豊臣政権の五奉行を語れ
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豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/ >>179
富田も五奉行に入ってたのか。他にもそういう人いない? 内通みたいな不名誉でストレスのたまる仕事してやっと本領安堵。 >>182-183
茂勝は頭がおかしくなったんだっけ?
浅野と三成以外はとんだヘタレ
何だったんだろうなこの集団は >>188
増田・長束・前田に何を求めるんだ?
逆に自身の力量を勘違いした石田三成の方が何だったんだろう? 石田三成を好きな奴がいる事が信じられん
どこに好きになる要素があるんだろうか 家康の方が「奉行」。三成は「年寄」や。上下関係を弁えんとな! こいつら、まるで官僚みたいな動きしかしてないな。
官僚(奉行)が大坂での実権を握ろうとして、
政治家(大名)に反旗を翻したが、大物政治家に敗北したみたいな >>191
戦国の世に、ほとんど脳みそだけで形の上では家康と五分まで持っていった凄まじい権勢。 ただ、急いで形だけ整えた中身が全く伴っていなくて、上杉や佐竹との連携もダメダメだったのが残念
結局、大谷が懸念した通りだしね
結果として、家康の手の内で泳いでいただけだったと
手のうちで泳がされてたというが、家康のが綱渡り的でギリギリの博打だったと思うが。 >>193
実際官僚だろうが。何言ってんだお前は? >>196
形としてはギリギリだが、全て家康が前もって図面を幾つか用意していたからああなったんだろう
宇喜多を弱体化しておいたつもりが、明石の奮戦で戦況がかなり際どくなったのは予想外みたいだけど
しかし、そこは明石(ついでに秀家)を誉めるべきところ
>>198
上方を離れた時点で誰がどっちにつくなんて全く分からんぞ?
関ヶ原で戦いましょうなんて約束をしてるわけでもない。
そもそも大阪城がバックにあって、しかも畿内をほぼ掌握されてるから
勝てるはずのない戦いで東軍側はほとんど一か八かの賭だよ。 寝返り風聞が激しい小早川に依存した戦術を関ヶ原で用いた三成の才覚の限界
人の心を理解できない三成の戦采配は狸親爺に通用はしない 小説でありそうな決まり文句だな、石田が嫌いなのはよく伝わるがw
小早川に頼らざるを得ない戦況なのは家康も同じだろ
>>198
群を抜く実力者の家康がきっちりお膳立てして動いても
ギリギリのところまで持ち込まれたってことだ
あと予想外というなら西軍首脳が関ヶ原での戦を想定して
前もって要塞化していたというほうが重要
奮戦なら石田、島津、大谷、小西(とその家臣)も入る
同時代的には小早川秀秋は、むしろ律儀だと言う評価だったらしい。 うぃきぺでぃあ見ると、当時は五奉行は年寄、五大老が奉行って呼ばれてたそうな。
豊臣家の家老が5奉行で、天下仕置の奉行が5大老ってことか? >>200
依存も何も、当初の予定とは違う場所に秀秋が布陣しただけ。
三成が置いていた門番の兵を押しのけて、山に登ったんだぞ。 そういや、増田に関しては家康にいち早く三成達が挙兵した事を知らせたりと
確実に内通してたみたいだが、同じく内通してたと言われる前田の方はどうなんだ?
何か内通の根拠でもあるの? >>205
増田長盛については、「挙兵の二段階論」をどう考えるかによって
変わってくると思う。三成・吉継が謀議していると垂れ込んだのは
三奉行だったはずだけど、増田長盛ってこの後具体的な行動をとってたっけ?
三成と長政を除いた連中を三奉行といったりするけど、こいつらの間にも
かなり行動に温度差があるので、一概には言えないし難しい所だ 長束の一族や家臣がwikiに出てるけど、あんなとこか? 三成かっこいじゃん
福島とか黒田はタヌキにしょんべんチビって逃げ出したヘタレ
正面から向かって行ったのは三成だけだよ 三成「家康なんてぶっ殺せ!…って毛利輝元さんが言ってるぞ!」
輝元「ええ!?俺!?」
桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日)
小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日)
>>218
先行研究がそんなにあるわけではないんですね。 >>218
これだけあって、一般向けの「五奉行」本が出てないのか? 一般向けの雑誌で「五大老・五奉行特集」を企画してほしい。 石田以外の五奉行を単品で専門に研究してる人っていないの? >>226
それぞれの領地の地元なら地方史家に山ほど居るとおもうぞ。 北堀光信「朝廷の存続と天皇の下賜−村井貞勝と前田玄以への下賜の成立と意義」(『奈良史学』21号、2003年)
曽根勇二「豊臣蔵入地支配の形成について−浅野長政の動向を中心に」(『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』17号、1991年) 話をブッタ切ってスマソ
質問があるのですが…
秀吉が天正十三年に関白に就任した時
任命された諸大夫12人のメンバーを教えてください
石田三成、中村一氏、福島正則、大谷吉継、稲葉重通は解ったので
↑この五人で合っているのか?
あと残りの7人の名前を教えてください
豊臣政権で結構重要なメンバーらしいので
どうしても知りたいです
(秀吉関連ではここが一番まともスレらしいので…) 「関白任官記」によれば他の7人は
生駒雅楽頭政勝(近規)、小野木縫殿助重勝(重次)、尼子宮内少輔晴久(ママ)、
柘植左京亮、津田大炊頭、古田兵部少輔重恒(重勝)、服部采女正(一忠)。
「歴名土代」で確認できるのは以下の10人。
平一氏(中村)、源吉継(大谷)、源宗澄(尼子カ)、平勝次、藤三成(石田)、
平重長、平正則(福島)、藤重執(稲葉)、藤近規(生駒)、平吉広 >>233
尼子宮内少輔晴久は誰の誤伝なんだろうw
修理大夫、民部少輔にしかなったことないのに。 >>233
ほんとこれ誰なんだろ
尼子さん。亀井あたりが尼子を名乗るかな(名乗らんような)
しかしムックとか中級者・初心者向けみたいな書籍には
信長軍団とか徳川軍団の本はよくみかける印象があるけど
秀吉軍団とか豊臣軍団みたいなのは見たことがないなあ。
御伽衆一覧とか、あっても良さそうじゃないの。 蒲生氏郷、細川幽斎、堀秀政あたりは外様でもあるが、
秀吉政権においては重きをなしているイメージがあるなあ
下手すると後の五大老の上杉なぞより食い込んでいる感じがする それは彼らが秀吉政権の前身である織田政権の勢力だから。
政権確立後の秀吉の課題は、絶対性の確立のためそういう織田勢力からも距離を取ること。 >>239
なるほどね。そういう意味では蒲生と細川は
明暗を分けたというと言い過ぎかもしれんが
幽斎のつかず離れずの政治感覚はたいしたもんやね
>>241
秀吉が隆景の死後秀秋を大老にしなかったから。以上。 太田牛一の「大かうさまくんきのうち」に見える朝鮮出兵に随行した御はなし(御伽)衆
富田左近(一白)
由己法眼(大村梅庵)
不干(佐久間信栄)
金森法印(長近)
有楽(織田長益)
休夢(小寺高友)
寺西筑後(正勝)
稲葉兵庫(重通)
猪子内匠(一時)
青木加賀右衛門(重直)
新庄駿河(直頼)
木下祐慶
山岡八郎左衛門(景友)
羽柴下総(滝川雄利)
生駒主殿(忠清)
樋口石見
岩井(祝)弥三郎
宗安(万代屋)
宗無(住吉屋)
宗薫(今井)
宗瓦(武野) 結構メジャーな人も混じってるな
新庄なんてまだ生きてたんだ >>243
超GJ
これに未出の大物は善祥坊くらいか。
あとは(思いつくままだが)斯波、六角、京兆細川、山名、有馬あたりの旧大名系。 >>240
そういや幽斎の息子にも御伽衆がいたのでは。
如水と幽斎、やはりあなどれなかったんだな。 史料価値は落ちるかもしれないが、小瀬甫庵の「太閤記」にある秀吉の
「御遺物之事(形見分け)」の記事に見える「御咄の衆(御伽衆)」
織田常真(信雄)
織田有楽(長益)
織田民部少輔(信兼(包))
富田左近将監(一白)
宮部法印(継潤)
有馬中務卿法印(則頼)
桑山法印(重晴)
羽柴下総守(滝川雄利)
兌長老(西笑承兌)
古田織部正(重然)
寺西筑後守(正勝)
柘(植)大炊助
稲葉兵庫頭(重通)
新庄駿河守(直頼)
佐久間不干(信栄)
奥平牧庵(貞能)
中川宗半(光重)
住吉屋宗務?(無)
山岡道阿弥(景友)
前波半入(勝秀)
江雪(板部岡融成)
山名禅高(豊国) >>249
Pizza康さんの口利きでその後復帰したんじゃなかったっけ
信雄も波瀾万丈だよなあ 本来五大老を五奉行と呼ぶのが正しいんだぜ
そして五奉行は五年寄と呼ぶべき >>252
奉行に処せられないことが豊臣政権の脆弱性の証。
家康ちゃん奉行宜しく!なんて調子こいたら
いや家康どころか島津あたりでも黙ってない 当時大老・奉行なんていうはっきりとした肩書きがあったわけじゃないから、
五奉行は大老の事を奉行と言い、大老(家康)は五奉行の事を奉行と言った。
「年寄り」「お年寄り」というのは所謂「家老」の事であり、
お互いが自分達こそが豊臣家の家老であると主張し、
相手方を実務官僚であると言っていたって事だな。
秀吉は彼らの事を「五人の衆、五人の者」としか呼んでおらず、
「年寄り」と言ったというのは浅野の記録にしかない。 浅野長政って秀吉にとってはそこそこ「便利」な人だったのかね?
特に秀でているということもないが、大外しもしないしとか。 便利も何も重鎮そのものだろ。秀長、蜂須賀正勝、浅野長政が秀吉政権初期を支えた
主要メンバーというべきだ。 >>257
秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
どれほどまで出世したんだろうね。
>>258
神子田、尾藤、前野‥‥‥最期がひどいな。
蜂須賀△ >>259
> 秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
> どれほどまで出世したんだろうね。
それは意味のないIFだな。秀吉が信長に見出されなければどこまで出世したんだろうね、
というのと一緒。 仮に浅野長政が秀吉の縁者でなかったら、
奉行になれたかなれないかはもちろん、
奉行職を全うすることもできなかっただろうな。 取次だった伊達から絶縁状出されるって凄いわな。
「ご指南」である浅野に対してそんな事言ったら、
取り潰される可能性も十分にあるのに余程我慢できなかったんだろうが。 >>263
浅野に対して十ヶ条の不満を言って、最後に、
浅野殿の所に参る事も、申し入れる事もしません。ご指南も頼みません。
なんだったら上様にこの事を言ってくれても結構です。
って言って以降絶交。
まぁ、秀次事件で連座させられる事を恐れて、縁を切っとこうと思ったんだろうけど、
与力の身でこれは結構危険な行為だね。まぁ、政宗らしいっちゃらしい。 >>264
凄いねw 言い渡された浅野もメンツ丸つぶれだったろうね。 浅野は豊臣政権の重鎮の割りに、感情に素直過ぎる印象 秀次事件で召喚された時に、
政宗がビビり中々、出立せずに
浅野が政宗待ちしてたら
二人とも上洛が遅れた。
浅野が死刑にならんように
利家が全力擁護した時に
政宗待ちしてて遅れた話を秀吉にしたのを
又聞きした政宗が、
こりゃ死刑の浅野と口裏を合わせのために上洛が遅れたと言われるとやべえと政宗は思い
大借金させてもらってる利家にも
あまりに伊達に対して情がないと逆ギレし
浅野にデタラメな内容の絶縁状を送って自分は浅野なんて嫌いアピールしてから
たまたま秀吉の命で喚問にきた東国取次役の家康の使者に泣きついて家康に策を求めた。
そして泣いて土下座し、改易になる話を聞いた家臣が俺の言うことを無視して叛乱するって言い出して制御できないし、
殿は恥知らずになるくらいなら自決してよとか言われたけど、
まだ死にたく無いと言ってるのを聞いた秀吉が思わず笑って許した。 >>269
家康の読みが深い、
さすがに神君!
ってことにして欲しいコメだと思うんだが ちょっと前に水口場跡行って来た。
岡の上で佇んでいると、長束正家の気分になって来た。
長束は天才的な理系なんだけど
某映画で一人悪役にされて割食ってたな 水口城主長束大藏大輔正家は、池田輝政と講話したが、開城の条件とは裏腹に切腹を強いられ、首は○○○に晒首された
又、下野担当の浅野長政は、下野宇都宮城主宇都宮下野守国綱に息子を養子にするよう強要したが断られた為!
年貢を過小評価して差し出したといちゃもんつけて廃絶。 増田長盛は家康に情報流して生き残ったのに、
息子が大坂の陣で豊臣方に走った責めを受けて切腹だっけ? 増田盛次の大坂参加は、徳川幕府に対する反逆で、逆賊朝敵の汚名により増田右衛門尉長森は切腹。 増田が流したのはフェイク情報
信じた家康は見事に騙された。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています