X68000・FM-TOWNSユーザーが仲良くするスレ
GCからWiiUまでIBM謹製やで
CellのPPEも一応系列やし MC68はx86で言う、CISC⇒RISC系命令変換ができるP6世代あたりまで
残っていれば、同様な手法で高速化できたかもな 68000なんて過去のしがらみ使い続けなければならないほどユーザーいないし、プログラム言語は、共通でアセンブラでプログラムする人なんていないだろ
わざわざ命令変換するハードウェア積む必要性がわからない ソフトウェアで命令変換して過去のプログラム動かすcpu出てきたの
Pentium proの頃だよな
ネクスジェンとかさ Itaniumってのもあったね
Android動く、atom機もトランスコードソフトウェアでやってるんだっけ? Linus参戦で盛り上がってたCrusoeもあったな
Vaio C1とか鼻息荒かったが
あっちゅー間に消えてもたw >>711
互換の維持もあるけどCPU内部でRISC系の
命令に変換しないとそれ以上の性能向上が
無理だった。 >>713
実はそれに関わったロシア人エンジニアが
本国でオリジナル設計のCPU作って。2015
年にロシア市場向けにモノが出てる
たいした性能じゃないと思われるだろうけど
このエンジニア、実はソ連時代にコンピューター
の研究を国の機関でやっていた。あっちの
大物らしく西側にも名が通っていたらしい
PC watchの1999年後の後藤広茂のコラム
にも出てる。 >>709
ColdFireってそんな感じのMPUじゃなかった? 久々にRISCって文字列みたわ、これなんて読んでた?やっぱリスク?
語れる友だちいなかったから全部自問自答な世界だったね、パソコンは
ゴーサブはまだ通じた感はあるけどアンディフィケーションはかなり引かれたなぁ
俺異端児 なにゴーサブとかアンディケーションって
教えなさい Vliwってダメなのかな。486のキャッシュメモリとか
Riscと考え方似てると思うんだけどな
今みたいにガンガンコア数増やしてくの無駄多くない? >>721
今は亡きTransmetaのCrusoeとEfficeonがVLIWだったけど採用したメーカー少なかったよな。
当時地図で投げ売りされてたCrusoe搭載のNECのパネルPC買ったけどWin2Kでももっさりだった。 ソフトウェアで遅くもなれば速くもなっていじり回したい68000ユーザー向けだったのにね どうだろ? 実行時の命令デコーダを取っ払えば簡単になるって理屈だから、
パイプライン止めないためにはコンパイラがCPUの動きを「CPUを動かす前」に
把握しなきゃならんし難しそうな気がする。 既存のソフトがいかに速く動くかで評価されちゃうからな ハードウェアを意識してプログラム書いてたのいつまでだろ
コンパイラによる最適化が難しいんだね? むかしはプロセッサのマニュアルとか出てたよなIntel
今でもあんの マイコン屋(ルネサス)の資料ならサイトから普通にPDFあるけど、
intelみたいな海外の大企業はどうなんだろねぇ? マイナーなVtuberがTownsやらX68のゲームをやる配信が出てきてるが
中身はおっさんとかなんだろうな、
ホロとかにじがそういうのやってくれれば >>718
1999年の時点じゃ、Itaniumは
期待の新型CPUの扱いだよ
使えない扱いされたのはその後のx86が
予想より進化したため・ AMD64をWindowsで採用しなかったなら
Itaniumは生き残ってたんじゃないのか アイタニウムは、アイタニウム用に書かれたコードで本領を発揮し
既存のソフトは大幅に高速化しない。
そうしたcpuが標準になったら他のベンダーは...
そして高価だった
そんで大手pcメーカーがそっぽ向いてamdに力添えした コンパイラ作るのが難しく、苦労の割に期待通りの性能が出なかった
複数の命令を一度に実行よりマルチコアの方が良かったという事になるのかね >>738
それ言うならRISCのSparcやMipsが
一定の成功収めたのはなんでとなるんだが
それまでのx86や68kとは命令レベルでの互換なし
ソフトも一から揃える必要があったのに
ワークステーションで一定の成功を収める
ことができた。
まあ、演算速度がx86や68Kより速かったから
その影響もありそうだけど その頃にはアセンブラでゴリゴリって時代は終わっとったからな アイタニウムは値段が高い上に、アイタニウム用のコードが標準になると、他のメーカーはハンデを負うことになるし
Intelの独占が進むの嫌がってpcメーカーがamdに肩入れした
んじゃないの? コンパイラは、各種cpuに最適化できるけど
アルゴリズムまでは生成できない
で
Vliwはアルゴリズムレベルで最適化が必要
プログラム次第でガンガン早くなるのがvliw ? 言うほど速くなかったからな
単純に数の暴力でゴリ押す方が簡単に伸ばせたのが実態w >>747
ここで言う数ってCPU内部の演算機の数?
当時はまだマルチコアじゃなかったし
演算機の数ならItaniumの初代でCPU内に
8個の浮動小数点演算機があって、それを
800Mhzで動かすから6.4Gflops(単精度)
となっていたな。
1999年に出たPentiumVは単精度のFPUは
2.0Gflops そりゃ一切の無駄なく動いた場合やろ
そういう風に動かすコードが吐けなかったわけで Itaniumの最初のやつが性能でPentiumIIIに負けてたらしいので
当時のコンパイラ技術じゃどうにもならんかったんでは
まあいまの技術でも性能あげるのは無理そうだけど さすがにPentiumIIIは脱線かも。
この流れが続くと、自治警察さんがこのスレに目を付けるかもしれん 386も画期的やったのに
98系はともかくTownsにしても
DOSのしがらみが残ってもうたな
まあLinuxも動いたけど 面倒臭かったねWindows95のインストール
Cdromのドライバ、config.sysに登録するとか TOWNSユーザーからするとTOWNSってユーザー熱、熱かったの?
X68000側からは、そこまで盛り上がってる気配を感じなかったんだけどさ NIFTYがあまりにも中心だったので、盛り上がりのすそ野がなかった感じ >>757
雑誌のCD添付がもうちょい早ければOh!FM通して何かあったかもね フリコレやNIFTYではアングラな物は回らないわけで オクでTOWNSの価格が上がってる
画面が写れば初代、2代でも1万こえるかのか 一体型はブラウン管の寿命が心配、初代はSCSI無し、それ以前に386機は遅すぎてあかんわ。 メンテ考えるとHRだけど、パフォーマンス考えると白以降だよなぁ… 白もME,Freshなんかは電池が基板に直じゃなかったか DOOMよりもメニューアイコンの懐かしさに感動w
「館」とかあったな〜 なんで今頃と思ったらTOWNS-OSへの移植か
TOWNS版Linuxに着いてたよねぇ 全員じゃないけど
TOWN持ってる奴が痛かったなぁ・・・・ 何気にスプライトはTOWNSの方が強かったんだよな
X68は多重スクロールが得意なだけで 多重スクロール以外はTOWNS圧勝だよ
ただ、この時代は多重スクロール正義なんだよな >>779
256ドットを横いっぱいに広げる画面モードもあったらしい 画面モードに横方向拡大があるよ
正方形モードは縦シューで大活躍 拡大して15kHzインターレースのオーバースキャンではねえ TBIOSの持っているモードでは、そうだよ
VINGのHI-RESO WIDEなんかはうまくやってそうだけど、エミュではよくわからんね 全然余裕ねぇ
カックカクやん
移植がイマイチなのか、68の性能が低いのか コジコジが2千円で買ったwindowsCEの電子辞書のDOOMの方がサクサクで草 Towns初代機を購入し、その後、Towns HRに乗り換えたコテコテのTowns派ですが、今振り返ってみると、富士通は「名前だけタウンズのX68000互換機」でも良かったのではと思う事があります。
両社連合でなんとかWindow95発売前夜まで生き残り、任天堂との連合構想が破綻したSONYや3DOコケたパナソニックも巻き込んで、プレステ1みたいな卓上ゲーム機に・・・あっ、でもそれは「パーソナルワークステーション」という響きを愛する人達に対する背信行為になって大炎上してたかも・・・。 破格値で買いたたいてシャープの経営厳しくなったら液晶も韓国製にした任天堂に抜かりは無い
任天堂は損する商売は絶対やらない 任天堂がシャープを丸ごと買収、或いはシャープが任天堂を丸ごと買収ってシナリオはあり得なかったのだろうか
確か、ザウルスをスマホみたいなのに進化させたくて、NTTドコモ買収を模索してた事もあるよね、シャープ スーパーパルディオ551Sとかやっとったな
売れんかったがw >>795
なんでそんなゴミ抱えなきゃならないんだよw 確か、どっちのマシンのOSもクリップボード無かったんだっけ? 任天堂にとってシャープなんてゴミでしかない
利用価値が無くなったら捨てるだけのゴミ 今更ファルコムのゲームなんて…
イース9はまあまあ面白かったが、PS2時台に作ったゲームエンジンを使いまわしてる段階でアウトだろ
今では古くなったUNITYの方がまだマシなのに 仮にTOWNS版Ys作るとしたら、
ベースはPCエンジン版?
それともwindows(Ysエターナル)版? PCEの看護婦かわいくないからそこだけサターン版でお願いします 誰?看護婦って?
エコリーナさんは出てこないぞっと YsをTOWNSに移植するなら98版流用でしょ
TOWNSのl機能は要らないのでFMR互換モードでもOK TOWNSは50万台出てるはずなんだが教育用除いた一般向けはどのぐらいかな? > YsをTOWNSに移植するなら98版流用
ファルコムが移植するならそうなるだろうが、
TOWNSのスペックならWin版とか移植できそう。 >>814
それだと486以降の機種じゃないと無理そう 後期の486・Pentumu機種ならWin95版がギリギリ動くんじゃないのか オレはX6800そのものより、そのOSを作ってるハドソンが大嫌いだった
高橋名人のしくじり先生を見て
あぁやっぱりそういう会社だったんだと思ったね Y'sってまともにやったことないんだけど機種間の差異ってそんなにあったの? ハドソンってテクモに話通さないで勝手にFC版スーパースターフォースの企画を進めて
コロコロコミックで発表して、テクモの社長に「何勘違いしてんだ!」って激怒されて
版権使わせてもらえなくなって「スターソルジャー」にしたらしいな。 製品作ってから版権貰いに行くの、全然珍しくない
今でもあるぞ それもあるある
タイトル発表して、画面まで出来てたのに発売中止とかね カプンコが御大との口約束でガンダムゲー作ったらバンダイに呼び出されて絞られてたなw
まあバカ売れしたから結果オーライだったが 「はぁ、はぁ、委員長、今日、危険日だって?
ふぅ、ふぅ、大丈夫だよ、ちゃんと外に出すから
はぁ、はぁ、ふんっ! うっぐ!(どぴゅっ!)
……はぁ、はぁ、委員長、中に出してるよ、僕の赤ちゃん妊娠して」
「嫌、バカバカ! 早く抜いて!!」
「ほら、委員長の子宮口に僕のがコツコツ当たってるの、わかる?」
「嫌! 早く抜いてよ!!」
「はぁ、はぁ、全部出したよ。委員長、受精してね」
「このキチガイ! 氏ね!!」
二ヶ月後
「妊娠したわ。碇君、責任取ってくれるんだよ……ね?」
「え、僕、知らないよ。産むのは勝手だけどさ」 TOWNSは登場が遅かったのが残念でしたね、早くしようもないですけど
X68が登場し、半年後PC-E、一年後メガドラときて、二年後初代TOWNS
そしてその翌年の1990年にDOS/V、F-ZERO引っさげてスーファミが登場し、PC-EやメガドラのAfterBurner2も発売
初代TOWNSでもたついている間に、PC98かAT互換機とゲーム専用機の方がよくね?って雰囲気に・・・ AT互換機が日本で地位を得たのはWindows95以降
1990年頃なんて誰もDOS/Vには見向きもしてない >>826
そもそもX68000の登場を見て富士通の技術者が悔しがったところがTOWNS開発プロジェクトの発端だからよく2年で発売したもんだと思うよ
開発期間短縮のためFMRをベースにしたり血の滲む努力が感じられる そのあと数年でX68000の出荷台数を超えちゃうのがエグい >>826
広島だと1990にはダイイ○電気でDOS/V普通に売ってたよ
>>829
やっぱ教育機関に大量納入が有効だったんだろうか
アレで勉強してDOS/V以降に経験を活かせた生徒の数って如何ほどじゃろ 教育に活かせた数は全員じゃね
まずパソコンがどういうものか、理解するのが目的だからね
小学生でもスマホを持ってる今とは違うのよ 教育機関にTOWNSが受けたところは、CD起動で媒体が壊れにくいところ
GUI主体のエデュケーションソフトが多数出てたところ
フロッピーでやってた頃は、とにかく教師側の負担が大きかった
TOWNSのソフトが教室のテレビでも使えるようにマーティーも開発された
あれ失敗したゲーム機扱いだけど、教育機関ではかなり売れた >>830
あのIBMがTOWNSエミュレータを開発するくらい売れたみたいだね >>827
Windows 95以前に自作機作ってたし、メーカー製だってGateway2000とか売れてた 大学だと80年代からレネゲイド以降のIBM-PC互換機を使ってたよ
386機は流石に1988以前には見掛けなかったけど286機は置いてた
教授クラスだと理系文系を問わず英語に不自由せんかったからね >>835
売れてたって言うGateway2000、98と比べてどれくらい売れてたの? 別に98と比べなくていいが、台数がどれくらい出てたの? >>835
Gatewayの日本進出は1995年なんだが
95年以前に、GatewayのPCをどこか輸入代理店が売って、しかも売れてたって凄いなー 個人的な購入やら産業用途やら付き合いやら、ポスト98に備える各メーカーの研究用やらでは……
1990年頃の市場規模としてはTOWNES以下だったと考える、流石に68よりは大きかったとは思うけど Gateway2000は人気で、個人輸入やショップによる輸入が多かったので日本法人が出来たのですよ
そりゃPC-98に比べれば微々たるものでしょうけど、DOS/V機はV-TextやWindows 3.0/3.1で安価で大画面が使用できたのでパワーユーザーは結構手を出してました
あと実は当時のPCのシェアはPC-98は50%程度だったりします >>843
Gateway2000が人気で個人輸入やショップによる輸入が多かったって、数字的にどれくらいなの?
個人の置かれてる環境で感想は変わるので、そこは具体的な数字が無いと 機種乱立してたってのもあるが、PC-98が国内シェアトップになった時、40%弱だったはず。
37%だったかな?
国外メーカーの独自アーキテクチャのシェアが減ってその分PC-98がシェア伸ばしていく、というのが93頃まで続いてWindows3.1以降に互換機が増加してきてWindows95で互換機の増加に拍車がかかった。 互換機ってざっくり言われるけど、実際ダントツで売れて98に引導を渡したのはたのはFMVデスクパワーなんだよな Windows3.1から95のあたりだとGateWay、COMPAQ、Dell、HPあたりも上陸してきたころだな
異業種参入が流行っていろんなメーカーも参入してきて、ハマポーシャのように怪しい組織が金儲けでやってたりとか
個人輸入で香港や台湾から調達より国内でメーカー品買った方が安くつくようになってきたのが93年?94年? それぐらいの時期だったような DOS/V MagzineやらDOS/V POWER REPORTの創刊が1991年末なので、早い人はそのくらいからAT互換機に手をだしてんだろうが、会社にあったFMVでOS/2動かしたのが94年くらいだったかな。Windows 3.1は不安定でOS/2 warpでシステムを組んだ記憶がある 秋葉原のマハーポーシャがアキバの路地裏でビラ配りしてたのは覚えてる。オウムが母体という認識はそのころからあったけど、まさかテロを起こすとは想像してなかった。地下鉄サリン事件が95年か >>845
数字は出せないけど日本法人をわざわざ作る位は売れてたということ
Gatewayが人気というのは当時の雑誌の記事になるくらいではあった
92年にコンパックショック、93年に富士通がFMV出してデルも日本法人つくってる
94年に富士通はシェアがあがってる
ようするにWindows95より前にNECの牙城は崩れつつあったという事 >>844
IBMのPS/55、富士通・松下のFMR、東芝のJ-3100
当時は個人向けより業務用のPCの出荷量が多いのです
まあ今でもですが
Appleは1割未満と思われる >>813
日経パソコン1996年1月29日号「FMV-TOWNSの登場」に
「現在までの累計はようやく50万台に達したところだ」
「累計約50万台のうち、3割に当たる約15万台が教育向けに販売されたものだ」
とある いや、家庭用。販売ルートが違う
あと法人はFMR買うから X68k欲しかったな。
Townsはそこそこ中古の出物があってそのせいか安い(でも古い)のが手に入ったけどX68は安い中古のタマが少なかった。
専用ワープロ(または98)メインのユーザーがセカンド機として買うにはちょっと微妙だったな