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劉備の入蜀 益州争奪戦
0001名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/05/31(月) 20:44:46.61ID:aJ1I5xjg0
この辺が一番面白かった
0824名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/03(金) 01:49:22.24ID:OP1qKpIy0
書きこみが終わりましたから画面が切り替わらず 規制めんどい

手数だけど三戦ロダに挙げたからダウンして見て
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/warhis/1462108608/1
パスワード無し

マップ説明(ゲームの悪影響と言いつつゲームマップ引用)
1-楚漢戦争十八諸侯勢力図  劉邦の漢(南鄭)と南陽郡(宛)の王陵は隣接してるが・・・
2-項劉記シナリオ1 漢中王即位すBC206年8月  ゲームだとこういう状況 南は江陵かな
3-項劉記シナリオ2 項義帝を弑すBC205年3月  関中経由で連絡 漢中と宛の関係が分かる
4-関中は高地だが平地
5-房陵は始皇帝統一時、ロウアイの乱関係者流刑地 陸の孤島
6-漢中付近
7-黄巾の乱などの地図 山の絵でわかりやすいかも

全国に人口移動あったのは後漢成立時 それから200年経っても大軍の移動は適さない地域かと
一人くらい見てくれ ゼロだと無駄な労力になってしまうw
0825名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/03(金) 11:43:36.02ID:l/RsX6Ty0
なぜゲームマップw
0826名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/03(金) 11:51:59.41ID:0Z6NYXC+0
>>824
見たよ
ゲームの方のマップ(ファイル2,3)は位置関係がかえって分かりにくいように感じた
分かり易いのはファイル7

>劉邦の漢(南鄭)と南陽郡(宛)の王陵は隣接してる

文章としてはその通りなんだけど漢中(南鄭)と南陽郡苑城の間の距離は700Km。
南陽郡が広大で苑城はその最も東にありとてもとても遠い。
多分その距離的な遠さを示したいんだろうからファイル7だけで良かったようなw

何はともあれマップのアップ乙
後漢末の地図としてファイル7は地理史踏まえてよくできてると思う
日本で刊行されてる三国志関連の書籍の地図は出鱈目が過ぎてそれを元に作られたYoutube動画がとんでもない事になってるからね。
間違っている地図はまず夏口の位置が長江の北岸になっている。
これもコーエーのマップがそうなっている事から発生している間違いだと想像している。
正史読んでいけば南岸でないとおかしいのが分かる。
最近見た渡邉義浩の著作はちゃんと南岸になってた。
0827名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/03(金) 12:05:03.10ID:l/RsX6Ty0
>>822
『晋書』において、孟達は諸葛亮に「宛は洛陽から八百里の距離にあり、私のいる新城郡から千二百里の距離にあります。司馬懿が城に来るには、まず言上して帝意を汲まねばならず、手続きも含めれば一ヶ月近くかかるでしょう。その間に我が方は十分に防備を固められます」という手紙を送ったとされている。
司馬懿は、宛城から上庸の孟達のもとへ8日間で急行し、城を包囲して孟達を殺した。
手続きの日数を除けば、半月程度で攻城軍を送れるだけの道はあるのだろう。
であれば、魏の関中を手薄にするための牽制用に、上庸を獲ることは全くのムダというわけではない気がする。
0828名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/03(金) 13:50:12.83ID:ZcvGnzM+0
第一次は孟達を寝返らせた
第二,三次は張郃が関中諸軍を督して荊州へ行ってる
第四,五次は孟達を斬った司馬懿が対蜀司令官になっているのでやりづらかろう
0829名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/04(土) 18:48:02.28ID:LasNh2Tf0
>>827
孟達謀叛の少し前に漢水流域は洪水が発生していてただでさえ軍の移動が難しいこの山脈地を陸路で移動したとは考えにくいと思う。
川を船で移動したと考えたら方が良いんじゃないかな?
0831名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/10(金) 19:49:27.82ID:Vjv/KH180
劉表伝の考察が面白い
意図的に曹操、劉備と対比させて劉表の小物ぶりをアピールするために史実なのに記載していない事が多い
曹操、劉備、諸葛亮、司馬懿は編纂経緯からして都合の悪い記述が行われず彼等の政敵になったライバルはみんな割を食っていると思って正史を読まないと
0833名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 03:59:21.63ID:XgxIBUAO0
>>831
『三国志』及び斐注、『後漢書』などから劉表政権の年代記を作成してみると、
少なくとも「優柔不断で守勢の人物」や「(ただ単純に)保境安民に努めた人物」
とは言いがたい実像が浮かび上がってくる。200年頃までは孫堅・衰術、孫策との
争いや内乱に苦しみながらも、中原や益州(劉焉・劉璋)の動きを睨みつつ
揚州に揺さぶりをかけ、交趾(交州)をも窺っている。曹操も劉表をおさえこむために
交趾(交州)に張津を派遣し、長沙の張羨とも手を結んでいる。
特に荊州と交趾(交州)の関係は非常に密接であったと考えることができ、
200年以降は劉表も本格的に進出を図っている。

劉表は官渡の戦いの際に哀紹と曹操のどちらにつくかをはっきりとさせず、
結局衷紹につくことになるのだが、これはある意味で当然であった。
劉表が「王朝の正統な後継者」として勢力を拡大することを考えていたかどうか
については断言できないが、いずれにせよ衰紹と曹操が戦い潰しあってくれるほうが
良かったし、当時の曹操は衰紹に比べて弱小で衰紹が勝ってしまう可能性も高かった。
したがって、早急な判断はしないほうが良いと考えていたと思われる。

200年に長沙の張羨らとの戦いに勝利を収めた劉表は荊州を安定させ学校を設立し、
荊州学発展の礎を築いた。中平年間以降の荊州の混乱を考慮すると、荊州の豪族に
依存するところが大きかったとはいえ、劉表政権の統治能力は高かったように思われる。

しかし、官渡の戦いでの曹操の圧勝と河北制圧の結果(これは劉表の「読み」にも
なかったのではないだろうか)、曹操政権の優位が確立されていく中で、
苦しい立場に追い込まれていく。
そのような状況にあっても、(仲の悪い)孫権や劉璋の動きも警戒しつつ交趾(交州)を
狙い、曹操政権の後方撹乱工作も行い、劉備に「北伐」をさせるなど、いろいろと
取り組んではいたのである。
年代記から劉表政権を見ると、荊州内部を安定させることに苦労しながらも、
『三国志』巻二十一王粂伝・巻二十三斐潜伝や『後漢書』列伝巻六十四下劉表伝の
論にあるように少なくとも(単なる荊州一州の「保境安民」ではない)「西伯」としての
「割拠」を目指して(もしかすると「天子」を目指したかもしれないが)
対外的に様々な行動を起こしつつ、荊州学といわれる学問発展の礎を築いた
かなり優秀な人物であると思われる。

彼の死後、政権は崩壊してしまったが、これについては当時の曹操配下ですら勝てる
と思っていなかった官渡の戦いの結果という面もある。
簡単に「(荊州一・州の)保境安民に努めただけで、荊州外への領土拡大をしようと
しなかった」とするのは不当であろう。
史書にある評価よりは、少なくとももう少し上方修正して良いのではないかと考えている。
しかし、『三国志』などの史書を見ると、前向きな評価が非常に少なく、荊州に
籠って坐して敗れたというイメージを抱かせるような内容ばかりである。

これは、(年代記を見ると)劉表が曹操にとって本当に脅威を感じさせるような勢力
であったうえに、発言しているのが劉表政権を倒した曹操政権側の人物や劉表配下から
曹操に仕えた人物、そして劉表に仕えなかった人物(中には曹操や劉備に仕えた者も
いる)であることや、陳寿『三国志』や王沈『魏書』に曹操の「お気に入りのライバル」
・劉備の評価を高める傾向があることから、劉表の評価が意図的に低くされて
しまったためであると考えている。

そのような劉表(政権)評の中で、筆者が意外と正確なところを突いていると感じるのは、
『後漢書』別伝巻六十四下劉表伝の論や『三国志』巻六十四にある諸葛恪の議論なのである。
漢魏交替期の荊州から当時の動きを整理すると、中原や揚州、交趾(交州)への
積極的な働きかけと密接な関係が見て取れる。荊州をはじめとする各地域を中心とした
漢魏交替期の政治的・文化的動向を、出土資料・文献史料を批判的に用いながら
網羅的に整理し明らかにしていくことを今後の課題としたい。
  (劉表政権について漢魏交替期の荊州と交州 満田剛より)
0834名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 10:49:43.02ID:32biTmU+0
>>833
それも読んでいた
あと渡邉義浩の孫呉政権の形成を見ていくと荊州黄氏の動向も面白いなと

黄祖、黄蓋、黄忠は多分この一族で孔明の舅黄承彦もその1人かな

劉表、孫堅、劉備とそれぞれ仕える人が違うけどいずれも武官として高い信頼を受けて重鎮になっている
劉表の荊州刺史就任前から中原からの逃亡者が荊州に流入し天下騒乱の形成が色濃くなる時期に荊州の人々の生き方もダイナミックに変わっていった事を象徴しているのかなと想像
その辺の研究をしている人がいたらその論文なども読んでみたい
0835名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 13:49:00.97ID:I0QpwDsM0
833てコピペでしょ 満田剛さんの論文は何で誤字が多いの
衰術 哀紹 衷紹 衰紹 衰紹 衰紹
0836名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 20:16:01.93ID:rqnAD2xY0
同意
0837名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/15(水) 21:10:53.67ID:XgxIBUAO0
>>833
ゴメン
満田さんが誤字ってるわけではなく、PDF論文からのWindowsコピペ機能の精度の問題
0838名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 01:37:57.68ID:Mf0+mi2d0
さらっとしか読んでないけど単なる遠交近攻じゃないのかね。
曹操が劉表の後方の勢力である長沙の張羨と手を結び、
劉表はその後方の勢力と連絡を取る。

200年以降は劉表も本格的に進出を図っている
> とてもそう思えん。体調すぐれず使者交わす程度でしょ、曹操警戒で軍勢動かせないし。
こうして見ると劉表の勢力って人口の多い南陽や長沙を押さえておらず小さかったんだね
0839名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 02:01:55.14ID:Mf0+mi2d0
勢力が大きくないから動けず、位置的に戦乱で他地域から人が流れやすく、
人口が増え平和で名声が上がり...長沙を取った後は余は満足じゃ状態。
劉表は低評価だと持ち上げなくてもよさそうに感じる。
0840名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 19:37:31.42ID:JJmPQk8+0
>>839
長沙を獲った後も、ずっと交州狙い続けてたでしょ
交州刺史・頼恭、蒼梧太守・呉巨を送り込んで交州制圧を狙い、士燮は曹操に好を通じてこれに対抗した
0841名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:10:45.12ID:JJmPQk8+0
ほぼ単身で荊州に乗り込んで、蔡瑁・蒯越・蒯良を味方に付けて荊州の支配者となった
単なる弱腰の文人じゃない
自らも八俊と呼ばれる儒学者として学問を奨励振興し、「荊州学派」を生み出し、建安文学などの魏・晋の文化の祖の一人となった
なかなかの人物
0842名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:13:26.18ID:Mf0+mi2d0
>>840
官渡で曹操が勝ち、孫権が安定した後に交州制圧なんて狙えないだろう、夢物語
俺のとてもそう思えんて感想は変わらない 他の人がどう思うかは別に気にしないよ
0843名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/16(木) 20:19:50.44ID:WKa1ivOJ0
せやな
0844名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/17(金) 02:27:07.12ID:iiSU7SpT0
>>842
孫権が交州に手を出したのは劉表より10年後
呉巨が自立を企んで裏切らなければ、あり得ない話ではなかった
0845名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/17(金) 20:25:17.79ID:VkLFoX8E0
やね
0846名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 06:18:23.01ID:wR1JErV10
「軍部ナンバー1の都護の李厳と、ナンバー2の護軍・輔匡の仲が悪く、費観が取りなした」という話が季漢輔臣賛にある。
223年に劉備が巴東郡の永安で没し、それを看取った李厳は中都護・永安都督となり軍事を統括する立場となり、226年に北伐の後方支援のために巴郡の江州へ移る。
輔匡は夷陵の戦い前には巴東太守で、別動隊の督軍として戦いに参加した。
恐らくは輔匡は護軍・xx将軍・巴東太守として、呉に備えたり諸葛亮の南方征伐の後方支援として、永安・江州付近に中都護・李厳、振威将軍・巴郡太守・江州都督の費観、中護軍・征南将軍または鎮東将軍の趙雲、陳到たちとともに展開していたと考えられ、費観の仲裁逸話はこの当時のものだろう。

この223年から227年の劉禅即位~北伐までの期間の上級将軍たちの地位はこんな感じ。
李厳:中都護・仮節・尚書令?・興業将軍?・永安都督?・光禄勲・都郷侯で軍部のナンバー1 →前将軍・江州都督
輔匡:護軍・xx将軍・巴東太守で軍部のナンバー2 →鎮南将軍(さらに右将軍・中郷侯)
趙雲:中護軍・征南将軍・永昌亭侯 →鎮東将軍・永昌亭侯
魏延:鎮北将軍・漢中太守
費観:振威将軍・巴郡太守・江州都督・都亭侯 →▲早逝したから李厳が江州都督?
陳到:趙雲よりは下 →征西将軍・李厳の後任の永安都督・亭侯

中・前・左・右・後・無印のうち、中護軍の趙雲は護軍の最上位。
護軍の輔匡が、趙雲より上位の軍部ナンバー2ということは、名士階級出身であったからなのか。
それとも、趙雲が中護軍になった時期とはややずれているのだろうか。
0847名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 13:33:31.91ID:N/hpOAmW0
原文には軍部ナンバー1とかナンバー2のニュアンスはないだろ?
輔匡の年齢や地位が李厳に次いだのであって、趙雲は少なくとも年齢が輔匡より上で李厳と同世代以上だったんだろう
0848名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 17:57:44.17ID:wR1JErV10
名士中の名士である李厳がトップで、趙雲がその下であることはいいんだよ。
輔匡と趙雲の地位関係がどうだったのかを質問している。
0850名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 19:43:45.05ID:WkXmDnCB0
そもそも勘違いしているみたいだけど名士だから上とかはない
基本は官位で官位が同じなら官職で判断する事までしかできないよ
0851名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/18(土) 20:49:26.87ID:6Et5+o730
広州ねえ
0852名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/19(日) 22:29:49.93ID:0ce7UXgN0
李厳が、尚書令として行政で諸葛亮の次席、軍事では内外軍事統括の軍事首座につけられたのは、劉備の臨終の間際の223年
劉備には、諸葛亮の独裁を牽制する意図があったのかもね

一方、趙雲が中護軍になったのは同じ223年でも劉禅即位時
恐らく、輔匡は夷陵の戦いの時にはすでに護軍で、劉禅即位時に領軍か、あるいは領軍を飛び越えて監軍か軍師に昇進したんじゃないか
だから、中護軍の趙雲よりは上席となり、「地位が李厳に次ぐ」のだろう

趙雲、魏延、陳到、王平といったメンツが、その貢献度や仕えた年齢にも関わらず、班位・軍号において名士である輔匡・呉懿・呉班・劉琰・馮習・楊儀らと同格か格下におかれたのは、寒門出身・兵隊あがりだからなんだろうね
0853名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 09:44:07.68ID:2833OYoN0
>>852
呉懿も中原の武官上がりだよ
劉焉の入蜀に従って劉焉が蜀の支配を固める過程で活躍したと推測される
妹が劉焉の息子の劉瑁に嫁ぎ劉焉の外戚になり劉焉の後劉璋が跡を継いだ後も外戚武官の筆頭で重用された
劉備が入蜀してくると劉璋軍の総大将として劉備軍を迎え撃つが敗れた
劉瑁が若くして亡くなったので妹は未亡人だった
劉備は新たに加わった蜀の人々の人心掌握の為に劉璋時代の重臣だった呉懿を取り込むため未亡人になっていた呉懿の妹を正室に迎えた
これにより呉懿は劉備の外戚となった
呉班は呉懿の一族

楊儀は兵を率いる将軍ではなく左将軍府の兵曹掾から尚書、丞相府参軍長吏と軍の実戦部隊のライン長ではなく参謀スタッフとして働いた
一時的に太守になった次期はあるけどそれは魏領内の太守で実質的な仕事はない左遷人事だった
上記の事からその出身階層は名士層ではなく地方役人レベルの士レベルだと推測される
なので趙雲、王平と同じぐらい
蒋琬や費禕とは仕事上のやり取りが多かった事で魏延よりは彼等と繋がりは深かったというぐらいだと思う
また将軍位としては趙雲、魏延より常に下位
蜀に仕えてからの年数では王平より長かったので王平よりは上だった
劉禅即位の223年の時点では陳到は永安都督・征西将軍で楊儀より遥かに上の将軍

馮習に関しては夷陵で護軍(領軍)だった以外将軍号すら不明なので分からない事がほとんど
同時期で趙雲、陳到より上だったとは思えないけどね
そもそも黄権が劉備に随行していたらその護軍は黄権だっただろうからその場合は馮習は前部督とかだったと思われる
0854名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 12:40:16.72ID:KkeAXISl0
>>853
劉禅即位の223年の時点では陳到は永安都督・征西将軍 これはwiki陳到から?
李厳伝と華陽國志読んだが >>846の李厳の説明が合ってる気がする
0855名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 13:00:48.72ID:KkeAXISl0
で李厳は呉と交戦中から和睦、南征終了まで重責で永安にいたけど、
北伐の留守役として江州へ移動。
同じ永安でも後任の陳到は呉と同盟後で、老人の閑職扱いのような...
0856名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 17:27:38.13ID:nwbERMfn0
>>852
輔匡は鎮南将軍から右将軍になっているが、これが劉邕や高翔の後なら趙雲より上席のはずがない。
前だったとしても、第一次北伐でも中監軍ケ芝より趙雲が主将とされたし趙雲の方が上だろう。
0858名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 20:17:23.89ID:t2APqxGk0
>>853
そんなWikipediaレベルの話は、このスレの住人なら知ってると思いますよ。
>>852が言っている兵隊あがりというのは、武官であることと意味が違う。
官僚になる/推挙されるだけの名声・知識・徳・血筋もなく、武力・武功だけでなりあがった人間のこと。

呉懿は、劉璋の姻戚・劉備の外戚。
兗州陳留郡の呉氏がどうだったは知らないけど、呉匡という大将軍の有力家臣を叔父に持っている。
兵隊あがりとはとても言えない。
0859名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 20:41:36.34ID:t2APqxGk0
>>856
演義ではなく、正史にも趙雲が主将、鄧芝が副将という記述ありましたっけ。
軍を率いたのは趙雲だけど、主・副の関係ではなく、鄧芝は趙雲に対し督軍あるいは監軍だったのでは。
鄧艾・鍾会に対する衛瓘みたいに。
0861名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 21:52:37.86ID:t2APqxGk0
>>860
蜀に限っては、都護>軍師>監軍>領軍>護軍>典軍>参軍は明確な序列という研究がある。
0862名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/20(月) 22:09:57.00ID:QdCipiiv0
まあそもそも輔匡が領軍以上になった記述がないんですけどね
0863名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/21(火) 04:24:39.31ID:AH3ADF/H0
黄権の鎮北は漢中争奪やその前哨戦での功績
魏延・王平の鎮北は漢中守護の功績
申耽の征北は上庸の支配者だったから
黄忠・陳到の征西は入蜀時の功績
魏延・張翼の征西は北伐の功績
姜維の征西・鎮西は北伐の功績
趙雲の鎮東は夷陵の戦いの功績
趙雲の征南は荊州四郡攻略の功績
馬忠の鎮南は南中守護の功績
だとして、輔匡の鎮南は何だろう
ライ降都督(南中都督)になったことはないから、237年就任という時期から考えて、諸葛亮の南方征伐に同行してた?
0864名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/21(火) 08:50:25.83ID:PIP7BIdB0
劉備の蜀取りの頃から従軍して夷陵にも従軍してたみたいだから20年以上仕えた経歴があって上位の将軍達がその間に沢山亡くなってたから昇格が続いたかな

劉備配下に限らず曹操や孫権の配下も主君の勢力拡大や王、皇帝と称号が上がる毎に配下に与えられる将軍号もインフレしていくからその影響もあると思う

劉備が蜀侵攻を始めた頃は最上位の関羽でさえ温冦将軍
漢中王大司馬を僭称した後には最上位の将軍号が左右前後
皇帝即位で驃騎将軍馬超、車騎将軍張飛が最上位
ドンドン上位の将軍号を与えていくようになってるからね

将軍号が上がると与える膣も増えるから待遇もよくなるから配下からしたらありがたいと思うけど蜀のような小国でそんなに沢山支給できかのか?って疑ってしまう
0865名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/21(火) 09:05:14.33ID:effeyL8l0
ベトナムやん
0866名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/21(火) 10:46:17.40ID:Wf5vakyh0
華陽国志の「時南郡輔匡元弼、零陵劉邕南和、官亦至鎮南将軍」の辺りは、そのまま読むと鎮南将軍が二人いることになったりしてよく分からないが
輔匡は237年まで生きていて右将軍になったのも高翔よりあとに思う

季漢輔臣賛費観伝の原文は「都護李嚴性自矜高,護軍輔匡等年位與嚴相次,而嚴不與親褻」
そもそも都護李厳が護軍輔匡らと親しまずとあるので、たとえ輔匡が後に軍師まで昇進していたとしてもそこは関係がない

輔匡は巴東太守でもあったので李厳の指揮下に入ったが親しまなかったので書かれたのだろう
中護軍として諸葛亮軍の中核にいた趙雲は話の埒外であり、輔匡が237年まで生きたことを思えば輔匡は陳到の後任の永安督だったのだろう
0871名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2024/05/21(火) 23:03:58.80ID:AH3ADF/H0
趙雲は夷陵の戦い時点では、前護軍以下の護軍だったのか。
それとも典軍か、参軍だったのか。
夷陵の戦いでも、護軍以上と思われる人物に指揮官の馮習、先鋒の張南、黄権、呉班や、帰り新参の廖化を除く輔匡、趙融、傅彤といった別督たちなどがいたことを考えると、昇進控え目やね。
まあ、それが趙雲が了解の上での、劉備の意図的な人事だと同時代の人たちも理解していたから、諡号を贈られ「関張馬黄趙伝」として立伝されたんだろうけど。
0872名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2024/05/21(火) 23:53:24.46ID:sUw5BFE70
>>871
遠征軍の本営が護軍なんで夷陵の戦いに参加していない人はその護軍には当然入らない
反対に本営の護軍には兵を率いない兵站、武器などの輸送管理調達を担当する下位の武官や節の管理受け渡しなどをする射僕や伝来記録などをする従事などの文官もいる

劉備は左将軍を名乗っていた時には左将軍府という幕府を開いて軍政の中心メンバーをこの中に取り込む形で領域支配をしていた
皇帝即位後の夷陵の戦いではその為の護軍を作って本営とした
皇帝の護軍になるので最高責任者は当然皇帝劉備本人で中護軍がその元で直接指揮を取り先鋒、後詰にそれぞれ主将となる将軍を置き節と呼ばれる符号を一時的に与えて(これを仮節という)大きな権限を持たせて指揮を取らせた

節に関しては大庭脩(おおばおさむ)という学者が『漢代の節について』という論文を書いていてこれがとても分かりやすくて黄巾の乱以降-三国志の時代の話も具体例を挙げて話をまとめてあって読みやすい
ググったらPDFファイルが拾えるから良かったらどーぞ
0873名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2024/05/21(火) 23:56:30.20ID:FX5zIO1O0
>>870
永安府かもしくは江州もすでに都護李厳の管轄だったのかもしれないが
李厳が蜀全体の軍事首座だったというのに無理があると思う
永安には夷陵から撤退した諸軍がいたので病気の自分の代わりに李厳に諸軍を任せたのだろう
一時的とはいえ劉備の代わりを任された李厳も重いが、蜀軍全体の指揮権を持っているのは丞相諸葛亮に見える
0874名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/22(水) 03:21:47.67ID:yvkaO2lq0
>>873
「三年先主疾病、嚴與諸葛亮並受遺詔輔少主。以嚴爲中都護、統內外軍事、留鎭永安。」
一時的な代わりにじゃなくて、諸葛亮ととも劉備からはっきり託孤の遺詔を受けている
当時の主敵は、はるか遠い魏じゃなくて、張郃を遡ってくる可能性がある呉だから、李厳が中都護として内外の軍事を統括する立場として永安を任されている
上の方で誰かが書いていたけど、明らかに諸葛亮を牽制する存在だ
「俺の子に才能がなければ取って代われ」という言葉を李厳の目の前で諸葛亮に言いつつ、逆に諸葛亮の目の前で李厳をライバルに昇格させる劉備もなかなか意地が悪いw
0875名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/22(水) 03:22:24.30ID:yvkaO2lq0
張郃じゃなくて長江だわw
0876名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/22(水) 09:19:03.43ID:FIdpNOMH0
わろた
0877名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/22(水) 09:54:20.76ID:qWljDswY0
劉備、孔明って益州攻める前から荊州で李厳と面識あったのかな
あったとしたらどの程度の関係だったのだろう
小説とかで書いてる人いたら教えて
0878名無しさん@お腹いっぱい。
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2024/05/22(水) 10:11:02.32ID:7SbPDLCY0
>>874
でも南征も北伐も総司令官は諸葛亮で、李厳を江州に移屯させたり漢中に来させたり、力関係の差は明らかだと思うんだよね
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