源義経=チンギス・ハン説を議論しよう
高木アキミツの成吉思汗の秘密を読んだのだが、義経がチンギスになった可能性はあったのだろうか?
俺は衣川で死なずに逃げ延びたぐらいはあったと思うのだが。 最近読んだ本に
「義経は小男、チンギス・ハーンは大男だから義経=チンギス・ハーン説はありえない。むしろ弁慶=チンギス・ハーンだ」
と書いてあった 一の谷、屋島、壇ノ浦で活躍した約200騎の義経の家来はどこに消えたのだろう。
馬の世話をする者を合わせると500人から600人の武者は義経をしたって
平泉まで向かった可能性がある。平泉にあった軍資金はどこに消えたのか。
吉野山で鎌倉の追っ手200騎に包囲された「義経かくれや」では、佐藤兄が身代わりになって
脱出している。
吉野山から平泉まで、うっそうとした日本列島を縦断して鎌倉の包囲網をかく乱して
脱出した一騎当千の武者たちが東北の田舎サムライに簡単に殺されるだろうか。 力道山は関脇まで相撲界で活躍してからアメリカに渡っている。イチロウも20代を日本球界で活躍してから
アメリカに渡って世界新記録を出して今も活躍している。
義経は15歳から20歳までの間、どこで何をしていたのだろう。藤原氏の勢力範囲は岩手から北海道にかけて
あったはずであるから、無駄に過ごしていなかったと思う。アイヌのホンカイ様伝説はこの時期のものでは
ないだろうか。もし、この時期のものであるならアイヌの中に義経をしたって家来になったアイヌ武者も
たくさんいただろう。 義経郎党は20歳代に日本全国北海道、東北、関東、中部、信越、近畿、中国、四国、山陰、九州
を駆け巡っていた。寝泊り、食料、馬のえさ、案内人はどうしていたのだろうか。
これだけ行動範囲の広かった武将は義経郎党だけである。
藤原秀衛は佐藤兄弟に相当の金塊を持たせたのではないか。一の谷の逆落としでは、馬のあつかいに優れた武将を
数百人必要とした。これらの武将の心をひきつけるには人格とオーラと資金が必要であったと思われる。
これらの武将が大物の浦で忽然と消えるとは、とてもおもえない。
ばらばらに分かれて平泉に向かったのではないだろうか、
家のあとを継ぐ者は地元に戻っただろうが、義経のオーラに魅了された剣に自身のある次男坊、三男坊は義経に夢をかけて平泉まで
追いかけただろう。
義経一党と泰衡の家来を合わせると3000騎4000騎になるから、少数で
大群を討つ義経戦法からすると十分鎌倉に勝つことが出来ただろう。
なぜ、戦わなかったのか。兄と弟だったからだとおもう。日本の歴史上、弟が兄を殺して天下を取ったことがない。
残るはひとつ消えることである。 鞍馬寺の本山は比叡山延暦寺である。延暦寺は天台宗であるから、当時も日本全国に天台宗の
お寺があったはずである。
鎌倉の追手からどのように逃れて吉野山から平泉まで約1000キロの山道を到達できたか?
稀代の英雄を20代の若さで失うのは惜しいと思い鞍馬寺の僧侶が延暦寺の僧侶に相談して
寺から寺えと駅伝のように逃がしたのではないか。寝泊まり、食料、道案内はすべて解決する。
寺であるから秘密も守られるし、鎌倉も手出しはできない。しかし、完ぺきではない。平泉に
到着すると、鎌倉もうすうすきずく、秀衛が存命のうちは手出しはしないが、亡くなるとそうはいかない。
鎌倉と一戦交えても所詮朝敵である。平将門の乱と同じで日本全国を敵にすることになる。
藤原氏の生き残る道はない。一か八かの考えで、義経の首を差し出し藤原氏は鎌倉に従うとの意思表示をして生き残りをねらった。
平家を滅ぼした鎌倉は、義経の首ではなく何かの理由をつけて藤原氏を滅ぼすことが定のうちであった。
どの道、義経と藤原氏は滅ぼされる運命にあった。こんなことは藤原秀衛は百も承知していたとおもう。だから子供のころから義経を
可愛がって平泉まで連れてきたのである。鎌倉も義経が生きていることは知っていたはずである。源平の戦いほどの戦はしなかったし、
泰衡の首はとったが、義経の怒りを買うほどのことはしなかった。 義経を慕って平泉の地へたどり着いた武将達は数百騎いたのではないかと思われる。これらの武将達の生活費は相当な金額であり、いつまでもやっかいになってばかりいられない、いずれはこの地を去らなければならない。
鎌倉と戦うにしても、自分達の身内と戦う事になるのでそんな事はしたくない。戦う事で自分を主張したい武将達にとって農業・漁業で生計を立てることは出来ない。戦いを探して他の地に行くしかない。
これまでに身につけてきた力を試してみたい、そこにその力を試す大きな大陸がある、軍資金の金は黒竜江の地にしこたまある。死の床で秀衛から渡された錦の袋の中にあった地図を頼りに少しずつ北海道に渡ったのではないだろうか。
北海道に渡った武将達は二手に分かれた。一方は弁慶を頭とした先遣隊であり、先に大陸に渡り足場を作っておく。北海道の西に小さな岬があり弁慶岬といい京都に武具を注文した弁慶がその地に立って船を待っていたと伝えられている。
一方は義経を隊長とした本隊で樺太に渡り、北上して尼港事件のあった地であるニコライスクに行き、砂金の宝庫である黒竜江の下流域で軍資金を確保して先遣隊である弁慶隊に合流する。
ニコライスクで伝えられている伝説として「この地にたどり着いた日本の武将がこの地を去った後、漢国の王様になった」というものがある。これは間宮林蔵がこの地の酋長から聞いた口碑伝説を北海道テレビが二十数年前ドキュメントとして放送していた。
大陸に渡ったが金に困って満州あたりで山賊として生き、山賊として死んだという説を聞いたことがある 十数年前、満州族の血を継ぐひとに「成吉思汗」の漢字を提示したら、チェンジースーハンとの答えが返ってきた。
高木あきみつ氏の「成吉思汗の秘密」の中に書いてあった「克羅」の漢字を提示したら、クローという答えが返ってきてその意味は「満州では成吉思汗のことをクローと呼んでいる」と、また「源義経」の
漢字を提示したら、「ウエイーチー」と答え、その意味は「満州の昔の歴史と地理の本の名称」だと言っていた。
そのひとは、お婆ちゃんが満州族の出身だといっていた。今はシナに同化され純粋な満州族は残っていないとも言っていた。日本で資金をためカナダへ移住して家族を呼ぶのが夢だと言っていた。
成吉思汗はウラル山脈を越え、ドイツの辺りまで攻め込んでいったようである。ドイツ人の成吉思汗に対する恐怖心は大変なものだっただろう。ドイツ人の事であるからただ恐怖心だけで何もしなかったとは思えない。
シーボルトが鎖国の日本にオランダ人に成りすまして訪れたのは、ドイツ皇帝の命を受けて成吉思汗の研究にきたのではないか。有名なシーボルト事件は日本の地図を海外に持ち出そうとした。
「恐怖のアンゴルモアの大王」が源義経である事を知っていて、それを調査してドイツ皇帝に報告してまた日本に戻ったのではないか。
先遣隊である弁慶隊はウラジオストクへ渡ったのではないだろうか。智謀の優れた弁慶がウラジオ辺りの部族と戦ったり懐柔したりして
足場を固め本隊である義経隊を待ち合流する。合流地点は黒竜江の中流域ではないだろうか。なぜか、義経隊が手に入れた黄金は数十トン
に及ぶと思われるからである。大量の黄金を一度に運ぶには船を使い、馬に引かせて上流に上って行くのが楽だし、大陸の中央上部に構えられる。
ちなみにウラジオとは、日本語(浦塩)ではないだろうか。ロシア語では「東方を征する」という意味らしいが、
ロシアが沿海州を手に入れたのは1860年の北京条約であるから義経の時代から約450年も後である。その地にはシナ人・アイヌ人・日本人の
東洋人(ツングース系)の人間が住んでいたのではと思われ、浦塩がロシア語の東方と言う言葉になったのではないか。
それからナホトカとは、国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・はば舞(ハバマイ)などアイヌ語ではないだろうか。
源義経のとてつもない才能を見抜いたのは、
5歳で平清盛が自分の子供と比べ比類なき才能を恐れたが、殺すには忍びなく鞍馬寺に預けた。
10歳で鞍馬寺と延暦寺の僧侶が認めて清盛との約束を破り、僧侶にさせるのではなく自由にさせた。
15歳で藤原秀衛が認めて平泉に引き取った。
20歳から25歳で一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで天皇及び日本全国の人々が認めた。
そして、30歳以後世界へと羽ばたき、アレキサンダー大王・フレデリック大王と肩を並べる大王に
なったのではないか。 義経ゆかりの地にはほとんど行きましたが、シナ大陸・樺太にはまだ行っていません。
これまでのところでこれは変だと思うところは列挙してください。 財布が立派なのに中に入れるお金が空っぽでは話にならない。財布以上のお金を入れるのが
普通である。中尊寺の金色堂の中のお経を手に入れるため、数トンの黄金をシナに送ったという
資料があるらしい。確認はしていない。 藤原三代のの栄華は黄金の力ではないだろうか。(高木アキミツ氏の成吉思汗の秘密より)源氏・平氏・藤原氏と日本を三分した栄華
が忽然と消えた。その後に東北どこかが繁栄したのであれば問題ないのであるが、今日まで繁栄した形跡がない。繁栄の重要な条件の
何かがなかったと考えるしかない。昭和50年代から60年代の日本の繁栄は世界のお金が日本に入ってきたからである事を考えると、
藤原氏の栄華の元は黄金ではなかったか。その後その黄金の供給が途絶えたので周到をむかえたと考えるのが正しい解釈ではないだろうか。
今日、日本は未曾有の不況に陥っているが、その原因は日本にあったお金がみんな中国に行ってしまった(円高)から起きている現象である。
どこかが出っ張れば、どこかがしぼむ。藤原氏がしぼんだあと出っ張った所はどこかを考えたとき、日本国内の源氏は異常に繁栄して黄金の
お寺を作ったという記録はない。日本国内になければ外国と言う事になる。即モンゴル帝国の繁栄と言えば、飛躍しすぎるかも知れないが、
ジンギスカンの初期の遠征費用・武具などの軍資金はどこから出ていたのだろうか。一回の遠征費用は莫大なものである。敵のものを略奪
しただろうが、はたしてそれだけでまかなえただろうか。自分達にも死傷者が出ただろうからモンゴル兵が段々減って言ってしまう。
略奪・虐殺ばかりしていたら恨みを買ってその後の統治が出来ないし、新たな侵略も出来ない。スパイを入れたり、敵の中を金で懐柔したり
しただろうから莫大な軍資金の後ろ立てが必要であったはずである。
最初からジンギスカンには軍資金があったと考えるしかない。藤原氏に供給されていた黄金が何時からかジンギスカンに供給されるようになった。
その供給源は黒竜江の下流域であり、現在でも世界の金の生産高の多くはシベリアの地と言われている。
これでジンギスカンの世界制覇の能力・兵力・資金の三大要素が解決したのではないだろうか。
私の実家は日本初の荘園と言われている所のど真ん中です。
国道をつくるということで、私が小学校の時から土地の買い上げが始まりました。
買い上げから完成まで50近く経っていますが、まだ完全には完成していません。
それは発掘があったからです。学生の時、アルバイトで発掘に参加しましたが、
古墳時代にものがいろいろ発掘されました。そのなかで鎌倉時代のものは祖母から
聞いていたこととある程度一致していました。口碑伝説なるものはバカにできない
ものであると感じました。
源義経が成吉思汗である証明が完成するのには、後10年かかると思っています。
それは証明のしようがないし、証明したからと言ってもだから何なんだで終わりだからです。
ノストラダムスの予言「アンゴルモアの大王の復活」によって証明されるのではないかと考え
ました。この予言は人類の滅亡と考えられていましたが、見事にはずれました。
私はこの解釈を人類の滅亡ではなく1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見から
500年続いた白人支配の終わりと考えたからです。
1999年7の月を7月のある日に清和源氏の血を引く義経の生まれ変わりが誕生した。
「アヌスがその前後平和の名の下に支配するだろう」をアメリカが前後10年世界を支配すると
解釈すると、1989年が共産主義の崩壊(ソ連の崩壊)、2010年が資本主義の崩壊(黒人大統領オバマの出現、
日本の原発事故など)となります。資本主義を支えたエネルギーの危機により、これから10年
世界は混沌とした時代になるのではないでしょうか。その後に何かがあり、そして証明される。 1999年7の月のある日がアンゴルモアの大王の誕生日という所までは同意見です。
ただノストラダムスはチンギス・ハーン=源義経説など知らなかったでしょうね
あまり関係ないけど1999年7月といえば朝青龍が三段目に昇進した月ですね(白鵬は2000年10月25日に初来日)。 1992年の宮沢総理の頃でした。TBSのテレビ番組で次の総理は誰でしょうというものでした。
小沢一郎氏、羽田つとむ氏、伊東正義氏、梶山静六氏、小淵恵三氏など、その当時の次期総理候補を
10人くらいのパネルを出して東欧の予知能力のある婦人が当てるというもので、これはおもしろいと
思って観ていました。
その婦人の見立ては「次期総理はこの中にはいません」でした。アナウンサーがびっくりした顔で橋本
龍太郎氏を指して「この人ではないですか」と質問したら、その婦人は「この人は総理に成るかもしれないが、
次期ではない」との答えでした。呆れた顔をしてアナウンサーは早々とコマ―シャルにしました。
その後に次期総理になったのは、当時熊本県知事のパネルになかった細川護煕氏でした。
その時を思い出して予言者なるものは「何かを持っている人」なのだと思うようになりました。
それから、その婦人は「将来世界が混とんとした時代になるが、その時日本人の中から世界を救うひとが現れるだろう」
と、アナウンサーが当時騒がれていた「オウムの麻原か?」と質問したら、「いや違う人だ」と答えました。
はたして婦人の予言が当たるか?
予言どうりに世界が動いたとしたら、これから混とんとした時代が10年くらい続くことになる。 チンギス・ハンは地元民に「クロー」と呼ばれていた
九郎とは源九郎義経と同じ呼び名である
「大男チンギス・ハンは死して小男に戻った」的言い伝えがあると
読んだ本で覚えてるのはこのくらいで大半忘れた 数年前に見たお話では、義経氏は不老不死でまだ生きてるって・・・。
ごめんなさい、オカ板に帰ります。 成吉思汗の孫であるフビライは元の都大都の紫禁城で中心的宮殿の名称を
「太和殿、中和殿、保和殿の総称。紫禁城の中心的建造物。外朝三殿ともいう。」
としたようである。
清朝の愛新覚羅氏も北京の紫禁城でその名称を継承している。
ところが、中華民国の初代総統である袁世凱は総統としての初仕事として行った
ことはその名称の変更であったと言われている。
これらを合わせると清和源(元)氏ということになる。
高木アキミツ氏の著「成吉思汗の秘密」では、成吉思汗を日本読みすると「吉成りて汗思う」
となり、それは「吉野山の約束を果たしたが、それでも静のことを思っているよ」となる
ようです。
清朝の愛新覚羅氏を日本読みすると、「新しきを愛し羅を覚える」となる。
羅とは「克羅」クローであり、「我らは成吉思汗の子孫である」となる。
元王朝は明のため万里の長城の外に追われたが、その血は女真族に継がれ
英雄ヌルハチの誕生となった。
当時、シナでは日本は和国・倭人と呼ばれ、その旗印は日の丸であったようである。
昭和も和であったが、アメリカを中心とする白人の非情な日本つぶしによってトタンの
苦しみをあじわされた。
日本では、1000年に一人大英雄が現れるようである。
東日本大震災も1000年に一度の大震災であった。そろそろ1000年に一人現れる
大英雄が生まれてきてもいい時期になっているのではないか。 また朝から爆笑
http://www13.ocn.ne.jp/~t-adachi/no_7.htm#3
>東部西比利亜及び満洲等を旅行して彼地に日本式の古い神社の在ること及び笹竜胆の紋章を用ゐ居ると且つ満洲人に姓を源と名乗る者が多いと聞くこと等である。
>ハバロフスクの博物館には其の地方より發掘したといふ日本式の古き甲胄の一部及び笹龍膽と木瓜の紋章がある朱塗の古き経机があるといひ、或はハバロフスクに以前義経を祀った神社があったといひ、興安嶺にも日本式の神社があるなど一々枚拳に遑がない。 先の大戦において、山本五十六氏は義経の鵯越の奇襲を参考にして真珠湾を奇襲攻撃
したと思われるが、義経と山本氏ではその器量に格段の差が有った。
私ごとき凡人が批評するのは変であるが、稀代の英雄義経と山本氏を比べるとその才能の
大きさが天と地ほどの差があったようにおもえるからである。
山本氏は何をもって日米戦の勝利と考えていたのか。義経は平氏を滅ぼし三種の神器を奪取する
ことを完遂してその勝利と考え、それに向かって作戦を考えて一の谷・屋島・壇ノ浦で戦って勝利した。
山本氏は真珠湾の奇襲の勝利だけである。
孫子の兵法にも敵の愛するものを奪えとある。ワシントンのホワイトハウスを占領してルーズベルト大統領に
降伏文書の署名をさせなければならなかった。
三たび爆笑
http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=henjin&dd=16&re=126
http://www2.ezbbs.net/16/henjin/img/1233055965_1.jpg
>・黒竜江の沿岸に日本人が鎌倉時代に創立せる永寧寺あり
>・ハバロフスクに笹竜胆の紋を着ける武像を祀る廟あり
>・小興安嶺における日本人の古蹟
>・満州人源姓を名乗り義経の後裔と称す
>・興安嶺に日本式の神社存在す
>・北満州の王稜に笹竜胆の紋ある墳墓あり
http://electronic-journal.seesaa.net/image/82P82U82S82S8D86.jpg
昔見た時、モンゴル紋はドコが笹竜胆だよ全然違うだろとしか思わなかったが
あらためてよく見るとそうでも無いな
源氏紋の中央の花すぐ下の小さな○の辺り
この辺が下へ押し出される様に降りてくるとモンゴル紋になるのか、なるほど
モンゴル紋の○は日の丸とか小谷部がトンデモ言うから先入観持ってしまって今まで気付かなかったわ 9月15日に鞍馬寺で義経の法要がある。(700年以上毎年欠かさず行われているとのことである)
興味のある人は行ってみるといいでしょう。
五条の大橋から15歳の子供が奥の院まで走って帰ってきたらしい。
剣術の道場主の娘をたぶらかして兵法書を読み漁ってたらしい。
社務所の係りの人の言では、山道を走って帰ってきたとのことである。
9月15日に鞍馬寺で義経の法要がある。(700年以上毎年欠かさず行われているとのことである)
興味のある人は行ってみるといいでしょう。
五条の大橋から15歳の子供が奥の院まで走って帰ってきたらしい。
剣術の道場主の娘をたぶらかして兵法書を読み漁ってたらしい。
社務所の係りの人の言では、山道を走って帰ってきたとのことである。
大英博物館の成吉思汗像にも笹竜胆あるって話
話だけで画像見た記憶無いわ、ホントにあるのか?
1.藤原三代の栄華の後ろ盾は何だったのか?
2.その後栄華が続かなかったなぜか?
3.義経騎馬隊の資金源(馬のえさ、行軍費用)はどこから調達したか?
4.成吉思汗の軍資金の謎(数万の兵を数カ月から数年動かすには相当な費用が必要である)
秀吉は小田原攻めのとき、町をつくってしまった。
謙信は農繁期には地元にかえったし、佐渡銀山もあった。
信長の後ろだては堺の商人だった。
毛利の後ろ盾は石見銀山だった。
5.モンゴルにはその後英雄はでないのか? 孫文がイギリスのロンドンに留学中、日露戦争での日本勝利の報を聞いて喜び外へ出たところ、
日英同盟のイギリス人は暗い顔をしてうつむいていたと言う話は有名である。
白人が世界の覇権を握ったのは産業革命以後である。それまではイスラムの方が強かった。
ノストラダムスの予言が白人の世界支配の終わりであると心のどこかできずいていたのではないか?
そして、成吉思汗が日本人であるときずいていたのでは?
だから、ポーツマス条約では満州の地を日本ではなく清朝に帰属させた。そして、オレンジ計画で
日本滅亡の計画を立て実行した。ところが共産ソ連の台頭によりその計画は頓挫した。
皮肉な事に共産ソ連をつぶすと日本が復興し、日本をたたくと今度は共産中国がその牙をむいてくる。
そうしているうちにアメリカ自体が混血アメリカ人に支配され身動きできなくなってきた。
小谷部全一郎氏「成吉思汗は義経なり」P268
「成吉思汗の子孫54代の時に日本から蒙古に再現して蒙古を救うと言う予言もある」
54代とは、どういう数え方なのか解らないが、日本の天皇陛下が125代で2670年
であるから約1000年と考えれば、そろそろ現れてもいい頃である。 予断であるが、東ジャワに「ジョヨボヨ王の予言」と言うものがあり、1942年にその予言が実現された。
その予言とは、白い杖を持った白人に奴隷にされていたジャワ人を北から来た黄色い人々が解放してくれるといった
ものだったらしい。
10年ほど前に、源義経の文字を提示した時に吉林省出身の満州族の血を引く女性はウエイーチイと読めたが、
西安出身の男性と福建省出身の女性は読めなかった。
言い伝えとか伝説とか予言とかは、その地方・部族に細く長く伝わってゆくのではないだろうか。
そして、その中にひつこい人がいて何かに書き残してある。
東日本震災の津波についても、ここまで逃げるようにとの石碑があったようである。
地震から数十分あとの津波であるから石碑を知っていた人々は助かったはずである。 義経の日本での大きな戦いは3つ、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いであるが、
その中で義経の天才的な才能が発揮されたのは屋島の戦いだと思う。
一の谷の勝利を確信して戦う前に平氏一党が屋島に逃れることを予測して次の一手を打っていた
いたからである。 一の谷の逆落としでは、平氏は不意をつかれて敗れた。絶対攻めてこないところから攻め来られたから敗れたのであった。
簡単に勝負を決したから当たり前のように思えるが、中身が大変濃いのである。
まず、騎馬の名手をどうやって70騎あつめたか、山内一豊でもわかるように普通の武将が馬を養うのは大変な事である。
そして、その馬を自由にあつかって一の谷を下るのは、もっと大変なことである。
真珠湾の奇襲のときもパイロットは桜島で血のにじむような訓練をした。義経騎馬軍団も山陰に迂回しながら騎馬兵の選定と訓練を
相当したはずである。脱落者けが人も多数出たと思われる。
鵯越から一望して全体のどこを攻めれば有効かを確信して一気にせめたとと思われる。
ここでは平氏の兵力を半減させる事と兵糧を半減させる事が目的であったから、平氏を混乱させて海に追いやった。
このとき、屋島を奇襲するために義経は次の一手を打っていた。騎馬で淡路島を渡れば平氏に察知されるので、
淡路島の向こう側を黄金の力で水軍を懐柔して数時間のうちに四国に渡っている。
そして馬を走らせ守りの準備の後ろ側から屋島を攻めた。ここでも平氏は兵力を失って遁走した。
騎馬による機動力を使った流れるような鮮やかな勝利であった。 これだけ鮮やかな戦い方を目の当たりに経験した騎馬兵は義経に心酔して
家来になってどこまででも着いてゆこうとするのではないだろうか。 ところで奥州藤原氏の勢力圏ってどれくらいまであったんだ?
吾妻鏡によれば基衡が鷲の羽とアザラシの皮を贈ったとのことなので
北方と交易をしていたということはいえそうだが、それがシベリアや
モンゴルまで及んでいたかどうか気になる。
逃げるにしても北海道やシベリアの地理知識の有無、交易の結果としての
外国語知識、支援してもらうにも奥州藤原氏との友好関係があるかないか
といったことは逃亡の成功率に大きくかかわると思うのだが。
>>186
>シベリアやモンゴルまで及んでいたかどうか
及んでいたという確かな証拠は何も無いな
こういうのも後の義経=清祖説に何か絡んでるような気もしないでもない
↓
373 : 名無し三等兵 : 2011/11/08(火) 20:29:47.75
加藤清正は朝鮮出兵(文禄の役の際)猪突猛進独断専行で鴨緑江を超えて満州に攻め入り、そこに割拠していた女直族と一戦交えてる。
これが明の軍事介入を招く(朝鮮王の懇請もあったが)結果となり、石田三成がこの一件を秀吉に報告するや秀吉は激怒、本国へ召還され、蟄居処分になった。
377 : 名無し三等兵 : 2011/11/08(火) 21:45:07.01
>>374
明がゴールなのに、隣の女真につっこんじゃいかんだろ。
378 : 名無し三等兵 : 2011/11/08(火) 22:00:51.80
>>377
首都から逃げた朝鮮の二人の王子を追ってる勢いに任せて突っ込んでったらしい
その女直族の中から、十数年後、ヌルハチと云う一人の英雄が登場して、女直族を統一、満州族と名を改めさせ、その子孫は長城を超えて中原に侵攻し、明に代わって大清国(満州語で”ダイチングルン)清朝を興すのである。 私は以前、「義経は15歳から20歳までの5年間何をしてたのだろうか」と記述したが、この時がまさに義経の成長期で奥州藤原氏の勢力圏である
奥州から北海道にかけて弁慶以下数十人を連れて騎馬兵としての訓練をしてたのではないか?
北海道のアイヌには二つの勢力があり、そのうちの一つの勢力に「ホンカイ様」伝説があるようである。(成吉思汗の秘密より)
ホンカイ様は米の作り方と魚のとり方をアイヌに教えてくれたので神様と崇められた。
これは義経が農業・漁業を知っていたわけではないから、義経の部下が教えたものと考えれば、つじつまがあう。
アイヌと仲良くなるまでには相当の戦いがあり、それを勝ち抜いて自信をつけ、平泉の藤原氏の元に帰った。
そして、頼朝の挙兵を聞きつけ秀衛の制止を振り切り鎌倉へ向かった。
このような経過ではないだろうか。
東西を二分した源平の戦いに完全勝利をするには、それだけの実戦経験と熟練騎馬兵の存在なしにはありえない。 これは推測であるが、義経は藤原氏の恩に報いることと、自らの力を試すために北海道を平定した。
この情報(義経の才能)は秀衛に報告されていた。
だから、秀衛は鎌倉へ出発するとき、佐藤兄弟を伴わせ「いざ」という時に義経の身代わりに成るようにさせた。
これは秀衛が義経の才能を見込んで大事にしただけでなく、奥州藤原氏の生き残りのためであった。
そして、佐藤兄弟に軍資金として金塊を持たせたのではないだろうか。 「坂の上の雲」の中で、秋山好古とフランスの老兵法家の話として、「機動力を最大限に生かして味方を勝利に導いたのは
歴史上ナポレオンとフレデリック大王だけだ」と自慢したのに対して、好古が義経の戦い方を話したところ、「私の辞書に日本の義経
と言う武将を加えておこう}というような会話があったような気がする。
チンギス・カンは、ゲンジ(源氏)ス・カン
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/0204/46/305.html
チンギス・カンの日本語の発音はおかしい。
本来は、ゲンジス・カンだ。
このような故意の発音ねつ造は、いわくのある人物に多い。
マホメット、などは、その典型だ。
( http://book.geocities.jp/japan_conspiracy/0202/p001.html ) 源義経は官位を褫奪され、さらに、諱まで変えさせられ
朝敵となってしまったが、
その後、諱の回復、官位の回復などの沙汰が無く
いまだに朝敵扱いである。 フビライの時に元寇があるのだが
これって義経が鎌倉幕府に対する仕返しをして
日本を統治してその思いを遂げようというものなのでしょう
そんなわけないのかな この話するとモンゴル人スゴく怒るらしいぞ
剣道のルーツは韓国と言われたら腹立つのと同じ 10年以上前だと思うけど、東京の新宿でモンゴルからの留学生が言っていた。
「ジンギスカンは日本人だと言ってるけど違うよねえ」「だけど、おもしろいんだよ」
「九州のことをモンゴル語でキュウシュウ、北海道のことをホッカイドウと言うんだよ」
とそんなに怒っていなかった。満州族の人も怒っていなかった。
怒る、怒らないではなく真実を知りたくないか? 「成吉思汗は義経成り」の決定的な資料はどこかにあると思っている。
鞍馬寺のどこかに大事の納められているにではないかと思われる。
700年以上、毎年9月の15日に義経の法要をされているということは、とてつもない事である。
一介の哀れな武将のために700年も休まず法要をするだろうか?
とてつもない繋がりを感じる。義経の北行を鞍馬寺の阿砂利が助けたとしたならば、義経にとって
藤原秀衛と並ぶ大恩人である。義経が天下の大王成吉思汗になっていたならば、鞍馬寺に手紙と贈り物を送っていた
はずだと思う。たぶん、ある時期がきたら公開するようにと成っていると思う。
もうすぐ(10年から20年)だろう。なんの根拠もありません。 >>197
ぬっちゃけ同じことやってるよな
山田長政がセナピムックだとする根拠もないし
日本もその辺はそうとうアレだ チンギス義経説=一流スパイ、シーボルトが事実としている事を
民間レベルでトンデモ説と見られつつ細々と語られている。
韓国サウラビ説等=一級資料は無く、国際的議論もされないトンデモ説が国家レベルで大々的に宣伝されている。
ぜんぜん違うだろうが!! シーボルトがスパイなら、
シーボルトが日本に流す情報を信じるなよ(笑) この板で暴れてる連中みたいな
だれがいいものでどこの国が悪者で
誰は誰より偉い、みたいな幼稚なものの見方を排して
ただ研究対象として見ればじゅうぶんおもしろいんだがな。
もちろん「なんでこんな話がまかりとおったのか」という部分まで視野に入れるのは前提だけど。
歴史はどっかの知事へのネタ提供のための学問じゃないんだから。 神武天皇の男系の血を継承するD2遺伝子をもった男子は日本列島に約50%存在する。
その中でも特別な遺伝子(日本民族を統率する遺伝子)をもった男子が数百年に一人現れる
ようだ。平家では、平清盛、北条時宗、織田信長など。源家では、源義家、源頼朝、義経、武田信玄、
徳川家康など。藤原家では、藤原道長、藤原秀衛など。そのほかにも、足利、新田、島津、毛利など。
そろそろ大英雄が出てもいい頃である。 暦から推測すると、900年に一人大英雄が現れるような気がする。皇紀2700年である
から3x9=27である。日本では、3の数字は非常に重要な数字である。
アンゴルモアの大王を期待してもいいのではないか。 「成吉思汗は義経なり」が出鱈目だと言うのであれば、
その根拠を示してほしい・・・ 「源義経は成吉思汗にはなりえない」という確たる証拠はありますか。
だれか、あったら出してほしい。 ジンギスカーンの故郷はバイカル湖以北で、
東胡系遊牧民は住まず、トルコ系北方遊牧民の縄張りだからな。
モンゴール中核王族は東胡系であったことは判明しているので、
義経がまず東胡系弱小部族を服属させ、
彼らを率いてモンゴール故地に移動して云々、
といった仮説を建てることが可能ならば、
義経=ジンギスカーン説は、可能性はあるよ。
やり手の経営コンサルタントが倒産寸前の企業を乗っ取り、
巨大企業に発展させる、というシナリオと同じで、
現実的ハードルは高いけどな。 「悪魔の証明ですよ」と言っていますが、
「成吉思汗の秘密」にも書いてあるように、義経が大男で成吉思汗が小男であったらなら
その場で「成吉思汗は源義経なり」は否定されます。
何かないですか?
最近、公園からハトが消えたことに気づかないだろうか?
気になるのは私だけか・・・
加古川で鳩の頭だけの猟奇死骸が多数見つかったようである。
シナ人に食われたような気がする。
いま日本で子供が殺されたり、大人の不審死が多いような気がする。
殺した方は通名の在日が多いような気がする、または日本語の話せない支那人の
ようだ。なぜなのだろう。昔はお寺が村の知識人となって村らを統率していたから、外部からの
侵入をふせいでいた。ところが外国勢力の宗教を中心に日本を侵略しているようなきがする。
こうゆう危機に英雄が出るようなきがする。 義経=チンギスハンが正しいとすると
建礼門院レイプ説の信憑性も倍率ドンさらに倍だね! 義経「男たる者の最大の快楽は敵を撃滅し、これをまっしぐらに駆逐し、その所有する財物を奪い、その親しい人々が嘆き悲しむのを眺め、その馬に跨り、その女と妻達を抱きしめることにある」
成吉思汗の崩御後、500人の側室のうち何人かが殉死したようである。
大英雄は其の辺の「すっとこどっこい」とは違う。
ナポレオン・シーザー・アレキサンダー大王より上である。
何かないですか? 「成吉思汗の秘密」読んだけれど
これ、ほとんど小谷部本の丸写しなのでは…
高木彬光のオリジナル要素なんかあるの?
義経軍団は、鵯越の逆落としで約70騎(馬の世話に二人)で210人であったと
思われる。
屋島の戦いで約150騎450人、馬は自前だっただろうが、馬のエサ、騎兵の食事等
は義経主従が手配したと思われる。壇ノ浦の戦いでは、水軍の手配にそれなりの
費用が必要であったと思われる。これらの費用は鎌倉から出てたのだろうか。
それとも自前だったのだろうか。 たとえば、熊谷次郎直実は名前から熊谷市の御家人だと思われる。一騎で加わったのではなく一族とその家来を
引き連れて合戦に参加したと思われる。最低でも2〜300人である。死人・怪我人が出たら、その保証をしなけれ
ばならない。中国地方まで進軍したのであるから、その間だけでも莫大な費用が必要であった。
卓上の歴史家は簡単に歴史資料だけで判断するが、軍資金の裏付けはなんだったのだろうか。 日本の国は末期的状態になっているかも知れない。
それは司法界が腐っているとしか思えないからです。
高等裁判所の裁判官と元裁判官の弁護士が組んでたわいもない事件から
常識ではあり得ない認定認定を繰り返し数億を儲けている。
これは私が高裁の裁判官と元裁判官の弁護士とのひそひそ話を聞いてしまった
ことからわかったのである。 ひとりごとをageて書くとか
どんだけ寂しいんだよこいつ 大英雄が出てくる時代背景はこういう時期なのかと思っただけです。
平氏にあらずば人にあらず。
ジンギスカンが出現したのも世界の要請だったのかと・・・ 小谷部全一郎氏の「成吉思汗は義経なり」の中に面白いものがあった。
蒙古とは古の高麗国である。百済の国というのは今の満州で、新羅と任那とを合した
のが今の朝鮮である。今の蒙古と満州と朝鮮とが三韓というので、今の朝鮮を三韓
と思うのは間違いである。・・・・・
又成吉思汗の子孫が五十四代の時に日本から蒙古に再現して蒙古を救うと言う予言
もある。(王仁)
昭和9年7月19日発行東京毎夕新聞所載
だからせめてそういう妄言はsageて書くか
ご自分でいいこと言ってると思ってるんなら
実名入りのfacebookとかで書きなよ
気持ち悪いよ。まじで。 普通の日本人は妄言という言葉を使わない。
何が嘘なのか、何が間違いなのか、論理的に説明しなければならない。
気持ち悪いのはどっちだろう。 いかにもネット論客気取りらしい言いぐさやね。
嘘も間違いもへったくれもない。
場にそぐわぬひとりごとを咎められているのは自明なのに
論理ロンリとバカのひとつおぼえみたいに吠えてれば自分が保てるんだろ。
それとも正しい(?)こと言ってるならどんなウザ文も受け入れられるべき、とか
素で勘違いするほどのバカなのか。
安っすいやっちゃ。 小谷部全一郎氏の「成吉思汗は義経なり」は旧仮名づかいなので
読むのに苦労する。
妄言の意味も解らない「安っすいやっちゃ。」 は
そっくりお返しする。
大物浦で消息を絶ったと言われている義経の家来300〜500騎はどこに
消えたのか。
地方豪族の次男坊・三男坊で知力・体力・統率力を備えている武将とおもわれる。
若き信長、信玄、謙信、家康、政宗クラスである。
そのまま消えたと考えることに疑問を感じる。 成吉思汗の大偉業を考えたとき、一人や二人の力でできるものではないと思われる。
数十人の将軍、手足となって働く数百の将校、先頭を切って突進する数千の下士官
が必要である。
そして、それらの将兵に供給される武具の研究と生産である。
遠征費用、家族の生活と戦死した時の保障等などを考えたとき、歴史研究なるものの
稚拙さをかんじる。 1992年宮沢総理の時、次期総理は誰でしょうと言うTBSの番組だと思います。
20年前ですが、誰か観ていた人いませんか。 シーボルトは間宮林蔵と親交があったと言われている。
間宮林蔵はニコライスクでその地の酋長から聞いた話「この地にたどり着いた日本人の
武将がこの地を去ったあと漢国の玉になった」(北海道テレビ)と言う伝説をシーボルト
に話した可能性がある。
1992〜1994年頃の北海道テレビまたは札幌テレビ?を観てた人いませんか? 231の人
小谷部全一郎氏「成吉思汗は義経なり」の268ページ「源義経と蒙古」にある。 確固たる証拠がないとウリナラファンタジーになっちゃうんでね。
日本人としては実話であってほしいけど 235の人
確固たる証拠とは何ですか?
鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」は義経没後、100年以上経ってから
書かれたものではないですか。
義経記・玉葉も現場から離れたところで書かれたものである。
元朝秘史も成吉思汗没後、だいぶ経ってから書かれたものである。
ただ、小谷部全一郎氏は現地を訪ねて調べたものである。
私も義経ゆかりの地には、ほとんど行ってみた。
当時と現在の違いはあるかも知れないが、義経の「平泉の自殺」はあり得ない。
私もモンゴル人と満州族(満洲マンジュ)の留学生に「成吉思汗の秘密」に
書いてある事を質問してその回答で確信となった。 俺も北行伝説の地なら北海道以外大概行ったし
鎌倉、吉野、安宅の関といった場所にも行ってるが
そんなもんがなんになる?
少なくとも吾妻鏡や玉葉が「ずいぶん後になって書かれている」
と悪口言ったあとで、自慢げに言う台詞じゃねえよ。
てめえで思い込むぶんには別にかまわんし、それでポエムだ創作だと
気取るのもよしとするが、ここは日本史板。
それなりにしっかりした根拠を提示できんのなら論外もいいとこ。
いずれにせよ↑のひとりごとは気持ち悪い。