豊臣政権の五奉行を語れ
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豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/ 20万石にも満たない三成が単独で徳川250万石と戦えるわけが無いだろ馬鹿か
北からやってくる前田軍と東からやってくる徳川軍からの挟み撃ちになるな>大垣城 三成が忠臣だったとは限らん 西軍大勝利で一気に発言権と所領が増えた後、
どんどん独裁化していって秀吉が織田家を下克上したように秀頼を乗り越えたかもしれん >>268
政宗3度目の涙ながらの土下座であった… >>287
それよりさらに力をつけた毛利と上杉が豊臣家をないがしろにするかもしれんよ 逆だろうな。有能すぎて組織の必要性がわからなかったのが秀吉だろう。 しかし、五奉行といえば現政権の中枢なのに
乱に負けるとあっさり斬首なのな。
まさに時代が一日で変わってしまったんだろうな。
家康が好き勝手した時に、豊臣家が立ち上がって成敗しない時点で詰んでるわな。
江戸幕府は豊臣家を総攻撃して潰したのに。 好き勝手ではないな。実際は三成ら奉行派の難癖。
その証拠に三成が糾弾した家康の婚姻問題は、前田利家との手討ちの時には和解条件にすら上がっていない。
利家すら大名間の婚姻許認可が家康にあったと認めているわけだ。 >>295
家康が難癖つけて奉行らの意向も無視して秀頼様を見放して会津へ行ったのだから
奉行らが内府たがい条(三成は署名してないからまったく関係ない)で糾弾するのは正当行為。
それに婚姻問題があったから家康と利家が会談したのだし「認めた」のでなく
表向きは三中老、裏では利家側清正・忠興・幸長らが戦争回避で話合い決着させるべく調停しただけ。
家康は伏見城を出て向島へ移住する譲歩を病身の利家は取り付け妥協。それ以後の前田の話は下記の通り。
413:人間七七四年 05/18(水) 15:21 WC6hhR0g
下記の出典ソースを探してるんだがわからんので教えてくれないか?家康による加賀征伐に対し
前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて
豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため
418:人間七七四年 05/22(日) 05:49 GtxX8I5W
>>初め交戦派であった利長
完全にウソ。そもそも利家から3年は大坂城から離れるなと遺命があったが
秀頼補佐の遺命を破棄して帰国した謀反人だったのが利長。
この役目放棄を「御運これ末か」と宿老筆頭の村井長頼や奥村永福らが嘆いてる。
家康の謀反者利長討伐宣言を宇喜多(一説に細川)から聞かされただけの話。
織田関連でwikiに書いてあるのはウソばっかりだから信じるな。
遺命に背いて秀頼を見捨てて領国に勝手に帰っておきながら秀頼を補佐していた
大老家康が討伐するって宣言すると豊臣に助けてなどと言い出したのが事実なら利長ってマジ基地害だな。
家康の勧めで帰国したと記述してるのは三壺聞書(三壺記)という加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた覚書だけ。
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。明らかに利長が勝手に帰っただけ。
(家康の圧迫に耐えかねて帰ったと加賀藩の鳴鶴集には書いてある。実際ヘタレたのだろう)
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
しかも秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。
前田がバカやった挙げ句に家康に土下座して人質出して屈したから家康は調子こいて上杉を恫喝した。
そもそも利家からして家康の約定破りを許して親しいアピールやって
五奉行から見事にハシゴを外す暴挙をやってるから親子揃ってヘタレ馬鹿。
愚主利長と違い次男は反家康だったからこいつを当主にすれば良かった。 実質、豊臣家を滅亡に追い込んだのは前田家 ヘタレ大名利家以来の決断力の無さが秀吉や家康の覇権を後押しした。
利家は信長の下にいて
すべての決断を信長がやってくれてる時代は輝いてたのに
自分が決断する立場になるとビビり過ぎのタダの高利貸しドケチに落ちた。 利家って基本的に
忘恩のドケチだろ。
信長が死んだのを知り
魚津から撤兵してた途中の
放生津でみんなで宴会して楽しんでるし、
(利長と信長の娘が安土城に向かっていたのも気にしない)
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも
利家は拒否し、どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから、
俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。
実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。
浅野長政ってよくわからん存在だよな
いまいち好きになれない 宇都宮氏改易は浅野が一枚噛んでいたそうだが、真実、養子を断ったから逆恨みに讒言したというなら許せないな >>290
毛利上杉の二巨頭状態なら豊臣スルーはするかもしれんが潰される事は暫らくないんじゃね?
豊臣潰したら二巨頭同士でぶつかり合う事になるから緩衝材的な意味で。
史実では残念ながら徳川がでかすぎた。 五奉行のマイナーな方の人を扱った面白い本ない?
いろんな小説にちょこちょこ出てくるけど大していい扱いじゃないし
どんな人たちだったのか個性がつかめない
桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年発行)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月発行)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日発行)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日発行)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日発行)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日発行)
小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日発行)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日発行)
清水亮「秀吉遺言と『五大老』・『五奉行』」山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実』(柏書房、2011年6月10日発行)
>>300
利家の遺言状を読んだ事があるけど、とても信長を嫌っていたとは思えない。
信長が死んで15年以上経っているのに、信長への強い思慕と尊崇の念が伺える
内容だった。
利家が嫌っていたのは秀吉じゃないかと思う。 増田長盛の立ち位置は最後まで謎でやることなすことが中途半端だな
忠節を尽くせばまた歴史に残って徹底的に家康に従えばそれはそれで大名として残ったものを >>302-303
浅野長政はよく五奉行の中で唯一の良識派みたいな扱いで
逸話だと三成が悪玉で長政が善玉みたいに書かれる話が多いが
この件が本当なら長政も大概な人だったんだなあw 騙し討ちの件は実話かどうかは定かじゃないような。
>>312
その類の話の殆どは落穂集とか常山紀談みたいな後世の記録だから信憑性わかんないしねえ 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ 秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇(SB新書)
って本に五奉行のことが書かれてた。 浅野はまだわかるが増田石田って
宮部より石高上なんだな
蜂須賀宮部黒田あたりに大封与えて
豊臣家の柱石にすればよかったのに 黒田も蜂須賀も石高的には石田や増田とそう大差ない
ただ柱石=政権中枢か?というとはっきり違う
黒田・蜂須賀ら武断派は天下統一後豊臣政権が制度的に確立してゆくなかで
政権中枢=秀吉の側近である取次や奉行職から外されていったわけで
じゃあ黒田や蜂須賀に検地や本格的な行政職がつとまるか?というとふつうに無理だろ 蜂須賀黒田は大老準じる力のある中老くらいにしやってもよかったんじゃないか?
どーせ実務は奉行衆がやるんだし
さっさと隠居した蜂須賀はその気はないかもしれないが
その息子と孫は力を持たされれば豊臣家のために尽くしてくれたと思う
宮部は戦もできるし奉行経験もあるのに山陰にやったのがもったいないな 宮部や富田とかも奉行衆にカウントされることもあるらしいな >>322
宮部は老齢と後継者が若年のため大封を断ったんだよ
色々役割や立場があるから石高だけで比べるのは無意味 譜代連中は冷遇すればスネて非協力的になるしかといって厚遇すれば
つけあがって既得権益確保に走るので扱いが難しい。
豊臣宗家がしっかり首根っこ捕まえてれば問題無いのだろうけども
紆余曲折の末結局外様に運営委託するっていうアレな展開に。
そりゃ政権があっというまに分解したのも当然ですなわいな。 長束石田あたりに領主的実力が与えられたのは秀吉晩年期で
本来純粋な吏僚集団であるべき奉行達に軍事面での
役割が与えるというのは秀吉からすれば本意で無かったと思う。 明治政府のように薩長閥から次第に政策的対立を利用して土佐や肥後を排除していくやり方
足利幕府みたいに惣領任命権を使って相続操作をして大名を統制するやり方
これらもいろいろ難しいからな。
秀吉が家康みたいに75歳くらいまで生きていたら安定していただろうに。 本人も寿命もそうなんだけど一族の人間が立て続けに死んだうえに
関白を譲った秀次が問題児だったというのはかなり痛かったと思う。
秀吉死後豊臣家の存在が半ば空気した根本はそのあたりだし。
奉行衆を大名間抗争に対応出来る集団として早い時期から
整備出来ていれば結果は違ったかもしれないけれど流石に後知恵か。 10年位前にあった「長束正家で1000目指す」スレの次スレって
結局どれになったか知ってる方います?
ログ読み終わったんだけど次スレの相談までしてたの次がどうなったのかわからない。 安定期を迎える前に秀吉が死んでしまったのが原因だな。
政策上の失敗は別段無いのだから。
強いて挙げるなら筑前筑後を三成が断らずに受けていたら奉行衆の発言力が強化されていたのだが、
それはそれで武断派が逆上して逆効果かも知れんし。 >>334
いや秀吉の政権構想がぶれ気味だった点は失敗だと思う。
大まかに言えば一門+擬似一門中心→関白秀次→大老奉行制と変化してて
その過程で結果的に奉行衆の役割や実力が中途半端になった。
勿論秀吉がもう少し長生きしていればそのへんの問題を解決して
強力な豊臣宗家を完成できた可能性はあるね。
領地だけじゃなくて官位面でも奉行衆が優遇されなかったのは
おそらく武断派だけではなくて他の外様大名への気遣いという面もあったと思う。
なんだかんだで豊臣政権は大名連合的性格強いから露骨な身内贔屓は
簡単には出来なかったんじゃないかな。 身内って言っても秀長秀次死後は
宇喜多くらいしかマトモなのいないだろ
秀吉側も寧々側も残ったのはろくなのいない 身内なんて一杯いるじゃん
福島加藤前田宇喜多小早川木下 豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然 >>336
身内って別に血縁者限定の言葉では無いと思いますが。 序列なら、
聚楽第行幸の時に従一位になった北政所がトップ
次が出家して前がつくものの、正二位前内大臣信雄がNo.2
家康はNo.3に過ぎない。
もっと言うと摂関家の豊臣秀頼に対して、
清華成の徳川で明らかな身分差がある。
そして秀頼を擁する淀も北政所も信雄も実質的に西軍陣営。
家康に対するブレーキを秀吉は装置として用意はしてあった。
しかし馬鹿低脳武断派の常軌を逸した、
家康を悪用しての強欲を達しようとした行動のせいで、
うまく機能しなくなってしまった。
まさか秀吉も武断派が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう。 矢部健太郎氏が家康の伏見在京を、
大坂城と違い、戦う城ではなく、権威の城なので、
実際には家康を本国へ帰さない人質として意図していたと断じてる。
だから最高の家格を持つ秀頼を擁して大坂へ移転した前田に比べて
大名の人質や政権中枢ごといなくなった伏見城に残る家康はその脆弱さを実感したとする。
だから家康は伏見から大坂を遠隔操作ができるように、
家康徒党を大坂に作り、武断派に対しても惣無事違反・私戦禁止の御掟を破っても身の保証をして、
武断派クーデターを容認するなど謀略を繰り返した。
家康は帰国を勧め利長が大坂から帰ると、すぐ大坂を占拠し、
最高の家格である秀頼と家康は一体化してしまい、
秀吉が絶対に避けようとしていた最悪の事態となった。
そもそも家康は年内秀吉死去を伏せている情勢において
三成や浅野長政が朝鮮撤兵のために九州下向中の隙を狙い
蜂須賀や伊達や福島と婚姻をしていた。
この間、秀吉が生きていることになっているので、
家康が本当に御意を得たのか?
直接、秀吉に確認できない状況を悪用していた。 >>341
そういう身分差は平時に有効なのであって戦時にあっては意味も薄れる
三成が無謀な蜂起をして日本中を戦時に変えてしまったことで
秀吉が苦労して作り上げた摂関家や清華成といったものが台無しになった
まさか秀吉も三成が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう >>343
無知なバカだな。
その摂関成の豊臣と清華成の徳川という身分差のために、
家康は関ヶ原の論功行賞を秀頼の名前でやらざるを得なかったし、
朝廷も秀吉の勝利には勅使を派遣していても、
関ヶ原で勝利した家康には御使の派遣をする身分差別化で対応し、
豊臣家臣徳川が武家最高司令官豊臣を覆すことを難しくしていた。
この家格差こそが秀頼の関白就任の可能性を保証していた。
だから家康は豊臣家を滅ぼすのに、
さらに15年を要したわけで、
それまでに家康の寿命が尽きていたら豊臣家は滅びなかった。
秀吉は巧妙に家格の壁の仕組みを作り込んで豊臣家の延命を策していたわけだ。 秀頼の関白就任の可能性を保証していたとか妄想もここまでくると芸術だねw
きっと君の脳内日本史では関ヶ原後も延々と豊臣が関白を独占していたんだろうね >>345
24時間自宅警備の在日織田チョンくんは、
常に理論的ではなく、
豊臣や三成への憎しみを根拠に、
半島人の常識で語ってるから、
そうやっていつも論破されんだよw 豊臣家が残れば子孫は関白にはなってただろ
政治権力は他の家が握ってたにしてもな そのための摂関成だし。
関白職は豊臣、近衛、二条、九条、一条、鷹司の六摂家持ち回り制になっていて、
関ヶ原後に関白になった者のうち最低年齢が九条忠栄23歳であり、
これは年齢を言いわけに就任を遅らせる工作が通用口する
関白就任最低年齢を規定したことになり、
秀頼が23歳になるまでに家康は秀頼を殺す必要が生まれていることを意味する。
官位で言えば関ヶ原から半年後の9歳で従二位権大納言になるなど超絶な早さで昇進するなど、
朝廷が強力に秀頼をバックアップ。
なぜなら皇后が秀吉猶子になった近衛前久の娘であり、
後陽成天皇にとっては秀頼が義弟になるからである。 清華成ですらない家格の低い三成が清華成の家康を倒そうとするなど
奉行の家格を無視した増長によって秀吉の作り上げた秩序は危機に陥り
これでは豊臣の摂関成さえ危うい状況だったが
関ヶ原によって奉行が粛清されたことにより豊臣は秩序を取り戻し安定感は逆に高まった
三成の斬首によってむしろ秀頼の関白就任の可能性は上がったと言える >>349
はいはい無知乙w
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。 >>350
おまえまさか『秀吉遺言覚書』も知らんのか…。哀れにも程がある… 大老筆頭はともかく、太閤様御覚書から家康と利家の二巨頭体制だったってことまでは確実だよなあ 三成は清華成の秩序を無視し自分が豊臣の支配者であるかのような傲慢な振る舞いを繰り返し
小早川に関白就任を持ちかけるなど秀吉の定めた身分を蔑ろにしていた
関ヶ原での東軍の勝利は秀吉の秩序の勝利といえる
三成を処刑して晒し首にしたことで豊臣の摂関成としての権威は高まり
秀頼の関白就任の可能性を保証する効果を生み出した >>353
キチガイ織田チョンくんさ、
君、小早川に関白就任を持ちかけたとする一次史料がずっと出せてないよねwww
関ヶ原の結果、
強欲武断派が頑張り過ぎて、
棚ぼたで家康の武の名声が高まり、
幕府創設の権利を持つ征夷大将軍への道を切り開いたのだから、
親の武威を危うくした武断派の自爆でしょw
むしろ秀吉が作った家格装置が機能して関白職簒奪が不可能になっていたから武家関白として公武支配の頂点に立つのを家康は断念して、
武家の頂点に立つのが限界になった。 >>351
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。
早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。 いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。 秀吉から政権の運営を任命されたはずの奉行の有力者である三成が
何の権力もない武断派が押しかけた途端にあっという間にクビになるのがどう考えても不自然なんだよね
ドラマなんかでは不自然さを補うために家康の屋敷に逃げ込んだことにしているけど史実ではないと判明している
それに奉行に政権を担わせたとする秀吉の遺言は浅野家のみに存在し他の家には一切存在しない
秀吉の政権運営方針を記したのなら大勢の大名に渡されたはずだし
徳川が全て抹消したという子供じみた陰謀論も安っぽいだけで話にならない
だいたい秀吉にとって三成たち奉行はただの雑用係でありその証拠に官位も家格も低く抑えている
秀吉が三成たちを特別扱いする必要性がまったくない
それが清華成で最低でも中納言、最高で内大臣で石高が遥かに大きい大大名と同格に話し合うなんて
浅野家文書の遺言だけが突出して不自然でありこれまでの秀吉の行動と結びつかない
これらを挙げて矢部健太郎氏も浅野家文書の遺言は秀吉死後に手が加えられた可能性があるとしている
秀吉の遺言には奉行たちを政権運営者にする話などなかったと考えられる
そうなれば三成が権力を奪うために無謀な謀反を決行せざるを得なかったことも
家康が大坂に帰還した際に三成の迅速な処刑を豊臣恩顧から要求されたことも
全て辻褄が合うことになるという矢部健太郎氏の指摘も正しいことになる 矢部健太郎とか秀次切腹でトンデモ理論展開した人じゃないですかやだー >浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
>矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
>徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
>『殿』の敬称を付ける反面、
>他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
・秀家も『備前中納言殿』とかかれている
・律儀さは輝元と景勝も強調されている
お前が浅野家文書を読んでないことはよくわかった >>357
下四行はお前の妄想だろw
神君家康の為に改竄したのに、お前のその主張じゃ敗者三成の為に改竄したみたいになるじゃんwww
>>358
何がなんでも全部秀吉が悪いとする在日には都合が悪いだろうなw
あくまでも在日の常識だとトンデモに受け取られるとw
>>359
お前、東大データベースで浅野家文書なんて無料で見れるのも知らんのかよw
秀吉遺言で検索かけたら3秒もしないで表示されんだぞw
素人でも簡単に利用出来る作りなのにw
やはり在日にはうまく日本語使いこなせない証拠だなw
しかしな草書体から楷書に変換する際に誤読ミスが出ている例がたくさん発見されるようになってきたから、
最近は原本をちゃんと調べて書いているケースが多い。
矢部氏も原本翻訳からやってるんだろう。
だから「備前中納言」宇喜多秀家と「景勝・輝元」と書くのは明らかに礼を失した表現と断言して書いてるんだろう。 >>360
お前は史料をきちんと読めない間抜けだということはよくわかった。
古文を一から勉強しなおせ 浅野家文書の内容は浅野家以外の文書には存在しない不自然なものとなっている
奉行である浅野が奉行を過大に扱い権力を持つかのように改竄した可能性は高い
もしも浅野家文書が真実の遺言ならば他の大名に一切同じ文書が伝えられていないことは不自然である
逆に宮部家に保管されていた秀吉の遺言は浅野家とは正反対の内容であり
家康に大きな権限が与えられており奉行と話し合うことなど求められていない
浅野家文書が天下を奪おうとする奉行によって改竄された不正文書なのは矢部健太郎氏も指摘している >>362
はいはい文盲乙w
諸大夫成ふぜいの浅野ら奉行じゃ、
上級公家ともまともに話をすることすら出来ないのに、
天下を奪おうなんて思考が起きるわけねーじゃん。
住んでる世界が違い過ぎるわw
しかも浅野は徳川方だから三成らと別陣営だし、
そもそも秀吉死後を見据えて輝元が慶長3年7/15に出した秀頼への忠誠を誓う起請文には奉行を四人衆としていて、
浅野が含まれてない。
つまり浅野が残した秀吉遺言には徳川派だった浅野の地位向上を狙った改竄が関ヶ原後に入っていることを矢部は指摘してんだよw 実際、三成が首謀者みたいな錯覚を招く原因が、
三成が責任を問われて死罪になっている点だが、
これ事態が清華家の家格の殿上人は、
死刑にはならないという
身分差によるだけのことだからね。
だから死罪だから首謀者とする解釈自体が誤解釈。
秀家が島津家に匿われて3年後に見つかり死罪じゃなく、流罪なのもこれが原因。
責任を取らせ死罪に出来るのが三成らの身分だけなので、
家康も三成が全て悪いと責任を押し付け喧伝する他に手段が無かった。
またこの文脈から秀次を秀吉が殺すつもりが無かったのも明らか。
なにせ秀吉は秀次の食事や身の回りの世話などに人を割くように高野山に頼んでいたからね。 >>365
当時に公家の日記に秀次は秀吉の命令による切腹と記されているらしいがこれは無視か? >>366
矢部氏が公家の日記の該当記述はすべて噂レベルだと指摘してる。 前に関ヶ原の首謀者は輝元ってスレがあったと思うんだが落ちた? >>365
秀吉は秀次を殺すつもりがなかったのに三成によって秀次は死に追いやられたからな
諸大夫成が摂関成の命を奪うという前代未聞の身分破りが行われたことの深刻さは
切腹に立ち会った福島自身が一番理解していたわけで
別に朝鮮で苦労したわけでもない福島が三成を極度に憎んでいた原因は秀次事件以外にありえない
だから武断派にとって輝元や秀家を殺すことはないが三成の処刑だけは何よりも必要な手続きだった
豊臣が摂関成としての絶対性を取り戻すためには三成の処刑しか方法がないわけだから
三成の処刑によって豊臣の摂関成が盤石なものとなったことは矢部健太郎氏も指摘しているね 奉行なんて不満があれば襲撃しようが処刑しようが構わない軽い存在でしかないからな
家康が乱の責任を押し付けて謀反の首謀者として解決を図るには三成くらいがちょうどいい
むしろ奉行の処刑は諸大名の不満を和らげ社会を安定させる効果があるから
三成に限らず奉行連中を片っ端から全員処刑してもよかったくらいだろう >>370
もうむちゃくちゃだなw
矢部氏は秀吉と三成に秀次を殺す気がなく、
福島が自刃を止めなかったと指摘してんのに。
まあ秀次は嫡男が夭折して意気消沈して熱海湯治していたりして精神的に疲れてたのだろう。
>>371
三成と浅野がいなくなっただけで、
実務が滞って大谷、小西、寺沢の3人が家康の指導のもと、
奉行手伝いに追加され、
島津庄内の乱や宇喜多家内紛の処理や毛利家分封問題についたのも知らんのかw
奉行の処理なんてやったら、
人が足らず諸問題が解決出来ずに、
諸大名が不満を溜めるだけだろ。
だから家康は奉行衆に自分への忠誠を求めて懐柔していたわけだし、
家康派になった三成と大谷が前田の上洛を阻止しようと家康の為に北陸路を固めたんだろうが。
しかし小西は家康では無く秀頼の為に忠誠を誓うと主張したから、
小西の九州取次の仕事を徐々に家康は寺沢に移行させて圧力をかけはじめた。
これは致命的で関ヶ原で小西が肥前小大名たちを西軍に出来ず、
寺沢指揮下で動員される結果を招いた。 島津庄内の乱
宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化を謀っていた。 >>372
石田と浅野がいなくなっても手伝いを少し追加するだけで問題ないことが証明されたのだから
奉行なんて都合に合わせてどんどん処理して構わないんだよ
それに小西など売国しか頭にないんだから家康としても仕事を寺沢に移管するのは当たり前
結局文治派が口先だけでたいして役に立っていないことは関ヶ原の前からとっくに証明されているんだよね
だからこそ石田や小西を処刑して豊臣官僚ではなく徳川官僚による政治に転換されても
武断派に限らず大勢の大名から問題なく受け入れられた
むしろ諸大名は役立たずの豊臣官僚からようやく解放されたのだからありがたいくらいだろう >>373
家康は豊臣政権下禁止された私婚も連発してるし
三成がいなけりゃ歯止めが利かなくなって家康の暴走がより酷くなるわけだな。
結局家康についてたのって三成にくしで凝り固まって豊臣への恩を忘れて
家康の天下取りに貢献した馬鹿な武功派だけだし >>375
大名間の婚姻の許認可権を持っていたのがその家康自身なんだが…。
これは対立の後前田利家も認めている >>377
利家は家康との手討の時、家康の進めていた大名との婚姻を全部認めてるんだが。そもそもそれが原因で
対立が起こったというのに。
これは前田利家が大名間の婚姻の許認可権が家康にあると認めたに他ならない そりゃ利家が認めただけで
大名間の私婚の許認可権が豊臣政権下家康にあった事の証明にはならんだろ。
利家が豊臣を忘れて妥協しただけかもしれんし
実際に三成らはこの行動を糾弾してる 当時の法なんぞ権力者がいなければどのようにも曲解できるだろ 豊臣政権下での決まり事を無視する行為は普通に立派な反逆行為だろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています