関ヶ原の戦いは東西決戦ではなかった
天下分け目、東西決戦なんてうそだろ
後から捏造だよ! 東軍はともかく西軍は「軍」としてまとまっていないねえ。 結局西軍でマジ戦っていたのは宇喜多秀家、石田三成、大谷吉継・・・
島津も毛利系もポカーン
戊辰戦争では最終的に東が劣っていることが証明されたw ああ、あれ餅って言ってたのか……
道って聞こえてたわ。聞き違いだろうとは思っていたがw >>10
魚沼や会津、山形宮城秋田という有名産地があるから一般的にはそう認識されるね。
今年の一番米は飛騨で辛うじて東日本。
でも僕らの業界で段違いに旨いとされる産地は丹波なんだよね。 家康は、関ヶ原で勝った。これは望外の大勝利。というより本当は大坂で毛利を下す形で勝ちたかっただろう。
こんなところで勝ったくらいだと、後はまた最初から計画しなければならない。
だが、家康はそれをやり通すだけの能力を持った政治家であり戦国武将だった。
それで、もっと重要なのはそれ以降だ。
家康が関ヶ原をきっかけに征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。
それにより、東軍諸将を体よく遠方に追い払ったが、豊臣氏が滅亡するまで彼等を優遇する必要が生じた。
その為に、遡る形で関ヶ原の戦いを「東西決戦」とし、それが天下分け目の戦いだったようなストーリーにする必要が出てきた。
それで戦功があったとして、東軍諸将(実は生き残った豊臣恩顧大名)を家康軍だったと位置づける必要が出てきたんだ。
それは当然(加藤清正のような不参加組を別として)東軍諸将にとっても都合の良いことだった。
そうして、関ヶ原の戦いは、天下分け目、東西決戦のように作られていったんだと思う。
実際の関ヶ原を見れば分かるように、東西が激突して東軍が勝ったという経緯ではない。
なんだか分からないような布陣の中で、三成憎しの部将と三成の親友(大谷、宇喜多)が必死に喧嘩しているだけ。
あとは見ていただけだ。
それが小早川とか西軍の大半が突如寝返って、それが決定打になった。
こんなしまりのない決戦があるか???
でもそんな形で勝ったと言われても、東軍諸将にとってもこれは名誉なことではない。
戦の経緯は仕方ないにしても、これを劇的な東西決戦とし、その結果勝ったのだという形にしたかったんだ。
関ヶ原の戦いは、予定では「途中経過」だった。西軍の自滅を東軍は決戦の結果の勝利に捏造したんだよ。
不倫は文化だ
なんて言ってるから負けちゃったんだね。 元々、西日本と東日本では民族的に全然別物だし
いまさら分裂もクソもない >>19
逆じゃないの?
東西決戦ではなかったと書いているんだし >>21
そゆ意味では西の圧勝w
東は極少数民族となった。 関ヶ原って豊臣恩顧の争いだろw
家康に利用されただけ 雪がすごくて戦どころではなかった
新幹線も止まるし 天下ワレメの戦いで正面から突入を図ったのが薩摩だったな
しかしワレメの中で果てる事ができずに撤退・・
男なら突っ込め!
中で出せ! 薩摩が突っ込んだんじゃない
西軍が待ち受ける形に仕向けられ、そこへ東軍が突っ込んだんだよ
そして見事にドピュ! >>42
据え膳食わぬは薩摩武士の恥
>>43
家康「若造の後背位から菊座に脅しをかけろ!」 >>43
だったらどけよ、広家!
家康の背後を俺が攻めたる! 白雪に覆われた関ヶ原の決戦の場は
修羅場と化し、鮮血に染め抜かれたのでありました。 てめえら、童貞だろw
現実を見ろ、関ヶ原の戦いは晩秋だよ。
しかも天候が目まぐるしく変わった。大雨が降り、気温が急に下がって霧が発生。
翌日は天候が回復。その中で戦闘が行われた。
戦闘終了後、今度はしとしと雨。おそらく移動性の低気圧が接近し、寒冷前線と温暖前線が相次いで関ヶ原近郊を通過した。
目くるめくような激しい一夜に熟しきった女を攻め立てるようなセンスがないと、関ヶ原は語れないぞw
いや関ヶ原は熱き漢同士の死闘・・・阿鼻叫喚の血と汗が飛び交う戦場だw いやいや、関ヶ原は甘く切ない文学小説を読むような・・・血と汗が交わる初体験だw >>51
関ヶ原では風邪を引く奴が続出しただろうなw 男同士の話は分かった。
問題は東西決戦かどうかだ。 たまたま西軍とされた側が自滅した。
というのも後世の創作というか、拡大解釈。
石田三成や宇喜多秀家辺りが、福島正則、黒田長政と勝手にケンカをした。
福島、黒田辺りは家康に踊らされていた。
そのうち、様子見を決め込んでいた大半の連中が、小早川の発作に同調した。
小早川は家康につくと約束しておきながら優柔不断だったので鉄砲で脅された。
これで多くが雪崩を打って西軍に押し寄せた。
その後、最初から家康と一緒に上杉討伐に同行していたのが東軍。
関ヶ原で同調したのが西軍からの裏切り組。
というように論功行賞で分別されたんだよ。
東西決戦などではない。 >>58
>これで多くが雪崩を打って西軍に押し寄せた。
ほうれみろ、やっぱ雪じゃねえかw たとえだろw
西軍が本当に雪崩で壊滅したら笑い者だが 2ちゃんでプププと聞こえたら注意しましょうw 結局東西がどうであれ、徳川家康の政権奪取の絵図に過ぎない 関ヶ原で勝ったから家康はそれを東西決戦とした。
勝てなかったら、負けないうちに撤退して別の機会を窺っただろう。
どうあがいても石田三成なんて浮かび上がる存在ではなかったな。 関ヶ原で勝てなくても家康なら勝機はいくらもある。
負けないことが重要。
決戦とすることにはかなり無理があるな。
しかし、西軍総崩れとなった後に東西決戦として政治的勝利に持っていったのが家康の実力というものだ。
自分がその学校にどのくらい媚びて入りたいかを考えろ。
ありがとうございます。でも
ちょっとよく分からないです
すいません。 >>76 >>78
受験勉強というのは「説」を検討するというものではないよね。
教科書の見解にどれだけ忠実かということだから、変わった説を考えずに教科書をよく勉強してください。
ただし、どこを受けるかということで多少そこは変わってきます。
高校受験とかなら私が今書いた通りでよいです。
ただし、東大受験とかなら教科書に書いてあることを覚えるだけでなく、教科書に書いてあることから論理的に歴史を考えられるようにして置いてください。
そういう意味なら、こういったスレでの考え方のうち、内容が論理的なレスは参考になるかもしれません。
東西って本拠地が東西なのか陣営参加が西と東なのか・・・
とシロートが聞いてみる。 それが後付けくさいな
関ヶ原では家康方、三成方だろう。少なくとも俺東軍、なんて意識はなかっただろ たとえ後付けでもなんで東と西になったのかだな
決まってるよ
起家が「東」だw 起家のトイ面にいたから「西」なのか?
そういやCMのウルトラセブン、メンタンピンドラ3の部分はカットされたなw ロンあがりで立直もかけてなかったらメンタンピンじゃないだる >>82
関ヶ原での位置関係だね。
本拠とだと西軍の上杉景勝、佐竹義宣、真田昌幸。東軍の黒田長政が逆になる。
応仁の乱での東軍西軍も対峙した時の位置関係(東軍:室町御所、西軍:山名宗全邸=西陣)。
家康は、小牧長久手で戦闘に勝利しながら政治・外交で秀吉に敗北している。
しかし家康は学習能力は戦国武将の中でピカイチ。
関ヶ原ではそれが十二分に生かせた。
石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家辺りが結局優位に展開していながら、「その他大勢」の支持を得られなかった(これは裏切りではないと思う)ので、後半総崩れ。
家康は、それらの支持を得るための手配が万全だった。
このことを、政治的勝利として喧伝するだけでは、謀略の謗りを免れない。悪いことではないのだけれど。
それを「戦闘の勝利」とするために後付で、石田三成や宇喜多秀家などとその他大勢をまとめて「西軍」にしてしまったんだと思う。
東西が互角に会戦し、結果東軍が勝った。その他大勢は最初西軍だったが、後に裏切った事にした。
これが関ヶ原の戦いの真相。
もし秀忠が参戦していたら、もし毛利が参戦していたら
歴史のifを妄想するのは面白い 「関ヶ原の戦いは東西決戦だった」
というのも妄想としては面白いがなw 関ヶ原は徳川家康が天下を取るための戦。
東軍も西軍もない。みんな利用されただけ。 関ヶ原の戦闘は半日だが、実際は三成挙兵から毛利輝元の大坂退陣までだろ