雑兵足軽の実状
流民みたいのはなれんよ。たしか
命以外失う物無いから戦場ではすぐ逃げるし陣中で狼藉放火されたら戦う前に負ける。
その点村の中でそれなりの地位にあるものは、隣人捨てて逃げたら村八分で生きていけんから
それなりに戦う。
大名が出した身分のしっかりした者以外はつれてくんなという書状は幾つか残っているらしい
まぁ農民にしてみれば身内で働き手が死ぬと困るから流民を家の者だって偽って送り出したり
云々っていう駆け引きは常にあったみたいだけど 何、流民はなれないのか!
住所不定だと就職できないのと同じか。
いや、30歳職歴無しだと正社員になれないのと同じか。
せちがらすぎる。
しかし、流民になったらどうすればいいんだ?
とりあえず人夫としてなら採用されるのかな?
それで信用積めば正社員の足軽になれるかな? >まぁ農民にしてみれば身内で働き手が死ぬと困るから
>流民を家の者だって偽って送り出したり
あ、この手は結構使えそうだなw
片っぱしから訪問してみるか、
庄屋の家でも訪問して誰か入用な農家を紹介してもらえばいいのかな。
とはいえ信用されないとダメか。難しそうだ。
まず農民になればいい。農民募集見たいのはどこでもやってたはず そうか。農民になればいいのか。
敗者でも復活できるとこがいいな。
しかし、織田軍は常備軍じゃなかったっけ?
織田軍の採用基準も同じなの?
農民使えないんじゃないの?
>>598
旗は自隊の位置を示しすもの
これがないと自分が何処にいるのかすら解らなくなる
よってこれが決して倒れないよう、力持ちに持たせるわけ
旗が乱れると士気が低いというくらい >>604
> しかし、織田軍は常備軍じゃなかったっけ?
それはいわゆる「俗説」
実際の織田軍は兵農分離なんて皆無。むしろ戦国時代でも後れた組織体系だったのが
信長の軍隊の実態。 信長直営軍が常備軍
織田領内の国人軍は従来の組織
ではなかったっけ? まあ、大抵のどこの大名でもそうだが、いわゆる侍クラスは常備してる。
でも、雑兵レベルは侍クラスの地元から集めてるっぽい。
公記の本願寺戦の記述から。 >>607
信長なんて安土城のときにようやく旗本の城下集合をやった、って程度の大名だぞ?
組織としては遅れまくってる。 信長は軍役の人数指定を出来るほど家臣を支配できてなかったんだっけ? 「できるだけ多く」って奴ねw
ああいうのを見ると、一部の人間が信長を合理的だとか近代的だとか言うのは、
悪い冗談としか思えなくなってくるw >>610
佐久間達をあっさり首にするような恐怖政治が出来るのに
支配できてないってどういうことだよ。
小事は裁量に任せているだけじゃないの?
軍団編成の近代的な軍隊を
作り上げたというのが間違っているというのか?
>>612
佐久間処分なんて内衆の排斥みたいなもんだ。たいした強権でもない。
あと君は「支配」の意味を間違えている。戦国大名の領域支配は大名権力による
人、土地、金の一元管理が特徴だが、信長の領国ではそれが出来ていない。つまり「支配の深層化」が
出来ていないわけだ。上っ面の支配でしかない。
この意味で信長は戦国大名どころか、守護大名レベル。
あと信長の軍隊は近代的どころか近世的ですらない。これもまた守護大名レベルの
中世をたっぷりと温存した軍隊。
はっきり言えば信長は、同時代的に時代遅れなんだよ。 で、知ったか博士のいう当時最新の組織はどこなわけ? 議論を変な枝葉にそらしたいんだろうけど、そんなものに乗るほどバカじゃない。
反論があるなら「信長は時代遅れじゃない」という論拠を示してくれ。
>>613
特に汚点もない宿老を粛清する
のってすごい強権のような気がするんだけど。
これ以上の強権ってどんなのあるかな?
>戦国大名の領域支配は大名権力による
人、土地、金の一元管理が特徴だが、
後、明智光秀が一方的に領国替えさせられたりしてるけど、
これは一元管理されていると言えなくないか?
信長が大名を官僚のように見ていたため、
明智が耐えかねて裏切ったという説があるけど。
逃亡宣言じゃない
「僕、調子に乗っちゃったけどそこまで詳しくないから教えて」ってツンデレと思うのだ
夏休みだしな >>619
汚点が無くても勢力の大きい宿老の粛清なんて昔からいくらでもあるがな。
毛利が井上一族を粛清したり尼子が新宮党を粛清したりしたのは何なのかと言うこと。
言ってみれば信長は佐久間粛清の時点で、ようやくそれらの「先進」戦国大名の
スタートポジションにいたったってわけだ。
あと、光秀個人をいくら支配したって意味はない。領国、領民を把握してなきゃ。
守護大名でも重臣の領国換えはいくらでもやってた。
まあ光秀が一方的に領国換えされたなんて、軍談講談のお話でしかないが。 >>620-621
出た出た一方的な勝利宣言w
テンプレどおりのバカだな君ら。 >>622みたいな長文書く暇があるなら
なんで「近代的」な大名家の名前が書けないのかなw >>624
論旨と違うからって事もわからないのかい低脳君。 最近多いよな。革命児信長からの振り戻しが酷いやつ。 全然違わないだろw
織田家が遅れていたという定義も他家との比較があって
初めて言えることだろ
どうせ北条とか書くつもりだったんだろw つーか毛利や武田以下だけどな、信長の織田家は。
なんか勘違いしているバカがいるが、信長が抜群に優秀な武将だったことは間違いない。
だが彼や彼の体制は、古臭く後進的だった。
それだけのことが納得できないかね?
むしろ守旧的だったからこそ信長は、短期間にあれだけ拡大できたと言っていい。
中世史の人で信長が近世的とか、今時言っている人なんているか?
>>622
>言ってみれば信長は佐久間粛清の時点で、ようやくそれらの
>「先進」戦国大名のスタートポジションにいたったってわけだ。
そうか、肯定的に評価しちゃっていいのか。、
スターリンみたいでなんか厭だなw
というか、戦国大名の多くは
武田信玄や上杉謙信みたいに
豪族の寄り集まりみたいな感じで
大名は常に豪族たちの機嫌を窺いながら
政治をしていたって感じはするよな。
大名といえども、かなりの危険人物に対してさえ
そう簡単には粛清できないような立場。
それを考えると信長の独裁制は異様のような気がするんだが。
>光秀個人をいくら支配したって意味はない。領国、領民を把握してなきゃ。
後、これがちょっとよく分らんけど、
明智を支配することで領国支配としては十分じゃないの?
中間に明智がいるのにそれを飛び越えて下に指示するとかって
軍隊としても組織としてもあり得ないし。
信長は一方的に領地がえをさせることにより、
領主と領民とを簡単に切り離すような事をしたが
これは実効支配ができている証拠にならないか?
信長は領主を中央から派遣された知事程度にしか
考えてない節がある。 論旨うんぬんの前に、すでにスレの主旨から外れている事を知れ まぁ、よりによってあの毛利以下とか言えちゃう時点でどの程度アレか推して知るべし。
以下スルー。触れるの禁止。 自分らも話題に加わっちゃって触れるの禁止とか言ってもなぁ。俺もだけど。
とはいえ、このスレにも居るように革命児信長を引っ張ってる人が多いのも事実。
経済関係者に多いようだ。どうでもいいけど、中世の話なのに近代という単語が出るのって司馬遼太郎も罪深いねぇ。
中世の次は近世なのに。
こんぐらい言っとけば公平になるかね。んじゃ、スルーしとこう ところで
恩賞ってどんな感じでカウントしているのかな?
雑兵の首を一つでもとれば足軽頭に出世できると聞いたことあるが。
あと、接近戦できる場合ならともかく、鉄砲隊とか弓隊
は一体どうやって手柄を証明するんだ? いくさになると、それぞれの頭にデジタル表示されんだよ >>635
弓隊でも鉄砲も、状況によって誰が撃ったのか解る、と言うものだったらしい。
まあ、矢には名前を書いておく念の入った人も多かったようだが。
>>638
>弓隊でも鉄砲も、状況によって誰が撃ったのか解る、と言うものだったらしい。
出典よろしく。 その隊の真正面で、鉄砲キズや矢キズで死んでるのが、その隊の手柄になんだろ
個人でなく隊や組に恩賞がいって、それを組頭が分けるんだよ
638が言いたいのはそういうことじゃないの?
これだったら、そこらの戦記ものを目通せば、すぐ載ってるけど つか、この当時の鉄砲なら、致命傷が与えられるのは可視範囲だから、
撃って当たったってのもある程度把握できるんじゃね?
弾幕が出来るような戦場なんて(長篠も含めて)ほとんど無かっただろうし。 で、足軽組の誰某が敵方の足軽や誰某を撃って云々て記されてるわけ? 兜首じゃないと恩賞の対象にはならんでしょ
武田なんかだとはっきり規定があって
証人も必要だったはず 兜首でも足軽でもなんでもいいけど、足軽組の誰が鉄砲で当てたかを監察する
ことがあったんですかと訊いている。説明しなくていいから何に記されているのかだけでいいよ。 俺は知らんけど発射速度が遅いので、
最初の斉射以外では、案外わかるかもね
第二次大戦の狙撃兵なんかだとカウントされてるし あのねえ、撃った本人が分かるか分からないかの話じゃないんだよ・・・
足軽組(集団で行動する)の足軽(集団に属する個人)の手柄を監察
することがあったのか、あるのならそれが何に記されているのかを
訊いているんですけど?>>638の個人的な想像のレスなら「らしい」とか
紛らわしい言葉で濁さずに「だったかもしれない」と締め括れよ。 だったらトンチンカンな言葉を労してまで必死になるなよw くだらね
明日はID変えてしっかり638の振りしろよw 流石に歴オタでも恩賞のことは分らんか・・
兜首しか認めないとなると弓隊が不利に
なって不公平だから
弓隊に対する救済措置がなんかしらあるはずなんだよな。
もしかして専門家でも知らないのかもしれんな 軍功状は侍大将クラスの話だから足軽の恩賞は組頭からもらうわけで、
弓足軽と兜首云々の救済は現実的じゃないような……
もともと投射兵器で弱ったところの首を欠く(ひろい首)のが常道だったりしたわけで
そこらの”弱らせた軍功の記録”はないんじゃないかなぁ 長柄足軽=営業・歩合制
弓・鉄砲足軽=経理・月給制
みたいなポジションだったんじゃないの?
んで、弓の名手とか鉄砲の名手とかは日当はずんでもらったんじゃないか? つーか足軽って基本的には戦ごとの契約傭兵だろ。
江戸期に入って足軽も含めた武士が城下に居住するようになって、
農村から分離しただけで(兵農分離) >もともと投射兵器で弱ったところの首を欠く(ひろい首)のが常道だったりしたわけで
>そこらの”弱らせた軍功の記録”はないんじゃないかなぁ
弓兵は弓で撃った後、接近して首拾いに行くってこと?
そんなことしたら戦列乱れるし、ありえないんじゃないの。
まあ、侍階級が個別に足軽雇って好き勝手に戦っているとかいう
組織だったらわかるけど。
あと、弓兵は固定給とかいうのはありえるかもしれんけど。 首を取るのは白兵戦力である徒歩武士の仕事でしょ
従者も主人の武士をアシストするのが主で、
名も無き兵卒が兜首を取って大出世なんてあまり無いよ >>661
たとえば、4人編成で、
従者は弓で主人を補助するというのであれば
わかるけどね。
主人が恩賞もらえばおこぼれもあるだろう。
大河ドラマの功名が辻はそんな感じぽい
シーンがあったな。
ただ、弓隊編成された部隊の場合はどうなるんだろうな。
戦国期は家にもよるが、例えば武田家あたりじゃ、軍役分の足軽を武田家が一括で集めて、
部隊編成していたそうだ。
この場合恩賞などの判断は、足軽運用の責任者である足軽大将にあるんじゃないかな? 射手の練兵には時間がかかったから、被害が少ないように大事にされていたはず。
鉄砲が重宝されたのも、弓と違って練兵が容易だったせいもあるし。
したがって、弓が扱える=それなりに優遇されてたんじゃないかなぁ 足軽の恩賞ってのは組頭の差配じゃないの。
上位者からお前(の部隊)は、こんだけ仕事したから、これだけ恩賞やる。
後は揉めない様に分けろ的な。
個人の裁量に寄るやり方だから記録にも残らないとか。 前近代の戦場で、上官が部下に統制力を発揮するとすれば、やっぱりそういう風になるのかな
上官が逃げる&死ぬと、恩賞の分配者がいなくなるから、部下も敗走しないよう戦う、と
案外、この辺って未開拓の分野なのかな 城攻めで先発隊が全滅するだろ
空堀とかに死体が満載になる
これ、どうする
どっちの死体処理人がそうじする 伊達が版図を広げたのは、冬になると略奪と強姦が仕事だったからだろ もう誰も認めない上杉出稼ぎ説を今度は伊達で語るのかw
上杉や伊達にうらみでもあるの? >>666
TPOで勲功の評価に違いがあったわけで、一概にこうだった、といいきれないだけじゃない?
”狙撃”も盛んに行われたので、その場合は個人の勲功(名前が記録される)が残ってるけど
関ヶ原の黒田家の島左近狙撃(菅和泉以下百の部隊)の場合、
左肘左脇乗馬3カ所に弾が命中、その勲功はた菅和泉ののものになってるけど
たぶん参加者全員評価されてたはず(不満が出てないから)
現在の会社組織だってプロジェクトの成功ボーナスはその責任者が分配する(各人を査定する)し
昔も今もそこらは変わってないと思うけどね つーか飛び道具系は、合戦中ずーっと飛び道具なわけじゃないだろ?
別働隊とかでない限り、しょっぱなだけで後は槍とかに持ち替えたんでしょ? >>674
本陣の守備とかじゃね?毎回全軍突撃じゃないだろうからさ 主攻の左右後方に散って迂回しようとする敵を狙撃
押し負けて撤退する味方の援護など
やること一杯じゃん
戦の途中で槍に持ち帰る機会があったら銃剣の発祥は日本になってるだろうな >>675
なるほどね
でも追撃とかにも向いてないから、手柄立てづらいっちゃあ、立てづらいんだろうね
比較的活躍の場は少なそうだ 足軽って最初は重装だったのが、時代が下がるにつれどんどん軽装になっていって、
戦国末期の頃には、もはや鎧も着けずに羽織だけ、なんてのまで結構いたらしいね。 >>679
戦国末期じゃなくて安土桃山末期じゃねえの? 時代というより勢力や地域に因るんじゃないのか。
千葉氏配下の酒井氏の足軽も装備は粗末な竹の鎧に竹槍だったそうだし。 その頃の東国じゃ足軽なんて主力じゃなかったんじゃない? それまでゲリラ的な役割で使われていた足軽を、初めて組織化して合戦に投入したのが太田道灌だとか。
>>690
京都の悪党が戦場で槍働きするために陣狩りして従軍したのが足軽の始まり。
雇われ傭兵であり戦時中に集まってくるだけで、主従関係にはなかった。
また、戦場で一翼を担ってはいたがまだまだ主戦力には及ばず
戦力の補強程度の意味合いしかなかったが、一騎打ちが主流の武士の戦に対し
集団戦で勝負をつけ、負けそうならすぐに逃げるので無視できない戦力になっていった。
関東でも足軽は従軍していたが、組織立っての用兵には至っていなかった。
太田道潅は足軽に着目し、江戸城築城後城内での練兵に勤しみ
後の長尾景春の乱の時には道潅の采配で見事に乱を鎮めた。
たしかこんなかんじ
道灌の「足軽」はどちらかというと「徒侍」の意の様に感じられる 太田道灌に関しては、「傭兵隊長」という見方をしている人もいるな。 しかし戦国の100年間、軍隊の重要なポジションを担い続けた足軽なのに、
結局武士なんだか違うんだかわからない、不安定な身分のままだった。 >>697
”備”の観点から見れば、弓組は道灌の時代にも一般的だったんじゃない?
弓専用の荷物も多いし、まとめて運用てのは室町から行われてたし