関ヶ原の戦いは東西決戦ではなかった
天下分け目、東西決戦なんてうそだろ
後から捏造だよ! >>94
・上杉真田佐竹が東軍に
・黒田細川鍋島加藤が西軍に
・寝返りイベントがなくなる
・後顧の憂いが両軍ともにない総力戦
かなり楽しいな 当時の状況では北陸で大谷軍が前田軍と遭遇して戦ったりしているから
要は石田三成一派の「反乱」という認識だろう。
三成は当時公職を退いているし、前田は特に東軍というわけではない。
三成は「内府違ひの条」を出して正当性を主張し、また大坂を巻き込んで
諸大名を参戦させているが、大半はシラケムード。
結局石田三成、大谷刑部、宇喜多秀家辺りの反乱に、権力に引きずられて
ついてきたどうでも良いのが周りにいたが、上杉討伐から引き返してきた
徳川家康を始めとする諸大名軍が制圧に当たり、どうでも良い多くもそれ
に呼応し、反乱は平定された。
問題は、この出来事を、自分が天下を取るために利用しようと家康自身が
考えたという事。
そして後世の人が理解するようなこんにちの関ヶ原ストーリーが脚色された。
三成が兵を挙げなかったら家康は天下を取れたのだろうか? まあ、取ったんじゃないかな?
ただ、家康方への不満分子も温存されただろうからすんなりとは言ったかどうか・・・ >>105
特に豊臣秀頼の処分は難航しただろうな。
あれだけ「鮮やかに」関ヶ原東西決戦の構図を政治的に作り上げて
かつ勝利したのに、それから15年経ってやっとその問題が決着した。
そうした政治勝利を演出できなければ豊臣氏と大坂城残存のまま家康
の生涯が終わったかもしれない。
とすると江戸幕府が安定政権になったかどうかも。 小早川は何を裏切ったのか? という理解が必要だと思う。
石田三成を裏切ったという認識はおそらくなかっただろう。
どちらかといえば、本家の毛利輝元が形だけでも石田三成に担がれていたからそれに対する裏切り(行為による引け目)はあったかも知れない。
これは、吉川広家にも言える。そして広家は行動が残っているので分かりやすい。
関ヶ原の戦いの論功行賞で毛利本家は改易されるところだった。そして吉川広家は早くから家康に通じていたことにより周防・長門37万石を与えられる事に。
しかし広家は家康に懇願した。
自分はいいから毛利本家を存続させて欲しい。自分に与えるという領地はそのまま毛利家に賜りたく、と。
そうまで言われては、家康も広家の意向を無視できない。裏で懇願したのではなく、他の者も見ている前で言われたからだ。
それで毛利家は大幅領地削減とは言え、2カ国領有で存続を認められた。
これがなかったら、幕末の長州もない。
最も吉川広家にとっては言わざるを得ない事情もあった。主家を滅ぼしてどのツラ下げて地元に帰れるのか? という面も。
吉川家は結局、別に岩国を与えられた。
これらのことも、「東西決戦」のイメージが与えた誤解が入るとおかしくなる。
小早川も吉川も西軍を裏切った事にされてしまうからだ。 小早川の下には家康からお目付け役(奥平貞治)が来ていたから裏切りは決まっていたこと。
ただ時既に遅しになってしまっては問題なので家康が急き立てた。 毛利だけでなく、薩摩の島津の場合も東西決戦という観点がなかった。
最初家康に留守を頼まれ、伏見城の警備を頼まれている。非公式であった
為と家康が会津へ赴く直前で決まった為連絡の不備があって伏見で齟齬が
生じた。島津は伏見城入りが城方に拒否されて憤慨してしまい、宇喜多と
共に伏見城を攻めることに。
東西決戦だと、これは東軍から西軍へ寝返ったことになるのだが、島津に
はそのような意識はなかっただろう。島津はその後、大垣城まで三成方と
行動を共にするが、赤坂に家康が着陣した際、家康を奇襲しようと主張す
る島津を三成が窘めたりして対立してしまう。
関ヶ原では島津はどちらにも与さず、三成方総崩れになった頃合を見て徳
川目がけて突進。そして撤退した。
田舎者には、日本の行く末をかけた戦いだったという事が分からなかっただけだろw 宇喜多秀家にしたって秀吉への恩義で懸命に戦っただけ。
日本の行く末なんてあまり関係ない。
でも秀家の戦いぶりは、敵の諸将すら感動させた。 >日本の行く末なんてあまり関係ない。
同意
当時に今現在と同じような日本という国家観があったとは思えない。 >>122
こんにちの日本という概念はなかった。主権・領土・国民という国家。
当時なら「天下」だろう。
田舎者には、天下の行く末をかけた戦いだったという事が分からなかっただけだろw
なら、正解。 天下は、すでにまとまり・・・あとは跡目争いだったんだろうからなあ。 秀吉の惣無事令の後は、正面切って決戦なんてやってはいけない。
だから家康側も三成側も共に相手が反乱を起こしたと解釈して、その鎮圧に当たるという名目で兵を動かした。 昔から東西決戦は東、
南北の戦いは北が勝つと相場が決まっている。 >>134
いわば豊臣家家臣同士が豊臣家を守るという解釈。 >>139
ひとりだけ違った。
それは他ならぬ家康。
家康だけがこの状況を利用して豊臣でない天下を考えた。
だから東西に関係なく、豊臣にこだわる、というより豊臣しか考えられないすべての人の思惑を利用できた。 IFを言ってもしかたがないけど、家康が関ヶ原前に死去、もしくは病の床に伏せっていたら
どうなっただろう。
再び乱世かな? そうはならんだろう。というよりやや矛盾か?
家康は関ヶ原当時は59歳くらいだが、健康面では何の問題もない。
問題なかったから250万石くらいの大大名になれたし、そうでなかったらそれ以前にアウトだろう。
秀吉の死後、次の安定期まで時間がかかるだろうからその間は乱世と言えば乱世だろうが
実際は天下はそれなりに収束へ向かっていたと思われ。
またふたたびの乱世を願う者など、とうのたった戦国時代の生き残りばかりだったからな。 東西の決戦かどうかもだが、西は疲弊しているよ。
朝鮮出兵とか。
徳川家康とか、伊達政宗とか、上杉景勝とか、まあ東の方が総じて有望だろうね。
関ヶ原の戦いに関する周辺動向も含めて、ほとんど東日本の出来事。
西日本は文禄・慶長の役の痛手が大きかったんだろうな。 >>142
如水など食っても仕方がない。
かつて秀吉が北陸で上杉謙信など相手にせず放っておけば良いと言ったのと同じ。
それで、倅の黒田長政はしっかり家康の手駒にされていて、かつそれによる大幅加増を大喜びで親父の如水に報告する始末。
如水は激怒したらしいがなw 長政が右手を家康の両手で押し抱かれて感謝されたのを誇らしげに如水に報告した際、
「その間、お主の左手は何をして居ったのだ!!」
と叱り飛ばされたという奴だろ?
作り話っぽいがなw
刺し殺したって長政を失うだけだよ、黒田家が いや、家康さえ死ねばいいんだろう
息子はどうなってもw いや、53万石が手に入れば天下なんてウザイものは要らなかったんだろう
団塊戦国世代オヤジがいくら怒鳴ろうがw
それより長政自身が殺されるのは真っ平だったんじゃ? 関ヶ原の戦いは・・・・・・・・ではなく関ヶ原を巡る戦いは、実は親子対決だったw >>149他
織田信長は不覚を取って家臣の明智光秀に殺されたが、秀吉とか家康はそうしたケース・スタディがあったせいか、そのようなスキを迂闊には作らない。
ただし、敢えてスキを見せて配下の出方をうかがうという事はよくやっているようだ。
小田原征伐の際も秀吉は家康の陣のすぐ近くまで、ごく少数の近習と一緒にうろうろしたりしたらしい。
井伊直政などは家康に襲撃をかけるように進言したりしているが、家康は却下。
当然、準備万端ウラで整えた上で、スキだらけを装っていると考えるべきだ。
家康だって脇差をさしたままの長政が間近にいる状態で守りの体制を整えていない訳がない。
長政の左手が脇差の鯉口を切ろうとした時点でアウトだよ。 家康は父親も祖父も暗殺されてるからねえ。
基本中の基本だろう。 oraha yiuiewefwijewhbejkskvdilrfojiofvdoffgjhdiljglrfhriiiiiiiiiiiii 落しましたが特に変化はありません
元々廃墟ですたw 関ヶ原の戦いは決戦でも何でもなく、家康天下簒奪の茶番劇だと理解しよう 毛利と島津が怨みと反感をしまい込んだきっかけの戦いだなw >>168
怨みと反感ってか?はあ〜?
毛利も島津も静観してただけじゃん
それで逆ギレされたんじゃ徳川家が被害者じゃんよw 実際の関ヶ原前後の情勢と対応だと毛利も島津もバカそのもの。
でもそれで負けた側は自分達は不当に負けた、理不尽だったと
後世に伝える。
何世代か経つとそれが既成事実になり徳川に対する反感になる。 負けたも何も薩長は関ヶ原で何もしてないじゃん
被害妄想も大概にしろってんのwww >>175
>関ヶ原前後の情勢と対応
と書いてあるのが読めんのか??
関ヶ原で負けたなんて誰が書いたんだ?
そしてそれが何で「被害妄想」なんだ??
トチ狂ったことを書くのも大概にしろよw まあまあ、揚げ足取って攻撃するスレじゃないだろよ。 イジメられっ子がそ知らぬ顔でイジメ側のふりするなw 毛利は滅亡一歩手前で吉川に救われた。周防・長門37万石は吉川に渡る筈だった。
島津は1600名のうち、鹿児島鶴丸城まで生還したのは80名。95%が死ぬという惨敗。
最初から1600じゃどうしようもないわな。
だいたい家康に味方したと思ったら伏見城で徳川勢と喧嘩してしまい、
西軍についたら大垣城で三成と喧嘩するし島津・・・・いや始末。
関ヶ原では結局観戦。で気がついたら孤立していて逃げようとしたら
徳川本陣に間違ってw突っ込む有様。
慌てて反転したら井伊直政の猛追を受けて、9割以上が壊滅。
薩摩なんて西も東も分からぬ方向音痴の田舎者。
関ヶ原当時は彼でしょうにw
いずれにしろ、息子は家康の甘言にコロッとなるわ
親父は親父で伏見城での些細な事でコロッと西軍方になるわ
芋侍に相応しいよねw また「でしょうに」か。
このバカ、あちこちに出没しているなww >>189
お前こそ、あちこちでお馬鹿な突っ込みしてるでしょうにwww >>191
語るに落ちたかw
つまり、本当にあちこちで「でしょうにw」って書いているのはおまえってわけだなw >>188にマジレスすると、義弘が当主になったというのは現在では否定的な見解が主流になりつつある。
秀吉がそのようにした(義久との対立を煽って島津の分裂を図った)とも、幕末になって薩摩が改変したとも言われ、家督相続は史実としては否定的な見解が優勢だ。
ただし、義弘が当主かどうかは別にしても、関ヶ原前後は各大名家とも世代交代の時期が重なり、かつ新しい世代はそれまでの世代と異なる考えが出てきている。
島津義弘と忠恒だけでなく、ガイシュツだが黒田如水と長政、毛利は元就や隆元・元春・隆景は死んでいるが、その後の輝元、吉川広家、小早川秀秋の世代だ。
共通して言えるのは、戦国世代から、徳川を頂点とする平和妥協の世代という流れ。
もっとマイナーだが、例えば大河ドラマ(武蔵)で描かれていた柳生石舟斎と柳生宗矩の意識の違い(自領は自分で守るVS徳川に合わせていくことで安泰を図る)もそういった流れを象徴的に描いていた。
家康の勝利を決定付けたのは、個々の家の対応(東西いずれにつくか)だけでなく、世代的にも徳川協調派が東西関係なく増えてきていたという流れも重要だ。 うーん、どうなんだろ?
一概に東西対決の構図で短絡的に語れないのも世代の意識の違いも認めるけど、
意外と黒田如水あたりも保守的なんじゃないかな?
てか年寄りほど保守的なんじゃ?
もし黒田一族が本気で天下を狙うなら、長政を地元に置き、如水自身が家康と刺違
えるんじゃないかな? やっぱり我が身が可愛いのは同じで、だからと言って長政に
本気で家康と刺違えろと思っていたんじゃないのでは。
万が一、家康が死ぬようなことがあったら、とか、戦が長引くようだったら、という事態
に備えて、あわよくば天下を窺うという考えはあったかもしれない。
そうなるとこれは極めて慎重な判断が必要なので、地元には元秀吉の軍師までやった
如水が留まるべきだろうね。
「そちの左手は何をして居ったのだ!?」は、あわよくばが(やっぱり)ダメだったと
いう悔しさと、年老いて結局天下は取れずじまいだったやるせなさがそんな形で現れた
という理解をしているけど(実話かどうかも不明)。
島津も。1600しか出していないというけど、地元の方が物騒だよ。
黒田如水が動く可能性もあるし、加藤清正が近くにいるしね。小西行長は関ヶ原に
出張っているけど、だからこそ清正の兵は動く。動いたら警戒しないといけない。
最低でも地元は守らないと。島津義久が大半の兵と地元に留まったのはそういう事を
一番に考えたんだと思う。
西の方が、朝鮮出兵で経済的に疲弊しているから、消極的だけど地元を最低でも
守るという考えが主流だろうね。天下分け目への参戦はある意味、博打だよ。