豊臣政権の五奉行を語れ
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豊臣政権末期に政権の実務を担い
五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
* 浅野長政(甲斐甲府22万石)
* 増田長盛(大和郡山22万石)
* 石田三成(近江佐和山19万石)
* 前田玄以(丹波亀岡5万石)
* 長束正家(近江水口5万石)
石田三成は単独のスレッドがあります
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1150512127/ >>1
スレ立て乙
ところで前田玄以と増田長盛は家康に内通していたが
長盛は改易され、対照的に玄以は所領を安堵された。
この二人の処遇の違いには何の思惑があるのだろうか? >>2
玄以は公卿や僧侶に独自の人脈を持っていたからでは? 西軍の中心人物であるにもかかわらず助命されたのは、前田玄以もそうだが、
伏見城や関ヶ原に出兵せず、自らの手を汚さなかったためと思われる。
ただ、家康は長盛を仇敵と憎んでいたらしく、大阪落城の直後に自殺させている。
前田玄以の孫3人も同じ頃自殺させられており、家康の執念深さはすさまじい。 基本的に各分野のエキスパートの能吏集団。
浅野長政はまとめ役だったのだろうが
執行官としての威厳をもっと持たせるために
みんなもう少し禄高を上げてやって欲しかったね。 いや、奉行衆の石高は妥当なところだと思うぞ
ただでさえ君主の側近に侍り大きな権限を持ってるのに、
大封まで与えてしまえば増長してしまうでしょ
>>10
長束は新参で一番若かったからね。
但し、実質15万石程度の実収があったとか 長束、前田、増田の三奉行は石田三成が謀反をおこしたと本気で
思っていた。だから西軍の動向を家康に通報していた。 >>11
長束殿が一番若輩だったんですな。勉強になりました。 浅野家が一番生き残ったわけだが、
太閤の義弟でありながらも実は、
一番の親家康派だったからか? 家康自体が秀吉の舎弟分だと考えれば回り義兄弟だし。 長束正家
同じ奉行として、関係深かったが戦意はなかったようだ。
前田玄以・増田長盛
長束同様の関係だが自分が惜しかったか裏で三成を裏切った。 関ヶ原の後、豊臣恩顧の大名をまとめるために、淀殿が五奉行体制を構築しなおせば良かったのに。
例えば新五奉行に、加藤清正・福島正則・浅野幸長・前田玄以・蜂須賀至鎮とか
行政官僚に大大名、しかも親藩で武闘派っぽいのってのはどうなんだろう。 豊臣家や秀頼に対する淀殿の影響力は絶大だったろうが、
豊臣政権に対する影響力なんて皆無に等しかったと思われ >>22
長束は、財政経理担当、今風に言えば財務経理部長。
増田は、名判官と呼ばれてたらしいから、庶政庶務担当かな…。総務部長。
石田は、太閤の側近で、天下の枢機担当って感じ…。天下の検知から、大名の配置、太閤の遺命にまで参画した。社長室長兼秘書室長。
前田は、公家寺社担当で京都奉行。
浅野は、太閤の最古参の家臣の一人で、奉行の中で、唯一尾張出身で、太閤の縁者。人事部長。
以上、関ヶ原400年記念に、岐阜県が発売したDVDから(監修は、堺屋太一) 増田って土木じゃなかった?
浅野が司法,石田が行政,前田が宗教,長束が財政
ちがふ? >>29
そんな機能的に分かれてるわけが無いだろ。
とりあえず何でも「手の空いたのがやる」体制だろ。 素足に革靴=水虫
前に兄弟でテレビに出てた>三成子孫
岩手だか青森だかで漁師やってるって 浅野とか石田、増田は状況次第で検地も取次もこなすけど
前田(京都所司代)と長束(勘定奉行)は割とはっきり職務分かれてないか >>32
津軽為信が南部家から独立する際に三成に便宜を計ってもらったので、その恩義で関ヶ原合戦後に三成の子を引取ったらしいな さらに娘を妾に迎えたものだから代々津軽藩主の血脈に
石田三成の血が・・・ >>1
>五奉行と呼ばれた五人の吏僚について語りましょう。
当時の五奉行=現在の五大老だったと聞いたことが。 五大老は五人の奉行とよばれていた。
五奉行は五人の年寄り(大老)とよばれていた。 >>37
豊臣家の三中老は、三成らより格下になるのかな?
それならば、存在感の薄さも理解できるけど。
今までは五大老の下に、三中老がいたと思ってた。 >>38
こんな感じでしょ
五大老=閣僚
三中老=副大臣
五奉行=各省事務次官 >>39
例えは分かるけど、実権はどうなんだろ?
三中老に確固たる役目や権限とかはなくて、名誉職というオチは無し? >>40
豊臣家の機構自体適当な組織だからなあ…
徳川期みたいにきっちり決まった官僚機構があるわけじゃ無いし。
大体中老って物自体実際あったのかってのも疑問がw
まあ大雑把に中老ってのは、内閣と省庁の間の調整役みたいに考えればいいのでは? 徳川の官僚制度がしっかり整ったのは三代将軍家光の頃でそれまでは豊臣政権以上に適当 >>43
むしろ秀吉が消えた時点で機能不全起こしているような。 今までの独裁者秀吉の個人秘書、所謂出頭人的存在から、
秀吉が死亡しても機能不全を起こさないように改めて政権内での位置づけを明確にしたのが五奉行なんだけどね
実際に秀吉死後には大老連中と協議してスムーズに諸将の朝鮮からの撤兵を成功させてる
家康が豊臣恩顧の連中の対立を煽らず、むしろ秀吉に頼まれたように
彼らを押さえつけてくれたら問題なかったんだろうけど、それは仕方ないな 三成に島左近あり。
長盛に渡辺了あり。
では正家には?有名な家臣はいたのかね?
まあ、いなくとも、関が原で島津と石田の間にでも布陣していれば、
戦局も多少は違っていたかもね。
島津の1,500に参戦の要請をするほど、兵数を三成が欲していたからね。
それか、崩れかけた小西勢を横から助勢するとかしてもいいよな。
三成は、せめて正家くらいは関が原に引っ張っていくべきだったな。 >>42
それでも家康・秀忠の代に破綻しなかったんだから、
豊臣家の仕組みより強力に思えるが。 家康や秀忠がしっかりしてたからな>初期江戸幕府
それに江戸時代初期はまだまだ豊臣家とか朝廷とか
戦国生き残りの有力外様大名みたいな紛争の火種が山積み状態
そういう不安定な状況ではかっちりした官僚行政機構組み立てるよりも、
ある程度将軍の独裁が発揮できて変事に臨機応変に対応できる制度の方が理にかなってた 豊臣家の場合せっかく育ち始めてた官僚機構を、秀次成敗の時に秀次と一緒に自分で殺しちゃったのが大きい。 秀吉が五奉行みたいな制度を整えたのは秀次粛正後だが
何か勘違いしてね >>51
秀次は関白としていわば日本国首相の任を負っていた。実際に軍事権以外の行政権はほぼ任されていたわけで。
そのもとで「豊臣家官僚」が育成され実際に政府を構成していた。前野長康なんかがその首班と言っていい。
それがあの事件で一夜にして豊臣家官僚やその候補が霧散した訳だ。そのため秀次事変後秀吉は
五奉行みたいな「私的諮問機関」で、当座の政権を作らざるを得なかった。 五奉行は秀吉の私的諮問機関なんかじゃなくて
豊臣家のれっきとした政権運営機関だよ
あと関白秀次に大した権限なんて無かったよ
実際に彼の出した朱印状は後で秀吉が追認の判を押したものが多い
彼の最大の政治的業績といえば朝鮮出兵の際の人掃令だが、
これにしたって秀吉に命じられたことをそのままやっただけに過ぎない
前野長康が豊臣家官僚の首班ってそれこそ何か勘違いしてるとしか思えない
ただの秀次の付家老だろ
長康の署名した行政文書が果たしてどれだけ残ってるというのか 長束は経理関連の能力がずば抜けてたみたいな説明をよく見るが
実際どうすごかったのかよくわからん
石高も前田以外の3人と比べて低いな
>>56
そのぐらいなら小学生高学年の半数でもできるw 秀次へ関白職を譲った後も、秀吉と諸大名は封建的主従関係にあるわけですから、秀吉が最高権力者であることに変わりない。
しかし、豊臣政権は関白を首班とする公儀体制を敷いているため、すべての行政手続は関白の決裁が必要である。
秀次事件により関白不在となっても、秀吉と諸大名との関係に変わりはないため、政権の運営には支障はない。
しかし、いずれ関白に就任する秀頼のため、公儀体制を再構築する必要に迫られた。
こうした状況の中で豊臣家諸奉行の取りまとめ役となった者が、後世、五奉行、三中老と称された。 前田利家の死後短期間で
石田三成、浅野長政両奉行が罷免・蟄居され
利家の後継の利長も大老職を解任
上杉景勝が謀反人にされてるところを見ると
五大老・五奉行制はかなり脆弱な組織なのかも
まあ家康が狡猾ともいえるが 五奉行に名目上の序列は存在しないだろうが
一応、政治担当で公家にも顔のきく前田玄以がやや抜きん出てて
それに次いで石田三成、浅野長政だったんじゃないかね。
経理実務の最高執政官は長束正家だったはず。 >>61
オレも疑問なんだが、基本は五奉行は石田で豊臣政権派で五大老も上杉
宇喜多、毛利は石田派ならみんなの前で家康糾弾できなっかたのかな?
>>62
確か前田、浅野、増田、石田、長束の順だった気がする。
秀吉の葬儀の時もその順番じゃなかったかな。かなり危うい記憶だが。 >>61
仲裁・調整する三中老が全く機能してなかったからね。 >>64
なるほど。それで序列が下位の三成が「合議制」なのをよいことにして増田、長束を味方に引き入れて
自分の意思を「五奉行の多数決による総意」という形で引っ張りまわしてたわけか。 五奉行という言葉に惑わされれはいけません。
豊臣家の組織は全くの未整備状態。
さまざまな案件に対して、
秀吉が適当な家臣に処理を命じる。
その取り纏め役になることが多かったのが
浅野、石田、前田、増田、長束。
役職としての五奉行なんてものは存在しなっかのでは。 いや、たしかに政権運営はそんな感じでやってたけど、死ぬ直前に
ちゃんと名指しで五奉行制を定めてる 秀次事件で浅野が蟄居してた時は、宮部継潤と富田一白がメンバーに加わってたんだな。 五人の能力もさることながら、性格も相互補完する関係にあったのだろうかな?
浅野と石田は不仲のようだが。 てっきり三成が五奉行首座だと思ってた。
秀吉にも気に入られてたし、関ヶ原起こしたのも彼だし。 >>74
実力者だけど、席次は下位。
関東軍じゃないが、司令官より参謀が権勢を振るって感じw 奉行衆の石高が子飼い武将の嫉みを呼んだのか
特に石田治部とか石田治部とか 石田の石高を妬んでた子飼いって誰?
石田を特筆する理由はなに? >>73
石田と浅野長政の不和はどうなんだろう?って話があるな
仲が良かったという確証もないみたいだが…
浅野は根っからの親家康に見えるけどそれはあくまで後世から見ての話で
見方によっては長政は秀吉の死の前も後も豊臣政権寄りだったと見ることが
できるって説を見たことあるが……なにで見たんだっけな。 >>80
豊臣政権よりでも石田路線支持とは限らんわな。 石田路線ってどんなの?
とにかく家康排除みたいな? >>80
江戸時代も大名として残ったから、親徳川って見られてるんだろうな。
でも、家康暗殺計画の謀議に加わったとして、蟄居されてる。
家康と組んで行った出来レースと言われてしまえば、仕方ないけど。 >>82
結局は家康を体制の中に置くか外に叩き出すか、って路線じゃね?
家康と決戦して勝てばいいけど、負ければその覇権を確立させるだけだし(実際そうなったし) 浅野は余裕で生き残り
石田と長束は一応子孫がいるが
前田と増田はどうなったんだ? >>85
浅野は息子の長晟が家康の娘(蒲生の中古)を孕ませた功績で生き残った。
高齢出産で出産後すぐに家康の娘が亡くなり、母のいない光晟を家康や秀忠が
不憫に思っての家康の外孫としての御家存続らしい。 玄以の子孫は旗本
長盛は息子が大阪の陣で反徳川に付いた責任を取らされ自決、子孫無し 長束や増田は関ヶ原で評価を落としてるよな
秀吉が奉行に任ずるだけあって素晴らしい政治家なんだろうけど >>11
関ヶ原直前には12万石に加増されてる。
石高以外では細川と縁が深かったようだ。正室は本多忠勝の妹だった。
大谷刑部が病さえなければ五奉行入りしていたという話は >>93
五奉行ってそんな固定化された組織じゃ無いだろ。
たまたま5人が指導的地位にいたから五奉行って呼ばれただけで。
6人いりゃあ6奉行になってたさ。 七人いれば7奉行か。竹下派の7奉行って誰々だったっけ。 橋本龍太郎 小渕恵三 梶山静六
小沢一郎 羽田孜 奥田敬和 渡部恒三 各人の地方大名とのパイプはどんな感じだろ?
詳しく知らないから、分かる人が是非教えて欲しい。
石田:佐竹・津軽
浅野:
増田:長宗我部
長束:
前田: 長宗我部元親は、信親の死語、盛親を跡継ぎにするに際し、増田長盛を烏帽子親とした。
盛親を後継にきめたことは、後世、作家などが、いろいろ書いているが、実際は、
信親 ←信長が烏帽子親
香川親和 香川信景養子
津野親忠 津野氏は土佐七雄の名門で一条家重臣
と、それぞれ引きずるものがあったので、新たに豊臣政権下での外交力を高めるために、とくに考えて増田に近づいたと思われる。
元親が増田のことを高く買った理由は、単純である。
彼が非常に才能あふれた人物だったからだ。
増田は微禄から秀吉に仕えて、もとは槍働きで名をあげた。
小牧・長久手では先鋒をつとめて徳川軍と戦い、敵将の首二つをあげる殊勲をたてて二万石に増封されている。
その後も、九州征伐、肥後一揆鎮圧、小田原の役、朝鮮出兵、
とほとんどすべて秀吉の戦さにかかわった。
朝鮮の役では兵を率いて渡海して、実際に現地で戦いながら、兵站を調整する任務にあたった。
そのあたりは三成とは大きく違う点で、現場たたきあげの実務家であった。
もともとは勇武の人だったが、逆をいうと、そういう男は秀吉政権にはゴロゴロしていた。
途秀吉も増田の才能に気づき、途中からはもっぱら内政家として重用した。
増田の算学、経理の才は傑出していて、太閤検地は彼がいなければ成功しなかったといわれている。
外交官としても優れており、元親のほか、上杉景勝などを担当した。
また、小牧長久手で戦った家康からは、その武勇をほめられて、以後、昵懇となり、このことが関ヶ原の増田の動きに関係してくる。
いかに秀吉が増田を買っていたかは、大納言秀長の死後、
その領国の大和郡山に増田を入れたことからもわかる。
この時点での禄高は浅野長政とならぶ二十二万石であり、石田三成より上であった。浅野は豊臣家に親類ということを考えれば、別格扱いである。
ちなみに先の長宗我部との関係だが、サン・フェリペ号が土佐に漂着したさい、
秀吉は増田を土佐に派遣している。
元親と増田が仲がよかったことを知ってのことかもしれない。増田は土佐に一月ほど滞在して、この事件を調べた。これが後に、秀吉によるキリシタン追放につながる。
関ヶ原での増田の行動は、いいろいろといわれている。しかし、彼の行動が豊臣家を滅ぼし、徳川の天下に大いに益があったことは間違いない。
増田は功績は残るが、逸話が少ない人物で、性格もはっきりしない。
彼は主君の下で与えられた仕事には十分に力を発揮する。しかし、混迷した世を自らの才気で渡ることは苦手でたったのかもしれない。
素が槍働きで成り上がった武将であり、世の動きはさほど見えていなかったからかもしれない。そのあたり、福島正則とにている。
晩年は、家康にいいように使われて、豊臣家からも恨まれて自身も大いに悔いが残ったとおもわれる。
関ヶ原の後、領国を失った彼は、高野山に隠棲した。
子の増田盛次が大阪の陣で旧知の長宗我部隊に属して、藤堂家と戦った。
藤堂隊はこのたたかいで壊滅的な打撃をうけ、長盛はその責任をとらされて切腹させられた。長盛はこの時、怒りもみせず従容として腹を切ったという。 石田はなぜか島津を異常に気に入って
石高が減って困窮する島津に貨幣経済について教えて
助けちゃったことがあるので仲がよかったらしい 義久と家康があったのは実は太閤死んでから。
まあ、死んでからソッコー会いにいったわけで息子を笑えない可愛い性格だとおもた。 中老って実質働いていたの
中村一氏以外誰がいたのですか。 堀尾吉晴 生駒親正
あまり機能してない
とくに堀尾は親家康でいろいろと策動してる 実は、五奉行が五大老(年寄り)
実は、五大老が五奉行 五奉行同士は仲良かったのだろうか・・
前述の増田とか経歴みるかぎりでは、三成と仲悪そうだが・・・
そのあたり書いている本とか、ほとんどみたことないけど >>120
仲が良い悪い以前に、立場や利害がバラバラ。 そもそも五奉行って「五奉行"内"」といえるほどその中でミーティングしたり調整したりしてたのか?
人事の部長や経理の部長をまとめて「五部長」て呼んでるようなもんだと思ってたんだが。 寺社対応の前田以外の四人の仕事って、秀吉の死の直前まで
けっして分化されていたものじゃないんだよね。
堺屋はビジネス小説としておもしろいように
石田社長室長、長束経理部長、増田総務部長etcって感じに書いているけど、
すくなくとも東北の縄張りとかの当りまで、
三成と浅野が組んで検地とか、日常茶飯事。
全員総務、全員庶務、全員経理。
ミーティングや調整はその時一緒に仕事する相手としょっちゅう。
ちなみにその時の奉行は五奉行だけじゃなく、大谷、木村、富田などの面子も
五奉行と同格で入っている。
そいつらの中で最後に政争で秀吉側近に残れた5人(4人?)が五奉行と言われるだけであって。
ようするに秀吉の奉行集団の呼称だってことね。
小西行長、宮部継潤、富田一白、大谷吉継もくわえると、
9人ぐらいかな。
このメンツの関ヶ原の動静をまとめてみました。
ガチ西軍:
石田三成(西軍・関ヶ原)
小西行長(西軍・関ヶ原)
大谷吉継(西軍・関ヶ原)
長束正家(西軍・関ヶ原・南宮山)
ガチ東軍:
浅野長政
秀忠付きで関ヶ原に遅参
死亡:
富田一白
関ヶ原前年に死亡・子の知信は東軍として安濃津城に籠城
宮部継潤
関ヶ原前年に死亡・子の長房は初め東軍につくも、なぜか西軍に寝返った
裏切り者:
前田玄以
大坂在。表面上は西軍を装いつつも、家康に内通し、三成の内部情報を家康に流した。
戦後、その功績により、本領を安堵される。
謎:
増田長盛
秀吉死後は反家康勢力結集のために精力的に動き、三成とともに、
中心的な役割をした。大坂城に在勤。
秀吉死後、一時的に豊臣家の蔵入り地の管理を任され、
自領とあわせて120万石以上の兵力の権限をもったが、
関ヶ原には一兵も出さず、立花宗茂が島津義弘、毛利輝元らと増田の兵力をあてにして、
大坂城での籠城、あるいは再決戦を仕掛けようとしたときも、
増田は拒んでいる。
戦後、三成とともに関ヶ原の役の首謀者として所領を没収されたが、
大坂城での西軍の再結集を阻んだことを評価されて、高野山に蟄居させられた。
こんなものかな。
皇紀2668年4月26日(土) エクストリーム聖火リレー 勢力構成
◇赤軍
シナ人 約2000〜3000名
シナ工作員 推定1000名くらい
青装束軍団(特殊工作員) 2〜6名
売国マスゴミ 推定200名くらい
売国左翼・売国日本人 推定数百名
朝鮮人 推定数百名
邪火ランナー(星野、有森、萩本等)
機動隊・警察・公安 2000〜3000名
◇我が軍
ネット連合(2ch、mixi、ブログ等)
穏健派・撮影部隊・通信部隊等 推定200〜300名
ネット連合 過激派(消火班、武装派、ウンコ・ギョーザ投てき) 推定100名
チベット・ウイグル・モンゴル・台湾人 数百名
国境無き記者団 約50名+ボス
新風 約50名
街宣右翼 約50名
仏教徒・仏教関係者・善光寺 推定数百名
反中日本人 推定数100名
欧米人・欧米マスコミ 推定数百名
一般マスコミ(産経・関西のテレビ等) 数十名
宇喜多勢 1名
^^^^^^^^^^^^
◇中立勢力
一般日本人 数千〜数万名 (←ここを味方につける必要あり!) 浅野って親父の方が先に豊臣見捨ててるよな
長男が清正と組んでるのみてもそう思う 福島も黒田父子も徳永も蜂須賀も奉行扱いだけどね
小西と加藤清正は奉行ではないけどね 浅野は秀次殺害の時点で豊臣を見限ったと言う節が感じられないでもない。 >>131
家康とガチ友になった時点で、
半分裏切ったようなもんだけどな。
寺沢広高は長崎奉行。
小西、三成に非常に近い(実際関ヶ原前まで仲間のようなもん)だったけど、東軍。
>>132
寺沢正成(広高)は三成が清正や黒田長政に襲われた際に、三成の使者として
小西行長とともに毛利輝元のところへ使者に行っているし、朝鮮出兵時の動向などを
考えても小西や三成と近いんだよね。
まあ、家康の会津征伐に着いて行ったあと、なりゆきで(というか当然の流れとして)家康に味方した
という流れだと思う。 五大老が、ほんとうに名前だけで、
豊臣政権の将来なんてどうでもいいと思っている連中だったんだから、
せめて五奉行は・・・って秀吉も期待しただろうし、
その期待を背負っての三成らの行動だったんだろうな。
一応、表向きは五奉行は全員で足並み揃えているようにみえる。
問題は三成が嫌われていたことかもな。
もし、関ヶ原で三成が勝っていたら、
本来並列の関係であった五奉行内で、あきらかに、
三成>(大谷・小西)>>長束>>増田>>前田>浅野
みたいな直列の序列ができそうだ。
三成嫌いには、それは耐えられないだろう。
だから、増田、前田、浅野はああーいう行動したんじゃないかと。 増田は内通はしていたけど、
積極的に裏切ったとは言えないし(家康の書状公開はいたかったけど)
東軍も何人か三成に内通していたんじゃないか?
当然その辺りの書状は闇に葬り去られているだろうけど。 >>136
もしあなたが社会人なら、
好悪の情とか、しがらみとか、意地とか、全くなく、
ビジネスできていますかね?
社内人事とか、BtoBの取引とかでも、全くそれはないよ。
関ヶ原は、
そういう意地としがらみにがんじがらめの上で、さらに利害が選択に加わるから、
おもしろいんだとおもう。
増田長盛の息子盛次は大阪冬の陣は徳川方として大坂城を攻めていたが、
突如出奔して夏の陣では豊臣方として戦死しているんだよね。何故だろうか。 >>138
利害以外の思惑が強いのは宇喜田と福島と大谷位じゃね?
後は結局利の方が大きい。
三成嫌いなのは細川とかもだけど、この時点で領土もらって
人質も徳川に出している。この時点で利の方が上じゃねーか?
三成暗殺部隊作った黒田は関ヶ原の立役者の一人で
これも利の方が上。
好き嫌いもおもろいが、利でキッチリ釣った家康は見事だね。 >>135
増田って三成嫌いなのか?
前田や浅野は嫌ってそうだけど 奉行といえば、朝鮮で元親タンに怒られた垣見家純を忘れてはならない。
ショボイ男ながら、関ヶ原では、キッチリ筋は通して死んでいったぞ。
>>138
利のがウェイトが大きいって主旨に0か100かの2元論で反論する馬鹿
利より情な社会人なんていますかね 宮部や富田は初期の奉行と呼べるのでは?
彼らの引退後に浅野と長束が代わった。 浅野は初期の奉行でねーの?
浅野が秀次事件で一時失脚してその二人が代理みたいにしてたような 宮部継潤は世代的にも随身時期的にも、蜂須賀や前野の次にいた人間。
浅野の一時失脚時というよりはむしろ秀次に連座して切腹した
前野の穴を埋めるショートリリーフとして引っ張り出された感が強い。
奉行としての実務と言うよりは、格的に、
秀次派を粛清しても豊臣を支える古老はまだまだいるよ、と内外に示す感じで。
保守穏健派の長老の一人で、万時そつのない継潤はそういう役にはうってつけだろうね。 めちゃめちゃ古参なのに秀次事件なんかで切腹させられちゃった前野カワイソス 秀吉はそう言う、昔を知っている古参を処分したかったんだろ。 そう考えると蜂須賀彦衛門の方はいい時期に亡くなったのかもな 一部の連中は、歴史群像の秀長の話にあったカネの問題に深く首を突っ込んでたんじゃないかな?とくに古くからの連中は成り上がりものだから金に執着しそうだし
だから前野とかは消えた気がする 古参の連中というと、御子田正治や尾藤知宣なども粛清されているよな。
神子田は竹中半兵衛が後継者指名するほど優秀だったから嫉妬で粛清
尾藤は縁戚の三成が約束守って敵の降伏兵とその城下の人間を助けたせいで
秀吉が「はぁ?おまえなに生真面目にやってんの?俺に逆らった奴は
すれ違っただけで皆殺しにしろよ」とつっこんで三成が「助けるって約束したのは
あんただろ。約束も守れねーで天下とる気かよ」と突っ込んだ腹いせに粛清
(三成はお気に入りだったので免れた代わり)
秀吉最悪だな
古参の臣を大事にしない時点でそりゃいざとなったら豊臣に味方する大名いなくなるわな
豊臣は滅びるべくして滅んだということだ まあ、秀吉に限らず織田系の武将は、「困ったら皆殺し」が基本だしなあ。
逆に「何で皆殺しに出来るのにしないの?」って、驚いただろうな。 まあ、狡兎死して走狗煮らるという言葉もありまして、功臣を粛清するのは古来からよくあること。
煮られないようにするにはある程度時期が来たら
やーめたといって領土もなにもかも全部投げ出して隠遁だろうか
でもそれだけしても担ぎ出されると・・とか思われて刺客が追っかけてきそうな気もする
失踪して行方不明になるしかないのか?生き残り大変だね 尾藤が九州征伐でとんちんかんなことやってたからってなにも処刑しなくても…
秀吉酷過ぎるよ… >>161
秀吉は処刑大好きだからねえ。
人が苦しんで死んでいくのを見るのが大好きだった節がある。 小田原攻めの際に許しをこうべく参じた尾藤を処刑しているし、
神子田もにたような感じだったはず。その一方で仙石さんは
あれだけの失敗をしてもあっさり復帰していたりするし、
秀吉ってかなり恣意的な処断を下す傾向があるような。 でも、残虐な信長とは違って、血を見るのは嫌いな太閤さんってイメージがw 信長のほうが甘いこともあるんだよな
使えると思ってる時期は反乱すら許すし(後で復讐するけど。
ただし佐久間や林も問答無用で追放したのではなく隠居しろとか妥協策は提示している)
身内にもとことん甘いし(弟除く。捕虜になったり逆らった兄すら許す。子供にも甘い) >>164
秀吉の残忍さは、子供が小さな虫や動物をいたぶるような、そう言う、独裁者特有の残忍さだな。
とにかく見せしめの処刑が大好き。既に浅井長政の嫡男への処刑の仕方あたりから、秀吉の、いざ強者になったときの
異常なサディズムがよく現れてる。
アレに比べりゃ信長の黄金髑髏なんて、可愛いものだ。 信長は黄金頭蓋骨作ったりしても注意してくれる家臣がいるんだよね
文句言う人物を大切にしてる感じもするし
秀吉の場合諌言したら基本殺されるから(汗 >>169
えw
浅野とか、どんだけイエスマンなんだw 秀吉が馬周りを勤めだしたころからの
同僚部下武将は秀吉の出世の過程で全て戦死か左遷。
あ、秀長除いての話ね。
これからも秀吉が決して人使いの良い人物ではなかったという理由になる。
結果、人材不足で徳川に反乱を起こされたw 五奉行増田長盛の子増田盛次を討ちとったのは
藤堂家に仕官していた旧石田三成家臣磯野右近の子供 しかもその磯野行尚(盛次討ちとった人)は
関ヶ原で三成が落ちるときに塩野、渡辺らとともに
最後までつき従い三成が解散命令出すまでずっと一緒にいた人物 >>175-176
増田は右府に内通してたから、因果回るって感じだな。
浅野に変わって 五奉行になった 富田信孝は江戸時代に入って津藩で残り 伊予転封後 大久保長安事件に絡み改易だよ >>179
富田も五奉行に入ってたのか。他にもそういう人いない? 内通みたいな不名誉でストレスのたまる仕事してやっと本領安堵。 >>182-183
茂勝は頭がおかしくなったんだっけ?
浅野と三成以外はとんだヘタレ
何だったんだろうなこの集団は >>188
増田・長束・前田に何を求めるんだ?
逆に自身の力量を勘違いした石田三成の方が何だったんだろう? 石田三成を好きな奴がいる事が信じられん
どこに好きになる要素があるんだろうか 家康の方が「奉行」。三成は「年寄」や。上下関係を弁えんとな! こいつら、まるで官僚みたいな動きしかしてないな。
官僚(奉行)が大坂での実権を握ろうとして、
政治家(大名)に反旗を翻したが、大物政治家に敗北したみたいな >>191
戦国の世に、ほとんど脳みそだけで形の上では家康と五分まで持っていった凄まじい権勢。 ただ、急いで形だけ整えた中身が全く伴っていなくて、上杉や佐竹との連携もダメダメだったのが残念
結局、大谷が懸念した通りだしね
結果として、家康の手の内で泳いでいただけだったと
手のうちで泳がされてたというが、家康のが綱渡り的でギリギリの博打だったと思うが。 >>193
実際官僚だろうが。何言ってんだお前は? >>196
形としてはギリギリだが、全て家康が前もって図面を幾つか用意していたからああなったんだろう
宇喜多を弱体化しておいたつもりが、明石の奮戦で戦況がかなり際どくなったのは予想外みたいだけど
しかし、そこは明石(ついでに秀家)を誉めるべきところ
>>198
上方を離れた時点で誰がどっちにつくなんて全く分からんぞ?
関ヶ原で戦いましょうなんて約束をしてるわけでもない。
そもそも大阪城がバックにあって、しかも畿内をほぼ掌握されてるから
勝てるはずのない戦いで東軍側はほとんど一か八かの賭だよ。 寝返り風聞が激しい小早川に依存した戦術を関ヶ原で用いた三成の才覚の限界
人の心を理解できない三成の戦采配は狸親爺に通用はしない 小説でありそうな決まり文句だな、石田が嫌いなのはよく伝わるがw
小早川に頼らざるを得ない戦況なのは家康も同じだろ
>>198
群を抜く実力者の家康がきっちりお膳立てして動いても
ギリギリのところまで持ち込まれたってことだ
あと予想外というなら西軍首脳が関ヶ原での戦を想定して
前もって要塞化していたというほうが重要
奮戦なら石田、島津、大谷、小西(とその家臣)も入る
同時代的には小早川秀秋は、むしろ律儀だと言う評価だったらしい。 うぃきぺでぃあ見ると、当時は五奉行は年寄、五大老が奉行って呼ばれてたそうな。
豊臣家の家老が5奉行で、天下仕置の奉行が5大老ってことか? >>200
依存も何も、当初の予定とは違う場所に秀秋が布陣しただけ。
三成が置いていた門番の兵を押しのけて、山に登ったんだぞ。 そういや、増田に関しては家康にいち早く三成達が挙兵した事を知らせたりと
確実に内通してたみたいだが、同じく内通してたと言われる前田の方はどうなんだ?
何か内通の根拠でもあるの? >>205
増田長盛については、「挙兵の二段階論」をどう考えるかによって
変わってくると思う。三成・吉継が謀議していると垂れ込んだのは
三奉行だったはずだけど、増田長盛ってこの後具体的な行動をとってたっけ?
三成と長政を除いた連中を三奉行といったりするけど、こいつらの間にも
かなり行動に温度差があるので、一概には言えないし難しい所だ 長束の一族や家臣がwikiに出てるけど、あんなとこか? 三成かっこいじゃん
福島とか黒田はタヌキにしょんべんチビって逃げ出したヘタレ
正面から向かって行ったのは三成だけだよ 三成「家康なんてぶっ殺せ!…って毛利輝元さんが言ってるぞ!」
輝元「ええ!?俺!?」
桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日)
小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日)
>>218
先行研究がそんなにあるわけではないんですね。 >>218
これだけあって、一般向けの「五奉行」本が出てないのか? 一般向けの雑誌で「五大老・五奉行特集」を企画してほしい。 石田以外の五奉行を単品で専門に研究してる人っていないの? >>226
それぞれの領地の地元なら地方史家に山ほど居るとおもうぞ。 北堀光信「朝廷の存続と天皇の下賜−村井貞勝と前田玄以への下賜の成立と意義」(『奈良史学』21号、2003年)
曽根勇二「豊臣蔵入地支配の形成について−浅野長政の動向を中心に」(『東洋大学文学部紀要. 史学科篇』17号、1991年) 話をブッタ切ってスマソ
質問があるのですが…
秀吉が天正十三年に関白に就任した時
任命された諸大夫12人のメンバーを教えてください
石田三成、中村一氏、福島正則、大谷吉継、稲葉重通は解ったので
↑この五人で合っているのか?
あと残りの7人の名前を教えてください
豊臣政権で結構重要なメンバーらしいので
どうしても知りたいです
(秀吉関連ではここが一番まともスレらしいので…) 「関白任官記」によれば他の7人は
生駒雅楽頭政勝(近規)、小野木縫殿助重勝(重次)、尼子宮内少輔晴久(ママ)、
柘植左京亮、津田大炊頭、古田兵部少輔重恒(重勝)、服部采女正(一忠)。
「歴名土代」で確認できるのは以下の10人。
平一氏(中村)、源吉継(大谷)、源宗澄(尼子カ)、平勝次、藤三成(石田)、
平重長、平正則(福島)、藤重執(稲葉)、藤近規(生駒)、平吉広 >>233
尼子宮内少輔晴久は誰の誤伝なんだろうw
修理大夫、民部少輔にしかなったことないのに。 >>233
ほんとこれ誰なんだろ
尼子さん。亀井あたりが尼子を名乗るかな(名乗らんような)
しかしムックとか中級者・初心者向けみたいな書籍には
信長軍団とか徳川軍団の本はよくみかける印象があるけど
秀吉軍団とか豊臣軍団みたいなのは見たことがないなあ。
御伽衆一覧とか、あっても良さそうじゃないの。 蒲生氏郷、細川幽斎、堀秀政あたりは外様でもあるが、
秀吉政権においては重きをなしているイメージがあるなあ
下手すると後の五大老の上杉なぞより食い込んでいる感じがする それは彼らが秀吉政権の前身である織田政権の勢力だから。
政権確立後の秀吉の課題は、絶対性の確立のためそういう織田勢力からも距離を取ること。 >>239
なるほどね。そういう意味では蒲生と細川は
明暗を分けたというと言い過ぎかもしれんが
幽斎のつかず離れずの政治感覚はたいしたもんやね
>>241
秀吉が隆景の死後秀秋を大老にしなかったから。以上。 太田牛一の「大かうさまくんきのうち」に見える朝鮮出兵に随行した御はなし(御伽)衆
富田左近(一白)
由己法眼(大村梅庵)
不干(佐久間信栄)
金森法印(長近)
有楽(織田長益)
休夢(小寺高友)
寺西筑後(正勝)
稲葉兵庫(重通)
猪子内匠(一時)
青木加賀右衛門(重直)
新庄駿河(直頼)
木下祐慶
山岡八郎左衛門(景友)
羽柴下総(滝川雄利)
生駒主殿(忠清)
樋口石見
岩井(祝)弥三郎
宗安(万代屋)
宗無(住吉屋)
宗薫(今井)
宗瓦(武野) 結構メジャーな人も混じってるな
新庄なんてまだ生きてたんだ >>243
超GJ
これに未出の大物は善祥坊くらいか。
あとは(思いつくままだが)斯波、六角、京兆細川、山名、有馬あたりの旧大名系。 >>240
そういや幽斎の息子にも御伽衆がいたのでは。
如水と幽斎、やはりあなどれなかったんだな。 史料価値は落ちるかもしれないが、小瀬甫庵の「太閤記」にある秀吉の
「御遺物之事(形見分け)」の記事に見える「御咄の衆(御伽衆)」
織田常真(信雄)
織田有楽(長益)
織田民部少輔(信兼(包))
富田左近将監(一白)
宮部法印(継潤)
有馬中務卿法印(則頼)
桑山法印(重晴)
羽柴下総守(滝川雄利)
兌長老(西笑承兌)
古田織部正(重然)
寺西筑後守(正勝)
柘(植)大炊助
稲葉兵庫頭(重通)
新庄駿河守(直頼)
佐久間不干(信栄)
奥平牧庵(貞能)
中川宗半(光重)
住吉屋宗務?(無)
山岡道阿弥(景友)
前波半入(勝秀)
江雪(板部岡融成)
山名禅高(豊国) >>249
Pizza康さんの口利きでその後復帰したんじゃなかったっけ
信雄も波瀾万丈だよなあ 本来五大老を五奉行と呼ぶのが正しいんだぜ
そして五奉行は五年寄と呼ぶべき >>252
奉行に処せられないことが豊臣政権の脆弱性の証。
家康ちゃん奉行宜しく!なんて調子こいたら
いや家康どころか島津あたりでも黙ってない 当時大老・奉行なんていうはっきりとした肩書きがあったわけじゃないから、
五奉行は大老の事を奉行と言い、大老(家康)は五奉行の事を奉行と言った。
「年寄り」「お年寄り」というのは所謂「家老」の事であり、
お互いが自分達こそが豊臣家の家老であると主張し、
相手方を実務官僚であると言っていたって事だな。
秀吉は彼らの事を「五人の衆、五人の者」としか呼んでおらず、
「年寄り」と言ったというのは浅野の記録にしかない。 浅野長政って秀吉にとってはそこそこ「便利」な人だったのかね?
特に秀でているということもないが、大外しもしないしとか。 便利も何も重鎮そのものだろ。秀長、蜂須賀正勝、浅野長政が秀吉政権初期を支えた
主要メンバーというべきだ。 >>257
秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
どれほどまで出世したんだろうね。
>>258
神子田、尾藤、前野‥‥‥最期がひどいな。
蜂須賀△ >>259
> 秀長も長政も優秀だとおもうが、秀吉の縁故がもしなかったら
> どれほどまで出世したんだろうね。
それは意味のないIFだな。秀吉が信長に見出されなければどこまで出世したんだろうね、
というのと一緒。 仮に浅野長政が秀吉の縁者でなかったら、
奉行になれたかなれないかはもちろん、
奉行職を全うすることもできなかっただろうな。 取次だった伊達から絶縁状出されるって凄いわな。
「ご指南」である浅野に対してそんな事言ったら、
取り潰される可能性も十分にあるのに余程我慢できなかったんだろうが。 >>263
浅野に対して十ヶ条の不満を言って、最後に、
浅野殿の所に参る事も、申し入れる事もしません。ご指南も頼みません。
なんだったら上様にこの事を言ってくれても結構です。
って言って以降絶交。
まぁ、秀次事件で連座させられる事を恐れて、縁を切っとこうと思ったんだろうけど、
与力の身でこれは結構危険な行為だね。まぁ、政宗らしいっちゃらしい。 >>264
凄いねw 言い渡された浅野もメンツ丸つぶれだったろうね。 浅野は豊臣政権の重鎮の割りに、感情に素直過ぎる印象 秀次事件で召喚された時に、
政宗がビビり中々、出立せずに
浅野が政宗待ちしてたら
二人とも上洛が遅れた。
浅野が死刑にならんように
利家が全力擁護した時に
政宗待ちしてて遅れた話を秀吉にしたのを
又聞きした政宗が、
こりゃ死刑の浅野と口裏を合わせのために上洛が遅れたと言われるとやべえと政宗は思い
大借金させてもらってる利家にも
あまりに伊達に対して情がないと逆ギレし
浅野にデタラメな内容の絶縁状を送って自分は浅野なんて嫌いアピールしてから
たまたま秀吉の命で喚問にきた東国取次役の家康の使者に泣きついて家康に策を求めた。
そして泣いて土下座し、改易になる話を聞いた家臣が俺の言うことを無視して叛乱するって言い出して制御できないし、
殿は恥知らずになるくらいなら自決してよとか言われたけど、
まだ死にたく無いと言ってるのを聞いた秀吉が思わず笑って許した。 >>269
家康の読みが深い、
さすがに神君!
ってことにして欲しいコメだと思うんだが ちょっと前に水口場跡行って来た。
岡の上で佇んでいると、長束正家の気分になって来た。
長束は天才的な理系なんだけど
某映画で一人悪役にされて割食ってたな 水口城主長束大藏大輔正家は、池田輝政と講話したが、開城の条件とは裏腹に切腹を強いられ、首は○○○に晒首された
又、下野担当の浅野長政は、下野宇都宮城主宇都宮下野守国綱に息子を養子にするよう強要したが断られた為!
年貢を過小評価して差し出したといちゃもんつけて廃絶。 増田長盛は家康に情報流して生き残ったのに、
息子が大坂の陣で豊臣方に走った責めを受けて切腹だっけ? 増田盛次の大坂参加は、徳川幕府に対する反逆で、逆賊朝敵の汚名により増田右衛門尉長森は切腹。 増田が流したのはフェイク情報
信じた家康は見事に騙された。 20万石にも満たない三成が単独で徳川250万石と戦えるわけが無いだろ馬鹿か
北からやってくる前田軍と東からやってくる徳川軍からの挟み撃ちになるな>大垣城 三成が忠臣だったとは限らん 西軍大勝利で一気に発言権と所領が増えた後、
どんどん独裁化していって秀吉が織田家を下克上したように秀頼を乗り越えたかもしれん >>268
政宗3度目の涙ながらの土下座であった… >>287
それよりさらに力をつけた毛利と上杉が豊臣家をないがしろにするかもしれんよ 逆だろうな。有能すぎて組織の必要性がわからなかったのが秀吉だろう。 しかし、五奉行といえば現政権の中枢なのに
乱に負けるとあっさり斬首なのな。
まさに時代が一日で変わってしまったんだろうな。
家康が好き勝手した時に、豊臣家が立ち上がって成敗しない時点で詰んでるわな。
江戸幕府は豊臣家を総攻撃して潰したのに。 好き勝手ではないな。実際は三成ら奉行派の難癖。
その証拠に三成が糾弾した家康の婚姻問題は、前田利家との手討ちの時には和解条件にすら上がっていない。
利家すら大名間の婚姻許認可が家康にあったと認めているわけだ。 >>295
家康が難癖つけて奉行らの意向も無視して秀頼様を見放して会津へ行ったのだから
奉行らが内府たがい条(三成は署名してないからまったく関係ない)で糾弾するのは正当行為。
それに婚姻問題があったから家康と利家が会談したのだし「認めた」のでなく
表向きは三中老、裏では利家側清正・忠興・幸長らが戦争回避で話合い決着させるべく調停しただけ。
家康は伏見城を出て向島へ移住する譲歩を病身の利家は取り付け妥協。それ以後の前田の話は下記の通り。
413:人間七七四年 05/18(水) 15:21 WC6hhR0g
下記の出典ソースを探してるんだがわからんので教えてくれないか?家康による加賀征伐に対し
前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて
豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため
418:人間七七四年 05/22(日) 05:49 GtxX8I5W
>>初め交戦派であった利長
完全にウソ。そもそも利家から3年は大坂城から離れるなと遺命があったが
秀頼補佐の遺命を破棄して帰国した謀反人だったのが利長。
この役目放棄を「御運これ末か」と宿老筆頭の村井長頼や奥村永福らが嘆いてる。
家康の謀反者利長討伐宣言を宇喜多(一説に細川)から聞かされただけの話。
織田関連でwikiに書いてあるのはウソばっかりだから信じるな。
遺命に背いて秀頼を見捨てて領国に勝手に帰っておきながら秀頼を補佐していた
大老家康が討伐するって宣言すると豊臣に助けてなどと言い出したのが事実なら利長ってマジ基地害だな。
家康の勧めで帰国したと記述してるのは三壺聞書(三壺記)という加賀藩の足軽山田四郎右衛門が書いた覚書だけ。
前田家擁護の書にしか出てこないデタラメだから。明らかに利長が勝手に帰っただけ。
(家康の圧迫に耐えかねて帰ったと加賀藩の鳴鶴集には書いてある。実際ヘタレたのだろう)
黒田文書に書かれているのは大名達が次々と帰国したとは書いてるが大老が勝手に帰ってOK!なんて書いてないし
だからこそ景勝が「太閤様から帰国の許可を頂いていた」と反論していたわけだ。
しかし前田家が帰ってよいなどと許可は出していない。
だいたい利家は柴田を見捨てただけでなく親しかった秀次をまったく弁護せず死刑を放置
(その時期の利家は京にいて、家康は江戸にいた)
利長は姉妹の豪のダンナである秀家を見捨てるなど有軍を裏切って肥え太る術だけで加賀百万石を築いた天下一の泥棒大名。
ちなみに利家夫妻はお拾いと秀次娘の婚姻仲人に決められていたし
秀次が死んだ後、利家は秀次と親しかったこともあり秀次の伏見の邸宅を貰い、秀次の家臣の一部も併合してる。
しかも秀次が死んだ後に宇喜多と前田は常時在京してお拾いに奉公し自分勝手に領国へ帰国しない。
徳川と毛利の2家はいずれかが必ず在京する。この約定が決められており利長の帰国は謀反以外のなにものでもない。
前田がバカやった挙げ句に家康に土下座して人質出して屈したから家康は調子こいて上杉を恫喝した。
そもそも利家からして家康の約定破りを許して親しいアピールやって
五奉行から見事にハシゴを外す暴挙をやってるから親子揃ってヘタレ馬鹿。
愚主利長と違い次男は反家康だったからこいつを当主にすれば良かった。 実質、豊臣家を滅亡に追い込んだのは前田家 ヘタレ大名利家以来の決断力の無さが秀吉や家康の覇権を後押しした。
利家は信長の下にいて
すべての決断を信長がやってくれてる時代は輝いてたのに
自分が決断する立場になるとビビり過ぎのタダの高利貸しドケチに落ちた。 利家って基本的に
忘恩のドケチだろ。
信長が死んだのを知り
魚津から撤兵してた途中の
放生津でみんなで宴会して楽しんでるし、
(利長と信長の娘が安土城に向かっていたのも気にしない)
柴田から信長の仇討ちやるから兵出してってのも
利家は拒否し、どうしてもやりたいならちょっとだけ兵出すけど…とやる気無しぶりだし、
天正14年に大徳寺が信長の位牌所になりたいと頼んだら、
利家は「いやそんなのやらなくていいから、
俺のオヤジを祀れ」
って言ってオヤジの絵画を作らせ飾らせてる。
実は完全に信長が嫌いだったのが露呈してる。
浅野長政ってよくわからん存在だよな
いまいち好きになれない 宇都宮氏改易は浅野が一枚噛んでいたそうだが、真実、養子を断ったから逆恨みに讒言したというなら許せないな >>290
毛利上杉の二巨頭状態なら豊臣スルーはするかもしれんが潰される事は暫らくないんじゃね?
豊臣潰したら二巨頭同士でぶつかり合う事になるから緩衝材的な意味で。
史実では残念ながら徳川がでかすぎた。 五奉行のマイナーな方の人を扱った面白い本ない?
いろんな小説にちょこちょこ出てくるけど大していい扱いじゃないし
どんな人たちだったのか個性がつかめない
桑田忠親「豊臣氏の五奉行制度に関する考察」(『史学雑誌』46巻9号、1935年発行)
山本博文「豊臣政権の『指南』について―浅野長政と伊達政宗―」(『論集きんせい』11号、1989年5月発行)
阿部勝則「豊臣五大老・五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年9月10日発行)
阿部勝則「豊臣政権の権力構造」(『武田氏研究』10号、1993年4月30日発行)
宮本義己「家康と秀吉―内府゛律義”の真相―(『大日光』69号、1999年2月26日発行)
堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討―その呼称に関して―」(『日本歴史』659号、2003年4月1日発行)
小林厚太「豊臣氏五奉行について−特に発給文書の形成を中心に―」(『鴨台史学』7号、2007年3月31日発行)
堀越祐一「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』48巻、2010年2月14日発行)
清水亮「秀吉遺言と『五大老』・『五奉行』」山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実』(柏書房、2011年6月10日発行)
>>300
利家の遺言状を読んだ事があるけど、とても信長を嫌っていたとは思えない。
信長が死んで15年以上経っているのに、信長への強い思慕と尊崇の念が伺える
内容だった。
利家が嫌っていたのは秀吉じゃないかと思う。 増田長盛の立ち位置は最後まで謎でやることなすことが中途半端だな
忠節を尽くせばまた歴史に残って徹底的に家康に従えばそれはそれで大名として残ったものを >>302-303
浅野長政はよく五奉行の中で唯一の良識派みたいな扱いで
逸話だと三成が悪玉で長政が善玉みたいに書かれる話が多いが
この件が本当なら長政も大概な人だったんだなあw 騙し討ちの件は実話かどうかは定かじゃないような。
>>312
その類の話の殆どは落穂集とか常山紀談みたいな後世の記録だから信憑性わかんないしねえ 来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/ 秀吉家臣団の内幕 天下人をめぐる群像劇(SB新書)
って本に五奉行のことが書かれてた。 浅野はまだわかるが増田石田って
宮部より石高上なんだな
蜂須賀宮部黒田あたりに大封与えて
豊臣家の柱石にすればよかったのに 黒田も蜂須賀も石高的には石田や増田とそう大差ない
ただ柱石=政権中枢か?というとはっきり違う
黒田・蜂須賀ら武断派は天下統一後豊臣政権が制度的に確立してゆくなかで
政権中枢=秀吉の側近である取次や奉行職から外されていったわけで
じゃあ黒田や蜂須賀に検地や本格的な行政職がつとまるか?というとふつうに無理だろ 蜂須賀黒田は大老準じる力のある中老くらいにしやってもよかったんじゃないか?
どーせ実務は奉行衆がやるんだし
さっさと隠居した蜂須賀はその気はないかもしれないが
その息子と孫は力を持たされれば豊臣家のために尽くしてくれたと思う
宮部は戦もできるし奉行経験もあるのに山陰にやったのがもったいないな 宮部や富田とかも奉行衆にカウントされることもあるらしいな >>322
宮部は老齢と後継者が若年のため大封を断ったんだよ
色々役割や立場があるから石高だけで比べるのは無意味 譜代連中は冷遇すればスネて非協力的になるしかといって厚遇すれば
つけあがって既得権益確保に走るので扱いが難しい。
豊臣宗家がしっかり首根っこ捕まえてれば問題無いのだろうけども
紆余曲折の末結局外様に運営委託するっていうアレな展開に。
そりゃ政権があっというまに分解したのも当然ですなわいな。 長束石田あたりに領主的実力が与えられたのは秀吉晩年期で
本来純粋な吏僚集団であるべき奉行達に軍事面での
役割が与えるというのは秀吉からすれば本意で無かったと思う。 明治政府のように薩長閥から次第に政策的対立を利用して土佐や肥後を排除していくやり方
足利幕府みたいに惣領任命権を使って相続操作をして大名を統制するやり方
これらもいろいろ難しいからな。
秀吉が家康みたいに75歳くらいまで生きていたら安定していただろうに。 本人も寿命もそうなんだけど一族の人間が立て続けに死んだうえに
関白を譲った秀次が問題児だったというのはかなり痛かったと思う。
秀吉死後豊臣家の存在が半ば空気した根本はそのあたりだし。
奉行衆を大名間抗争に対応出来る集団として早い時期から
整備出来ていれば結果は違ったかもしれないけれど流石に後知恵か。 10年位前にあった「長束正家で1000目指す」スレの次スレって
結局どれになったか知ってる方います?
ログ読み終わったんだけど次スレの相談までしてたの次がどうなったのかわからない。 安定期を迎える前に秀吉が死んでしまったのが原因だな。
政策上の失敗は別段無いのだから。
強いて挙げるなら筑前筑後を三成が断らずに受けていたら奉行衆の発言力が強化されていたのだが、
それはそれで武断派が逆上して逆効果かも知れんし。 >>334
いや秀吉の政権構想がぶれ気味だった点は失敗だと思う。
大まかに言えば一門+擬似一門中心→関白秀次→大老奉行制と変化してて
その過程で結果的に奉行衆の役割や実力が中途半端になった。
勿論秀吉がもう少し長生きしていればそのへんの問題を解決して
強力な豊臣宗家を完成できた可能性はあるね。
領地だけじゃなくて官位面でも奉行衆が優遇されなかったのは
おそらく武断派だけではなくて他の外様大名への気遣いという面もあったと思う。
なんだかんだで豊臣政権は大名連合的性格強いから露骨な身内贔屓は
簡単には出来なかったんじゃないかな。 身内って言っても秀長秀次死後は
宇喜多くらいしかマトモなのいないだろ
秀吉側も寧々側も残ったのはろくなのいない 身内なんて一杯いるじゃん
福島加藤前田宇喜多小早川木下 豊臣家が滅ぼされたのは単に秀吉が馬鹿だったからというだけ。
外様に大封やりまくって強大な軍事力与えたり特に徳川に200万石超えのチート国力やったり
政略婚とか盟約破りを平気でできる体制作ったり奉行衆の糾弾を軍事力で排除できるような
国力与えたり、徳川家との婚姻結んで豊臣継承の名分与えたり
秀吉は、秀頼と家康直孫との婚姻
秀次とその縁者殺し、キリシタン迫害、朝鮮出兵、家康への母妹献上、徳川の焼け太り版図&官位&五大老筆頭の地位
あっさり崩壊させられる外様優遇の雑魚政権体制、三成ら信用に足る奉行衆の石高と実威力の軽視、
家康に篭絡されるアホ武功派の優遇政策。
こんな体制じゃあっさり崩壊して当然 >>336
身内って別に血縁者限定の言葉では無いと思いますが。 序列なら、
聚楽第行幸の時に従一位になった北政所がトップ
次が出家して前がつくものの、正二位前内大臣信雄がNo.2
家康はNo.3に過ぎない。
もっと言うと摂関家の豊臣秀頼に対して、
清華成の徳川で明らかな身分差がある。
そして秀頼を擁する淀も北政所も信雄も実質的に西軍陣営。
家康に対するブレーキを秀吉は装置として用意はしてあった。
しかし馬鹿低脳武断派の常軌を逸した、
家康を悪用しての強欲を達しようとした行動のせいで、
うまく機能しなくなってしまった。
まさか秀吉も武断派が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう。 矢部健太郎氏が家康の伏見在京を、
大坂城と違い、戦う城ではなく、権威の城なので、
実際には家康を本国へ帰さない人質として意図していたと断じてる。
だから最高の家格を持つ秀頼を擁して大坂へ移転した前田に比べて
大名の人質や政権中枢ごといなくなった伏見城に残る家康はその脆弱さを実感したとする。
だから家康は伏見から大坂を遠隔操作ができるように、
家康徒党を大坂に作り、武断派に対しても惣無事違反・私戦禁止の御掟を破っても身の保証をして、
武断派クーデターを容認するなど謀略を繰り返した。
家康は帰国を勧め利長が大坂から帰ると、すぐ大坂を占拠し、
最高の家格である秀頼と家康は一体化してしまい、
秀吉が絶対に避けようとしていた最悪の事態となった。
そもそも家康は年内秀吉死去を伏せている情勢において
三成や浅野長政が朝鮮撤兵のために九州下向中の隙を狙い
蜂須賀や伊達や福島と婚姻をしていた。
この間、秀吉が生きていることになっているので、
家康が本当に御意を得たのか?
直接、秀吉に確認できない状況を悪用していた。 >>341
そういう身分差は平時に有効なのであって戦時にあっては意味も薄れる
三成が無謀な蜂起をして日本中を戦時に変えてしまったことで
秀吉が苦労して作り上げた摂関家や清華成といったものが台無しになった
まさか秀吉も三成が豊臣政権を崩壊に導くとは想定外だっただろう >>343
無知なバカだな。
その摂関成の豊臣と清華成の徳川という身分差のために、
家康は関ヶ原の論功行賞を秀頼の名前でやらざるを得なかったし、
朝廷も秀吉の勝利には勅使を派遣していても、
関ヶ原で勝利した家康には御使の派遣をする身分差別化で対応し、
豊臣家臣徳川が武家最高司令官豊臣を覆すことを難しくしていた。
この家格差こそが秀頼の関白就任の可能性を保証していた。
だから家康は豊臣家を滅ぼすのに、
さらに15年を要したわけで、
それまでに家康の寿命が尽きていたら豊臣家は滅びなかった。
秀吉は巧妙に家格の壁の仕組みを作り込んで豊臣家の延命を策していたわけだ。 秀頼の関白就任の可能性を保証していたとか妄想もここまでくると芸術だねw
きっと君の脳内日本史では関ヶ原後も延々と豊臣が関白を独占していたんだろうね >>345
24時間自宅警備の在日織田チョンくんは、
常に理論的ではなく、
豊臣や三成への憎しみを根拠に、
半島人の常識で語ってるから、
そうやっていつも論破されんだよw 豊臣家が残れば子孫は関白にはなってただろ
政治権力は他の家が握ってたにしてもな そのための摂関成だし。
関白職は豊臣、近衛、二条、九条、一条、鷹司の六摂家持ち回り制になっていて、
関ヶ原後に関白になった者のうち最低年齢が九条忠栄23歳であり、
これは年齢を言いわけに就任を遅らせる工作が通用口する
関白就任最低年齢を規定したことになり、
秀頼が23歳になるまでに家康は秀頼を殺す必要が生まれていることを意味する。
官位で言えば関ヶ原から半年後の9歳で従二位権大納言になるなど超絶な早さで昇進するなど、
朝廷が強力に秀頼をバックアップ。
なぜなら皇后が秀吉猶子になった近衛前久の娘であり、
後陽成天皇にとっては秀頼が義弟になるからである。 清華成ですらない家格の低い三成が清華成の家康を倒そうとするなど
奉行の家格を無視した増長によって秀吉の作り上げた秩序は危機に陥り
これでは豊臣の摂関成さえ危うい状況だったが
関ヶ原によって奉行が粛清されたことにより豊臣は秩序を取り戻し安定感は逆に高まった
三成の斬首によってむしろ秀頼の関白就任の可能性は上がったと言える >>349
はいはい無知乙w
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。 >>350
おまえまさか『秀吉遺言覚書』も知らんのか…。哀れにも程がある… 大老筆頭はともかく、太閤様御覚書から家康と利家の二巨頭体制だったってことまでは確実だよなあ 三成は清華成の秩序を無視し自分が豊臣の支配者であるかのような傲慢な振る舞いを繰り返し
小早川に関白就任を持ちかけるなど秀吉の定めた身分を蔑ろにしていた
関ヶ原での東軍の勝利は秀吉の秩序の勝利といえる
三成を処刑して晒し首にしたことで豊臣の摂関成としての権威は高まり
秀頼の関白就任の可能性を保証する効果を生み出した >>353
キチガイ織田チョンくんさ、
君、小早川に関白就任を持ちかけたとする一次史料がずっと出せてないよねwww
関ヶ原の結果、
強欲武断派が頑張り過ぎて、
棚ぼたで家康の武の名声が高まり、
幕府創設の権利を持つ征夷大将軍への道を切り開いたのだから、
親の武威を危うくした武断派の自爆でしょw
むしろ秀吉が作った家格装置が機能して関白職簒奪が不可能になっていたから武家関白として公武支配の頂点に立つのを家康は断念して、
武家の頂点に立つのが限界になった。 >>351
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。
早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。 いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。 秀吉から政権の運営を任命されたはずの奉行の有力者である三成が
何の権力もない武断派が押しかけた途端にあっという間にクビになるのがどう考えても不自然なんだよね
ドラマなんかでは不自然さを補うために家康の屋敷に逃げ込んだことにしているけど史実ではないと判明している
それに奉行に政権を担わせたとする秀吉の遺言は浅野家のみに存在し他の家には一切存在しない
秀吉の政権運営方針を記したのなら大勢の大名に渡されたはずだし
徳川が全て抹消したという子供じみた陰謀論も安っぽいだけで話にならない
だいたい秀吉にとって三成たち奉行はただの雑用係でありその証拠に官位も家格も低く抑えている
秀吉が三成たちを特別扱いする必要性がまったくない
それが清華成で最低でも中納言、最高で内大臣で石高が遥かに大きい大大名と同格に話し合うなんて
浅野家文書の遺言だけが突出して不自然でありこれまでの秀吉の行動と結びつかない
これらを挙げて矢部健太郎氏も浅野家文書の遺言は秀吉死後に手が加えられた可能性があるとしている
秀吉の遺言には奉行たちを政権運営者にする話などなかったと考えられる
そうなれば三成が権力を奪うために無謀な謀反を決行せざるを得なかったことも
家康が大坂に帰還した際に三成の迅速な処刑を豊臣恩顧から要求されたことも
全て辻褄が合うことになるという矢部健太郎氏の指摘も正しいことになる 矢部健太郎とか秀次切腹でトンデモ理論展開した人じゃないですかやだー >浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
>矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
>徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
>『殿』の敬称を付ける反面、
>他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
・秀家も『備前中納言殿』とかかれている
・律儀さは輝元と景勝も強調されている
お前が浅野家文書を読んでないことはよくわかった >>357
下四行はお前の妄想だろw
神君家康の為に改竄したのに、お前のその主張じゃ敗者三成の為に改竄したみたいになるじゃんwww
>>358
何がなんでも全部秀吉が悪いとする在日には都合が悪いだろうなw
あくまでも在日の常識だとトンデモに受け取られるとw
>>359
お前、東大データベースで浅野家文書なんて無料で見れるのも知らんのかよw
秀吉遺言で検索かけたら3秒もしないで表示されんだぞw
素人でも簡単に利用出来る作りなのにw
やはり在日にはうまく日本語使いこなせない証拠だなw
しかしな草書体から楷書に変換する際に誤読ミスが出ている例がたくさん発見されるようになってきたから、
最近は原本をちゃんと調べて書いているケースが多い。
矢部氏も原本翻訳からやってるんだろう。
だから「備前中納言」宇喜多秀家と「景勝・輝元」と書くのは明らかに礼を失した表現と断言して書いてるんだろう。 >>360
お前は史料をきちんと読めない間抜けだということはよくわかった。
古文を一から勉強しなおせ 浅野家文書の内容は浅野家以外の文書には存在しない不自然なものとなっている
奉行である浅野が奉行を過大に扱い権力を持つかのように改竄した可能性は高い
もしも浅野家文書が真実の遺言ならば他の大名に一切同じ文書が伝えられていないことは不自然である
逆に宮部家に保管されていた秀吉の遺言は浅野家とは正反対の内容であり
家康に大きな権限が与えられており奉行と話し合うことなど求められていない
浅野家文書が天下を奪おうとする奉行によって改竄された不正文書なのは矢部健太郎氏も指摘している >>362
はいはい文盲乙w
諸大夫成ふぜいの浅野ら奉行じゃ、
上級公家ともまともに話をすることすら出来ないのに、
天下を奪おうなんて思考が起きるわけねーじゃん。
住んでる世界が違い過ぎるわw
しかも浅野は徳川方だから三成らと別陣営だし、
そもそも秀吉死後を見据えて輝元が慶長3年7/15に出した秀頼への忠誠を誓う起請文には奉行を四人衆としていて、
浅野が含まれてない。
つまり浅野が残した秀吉遺言には徳川派だった浅野の地位向上を狙った改竄が関ヶ原後に入っていることを矢部は指摘してんだよw 実際、三成が首謀者みたいな錯覚を招く原因が、
三成が責任を問われて死罪になっている点だが、
これ事態が清華家の家格の殿上人は、
死刑にはならないという
身分差によるだけのことだからね。
だから死罪だから首謀者とする解釈自体が誤解釈。
秀家が島津家に匿われて3年後に見つかり死罪じゃなく、流罪なのもこれが原因。
責任を取らせ死罪に出来るのが三成らの身分だけなので、
家康も三成が全て悪いと責任を押し付け喧伝する他に手段が無かった。
またこの文脈から秀次を秀吉が殺すつもりが無かったのも明らか。
なにせ秀吉は秀次の食事や身の回りの世話などに人を割くように高野山に頼んでいたからね。 >>365
当時に公家の日記に秀次は秀吉の命令による切腹と記されているらしいがこれは無視か? >>366
矢部氏が公家の日記の該当記述はすべて噂レベルだと指摘してる。 前に関ヶ原の首謀者は輝元ってスレがあったと思うんだが落ちた? >>365
秀吉は秀次を殺すつもりがなかったのに三成によって秀次は死に追いやられたからな
諸大夫成が摂関成の命を奪うという前代未聞の身分破りが行われたことの深刻さは
切腹に立ち会った福島自身が一番理解していたわけで
別に朝鮮で苦労したわけでもない福島が三成を極度に憎んでいた原因は秀次事件以外にありえない
だから武断派にとって輝元や秀家を殺すことはないが三成の処刑だけは何よりも必要な手続きだった
豊臣が摂関成としての絶対性を取り戻すためには三成の処刑しか方法がないわけだから
三成の処刑によって豊臣の摂関成が盤石なものとなったことは矢部健太郎氏も指摘しているね 奉行なんて不満があれば襲撃しようが処刑しようが構わない軽い存在でしかないからな
家康が乱の責任を押し付けて謀反の首謀者として解決を図るには三成くらいがちょうどいい
むしろ奉行の処刑は諸大名の不満を和らげ社会を安定させる効果があるから
三成に限らず奉行連中を片っ端から全員処刑してもよかったくらいだろう >>370
もうむちゃくちゃだなw
矢部氏は秀吉と三成に秀次を殺す気がなく、
福島が自刃を止めなかったと指摘してんのに。
まあ秀次は嫡男が夭折して意気消沈して熱海湯治していたりして精神的に疲れてたのだろう。
>>371
三成と浅野がいなくなっただけで、
実務が滞って大谷、小西、寺沢の3人が家康の指導のもと、
奉行手伝いに追加され、
島津庄内の乱や宇喜多家内紛の処理や毛利家分封問題についたのも知らんのかw
奉行の処理なんてやったら、
人が足らず諸問題が解決出来ずに、
諸大名が不満を溜めるだけだろ。
だから家康は奉行衆に自分への忠誠を求めて懐柔していたわけだし、
家康派になった三成と大谷が前田の上洛を阻止しようと家康の為に北陸路を固めたんだろうが。
しかし小西は家康では無く秀頼の為に忠誠を誓うと主張したから、
小西の九州取次の仕事を徐々に家康は寺沢に移行させて圧力をかけはじめた。
これは致命的で関ヶ原で小西が肥前小大名たちを西軍に出来ず、
寺沢指揮下で動員される結果を招いた。 島津庄内の乱
宇喜多家内紛の処理
毛利家分封問題
小西の九州取次の取り上げ
これが輝元、秀家、義弘、小西らが家康にキレて挙兵した動機だよなあ。
家康は自分以外の大名の弱体化を謀っていた。 >>372
石田と浅野がいなくなっても手伝いを少し追加するだけで問題ないことが証明されたのだから
奉行なんて都合に合わせてどんどん処理して構わないんだよ
それに小西など売国しか頭にないんだから家康としても仕事を寺沢に移管するのは当たり前
結局文治派が口先だけでたいして役に立っていないことは関ヶ原の前からとっくに証明されているんだよね
だからこそ石田や小西を処刑して豊臣官僚ではなく徳川官僚による政治に転換されても
武断派に限らず大勢の大名から問題なく受け入れられた
むしろ諸大名は役立たずの豊臣官僚からようやく解放されたのだからありがたいくらいだろう >>373
家康は豊臣政権下禁止された私婚も連発してるし
三成がいなけりゃ歯止めが利かなくなって家康の暴走がより酷くなるわけだな。
結局家康についてたのって三成にくしで凝り固まって豊臣への恩を忘れて
家康の天下取りに貢献した馬鹿な武功派だけだし >>375
大名間の婚姻の許認可権を持っていたのがその家康自身なんだが…。
これは対立の後前田利家も認めている >>377
利家は家康との手討の時、家康の進めていた大名との婚姻を全部認めてるんだが。そもそもそれが原因で
対立が起こったというのに。
これは前田利家が大名間の婚姻の許認可権が家康にあると認めたに他ならない そりゃ利家が認めただけで
大名間の私婚の許認可権が豊臣政権下家康にあった事の証明にはならんだろ。
利家が豊臣を忘れて妥協しただけかもしれんし
実際に三成らはこの行動を糾弾してる 当時の法なんぞ権力者がいなければどのようにも曲解できるだろ 豊臣政権下での決まり事を無視する行為は普通に立派な反逆行為だろ。 豊臣政権の最高首脳が認めたことが証明にならないのなら何が証明になるというのか。アホか 利家が秀吉が決めた私婚の禁止を公式に合法だと決めた文書もないし
実際奉行衆らは糾弾してる。
内府たがい条でも触れられてたはず。
というか、利家は豊臣政権下の後継者でも何でもないから
勝手に豊臣政権の禁止事項を変更する権利などない。 >>383
家康と利家が豊臣政権の最高責任者だろ。その二人の決めたことが豊臣政権の公式見解じゃなくて何なんだ 奉行に糾弾されて逆ギレした家康だったが、
ついにやってきた利家に糾弾された家康が、
非を認めて、伏見城から出て、
向島に蟄居し謝罪の意を示しただろ。
家康は人をみて態度を変える劣人だからな。
負けると思う相手には途端に賤しくなる。
利家が死ぬやすぐ向島から出てきて伏見城を占拠するキチガイが家康。 そもそも私婚禁止で政権トップの連中が認めてもダメじゃ
全国の大名の娘が結婚適齢期を逃すだろうな 利家って秀頼の守り役ってだけだろ。
五大老・五奉行で秀頼を支えてくれってのが秀吉の遺志。
トップは秀頼。幼いから家康が代理。 ニンニク焼き電話会談日本橋スーパーきゃべつラーメン
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JK法相puzzleジュネーブイケヤパート正社員グリー総合芸術自然ニコチンカフェインほぼホームデポメネージャー >>387
ほんとこれ
家康と利家二人で政務を執れなんて誰も言ってないし 大名が自分の領土確保に必死になったのに、
豊臣政権化では徐々に全国は豊臣のもの、お前らはただの管理役。
それを指導し進めたいのが三成はじめ官僚系、
不満ありの加藤福島なんかの新参の不満を上手く拾った徳川が天下をとったっていうぐらいだろうな。
上杉みたいな土着古豪なら居座ってるだけでその地域一帯の代表になれるだろうが、
福島や加藤なんか論外だし、家康すら国替えのせいでひっくり返される可能性があっただろうしな。
それを秀吉がするならともかく、三成がやりはじめたら不満は出て当然だろうな。
国を治めるなら官僚制度の方が統率しやすいから政策自体は正解だったのだろうが。
時代を先取りしすぎたのと、秀吉が老害になってしまったのが誤算だったな。
褒美を与える国がないから凄惨な取り潰し国替え多発と朝鮮出兵がごたごたすぎた。 三成はただ諸大名の力を削いで豊臣の倉入り地をしっかり増やそうとがんばってただけ。
島津の庄内問題とかがまさにそれだし
家康は豊臣家の力を削ぐために諸大名に領土確保することで恩を売った >>391
増やした蔵入地の管理をするのは三成で、事実上三成の領地を増やすことと一緒なんだよなあ… >>392
倉入地の管理は諸大名では?
で、その一部が取次の取り分に設定されている。 蔵入米の運用に関する書状群を見るに、取次ぎの領地を増やす事と同じとは口が裂けてもいえない >>391
どれだけ倉入り地を増やそうと頑張ったところで
内ゲバで関白が殺されて外様大名が大老として政権中枢に入ってきたら意味がない
要するに三成は努力する方向を間違えて無意味な行為をしていただけ 長束正家は、そんなに、算術や兵糧の輸送に長けていたのかな?
司馬氏の本では、その数字の計算力は、神技に等しいとかいてあったから。。。 戦国始まって初の全国の大名が集った大包囲戦の小田原の陣や
初の大規模海外遠征の朝鮮征伐の補給の責任者を大過なく勤めた
=きっとすごかったに違いない的な評価じゃない? 毎度おなじみだが大河ドラマだと三成以外の奉行は完全に空気だな
秀吉が死んだあたりで名前くらいは唐突に出てくるのだろうが
史実はともかく作劇として見るとお前ら今まで何してたの?と突っ込みたくなるのがこれまでのパターンだったからな 三成以外は大局的には空気と言われてもしょうがない。
そうなるとドラマで空気になるのはもっとしょうがない 五奉行制度は、後の官僚制度の源流なのかな。
立派な制度には、違いないけど。 >>402
官僚制度なんて組織的整備や権限整備はされてない。要は何でも屋が何でもやってたに過ぎない。
室町幕府の奉行衆のほうがまだまし >>399
葵徳川三代では増田と長束もそれなりに存在感があった 増田ってそれなりに人望もあって豊臣政権の首相格だと思うが
ドラマや小説では存在感ないな 五奉行それぞれ役割がはっきりしてたはずなんだよね
石田が地方転地を受けて奉行から外れたら秀吉はどうするつもりだったんだろう? 得意分野があった程度で、職掌ははっきりはしてないだろ。 >>404
アンチ豊臣政権の織田在日必死だな笑笑笑 のちの官僚制は豊臣政権の奉行制より遥かに劣っている。
信長時代は手が空いているやつが呼び返され
得意不得意関係なく取次をさせられていた曖昧で非効率なものから
豊臣政権下では単に取次だけでなく手管、指南を行うことが課せられ
大きな権能が与えられると同時にその任に当たれる人物は限られた。
そのため家康が奉行を次々と排除すると人員が足らず
大谷や小西や寺沢を何とかあてるハメになるほど能力が要求された。
のち家康が幕府を開くと取次レベルの能力で官僚化されてしまい
無能でも任に当たれるようになった。 血縁の浅野は置いといて、
増田長盛って領地では頭抜けているよね。
いったいどうやってここまで出世したのか。
すごい能力を持ってないとデスクワーク中心で
20万石以上なんて無理でしょ。
家柄も良さそうではないし、
いったいどやって出世したんだろう。
いまいちそのへんのこと語られないよね 家康が奉行を全員リストラしても統治機能は維持できており
豊臣政権が崩壊したのはあくまでも奉行が謀反を起こしたせいなのだから
奉行なんて秀吉の威を借りて威張っていただけでたいして必要もない存在だったのは明らかだった
もっとも秀吉は独裁主義者だから自分の意を借りるだけのロボットの方が都合がよかったという理由もあるが
秀吉が死ねば奉行は役立たずの粗大ゴミ以下でしかなかった >>413
子飼いにばら撒いただけやな。
三成なんか父兄の領地と預かり地7万石込みで30万石大名(多門院日記)つわれてたし >>103
石田:佐竹、宇都宮、真田、津軽、秋田、伊達、相馬、毛利、上杉、島津
浅野:南部、徳川、前田、蒲生
増田:長宗我部、里見、宇都宮、成田、那須、毛利、上杉、織田ら美濃 長宗我部盛親が増田長盛が烏帽子親だから
豊臣政権下では軽んじられた的な話があるけど
豊臣政権下での烏帽子親の事例ってどれぐらいあるの?
あと、増田長盛の実際の豊臣政権下の地位ってどんなんもんなの? まことは、必死になって、第三者を演じて
ハッキングを否定する >>424
玄以、長束、浅野、増田、石田
3〜4な気がする >>414
家康はブレインを自前(譜代)で確保してたもんな
豊臣の子飼いは単なる寄せ集めでしか無かった。 奉行が仲良いなら兎も角、
なんかギスギスしてるんだよなぁ 三中老てクズだよな
中村は後に米子騒動を起こすし
堀尾は知立で口論になって大怪我して関ヶ原に間に合わず(倅は山内に手柄横取り)
生駒は一城令を守らず丸亀城を林で隠してたのが幕府に露見するし クズかあったかはともかく
三家とも大名として存続できなかったのは同じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています