津軽為信知ってるかい?しらんだろ?
ゲーム中では伊達政宗に次ぐ東北NO.2の能力の武将知ってるかい? 意味のわからん排他したり徒党組んで執拗な弱者虐待したり、人を騙して
喜んだり、人に物事を教えると損をする気分に襲われる気質はいったい
誰のせいなんだろうな >>9
>>津軽の南部からの独立への戦いは17年かかったそうです。
これといった強敵がいないのに時間が掛かりすぎな気がする
川原御所の乱で浪岡北畠が没落してからは
大浦以上の勢力は存在しなかったのに何でそんなに掛かったのかねえ
南部本家は家督争いで動けなかったし
あとは小勢力の国人くらいしかいないのに >>712
結構南部動いてるのでは?
少なくとも六羽川合戦は大苦戦してたし、浪岡落とした後もすぐに反撃されてるし
あとアイヌがゲリラ戦してたり >>714
ファッとか淫夢厨みたいだからやめろ
アイヌに関しては北畠残党朝日氏に関連して出てくるし、少なくとも江戸時代まで津軽にアイヌがいたのは間違いないことだから驚く必要もない ファッってWhat?じゃないの?
fuckと間違ってないか 織田信秀だって、美濃や三河に出兵するくらい勢力があっても尾張統一は息子の代。一国やそれに準じる地域の制圧は簡単じゃない。
豪雪で冬の野外活動は困難。南部だけじゃなく、大館方面からの介入もあったしね。
それと、江戸時代までアイヌが青森県にいたのは事実。下北・夏泊・津軽半島の古地図に「狄(えぞ)村」とあるのがアイヌ居住地。 >>712
六羽川合戦から数年間、動きがないことから安東勢に手痛い損害を受けたのが原因だと思う
もしかしたら敗北し安東愛季におとなしくすることを誓ったのかも 大宝寺氏とか龍造寺氏は苗字がかっこいいな。
織田や徳川よりかっこいい。 龍造寺氏は奥州福島の佐藤氏と関係あるという説もあるんだっけか
江戸時代は鍋島氏に敗れて会津藩の客将になったらしいな 津軽にも福王寺とかいうやたらかっこいいのいたから
乳井って苗字になっちゃったけど 津軽為信知ってるかい
ホホホイ ホホホイ ホホホーイ ホイ
ホホホイ ホホホイ ホホホーイ ホイ 統率が80を超えていて優秀
歩兵の適性がAでかなり優秀
知略が95でかなり優秀
政治が90超えててかなり優秀
ゲームだと万能だな
訓練して数値を上げるもしくは数字を上げる家宝を与えると100をすぐに超えるし
戦闘に使ってもよし、他武将の訓練教官として使ってもよし
唯一ダメなのは戦闘時に発動する離間工作という戦法だけだが
これもいくらでも他武将から役に立つのを教えてもらえるので実質的にはデメリットではない >>731
> 政治が90超えててかなり優秀
内政に強いというより、中央政権のご機嫌をとるのがうまい。
一種の外交能力だな。 >>732
意外と知られてないが関白秀吉とは義兄弟だからな
中央工作では豊臣政権に於いて東国大名の窓口役である
前田利家を先に南部に押さえられたハンデキャップを負っていた
しかしその苦境を打破するための秘策として
現関白と義兄弟の間柄になり所領没収の憂き目を
解決するというウルトラCを決めた 北の果てに居ながら小田原への参陣が早すぎる
山中城攻めの前日に駿河三枚橋で秀吉に面会するために
いつ頃津軽を出立したんだろうか >>736
それ後世の創作。
津軽為信のルートは津軽→日本海→群馬→小田原
南部のルートは三戸→現東北高速道→宇都宮
秀吉の下に馳せ参じた時期も違うし
鉢合わせできる機会は0 沼田面松斉が凄いって話だけどなw
武芸百般に優れアレだ >>740
戦争に強い武将はどこにでもいるが
中央政権との外交ができる外交官は
田舎では希少だったと思う。 津軽為信はまず京に行ったんじゃなかった?んで秀吉とすれ違い >>739
南部のルートは仙北(日本海側)から越後に出て碓氷峠経て鉢形行って小田原だぞ
鉢合わせのエピが創作なのは異論ねえが >>717
マタギの祖先ともいわれる、狩猟部族アイヌが津軽にも居たからね
> アイヌ文化振興・研究推進機構
http://www.frpac.or.jp/application/files/28seminar_yamagata.pdf
> 江戸時代の津軽半島にはアイヌが住み、人喰い熊や人喰い狼が現れると
> 津軽藩(弘前藩)の. 依頼を受けて駆除をしていました。
人食いオオカミ・クマなどが現れると、各藩の依頼でアイヌが駆除に出動していた しかしゲームだと政宗を選択してしまう
有能な家臣いたっけ? 奥羽の戦国武将は伊達政宗だけじゃないよ。津軽に南部に安東に相馬に最上に葦名。魅力的な武将がたくさん 蒲生は中央から来た奴じゃん。奥羽出身じゃないので除外 津軽アイヌ>>745の狩猟軍団は、オオカミ狩り・弓・罠?は得意でも
諜報・工作には向かないから忍者とは違うな 軒猿やら三つ者はいないわな
火縄銃もたいして数もってなかったらしいが 狩猟が得意な東北アイヌがいる程度では切り札には足りない >>753
津軽の諜報とかって修験率いてた乳井あたりがやってたと思ってるけど違うかな 5万石(のち高直しにより10万石)ながら、津軽藩の実高は、凶作でなければ32万石
なお、越後新発田藩の実高は45万石とか書いてあった。
本当かは不明だが >>757
35万以上だった気がする
実高なら水戸藩より上 元亀元年(1570)、おもいっきり外遊していた為信であった(;´・ω・)
・魚沼神社(新潟県)を参拝
・羽黒山(鶴岡市)を参拝
・最上義光(山形城)を訪問
・塩越(にかほ市)でチンピラと遭遇(為信の手紙で確認できるらしい) 天正十八年(1590)、沼津にて所領安堵される為信であった(;´・ω・)
【真書太閤記より】
〜沼津〜
兵士「近衛家に連なる者と主張する変人が現れました!」
秀吉「とりあえず、寺院へ宿泊させておけ!」
浅野長政「はは〜!」
長政は変人の元へ駆け寄ってみた。
長政「(髭がやばい。上下服のサイズずれてねーか?それに、何を言っているのかわからん)」
長政「お前(為信)、近衛家はうそだろう?」
為信「馬鹿やろ〜!事情があってみちのくで成人したんだよ!秀吉殿にお目通りすれば、すべてが明白になるぞ!」
長政「お、おう・・・」
〜その後〜
秀吉と謁見することができた為信。、いきさつを説明。
秀吉「説明はわかった。しかし、証拠はあるのか?」
為信「近衛家御連枝を持っています!ご確認願います!」
真偽を確かめるため、飛脚を京都へ立てる。そして・・・
近衛前久「父が書いたものじゃよ〜」
秀吉「そうか!為信よ、所領安堵を言い渡す!」
為信「ありがたき幸せにございます!(っしゃ〜!)」
以上
(ちなみに)この頃、南部信直は三戸を出発したばかりであった・・・ 天正十八年(1590)、宇都宮において涙目になる信直であった(;´・ω・)
〜7月、宇都宮城〜
信直「秀吉様。駿馬50馬を献上致します。」
秀吉「よくやった。脇差と羽織を賜ろう。」
信直「ありがたき幸せにございます!ところで、津軽為信と九戸政実は反逆者でございます!我が家を脅かす、許すまじき悪党でございます!」
秀吉「ふむふむ」
〜しばらく後のこと〜
信直「所領安堵の書状じゃ!・・・津軽の文字がない!」
兵士「津軽為信は既に所領安堵された。諦めろ!」
信直「こんなはずは・・・利家殿に訴えよう!」
前田利家のところへ移動。
信直「津軽為信は極悪非道の悪党でござる!やつの領地を取り上げることはできまいか?」
利家「一度決まったことはきめられない。諦めなさい。」
信直「・・・(´;ω;`)」
以上
(ちなみに)この後、信直の直訴は更にエスカレートするのであった・・・ 【もし、津軽為信が戦国無双シリーズに参戦することになったら】
・見た目:アーデン・イズニア(FF15)+長い髭
・武器:綱丸(剣)
・ステージ
@石川城の戦い<大浦軍>
A忍城の戦い<豊臣軍>
B九戸城の戦い<豊臣軍>
C大垣城の戦い<東軍>
D佐和山城の戦い<津軽軍> 【もし、南部信直が戦国無双シリーズに参戦することになったら】
・見た目:ノクティス30歳(FF15)
・武器:日本刀+火縄銃
・ステージ
@鹿角合戦<南部軍>
A石川城の戦い<南部軍>
B八王子城の戦い<豊臣軍>
C九戸城の戦い<豊臣軍>
D岩崎の戦い<南部軍> あまり活躍して無いが、この藩にはアイヌもいたな>>745 >>757
新発田藩はたしか表高4万だか7万あたりで、後に言い訳苦しくなり10万石とされたんだっけ。実高は沼地だらけの土地開拓で45万から47万だったはず。
津軽藩は33万じゃなかったけ? ノブヤボに出てこない津軽家臣。
津軽信建 1574〜1607
為信の長男。中央に留まり朝廷や徳川との外交要員として活躍。
キリシタンだが長男が火傷した時に家臣の不手際の責としてぬっ殺したりと
気性の激しい面もあった。34歳で病死。
烏帽子親が石田三成だったので、その子を関ヶ原の敗戦後に匿ったりしてる。
金信則 ?〜1609。
関ヶ原で為信が留守にした際、尾崎喜蔵・板垣将兼らが起こした反乱鎮圧で活躍。
津軽建広(三河出身の外様で為信の娘婿になる)の家老となるが
津軽信建の遺児と信牧の家督争い(津軽騒動)で信建遺児・熊千代と建広が追放されると
責をとって自害した。
千徳政氏 ?〜1597?
為信の娘婿?浅瀬石城主。為信と同調して南部から離反。
おそらく同族の田舎館城主・千徳政武(南部側)を攻め滅ぼすなど勢力を拡大。
為信に津軽を二分して統治しようなどとおだてられるも
南部勢(3000)に居城を攻められた際に為信が援軍を出さなかった事で仲違い。
反抗的な態度が増えたので為信に城におびき出され謀殺されたとも
1597年に居城を津軽に攻められ息子ともども討死したともされる。 沼田祐正 生没年不詳
為信の軍師とされる祐光の子とも孫とも。
為信の長男・信健の家臣となるも、信健死後に知行を取り上げられ浪人。
信牧の代になって祐光の隠居料のうち100石を与えられ復帰するも、これといった活躍の記述はない。
八木橋 里負 ?〜1595
大浦光信の代からの家臣とされる老臣。為信の代には家老職。
主に外交で活躍し、為信の名代として上洛し、秀吉に馬や鷹を献上し
津軽の領地安堵を取り付けたのは彼とも言われる。
一町田 森清 ?〜1643
1574年に大浦家臣として戦死した信清の子。勘定奉行を務める。
佐竹が旧秋田領に転封された際はその取次役。
のち不手際から改易されるも信牧の代で300石で再び召抱えられた。 兼平信孝 ?〜1646
津軽三家老・兼平綱則の孫。室は為信の娘。
弘前城の築城や城下町の造成に大きく関わった。
1625年、前年に死去した父・信秋の家督を相続、津軽姓を許される。
のち、津軽家臣の船橋氏との軋轢から家中を二分する騒動を起こし
家老職を罷免され毛利氏の預かりとなるも、子の代になって兼平氏は再興した。
乾 安儔 生没年不詳
上方出身。為信の代に津軽家臣となる。
信健の遺児・熊千代と後の二代藩主・信牧の家督相続争いでは
熊千代方の剛勇で知られる一戸清三郎を暗殺し、信牧の地盤を固めた。
青森湾の開港や、各寺社の作事奉行として功績あり。
前述の船橋騒動では新参の船橋氏に味方し、伊予松平氏の預かりとなった。
北村 宗統 1546〜1618
元は細川氏綱の被官。秀吉の侵攻で所領を失い
関ヶ原の頃に為信に召抱えられる。御旗奉行。
弘前城の縄張りや吾妻沢原野開拓に関わるも
開拓事業の途中で病死。 笹森 建房 生没年不詳
為信家臣。笹森館主。官途は勘解由。別名・砂子瀬勘兵衛。
1571年、大浦為信が石川高信を攻撃する際
小栗山左京と共に、野伏衆83余りを率いて戦功を挙げた。
武勇名高く、諜報活動にもたけ、笹森館を領し「鬼勘解由」と恐れられた。
のち、大間越奉行となり、佐竹義宣領との国境を守った。
1613年、海賊・小野茶右衛門が謀反を起こすと、建房が大将となってこれを討伐している。
白鳥 信次 ?〜1642
別名・山口信治。
父は1600年に関ヶ原参陣中の留守に堀越城代とされるが
謀反を起こした板垣将兼、尾崎喜蔵らに討たれた白鳥伊右衛門。
父の討死により白鳥家の家督を相続。
1612年、高坂蔵人の乱では戦功を挙げ、家老職として800石を領した。
1618年、大浦信枚、佐竹義宣の国境協議で、服部康成と共に協力し、
大浦信枚の有利な状況で問題を解決した。
1625年、青森湊普請に際し、服部康成、乾安儔とともに普請奉行として活躍した。
井上 専正 生没年不詳
伊勢国司北畠氏の家臣。
鳥屋尾満栄と共に家老として織田信長との戦いで戦功をあげた。
北畠氏の没落後は、その遺児とされる北畠昌教を保護して
本願寺を頼って落ち延びる。大和の本願寺寺院に入り
この頃、顕如から法名「教順」を賜ったとされる。
その本願寺も信長によって勢力を失うと
羽後国鹿角へ再び昌教と共に落ちる。
北畠再興の兵を募りつつ、自らの娘を昌教の室とした。
のち、北畠昌教が津軽氏の客将となると
これに従い、関ヶ原の合戦にも参加した。
戦後、完全隠居し専正寺住持として過ごした。
・・・とされるが、そもそも北畠昌教の出自があやふやなので
どこまで本当なのか疑問。 >>773
> 1613年、海賊・小野茶右衛門が謀反を起こすと、建房が大将となってこれを討伐している。
津軽藩には水軍がないのに、どうやって鎮圧したんだろ? 海賊がいつも船に乗ってるわけじゃないし
島とかに拠点がないなら陸地沿いに軍を進めればいいだけ このスレですら、ほとんど話題に出ない沼田祐光だけど
どれくらい実像が掴めているのだろうか?
なんか「軍師だった」って肩書きだけでコーエーのゲームじゃアホみたいに能力高いけど
こいつが何か合戦や治世で貢献したっていう事跡はあるのだろうか? >>778
史料が乏しいからね。
なぜか中央政界にコネがあったらしいが。 そのコネがあった理由だが
京都で室町幕府の職員のようなことをしていたからとか
畿内の大名に仕官していたからとか
そういう風聞はあるが、史料で裏を取れないので要するによくわからない。 面松斎は上野沼田氏ということになってるんだっけか
謀叛時の犯罪者を無罪放免して南部方の婦女子を襲わせたのは面松斎の策じゃなかったっけかな
攻城後に自分の愚かさに恥じ入ったとかなんとか
まあ、これが本当にあったことかどうかは知らんけど それであの能力とはなあ
俺だったら沼田くんの能力は
政治・42
智謀・68
武力・30
統率・35
特技・外交
くらいに設定するわ >>782
ただの伝承かも知れんが、天海と親しかったという説もある。為信親子が関ケ原後に石田三成の
遺児を亡命させたうえに、娘を嫁にして産んだ子に家督を引き継ぐなんて危ない橋を、秘密でなく
堂々とやった(並行して家康養女を正室に迎えてるけど)のは、対徳川関係に相当な自信があった
感じはするね。 明智→細川と仕えた沼田氏(たぶん幕臣)もいるけど
そっちは関係ないのかね >>786
そっちかもしれないと思う。
室町幕府の職員のようなことをしていたのではないかとの説もあるから。 >>786
細川藤孝の義兄弟ってのは聞いたことある 津軽民だけど、このスレとても勉強になった。ありがとう! 大河ドラマの主人公にするには悪党すぎるヒゲのオッサン 津軽の覇者。太閤と義兄弟の盃を交わした漢
みたいに原哲夫の漫画で出てきそうで出てこないかな >>796-797
「極悪非道の南部から津軽を解放した独立の英雄」「石田三成の息子や姫を匿い、太閤の像を
城に隠して密かに祀った義理堅い人」に脚色すればヘーキヘーキ。
しかし、後で徳川から嫁や重臣を受け入れたとはいえ、三成の息子を引き取ったうえで、娘を
嫡男の嫁にして、産んだ子が後継藩主なんて危ない橋を渡ったのに減封も改易もなく、江戸時代に
むしろ家格が上がって幕末まで安泰って、すごいな。本州北端で価値があったorどうでもよかったのか? >>798
国替えされそうになったことはあったはず。 アイヌとの関係がある松前はともかく、津軽は気にしてなかったんじゃない? 江戸時代後期には津軽も南部も住民そっちのけで閨閥工作や側室の寵愛による治世不良を起こしており、
南部は領地半減、津軽は、弘前10万石を召しあげ、斗南3万石に懲罰的移封を命じるべきだったと、存じまする。 >>801
幕府にとって南部は伊達を背後から牽制させる意外と重要な存在。 南部藩と津軽藩はともに奥州の大藩であるが、天正18年、家臣が反乱を起こして独立した
参勤交代では、南部家は奥州道をストレートに通り江戸と盛岡を往復したが、津軽家は、福島まで北上するも、そこから進路を西にとり、
板谷峠を越え米沢領・山形領を通過し、海沿いの羽州路を通り佐竹領を通過して北上、矢立峠から弘前に入る。
かつ、江戸在府、国元のローテーションは南部、津軽を隔年とし、つまり江戸で藩主がニアミスすることを避ける旨、幕府が配慮していた。
しかし━━、 文政3年(1820年)右京大夫津軽寧親は、侍従に補せられた。1808年に侍従になっていた南部利敬と、肩を並べる家格になってしまった。
死病に懸かった利敬は、当分は官位面で津軽に劣後することに悶死し、憂いた南部藩下斗米秀之進が、寧親に辞官隠居を奨める果たし状を送り、藩主襲撃未遂事件を起こした。
老中、青山下野守忠裕は腹心に具体的な調べを命じた。
時の北町奉行榊原主計頭忠之と、榊原の手で処刑された筈の ねずみ小僧次郎吉である。 南部藩10万石→20万石
津軽藩6万石→10万石
大藩って程でもないっすよね 領地は増やさず名目上の領地高が増えただけですからねえ。ただ、江戸城の座席が、従四位下侍従になれば柳間席から大広間席に昇格できるようになったので大国意識を持ったのかもしれない
あと、蝦夷の警備保障を担当させられたが、まじめにつとめたのは庄内藩だけとか >>807
>江戸城の座席が、従四位下侍従になれば柳間席から大広間席
細川さんや毛利さんと同じ部屋ってのはプライドを満たしたはず。
国力は全然違うんだけどw キター
『歴史群像』2019年12月号 (11月6日発売)
第2特集 南部氏VS.津軽氏 陸奥北部で展開された虚々実々の闘争