってやたら戦に強いよな。
外交能力もけっこう高かった。 他の東国大名が、信長→秀吉ラインの外交をするなか
最初から家康を有力と見て外交していた先見性はすごいよね。
おかげで周りが譜代、親藩だらけの常陸で本土を安堵しているし、
正宗のときには外様から譜代扱いになったのもその故? マイナーな藤堂高虎みたいな人だったんだろうな。
軍事も外交もそこそこできた。 関ヶ原後も生き残った水谷と佐竹の子分に成り果てた末に改易された多賀谷…どうして差が付いたのか むしろ水谷には中央との手管がなかったんじゃないのかね?
>>40
織田家と信仰が深かった山科言継から運動を受け
禁裏料を朝廷に返納し、朝廷から正式に伊勢守を授けられている
(東国武将のほとんどは自称)ことを考えれば中央とのパイプは
あったんじゃない?
織田信長との会見も家康がセッティングして正村が京に
上る途中で本能寺の変が起きたせいで果たせなかったが…。
本田忠勝から正村の弟雅俊に、正村上京の際、
満足に接待できなかったことを詫びる書状もあり。 中央との繋がりがあったとしても大国と小国とでは自ずと差が出てしまうということだな ガン〜バ ガンバだガンバルウ こくごさんすう生活科
ガンバルウといっしょにガンバルウ
それいけドンドン
ガンバルウ〜 下野スレなのに盛り上がっているのは水谷ネタ…
なんでよ むしろ小国こそ中央の動きに敏感だったと言える
水谷氏の他も佐野氏とか江戸氏も結構中央政権と繋がりを強めていたし
佐竹氏や宇都宮氏は彼らと比べるとやや鈍い
北条氏や伊達氏になると更に鈍い >>46
宇都宮氏いいとこ無しだからじゃない?
活躍した話の代わりに、活躍されてしまった話しか出てこないw 宇都宮も大家の割りには鎌倉以来ずっと良いとこないな 成綱の末期〜忠綱の代には、戦国大名化していたと言えなくはない。
佐竹・上那須に圧勝、鹿沼氏を殲滅、皆川当主を戦死させて従属下に置いた。
興綱の謀反が余りにも痛すぎる。
芳賀家中すら抑えられない奴が本家全体を纏められる訳ない。
しまいにゃ自害させられてるし。無能が出しゃばると最悪だな 結城合戦で、領土、家臣ともに失った結城氏としては
調略で周囲の勢力を弱体化させるしかなかったからね。 >>49
鎌倉時代までは同族の二条家とは婚姻も含めた交遊があったようだし
宇都宮辻子に幕府が置かれたり、元寇では派遣軍の司令官だったり
守護歴は下野・上野・越後・伊予・豊前、地頭職は数多。
成綱・忠綱路線が継続されてたら・・・ >>50
この後また壬生綱房が台頭してコントロール不能になるからな せっかくだから、宇都宮四天王を選出してみた。
芳賀高経:兄の仇と子を追落し、興綱、尚綱親子の宇都宮相続に尽力した。
壬生綱房:ただ一人の主君・尚綱のみに仕え、宇都宮城を死ぬまで守り抜いた。
芳賀高照:高経の子。宇都宮氏と那須氏の戦いにおいて活躍し、見事父の仇を討ち取った。
壬生義雄:綱房の孫。壬生家を乱した叔父を討取り、北条氏と宇都宮氏の戦いにおいて活躍した。 益子の没落が地味すぎてもったいない
鎌倉以前からの重臣なのに 江戸時代は益子って黒羽藩(大関家)の飛び地だったのな
それで宇都宮氏の菩提寺があったから宇都宮氏が法事やろうとして大関氏と揉めたと言う話しを読んだ記憶が 益子勝宗は宇都宮見限って、
水谷家に投降しちゃうし 水谷と多賀谷。なぜ、差がついたか。慢心、環境の違い。 なぜ山内上杉は下野に侵攻できなかったんだろう。
宇都宮も佐竹も里見も結城も機能していないんだから、
実はいつでも勝てたような気がする。 古河公方の成氏とその手下の新田岩松が頑張ってたおかげで、下野どころか東上野への進撃すら撃退されてました 憲実以降は暗殺連敗×2相続争い×2越相同盟殆どおじゃん相続争い関東撤退
64に同意。普段はいがみあう佐竹、宇都宮、結城も
古河公方の鶴の一声で反上杉として動いた。
利根川の東岸には反上杉のための城が築かれ、逆に
西側には上杉勢の城が構築。結局この前線が
後北条と東国武将勢の最前線になった。 壬生周長って不思議だな。
兄の綱房と協力して宇都宮城を乗っ取る謀略家でありながら
広綱・高定に敗退後は一貫して親宇都宮派。
宇都宮から独立しようとした惣領の綱雄をブッ殺してまで
徹底的に宇都宮に服従。最期は義雄に討たれる。
壬生領と塩谷領は小田原征伐後、何で宇都宮に帰属しなかったんだろうな 天下統一後の話で考えるなら石田氏も宇都宮氏を信用していないだろうな
あれだけ助言しても糠釘の宇都宮氏は使えない駒にしか見えない 佐竹からの情報でこっそり小田原前に上洛してた大関は上手いタイミングで佐竹と縁切ったな
関ヶ原ではきっちり東軍に城を開けた 縁を切ったと言うか豊臣政権下で分けられたのだよ
大関氏は宇都宮氏の与力大名に組み込まれて浅野長政の指導を受ける立場になったから
石田派の佐竹とは距離が空いた
宇都宮氏改易後は徳川氏に近い蒲生氏が入ったから更に徳川寄りになった >>72
石田からのあれだけ助言て、
一体何があったの?
殿下への土産品のこととか? 上洛のことかな?
結局やらなかったのが後々に響いたのかも。 秀吉の遠征前に上洛しても
最終的に改易された大友とかもいるから。 大友はなあ
彼だけではないとはいえ、その後の行動も悪すぎ そう
援軍無視なら他にもいたがそれでは住まず敵前逃亡だからな そんなことがあったんだ
石高を過少申告したのがばれたのは、あれは何なの? あれはデマじゃないか?
過少申告って言うけど、宇都宮氏改易後も石高が訂正された様子がない
やはり宇都宮氏改易の原因は浅野氏との確執だろう 支配する支配されるではなく
領地を安堵してくれて、かつ勢いのある方に付くのが日光山だろ 基本的に日光は自治領。
しかし、天正中期から後北条氏。
北条没落後は結城氏。 日光山は、後北条方について宇都宮らと戦っただけで
日光が御北条領になったことは歴史上一度もない。
北条は日光領の検地も行ってない。
いわゆる、「国衆領」だ。
小田原征伐で、北条に味方した日光山は領土を没収され衰微する。
その後、日光領は、鹿沼領や小山領・榎本領と一緒に結城秀康に与えられる。 那須は北の結城、佐竹、
南の宇都宮と敵対してたのに、よく生き延びたよね。 地形が最大の味方だからな。世界史で言えば吐蕃みたいな勢力。 ついでにいうなら那須のが佐竹や宇都宮より強兵だからな
兵の数が物を言う平野部の合戦ならともかく山岳戦で那須が負けるわけない 地形図で見ると平らに見えるんだけど。
大田原とか矢板とか。 >>94
そこら辺は主戦場じゃない
佐竹と戦う時は那珂川沿いの辺りで東が山の狭い所、最悪烏山城下。
宇都宮が来たらさくらから筑紫山を結んだラインの丘が連続してる辺りが戦場になる。 那須にとっての敵は身内だろw
いつ寝首かかれるかわからん。 白河からの敵は山は無いが血管のように張った小さな川が進軍を妨げる。 那須七騎の兵の動員力の無さは異常。リーダーの那須ですら1500程度が精一杯。
他の連中に至っては50人とか信じられん少人数で戦場に出てる。 ただ、ホームゲームには強いんだよね。一時の南海ホークスみたいなもんか。 城攻めの敗走率もまた高い。守る相手を倒すには動員の頭数が足らなすぎる。
しかし一回でも潰走したらついでに討死してしまいそうな動員力で
那須七騎で討死した人物が全然いないな。伊王野資信ぐらいか。 他の勢力の軍記物の兵数が盛ってあるだけで、
このくらいの勢力ならどこもそんなもんだったんじゃないかね