関ヶ原の戦いは東西決戦ではなかった
>>94
・上杉真田佐竹が東軍に
・黒田細川鍋島加藤が西軍に
・寝返りイベントがなくなる
・後顧の憂いが両軍ともにない総力戦
かなり楽しいな 当時の状況では北陸で大谷軍が前田軍と遭遇して戦ったりしているから
要は石田三成一派の「反乱」という認識だろう。
三成は当時公職を退いているし、前田は特に東軍というわけではない。
三成は「内府違ひの条」を出して正当性を主張し、また大坂を巻き込んで
諸大名を参戦させているが、大半はシラケムード。
結局石田三成、大谷刑部、宇喜多秀家辺りの反乱に、権力に引きずられて
ついてきたどうでも良いのが周りにいたが、上杉討伐から引き返してきた
徳川家康を始めとする諸大名軍が制圧に当たり、どうでも良い多くもそれ
に呼応し、反乱は平定された。
問題は、この出来事を、自分が天下を取るために利用しようと家康自身が
考えたという事。
そして後世の人が理解するようなこんにちの関ヶ原ストーリーが脚色された。
三成が兵を挙げなかったら家康は天下を取れたのだろうか? まあ、取ったんじゃないかな?
ただ、家康方への不満分子も温存されただろうからすんなりとは言ったかどうか・・・ >>105
特に豊臣秀頼の処分は難航しただろうな。
あれだけ「鮮やかに」関ヶ原東西決戦の構図を政治的に作り上げて
かつ勝利したのに、それから15年経ってやっとその問題が決着した。
そうした政治勝利を演出できなければ豊臣氏と大坂城残存のまま家康
の生涯が終わったかもしれない。
とすると江戸幕府が安定政権になったかどうかも。 小早川は何を裏切ったのか? という理解が必要だと思う。
石田三成を裏切ったという認識はおそらくなかっただろう。
どちらかといえば、本家の毛利輝元が形だけでも石田三成に担がれていたからそれに対する裏切り(行為による引け目)はあったかも知れない。
これは、吉川広家にも言える。そして広家は行動が残っているので分かりやすい。
関ヶ原の戦いの論功行賞で毛利本家は改易されるところだった。そして吉川広家は早くから家康に通じていたことにより周防・長門37万石を与えられる事に。
しかし広家は家康に懇願した。
自分はいいから毛利本家を存続させて欲しい。自分に与えるという領地はそのまま毛利家に賜りたく、と。
そうまで言われては、家康も広家の意向を無視できない。裏で懇願したのではなく、他の者も見ている前で言われたからだ。
それで毛利家は大幅領地削減とは言え、2カ国領有で存続を認められた。
これがなかったら、幕末の長州もない。
最も吉川広家にとっては言わざるを得ない事情もあった。主家を滅ぼしてどのツラ下げて地元に帰れるのか? という面も。
吉川家は結局、別に岩国を与えられた。
これらのことも、「東西決戦」のイメージが与えた誤解が入るとおかしくなる。
小早川も吉川も西軍を裏切った事にされてしまうからだ。 小早川の下には家康からお目付け役(奥平貞治)が来ていたから裏切りは決まっていたこと。
ただ時既に遅しになってしまっては問題なので家康が急き立てた。 毛利だけでなく、薩摩の島津の場合も東西決戦という観点がなかった。
最初家康に留守を頼まれ、伏見城の警備を頼まれている。非公式であった
為と家康が会津へ赴く直前で決まった為連絡の不備があって伏見で齟齬が
生じた。島津は伏見城入りが城方に拒否されて憤慨してしまい、宇喜多と
共に伏見城を攻めることに。
東西決戦だと、これは東軍から西軍へ寝返ったことになるのだが、島津に
はそのような意識はなかっただろう。島津はその後、大垣城まで三成方と
行動を共にするが、赤坂に家康が着陣した際、家康を奇襲しようと主張す
る島津を三成が窘めたりして対立してしまう。
関ヶ原では島津はどちらにも与さず、三成方総崩れになった頃合を見て徳
川目がけて突進。そして撤退した。
田舎者には、日本の行く末をかけた戦いだったという事が分からなかっただけだろw 宇喜多秀家にしたって秀吉への恩義で懸命に戦っただけ。
日本の行く末なんてあまり関係ない。
でも秀家の戦いぶりは、敵の諸将すら感動させた。 >日本の行く末なんてあまり関係ない。
同意
当時に今現在と同じような日本という国家観があったとは思えない。 >>122
こんにちの日本という概念はなかった。主権・領土・国民という国家。
当時なら「天下」だろう。
田舎者には、天下の行く末をかけた戦いだったという事が分からなかっただけだろw
なら、正解。 天下は、すでにまとまり・・・あとは跡目争いだったんだろうからなあ。 秀吉の惣無事令の後は、正面切って決戦なんてやってはいけない。
だから家康側も三成側も共に相手が反乱を起こしたと解釈して、その鎮圧に当たるという名目で兵を動かした。 昔から東西決戦は東、
南北の戦いは北が勝つと相場が決まっている。 >>134
いわば豊臣家家臣同士が豊臣家を守るという解釈。 >>139
ひとりだけ違った。
それは他ならぬ家康。
家康だけがこの状況を利用して豊臣でない天下を考えた。
だから東西に関係なく、豊臣にこだわる、というより豊臣しか考えられないすべての人の思惑を利用できた。 IFを言ってもしかたがないけど、家康が関ヶ原前に死去、もしくは病の床に伏せっていたら
どうなっただろう。
再び乱世かな? そうはならんだろう。というよりやや矛盾か?
家康は関ヶ原当時は59歳くらいだが、健康面では何の問題もない。
問題なかったから250万石くらいの大大名になれたし、そうでなかったらそれ以前にアウトだろう。
秀吉の死後、次の安定期まで時間がかかるだろうからその間は乱世と言えば乱世だろうが
実際は天下はそれなりに収束へ向かっていたと思われ。
またふたたびの乱世を願う者など、とうのたった戦国時代の生き残りばかりだったからな。 東西の決戦かどうかもだが、西は疲弊しているよ。
朝鮮出兵とか。
徳川家康とか、伊達政宗とか、上杉景勝とか、まあ東の方が総じて有望だろうね。
関ヶ原の戦いに関する周辺動向も含めて、ほとんど東日本の出来事。
西日本は文禄・慶長の役の痛手が大きかったんだろうな。 >>142
如水など食っても仕方がない。
かつて秀吉が北陸で上杉謙信など相手にせず放っておけば良いと言ったのと同じ。
それで、倅の黒田長政はしっかり家康の手駒にされていて、かつそれによる大幅加増を大喜びで親父の如水に報告する始末。
如水は激怒したらしいがなw 長政が右手を家康の両手で押し抱かれて感謝されたのを誇らしげに如水に報告した際、
「その間、お主の左手は何をして居ったのだ!!」
と叱り飛ばされたという奴だろ?
作り話っぽいがなw
刺し殺したって長政を失うだけだよ、黒田家が いや、家康さえ死ねばいいんだろう
息子はどうなってもw いや、53万石が手に入れば天下なんてウザイものは要らなかったんだろう
団塊戦国世代オヤジがいくら怒鳴ろうがw
それより長政自身が殺されるのは真っ平だったんじゃ? 関ヶ原の戦いは・・・・・・・・ではなく関ヶ原を巡る戦いは、実は親子対決だったw >>149他
織田信長は不覚を取って家臣の明智光秀に殺されたが、秀吉とか家康はそうしたケース・スタディがあったせいか、そのようなスキを迂闊には作らない。
ただし、敢えてスキを見せて配下の出方をうかがうという事はよくやっているようだ。
小田原征伐の際も秀吉は家康の陣のすぐ近くまで、ごく少数の近習と一緒にうろうろしたりしたらしい。
井伊直政などは家康に襲撃をかけるように進言したりしているが、家康は却下。
当然、準備万端ウラで整えた上で、スキだらけを装っていると考えるべきだ。
家康だって脇差をさしたままの長政が間近にいる状態で守りの体制を整えていない訳がない。
長政の左手が脇差の鯉口を切ろうとした時点でアウトだよ。 家康は父親も祖父も暗殺されてるからねえ。
基本中の基本だろう。 oraha yiuiewefwijewhbejkskvdilrfojiofvdoffgjhdiljglrfhriiiiiiiiiiiii 落しましたが特に変化はありません
元々廃墟ですたw 関ヶ原の戦いは決戦でも何でもなく、家康天下簒奪の茶番劇だと理解しよう 毛利と島津が怨みと反感をしまい込んだきっかけの戦いだなw >>168
怨みと反感ってか?はあ〜?
毛利も島津も静観してただけじゃん
それで逆ギレされたんじゃ徳川家が被害者じゃんよw 実際の関ヶ原前後の情勢と対応だと毛利も島津もバカそのもの。
でもそれで負けた側は自分達は不当に負けた、理不尽だったと
後世に伝える。
何世代か経つとそれが既成事実になり徳川に対する反感になる。 負けたも何も薩長は関ヶ原で何もしてないじゃん
被害妄想も大概にしろってんのwww >>175
>関ヶ原前後の情勢と対応
と書いてあるのが読めんのか??
関ヶ原で負けたなんて誰が書いたんだ?
そしてそれが何で「被害妄想」なんだ??
トチ狂ったことを書くのも大概にしろよw まあまあ、揚げ足取って攻撃するスレじゃないだろよ。 イジメられっ子がそ知らぬ顔でイジメ側のふりするなw 毛利は滅亡一歩手前で吉川に救われた。周防・長門37万石は吉川に渡る筈だった。
島津は1600名のうち、鹿児島鶴丸城まで生還したのは80名。95%が死ぬという惨敗。
最初から1600じゃどうしようもないわな。
だいたい家康に味方したと思ったら伏見城で徳川勢と喧嘩してしまい、
西軍についたら大垣城で三成と喧嘩するし島津・・・・いや始末。
関ヶ原では結局観戦。で気がついたら孤立していて逃げようとしたら
徳川本陣に間違ってw突っ込む有様。
慌てて反転したら井伊直政の猛追を受けて、9割以上が壊滅。
薩摩なんて西も東も分からぬ方向音痴の田舎者。
関ヶ原当時は彼でしょうにw
いずれにしろ、息子は家康の甘言にコロッとなるわ
親父は親父で伏見城での些細な事でコロッと西軍方になるわ
芋侍に相応しいよねw また「でしょうに」か。
このバカ、あちこちに出没しているなww >>189
お前こそ、あちこちでお馬鹿な突っ込みしてるでしょうにwww >>191
語るに落ちたかw
つまり、本当にあちこちで「でしょうにw」って書いているのはおまえってわけだなw >>188にマジレスすると、義弘が当主になったというのは現在では否定的な見解が主流になりつつある。
秀吉がそのようにした(義久との対立を煽って島津の分裂を図った)とも、幕末になって薩摩が改変したとも言われ、家督相続は史実としては否定的な見解が優勢だ。
ただし、義弘が当主かどうかは別にしても、関ヶ原前後は各大名家とも世代交代の時期が重なり、かつ新しい世代はそれまでの世代と異なる考えが出てきている。
島津義弘と忠恒だけでなく、ガイシュツだが黒田如水と長政、毛利は元就や隆元・元春・隆景は死んでいるが、その後の輝元、吉川広家、小早川秀秋の世代だ。
共通して言えるのは、戦国世代から、徳川を頂点とする平和妥協の世代という流れ。
もっとマイナーだが、例えば大河ドラマ(武蔵)で描かれていた柳生石舟斎と柳生宗矩の意識の違い(自領は自分で守るVS徳川に合わせていくことで安泰を図る)もそういった流れを象徴的に描いていた。
家康の勝利を決定付けたのは、個々の家の対応(東西いずれにつくか)だけでなく、世代的にも徳川協調派が東西関係なく増えてきていたという流れも重要だ。 うーん、どうなんだろ?
一概に東西対決の構図で短絡的に語れないのも世代の意識の違いも認めるけど、
意外と黒田如水あたりも保守的なんじゃないかな?
てか年寄りほど保守的なんじゃ?
もし黒田一族が本気で天下を狙うなら、長政を地元に置き、如水自身が家康と刺違
えるんじゃないかな? やっぱり我が身が可愛いのは同じで、だからと言って長政に
本気で家康と刺違えろと思っていたんじゃないのでは。
万が一、家康が死ぬようなことがあったら、とか、戦が長引くようだったら、という事態
に備えて、あわよくば天下を窺うという考えはあったかもしれない。
そうなるとこれは極めて慎重な判断が必要なので、地元には元秀吉の軍師までやった
如水が留まるべきだろうね。
「そちの左手は何をして居ったのだ!?」は、あわよくばが(やっぱり)ダメだったと
いう悔しさと、年老いて結局天下は取れずじまいだったやるせなさがそんな形で現れた
という理解をしているけど(実話かどうかも不明)。
島津も。1600しか出していないというけど、地元の方が物騒だよ。
黒田如水が動く可能性もあるし、加藤清正が近くにいるしね。小西行長は関ヶ原に
出張っているけど、だからこそ清正の兵は動く。動いたら警戒しないといけない。
最低でも地元は守らないと。島津義久が大半の兵と地元に留まったのはそういう事を
一番に考えたんだと思う。
西の方が、朝鮮出兵で経済的に疲弊しているから、消極的だけど地元を最低でも
守るという考えが主流だろうね。天下分け目への参戦はある意味、博打だよ。
「東西決戦」「天下分け目の合戦」なんて意識は、
かって信長や秀吉、家康に従軍し、天下経綸という意識を
持って中央で合戦した大名にしかなかったと思う。
それが全国に浸透したのは、「関ヶ原」から後年の「大阪の陣」
まで待たねばならなかったのでは…。
違うかなぁ。それにしても「関ヶ原」で長曽我部軍が、戦闘に参加して
いたら、と思います。 小早川軍が、家康に寝返るまえに、長曽我部軍が主戦場に突入していれば、
小早川軍は、家康の陣に進撃しただろう。
脇坂、赤坂なども小早川軍に右にならえ。
繰り言ですが、信親が生きて参戦していれば…。 長宗我部軍が進撃しようとしても東軍後衛の池田勢や浅野勢を
まず突破しなければいけませんよね。
単純に戦力が倍ほどもある両勢をそう易々と抜けないのでは?
それを見た毛利勢が南宮山を下ってくれば、小早川を待たずして
東軍を包囲殲滅できるとは思いますが。
だから長宗我部勢が動いただけではそう変わらなかったかと。
かく申す私自身、長宗我部家所縁の者なので長宗我部贔屓です。
信親が存命ならば、長宗我部家自体がこのような形で関ヶ原を迎えて
いなかったとは思っています。 うわっ、感激っすぅ(^v^)
信親が存命ならば、どうなっていましたか。
ぜひ存念を拝聴したい、です。 >>206
ありがとうございます。
信親が元親以上の「出来人」だったかどうかは実際には史料に頼るしかないですし、
若くして亡くなった者の評価の常として、過大評価されている部分もあるでしょう。
ただ少なくとも盛親より知略に長けていたのは周知の事実だと思います。
そもそも長宗我部家自体が豊臣家に対して如何ほどの恩義を感じていたのか。
四国統一目前で土佐一国のみに押し戻された訳ですし、元親自身も旗幟鮮明に
していない部分が見受けられますよね。
盛親も成り行きから仕方なく「結果的に」西軍側になってしまったようですし。
信親ならば藤堂高虎ラインからもっと上手く家康に接近していたと思います。
その後、東西どちらに味方するかは家中の意見もあるでしょうが。
あまりに長宗我部家の話が長引きますとスレ違いとのご指摘もあるかと思いますので、
長宗我部家の関連スレをご案内しておきますね。
「信親」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1149980177/
「長宗我部家」
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1161763408/
変わったところで下記も。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1073747331/
いずれも過疎ですが(笑)
以上、長々と失礼いたしました。 うんうん。
関ヶ原の頃の各大名家って、だいたいこんな感じでは?
1.東国・奥州・・・秀吉が死んでしまったので惣無事令から始まる天下統一は実質的に崩れたと判断。
移封や縛りから解放されて、旧領奪回や領土拡張へ動き出す。
2.東海道近郊の大名・・・実は「豊臣恩顧」の武断派がいる。山内や福島。彼らは元々家康関東移封に
伴い、家康の監視役&上方と関東の間にあって対仮想敵家康の先鋒役。
実は家康は、天下取りを念頭に置いた場合に一番の肝はここだと考えたはず。この勢力を敵に回すか
取り込むかで情勢は大きく変わる。かくして上杉征伐を名目に従軍するよう仕向けられた。
3.九州・・・「1.」と同様になりそうなものだが、ならない。朝鮮出兵で疲弊していて、そんな元気はない。
現状維持が精一杯&立て直しが急務。中央情勢が動いても、一応手は打つが消極的。
4.近畿・中国・四国・北陸 ・・・ 一番微妙な立場。勝手な領土拡張は都が近いしそう簡単にはできない。
またそこそこ朝鮮出兵の影響も受けている。上方より指令が来ればまずは従うという感覚。
そこへ「内府違ひの条」が出された。東も西もなく、とりあえず大坂から命令が来たから行ってみた。
それで、一応ほとんど「西軍」にされてしまった。
小早川の裏切りは当初から決まっていたことで、あとはタイミング待ちだったんだよ 小早川も吉川も東軍なのに、なんで西軍に分類されてるの???? 当初は形としては西軍側だったからに決まってんじゃんよw 家康しか日本統一イメージがなかったようだ。
それは、実質、信長、秀吉の教え。
毛利等よりイメージ力の差。
今、全世界統一政府を作ると言っても、妄想と全員思う。
当時も、戦国時代逆コースが他の大名の発想だろう。
家康のみ、歴史の遡りはないとの発想の下に行動した。 天下を窺うという発想だと家康だけだろうね。
あとは戦国時代の再来からのやり直しを考えた者。
でも「天下を窺わない」という圧倒的多数がいたんだ。
これが家康の天下をもたらした。 フッフッフッフッフッフッ
大事な人物を忘れているんじゃ?
もうひとりいるよ。
そしてすべてはその思惑通りになった。 天皇の思惑とは思えんなw
禁中並公家諸法度で縛られる結果になってしまったし。 応仁の乱頃までは皇室の思惑が絡んだ戦もあっただろうが関ヶ原ではなw
もし絡んでいたら東西どちらかが後陽成天皇を担いで、対抗陣営が大覚寺統
しかも南朝系の末裔か何かを担ぎ出してきて面白かったかも・・・とは思うが。 確かに関ヶ原は出来レースだな。
しかしながら、江戸時代は勝った側の大名家が残ったわけだから、
みんな関ヶ原自慢。危ないところを俺達の奮戦で勝ったということをいろいろと吹聴する。
取り残されて負けたような毛利や島津もいいところまで逝ったんだ、というようなことをいう。
かくして関ヶ原は東西分かれての大決戦、激戦へと脚色されていった。 土佐藩は江戸時代随分肩身の狭い思いをしたそうだ。
関ヶ原では何もしていない。ただ、小山評定での山内一豊の城供出提案が認められて一躍土佐へ
土佐藩は戦ってもいないのに大国をもらったように諸藩からは思われていたらしい。
だから幕末では必死になったw 「関ヶ原では何もしていない」「戦ってもいない」 → ×
山内隊も前線へ投入されて戦っているよ、地味ながらもねw
肩身が狭かったから幕末に必死になったという論拠は?
小説被れではないだろうねw だな。
ネタとしては日本史板でやっても良いくらいだ。
「もし関ヶ原で西軍が勝ってたら」なんかの日本史板にあった妄想スレよりマシw >>223
それさ、井沢元彦の逆説の日本史ネタだろう?
はっきりいって根拠も何もないトンデモ説だよw まあ土佐藩は限りなく譜代に近い外様になったんだろうな 東西決戦ではないな。
関ヶ原で戦った自衛隊も米軍も共に西側陣営の軍隊だ。 山内一豊とか池田輝政とかは吉川元春、毛利秀元を警戒していてほとんど戦っていないのでは? >>240
家康から聞いていなかったからだろう。
敵だと思って警戒したけどまったく動かなかった。
だからほとんど空振り。
家康も調略の成果をいちいち触れ回るはずもない。
敵を欺くにはまず味方から。 家康も調略がうまそうでいて結構不備も目立つな
島津も一旦は味方にしていたのに伏見城への連絡が不徹底で齟齬をきたして敵方に回られているし
勝ったからよかったものの やっぱり関ヶ原の戦いは東西決戦ではなかった
でおk? >>243
すべての歴史は後世の作り話
作り話がまったくない歴史は存在しないw おぬしら、関ヶ原の真相を誰一人わかっとらん
これは淀とおねねの争いじゃ! だらしない男共・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 東西が戦ったが、決着はつかなかったという事なんじゃ?
それに総大将が入れ替わったりしているしw 【驚天動地】もし関ヶ原の戦いで東西総大将が入れ替わってしまったら【一寸先は闇】 入れ替わったらって・・・・・・・・・
西軍の総大将は毛利輝元だけど、それでいいの? 東軍西軍って便宜的な呼び方だろ。
西日本と東日本の戦いと思っている奴の方がマヌケ。 東西入れ替わってもやることは同じだろう
家康は少しでも味方を増やそうとして謀略の限りをつくす。
小早川とか吉川は最初から味方。黒田とか池田あたりを調略しておく。
薩摩はどっちへ転んでもふらふらした揚句意固地になって最終的には傍観。
三成は豊臣の権威をかさに上からの命令で人を集めたのは良いが、そのあと浮いてしまう。
戦闘は目先しか見えていない福島正則と宇喜多秀家だけがマジガチでぶつかって必死で戦うが、あとはそうでもない。
最後は雪崩を打って豊臣武断派の寝返りが発生、相次いで家康につくことで決着する。 秀忠には徳川主力軍が従っていたからな。
関ヶ原の戦闘で万一負けても無傷の主力軍が残っている徳川は脅威だ。 >>277
それ「もし関ヶ原の戦いで西軍が買っていたら」という日本史板の妄想スレでいろいろ書かれていたけど
家康擁護派が多くて、結局関ヶ原の戦闘で負けても次がある、って論調が多かったな。 連投スマソだが、秀頼は結構権威あるんだぜ
秀吉の子で信長の姪の子だからな
関ヶ原にまで出張ってきたら福島とか黒田は降伏だがw 君側の奸を討つ
反逆者が常に使う言葉だ
本人さえ傷をつけなければそれ以外のすべてを討つことは可能
秀頼が出てこようが天皇が出てこようが家康はおかまいなし
勝てば官軍だよ パペポTVに匹敵する番組を作れない
時点で東軍は永久に負け軍。
もっとも自分は東軍だが。 実は家康の一番恐れていたのは
秀頼出陣であった。その為の手回しを
一番念入りにしていた。今常識! 一番暗躍したのは吉川広家だろう
秀頼はもとより西軍総大将毛利輝元の
出陣も阻止した
アホやがな
家康の真意も知らずにw そりゃそうだろう
昔は「家」でひとつだ
徳川家も家康だけで成り立っていたわけではない
殿様の能力も大事だが、「家」の総合力がものをいう >>293
くだらねー落書きをあちこちに書くなよヴぉけ! しかし、江戸末期の薩摩人の頭の中では「関が原」はどうなっていたのかな?
豊臣家のために藩をあげて参戦(実は一部の者だけ)。大奮戦し東軍に大打撃
を与えたが、味方の裏切りにより敗走(実は戦闘には参加していない)。
そのため、九州の南隅に押し込められる不当な扱いを受けてきた(領土は何も
削られていない)。
こんな感じか? >>295
どうかな?
あえて賛成とも反対とも言わないが、薩摩としては1600名しか関ヶ原に出兵していない。
が、威力的に撤退した後も徹底して追撃に遭い、堺から鹿児島にたどり着いたのはわずか80名前後。
95%が生還しなかったのだから「ボロボロ」だろう。ほぼ全滅といってよい。
恨みと言えば恨みもあっただろうがその後の泰平の到来と幕末までの時間の長さがある意味、冷静に反省できる事になったのではないだろうか?
関ヶ原は、いわば薩摩が初めて中央の争いに関わった一件。ある意味全国デビュー戦だった。
それで散々な結果だった。その原因は何だったのか?
一言でいえば、秀吉死後の政治的状況がまったく読めていなかった。まあ田舎大名の悲しいところ。
大坂では腹を割って相談できる仲間の大名もいない。だから情報交換もほぼ皆無で、情勢分析も不十分だった。
だから豊臣政権の文治派と武断派の対立も蚊帳の外。家康が上杉征伐に行く前後も特にどちらにも加担していない。
そんな時、何と後に勝ち組になる家康本人から依頼を受けた。家康留守中の伏見を守ってほしいと。
それで伏見に赴いたが齟齬があって鳥居元忠の城兵といさかいとなってしまい、西軍につくことに。
大垣城まで同行したが、今度は赤坂にいる家康本陣を奇襲すべきだとの島津義弘の献策を石田三成がにべもなく蹴ったため三成とも対立。
結局関ヶ原ではごねてしまい、戦闘には参加しなかった。気がついたら東軍が勝っていて進退に窮した。
薩摩が学んだとすれば、中央の政治的状況を正しく把握しないことには結局馬鹿を見てしまうということではなかったか。
幕末は当初は幕府と手を結んでいる。
しかし途中から長州に乗り換え、それで一応勝利者になった。
幕末の西郷にせよ大久保にせよ、薩摩の武士たちは関ヶ原の頃とは見違えるくらい中央の情勢をよく読んでいた。
あと、九州南部はもとから本拠地なので押し込められたという意識はなかっただろう。他所からそこへ転封になったというのなら別だが。
領土は戦国期はもっとあったが、秀吉の九州征伐で大半を削られ、拡張分がほぼなくなった。 関ヶ原って東西決戦だと思ってました。
違ったんですね。 九州では黒田義高(如水)が第三勢力として、
天下を狙ってたんだよね。1日で関ヶ原が終わったから失敗したが。 バカ息子長政が家康のパシリになってたんだからどうしようもないわなw
それに九州でも身動きは取れない。加藤清正も島津義久もいる。
毛利輝元も大坂城で止まっており、関ヶ原まで行っていない。
逆にいえば、黒田みたいな半端な存在も家康に有利になるように働いたんだよ。 今までのスレの流れとは違う意見だが、
関ヶ原というのは途中経過だろ。
東軍家康、西軍毛利輝元が総大将。
結局大垣という西軍前線が家康の陽動作戦で関ヶ原に誘い出され、壊滅。
大坂城の毛利輝元は戦わずして降伏だよ。
石田三成なんて、小物、小物。脇役。 もし、関ヶ原の戦いで西軍が勝ってたら、現代の日本はこうなる。
首都は大阪
標準語は関西弁
主食はたこ焼きとお好み焼き
電車と車の上下線が逆
阪神が強くなる(中日、オリックス、広島、ソフトバンクも強くなる)
333メートルの大阪タワーが建つ
六甲おろしが国歌となる
皇居が大阪城
多摩で日本万博
その他募集中。 >>294
俺はかつて、某落書き研究会の幹部で誹謗中傷にかなり力を入れてる人と交友があったけど摘発(法的手段以外の制裁も含めて)の話を聞いたら身の毛が逆立ったな
冗談抜きにマジで人生終わる、法的に大した傷は追わなくてもまず間違いなく業界流の制裁を加えられる
またはそれ相応の代償を支払わなければいけない
本当、割に合わないと思ったね
君も書き込むからにはそれ相応の覚悟をしてやれよ、昔から落書き研究会と金貸しは裏でどんな連中が仕切っているかわかってるだろ?
幹部たちはプロだから警察とのパイプも持ってる、様々な状況に対応できるように仕込まれてる、だからこそ幹部になれたとも思えるがね
妬みひがみやで書き込んだために、ズドンされた時に泣いただけじゃすまない事を憶えておいた方がいい
ちなみに俺は同業者とかじゃないからな
なんか脅しみたいになってすまん、つまり言いたい事は君が思ってる以上にハイリスクだってこと
>>317
関ヶ原で西軍が勝ってもまだ家康の負けは確定しない。おそらく勝てないと判断した時点で一旦兵を引くだろうから。
そして秀忠軍が率いる「徳川主力」の到着を待つことだろう。
石田三成は関ヶ原で負けたら終わりだった。家康にはまだ後があった。
三成にとっての「決戦」であって家康は違うだろう。
また家康が勝った関ヶ原でもまだ全体の勝利は確定していない。
大坂城の毛利を追い出して勝利が確定。
やっぱり関ヶ原は決戦ではなかったようだ。 長曽我部も元親の時は、家康についてたのに、
{秀吉にやられ」秀吉びいきになったとおもったら
今度は家康にやられ、結局、積年の恨みで、
大阪の役で残酷物語をしてしまった。
被害者だね。山内家が高知に入ったときは、
長曽我部は皆殺しされたし。また、そうしなければ
山之内の支配がなりたたなかったわけだけど。
池田輝政なんか長久手で親兄弟が悉く討ち死にしたが秀吉についていたおかげで
姫路を与えられたし、関ヶ原では毛利や吉川を警戒なんぞして結局何もできなかったが
家康についていたおかげでお家は安泰。 宇喜多秀家みたいに政治的にはまったく音痴でも
故豊太閤殿下のご恩に報いんと正々堂々と戦えば
負けても命だけは助けてもらえるぞ! 福島正則、藤堂高虎、黒田長政、池田輝政
みんなどこか後ろめたいところがあるから宇喜多秀家を助命嘆願したんだろ 信長がいない織田家に誰もつくわけがない
秀吉がいない豊臣家に誰もつくわけがない
家康がいない徳川家に誰もつくわけがない >>324-325
宇喜多秀家は八丈島に遠島になったが、後に福島正則も幕府に難癖をつけられ広島を取り上げられ、改易になった。
八丈島の酒樽と福島正則・宇喜多秀家のエピソードを知らんのか。
同じ立場になってしまったふたりの切ない交流譚。 関ヶ原効果を宣伝したのは家康だろ
天下分け目に脚色したんだな? 宇喜多秀家ってなんかイケメンのイメージね
織田秀信や京極高次とかイケメンのイメージ おぼっちゃまだからだろう
現代のおぼっちゃまは麻生太郎だが、イケメンか? 関ヶ原の戦いの経過は江戸時代に脚色された可能性が高い。
それによって消された真実とは? 大谷刑部は友情に殉じたことになっているけど
実は上杉征伐に参加しておけばよかったとオモたんじゃ? 小早川秀秋のもとに派遣されていた裏切り目付って誰なの? 奥平貞治ではなかったかと
これだと家康の配下だな
黒田は使い走りだろ
家康の主導のもとで動いたんじゃ テレビ朝日「TVタックル」でのビートたけしの発言(11月3日)
「みんな、国民はいらついてるよ〜ほんとにねえ・・選挙やったほうがいいと思うんだけどな〜」
国民の良心ビートたけしも早期解散しない麻生にあきれている!!!!!
今、いらいらしない奴って空気よめてね〜〜〜
さぁみんなーーー国民の良心ビートたけしに続けーーーーーーーーーーーーーーーー
草の根から早期解散を求める怒りの声をもっとあげるんだ〜!!ウォーーーーーーーーー!!!!!!
関ヶ原の戦いはどちみち豊臣恩顧どうしの内輪もめ
家康や黒田如水はその機会に次の天下を狙った
あと勢力からすれば毛利か
しかし、息子の長政をダブル・エージェントにしたつもりが家康にまんまと利用されてしまった如水。
スパイごっこばかりして戦わなかった毛利、吉川。
だめだこりゃ、かな?
天下を取りたきゃ戦場まで出て来い! 命の一つも張りやがれ! 実は家康は討ち死にしていたw
という巷間説もあるくらいで逆にいえば家康が死んだくらいで徳川の勢力が崩壊するなどあり得ない。
徳川というのは勢力の拡大に伴い、いろいろな配下を実によく組み込んできている。
中核の三河衆から始まり、井伊家などの遠江勢、旧今川勢、旧武田勢、そして旧北条勢。
徳川勢というのは、これだけの集団が揃った質量ともにダントツの家臣団だろう。
戦国中期でいえば戦国大名4家分に匹敵する勢力だ。
信長のようにやたら相手勢力を滅ぼして来なかったし、秀吉のようにやたら妥協して温存してきたわけでもない。
(徳川家温存がそもそも最大の失敗)
徳川は信長以前の勢力が滅ぼしたところの家臣団をちゃっかり取り込み、秀吉の妥協にうまく乗って勢力を拡大した。
関東移封さえ石高アップだ。
かつ朝鮮出兵のようなリスクの高い拡大策にはほとんど乗らず、それによるダメージはほぼなかった。
かつ関ヶ原までにそれらの家臣団を実にうまく統制してきている。
最大の特色は三河衆とそれ以外をあからさまに差別しなかったことだろう。
また伊賀の忍びの集団や僧侶、学者、外国人(Wアダムス等)も組み込まれ、軍事だけでなく諜報、知識、政治全般にまで内容も充実している。
逆に離反者と言えば大賀弥四郎、石川数正くらいのもの。石川は徳川大老だったが、逆にいえば大老ひとりくらいが抜けてもビクともしないくらい総合力が充実している。
ちょっとやそっとの対抗勢力では歯が立たない。徳川「家」の前には屈するしかない。
江戸幕府が外様の参与を許さず、徳川家+譜代による「独裁」体制を作れたのもそこに要因がある。
江戸幕府というのは「徳川家」だけでやっていけるくらいの、それまでの武家政権(鎌倉幕府、室町幕府、織田政権、豊臣政権)とは全然違うものだった。
世界的にも近代に入るまでの政権としては「絶対王制」が最終的帰結だった。
日本の歴史も同様の帰結となったにすぎない。もし日本人がそれ以外の選択をしたなら、不幸な結末を迎えただろうな。
毎年12月になったら忠臣蔵をやるんだから
秋になったら関ヶ原ドラマを毎年やって欲しい そんなドラマは俳優の顔ぶれが変わるだけで
中身は毎年一緒だよ >>1
そんなこと言ったら、信長が上洛時に六角氏を滅亡させたというのも嘘だろう。
六角氏は確実に朝倉氏滅亡時までは勢力を有している。 もう既に関ヶ原の戦いは東西決戦でなかったことは証明されているよ >>367
ぜんぜん関連ないやん
そっちは単なる妄想スレだろw
一緒にスンナ なぜ大阪にいた毛利輝元が石田三成に合流しなかったんだよ。
東軍は中山道を進んだが足止めされて間に合わなかった徳川秀忠隊をのぞいても西軍と互角。
輝元がいればより有利に戦えたはずなのに。 そもそも三成があまりに過大評価されてる。
「家康の東軍に対してまがりなりにも天下を二分した西軍なる兵力を作りあげた三成はたいしたもの」
とかいう認識が間違い。
東軍は家康がまとめあげたある程度、統制の取れた兵力なのに対して
西軍は単に状況がよく理解できずまごまごしていた連中ってのが正解。
まともに戦ってくれたのは石田のほかに大谷、宇喜多、小西だけってのはあまりに寂しすぎ。
三成の器量はそんなもん、 白川亨のおかげで三成派が増えたよな
白川の著作が中立的なものかどうかはわからないが B級戦犯は宇喜多・小西・上杉・大谷・佐竹あたり?
三成はもちろんA級戦犯な スレタイとは全然違う話題だな。
家康の手に東西すべての勢力が乗せられたんだから戦犯も何もない。
みんな江戸幕府の成立に手を貸した。
それだけの話だ。 毛利はほんとに哀れだな
戦いもしないで、尻尾ふったのに、たったの二ヵ国にされて
吉川はただのアホ >>380
その二ヶ国は吉川に与えられるはずだった。
しかし流石に辞退。というより毛利改易を必死になって阻止したのは広家。
自分は一切の領地は要らぬとまで言った。
しかし言わなきゃどうにもならなかっただろうな。
主家を滅ぼしておいて、どの面下げて地元に帰れるのか。
結局周防長門は毛利。吉川は岩国で決着。
これがなかったら幕末の長州はない訳で、吉川は結果的に歴史を動かしたことにはなる。 幕末に挽回したのは凄いけど
でもやっぱり関ヶ原での毛利の行動は情けないしアホだと思う 吉川がいなければ西が勝ってたかもしれないw
始めから東についたとしても、大人しい前田にさえ安心出来ず
イチャモンつけるような家康が毛利を巨大なまま残すはずがない 関ヶ原のときの吉川と毛利は本当に情けない
元就や元春かあの世で泣いてるぞ 西軍が大勝利して豊臣政権が続けば上杉家は功労者だな。
石田三成の進言により関東管領の旧領として武蔵・上野・越後くらいは確実だったな。
徳川家は将来的に改易だろうがとりあえず東北の下北あたりに転封だな。 >>387
新潟は無いんじゃないか?
武蔵・上野・相模周辺で200万石ほどか 徳川にいいように扱われて天下を取られなんて
前田も上杉も毛利も
情けない奴らだな
家康なんか
この三家がしっかりしてれば
タヌキ汁にできたのにな
まー前田みたく
最初から腰抜けもいるけど
そもそもトシイエは
ヒデヨリ守って
家康と戦えって言ってたのに
秀忠だったら
天下に野心なぞいだかなかったろうに その中だと正々堂々と戦ったら上杉は立派だな。
前田と毛利は卑劣で卑怯者
秀家や景勝に土下座しろ 武家には武家の秩序があるので
毛利がいくら頑張っても天下は取れないだろう
大江なんだから貴族だし
元就はその辺り、分かってたと思う。 しかし家康でもまさか薩摩と長州がこの時の恨みを260年間忘れなかったのは知るよしもなかった‥ 上杉は15万石まで減らされたところであぼーん
薩摩は宝暦治水でも耐え抜いた
毛利は改易のところを吉川に救われた >>375-377及び>>380-382
背後から敵を襲うんは武士道に反する。徳川は毛利が背後におったけぇ
安心したろう。
>>386
徳川を背後から襲うぐらいなら、秀吉の中国地方撤退のおりも背後から
襲うとるよ。なんで元就さんや元春さんが泣くんなら。
吉川広家さんは、慶長の役の蔚山の救援で独断行動と戦闘も知らん
石田光成に咎められたんじゃ。秀吉に告げ口したんを、家康がとりなし
たけぇ、個人として家康に義理が出来た。ほいで、加藤清正は
吉川広家さんの武勲に感心して馬印を呉れたんで。そがぁな立場に
おった広家さんが西軍につくはずも無い。毛利本軍も背後から
敵を襲うて勝ったとしたら、それこそ卑怯者で中国者の律儀に欠ける
けぇ出来んよ。秀吉の顔色で動いた宇喜多に何が悲しゅうて土下座
せにゃあいけんのか。
>>392
元就さんは広島県人じゃけぇ、山口県人の大内氏が応仁の乱から、
中央の政に口を出したり、幕末の長州藩が中央を向いて倒幕となった
ような権力欲は広島人にゃあ乏しいよ。広島人は中国地方のことしか
興味無い。
人と人が殺し合ってんのに何甘っちょろい事言ってんだか
勝った方が正義を語れる世界だろ
そんな甘ったれたこと考えてるから取り潰されそうになったんじゃないの?
中国大返しの時も追わなかったんじゃなくて追えなかった。
関ケ原の時も参戦しなかったんじゃなくて参戦できなかった。
いくらもっともらしい事を言っても「苦しい言い訳」にしか聞こえない|(-_-)| ま、中国人は自分たちの軍勢が多ければ威勢がいいが、少しでも劣勢になるとカッコつけながら逃げるしな。
裏切り広家
裏切り小早川
毛利の武士道とは裏切る事 なかぬなら ないても待とう ほととぎす
家康は鳴くまで待ったなんて、甘い甘いw
毛利はそれから更に260年以上待った・・・・・・・・ 毛利は
忘れてた その頃鳴いた ホトトギス だろ
藩主がぼーっとしてたらいつの間にか
吉田松陰やら木戸孝允やらが倒幕に乗り出してた >>393
家康は完全に読み切った上でsystem構築しとるんだが… 徳川幕府はどっちみち最終的には瓦解する構造つくってたらしいね。 追記>>403は年貢について
>>404
…?
深読みしてないか? >>403
天皇崇拝の水戸家をあえて徳川内部に創っておくことで、
「次の政権」が錦の御旗担いだ時にも徳川が残るようにしていた。
血のスペアである御三家の中では格下の水戸から平時に将軍が出る事は無いが、
情勢が不穏になってくれば思想のスペアである水戸が機能する。
平時に西の勢力や朝廷(アマテラス)と徒に接近しないように、
天皇崇拝の家は江戸とアズマテラス(東照)の宮の中間に設置された。
豈図らんや、見事に幕末に機能しましたな。
列強が侵蝕してくる中、大規模な内戦をしないで済んだ奇蹟の
影のシナリオライターは間違いなく家康とその周辺。
日本人としては感謝。 井沢と関係なく政権建てたくらいなら普通のデモンストレーションと危機管理だろ。
関ケ原で各家が東西に分かれる危機管理をしたのを目の当たりにしてるんだから。 やっぱり井沢だったかw
「血のスペア」など表現も逆説まんまだからバレバレw
大体水戸が将軍後継者から外されているなんてのも根拠がない
もう井沢は今では見向きもされないよ 読んでるかどうかと、使える表現使うのと何の関係も無いが。
なんかある種の踏み絵やってるのか? 会戦の時点で既に勝敗が決しているのが大規模会戦の常である
関ヶ原の戦いは、徳川・豊臣・島津のやらせ
http://s1.shard.jp/deer/0203/39/266_1.html
徳川と豊臣が結託していたのは明らかだが、島津までグルだったとは、
恐れ入った。 もうすっかり天下分け目ねつ造説は定着したみたいだな 石田の決起は家康の事前の計画に基づく(直江も同じ)
だが別途に野心を起こし、乱の規模を著しく拡大し家康を危うくした。
大野は石田に近いラインにいたが、こちらは家康に直属し、
豊家旗本衆を率いて東軍特殊部隊に編入された。
この部隊の大将は宇喜多の家老の坂崎であり、副将は黒田の家老の後藤であり
黒田の旗を立て、見た目には黒田軍左翼勢のようであった。
柳生や甲賀伊賀の者等もこの部隊に編入されていた。
背中に家康が競り上がってきたことを坂崎は感得し、
直ぐ対面に堅い防御陣を作っていた島津に笑い掛け、
小西に横槍入れて、宇喜多の側面を大崩して、戦局の大変化を自在する。
島津は陣形替えに手間取るが、素通しの家康本陣への特攻体制を作り
ヤバイと見た稲葉が独断で松尾山を下り降り
稲葉が家老を勤める小早川諸勢もこれに追従して
彼らは大勢にて、大谷を踏潰し、藤堂を東北へ押し上げ
家康本陣を北国街道からどかせる働きとなったので島津の矛先がはずれ
家康は命拾いした。これが関が原の戦場の真相である。 兵力に疑問
幕末は鳥羽・伏見の戦いで
旧幕府軍1万5千
薩摩3千
長州2千
日本の人口が幕末の2/3の関ヶ原の戦い時点で
東軍7万5千
西軍8万2千
・・・粉飾してると思う !!注意換気!!
※常識的に事実でなければこの様な内容は書けません!
極悪人、押川定和の被害にご注意下さい。
我々は水戸のサポーターや関係者で押川定和の悪事の被害者を中心に集った団体だ。8割ぐらいはメインスタンドで観戦している。
押川定和は
『ゴール裏で戦う会』
のリーダーで元鹿島サポーター。
SNSで数千もの架空アカウントを作り水戸の関係者の情報を盗み出し個人のSNSを炎上させるなど攻撃を仕掛ける。
SNSで限界になると人を利用して情報を盗み出す。その人がその後どうなろうがお構い無しの使い捨て。押川に誰が騙されて巻き込まれるか分かりません。
皆さん注意して下さい。
Twitter、Facebook、mixi、超水戸、ニコニコ動画など可能な範囲で全てで悪行を行っている。
『悪行の事実を突き付けると全てを自演や同一扱いで煙に巻こうとする。』
悪行が事実の為、表舞台には出れないが2ちゃんねるで反応はする。
水戸の関係者になりすまして未だに水戸スレに書き込み続けている。
現在は悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
押川定和の悪事は犯罪の領域に達している。
押川は現在、悪事が公に広まり鹿島には行けなくなる。しかしながな水戸への悪行は続行中。
勤め先・株式会社WEIC(ウェイク)104-0053
東京都中央区3-1
http://www.ntt.com/bizhosting-basic/data/case2_1.html 慶応の学生です。
大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
今回の三宅洋平の得票に戻るが0時00分現在で東京都合計で18万8千票である。
区部合計では、13万票 そのうち千代田区では、たったの1千票。
港区では5千500票 新宿区では6千500票、文京区では4千票 台東区では3,500票 墨田区では4千票 品川区では7,569票 目黒区では10,000票
大田区では12,000票 世田谷区では20,000票 渋谷区では8,000票 中野区では8千票 杉並区では1万7千票、北区では4,500票 板橋区では1500票
練馬区では1万2千票 葛飾区では500票、江戸川区では5,000票 八王子市では6,000票、立川市では2500票 武蔵野市では3,500票 三鷹市では4,500票 と続く。
豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。 >>398
吉川小早川といえば毛利一門の両川といわれたのにその名声が地に落ちた >432
ていうか、薩摩は、関ヶ原の翌年を「戊辰戦争」と位置付けしてたよ。
だから島津義弘に1300人だけの兵を持たせ出兵させたの。
その証拠が毛利歴史記念館に関ヶ原の翌年から毎年薩摩から使者が
毛利家に来てる書状があったと思う。毛利と島津で作戦が完成してたのね。
なので関ヶ原で毛利は動いてないの。わかった!?テストに出るよ。
その数、260回ほど毛利へ「戊辰はまだか!?」と尋ねに行ってる。
だから少し前の島津貴久は織田信長へ鉄砲を量産し届けて戦死者数を増やし
恩を売る作戦だったの。
だから翌年、戊辰の計画なんで島津義弘は真面目に戦う必要ないのね。
勝馬に乗るだけでいいので「徳川に味方する」と言ったの。
毛利と島津は平安時代末期から同盟関係だよ。それに武田と伊達もね。
島津の、お兄ちゃん(惟宗忠康=武官様=天皇直属)から領地を頂いてるからね。 >>9
その後日本まるごと西洋に敗北
よって西軍
それ以降日本は白人の経済植民地となり飼い犬となりました 東って言うか、愛知県な
その頃、関東は沼やから
武田は東だと思うが、負けた この音楽、宇宙っぽくて良くないですか?
//youtu.be/f0og1UrDFy0