雑兵足軽の実状
例外を除いて、当時衆道は武家上層部に限られていたはず。
下層にまで広がるのは江戸期から。 戦国期は流民も多かったから、全国渡り歩いてた奴とかいたかな?
武士じゃなく雑兵で。 まさに傭兵って感じだな。でもほとんどが野盗だろうな 雑賀・根来寺がそうだね。鉄砲を肩に担いで歩き回ったんだろうか
30年戦争時の傭兵団みたいだw 雑兵だから従軍したら飯と給料もらえる。
勝ち戦なら強盗、恩賞もらえる。
負けそうになったら一目散に逃げる。
これだろ。 徴集農民兵の足軽と違って真面目に戦わないイメージがある雑兵 一両具足みたいな事をやってたのって長宗我部以外にいないの? 一領具足といってもただの農民兵だから特に珍しくもない。 >>16
逆。農民を最下級の武士に取り立てて一領具足というステータスを与えた。
通常の農民動員兵と違い、自主性や積極性が見られる。
そのことは後の浦戸一揆や山内家の対応などからも窺える。 制度的には珍しいものじゃないというのを前提に、
当の足軽達の忠誠心が特徴的だったという見解と、
後世の書物で有名になっただけという見解を見たことがあるなあ。 おそらく、今でもそうだが、日本人は土地にかなり執着する。
今より稀薄だったかもしれないがその地域を支配してる支配者と土地を同一視してたのじゃないか?
だから最下層の足軽が「われらが親分」と言う気持ちで忠誠が高かったんじゃないのかな? >>20
「一所懸命」という言葉が有るくらいだからな。
ただし、村の欠け落ちとかもあるくらいだから一概には言えないんじゃないか?
村の生活を保障してくれればこそ、支配者が忠誠の対象になると思うが。 「甲州人が歩いた後はペンペン草一本も生えていない」という諺が残っているということは
武田軍は略奪しまくりだったのかな? 板違いかも知れんが、俺の先祖はチョン女を豊臣秀吉の時代に犯してたかも。 俺のイメージはワイワイ、ガヤガヤ言いながら行軍。
親分にどやされなが、陣作り。
交替で見張りやりなが、ちんちろりん。
兵士当て込んで来る。行商人の物売りの声。
タバコ屋から買ったタバコを煙管で回し吸い。
お茶や酒の行商人を捜し回る。
こんな感じ 「軍勢の甲乙人、妄りに声高し、或いは行軍の序次を失う者、これを斬るべし」
>>29は処刑だな。 戦国大名:大手ゼネコンの社長。侍大将:1級建築士。 足軽大将:現場監督
鉄砲足軽:鳶。 雑兵:DQNの土方。 地方ゼネコンが国持大名クラスなんだろうな。
信長の場合なら地元大手土建屋の三代目といったところか。 やっぱり兵の強さは地域によって違うのかね?
それとも江戸時代の俗説? 尾張兵が弱いとか三河が強いとかは真っ赤な嘘だと思う。 でも当時の歌で、越後甲斐の兵が強いとかあったんでは 兵が強い=勢いがある
だと思う。
長篠後の武田勢の弱さ。
謙信没後の越後勢を考えたら、そう感じる。 それだと特定の時代や時期ではなく、大まかな地域で兵の強弱が評される理由にならないような。
現代でもグルカ兵の評判が良い事などからして個々の戦闘力よりも多くは兵士としてのメンタル面を指してると思われ。 貧しい土地の雑兵は強かったんじゃない?
勝てば略奪し放題だしな
と言っても実際戦う人間なんて全体の3〜5割程度だけどね グルカ兵はまぁ神話見たいなものだけどな。
軍板の話では、実際たたかったったり、共闘した旧日本軍人のじいさん達は、
はっきり弱いと言ってたみたいだから。 戦闘技能より忍耐強さの評価なのだろう。
数年前テレビで「グルカ兵は足腰が丈夫で上の者に従順だから集団行動させやすい」とイギリス人士官が語っていた。
ネパールでの生活環境自体貧しくて厳しいから過酷な作戦任務でも不平不満が出にくいのだろう。 それなら納得するが、それは兵の強弱じゃなくて、
兵の全体的な資質、性質的な物なんじゃね? うむ、だから兵質というのは兵士の勇猛さより集団として機能させる場合のメンタル面のことでしょ。
戦国期でも、上の命令に忠実に従い勝手に崩れたり浮き足立ったりしないというのが評価の対象に
なるんじゃないかね。
個々の徴集兵に強弱があるとすれば装備と編成と指揮する者に起因するような。
尾張兵についても三河駿河美濃伊勢といった隣国と互角以上に渡り合ってる事跡から見て特別
劣っていたとは思えない。 実際は兵に強弱は無いし、
それは戦局を変える要素は無い。
って結論でいいよね。 日本の戦国時代の合戦はちょっと特殊だからね
積極的に戦う兵って結局は大名の直臣連中の侍がほとんどだし
地方による足軽の強弱は無いと思うが
下級武士や豪族の強弱はやっぱあるんじゃないか?
それは強弱より、常備軍の量や割合の方が影響するんじゃないかな? 重要な要素忘れてた。
やっぱり経験でしょ?これは常備の武士になればなるほど重要になると思うよ。
戦術行なう、うえでもやっぱり理解度とか違ってくるし。 人間の筋肉って学童期に9割以上出来上がるんだよ 成人してからつけた筋肉は落ちるのも早い
だから生まれ育った環境が過酷な自然の人種は強健な筋肉束をもってる 過酷すぎて栄養タリナス、場合も潜在的な筋力はつくのん?
なんか適度には環境整ってないと駄目な感じがする怠け者の俺 戦国時代は食料の供給不足でみんな栄養失調気味だったと思うぞ たしかに、過酷な状況なら。
流民最強、洛中にあふれかえっていた浮浪者最強になる。 甲信越や三河の兵が強がったのは山野の山猿状態で育ったから
ヨーロッパのスキー選手はトンパみたいな例外除いて貧困層出身だぞ
テレビもみたことないような山で育ってる
日本のような学生スキーが主流じゃないからな 【郷土食が支えた最強の島津軍団】
戦国時代、勇猛で強い軍団といえば、武田信玄の甲州軍団、上杉謙信の越後軍団、三河武士(徳川軍団)があげられるが
忘れてはならないのは命知らずの島津軍団である。秀吉、家康でさえ島津と戦う事を避けたほどだった。
島津一族を強力な戦闘軍団につくりあげたのが、島津中興の祖、島津日新斎忠良である。
日新斎は、古代国家の頃、その荒々しさで都人に恐れられた熊襲の子孫、隼人族(猛人ともいう)
を家臣としてとり立てて、軍団の核としていた。
この島津軍団の兵糧のひとつに「ちまき」がある。ちまきは本来保存食で、兵糧などの携帯食料として使用されていたが
薩摩のちまきは一風変わっていた。
(中略)
薩摩のちまきは、灰汁でつくることから「あくまき」呼ばれる。ゆうに二,三ヶ月はもち、しかも高カロリーなのだから、理想的な食料だったのだ。
また鹿児島の特産品「かつお節」も高タンパク、ビタミンB郡を多く含み、保存性の高さはピカ一。「武教全書詳解」にも
「かつお節は、薬にあらずといえども、時にして飢えに及ぶときには、これを噛めば性気を助け、気力を増し、飢えをしのぐのみならず、役に立つものなれば
必ず用意すべき事なり」とある。
鹿児島県では、豚や鶏は、歩く野菜といって食べてきた。これら古代以来の野趣に富んだ郷土食が、薩摩武士の体力を強靭にし、最強の島津軍団を支えたのだ。 督戦隊の有無は影響あるんじゃないか?戦国時代にあったかは知らんけが。
よく、逃げると切るぞーみたいな言葉を、武将が叫んでる場面は小説ドラマ等でよく見るけどな。
矢を恐れて進まないんじゃ話にならないし、極限状態に追い込んで突撃させるのは、
鉄砲が主力になる前なら十分効果あると思うけど。 残念、鉄砲が主力になる前にも後にも白兵戦は極力行われないのが戦国時代
だから応援部隊はあっても無理矢理突撃させる督戦隊なんてのはない
何故なら実際に戦闘する連中は半農半士の豪族か大名の直臣達
武将の意地があるので戦うのが当たり前
逃げる奴も確かに居たがそういう奴は戦闘が始まる前に逃げる どうでもいいが「とくせんたい」と聞くとどうしてもあれを思い出してしまう >>56
そのための訓練を受けた武士ならそうだろうけど、あくまで「雑兵足軽」の話だろ、スレタイ嫁。
数をそろえるのに集めたのにみすみす逃がしはしないだろ、家族の命でも盾にとってたんじゃないの?
ろくに訓練も受けてない雑兵に、弓や鉄砲が扱えるとも思えんし、
使い道は追い立てて突撃させるか肉の壁にするぐらいしかないだろ。 >>58
お前こそ戦国時代の合戦の事が何もわかってないだろw
そうやって徴収された農民兵の多くは後方の雑役に回されるんだよ
実際に戦闘するのは3〜5割程度
しかも合戦の前には「陣触れ」という自主参加を促す宣伝で地侍を徴収するんだよ
そうやって集まった地侍や直臣の侍の従者が雑兵となり戦うんだから逃げねーよw
直臣なら妻を人質にも取ってるが、農民から人質とって突撃って…超バカw
欧州とかの戦争と勘違いしてんじゃねーの?マジ笑える
ルイスフロイスの著書にもあるが日本の戦国時代の合戦は
なるべく人が死なない様に考えられた「のどかな戦争」なんだよw
農民を戦死させて自国の国力やら産業力を低下させない目的のな
だから肉の壁なんてありえねーアホ過ぎる〜wwwwwwwwwwwwwwww
これじゃあ出陣の日を占いで決めてたとか農民=野武士や強盗がほとんど
なんて事実を書いても理解出来ないんだろうな ぷっ >wwwwwwwwwwwwwwww
とか
>ぷっ
とか、傍目に見ててもこいつの痛さも同様
いちいち「w」つけなきゃレスできないキチガイって可哀相でならんわ たしかにキチガイっぽいが、
内容は58と比べるまでもなく、まともだけどな。
総兵力=戦闘員ではないし、
戦闘要員は半農だろうが武士とそれに仕える連中が基本。
まあ、農兵は「村」という人質がいる事はいるけどな。 >>60
おいおい、そんな事書くなよ
それじゃそんなイタイ奴より知識の低い>>58がなおさら憐れじゃないか 実は>>1が必死に自演しながら保守してるだけだったりしてwww >>4
その土地の生活習慣とか食物とかで決まるんじゃないの? 雑兵といっても
1600年頃と1550年頃とでは
混乱の度合いが違うので
質が違うだろな
一貫しているのは山間部の兵は負けたら行く所が無い必死さがあった。
尾張など平野で育った人間は流民を見慣れているから
弱かったと考えられる。
平野というか商工業の発展した地域の人間は土地や地縁にしがみ付く感覚が希薄で能動的だったのだろう。 島津が強かったイメージがあるが
兵の使い方に因っていたのが実像
少人数の囮の部隊を使って敵を誘いだして
そこを襲うのが島津流だから。
囮の部隊は命がけだったが一族のために
捨て身を厭わない者たちが居てはじめてできる戦術を
実行できたから名を残せた。
体力的強さとかでなく
犠牲になる 捨て駒になる事にたいしての気持ちの問題である。
秀吉はそういうタイプの奴らと闘うことの怖さを知ってたんだろ。
勝ち方が悪いと 後々の統治に影響してきてしまう。
圧倒的に勝つことが条件だったから。 俺、この戦で手柄を立てたら故郷に帰ってあいつに結婚を申し込むんだ >>70
だいたい俺もそう思うがそこまで端的じゃないと思う。
明治よりはるかに昔の戦国時代は典型的な農本国家だし、貫高制はその農業社会に基づいた徴兵制度
っていう面も持ってたから、商業発展地域も主要産業はやはり農業だった。 まぁそうだろう。
商業が発展してるような所は、大概農業も先進地だろうよ。
非農業人口を養えるんだからな、当時の貧弱な輸送能力で。 >>74
重商が確立される以前であるのだから仰るとおり当時の社会が第一次産業ベースであるというのは否定しない。
発展地域には人が集まり流通も活発になる、当然職業種と求人量は田舎の農村とは比較にならなかったことだろう。
つまり、生まれ育った地域の“近辺”で職が得られるのであれば次男や三男は兵役賦役のリスクを負ってまで土地に
しがみ付くという意識と概念が薄れていくと。引いてはそれが戦場に於ける足軽の精神面での脆さに繋がるのではないかと。
また、田舎から発展地域に出て職を得るということも不可能ではないにしても、情報の乏しい時代に何の当てもなく
勝手の分からない土地に浮浪者覚悟で乗り出すというのは相当な理由でもないと難しかったのでは。 情報が乏しいだけじゃないの?雑兵物語という本を読んだ人はいる? 「雑兵物語」は面白いすね。
内容は弓足軽・鉄炮足軽・鎗担・馬標持・旗差・持筒・持弓・草履取・挟箱持・馬取・沓持・矢箱持
・玉箱持・荷宰料・夫丸・若党・中間らいわゆる軽輩雑兵の教練書ですが、
それぞれの経験談を口述手記の形を取ってるとこが面白い。
当時の雑兵らの口語が書かれてるので読みものとしても楽しめます。 「手明」は抜刀兵みたいな存在だったら格好良かったのにただの馬の世話係なんだよな 「旗持ち」ってのは、どんな奴らがなったのかな。
足が速いのは当然として、敵陣に突っ込む勇気も必要だよね。
目印として倒れない体力も必須。でも、首取りとかの功名とは縁が薄い。
とても名誉な役職だけど、家中では「縁の下の力持ち」的な存在? 暴走族の世界だと旗持ちは総長に気に入られた中堅の役目w >>78
足軽マニアとしては『雑兵物語』と雄山閣出版『下級武士足軽の生活』は押さえておきたいところ。 >>71
それ、強い兵の条件じゃん
引くなと言われたら骨になっても引かず
進めといわれたらわき目も振らずに突撃する
結局、薩摩兵が強かった事にかわりは無い 足軽って自衛隊の兵卒みたいなもんだな。
歩兵=鉄砲足軽
屋敷の警備要員=若党(江戸時代には口入屋を通して雇われたにわか侍)
当時の戦って、実際は槍や刀より
石を投げ合って相手を負傷させてたんでしょ? あと、兵糧って兵士1人1人が持ち寄って食べてたんでしょ?
本格的な兵糧荷駄隊を編成したのは石田三成が最初だと聞いたんだが
あいつ、やっぱ偉いよな >>86
陣笠と胴丸つけただけで、ほとんど無力化すると思うが。 >>86
刀は藩によっては貸与されないところもあったらしい。 >>71-84
琉球兵に苦戦した薩摩兵が強いんかねえ。薩摩の釣り野伏り戦法の
主力は、戦場で強盗行為もする家族単位で移動する野郎部隊じゃないんか。
遊撃戦は得意じゃろう。九州征伐の黒田勢が「近国の野郎のたねを断つ」
為、野郎の妻子も惨殺したんじゃろう。薩摩正規軍も長宗我部相手に
正面激突で苦戦しつつ退却した処を野郎軍団の遊撃側面攻撃にまかす戦法。
(薩摩人は遁走を恥とせん柔軟性があったことは長所じゃが、)
薩摩の戦法も長宗我部ら四国勢に通用しても、毛利、黒田勢には
通用せんね。
薩摩軍が蛮行で名を成したことは認めるよ。大友城下の者を売り飛ばし、
朝鮮出兵でも、テルマ・カクセイ(高麗おごじょ)を拉致したことも。
戦国期の南九州の伝統は近代熊本兵団(熊本・鹿児島・宮崎・大分の
壮丁で構成。)に受け継がれ、熊本師団は、女子挺身隊(慰安婦)を連れて
いるのに(中国姑娘)強姦すると悪名があり、占領地には、都城(宮崎)の
部隊を進駐させるよう苦慮したようじゃ。宮崎や大分なら兎も角、熊本や
鹿児島じゃあ、占領地の婦女子にとって恐怖じゃったろうね。 >>87
初めの数日間は、各人で持ち寄った腰兵糧で賄います。
その後は、部隊に付属する手明(小荷駄)から3〜4日の単位で支給されます。
出兵が長引くと、現地の商人から高値で購入することもあったようですね。 折口信夫氏の文から「たとえば、合戦になると、百姓が竹槍を持って
出て来て落人を殺してものとりをしたりしますが、同時に頼まれて
戦いにも行き、都合が悪ければ盗人もやります。道徳などは、それは
団体の道徳であって、団体を離れれば道徳などはありません。その村
だけの、村と言うよりは永住の地を持たない一部の人々の団体の道徳を
守り、一致した行動をとります。そんな連衆が巡っていて、時代が
変わってもいます。応仁の乱等があると、それがどこからともなく、
どかどかとやって来ます。大阪の冬の陣・夏の陣などにも寄り集まって
やって来ます。(中略)移動村落です。」(「無頼の徒の芸術」、
昭和11年、1936年)。
永住の地を持たない集団とは、焼畑民や漁民、被差別民等、移動性の強い
集団のことであろう。戦国時代が終わり江戸初期に近世領主による紀州や
四国の山岳民狩りは激しく、人質を取り、一村皆殺しの悲劇もあった
ことは、宮本常一氏も述べておられる。足軽の構成要素には、これら
移動性の強い集団の考察も重要じゃと思う。 >>98
それプラス給金が出る。
足軽組毎に数十貫文ほどでて組で山分けにする。
江戸期でもちゃんと給金が出る。
町奉行所の同心が足軽身分だけど、年収30俵2人扶持
中間クラスだと、年収3両1人扶持。
下級武士のことを「3ピン」というけどこれは「3両1人扶持」の事を指している。
>日当が米5〜6合なんだろう
これがいわゆる扶持米のことで「〜扶持」に対応。
>>99
中間の給金では、2両とかいうのもある。
それじゃ食えんので、多分一人扶持はついているんだろうけれど。 >>88
投石してきた相手が松坂クラスの兵で腕や足に当たったらどう? 【ネット】佐賀県庁が監視との報道で、2ちゃんねるでは「佐賀」が爆発的に流行 現在1万以上のスレッドに「佐賀」の文字が
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1161353273/ >>103
当時から松坂クラスのピッチャーがゴロゴロいたのか
凄いな日本!
でもコントロールはよくないからな、松坂は 松坂が10人いて150キロ半ばのストレートを投げ込んできたら面で制圧できる。 弓や鉄砲より十分早い。組み合わせればいいじゃまいか 鉄砲の弾込めの間なら十分使えるかもな〜>150キロ礫 平地はともかく山地で守勢の場合はかなり有効な武器だけどな 古代オリエントの投石器は射程400m 初速100km/hだったらしいが
これ使って松坂が投げたら何`でるんだろうな >>113
人が投げるタイプは、400mも飛ばないだろ 組み合わせるんじゃね?
投石器で松坂を飛ばす→飛んでる松坂が石を投げる
脅威の飛び道具誕生の予感 >>115
空中じゃ踏ん張りきかないから投げられないだろw じゃあれだ
松坂よりウデの振りの割合が多そうなヤクルトの五十嵐あたりなら120はでるんじゃね
合わせて220km/h!
ただ松坂以上にコントロールが悪い 逆に考えるんだ。
松坂が投げた投石機から石を発射するんだ。
投石機の重量>>石の重量なので、踏ん張りが効かなくても影響は薄い。 >>99
若党(奉公人の屋敷の門番侍)も、3両一人扶持。同心は普通の足軽より少し
上の身分だと思う。 (幕府の)同心=(諸藩の)足軽
って感じで本に書いてあることも多いけれど、
収入なんかでみると、同心の地位が高そう。
ところで先日加賀にいって足軽資料館に行ったんだが、
考えていたよりも待遇が良かった記憶がある。
確か3〜4部屋+台所etcだったかな。
長屋作りでなく、一軒一軒独立していた(なぜか庭は小さいけれど)。
収入など知っている人いる? >>121
ちと調べてみた。
ある御徒並(足軽よりちょっと上の身分)は11人扶持の切り米をもらっていた。
約40俵。
収入的には町奉行所同心と大体同じ。
足軽の収入はちょっと見当たらない。
>>122
それは7人扶持に加増されたものですね。
医師給人組に入れられて7人扶持をもらっている模様。
7人扶持なら13石ですね。32俵。加賀の俵(0.5石)だと26俵ほど。
11人扶持なら、50俵。加賀の俵なら40俵。
暮らし向きのほうは加賀藩足軽の方が楽そうですね。物価も安いでしょうし。 情報ありがとうございます。
聞いてばかりでは何なんで、こちらからも情報を。
佐賀鍋島家では、弘化年間で、足軽の切米が最高で5石5斗だとか。
扶持が付くか知らないが、一人扶持がついても8石足らず。
ざっと20俵ほど。
本当に食うだけだな…。 当時の1俵の目方は知らないが20俵だと1家族は
飢えなかったんじゃないかな?
貧しくても百姓と比べたらはるかに生活が楽だろうな 「最高で」ですので、ほかの足軽はもう少し大変なんだとは思います。
それでも、一般的な農民よりは楽でしょうけれど。
佐賀の下級武士だと、農業をやっている場合も多いですし。 江戸幕府の規定だと、
一人扶持(一日米五合)=知行取五石で、知行取一石=蔵米取一俵(三斗五升)。
三十俵二人扶持なら、知行四十石に相当することになる。 50キロかける20は1トン
5人で一人200キロ
1日600グラムもなしか
生きてはいけるけどぎりぎりだろうな
おかずがないから米だけで食べると5合近くは
いるだろうから 現在の米屋の単位は10kg=7升≒1.4kgね。
ついでに現在、3人核家族の米の消費量目安が10kg。 >>133
なんちゅう米消費量の少なさよ。
俺一人の消費量と一緒…。 頭部に鉢巻、畳具足、手には素槍を引っさげた足軽がかっこいい >>134
みんなおかずで脂物を結構食べるから米はあんまり食べないだろう
あんた炭水化物の取りすぎだぞ 糖尿の予備軍だから注意すれ 一ヶ月の話だろう?
一食1合として、一日400グラム以上、一月だと12キログラムぐらいは食うと思うが。
中高生のころは一食で2合は食っていたらしいし。 >>140
俺も若い頃はそのくらい食べてたがおっさんになって感じるのは
どんなに腹が減っても米があれほどおいしく食べられないって事だ
米なんて味がないって思ってる奴は多いが実際はすごくうまいんだよな うまい!
江戸時代の漂流の話を見ると、飢餓状態で、やたらと米飯の妄想・幻覚をもつそうな…。
雑兵の話。
兵糧がなくなったとき、稲刈り後に残っている株を掘って、その根を食用にするとか。
栄養分はあるのかなあ? 2ちゃんネラーが漂流すると得ろ動画を見ている幻覚に襲われるんだろうな オニギリがご馳走だったってなんかの本で見た事あるが普段は雑穀混ざりの
米しか食えなかったんだろうな
おかずも大陸のように肉食の楽しみはなかったようだしいつ死ぬかわからないし
今のサラリーマンは天国だ 大陸の庶民はその日のパンかスープがあれば良いレベルの生活だよ。
肉は、冬場は家畜にやる飼料も無い為に殺して干したり塩漬けにして保存できるようにして食うだけ。 平安時代から地方に豪族ができ武士になり土地を巡り戦になった!
歴史では基礎中の基礎です。
織田信長が登場するまで80%が(半農 半武士)で生活をしていた。
徳川幕府になり約300年の間 武士や役人が位をつくるようになった。
結局、貴族社会が崩壊し
武士が中心の世界になった。 徳川後期の無能役人の伝統を今も引継いでいる
金の値打ちもわからない役人や政治家が国家財政を
手のつけられないほど食いつぶしやがった 同じ足軽でも袖(肩部のプロテクター)が付くのと付かないケースがあるね。
それと陣笠被ってるのと鉢巻だけのケース。 実際、食うことと略奪ぐらいしか楽しみないんだろうね 手柄立てて出世してやると
夢を見て戦場に散っていったんだろうな 白いおまんまと略奪の為に戦場を駆けめぐったと思うがな 「かかれ!」っていう命令下や、乱戦時の雰囲気は、なんとなく
校内のマラソン大会に似てると思う。
自信あるやつは、本気になる。晴れ舞台の大会で上位入賞の名誉と
成績upという恩賞目当てに。
大多数は、まあ入賞できないし、やれって言われたから無理なく
そこそこのペースで走る。キツくなったらペースダウンすればいいし。
やる気ない人は、無理矢理走らされて疲れるだけだから、適当に参加。
むしろ歩く。先生(隊長)が見てる所だけ走ってるフリしてりゃいいや。
無理に疲れる事しなくたって害はないし(食ってはいけるし)。
みたいな。人数の割合も似てると思う。
「参加しなくてすむなら、したくない」ってシチュエーションも似てるし。
俺なんかは中盤〜後方集団にいて、周り見ながらタラタラ戦ってたんだろなw
藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年) >>156
自身の命を懸ける合戦とマラソン大会ではさすがに比較はできないと思われ。。。 信長に履物貰った逸話のある兼松正吉みたいに武功を立てて足軽から馬廻に出世した例もあるけど
基本的にどれだけ頑張っても下っ端どまりだと頑張る気が起こらない
副業の略奪に目がいっちゃいそうだ >>160
正吉って足軽だったの?
親父の諱も伝わってるみたいだけど >>160
どこかの農村・漁村の次男坊・三男坊が侍になれる「可能性」があるというのはそれなりにやる気が出るかと 関ヶ原後に大幅に領地を削られた毛利家では家臣たちに食えるだけの碌を与えるのに
開墾して石高を大幅に増やした。
それが可能だったら、なぜ戦争なんかして他国の領地を取っていたんだ?
最初から自領を開墾して石高増やせよなw
ちょっと不思議じゃないか? >>163
・敵が攻めてくる=自衛の究極形としての戦争
・武士階級の領土拡大に対する固定観念
・灌漑技術が向上して平野部を耕地化できるようになるのは戦国末〜江戸期 >>163
積極防衛にもなり手っ取り早く領地も得られるから一挙両得。 信長公記を著する太田牛一も足軽→信長馬廻(弓衆)と出世していったクチ
足軽でも弓の技能とか文筆の才があれば取り立てられる可能性は極小ながらあった
……ってまた織田家の例だな 織田家以外で足軽からそれなりの身分にのし上った人がいる大名家ってある? >>169
有名所じゃん
松永・道三・高坂あたりでそ?(勘助はナシw) >>170
大名にお尻貸して、成り上がったのかな?
今の時代に「部長は、社長とホモ関係で出世した」なんて言われると恥だけど。
戦国時代は、別に恥かしくなかったのかね? >>170
足軽じゃねえだろw
元は卑賎でもデビューは士分だ。
足軽=バイト
士分=正規雇用 >>169
三好、土岐、武田は全部源氏の出、ただし三好は他説有
そもそも織田氏は守護代(信長は傍流だが)で足軽には程遠い身分
ちょっと調べれば分るだろうに
>>170
斉藤道三は北面の武士の家柄だろ
高坂は富農→近習、松永は不詳
全部足軽とはいえない >>174
まさか、海洋民族久米一族というんじゃないだろうな? 厳密に言えば違うけど、下級な士分は足軽と変わらないでしょ。
特に兵農分離がロクにできてない1500年代前半は。
>>174
>そもそも織田氏は守護代(信長は傍流だが)で足軽には程遠い身分
お前も読解力ない奴だな。
織田が足軽出身と言っているのではなくて、織田家で足軽出身者が出世している。
織田家の他の大名家で足軽出身者が出世しているところはあるの?
↓
三好家、土岐家、武田家
という流れだろが?
アホかw >>176
「厳密に」いえば、姓の有無で決まるのかな?
当時も庶民は正式には姓がなかったような気がするというか、
兵役がらみでそんなことを推測できる文書があった気がする。 >>178
姓はあまり関係ない
必要なら自分か主人が勝手に付けりゃいいし。
「厳密に」というなら被官関係だろう。
出世したくて多少知恵の回る奴は最初から自称浪人で士分として売り込む。
秀吉は知恵が回らんとは思わんが、それすら出来ないくらいツテも元手も無かったんだろう。
被官関係としても流動性高いから「厳密」てのはそもそも無理だろ。
>>176の言う通りハッキリクラス分けも出来ないし。 当時は百姓も苗字が禁止じゃなかったからな
大抵、出身地の地名をそのまま持ってきた
逆にそういうのと縁が無いのなら出自がそれこそかなり低い傍証になる ところで、秀吉が貧農ではなくクラークだったって聞いたけど、
本当なのかな? どちらにしても尾張中村出身で初め松下家に仕えたってのは真実なのでは。 >>182
おかんが茶坊主と再婚しているところを考えると底辺層ではないかもね 当時の、しかも信秀クラスの茶坊主や同朋衆が、
どの程度の地位があったのか・・・
茶坊主や同朋衆のもピンキリだろうし。
織田家の弓衆の養女と結婚したのも、逆玉の輿というより
そんなに秀吉との地位に大差はなかった(地位が低かった)
と見てもいいんじゃないかな? うーむ、、、
嫁の実家の木下姓を名乗ってることから見ても、やっぱり立場関係は嫁の方が上なのかとも思うけど。 有力諸侯に功を立てさせると、中央集権から遠のくし、最悪、主家を乗っ取られて
しまう。
だから、君主は、なるべく身分の低い者を取り立てて功を上げさせる。報酬が
少なくて済むし、いざとなったら粛正しやすい。
わりと君主一般にある普遍的なことなんだな。 「有力諸侯」「中央集権」っていう言葉を使うほどの勢力なら、
すでに大勢は決まってるから、それほどの事はもう起きんだろうw
それ以前の勢力だとしても、寝返ったりする大多数は、小城主なり
小領主なりの身分の低い者たちなんだがw
むしろ自分にとって有利なヤツ(有能な者・忠誠心のある者など)を
増やしておきたいからじゃない? >>153
それほどけなげには戦わなかったと思うが
だいたい戦争に負けても生き残れば勝った軍団に
編入されるわけだからそこそこ戦って危ないと思えば
すぐ退却しただろうし相手が強ければ近づかないで
逃げ回っててもOKだったんじゃないかな
1日米5〜6合じゃあ本気で戦うのあほらしいだろう >>187
正社員を出来るかぎり雇わずバイトやパートや派遣社員で済ませるのは今も昔も同じか いや、完全に農民だよ。
半農半士でもない完全な農民。
少しでも士の要素があれば、どんな力業でも家の元を源平藤橘とかこじつけて出生を明らかにするって。清正みたいにね。
でないから、天皇落胤だの、あちこち養子依頼だのしたんでしょ。 当時は寒かっただろうに防寒なんてどうしていたんだろうな
鎧の下に毛皮でも着てたんだろうか? >>192
その加藤家や福島家と縁続きだったわけだ。
完全に農民でもないだろう、秀吉のオヤジは戦闘に参加して負傷しているのだから。
あと、藤原や足利への養子依頼は、摂政関白や将軍への就任する目的があり、その筋の宗家の承継者になる必要があったからだよ。
傍系でも血統さえ引いていればいいとうわけではなかったので、系図捏造では対応不能。
系図でっち上げしないで新たに豊臣姓ゲットしたのは、自分が若い子ころから自分は貧農出身でと触れ回り自分で既成事実を作ってしまっていたからでは?
>>108 松坂がゴロゴロ居るなら古田や城島もゴロゴロ居るわけで。
しかもランナーが居たら振りかぶれないし、イチローもゴロゴロ。
投石の有効性は疑問でありんす。 >>194
農民だって、兵役はあるんだしなあ。
どっちかというと、耕作して得たものを、貢租として治めるか否かで
武士か庶民か判断すべきだと思う。 >>193
人の体質は3世代で変わるから、今の人とは体質が違う
体力や抵抗力、筋力や骨格とかが違うわけだ
今ですら、南極観測に行ってた人は、日本の真冬でもそんなに
寒く感じないって事だからね
すきま風が吹く家で、藁にくるまって寝てても風邪を引かない体質を
考えれば、多少の暑さ寒さは耐えられるって事かな >人の体質は3世代で変わる
ルイセンコ主義??
つか>197の使ってる体質ってどういう意味かわからん… ルイセンコとかじゃないよ
食事や生活環境が変われば、3世代で体質が変わるって事
体質ってまとめちゃったけど、体力や抵抗力、筋力や骨格、体格とかの事だよ
そんくらいで変わっちゃうんだから、現代人とはかなり違うよって言いたかったんだけど・・・ 確かに戦争を知ってる老人達のタフさはすごい。
ほんの二世代前だとは思えない。 >>200
生活習慣で変わるものを”体質”っていうの??
例えば、病気に対する生存率、は今の方が強かったりする。
インフルエンザなんて昔は死病だったけど、今は栄養が良いのでそうでもない。
となると現代人は体質が昔より強い、というべき…なんて話になるよ。
ただ昔は”体の強い人が生き残った”だけなんじゃない?
実は昔の人が全員健康だったか、というとそうでもなさそう。
例えば喘息。鎌倉時代でも合戦最中に発作で討たれた人もいるし、
蝦夷まで踏破した伊能忠敬も持病だった。
肉体なんて昔も今も変わらないよ。たぶん”意志”の問題だと思うなぁ。 >>203
上手いことを言うw
>>202
健康だったんじゃなくて丈夫だったんだよ
医学や科学で補ってるだけで、圧倒的に環境に恵まれてない昔の人の方が体は強いでしょ
日本人が発展途上国の生水飲んで体壊すのと同じ 乳幼児死亡率から考えると、今生きている発展途上国の人の体が強い、
わけは、体が弱い人が大人になれずに死んでるからじゃない?
そういう理由からの”体質の強さ”って「三代で体質が変わる」っていうのと、
ちょっと違う気がするのだけど… そもそも、「体が強い」ってなによ?
えらく曖昧なんだよねえ。
疾病罹患率が低い?
寿命が長い?
筋力、瞬発力などの運動機能が高い?
やっぱりルイセンコ主義の亜流みたいだけどねえ 何でそんなに食いつく&スレチな重箱の隅つつくかなw
理論好きだね
要は>>193の答えなだけじゃん
しかも現代人が、当時の人と同じ環境で暮らしたらほとんど
もたないだろうって話なだけですよ
細部をつつくような小さい事言うなら、服一枚で冷暖房のない
外気と同じ部屋で冬を越してみろってのw
越せたら理屈や理論に付き合ってあげるよ
ちなみに3代で体質が変わるのは、Newton誌で掲載されてるからね
もうスレの軌道修正しようよw >>207
まさか根拠に科学啓蒙誌だされるとおもわなかったな…
とりあえずどこに載ってたか教えてくれない?
たぶん内容を誤解してると思うよ… 挙げ足とるようで悪いけどさ。
体質って言い方がまずいのよ。
たとえば、親と今とでもは、環境が全然違うでしょ。
でも体格や君の言う体質は違うと思わない?
環境がかわってから三代たって変化したんじゃないでしょ?
この場合なら成長期の環境が重要で、一代でも大変わり。
環境が大きく変わってしまえば、疾患発生率は一代でも
大きく変わる。日系移民の糖尿病発生率なんかは実証済み。
もともと日本人は、欧米人より糖尿病にかかりやすい「体質」なんだけど
三代経っても日本人同士の交配なら、かかりやすい体質はかわらない。
現地の人たちと結婚して三代経ったら、というんなら単に
現地の人の遺伝子が優性だっただけ。
その発現する体質(正確には形質)は常に現地が優性なわけがないから
体質がかわるかどうかは、「なに」の体質かによっても変わるはず。
それを一括して「体質が三代で変わる」じゃ、乱暴すぎる。
スペイン風邪は多くの死者を出したよ。江戸期の日本でもね。
遺伝的に変化が無い今の日本人が、当時の環境ならその何倍も
死んでる?もしくは、栄養状態や医学がよければ
当時は死亡率は今の何分の一になってるの?
それって、おかしいとは思わない?
一瞬、Natureにみえてびっくりした。 理屈や理論は分かったよ。頭でっかちなやつらだなw
もうスレチすぎるし、論争のポイントもズレすぎw
謝れば気が済むのかな?
ごめんね、体質や3代云々は取り消すよ
で、>>193の答えは?
それと、ぜひ「服一枚で冷暖房のない外気と同じ部屋で冬を越して」ね
雑兵足軽にかぎらず、当時の日本の大多数は「服一枚で冷暖房のない外気と同じ部屋で冬を越して」たんだから
さあ、お得意の論理的かつ医学的に説明してもらおうかw >>211
室町、鎌倉の庶民だって女性は小袖、湯巻で重ね着はしていたし
男性だって水干、直垂の重ね着をしていたんだよ
寒けりゃ重ね着するぐらいは当たり前
現代でもね、ホームレスになった人の多くが風邪を引いたり、
凍死したりしてるかい?一年持たずに死んでるかい?
そりゃそういう人もいる。でも、殆どとはとてもいえない。
逆に昔は風邪で死んだり凍死者は殆どいなかった?そんなことはない。
むしろ、風邪の大流行で大量に死んでいる。(先にあげたスペイン風邪でも)
この時点で
>ほとんどもたないだろうって話なだけですよ
って根拠ないと思うんだけど >>193の答え
つ【陣羽織】
陣羽織は元々戦場での防寒具として鎧の上から着たもの。
羽織は最初は「胴服」といわれていたらしい。
それから昔の人は一年中単(ひとえ)衣で過ごしていたわけではないよ。
普通の着物は裏表に布を使うし、重ね着だってする。
寒ければ綿入だって使う。
当時は木綿は高価だったので、和紙を張り合わせて防寒用の衣類や布団を作ってたんだ。
紙子とか衾とか聞いた事ないかな?
現在でも新聞紙をポリ袋に入れて防寒することだってあるのさ。結構あったかい。
緊急時の生活の知恵w 少しまともになってきて良かったw
>>212
小袖、湯巻、水干、直垂を着れるほどの足軽がどれほどいたか…
雑兵足軽って言われてる人たちは、もっと下層の人たちじゃないのかな
よくて半農半士、ほとんどがかり出された農民のはず
それも小作人レベルの、食う事が必死な層
服のゆとりなんて無いし、重ね着できたとしても、古着の二枚重ねくらい
ましてやジャンパーやらセーターに恵まれたホームレスとは比べものにならないよ
松永弾正(だったかな?)の式目に、当時の農民の生活スタイル規制したものがあるから、それを一度見た方がいい
どんだけ余裕のない生活か分かるから
>>213
陣羽織は分かるんだけど、足軽レベルが着てた?
そういった絵図は見たことないけど…あるのかな?
紙子も名のある武将が使用してたのは聞いたことあるけど、雑兵足軽くらいの人たちにも普及してたの?
出典があるなら教えて欲しいな、うろ覚えでいいから
面白そうだから、ちょっと見てみたい >>214
小袖、水干自体が庶民の服なんだが……
ホームレスのほうが恵まれてるから、生存率が高いんでしょ。
戦国時代の人間の方が体が強かったとか、現代人ならもたない
とかいう論理にはならない。
過去の時代の方が、貧しい生活だったから、ばたばた倒れ、死んでいった。
現代は豊かだから、そうはならない。
ってだけの話。
豊かになって使わなくなるから弱くなる。厳しい環境で耐えてると
>>197>風邪を引かない体質
になるから大丈夫だったてのは
「ルイセンコ主義の亜流を信じてます」って宣言してるだけ
ものがないから耐えていたって話だったら>>202さんの書いた通り
意思の問題。 小さい頃から鍛錬された状態で育つと頑健になるって面はあるだろう(その人一代の話でな)
逆に、時代的な栄養状態の低さが働いてる面もある >>214
>陣羽織は分かるんだけど、足軽レベルが着てた?
>>193には「足軽が」と言う断わりがなかった。
>紙子
ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469/real047.html
ttp://cgif.nifty.com/fkimono/kword/kword.cgi?00310
紙子は別に庶民だけが着ていたわけではなく、贅を尽くしたものもあったのでそれを見聞きしたんでしょう。
この場合、消耗品(使い捨て)として使用したらしい。
紙子は庶民の防寒具としては比較的一般的なものだよ。
木綿よりずっと安いからね。
あと、庶民の防寒具が紙子だけ、と考えられても困る。
紙子も買えない様な人たちは、ありあわせの衣服を重ね着してたろうし。
あと、毛皮なんかも使用していた模様。
越中から冬の北アルプスを越えて徳川に支援を求めた佐々氏一行か、熊の毛皮をまとっていたというのが
徳川方の記録に残っています。 具足が貸し出しされていたから衣服なんかも支給されてたんじゃないかぁ
もし陣羽織なんかがあったとしてだ。
それってあったかいのか?ユニクロのフリースのほうが断然マシだろう。 布自体うすくても空気の層をたくさん作ることで暖かくなるのよ。
とりあえずTシャツを重ね着してみると、
その暖かさがわかると思うよ。 もう服云々はいいよ
現代の感覚で物言う人が多すぎだし
ひとまずほかに、熱した小石をカイロがわりにしたとか、酒で暖めたとかはあったね 唐辛子を体に塗って、寒さを凌いだと言う話は聞いたことが有るな
その歳に手に塗ってはいけない、顔を掻いたときに目に入って耐えられないほど痛くなるから 唐辛子たっぷりの地獄ラーメンを食ってた時に、たまたま箸から落ちた麺の滴が
片目に入り大変なことになった経験がある身としてはよく分かる話だ。 かりあげクンで、靴の中に立ち食いソバの唐辛子いれる話あったの思い出した。 あの応仁の乱だったかで戸板などを盗んでいる絵ってあるじゃない
あれってどうすんの
売れるのか? 何かと使えるみたいよ。戸板。
以前テレビで古い農家が取り上げられてたんだが、
「川が氾濫したら戸板を船にして」とか言ってた。 すべてが手工業だった時代、中古の戸板すらも売れたのかもね。 そういやそうだ。
江戸時代、かまぼこ板みたいなのにも価値は見出されていたんだから、
戦国時代ならなおさら。 加工した木材って、そんなに価値があったのかあ
なんでだろ?
木自体は今より沢山あったろうから、大工不足?
大工の労働費が高かったのかな? じゃあ、蒲鉾板を当時の工具のみで作ってみなよ
工業化が如何に偉大かが実感できるから あれって戸板売るつもりじゃなくて、叩き壊して篝火や薪にするだけじゃないのかなぁ… 押し崩して戸板ごと槍で突けばかの剣豪将軍もお陀仏よ ずーっと謎だったんだが・・・背中に立てる旗。
ドラマみたいに「織田軍は全員織田木瓜」ってわけじゃなくて、
合戦屏風みたいに種々様々だよね。
例えば
信長軍 木瓜
その下の勝家軍 雁金
その下の利家軍 梅鉢
さらにその下の奥村、村井、長がそれぞれ・・・
たぶん、さらにその下くらいまで・・・
20〜30人率いる武将(家)なら、そのくらいで1つの家紋の旗が
あったと思う(違うかな?)
軍勢の規模にもよるけど、味方だけでも百種近く。
で、それが敵味方の区別のためでしょ?
あれ、全部覚えられたのかなあ?
乱戦とか陣替えとかになったら「えーと、敵か味方か分からないから
攻撃やめておこう」みたいなことが、あったように思うんだけどw
詳しい人いる? 旗指物は分からないけど、足軽が槍や肩に付ける合印は各大将旗下で統一されてたみたいです。
桃山以降になると大名家の家紋入り御貸し具足や陣笠が登場します。 雑兵物語に、合印をなくしてしかも”合言葉”を忘れて味方に首切られちゃった話載ってるよ。
大阪夏の陣だと「他の部隊のものは陣に入れるな」という指示が出されてるし、
伊達軍が陣前方の敗退する味方を一斉射撃しちゃってるし、
”敵味方不明”のときは攻撃しちゃってもいい、という不文律が合ったのかも。
旗印は味方判別というよりは、功名確認のためじゃないかなぁ… 日本でも家紋見ただけでどこか判別する役職があったような
江戸時代の話だけど >>232
それだと、合戦の際中にやらなくてもよくないかい? 陣中に与えられた米を使って日本酒作る器用な足軽たち あれたかだか戸板盗んでるだけなくせに
「へっへっへ、俺達悪だぜ〜?すごいぜ〜?」
と得意がってるように見えて笑えてしまう
まあ昔はお寺に狼藉するのってすごい悪なんだろうけど 痛い話だけど、藤堂高虎みたいに手や足の指がなかったり
爪がはがれたりは普通だったんだろうな・・・
今より全然整備されてない平地や河原や森の中を、素足に
草鞋だけで戦ってたんだから、ぶつけたり引っかけたりとかもありそう。 まあ足軽なんぞの軽装備で戦闘に参加せざるを得なかった民衆だろうからな・・・
足袋は基より着の身着のままで武器だけ持った雑兵も多かったろうさ・・・
昔も今も特殊装備というものは高いからな
鎧は基より、足袋なども貧乏人は履かなかっただろうから需要と供給のバランスを考えると足袋はそこそ高かったものと思うぞ >>141
血レスだが、三十路崖っぷちのおっさん見習いの漏れは、
だんだん濃い味が苦手になってきたからか、めしがうまくなってきた。
今では米だけで食えます。
玄米やその他の穀類が混じったのも食べるけど、それはそれでおいしい。
ただ、少ししょっぱいのはなんでだろ おそすれ
“せんごくじだいばん”とか読んでそうだなお前 足軽は徴兵される時に装備チェックされるんだよな
鎧がショボイと罰されることもあったらしい。
裕福な大名はお貸し具足レンタルするから大丈夫だろうが。
足軽も敵領から略奪する金品や、奴隷・身代金になる女子供目当てで参加していたようだ
大名が望まなくとも農閑期の農民の支持を得るため出陣することもあったって。
集団出稼ぎw >>255
> 大名が望まなくとも農閑期の農民の支持を得るため出陣することもあったって。
そんなのあったんだ?どこの大名?
お貸し具足って笠ばっかりなのかなと思ってたが、
兜のところもあるんだな
川越藩などは江戸時代とはいえ頬当付きの頭成兜というハイコストなお貸し具足でびっくり
まあ全兵卒に行き渡ってたわけないだろが、刀狩以前の農村には大量の武器防具が蓄えられていたらしい >>258
上杉はそうだろなw
引用が長くなるなら出典だけでも教えて欲しいです。 というよりも、土豪の権力が強い大名はそんなもんじゃね? >>261
そうなの? 出稼ぎ戦争は、甲斐みたいな貧しい国だけだと思っていたけれど。 >262
金山あるんだから貧しいも何も
>259
俗説の類いだよ。言っているのは一人だけ。 ググっても出ないな
まあ7-8年くらい前に信毎の記事中にオッさんが語ってたのは確か
通説ではないよ。 >>259
遅れたが藤木久志の「雑兵たちの戦場」など。
越後では二毛作ができず、農閑期・慢性的な飢餓に陥る端境期(田植え終了〜収穫までの期間)
の口減らし&出稼ぎとして出兵していたのでは?ということだった。
田村憲美氏が中世後期の人々の死亡傾向を調べた結果、端境期に死者が集中していたそうだ。
謙信の関東方面への出兵パターンの多くが
収穫を終えた晩秋から田植え期まで帯陣する短期越冬型か、冬から夏まで帯陣する長期越冬型で、
上杉家軍役帳では全体の四分の三が農民だったこと、作物の略奪(刈田)、金品・人間の略奪(乱取り)、
それらの捕虜・人質から身代金を取ったり、奴隷として売り払うのがビジネス化していたこと、
謙信も小田城攻略後、城下で人身売買の市場を自らが差配していたこと、
などを根拠にしてた。
土豪や土侍は兵を徴発する農村の農業活動に動向を左右され、
彼らに軍事力の多くを頼っていた謙信の戦略に強い影響を与えた。
大名は農兵達を戦場に引き止めるために、恩賞として略奪を黙認していた。
また、当時略奪を逃れるために禁制が発行されており、これは略奪が日常茶飯であったことを示している、
と言ってるがどうなんだろうね。 ただこの人鈴木真哉氏と共著出してるあたりがきな臭い・・・ >>265
当時は手っ取り早く言えば北斗の拳みたいな世界で
天災続きで作物も取れない大飢饉の時代だから
土地の英雄=略奪者になるのも仕方ないわね ぶっちゃけ雑兵の略奪・人身売買を厳しく取り締まらなかっただけで
それ目的の戦争ってのは苦しくないか?
例に出されている人身売買も一般的に人ひとり一貫くらいが相場だった頃に
謙信が取り仕切った時は身の代金ひとり辺り数十銭とかゴミみたいな値で、
何万人単位で売っても割にあわんと思うが。
売らないで奴隷や妾として持ち帰ったりもしたんでない?
逃げられそうだがw 武田家の書類だったと思うけど、逃げ出して他家の下人になった奴隷を元の持ち主に返すよう
仲裁の指示を出てたりしてたから自分の奴隷にもしてたみたいだよ。 しかし自分の所に連れて帰るだけでは金にならんじゃないか。
働き手も増えるが食い扶持も増えるだけじゃないか?
特に餓死者が多く出るくらい逼迫していたなら
高値で売りつけんと割に合わないだろう。
実際武田は身代金に数十貫とかなり高額な値を付けてるし。 上杉の場合頭領の謙信は鉱山を直接支配しておらず
収入は主に直江津の海運やアオソ輸出による商人からの税収に頼っていたあたり
謙信本人は奴隷売買をビジネスとしてはさほど重要視してなかったんじゃないか?
ただ商人がいくら儲けてもその分け前は来ない下の方の雑兵(農民)は
略奪できなきゃ旨味が無いので略奪禁止されると士気が落ちる…となると
謙信本人の奴隷市取り仕切り二束三文叩き売りは迷惑でしかなかったかも。
ちゅーかこの頃の人身売買は売る相手は主に売られる本人の親類縁者やその土地の領主で
(買い戻すために一番高値で買い上げてくれるから)
買い戻してくれる人間がいなかった身寄りの無い奴を奴隷商人に渡していたって話を
聞いたことがあるがそれはどうなん?
関東圏内の狭い地域じゃ無理にさらって連れ帰って奴隷扱いしても
すぐ逃げて地元に帰ってしまうだけな気もするが。 ショタオフの主催者がオフ参加者をホモが集まる新宿2丁目へ売り飛ばすと公言
男児ポルノ愛好家の卑劣な発言を許すな!
【ショタ】ダメ…僕…男の子だよ…あ…んっ…【OFF会】
http://sports11.2ch.net/test/read.cgi/offmatrix/1182435883/191-
191 名前:幹事(仮) ◆CItxdAkoPQ 投稿日:2007/07/14(土) 14:33:39 ID:M17PlN/u
お金足りなくなったら俺たちに頼めばいいよ。
多分「貸す」から。
払えなかったら2丁目あt(ry >>265
藤木久志は「定本・北条氏康」や「天下統一と朝鮮侵略」を著した人だね
この人の本って、背景にある思想的バイアスが透けて見える気がする。
客観性に欠けるようで、何か気持ちが悪いんだな。 領国経営に力を注いだ謙信の年貢収納高は推定99万7000石。
食料や富を略奪するために外征を行う必要は無いのではないか? 雪で冬やることないから出兵してたんじゃない?
謙信の居る春日山城って豪雪で有名な上越市だし 兵に農民が多い以上自国の農地を放置するわけにはいかんし
冬の農業しない時期に出兵が多くなるのは理由考察するまでも無いことだろう? >>265
>謙信も小田城攻略後、城下で人身売買の市場を自らが差配していたこと、
「小田開城ヨリ、御意ヲモツテ、春中、人ヲ売買事、廿銭・卅弐程致シ候」(越佐史料)
ほんのわずかな証言を根拠にして、自説を展開するのはちと乱暴なのではと思います。
>>270>>273同意です。 >280
御意によって身代金二十銭で人身を売ったって
人身売買をビジネスにしているようには全く見えんなー。
身代金二十銭で捕虜開放してくれるなら
売られた人間の殆どが親類縁者に取り戻されたんじゃないか?
二十銭でなお買い戻してもらえなかった奴はよっぽど困窮していて
商人に買ってもらって食い扶持を保障してもらえる方が安全な奴
くらいな気がするな。 >>281
確かに捕虜開放と言った方が近い感じですね。
また謙信(輝虎)が小田勢の捕虜を安価で解放した、
逆に捕虜となっていた上杉勢(佐竹など)の兵を買い戻した、とも読めますね。
常陸小田城は争奪戦となっていたので、両軍多数の捕虜を抱えていたでしょう。 九州では島津が豊後で残虐行為を行なった後
奴隷を大量に連れ帰ったが家で持て余し、
競りにかけて安価で外国に売り飛ばした例がある。
武田家も一般市民を捕えて奴隷にしている。 >>283
日本人が犯した残虐行為について詳しく教えて下せい! 足軽の発展については大体
戦国期初期:百姓の次男三男の志願者や地侍によって徴募された奴らが主体。あまり錬度は高くない
戦国期中期:この頃から定期的に訓練を受ける様になるがまだ半兵半農
戦国期後期:兵農分離が進みプロの兵士に近くなる
江戸期:兵士を職業とし常備軍を構成する様になる
と言う理解でいいんですか? 江戸期:太平の世となり軍人から役人や普請に役割がシフトする 加賀藩の足軽の住居を再現したものをテレビで見かけたけど割りといい暮らししてたっぽい。 >>288
気をつけるべき点は以下の2つだ
・実物も再現も、新築間もなきゃ良く見える
天守閣だって年が経てば松本城のように傾いて歪む
・リアルに再現しても集客&注目されない >>288
私も以前金沢に行って足軽史料館?をみてきたけれど、結構広い家だよね。
4間+台所ぐらいだったかな。きっちり庭もついているし。
江戸の下級武士の生活環境ってかなり劣悪だけど、地方はあんなものなのか、前田家だけなのか?
……江戸時代だね。 TVドラマや資料館とかで、足軽や下層の人たちの暮らしの再現があるけど、実際はそをかなり下回るひどさだと思った方がいい。
江戸末期だけど、そういった人たちをさりげなく撮っている写真集とかあるから、それを見れば一目瞭然だよ。
例えちゃ失礼だが、飢えや病気に苦しむ海外の人たちの写真や映像があるけど、あの人たちより少しはマシってくらいだよ。
江戸末期と言えば、下級武士が経済的にもっとも困窮した時代だろ。
米の価値は下がるわ、減給に踏み切る藩は出るわで散々だぜ。
武士は威張ってはいても金は持ってない。 江戸末期の下級武士(足軽)と戦国期の足軽・雑兵は意味合いがちがうでしょ。
簡単に言うと 江戸末期の足軽=下級武士 戦国期の足軽=農民 てなるよね。
つまり、「そういった人たち」ってのは、下級武士でなく江戸期でいう農民って事です。
下級とはいえ武士に格上げされた江戸期の足軽は、この板のこのスレでは別物だと思いますけど・・・
幕末に日本に来た外国人たちは、当時の日本の民衆や農村を、
「質素だが生活の貧困や、物乞いがまったくない」「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気」
「素朴で誰もが気軽にあいさつしてくる」「筆舌に尽くしがたい礼儀と愛想の良さ」
「皆が協力しあって幸福そうに生きている。欧州のように生活に疲れきった不機嫌な顔は見た事がない」
「彼らは外国人がいなくても十分幸福で健康だ」「西洋文明は彼らを堕落させるだけではないだろうか?」
とか書いてるね。
乞食がいないこと、人々が陽気で見渡す限り皆上機嫌なことは、ブラックやベルク、ボーヴォワールなど何人もが特筆している。
当時の日本人はお調子者で軽妙、ふざけって笑ってばかりいたそうなんだが、
若干子供っぽいとも付け加えている。 足軽といっても徴集された者、臨時雇いの傭兵、職業軍人的な常勤の傭兵がいるね。
武士の従卒も、戦時のみ募集なんてのがあったらしい。 本当は禁止されているんだけどな >臨時雇いの従卒
今も昔も、非正規雇用で済ませられるならそっちの方が雇い主にとっては良いんだろうな 風林火山見ると足軽は残虐行為や略奪行為をする集団にしか思えないが。
>>300
お前はドラマをなんだと思っているんだ。 普通に考えて略奪・暴行はあっただろう。
たとえば大阪夏の陣のあとの大阪も凄かったらしい・・・・・ 同盟国や自領を通過するときでさえ
ある程度の略奪は許可されてたそうだしな
でなきゃ補給が続かないそうで。 >>306
ややこしい話だが、自領内でのある程度の略奪というのは、当時はする方もされる方も略奪とは考えないで、普通に当たり前と思っていたかもしれない。
年貢の徴収レベルで、むしろ義務として食料等の提出は当然みたいな。
「行軍時に自領にて、急遽強制的に調達した」というような記録を見た現代の学者が、「略奪」という言葉にしたのかもしれない。
と、ひねくれて考えてみる。 あ?そうなの?
北条が自領から戦時金徴収しようとして、
領民からブチ切れられていたから、そういうのは無いと思ってた。 逆に足軽雑兵は農民などが自由に殺してもいいんでなかったっけ?
負けたりした場合.当時は戦場での戦死より農民などに殺されて死ぬ
のが(足軽雑兵だけではなく武将でも)多かったのではないの?
明智光秀,穴山梅雪など.
負けていたらね。
勝っている方に手を出したら反逆と取られて報復をくらう。
制札を得てこそ、初めて自衛を許される。 勝っていても,戦の前でも足軽雑兵クラスなら殺されたりしても,現行犯以外なら報復などは
せずが普通では(陣中でもなければ)雑兵が殺されたくらいで報復したりそれを口実に開戦とかはしないでしょう.
(武将なら別)
避難である山上がりですら、敵対行動と取られるのは知ってるよな?
武力発動以前の段階でさえ敵と認識されるのに、
実際に危害を加えておいて敵と認識されないという事はない。
例えそれが、雑兵の狼藉に対する行為であってもな。
その為の、制札だ。 >>311
武装集団は、舐められたらおしまいだよ。
ヤクザでも武士団でも。
ましてや格下相手に。 源義経は一般市民に暴行や略奪働いた雑兵は公開磔等にした.
米軍に是非取り入れて欲しい. なんか略奪=現代の兵士の犯罪に結び付ける傾向があるなあ。
これほどナンセンスなものは無いと思うんだが。
投石についてなんだけど、誰だったか著者は忘れたが、「日本人と鉄砲」という本の中で
「基本的に遠戦傾向にある」という書かれ方をしていたのを思い出した。
鉄砲は数が揃えられず、弓は効果的に運用するには高度な訓練が必要、
で練度が低い兵士でも扱えてコストの安い投石が頻繁に使われたらしいね。
あと鉄砲や弓は一部隊にいくら、何丁ときめられていたり、
射撃の補助をするものが必要だったりするので、それ以外は投石をしてみたりとか。 投石って微妙だよね
記録も多いから実際にやってたんだろうけど、威嚇程度でそんなに効果がなかったように感じがするんだよなあ
むしろ逆に相手がむかついて、士気をあげてしまうようなw
以下、自分なりの疑問点
・籠城の石落としならまだしも、投げるとしたらせいぜい手のひらサイズ
・有効範囲が狭い(具足の無い部分でないと効果が激減)
・訓練しないと意外と飛ばない(野球の1・3塁間(36mくらい)の投球は、
やってる人でないとノーバンでは届かない。山なりの球なら届くけど
それじゃ殺傷能力はゼロ)
専門部隊もいたらしいから、そいつらなら多少は訓練されてて使えるんだろうけど・・・どうなんだろう?w >投げるとしたらせいぜい手のひらサイズ
素手でなげるわけではない。
投弾帯(スリング)或いはスリングスタッフに相当するものをつかって、80m以上かっ飛ばすらしい。
煉瓦クラスの重量だったとしても、それだけの力で投げ出す以上、衝撃はかなりのものだろうさ。
あと鎧の類は刺突や斬撃は防ぐけど、衝撃は伝わってしまう。
致死は難しいとしても、四肢や頭に当たれば無力化させることはできる。 なるほど
じゃあやっぱり、そこそこの技術や練習が必要なワケだね
なんとなく山なりに飛んでそうだけど、密集してたら避けられないから驚異だね
たしかにレンガが飛んできて当たったら死傷者は出るなあ 足軽用の桶川胴にしても陣笠にしても人体との間に多少の空間ができるから
投石程度の衝撃なら直で伝わることはないんじゃないか?
現代の工事現場用のプラスチックヘルメットも落下物対策だよ。 どこぞでみたことあるけど
戦国時代の死傷原因のトップは投射武器で、その中で投石によるものも結構な割合を占めてたよ。
確か全体の割合の10パーセントほどだったと。
投石を馬鹿にしちゃいかんよ。 たしかその為に陣笠の普及が進んだとかいう話だったような。
装備にうるさいことで有名な北条もこのへん徹底してたよね。 戦国末期にガチンコするようになるまでは殆どの戦は死傷者は僅かだったから。
投石による負傷も無視出来なかったんでしょ。
大体具足の効果を過大評価し過ぎ、鉄砲は勿論だけど弓矢もスパスパ貫通したし
当たり所が悪ければ石でも怪我するでしょ。 そりゃそうだけどあくまで完全防護ではなく軽減の話だからね。
空間があれば衝撃も相当緩和できるよ。 心理的なもんだろ。
命中率自体は低いが、バカスカやられると兵が怖がってしまう。 現代の話になるが、学生運動盛んな頃、街の舗装がレンガじきのところでは学生にはがされ、投石の材料にされていた。
これが、はがされにくいアスファルト舗装を普及させる要因となったのは、余談だ。
この時、投石を受けた機動隊員の怪我の程度をみると、投石の被害が馬鹿に出来ないのが分かる。
ヘルメットに当たってムチウチや気絶ならラッキー、死傷特に腕や肩の骨折が多かったらしい。
大学生より屈強であろう戦国時代の足軽が、補助具を使って投げる投石の威力はかなり高かったんだと思うけどな。 アレクサンダー大王やカエサルも専門的な
投石兵を傭兵として雇っている。
主力部隊の突撃支援に運用している。
>>326
腕や肩は直で衝撃が伝わるから命中すればそうなるだろな。
その記録にヘルメット着用での頭部損傷や衝撃による頭蓋骨陥没の傷例はあるの? >>325
その為に防具の貸し出しがあったんじゃないかな。
防具を着用していれば素肌で行くより多少は心強くなれる。 兵士の戦闘能力を奪うのに頭部損傷や頭蓋骨陥没が必要なの?
戦争における武器の使用目的は相手の殺傷ではなく無力化だよ。
士気を挫いて戦闘意欲を失わせるだけで十分なんだよ。 >>330
死傷者が出てると書いてるからさ。
頭部損傷(内出血も含む)以外でどうやったら投石で死人が出るのかと思って。 >>331
そういう細かいツッコミをいれるならさ、まず死傷者の意味を知っておこうや。
もう一度いうよ? 死’傷’者。死人とは書かれていないよ? >>332
ししょう ―しやう
0
【死傷】
大辞林 第二版より
(名)スル
死ぬことと傷つくこと。
普通、負傷だけなら負傷者と表現されないか? 細かいことを言えば、日本の機動隊員で投石による殉職の例はないはずだよ。
死亡例は銃撃、火炎瓶による全身火傷、ゲバ棒その他による全身殴打。
これで満足かな?Wiot144T君 >>332
単に言葉の誤用、意味の取り間違いだったみたいだから特別に見なかったことにしてやるよ。
てか、投石の効果については誰も否定してないんだけどな。
>>334
OK,FZzy1BQaたん。 あの芋の茎で作った味噌味の縄は美味しいんだろうか? ただ、道具を使って物を投げる(手で直接投げない)としたら、命中率はかなり悪そうだね >>337
巧者になると、弓と同等かそれ以上の命中率を誇るらしいぞ。
まあ弓にもいえることだけど、そこまで上手くなるには相当な研鑽が必要になるだろうがな。 >>338
だよね
ところで最近、やたらに合戦の死傷率は弓や投石とか飛び道具が多かったって話がでてるけど、あれの出所ってどこ?
自分が知る範囲だとマンガのセンゴクってやつにチラッと出てきたのしかしらないけど
みんなあれを信じてるのかなあ? 爆弾や銃器が未発達なときは頭部や顔面や首で死ぬことが多いんでないの?
(胴を防御していれば)手足切られても数日は持つだろうから。
(数日後死ぬのなら、足軽雑兵クラスなら戦死者にカウントされないだろうから) 狩猟用のパチンコもといスリングで犬の頭に石をぶつけると潰れたトマトのようにはじけ飛ぶそうな >>340
まあ、近寄らずに一方的に勝敗を決せらるならばそれに越したことはない
現代戦で言えば空爆だけで勝てるならそれが最高、って事さ。
もっとも決定打を決めるには、近接戦闘は必須になる訳だけどな。
しかしお互いに弾幕を張っていると近接戦闘に入る過程で死傷者は増えるわけで。
だから、勝敗を決するのは近接戦闘だと言うことには否定しないけど、
死傷者は飛び道具の方が多いと思う。 >>339
鈴木 真哉 「鉄砲と日本人―「鉄砲神話」が隠してきたこと」。毀誉褒貶はあるようだが。
>>343
なるほど。
著書を読んでないのでなんとも言えないが、注目されたいがためにこじつけた説でなければいいけど。
従来の常識を覆すような新説が出る
↓
市販されてる本みたいなもので書いてあるなら間違いない
スゲー、俺って史実研究の最新情報を得たぜ
↓
おいおい、まだそんな古い事言ってんのかよ
○○なんて作られたイメージだぜ。実際はさあ・・・
というので色々な珍説がまかり通ってるからなあ。
しかもその説でドラマとか作られたら、それが「正しい」って人が多くなって
決定的な否定する事実がないと、いつの間にか多数決的に
それが常識になってしまってる事が多い気がする。 しかし、相手の無力化を追及するならお前らの大好きなうんこなげればよくね
細菌兵器にもなるし、一石二鳥
まあ、投げるほうも凹むことは凹むが >>346
馬の死体を放り込むとか、疫病とか精神的なダメージ狙いの攻撃はあったらしい。
ただしソースは忍たま乱太郎。 >>344
その本の中では戦場での死亡率などに関する記述の所に書いてある。
著者自体は「鉄砲スゲー」が書きたいようだから投石に関する記述はそこまで問題が無いような気がする。 >>346
成田空港反対派の地元民はそれやってたな黄金攻撃 >>349
でっていう
野戦でも使われてた例じゃないし、恒常的にうんこ戦術がもちいられてたわけじゃないだろ、それこそ投石やら弓やらみたいに 支那では攻城戦で防御側が沸騰させた糞小便を敵兵にブッカケ。 なんかだんだんスレチになってる気もするがw
ちょっと戻す意味もふくめて・・・
沸騰してる糞尿ならともかく、当時の雑兵足軽(=農民)からすると
肥だめとかで馴染みが深かったから、現代の感覚と違って、水を
かけられたくらいの感覚じゃないのかとも思うが、どうでしょ?w
馴染み云々以前に、命のやり取りの最中なら、害のない糞尿なんて
そんなもんかもしれないけどw 第一次世界大戦では戦死原因の多く(インフルエンザなどの戦病死除く)は
頭部損傷(当時鉄兜なかった) ソースは天才バカボン「たたえよ鉄かぶと」)
それ以前も飛び道具の場合はそれに近いんでないの?
>>353
傷があれば、雑菌が入って化膿するぜ。
生理的にいやなのはもちろんだが、軽い生物兵器でもあるわけだ。 >>354
バカボンにマジレスだがw
塹壕での睨み合い戦だと銃弾や砲弾の破片が頭部に当たる確率が高かったのでは。
で、大戦途中で鉄ヘルメットの標準装備化が各国で進んだと。
因みに現代の軍用ヘルメットは砲弾などの破片対策というのをどこかで読んだ。 投石用の石ってどうやって確保するの?
戦場が原っぱの場合、その辺に手ごろな石がごろごろ転がってるわけでもないだろうに
石がなかったらそれまでだろ? ああ、バカボンのたたえよ鉄かぶとってものすごいシュールな回だったな。 >>357
焼き物や煉瓦を作る要領で作ることもあったし、石を投げる事もある。
いずれにせよ、本国から持っていく。 するってえと、川中島あたりに転がってる手頃な石は、使って殺した石かもしれんワケだ >>339
1552年、宮光寄が篭る志川瀧山城を攻めた毛利軍の損害は死亡7人。
負傷者は鑓傷が31人、矢傷が96人、切傷が3人、投石による傷が28人だそうな。 >>363
攻城戦の場合は投射兵器による損害が多くなるから。 それでも、槍が多く多用されているのは目に付くね。
中世城郭では城に近接されたときに、城内から槍で撃退するらしいからな。
まあ、城攻めで刀の出番はほとんど無いんだね。 狭い城内じゃむしろリーチの短い刀が使われると思ってたんだが… 中世城郭では、まず堀と土塁or切り岸によって攻城兵が踏み込むのを防止し
守備兵の投射兵器によって撃破するのが基本である。
よって攻城兵の矢傷による負傷者が最も多くなり、これに投石による負傷者が加わる。
それでも攻城兵が堀と土塁or切り岸を突破した場合、土塁or切り岸上に設けられた柵によって攻城兵を阻止する。
この柵を超えようとする攻城兵は柵の隙間から守備兵が槍で突いて撃破する。
湾曲した刀は柵の隙間から突くといった用法には向かない。
このため刀による攻城兵の負傷は、槍による負傷よりも少なくなる。 しかし
こうした攻城戦の負傷者比率は
野戦には適用できない。 そういう文章だから「コピペ乙」とか「見てきたのか?」とか言われるんだぜ。
語尾の表現だけでも、ちょっと工夫しような。 >>365>>369
なんで頑なに野戦に拘ってんだよw 論理的な反論能力の無い奴に限って突っ込み所が
語尾の表現とか句読点とかツマンネー所になるんだな・・・ >>371
攻城戦の負傷率を野戦の負傷率や戦国時代の戦い全体に
無理やり適用する人が出てくるのを防ぐ予防線。
鈴厨もなw
>>372
そういうレスしか出来ないって事は、お前の理解能力もたかがしれてるよなw
断言して間違いないような言い方を変えろって言ってんだよw
だからどっかの自己妄信的な歴史研究家のコピペ乙とか、見てきたのか?って事になるんだよ。
363や366の表現を見習えw >>367
狭い建物内で力を発揮するのが、2m程の短槍。
曲者、とかいって天井をつくアレね。
一例として忠臣蔵の面々の武器で
半数前後を占め最も多用されたのが、槍。
屋内戦なのにね。 長刀、此レ倭中国ヲ犯スヨリ始テ之有リ
[日本海賊が中国に攻めてきたときに初めて我々は長い日本刀の力を知った]
彼ラ是ヲ持チテ跳躍光閃シテ前ニ進メバ我兵ハ己ニ気ヲ奪ワレルノミ。
[彼らが日本刀を使って稲妻のように早く攻め込んでくると我ら中国の兵は集中を乱し混乱するのみだった]
倭ハ躍ヲ善クシ、一度足ヲ逆エバ別チ丈余、刀長五尺ニテ、則一丈五尺ナリ。
[日本人はフットワークが巧みで一息で1丈も飛び込んでくる。彼らの日本刀の刀身は五尺あるので一丈五尺も先から斬り込まれる事になる]
我ガ短兵器ハ接シ難ク長器ハ捷ナラズ、身多ク両断ス。
[我々の武器のうち剣などの短めの武器では日本人には近づくことが難く槍などの長柄武器では遅すぎて日本人のスピードに付いていけない、我々の多くが両断されて死んだ。] >>380
大陸と日本では槍の構造が違う。
太刀打ちで受ける限り、柄が切り落とされることはまずない。 >>382
> 太刀打ちで受ける限り、柄が切り落とされることはまずない。
380じゃあないが、何処にそんなこと書いてあるんだ?w
日本刀で切れない物は無い、これが昔の常識
まあ石とかは切ったと言うより割ったんだろ、つう感じだが
でも2メートルくらいの小槍ってホント重いよね
20kgくらいあるんじゃないか? >>380
兵隊が弱いのは平和でいいことじゃん。明が平和だったかどうかは知らんが。 >>384
全長1.8メートルくらいのトゥーハンドソードで4kg程度ってのを
読んだ事ある、そんな重い訳ないと思うんだが >>386
定寸の日本刀(長さ75センチくらい)が刀身だけで900gくらいだから妥当な重さだと思う >>387
386は1.8メートルの大剣が4キロ程度なのに
2メートルの槍が20キロもあるとは思えないって意味ね >>384
据えて切るのと、実際に切るのはまた話が違う。
例えば包丁を使ってまな板の上で秋刀魚を骨ごとぶったぎる事は誰でも出来るけど、
宙ぶらりんにして同様のことは至難。
あと日本刀が脅威足り得るのは、
剃刀で切った時みたいにちょっとした傷でも血がわんさと出る点であって、
対物ではない。 出血多量とかバイキンが入って死ぬのがほとんどで
傷ついてから死ぬまでかなり時間かかってるんでないの?
戦国時代に投石が戦闘が多く使われたって証拠はあるのか?
鈴木真哉は軍役状を出して多かったと主張してるが、それは信頼出来るのか?
野戦と攻城戦をちゃんと区別したんだろうか?
そもそもどうやって投石による打撲傷と金砕棒や鉄棒による打撲傷を区別してた?
打撲傷を一まとめに「投石」としただけじゃないのか?
負傷した人間は自分がどうやって負傷したかなんてはっきりと覚えているのか?
>>386
うちにあるんだよ もう錆が酷くて取り出す気も無いけど
間違いなく10kg程度の重さじゃない
ばあちゃん曰く平和な時代のなまくらな体で槍を振り回すと怪我するそうでつorz
細い鉄筋を束ねて作ってあるらしいけど鉄の塊にしか見えない
直径約5センチくらい 全長約2.2メートル
ただ戦国時代の先祖は足軽じゃないみたいだが、槍作った時代や使い方は不明だけど先端はオーソドックスな一枚刃 >>393
そのうち「山は死にますか?海は死にますか?心はどうですか?」とかに
なるかもしれんぞw >>394
実際あるのか邪推してスマンかった。
それにしても5cm×2.2mか、25キロ位有りそうな大きさだなw
そりゃ、振り回せそうにないな >>393
>>395
具体的に答えられないから誤魔化す、と。 >>397
395のさだまさしだがw
俺もどちらかというと鈴木説は疑問を持ってるんだがね、397のレスが
いかにも稚拙だったので、釣りだと思ったのだよw
397みたいなのが、賛否どちらからも厨といわれて忌み嫌われるんだよな。
まあ、相手にしなければいいんだろうけど。
悪魔の証明という言葉を調べてから、レスし直しておいで。 悪魔の証明と言う言葉が何なのか理解してないアホがまた一人。
「ある事が絶対確実に存在しなかった事を証明させようとする」が悪魔の証明だ。
俺は投石が広く行われて「いた」証拠を聞いているんだ。
「軍役状の負傷理由を根拠に出してるが野戦と攻城戦をちゃんと区別したのか?」
「どうやって投石による打撲傷と金砕棒や鉄棒による打撲傷を区別してた?」
「負傷した人間は自分がどうやって負傷したかなんてはっきりと覚えているのか?」
これらがどうやったら悪魔の証明になるのか説明してみなさい。 393が通りますよっと。
まず負傷した人間がはっきりと覚えているかどうかだが、
確かに乱戦になれば覚えていない事も多いだろうが、
遠戦(投石・弓矢)→集団戦(長槍)→乱戦の流れなので、
遠戦および集団戦の最中ならば相当の頻度で自己判別がつく。
バッターが怪我をしたとして、
バッターがバッターボックスに入っているのならばその怪我は二塁手とのクロスプレーとは考えられまい。
あとこの当時は既に検死の概念があって、
もちろん今の検死に比べれば幼稚だが、
凶器が何か、如何なる殺され方をしたかを判別できる位のノウハウの蓄積はある。
また硬球とバットで作られる痣が違うように、投石と金砕棒・鉄棒との痣の形は別物になる。
検死の応用でこの判別くらいはつくよ。
攻城戦は、
近世城郭はともかく、中世城郭は上でも挙げた遠戦→集団戦(長槍)→乱戦の概念が踏襲される。
もちろん乱戦に至るまでに、より多大な犠牲が必要になるので、
指摘されたように野戦と攻城戦では負傷の比率は変わるのは間違いないと思う。
とはいえ戦闘手順が野戦と変わらないので、比率は変わっても矢・飛礫>槍>刀という怪我の頻度は変わらないと推測される。
あと当時の史料を疑うのは良いけど、疑うにたる根拠を示してくれよ。
>打撲傷を一まとめに「投石」としただけじゃないのか?
これの説明責任はそちらにある。
当時の史料で投石・飛礫による負傷とあるのならば、そうなのだろうし、
投石や飛礫が一般的に使われていた証左でもある。 >>400
おまえも頭悪いなw
その全ての質問の証拠をあげてから、疑問符をつけろって言ってるんだよw
「××によると○○とあるのに、どうして投石が多く使われていたと言えるのか?」って言えってことだよ。
ここまで例文書けば、勉強不足のボクちゃんにも分かるだろ?
401を見習え。 足軽の範囲でどこまで。
徒歩は全て足軽になるのか? >>405
騎馬武者以外は全部足軽ってかなり強引だなぁ。平時は基本的にそんな感じだった
平安末期ですら、戦時では騎馬武者の割合はかなり減ったはずだけど。 「雑兵・足軽」だからねえ。軍勢の最下層って事でいいんじゃないの?
組頭みたいな扶持もちじゃなくて、人足とかも含む徴兵された農民や、陣借りの浪人とかじゃない? 足軽も一応武士なんじゃない。
足軽の上のクラスはなんていうんだろう? >>408
徒士
俺は足軽は知行持ちで無い連中で、戦闘を行う連中と規定している。
もっとも、次代によってコロコロその身分も変わるが >>405
戦国時代だと槍隊など各部隊の乗馬指揮官や、騎馬隊はみんな武士。
彼らは主君に謁見できる御目見得以上の士分で、江戸時代には平士、騎士と呼ばれた。
馬に乗ることが許されない下級武士は徒士と呼ばれ、住む区画も違った。
城下町は御徒町、御徒士町(おかちまち)なんて地名があるけど、まんまそれ。
割合というと他の人のレスにあったが
文禄の役の加藤清正隊の編成は武将150名、騎馬578名、鉄砲1820名、弓256名、忍者10名で、
騎馬もすべて鉄砲を装備し戦闘員の鉄砲装備率は90%を超えたそうだ。 まあ長篠以前、戦国中期だと鉄砲装備率はたいてい数%だけどね。 >>401
>遠戦(投石・弓矢)→集団戦(長槍)→乱戦の流れなので、
>遠戦および集団戦の最中ならば相当の頻度で自己判別がつく。
だが投石と言うのは投石部隊が編成されてしていたわけでなく(武田家などの例外を除いて)個々の足軽の補助武器なんだろう?
例えば矢がつきた弓足軽が使うとか。
遠戦の段階で使われるのか?
>あと当時の史料を疑うのは良いけど、疑うにたる根拠を示してくれよ。
>>打撲傷を一まとめに「投石」としただけじゃないのか?
>これの説明責任はそちらにある。
>当時の史料で投石・飛礫による負傷とあるのならば、そうなのだろうし、
>投石や飛礫が一般的に使われていた証左でもある。
疑うに足る根拠は既に出した。
つまり、戦場で絶対にある筈の鉄棒、金砕棒などの鈍器による戦傷が全く記述されてない事。
無い筈が無いんだから「投石と言う事に一つにまとめた」と言う事しか考えられない。
それに鈍器だけで無く刀による打撲傷も記述されてない。
甲冑の上から切りつける場合、特に大半の兵が使ったであろう大量生産の鈍ら物だと切り傷でなく打撲になる筈だ。
そう言う刃物による打撲と棒による打撲の見分けがついただろうか?
刃物による打撲も鈍器による打撲も全部「投石」と言う事になったんじゃないか?
それに直接は関係ないが、槍による刺し傷と刀による刺し傷もそう簡単に見分けがついたのか?
>>402
頭が悪いのはお前だ。
これらの事を証明する義務があるのは投石が「あった」と主張する側だ。
>401氏の様にマトモに答える気が無いなら黙ってろ。
だいたい
>「××によると○○とあるのに、どうして投石が多く使われていたと言えるのか?」って言えってことだよ。
はもう既にやってるだろう。 >個々の足軽の補助武器なんだろう
>例えば矢がつきた弓足軽が使うとか。
投石の石は矢同様にどこからか調達しないとならない。
矢が無くなったからと言って都合良く手に入る訳じゃないんだよ。
また投石は素手で投げるのではなく、スリングやスリングスタッフに相当するもので投げ出される。
これには弓同様かなりの熟練が必要なので、急ごしらえで編成出来るわけではない。
鉄砲が普及したのは、弓や投石よりも必要とされる技術の習熟度が低いのも一因。
あああと、射程について誤解があるようだが100mほど、弓矢と同程度の射程を持つ。
嘘か真か、件の小山田隊は80m先の人にピンポイントに当てたとかなんとか。
>疑うに足る根拠は既に出した。
出してない、出したと思ってるならばそれは思いこみ。
まあいいや。
世はまさに集団戦、
鉄棒・金砕棒、あと野太刀や大長刀などは個人の武勇を競う段階ではともかく、集団戦には適さない。
記録に残らないのは、それを使った人間が極めて少数だったから。
弓・投石・鉄砲・長槍・槍これらが集団戦に適しているから大量投入された。
あと日本刀と日本槍は全く違う、よって創傷も同じにはならない。
つか前にも言ったろ、検死のノウハウはある程度あったと。
思いこみと都合の良い情報の取捨するのはやめてくれ。 >>412
>戦場で絶対にある筈の鉄棒、金砕棒などの鈍器
これの根拠は?日本ではむしろ逆に、鈍器の使用の方がほとんど聞かない記録にない状態なんだが。
絶対に使用されていた、それほどにポピュラーなシロモノなら、それこそ軍忠状やらなにやらの記録
にはちゃんと鈍器で殺した殺されたという旨を記すだろうに。
そちらが主張するように投石の方がマイナーだというのなら、なんでポピュラーな死傷原因を、わざ
わざマイナーな死傷原因の方に含めちゃうのよ?矛盾してない?そういう状態なあ普通は「本当は投石
で死んだんだが、滅多にない死傷原因に思い当たらずに一般的な死傷原因である鈍器による撲殺
だろうと勘違い」とならんか? >>406
一応名も家も有る士分だが馬無し、郎党無し、地位無し、合戦時には身一つで参陣して
似たような底辺武士を一まとめにした集団に属す葉武者や、下級の騎乗武者に仕える
郎党なんかも入れようぜ。 農民が徴集されて足軽になった場合に、国替えが行われて
主君が別の国へ移った場合、足軽はどうなったんでしょうか?
新しい領地で帰農?それとも出身地へ強制送還? 浪人? >>415
でも扶持もちを入れるとなあ。多少なりとも「主君・上司のため」ってのと
「出世のため」ってのが出てくるでしょ?
そうすると、極論的には家老とかの実状と同じことにならない?
メリット(実際には恩賞はあるだろうけど)がなく、上記のような理由もない
のに嫌々駆り出されたりするよう人たちでないと、ちょとスレ主旨が違って
くるんじゃないかなあ? >>416
基本的に村単位で徴集されるから仕官でもしてない限り村へ戻ったんじゃないの このスレの投石云々の流れはよくわからんが、
とりあえず鉄丈、金砕棒、鉞(大斧)はメジャーではないながらも南北朝時代を中心に使われた武器。
鉞術は言わずもがな、金砕棒を使う流派もある。
戦国時代では長谷堂城の戦いで最上義光が使用しているね。 鉄棒だと、相模の三浦某とか、北条氏繁あたりが使ってる。
ただし金砕棒を含めて、武士が使っている訳で、
足軽・雑兵が大量に使った訳ではない。 >>416
江戸期ならともかく、戦国期の武士は土地と深く結び付いてるからそう簡単に移転は出来ないはず。 >>421
逆に言えば、武士と土地の結びつきを断ち切るために国替えを行う必要がある。
(戦国末期の信長・秀吉の政策) 形原松平家について
http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/
「徳川政権初期に於いて藩の処替えが頻繁に有った。藩士も其れに従った。
しかし、其の都度藩士全員が共に移動するわけではないようだ。
約半分から三分の二は残り、新しい藩主に仕えるのだそうだ。」
・・・・とある 人間、生活があるし、財産に限りもあるし、地縁血縁もあるから「さあ
引っ越せ」と言われてもそう簡単にはいかない 国替えになっても藩主に付いて
いける、付いていく義務のあるのは一部の子飼いだけのようだ
だから、国替えのときに藩士の身分(職?)を失う者も結構いただろうと思う 逆に
郷士みたいな身分の者が藩士になれたケースもあっただろうと思う 中間や下男は所帯を持つことできたのかな?
足軽より低いんじゃ生活苦しそうだ。 衣食住のうち「住」と、場合によっては「食」の一部まで主君や上司に宛がってもらってたから
結構なんとかなってたはず。当時は今みたいな消費社会ってわけでもないし。 足軽は幕臣や藩の家臣なのですか?
それとも武士の家来なんですか? 最高級の冷暖房があり、栄養が摂れ、健康に気を使う医師団が
いる大名にもかかわらず、かなりの割合で子供が夭折してるじゃん?
当時のたかが知れた医療だけど、その環境のおかげでなんとか持ち越した
政宗や信玄の次男とかも、大名級の環境がなければ亡くなってたろうし。
そう考えると足軽や農民たちって、かなり産んでたんだろうなw そんなこと今更言うまでもなく、乳児死亡率が下がったのなんて、ここ50年の話だぞ。 戦後間もない頃の日本人の平均寿命は自然死だけで48歳 しばらく前の、黒田三十六計っていう漫画にも雑兵の生活ぶりみたいなの書かれてたな。 足軽は現代の軍に比定したら、末期の急募兵にあたるのか?
それとも下士官まで含めるくらいで、二等兵〜曹長クラス?
曹長なんかの下士官クラスは足軽組頭くらいにはなるのかな。
尉官以上の士官クラスになると、一気に含める幅が広がりそうだが。
尉官以上の士官クラスは「職業軍人」という括りになりそうなw
足軽なら二等兵、いいとこ一等兵クラスじゃないの? 西郷隆盛や大久保利通は足軽(の家出身)なんですか? 現代の軍と比較できんの?
現代の軍については詳しくないんだけど、正規兵と徴兵って時点でもう違うような気がするんだけど・・・。
徴兵制がある国での話ならなんとなく分かるけど、そういうこと? つか徴兵制は弊害が多すぎて、今も昔も使い勝手が悪いんだよな。
あと武士に課せられる軍役は常に雇っておくべき人員で、
基本的にプロやセミプロなんだよ(建前だけどな)。
また戦に合わせて急募したり、陣借りなども同様。
いわゆる農民は、賦役以外で動員される事ってあんまりない。
北条は対武田戦・豊臣戦で動員したけどそれでも城兵として(しかも日当を払って)であって、
遊撃戦力としては動員していない。 だから総理大臣になって以降も、
長州の会合では常に末座だったとかいう話もある。 当時は首相なんて文官のまとめ役ぐらいにしか思われてなかったし
元老なんかのほうがずっと偉ぶってた 足軽が装備する刀は斬れ味が悪いので左手で背を押して突き刺して使ったそうな。 >>448
足軽の登場が刀の大量生産を助長したんだっけ?逆? 坊主が短刀を持つくらい、日本は鉄器信仰が根付いていた訳だからなあ。
それに中世の村が非武装なんてあり得ないし。 鉄砲以外のだいたいの攻撃からは身を守れたんじゃないかと。
テレビなんかじゃ陣笠つけた足軽が常備兵の如くどの合戦でも前線で戦ってるが、
あいつらが前線で戦うなんて本当にあったんだろうか。
小荷駄などの予備兵扱いでしょ、奴らは。
せいぜい追撃でしか前に出なかったんじゃないかと。 >>448
刀剣類の大量生産は、明への輸出の増加によるもの。
日本刀というだけで高値で買い取られたため、刀の大量生産が必要になった。
明への日本刀の輸出総数は、記録にあるだけでも二十万を超えている。
と、こういう説もありますよ。 >>452
小荷駄は鎧すらつけないこともザラ。
対して槍足軽なんかは最前線を担うだけあって軍勢全体としてみても侍に匹敵するほどの重装備だしな。
というか戦闘員と非戦闘員をごっちゃにしている時点でなんともかんとも。 最近大河みると足軽は畳鎧ばっかりで桶側胴や仏胴があんまり見当たらないよね。 戦闘員は「イーッ!」って言う人。
非戦闘員は言わない人。
アッー!って言う人もいるみたいだけど、それはまたの機会に。 足軽の陣笠は鉄製で、調理の際は鍋にもなる優れもの。
また日除けの他、礫や矢など雨の日でも安心。 >>456
そこ俺も思ってた
畳鎧ってマイナーなのにね >>460
足軽の陣笠が全て鉄製になったのは、意外に江戸以降。
それまでは竹の骨組みに紙を貼って漆塗りにした物や、錬革製といった陣笠がある。
形状も我々が想像するような形から、とんがりコーンくらいとんがった物とか、
富士山状の台形の物もある。 >>462
足軽なら仏胴か桶側胴の表に紋がついてるイメージなのにな。 槍足軽は兜や頬当着けてるのも多かった
鉄砲足軽は頬に銃床を当てて照準する関係上陣笠と小型の籠手だった 家紋付きの御貸し具足が一般的になったのは江戸時代かららしい。 大坂冬の陣図屏風には御貸し具足の鉄砲足軽が大量に描かれてる。
とすると正確にはいつから御貸し具足が一般化したの?
たしか石田三成の御貸し具足も現存してたと思うけど。 >>463
あら?んでは陣笠を鍋代わりにしてたっていうのは全員やってたわけではないのね。 平塚為広の足軽が鉄の陣笠で、それについて家康が鍋代わりにもなるなと言っただけ。 43 :名無し曰く、 :2008/06/06 11:24
実際の昔の戦争なんて腹のすかせた百姓の寄せ集めが、他国の村を襲って
鬱憤晴らしするだけだろう。金、金、女。
戦に負けたら、武将は部将や百姓兵を何人か首斬って責任転嫁、百姓兵どもは
少年兵を襲って憂さ晴らし。どうせ10代前半の足軽なんていくらでもいるから
性欲処理には困らないだろう。売春婦どももいっぱいいるだろうしな。 >>467
関東じゃ北条氏が氏康の時代にはもうやっていたような。 その歴の大阪の陣で紹介された雑兵足軽の残虐行為は見所満点でしたな^^ >>478
先々週くらいにやってたサブタイ「戦場のゲルニカ」だろ。
録画したまま見ていないから論評は出来ないが。 >>475
北条は兵士の装備を統一してたからね。
兜の前立てや、槍に付ける紋の間隔まで指定する凝りよう。 >>481
北条はとにかく細かいね。伝馬、軍備、検地、収税・・・。
記録魔だし。 不正を防ぐために
虎朱印(北条家)以外の命令を聞く必要はなし、って家だからな(実際には他に「武栄」やら「調」やらあるが)。
だから命令が全て文書で残るのは、後世的にとてもありがたい。 >>478
屏風の虐殺場面の上の方に下賎の身らしい二人の男が陣笠を持って逃げる姿と、
その陣笠の持ち主らしき足軽が追いかけてる様子も描かれてた。
弱った落ち武者や死体から剥ぎ取るだけでなく、勝ってる奴らからも盗むことがあるのな。 そりゃあ、盗ることができる相手なら誰からでもOKだろう。
どうせ盗人なのだから…。 >>485
雑兵=兵=盗人、犯罪者集団
雑兵に恩給や援護や追悼などしなかった平和な日本に早く戻ってほしい。
日本では死ぬとどんな人でも神様だからね
某五右衛門すら祭られているし 戦国時代の足軽の槍さばきについてお聞きします。実際に見たことがないので想像するしかないのですが。
整列中は縦に持って人に当たらないようにしていた。移動時も縦にして歩いた。突撃時は敵に向け横に寝かし、衝いた。衝くよりも相手を槍先でたたき伏せることが多かった。
これでいいですか?
次に火縄銃の扱いですが、整列時・歩行時マスケット銃のように片手で銃床を持ち、肩にもたれさせていた。戦闘時現代の銃と同じような持ち方をして行動した。装填は槍の後ろに隠れて行ない、射撃時前に出て、撃つと槍の後ろに隠れた。
こんな感じでしょうか?
また、参考になるサイトがあれば教えてください 槍は相手を叩くは間違ってないが相手の武器を払うのが一般的かも
でも上杉なんかはそれもせずに低く構え相手の下腹部を突き続けろと教えていたようです
火縄銃は詳しくないけど姉川の合戦などでは投石部隊が鉄砲隊の前後を出入りしていたと何処かで見たよ >槍は相手を叩くは間違ってないが相手の武器を払うのが一般的
雑兵物語では、
槍は突くものではない、敵の指物を狙って振り下ろせってあるけどな。 『雑兵物語』の記述は
「みんな槍は突くもんだと思ってるけど、いや違う!上から叩くもんだ!」
って感じでしょ。
つまり『雑兵物語』の著者は「上から叩くもんだ!」と主張してるけど
当時、一般的には「槍は突くもんだ」と認識されていたってことも言える。
当時槍がどう使われていたかを考える場合、むしろ当時の一般的認識の「突く」のほうが重要だと思う。 『雑兵物語』の著者の主張の「上から叩くもんだ!」は少数意見に属するってことだ。 つまり、弓のつるに折り目をつけるのが多数派ということですか。
だから雑兵物語の著者がそんなことをするなとわざわざ主張しているわけですね。
ってんなことあるかい。
こうしたら失敗するからこうしなさい、って形式のhowto本なんだから
注意を喚起するパートが無ければそれこそ作者の意図に反するんだが。
というか本当に、持槍と長槍の区別くらいつけろよ。 「こーすれば絶対モテル!」とか
「こーすれば絶対金が儲かる!」とか
世の中ハウツー本は多いけど、あんま当てにならんよw >>495
雑兵物語の舞台は大阪の陣じゃなかったっけ?
アレは、関ヶ原から平和が続いて大多数になった”戦争を知らない若者”の槍の使い方がなってない、ってことでしょ。
甲州流の三間槍とか、実際に再現してみて”上から叩く”使いかたに疑問の余地はなくなったと思ったけどなぁ。 実際に物干し竿でも長槍に見立てて振ったり突いたりしてみるがいいさ。 長槍は非常に重い。
あれを上下させる動作が鈍くなるのは避けられない。
上げて振り下ろすまでは時間がかかり、その間は、隙であり、死の時間となり、敵の突入を許す。
長槍という武器は基本的に穂先を敵に向けてこそ、防御力と攻撃力を発揮する。敵を前に穂先を上に上げるのは危険な動作。
世界的にみても、長槍は突く武器。 >>501
…長槍を”上下に振る”を否定したいなら、まず400年前当時の雑兵物語の語り手に文句言ってくれよ……
「おまえの槍の使い方は間違ってる!!」ってさ。 雑兵物語は所詮、大坂の陣にしか出た事のない農民が知ったかぶりをしているだけの本だからなあ。
戦国時代にそのまま当てはめられないんだよね。 あれは農民言葉ではなくヤクザ言葉なんだが。
そんなことも知らないのか。 >>501
>世界的にみても、長槍は突く武器。
スイス兵のパイクも歩兵に対しては振り下ろしだが? 「重いもの」を上下するから武器として有効だっつーの。 >>503
あなたの当時の社会状況の認識おかしいぞ?
この本は大阪の陣もおわってパックス・トクガワーナが始まったときに、
「このまま平和なら戦争の技術が無くなるぞ、こりゃ!?」って心配した人が、
当時(江戸初期)の”専業兵士”だった爺の”自慢話”をあつめたもんだぞ?
…実際、島原の乱ではその心配が現実のものになってたんだが…… >>504
そうなの? じゃああれはチンピラが適当なことばかり書き散らしているわけかw >>503は所詮、家から出た事のない引きこもりニートが知ったかぶりをしているだけのレスだからなあ。
戦国時代にそのまま当てはめられないんだよね。 >>491
長槍隊は横長に並び、号令や陣太鼓で進退。
槍先を揃え、エイ、エイ、エーイと掛け声でリズムを取り全員一斉に振り下ろした。
この雑兵物語に酷似した戦法は、江戸後期の武田流槍術の操練にも残っているよ。
和槍は材質上ボヨンボヨンしなるから、長槍となると突きの目当てがしにくそう。
敵を叩くための木槌がついてる槍もある。 >>508
>チンピラ
そう、チンピラ。
大体専業武士の下っ端がお行儀の良い連中の集まりだとでも思ってるのか。
>当なことばかり書き散らしているわけか
自分が適当なことを書き散らしているからって他人がそうだとは思わないほうがいいぞ。 大坂の陣と戦国時代の軍制は大きく違うだろ。
支配体制も装備も異なるのに。 足軽の武器 鎧のフル装備って何kgくらいの重さだったの? >>513
フル装備なら結構な重量あるだろ。大阪の陣のとき家康が、出陣の時から鎧着込んで張り切ってる足軽見て、
「ああいうのが出てくるから太平の世はダメだ」と言ったとかどうとか。
案の定その足軽、行軍三日目くらいにへばっていたとか。 >>514
でも、実際足軽が駄馬や伴をつれていってるわけじゃないし、着ていくか持って行くかしかないよな。
持って行く方が疲れないんだろうか? 通気性とかをあまり考慮してない物は、着てるだけで疲れるし 長槍と通常の槍を同じ使い方だたと思っている人って結構いるのね。
>>516
剣道着を着て何十キロ先の会場に行くのと、会場で剣道着着るの差だと思う。
不可能だったのを承知の上で、応仁の乱の後に出た足軽廃止論が、もし実施されていたらどうなったんだろう。 >>523
軽輩のものから徐々に一騎打ちみたいな戦争形態になるんじゃね?
この時代にも戦から帰ってPTSDとかになるやつっていたの?
黒田の兵が左近との戦いを思い出してうなされるてたみたいだけど PTSDよりも医療の未発達による破傷風などによる死亡や怪我の悪化のが問題なんだぜ。
あと、
・大量破壊兵器の実戦投入
・殺すべき敵と殺してはならない民衆のジレンマ
は20世紀以降の戦場に現れるストレスで
それ以前は大量破壊兵器も人道未発達なので民衆を殺してもそこまで問題にならない。
無かったわけではないと思うが、戦場でのストレスは20世紀以降と以前では段違い。 うむ。それに実は当時の合戦は死亡率も低いし、しかも動員されても、実際に合戦に至る事も稀だったし。 528は人を殺したPTSDじゃなくて、殺されるかも知れない
恐怖によるPTSDの事を言ってるんじゃないの? 足軽の具足は御貸具足で統一されてたようだが
その下に着る具足下衣ってのも統一されてたのか?
それとも自前で各自色形がバラバラ? >>530
鉄砲が普及するまでは落ち武者狩で殺されるほうが戦場で死ぬより多かったんでないの? PTSDになったら当事はキチガイ扱いで追放か幽閉か抹殺か。 連投でスマソ。
小早川秀秋はPTSDに当たるんじゃないかえ? PTSDと言うのは便利な病気で、取りえずどんな症状でも、それに当てはめる事ができる。 足軽って江戸時代だと士農工商それ以下のどこに入るの? >>537
いわゆる同心が足軽。
八王子千人同心のような半農半士から、
町奉行所の同心とかももれなく足軽。
江戸時代同心は粋でいなせで江戸の女性から人気のある職業だったんだが、
幕末の出陣のときに彼らが足軽だと知ってがっくりした女性が多かったとかなんとか。 騎馬レベルの士分はそれこそ高嶺の花だろうからなあ。 足軽は士じゃなくて卒だよ?
士農工商の士と農の間の身分。
だだし、藩によって立場が違う。
>>540の言うように徳川幕府が雇っている足軽は士分に準ずる立場にある。
臨時雇いではなく常雇いで世襲制。 >>540
>>543
幕府=将軍様からお扶持を頂いている足軽も、八丁堀の町方同心も、どちらも
あくまでも臨時雇いの扱い。
諸組同心には【ご譜代席】と【お抱え席】の2種類があり、【ご譜代席】ならば
当主が死亡或いは隠居すれば子供乃至その身寄りが家を継げるが、【お抱え席】は
あくまでも『番代』と称して、新規お召し抱えの扱いを受ける。
ところが、町方同心に至っては【お抱え席】どころか、単年度契約扱い。
毎年大晦日に支配与力の屋敷で、「長年申し付ける」という口頭辞令(?)をもらって
幕府から翌年度も再契約してもらう形式を幕府崩壊まで続けていた。
尚、幕府では足軽という身分は同心よりもまだ下。
そんなわけで【同心】の年俸は30俵3人扶持〜15俵1人扶持。(功績・年功によっては
その人1代限りで100俵くらいまで加増されることもあるが)
その他に何がしかの役料(役職手当)が加算されることも。
【足軽】はもっとお給料が安い。
>>544
与力は旗本扱い。すると旗本の下がいきなり臨時雇いになるわけ? 戦国時代には流れの足軽と言うか、傭兵部隊みたいなのがいるね。
それが、兵力の足らない時、主力部隊を出さない戦場で使われてる。
長篠のあと家康が遠江を回復する時、こう言う傭兵部隊雇って諸城の回収やらせているね。 何処も戦争やるときは臨時雇いを募集してるみたいだけどね。
条件から見ても結構必死だよ。
有名な戦争中は白米食えますよを筆頭に、
給料はずみます、手柄立てれば褒美上げます、正規採用への道もあります、
前科ある者は赦免しますとか、
強盗働き(つまりは忍びの真似事)出来るやつ優遇しますとか、
結構笑える。
傭兵といえば、陣借りで正規採用を狙う奴いるし。
有名な武士だと、関ヶ原の時の可児才蔵がまさに陣借り。
首をとりまくったこともあって、正規採用されてる。 >>548
ちょ、すっげぇ面白そうw
どこの大名がどんな条件とか原文付きで紹介してくださいお願いします >544
幕府の足軽というと御徒じゃないほね、御徒は同心だし・・。
幕末の歩兵は中間小者扱いだし。 >>551
お徒士はお目見以下ですが、後世の下士官相当の「下士」です。
同心はそれよりはるかに身分の低い兵相当の「卒」です。
どちらも騎乗が許されず、お目見以下という点は同じですし、諸組同心にも出世の道が
まったく無いわけではありませんが、お徒士よりもはるかに席次は下です。
そもそも「下士」と「卒」では全く別の階層ですよ。
幕末の兵賦で集められた「歩兵」は幕府直属の中間や小者以下で「小揚の者次席」です。
もっとも、「歩兵」が旗本層の陪臣である中間・小者といい勝負の扱いってのは事実です。
>>550
藤木久志って頭の悪いサヨ電波学者だっけ? >>553
著者の思想的傾向くらい、自分の中で取捨して読めよ。ガキじゃないんだから。 553がガキの可能性だってあるだろw
ま、読んで批判するならともかく、
読まないで批判するような奴が頭のよしあし論じるなんて冗談にもならんがな。 藤木の著作の場合、内容は眉につば付けながら読まないとな。
上杉謙信略奪説みたいな電波も飛ばすし、
刀狩じゃ憲法九条論に結びつけちゃうんだもん。
しかも読者の多くが無批判にこれらを受け入れてるので厄介極まりない。 陣借りはまぁ、今の派遣だなぁ…他人の褌で相撲をとるわけだが、しかし現代はほんとうに平和な安息な時代だなぁ(´・ω・`) >>556
「食うための戦争」論は、確かに面白いことは面白いけど、
戦争は政治の一手段という、支配者側の論理が抜け落ちてる感があるしな。
謙信の関東侵攻は掠奪目的説って、結構突っ込み所が多いイメージだが、
学者さんで反論してる方って誰かいたかな? >>558
どの学者も一定の評価はしているけど、スタンスとしてはそればかりではないって
感じじゃない?
略奪はあっただろうけど、それはあくまで合戦の結果起こった事で
主目的ではない、って感じの 戦国期の雑兵足軽たちの兵糧って、誰が負担してたか知ってる人います?
本人達?そのスグ上の組頭?全部大名が負担ってことはないだろうけど。
ちなみに戦国期なので、天正以降は対象外でお願いします。 >>561
3日分ほどは自弁。後は大名からの支給。 支給も貰うし略奪もする、ついでに隙があれば味方からも強奪 ”略奪”の定義がきまらんとなんともいえないのでは?
指揮官の命令に従って現地徴収するも”略奪”になるのなら、
最近まで世界中で行われてきたし…… 561ですが、どうもありがとうございます。
基本は、数日分が自己負担なんですね。 帝國陸軍と同じだろうなぁ・・。
召集地までは自弁、あとはお国。
戦地では携帯口糧が1週間分。
なくなったら輜重隊が運んでくるまでは現地調達。 掠奪、押買を禁止する制札は多い。
為政者側は占領して統治する土地の治安を乱す行いは好まなかっただろう。
侵略的にも防衛的にも国人領主や寺社勢力を敵に回すのは得策ではない。
やはり一部の問題児集団が暴威を振るっていたと見るべきじゃないかな。 現地での物資徴収が一般的だった当時では、基本”押買”を全面禁止してはいないと思うよ。
つまり統治がどうのこうのは,、あまり考慮されない時代だったかと。
"押買"というのは基本的に現地での軍事物資調達の意図があってのこと。
ちょっと古くなるけど、芝山を三銭で押買した山名持豊の配下ですら侍所の権限を元に行ってる。
だから足軽だけじゃなく武将が指揮してるから、それゆえ”制札”の効果があったのよ。
ただ”制札”があったとしても、そこに抵抗するだけの武力がないと効果はなかったみたい。
関ヶ原の伏見城攻めの時、醍醐寺では制札だけではなく檀家の農民を集めて抵抗し
西軍150名程度を追い返した。
まぁ、帰りがけに日野郷の竹を根こそぎ持ってってるんだけど。 源義経は足軽の略奪等は公開処刑にしたから武士から信望を失った
というのは本当ですか? >>572
義経が京都で朝廷から一般市民に至るまで支持されたのは
そうやって雑兵足軽の狼藉略奪を防いだからでないのか?
義仲の雑兵足軽どもの狼藉略奪がひどかったのに対して。 民衆守れば部下から不満
部下を守れば民衆不満
腹痛くなりそう >>573
頼朝軍で義経とおなじ立場の範頼のことも思い出してあげてください。
義仲が気の毒なのは、上洛した時ちょうど飢饉で、
食料挑発で都の食糧事情を圧迫しちゃったから、ってのもあんだよなぁ…… 浮浪的な悪党を、足軽として組織化させ戦闘集団として活用したのは、応仁の乱〜享徳の乱。
>>581
応仁の乱はまだゲリラ部隊で正規軍に組み入れられていない
また、組み入れられても当初は徒侍の集団的な色が強い
一般的イメージの各種兵科に組織化されたのは相当後でしょうな >>582
大田道灌の足軽戦術の衝撃は大きかっただろうね。 正規兵として雑兵や足軽が組み込まれたのは、
天正ぐらいからなんだろうか。 正規兵とは何か、と言う問題もあるが、長柄足軽の集団運用は、天文年間には既に広く
行われていた模様。 槍の運用は南北朝くらいから盛んになったという説もあるな。 なるやつもいるんじゃないの?
農民でやる奴はいないと思うが。 どうだろう?いるんじゃないの?とイメージで思ってた。
なんやかんやで人間の需要はある農家はあるだろうし。 ところで最近就職難で大変だが、
足軽への就職ってどうなんだろうな。
簡単にできるイメージがあるんだがどうだろう?
現在で言うとどの職と難易度が近いかな?
期間工とか? 時期や地域に等によってだが基本的には中小企業の正社員クラスかな。
期間工や派遣クラスは人夫として雇われる感じ。 じゃあそこそこ厳しいね。
それなりに面接対策しないと受からないレベルってことか。
とりあえず志願すれば即採用って感じに思ってたけど。
そもそも足軽に採用試験みたいのあるのかな。
関係ないけど新撰組は採用試験は
なかったみたいだね。
妻子を遠くに住まわせるという条件があるくらい。
槍足軽は簡単、鉄砲・弓は技能職なので要相談、旗足軽は力持ちでかつ名誉な職なので一番難しい
これとは別に経理的な技能職として荷宰領等がある 募集年齢は15〜55歳ぐらいで、足軽契約が成立すると税や賦役免除の特典や
食料金銭の支給があったそうだからアメリカの登録予備役兵に近いイメージかな。
本職は当然農業。 なるほど、
槍足軽は営業、
鉄砲・弓は開発、みたいな感じか。
とりあえず槍なら放浪者でもすんなり採用されそうって
ことかな。
旗足軽ってそんな重要な職だったんだ。
新米がやらされるような荷物持ちかと思ってたよw
しかし、当時は読み書きできるやつあまりいないだろうから
読み書きできるってだけで引っ張りだこだったんだろうな。 >>597
浮浪者や山賊やってた奴がフラッと採用試験受けるの可能かなと
思ってね。
その場合は、耕す土地を与えられて半農ってことになるのかな?
当時は慢性的な人材不足っぽいから簡単に採用されそうぽいんだけどね。 流民みたいのはなれんよ。たしか
命以外失う物無いから戦場ではすぐ逃げるし陣中で狼藉放火されたら戦う前に負ける。
その点村の中でそれなりの地位にあるものは、隣人捨てて逃げたら村八分で生きていけんから
それなりに戦う。
大名が出した身分のしっかりした者以外はつれてくんなという書状は幾つか残っているらしい
まぁ農民にしてみれば身内で働き手が死ぬと困るから流民を家の者だって偽って送り出したり
云々っていう駆け引きは常にあったみたいだけど 何、流民はなれないのか!
住所不定だと就職できないのと同じか。
いや、30歳職歴無しだと正社員になれないのと同じか。
せちがらすぎる。
しかし、流民になったらどうすればいいんだ?
とりあえず人夫としてなら採用されるのかな?
それで信用積めば正社員の足軽になれるかな? >まぁ農民にしてみれば身内で働き手が死ぬと困るから
>流民を家の者だって偽って送り出したり
あ、この手は結構使えそうだなw
片っぱしから訪問してみるか、
庄屋の家でも訪問して誰か入用な農家を紹介してもらえばいいのかな。
とはいえ信用されないとダメか。難しそうだ。
まず農民になればいい。農民募集見たいのはどこでもやってたはず そうか。農民になればいいのか。
敗者でも復活できるとこがいいな。
しかし、織田軍は常備軍じゃなかったっけ?
織田軍の採用基準も同じなの?
農民使えないんじゃないの?
>>598
旗は自隊の位置を示しすもの
これがないと自分が何処にいるのかすら解らなくなる
よってこれが決して倒れないよう、力持ちに持たせるわけ
旗が乱れると士気が低いというくらい >>604
> しかし、織田軍は常備軍じゃなかったっけ?
それはいわゆる「俗説」
実際の織田軍は兵農分離なんて皆無。むしろ戦国時代でも後れた組織体系だったのが
信長の軍隊の実態。 信長直営軍が常備軍
織田領内の国人軍は従来の組織
ではなかったっけ? まあ、大抵のどこの大名でもそうだが、いわゆる侍クラスは常備してる。
でも、雑兵レベルは侍クラスの地元から集めてるっぽい。
公記の本願寺戦の記述から。 >>607
信長なんて安土城のときにようやく旗本の城下集合をやった、って程度の大名だぞ?
組織としては遅れまくってる。 信長は軍役の人数指定を出来るほど家臣を支配できてなかったんだっけ? 「できるだけ多く」って奴ねw
ああいうのを見ると、一部の人間が信長を合理的だとか近代的だとか言うのは、
悪い冗談としか思えなくなってくるw >>610
佐久間達をあっさり首にするような恐怖政治が出来るのに
支配できてないってどういうことだよ。
小事は裁量に任せているだけじゃないの?
軍団編成の近代的な軍隊を
作り上げたというのが間違っているというのか?
>>612
佐久間処分なんて内衆の排斥みたいなもんだ。たいした強権でもない。
あと君は「支配」の意味を間違えている。戦国大名の領域支配は大名権力による
人、土地、金の一元管理が特徴だが、信長の領国ではそれが出来ていない。つまり「支配の深層化」が
出来ていないわけだ。上っ面の支配でしかない。
この意味で信長は戦国大名どころか、守護大名レベル。
あと信長の軍隊は近代的どころか近世的ですらない。これもまた守護大名レベルの
中世をたっぷりと温存した軍隊。
はっきり言えば信長は、同時代的に時代遅れなんだよ。 で、知ったか博士のいう当時最新の組織はどこなわけ? 議論を変な枝葉にそらしたいんだろうけど、そんなものに乗るほどバカじゃない。
反論があるなら「信長は時代遅れじゃない」という論拠を示してくれ。
>>613
特に汚点もない宿老を粛清する
のってすごい強権のような気がするんだけど。
これ以上の強権ってどんなのあるかな?
>戦国大名の領域支配は大名権力による
人、土地、金の一元管理が特徴だが、
後、明智光秀が一方的に領国替えさせられたりしてるけど、
これは一元管理されていると言えなくないか?
信長が大名を官僚のように見ていたため、
明智が耐えかねて裏切ったという説があるけど。
逃亡宣言じゃない
「僕、調子に乗っちゃったけどそこまで詳しくないから教えて」ってツンデレと思うのだ
夏休みだしな >>619
汚点が無くても勢力の大きい宿老の粛清なんて昔からいくらでもあるがな。
毛利が井上一族を粛清したり尼子が新宮党を粛清したりしたのは何なのかと言うこと。
言ってみれば信長は佐久間粛清の時点で、ようやくそれらの「先進」戦国大名の
スタートポジションにいたったってわけだ。
あと、光秀個人をいくら支配したって意味はない。領国、領民を把握してなきゃ。
守護大名でも重臣の領国換えはいくらでもやってた。
まあ光秀が一方的に領国換えされたなんて、軍談講談のお話でしかないが。 >>620-621
出た出た一方的な勝利宣言w
テンプレどおりのバカだな君ら。 >>622みたいな長文書く暇があるなら
なんで「近代的」な大名家の名前が書けないのかなw >>624
論旨と違うからって事もわからないのかい低脳君。 最近多いよな。革命児信長からの振り戻しが酷いやつ。 全然違わないだろw
織田家が遅れていたという定義も他家との比較があって
初めて言えることだろ
どうせ北条とか書くつもりだったんだろw つーか毛利や武田以下だけどな、信長の織田家は。
なんか勘違いしているバカがいるが、信長が抜群に優秀な武将だったことは間違いない。
だが彼や彼の体制は、古臭く後進的だった。
それだけのことが納得できないかね?
むしろ守旧的だったからこそ信長は、短期間にあれだけ拡大できたと言っていい。
中世史の人で信長が近世的とか、今時言っている人なんているか?
>>622
>言ってみれば信長は佐久間粛清の時点で、ようやくそれらの
>「先進」戦国大名のスタートポジションにいたったってわけだ。
そうか、肯定的に評価しちゃっていいのか。、
スターリンみたいでなんか厭だなw
というか、戦国大名の多くは
武田信玄や上杉謙信みたいに
豪族の寄り集まりみたいな感じで
大名は常に豪族たちの機嫌を窺いながら
政治をしていたって感じはするよな。
大名といえども、かなりの危険人物に対してさえ
そう簡単には粛清できないような立場。
それを考えると信長の独裁制は異様のような気がするんだが。
>光秀個人をいくら支配したって意味はない。領国、領民を把握してなきゃ。
後、これがちょっとよく分らんけど、
明智を支配することで領国支配としては十分じゃないの?
中間に明智がいるのにそれを飛び越えて下に指示するとかって
軍隊としても組織としてもあり得ないし。
信長は一方的に領地がえをさせることにより、
領主と領民とを簡単に切り離すような事をしたが
これは実効支配ができている証拠にならないか?
信長は領主を中央から派遣された知事程度にしか
考えてない節がある。 論旨うんぬんの前に、すでにスレの主旨から外れている事を知れ まぁ、よりによってあの毛利以下とか言えちゃう時点でどの程度アレか推して知るべし。
以下スルー。触れるの禁止。 自分らも話題に加わっちゃって触れるの禁止とか言ってもなぁ。俺もだけど。
とはいえ、このスレにも居るように革命児信長を引っ張ってる人が多いのも事実。
経済関係者に多いようだ。どうでもいいけど、中世の話なのに近代という単語が出るのって司馬遼太郎も罪深いねぇ。
中世の次は近世なのに。
こんぐらい言っとけば公平になるかね。んじゃ、スルーしとこう ところで
恩賞ってどんな感じでカウントしているのかな?
雑兵の首を一つでもとれば足軽頭に出世できると聞いたことあるが。
あと、接近戦できる場合ならともかく、鉄砲隊とか弓隊
は一体どうやって手柄を証明するんだ? いくさになると、それぞれの頭にデジタル表示されんだよ >>635
弓隊でも鉄砲も、状況によって誰が撃ったのか解る、と言うものだったらしい。
まあ、矢には名前を書いておく念の入った人も多かったようだが。
>>638
>弓隊でも鉄砲も、状況によって誰が撃ったのか解る、と言うものだったらしい。
出典よろしく。 その隊の真正面で、鉄砲キズや矢キズで死んでるのが、その隊の手柄になんだろ
個人でなく隊や組に恩賞がいって、それを組頭が分けるんだよ
638が言いたいのはそういうことじゃないの?
これだったら、そこらの戦記ものを目通せば、すぐ載ってるけど つか、この当時の鉄砲なら、致命傷が与えられるのは可視範囲だから、
撃って当たったってのもある程度把握できるんじゃね?
弾幕が出来るような戦場なんて(長篠も含めて)ほとんど無かっただろうし。 で、足軽組の誰某が敵方の足軽や誰某を撃って云々て記されてるわけ? 兜首じゃないと恩賞の対象にはならんでしょ
武田なんかだとはっきり規定があって
証人も必要だったはず 兜首でも足軽でもなんでもいいけど、足軽組の誰が鉄砲で当てたかを監察する
ことがあったんですかと訊いている。説明しなくていいから何に記されているのかだけでいいよ。 俺は知らんけど発射速度が遅いので、
最初の斉射以外では、案外わかるかもね
第二次大戦の狙撃兵なんかだとカウントされてるし あのねえ、撃った本人が分かるか分からないかの話じゃないんだよ・・・
足軽組(集団で行動する)の足軽(集団に属する個人)の手柄を監察
することがあったのか、あるのならそれが何に記されているのかを
訊いているんですけど?>>638の個人的な想像のレスなら「らしい」とか
紛らわしい言葉で濁さずに「だったかもしれない」と締め括れよ。 だったらトンチンカンな言葉を労してまで必死になるなよw くだらね
明日はID変えてしっかり638の振りしろよw 流石に歴オタでも恩賞のことは分らんか・・
兜首しか認めないとなると弓隊が不利に
なって不公平だから
弓隊に対する救済措置がなんかしらあるはずなんだよな。
もしかして専門家でも知らないのかもしれんな 軍功状は侍大将クラスの話だから足軽の恩賞は組頭からもらうわけで、
弓足軽と兜首云々の救済は現実的じゃないような……
もともと投射兵器で弱ったところの首を欠く(ひろい首)のが常道だったりしたわけで
そこらの”弱らせた軍功の記録”はないんじゃないかなぁ 長柄足軽=営業・歩合制
弓・鉄砲足軽=経理・月給制
みたいなポジションだったんじゃないの?
んで、弓の名手とか鉄砲の名手とかは日当はずんでもらったんじゃないか? つーか足軽って基本的には戦ごとの契約傭兵だろ。
江戸期に入って足軽も含めた武士が城下に居住するようになって、
農村から分離しただけで(兵農分離) >もともと投射兵器で弱ったところの首を欠く(ひろい首)のが常道だったりしたわけで
>そこらの”弱らせた軍功の記録”はないんじゃないかなぁ
弓兵は弓で撃った後、接近して首拾いに行くってこと?
そんなことしたら戦列乱れるし、ありえないんじゃないの。
まあ、侍階級が個別に足軽雇って好き勝手に戦っているとかいう
組織だったらわかるけど。
あと、弓兵は固定給とかいうのはありえるかもしれんけど。 首を取るのは白兵戦力である徒歩武士の仕事でしょ
従者も主人の武士をアシストするのが主で、
名も無き兵卒が兜首を取って大出世なんてあまり無いよ >>661
たとえば、4人編成で、
従者は弓で主人を補助するというのであれば
わかるけどね。
主人が恩賞もらえばおこぼれもあるだろう。
大河ドラマの功名が辻はそんな感じぽい
シーンがあったな。
ただ、弓隊編成された部隊の場合はどうなるんだろうな。
戦国期は家にもよるが、例えば武田家あたりじゃ、軍役分の足軽を武田家が一括で集めて、
部隊編成していたそうだ。
この場合恩賞などの判断は、足軽運用の責任者である足軽大将にあるんじゃないかな? 射手の練兵には時間がかかったから、被害が少ないように大事にされていたはず。
鉄砲が重宝されたのも、弓と違って練兵が容易だったせいもあるし。
したがって、弓が扱える=それなりに優遇されてたんじゃないかなぁ 足軽の恩賞ってのは組頭の差配じゃないの。
上位者からお前(の部隊)は、こんだけ仕事したから、これだけ恩賞やる。
後は揉めない様に分けろ的な。
個人の裁量に寄るやり方だから記録にも残らないとか。 前近代の戦場で、上官が部下に統制力を発揮するとすれば、やっぱりそういう風になるのかな
上官が逃げる&死ぬと、恩賞の分配者がいなくなるから、部下も敗走しないよう戦う、と
案外、この辺って未開拓の分野なのかな 城攻めで先発隊が全滅するだろ
空堀とかに死体が満載になる
これ、どうする
どっちの死体処理人がそうじする 伊達が版図を広げたのは、冬になると略奪と強姦が仕事だったからだろ もう誰も認めない上杉出稼ぎ説を今度は伊達で語るのかw
上杉や伊達にうらみでもあるの? >>666
TPOで勲功の評価に違いがあったわけで、一概にこうだった、といいきれないだけじゃない?
”狙撃”も盛んに行われたので、その場合は個人の勲功(名前が記録される)が残ってるけど
関ヶ原の黒田家の島左近狙撃(菅和泉以下百の部隊)の場合、
左肘左脇乗馬3カ所に弾が命中、その勲功はた菅和泉ののものになってるけど
たぶん参加者全員評価されてたはず(不満が出てないから)
現在の会社組織だってプロジェクトの成功ボーナスはその責任者が分配する(各人を査定する)し
昔も今もそこらは変わってないと思うけどね つーか飛び道具系は、合戦中ずーっと飛び道具なわけじゃないだろ?
別働隊とかでない限り、しょっぱなだけで後は槍とかに持ち替えたんでしょ? >>674
本陣の守備とかじゃね?毎回全軍突撃じゃないだろうからさ 主攻の左右後方に散って迂回しようとする敵を狙撃
押し負けて撤退する味方の援護など
やること一杯じゃん
戦の途中で槍に持ち帰る機会があったら銃剣の発祥は日本になってるだろうな >>675
なるほどね
でも追撃とかにも向いてないから、手柄立てづらいっちゃあ、立てづらいんだろうね
比較的活躍の場は少なそうだ 足軽って最初は重装だったのが、時代が下がるにつれどんどん軽装になっていって、
戦国末期の頃には、もはや鎧も着けずに羽織だけ、なんてのまで結構いたらしいね。 >>679
戦国末期じゃなくて安土桃山末期じゃねえの? 時代というより勢力や地域に因るんじゃないのか。
千葉氏配下の酒井氏の足軽も装備は粗末な竹の鎧に竹槍だったそうだし。 その頃の東国じゃ足軽なんて主力じゃなかったんじゃない? それまでゲリラ的な役割で使われていた足軽を、初めて組織化して合戦に投入したのが太田道灌だとか。
>>690
京都の悪党が戦場で槍働きするために陣狩りして従軍したのが足軽の始まり。
雇われ傭兵であり戦時中に集まってくるだけで、主従関係にはなかった。
また、戦場で一翼を担ってはいたがまだまだ主戦力には及ばず
戦力の補強程度の意味合いしかなかったが、一騎打ちが主流の武士の戦に対し
集団戦で勝負をつけ、負けそうならすぐに逃げるので無視できない戦力になっていった。
関東でも足軽は従軍していたが、組織立っての用兵には至っていなかった。
太田道潅は足軽に着目し、江戸城築城後城内での練兵に勤しみ
後の長尾景春の乱の時には道潅の采配で見事に乱を鎮めた。
たしかこんなかんじ
道灌の「足軽」はどちらかというと「徒侍」の意の様に感じられる 太田道灌に関しては、「傭兵隊長」という見方をしている人もいるな。 しかし戦国の100年間、軍隊の重要なポジションを担い続けた足軽なのに、
結局武士なんだか違うんだかわからない、不安定な身分のままだった。 >>697
”備”の観点から見れば、弓組は道灌の時代にも一般的だったんじゃない?
弓専用の荷物も多いし、まとめて運用てのは室町から行われてたし 太田道灌の時代 ーー 足軽=悪党
北条千葉の時代 ーー 足軽=農民
でも悪党と農民は違う 足軽と一言で言っても指してる物が違たりするからな
信長公記みたいに一つの作品の中で
侍身分を含んだ歩兵全般と、半農主体の軍役衆を
それぞれ足軽という同じ言葉で表したりしてるものもある 雑兵といわれる最下層の足軽は、いつの時代もその党や組頭の下男や領内の農民でしょ 兜武者が城攻めで土塁で撃たれて矢げん堀に落ちて絶命した場合、その兜首を
撃ち殺した鉄砲足軽はどうやってそれを照明するの?
首拾いに行くのか?いつもどうしてるのか考えてしまう(´・ω・`) >>704
土塁に兜武者が出てくるほど攻め込まれているようなら、それは銃撃戦じゃなくて、
刀を使う接近戦になってるだろ。
土塁を隔てた銃撃戦の段階なら、そもそも兜武者はそんな危険なところに
ひょっこり顔を出さない。 確実に誰が撃ったか解らない状況では
誰の手柄にもならない >>700
備えという組織自体の話じゃなく、弓を集団として訓練したかどうかの話で…… 兵に弓の訓練とあるけど、これが足軽かどうかはチト不明
普通の侍かもしれないし、もしそうなら普通に弓馬の鍛錬と言う事になる 火縄銃伝来前の猟師とか弓使ってたんじゃないのか?
わざわざ素人に訓練する必要もないかも >>706
なんか手柄を立てられるか否かは、実力や勇気より運による要素が大きそうだね
末端の連中の士気を高めるために、正確に軍功を計る方策考えたりしなかったのかなあ? 専業猟師は絶対数が少ない
農民も害獣駆除のために弓は自体は扱えたが、戦場で使うとなるとやはり訓練が必要 大まかな方向に向けて曲謝出来る程度に弓を扱えればいいんでねぇの? 足軽弓は斉射してなんぼだから指示した距離に飛ばす位の訓練は必要かもな
あとは遮蔽物の利用方法や号令に合わす訓練とか
少なくとも武士の一撃必中させるための訓練よりは楽だろ >>712
その程度の技量で効果的にやるとなると、イングランドロングボウ部隊のように
弓兵を大量動員しての一斉射が必要になるんじゃないか? 日本じゃそんな例知らん。
映画だと蜘蛛巣城のものすごいシーンがあるけどさ。 >>710
そもそも軍功とは大名が主従関係のある侍の働きを査定するものであって
足軽を評価するためのもんじゃないと思う 和弓は引くだけでもそうとうな腕力が必用とされていたからねぇ。
へたくそがいても矢の無駄遣いじゃなかったのかな?
消耗品とはいえ、矢じりを作る生産だとか考えると無駄矢は撃ちたくないよね。
親指大の矢じりだとしても、300の弓組みが5本消耗したとして1500でしょ。
製鉄して砥いでって考えると大変なもんだよなぁ・・・・ 撃ち込まれた無駄矢は、敵が回収して再利用するしな。 >>712
日本では曲射はしない。
相手が密集陣形を取らないのだから、
距離さえあってれば誰かに当たるだろうは通用しない。 弓でよく空から降ってくるように射る攻撃があるが、あれはなんというの?
あれは落ちてきてささったりするのか?
上に気をとられているのを、正面から別の射手が射るという複合攻撃なのか? >>693
一騎打ち以外に関してはだいたいあってるな >>651-654
3〜4時間間隔で気にしてやんのwww 金そう医は、兜武者に対するのと、足軽に対するのでは対処に違いがあったのだろうか? 足軽に実態知ってから徴兵された兵士こそ最大の戦争犯罪人で
全員地獄へ落ちるべきもの、と思うようになりました。
乱取り、略奪、強姦。
戦争の勝ち負けに関わらず役目が終わったら処刑しといた方がいい連中ですね。 初期の足軽と、土一揆を構成している層とは殆ど同じ、という説は面白い。 信長の弓衆てのは弓足軽の集団でしょうか?
北政所の養家浅野家も弓衆の出と言いますが? 研究してるわけじゃないが、個人的には多分足軽身分ではないと思う。
弓衆太田牛一は堂洞城での戦いの功績で信長から重ねて知行を下されたと公記に記述がある。
知行を持っているのは普通士分。よって弓衆牛一は足軽ではないと思う。
浅野家も同様じゃないかな。 >730は女かね?
雑兵も足軽も野伏も一揆衆も僧兵も
そのへんは変わらないんじゃないの >>732
信長公記の記述の事を言ってるなら上の人が言ってる様に
弓小隊の指揮官の侍くらいに考えていいと思うよ >>733
岩倉織田家の林弥三郎の様な立場の武者だろうね 足軽=一兵卒
侍=本来は馬上。最低でもお供のモノがつく
っつう認識でいいの? ただし足軽と侍は身分上明確に区別された。
足軽はあくまで農民、百姓扱いだった。 >>731
黄巾賊が曹操に取り込まれて青州兵になったみたいなもんか。
要は農家の次男三男で食うに困った連中。農耕社会では東西を問わず不安定要素
とされる遊休人口だな。 >>737
足軽はもともと形容詞としても使われるから
戦国以前だと、武士が鎧を脱いで足軽になるとかいう表現があったりする >>730
乱取りなんて大名公認だろ。
そうでもしなきゃ合戦なんて成り立たなかった。
そんな時代だったってことなだけ。 >>737
恒常的に仕えてる立場の者が士分で、徴兵か臨時に雇われた立場が足軽といいたいけど
陣借り武者なんかもいるから難しいね 足軽にも二種類あって、
普段は農業などを営み、戦時に臨時徴収される一般的イメージの足軽と、
常備軍として雇用されている西洋でいう傭兵のような足軽がいた。
前者は訓練などもおざなりな文字通りの雑兵でしかないが、
後者は弓鉄砲などの訓練を積んだプロ集団だった。 まず足軽定義を書いとかないと・・・
身分についてなのか、兵種なのか、形体なのか >>747
徴収でも常備でも知行50石程度の武士に仕えてた足軽もいるんだけどね
ついでに金で臨時雇いもある 「足軽」という言葉も、兵種ではなく「武家身分でない戦闘員」全体を表している観があるからなあ。 >>748
【足軽の身分】
若党=士分(侍)の若衆、功績や推薦、志願で士分として家中に
取り立てられた士分以外の者。昔ながらの封建的な御恩奉公。
一族衆、有力家臣の子弟、末端家臣の陪臣などはこれ。
中間=契約によって武家に従う常備軍的な惣村、野党、盗賊、流民
(この場合の流民は、軍役を糧とする流動的な漂白傭兵、浪人の類)
による傭兵的兵員、武家の主力戦闘集団、乱取狼藉の類はこの層が中心?
小物、下人=一般農村の軍役、武家の譜代奉公人、一代限りの奉公人など
ただし、一般農村からの軍役は、報酬や代価を払って惣村や野党、流民の
身代わり賦役も横行。主に雑用。平時には子供、年寄り、女性も多い
【足軽の兵種】
騎乗しない雑兵身分。頭、組頭から騎乗。
士分の若党は家中の身分、功績、年齢によって段階的に頭、組頭に自動出世。
兵種に特化した近隣外地の傭兵的、常備的足軽集団の供給源も存在
(有名なのは雑賀衆、根来衆、伊賀衆、甲賀衆、風間党、各海賊衆など
これらは惣村、地侍、或いは個々の傭兵的雑兵と契約する形。
武家との起請文が主な契約形式)
【足軽の形体】
室町時代
野党、野武士・流民・惣村が主流。一揆(契約社会)の風潮が高まる。
戦国時代
上記身分の円熟期。戦国大名との抗争や取立てによって次第に二極化
末期には集権化した武家(豊臣・徳川)により禁制または駆逐
江戸時代
士分から外れたものは主に帰農或いは郷士など。海外での傭兵も散見
こんな感じ? 士分を得ないまま下士として武家社会の中にとどまったものも多かったけどな。
時代劇によく出てくる、奉行所の実務部隊である「同心」は、身分的には足軽だ。 江戸時代とかの感覚では、足軽とは別に中間や小者がいて、
足軽は基本的に兵士で、中間や小者は基本的に武士の身の回りの世話とかする感じやね。
しずがたけ合戦図屏風に手明と思われる連中が描かれてるけど
平服に武装は脇差のみなところから見ても、戦闘することが無いのが窺える 軍夫、人夫も平装やがな。戦国時代も、敵であってもこういう非戦闘員は討たないのが
不文律だった。まあ首を取っても手柄にならないからなんだが。 足軽の中にも自然災害で嫌気がさした奴もいただろうな 日根野鉢の兜は下々では鍋替わりに使われてたらしいな。
兜って言ってもピンキリだがそういう所でも日根野鉢は実用性が高かったという。 別に溶接してるわけじゃないんだから隙間から漏るんじゃないか 煮炊きの鍋代わりに使ったというよりは、カップ麺のお椀的な役割だったという説もありますね。 煮炊きの鍋代わりに使ったというよりは、カップ麺のお椀的な役割だったという説もありますね。 ttp://img3.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/ed/0c/bananamiti/folder/23033/img_23033_8709467_3?1302573860
こんな感じの足軽が鎧の下に着てるのはたっつけ袴なの? 裁付袴の場合もあるし普通の袴に臑当付けている場合もある 合戦屏風なんかだと、裸っぽい足軽もいっぱい描かれていますね >>146
普段は鍋で雑炊のようにして食っていたそうだ 戦国時代の足軽て、北斗の拳のモヒカンのヒャッハー軍団
みたいなもんすかね? >>772
蜂須賀みたいなのがヒャッハー軍団に充たるだろ >>773
川並衆って単に河川流通に関わってる地元豪族ってだけではなかろうか? >>775
港湾流通に関わる地元有力集団もあるわけで >>775
勝手に「この流域は俺達の縄張りだ」て言い張って通行量取ってるアウトロー集団だろ。
明治になって蜂須賀の末裔が学者に頼んで蜂須賀は盗賊の家系ではないと証明しようとしたが、
あっさりと「先祖は盗賊だった」という調査結果が出てしまった。 >>778
通行税取ってるだけなら盗賊ではないだろ
海賊衆みたいに船を襲うこともあるってんなら分かるが 役人が偉そうに積み荷の一部を徴収するのも
盗賊が積み荷の一部を拝借するのもやってる事は変わらん >>778
普通の領主は街道の関所で通商通行税を取る
川並衆らのように領地が川沿いなら水運で通商通行税を取る
それだけの違いだよ >>781
あなたの思う普通の領主の実例は?
後世に名の残った領主の殆どが守護や守護代の部下あるいは本人。
あるいは地頭の類。
寺社に服属するもの。
結局は、殆どが公的権力(鎌倉以降の幕府もしくは朝廷)に地位を承認されてる。
蜂須賀党だっけ?
さらに昔の楠木正成達みたいな存在じゃないの?
そりゃ近代の価値観からしたら盗賊だろw
なんとかしたかったら大名になってすぐに系図をでっち上げておけば間に合ったろうにw 現代に於いて守護大名と戦国大名の区分は公認か自力救済かという解釈もあるしな
具体的に信秀時代の織田弾正忠家の例だけ取って見ても公権力の補任があった痕跡は無い
夜盗働きを行う者すべてがヒャッハーアウトロー(笑)だというのであれば当時の地方勢力や豪族や
農村なんかもすべて該当してしまうw
喜田貞吉が言いたかったのは戦国当時の夜盗働きは一般的であって恥ずべき行為ではないと
いうものではなかっただろうか 織田とか武田とかは足軽とかの武装度が華麗なイメージあるんすが、
他の大名とかの足軽の武装度はどんなもんなんでしょう?
蜂須賀の盗賊説は明治大帝が公認なされたんだろ、否定したら、明治大帝のお言葉に間違いがあったとなってそれこそ不敬の極みだわな。 足軽というのは読んで字のごとく軽武装の兵だ。
足軽の兵装に関しては、結局惣村からの軍役なのでどこもそんなに大差ない。 応仁の乱の頃は徴募制だが戦国時代には足軽は軍役に入ってる。
秀吉の実父が織田家足軽の家だった、という伝承の意味を少し考えてみるといい。 >>789
軍役は武士が主君に提供する軍事的負担を意味するのだが
戦国時代の足軽も徴募制か常時雇用の形 >>790
基本的には足軽提供も惣村にかかる軍役だぞ?
普段は惣村にいる。中で武家に召抱えられたものは惣村給人という存在だな。
これが分離するのは秀吉の身分法令以後だよ。 >惣村給人
半士半農の地侍や土豪の事だよね?
彼らは知行地の安堵と引き換えに軍事的奉公を行う士分だと認識してたんだけど
給人というのは土地持ちの武士の事だし。
もう一つは年貢や夫役の一部免除と引き換えに戦時に軍役をになう「軍役衆」
もしかしてこちらのことかな?でも彼らは給人じゃない。
どちらにしても惣百姓とは立場が異なる人達だよ。
>>793
その定義が地域・時代によって様々だからなぁ。江戸期に入ってですら
大名ごとにバラバラ。 >>793 >>794
オフクロの先祖が上州前橋藩酒井家の足軽衆だったからこのハンドルネーム
を使っている。明治維新で往来勝手になったから上州を後にした。苗字こそ
由緒ある”渡辺”だが、ビンボーだったと聞いている。
もっと議論して!
>>795
江戸時代の前橋酒井家なら傘張り長屋のイメージで良いかと >>786
その話自体作り話でなかったら明治大帝が『太閤記』で作られた蜂須賀党のイメージに
釣られていたとしてよほど不敬だろ >>786 >>797
その話しだったら司馬遼太郎氏の「飛ぶが如く」に出て来る。
蜂須賀公が明治帝が中座した折に卓上に有った高級葉巻を数本を失敬した
事だろ。明治帝は目ざとく見つけ「やはり血は争そえぬなぁ」と大笑いして
不問に付してるょ。 >>796
浪人の傘張り内職は傘は”人の頭の上に立つ”と言う意味があるんじゃぞ。
だからエライんだゾ。
798の飛ぶが如くは変換ミス。正しくは「翔ぶが如く」。 >>798
歴史小説の中で取り上げられた俗説や伝承の類いってだけだろ
一次史料でもなんでもない
その話自体、タバコと銀皿の2種類あるしなw
そもそも明治大帝が戦国期の多くの豪族が盗賊働きをしていないという誤認に因る言い掛かりを
蜂須賀家の末裔にしていたというのが不遜だといっているんだけどそこは無視かw ラスボスの父親はなんでまたあれほど影か薄いんだろう?。前田とか小出、青木あたりになにか記録残っていてもよさそうだか?
>>380
あれは戚継光の紀效新書のやつでな、刀とはいても五尺約(150cm)ありの野太刀だぜ、トゥーハンドソードみたいのやつだ
あとは長巻にもググレ >>800
その蜂須賀候は狸の子孫で小六の子孫ではないアル >>805
それだと尚更「やはり血は争そえぬなぁ」などといった明治大帝が赤っ恥じゃねえかw 骨が語る日本史読んでたらこんな記述があった。
男性二にして女性は一の割合であり、また骨や歯から年齢を推定
すると、血気盛りの若者が多く、それにわずかの熟年者もあった
が、老人や子供は全く見当たらなかった。p157
たぶんこれら戦死者の年齢と性別は一般の中世合戦に参加した人
びとの平均的な内訳を示しているものと思われる。p158
つまり女性も少なからず戦場に兵として参加してたってことか >>812
ルイス・フロイスの「日欧文化比較」の中で尼が陣立に行くとい記述がある。
訳者はこれを売春にでも行っているのだろうと解釈しているが、「イエズス会
士日本通信」に尼僧に対し参陣するか代わりの兵を雇う金を出せという命令が
下ったという記述があることから兵士として加わったと考えるのが普通であろ
う。
他にも「カサナテンセ図書館の日本関係文書」には仙石とその妻は自らの兵を
率いて逃げ惑う民衆を助けるどころか掠奪を行ったという記述がある。このこ
とから武将の妻にも兵を指揮する権限が与えられており、それを行使する場合
もあったといことがわかる。
戦場に女も加わるということは珍しいことではなく例えば16世紀にスウェーデ
ンのオラウス・マグヌスによって記された北方民族文化誌には女の軍事訓練と
いう項目があり幼いときより女子は弓を学ぶことになっているという。
昭和32年(1957).8.17〔小6女子ら少年少女桃色グループ112人補導〕
東京都世田谷区北沢の、桃色集団「根津山グループ」少年66人、少女46人の112人を補導。高校生や無職、女子中
生、女子小学6年生(12)など。ゆすり60件25万円、窃盗125件110万円。桃色遊戯を繰り返していた。中流以下の家庭。
昭和34年(1959).7.7〔中3女子がリーダーの「もんじやグループ」63人〕
東京都足立区本木町の中学3年生女子3人をリーダーとする、小学生2人を含む「もんじやグループ」63人が捕まった
。学校をサボって、万引きや不純異性交遊などを繰り返していた。
昭和35年(1960).8.23〔小6ら渋谷の愚連隊99人補導〕
東京都渋谷区渋谷の一斉取り締まりで小学生(12)1人、中学生11人、高校生39人を含む不良少年99人を補導した。暴
力団「安藤組」配下の「夜桜会」「英雄会」「北龍会」「黒龍会」の愚連隊で窃盗、恐喝、不純異性交遊を繰り返して
いた。会社社長など裕福な家庭がほとんど。
昭和の不良グループの例だが足軽の実情もこれと変わらないだろう。恐喝や窃盗を繰り返し、グループ内で乱交を行
う退廃的集団。蒼天航路冒頭に出てきて盗賊団のイメージにかなり近い。 >>815
代わりの兵を雇う金を寄こせと言ってるんだから、戦力とする意図があった
と思って間違いないんじゃないの?戦国の雑兵なんざ所詮寄せ集めばかりで
職業軍人的な存在はほとんどいなかっただろうな。 従軍僧なんて全世界的なものだろうに
僧が従軍せずに金銭で済ますのは陣僧銭といってコレももっと前からある習慣 奈良の村で、飢饉がきて、川につけてた芋を母と子が盗み、
村の若者の集団が現行犯で処刑。前の日も7人処刑と記録は語る。 しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス糖尿関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイラン飲会インドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹味flashマックさいむらアリナミン胡麻バブル法香CDラーメン
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保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆内閣飲み会郵政省mannernhk証券ディレクターDJ玩具研究員デズネーespana牧師TeNQdio店長少年 まだ残ってたんだ、このスレ?
ageるでござるよ! w https://pbs.twimg.com/media/CR1PoIlUsAEha05.jpg
幕末の絵だと馬を盾にして
騎馬武者が銃を放っている例が有るが
馬足軽が馬を盾にして
銃や弓を放った例は有るのかどうかだが
安い馬だから容易に盾としていた可能性も有るのかだが
銃相手では馬の胴体でも50mでは人迄貫通する危険も有るのかだが
http://photozou.jp/photo/show/1849954/242443389
馬がやられた後は上の平治物語絵巻に有る様に
倒れた馬も盾にしていたと言う事なのかだが
馬を盾にする場合鎖や革の馬鎧が
銃の威力を可成り軽減していた可能性も有るだろうが
此れは騎馬武者用の馬にしか無い物と言う事だろうか 槍を持つ馬足軽が弓や銃撃を逃れる為に馬を盾にした例も有るのかだが
長巻足軽が馬に乗る事は有ったのかだが
士大将の護衛の刀を持つ徒武者が馬に乗る例も有るのかだが
騎乗の際は槍を装備した可能性も有るのかだが http://photozou.jp/photo/show/1849954/232133418
津軽屏風では腰に指物を装備した歩兵が多数居るが
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/208520099?size=1024#content
此れは上の腰指を使用しているのかだが
騎馬武者は此れは使用したのかだが
大阪冬の陣・夏の陣図では此れは見ないが
この時点では廃れたのかだが
恐らく此れの後で書かれた賤ヶ岳合戦図には再び登場しているだろうから
実相は不明な訳だろうか http://blogs.yahoo.co.jp/takedasingen21/3281890.html
永禄12年(1570年)の武田軍には
既に指物や長柄槍は有ると言う事なのかだが
武田軍の騎馬武者は喉輪・頬当は標準装備なのかだが
歩兵は其処迄は無いのかだが
一部喉輪や篭手等を装備している者も居ると言う事なのかだが 装甲の無い槍・弓足軽は
1612年に書かれた津軽屏風に書かれているが
鉄砲足軽は一様に装甲を装備している様に見えるが
此れは騎馬武者が下馬して銃を放っている可能性も有るのかだが
篭手・脛当は装備されていないから違うと言う事なのかだが
此れは銃撃戦時の防弾を考慮して前面だけでも胴を装備していたのかだが
長谷堂合戦図では鉄砲足軽は具足は無いから
絵の形式に過ぎない可能性も有るのかだが 大阪冬・夏の陣図では
足軽はほぼ全部具足を装備している様に見えるが
装備率が津軽屏風で書かれた関ヶ原合戦から
変化していると言う可能性は有るのかだが 銃の時代前には最上胴の貸し具足も有ったと有るが
銃の時代後は此れは板金が固定された五枚胴や桶側胴に成ったと言う事なのかだが
トッパイ形兜の貸し兜も有ると言うが
現物は見た事が無いが http://image.tnm.jp/image/1024/C0046177.jpg
上の雑兵物語の右の槍担の小頭は短い槍を装備しているが
こうした兵は鍵槍や管槍・管鍵槍を装備する例も多いのかだが
十文字槍や大身槍・薙刀はコストの問題で使用しないのかだが
小頭の具足は派手な色も使われるが
http://www.japaneseweapons.com/yoroi/rei/index.htm
上の小頭級の物と言う
通常より高級の兜や頬当等を装備した具足が装備される例も有るのかだが http://photozou.jp/photo/show/1849954/107753884
鉄砲足軽も正面しか防護していない胴も有るだろうが
此れを装備している兵は
接近戦用の籠手や脛当は無い可能性も有るのかだが
陣笠は飛び道具にも一定効果が有るから
装備している可能性も有るのかだが 弓足軽も弭槍装備でさえ近接戦は重視されていない可能性も有るなら
前懸胴装備で籠手や脛当は無い可能性も有るのかだが https://twitter.com/boukenkyuu/status/849197103997779969
上の画は日蓮聖人註画賛の一部だが
刀の鞘に布の様な物が付いている様に見える兵が居るが
此れは革製の鞘の可能性も有るのかだが
先端が2つに分かれている物が有るのはどう言う事なのかだが >>855
中央上の兵は兜や胴鎧は無いが
喉輪を装備している様に見えるが
此れは騎馬武者から略奪した品なのかだが 14世紀の春日権現験記絵でも未だ歩兵が大鎧を使用しているが
此れは何時頃廃れたのかだが http://jyouhouya3.net/2010/06/post_363.html
>火縄銃を撃ってから次の発射までに要する時間が早くて30秒。で、射程は100mくらい。足軽たちはこの100mを30秒以内に駆け抜けられるかが生死の分かれ目だった。
日本お火縄銃は一斉射撃はせず散発的に発射されるから
一発放たれてから突撃しても損害は出るのかだが webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0046171
右の薙刀を持つ兵は
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99
>荷宰料(足軽)
と言う事なのかだが
此れは備には4名居るが
薙刀では無く長巻を装備していた可能性も有るのかだが 雑兵物語では弓は鉄砲を装填している際に放てと有るが
2町(220m)の遠距離射撃では弓はこうした援護射撃は困難と言う事だろうが
1560年辺り迄は鉄砲の多い勢力が弓をアウトレンジする為に
2町以遠からの射撃を多用していた可能性は有るのかだが
220m辺りで銃を撃ち合い
次は110m辺りで弓の撃ち合いと成った後
近接戦に移行していたと言う可能性も有るのかだが
其の前に石の投げ合いはしていたのかだが
地形の問題で射撃距離が110m以内であれば
鉄砲の装填時に弓を放っていたという事なのかだが webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0046177
雑兵物語を見ると足軽は籠手は標準装備なのかだが
槍足軽以外籠手は無い可能性も有るのかだが
歩行侍も脛当は無いが
実際は装備していた可能性は有るのかだが city.kikuchi.lg.jp/pub/25832_filelib_b44ac16364a0711e6a9467392a41727b.jpg
上の蒙古襲来絵詞の様に歩兵の鎧の縅糸も
模様が有る例が有るのかだが
騎馬武者にさえ無い例が多いが
こうした模様が有るのは精鋭部隊の歩兵だけなのかだが
騎馬武者用の模様の有る胴丸を奪った物の可能性も有るのかだが http://blog.livedoor.jp/waruneko00326-002/archives/45889458.html
>上杉家は謙信以来、足軽は軽装が基本。
陣笠かぶってればマシな方というぐらいの軽装。
逆に武田家は足軽といえど重装で、兜と手甲は必須。
時代もあるだろうけど各家によって経済状況や戦術思想が違うので、それを反映して武装も当然ながら違う。
上杉軍は車懸り等機動力を重視しているから
軽装なのかどうかだが
垣盾は野戦では使用したのかだが 雑兵:兵
足軽:下士官
足軽大将:曹長
侍:尉官
侍大将:大佐
総大将:大将 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/part1/archives/223
狩猟用には160cm程度と
満州弓より短い半弓が使われたのかだが
此れが実戦使用された可能性は有るのかだが
村の自衛用程度なのかだが 上杉は越後75万石
武田は甲斐15万石
兵を使い捨てにできた上杉 越後40万石無いけどな。しかも揚北衆は同盟国と考えるべき
織田で言えば徳川も加算してるようなもん 戦国時代について質問です。雑兵物語に、最初に戦うのは御侍衆のやりからだぞ、とありますが、侍が短いやりで突撃したあとに足軽が長いやりで上からたたくのですか?逆だと思ってました 長柄足軽は主に防御的な兵科で、たとえて言うと生きてる柵や塀です。
侍が有利に戦うためのサポート役で積極的な攻勢には出ませんし、
史料上も長柄足軽が武功を立てた例はごく少ないです。 最初は鉄砲と弓矢を敵陣に放ち長柄部隊を浮足立たせ、
その隙を騎兵や槍術に長けた侍衆が斬り込むってのが基本的な攻め方 端の方なんか指揮らしい指揮こねーから空気読んで進んだりしたもんだよ
人気の無い所で雑兵同士がカチ合ってもお互い取る物も無いからスルーしたりさ