津軽為信知ってるかい?しらんだろ?
ゲーム中では伊達政宗に次ぐ東北NO.2の能力の武将知ってるかい? 江戸時代に喧嘩してた話の方が面白いと思うぞ
津軽藩の藩邸に大きく性器のラクガキをした奴がいて犯人は不明だけどどうせ南部藩だろとみんなが思ってた程度には険悪なのが知られてた
相馬大作事件で南部vs津軽が再燃したから江戸でも有名だった
なお後日津軽藩の他の屋敷にもラクガキがあって黒門だったから白い染料でチンコから精子が吹き出してるラクガキだったという
さらに江戸で風邪が流行った時に津軽風邪というあだ名が付けられたけどこれも多分犯人は・・・ 津軽藩は南部藩以外に仲が悪い藩はなかったのではないか? 参勤交代時に南部藩領を通れない、もしくは通るのは絶対に危険だから弘前-秋田間の羽州街道が整備されたんだよな
その前は弘前から一度日本海に出て船で秋田まで行ってたというほどの徹底ぶり >>818
> その前は弘前から一度日本海に出て船で秋田まで行ってた
津軽藩は水軍を持っていなかったはずだが? >>820
現在は久慈治義二男説が有力じゃなかった? >>821
それだと南部氏の血縁者というか一族になるなあ。 >>822
津軽家文書にも南部右京亮の記述が見られるしそれは間違い無いでしょ 久慈家から大浦家に養子に入ったのもお互いの家柄や勢力を考えればおかしいことじゃないからねえ 大浦氏の初代とされる大浦光信そのものが南部支流の久慈一族の出自とされている >津軽藩は南部藩以外に仲が悪い藩はなかったの
赤穂藩浅野家 赤穂浪士が討ち入った時に
吉良を救おうと真っ先に駆けつけたのが津軽家
また山鹿素行の子孫を弘前藩の重臣に抜擢し
忠臣蔵を厳しく批判した
(松浦家も同様に朱子学を批判した山鹿素行の子孫を藩士に登用し
「平戸藩文書」には義士の討ち入りを「元禄快挙録」ではなく「不心得もの」と記し
「義士」ではなく「大石のヤカラ」と記述された記録が現存している) >>828
なぜ津軽藩と赤穂藩が仲が悪かったのかが分からん
きっかけは? 理由は?
どうしても分からん 同じ5万石だし将軍との謁見に同じ間に
待たされてる途中になんかあったんじゃね 長府(やはり5万石)も赤穂と不仲
毛利家は今も義士切腹の記念碑を旧藩邸跡に建てるのを拒否している 天候がよくて、耕作人口があれば33万石の収穫が見込まれたけど、長雨や台風の影響で飢饉が起こり、8万人も餓死者を出したというのでは、多数の休耕田を出さざるを得なかったのである。 津軽は表高が5万石だから幕府の御手伝い工事とかが楽
反対に藤堂や鍋島は35万石の8掛けくらいしか実高が無かったのでキツい >>811
みちのくの更に奥深い僻地の戦なら、猿蟹合戦のようなものにて、ただ、田舎風に戦えばよく、虚々実々の駆け引きなどありえましょうや? 津軽為信が主に戦っていたのは浪岡と安東なんだけどな
虚々実々というか無かったものを有るように語る架空戦記フィクション 蝦夷管領を十三湊から追い出し
(津軽から安東勢力が消えた結果として蛎崎の完全独立と両安東の秋田での統合を生む)
石川高信の死後(殺害説と病死説があり)、
石川城を奪いとり
浪岡御所を襲撃して北畠を滅ぼす
この次点で津軽で敵対勢力が無くなった 南部津軽の当事者同士での虚々実々の駆け引きは余りなく、対中央への虚々実々の駆け引きはありえた
小田原参陣、烏帽子山越境支配、同盟離脱と新政府への参加など、中央に対する根回しはほぼ津軽の圧勝と言える結果になり、
美濃守利敬は悶死するほかなかったのである。 津軽藩隠密頭領の早道の者が、南部藩主を暗殺した疑惑があり 津軽藩早道の者の十兵衛と、南部藩家老岡村義達とが通謀して、南部利敬を暗殺したと、テレビでやっていた >>843
黒田とか細川とか山内とか他にいるのでは >>843
戦後の行賞では2,000石の加増にとどまったわけだが 津軽は実高が20万石を越すから清洲より多い
川中島は14万石(松平忠輝の頃)なので
津軽家は猛反対した 川中島藩になってたらそのうち願い譜代運動とかしてそう >>847
津軽は何気に豊臣家に恩義あるから福島正則嫌いなのでは?
それまで南部家臣扱いだったのに、秀吉が奥州征伐で独立大名に 嫌いではないんじゃねえのか
一応福島正之の息子は養育してるしその娘に藩主の息子宛てがって家老家として存続させてるし 大浦家って安信の代から度々反乱を起こしてるけどなんでそんなに反南部だったんでしょう? REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 初代大浦氏は久慈郡の何処かは不明だけど本貫の地を接収されて安東との最前線に
移封させられたわけだから、南部にいい感情があるわけない。
あと始めは50人程度で入城したけど、当然の如く人手は足りないから
安東の旧臣も迎え入れたろうし、大浦氏が最初から反南部なのは自然なこと。 >>856
仮に津軽為信が居なくても大浦は南部から独立したとお思い? >>857
それはなかったのでは?
ダラダラと南部に臣従を続けたと思う。 大浦氏はやはり南部氏の一族なんじゃないかと考えている。濃淡は別として血縁ではあったと思う。 >>857
為信の養父である大浦為則の代には浪岡に次ぐ大光寺以上の勢力まで成長し
今の黒石市一帯を支配していた千徳氏を南部から離反させ寝返らせたからねえ。
養子入りがなく大浦為則が長生きしてたとしても所領の拡大と
豊臣政権下での所領安堵は既定路線だと思われる。 >>859
同感
>>860
津軽為信より前の歴代大浦の当主達は過小評価されてる感じがする
一代で成り上がったというよりは5代100年かけて独立の方がしっくりする エエェェヽ(・ω・;ヽ)!!(ノ;・ω・)ノェェエエ!! ゚+.ヽ(・ω・)ノエリンギ!!゚+.