石田三成の挙兵 ★3
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立ておつ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/21/0015?m=all&s=0014&n=20
以上の諸書を総合すると、慶長四年十月に家康は近臣柴田左近を佐和山に派遣
三成は大喜びして「よき亭主ふり無残所」さまざまに歓待し、脇差しを贈った
誓詞も家康に献じた
三成は加賀陣に備え、越前で兵糧を買い集めていた
この頃はとても協力的
時代が近い史料ほどどういう使いなのか不明と記しているが、関ヶ原合戦誌記というのになると、雑説があるので本多中書も派遣して探らせると、城の破損部位も構わず見せたので、謀反の疑い無しと報告したと
どこまで信用するかはともかく、慶長四年中は少なくとも現体制下で過ごすつもりだったのではないだろうか 漫画「センゴク」書いてた作者が、新たに関ヶ原の漫画始めてたな
あの先生、奇抜なことよく言い出すけど、今度は奉行が大老と同格みたいなこと言ってたが
奉行って勘違いマンだったのか? >>5
いや、あの先生は結構史料出してくるのに、
奇抜なこと言いだすから面白いんだよ
真に受けてるんじゃなくて、そういうのも一見するのはいいだろ
今回は1598年9月2日の内藤書状を出していたが ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/21/0015?m=all&s=0014&n=20
慶長見聞書
「柴田左近を為御使、佐和山へ被遣、此使治部少輔忝存候よし、誓紙を以被申上候、左近に国光の脇差を出し候と也、石田も加賀陣の用意とて、越前にて兵糧をあまた求申候、左近は御歩行衆の頭也」
武徳安民記によると、十月六日のこととか
これが関ヶ原合戦誌記になると、佐和山偵察を命じられた本多中書が、謀反の疑いなきことを家康に報告する
その上で、筆者は「口伝」があるといい、家康の真意について「中務見て来る故、七人の衆の雑説止むなり」と分析している
石田の謀反の雑説というより、吹き上がっている武断派を押さえるための使者派遣だと
これが真実に近いのではないだろうか >>4
職制上は同格だろ。職域が違っただけで上も下もない まあ奉行側が大老側に負けない程度の権限があると思ってたのはそうだろうよ
家康ら大老は自分らの言う事を追認する判子マシーンであってほしかっただろう
というか、家康はそれでもよかった可能性すらあると思ってる
自分の権限や立場、地位を保証してくれさえすれば、この時点の徳川が豊臣を
どうこうする理由なんか別にないのだから、後継の立場も太閤遺言で保証されてるしね
問題は奉行側が徳川(前田や浅野もそうかもしれない)を完全排除対象としか見ていない事だ 豊臣公儀自体が未発達なもんだし言い方次第じゃないの?
100万石持ってる奴と10万程度の奴が同じ発言権って言えば同格っぽく見せられるし。 内藤隆春書状では「奉行と家康の仲が既に険悪」とあったらしいな
この書状は知らなかった 政権を担うものたちの職制という意味では
豊臣政権はかなり未整備だが
一応官位による統制はかなり強力に進めてた
全国の大名やその有力家臣にまで官位を配って
公家に倣って豊臣関白家を頂点とした家格を定めた
それなのに公卿で関白家に継ぐ清華成の大老と
せいぜい従四位、ほとんど従五位で諸大夫の奉行ら
同格だと言ってしまうと秀吉の関白就任以来
定めてきた秩序を白紙に戻すに等しい
まあ実際それに近いことをしでかそうとして
結果あまり支持されず従来の格付けで
当時トップの家康に敗れたとも言えるのだが いちおう政治システムとしての体裁をとってた鎌倉府や足利将軍に比べても
秀吉政権はいかにも田舎の成金が思い付いてやってる感がなぁ
いわんや江戸幕府をや
豊臣恩顧とかいってるけど
早い話がものすごい身内びいきなんで
やっぱり早晩破綻してたとはおもうよ ただ、豊臣政権はある程度仕方ない部分もある(そも、身内というか譜代優遇は当然だが)
というのは、秀吉自体が成り上がり者であり、譜代の家臣がそもそも存在しないという点だ
その為、子飼いをある程度身内びいきしてでも役職に就けたり官位優遇したりして
譜代を形成していかざるを得ないという事情があると思われる
比較するような形になるが、徳川の場合「関ヶ原前から徳川家臣だったら譜代」って事にして
人材の大幅な水増しを行っているね(要は身内の範囲を大幅に広げた形)
秀吉の場合…どうすりゃよかったんだろう、実質水増し出来るタイミングがないよな
関白就任時じゃもう遅い気がするし、それ以前だと織田家との関係もあるし…… 印象論ばっかりだなあ
大老と奉行の職権の重さについては明確に史料がある
慶長三年九月三日の五大老と五奉行連署による起請文前書案
その中に「諸事御仕置等之儀、其軽重をけつし(決し)、十人之衆中、多分に付而可相究事」という一条がある
大老も奉行も一人一票の多数決
これを厳密に適用するならば、中央政界からは上杉、前田に浅野、石田が離れていたわけで、残る六人のうち、四人が一致すれば政権の正式な方針とは見なせる
ちかひの条々も檄文も五人連署だからすでに要件は満たしていると考えてもいい そうした事情を前提として
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/7/0067?m=all&s=0066&n=20
上記史料(松井家譜所収の慶長五年七月十二日付書状)では長、増、徳の三人が輝元に対し、「大坂御仕置之儀に付而、可得御意儀候間」、早く大坂に来てちょーだいと求めている
四人になれば過半数という意識も働いていたんじゃないだろうか
と同日付で、卜斎覚書によると増田は石田の雑説を家康のもとに報じているので業が深い >>9
「諸事御仕置等之儀、其軽重をけつし(決し)、十人之衆中、多分に付而可相究事」
あると思っていたではなく、実際にあったんです
>>13
江戸幕府だって官位官職と幕府内の役職は正比例するどころか反比例してるでしょ
秩序の形成と実権は分けて考えないと暴論だよ
豊臣政権の職制は未分化という「印象論」に引きずられているだけ それつまり逆に言えば秀吉の死後に
十人衆だけで決めたことで
秀吉生前にはそのような権限はなく
秀吉はそこまでの権限を与えてない
ということだな あと徳川幕府と比べて豊臣政権の職制が
整備されてないのは単なる事実だよ
老中や大老のような決定権者も決まってないし
それに至る役職も不明確だった
決定権者の官位が最高でないと言うだけで
同じと扱うのはいくら何でも乱暴すぎる
江戸幕府における幕閣が官位が上の大名に
差配できるのはさらに上位の将軍の家臣として
将軍の政府である幕府として命じるから
豊臣政権の奉行が諸大名を差し置いて
政治を行ってたのもそれと似た理屈なのだが
豊臣家が武家の最高位者であるという状況も
秀吉の死によって崩れ去り
関白として政治を執り行うという建前は
秀次事件で打ち捨てられたまま
さらに政権としての職制も未分化で
職名すらない奉行といわれる連中は
自分達を単に豊臣家の「おとな」
重臣であるとだけ名乗ってる始末 十人衆じたい秀吉が人事不省におちいったから緊急避難的に整えたもので
秀吉体制でもともと想定されてたものではないでしょ 国連の投票だって、アメリカも聞いたこともないような小国も同じ一票になるだけど
別に権限が同じなわけではない
三成たちが馬鹿だからそういう原理に気付かず増長していただけ 結局それに尽きるよな
五大老という当時なかった呼称はともかく
その枠組はかつて政権が整備した清華成の家格と
公卿の地位という武家官位の序列に求めることができる
(小早川秀秋のような例外は出てしまうが)
では残り5人は如何なる根拠によって
その枠組みに入ったのか
「委細五人者ニ云々」という遺言は確かにあるものの
それは単に遺言の内容を伝えてあるというだけで
五人に大老たちに並ぶ(あるいは凌駕する)
権限を与えてるとは言えないだろうし
もしそうしたいという遺言ならそう書く(言う)わな 力の原理を軽んじてるのは現代人のほうなのでは?
三成が増長してたかどうかはともかく相応の力はあったんじゃないの >>19
起請文の一番大事な前書で、十人が連署してるんだぞ
全員が納得できる内容と考えざるを得ず、秀吉の意向から大きく外れてもないんだろう
>>20
十人衆の力の源泉というか、大義は秀吉の遺言であり秀頼の権威だろ
その上でなんで一次史料の、しかも起請文なんて重要文書を無視できるのか不思議
君のいうことを真に受けると、五奉行が秀吉の意向も無視して勝手にしゃしゃり出て、五大老がそれに屈した構図になる
>>22
まったく組織形態が違う国連と例えることにどういう意味があるのか
あえてあえて例えるなら十人衆は安保理常任理事国だろ
それもあえて例えるなら、だ
はっきりいってまったく無意味
>>23
繰り返しになるが、ならば五大老は秀吉の意向でもないのに、自分達の権限を薄める起請文に連署し、神仏に誓ったことになる
五大老はお人好しだったのかな?
まだ、家康の権限を弱めるためにその他の大老と奉行が結託して飲ませた、という陰謀論の方が筋がいい(そこまで押し込んでるのに家康に好き放題されてるわけですが)
むしろ、権限平等の多数決原理を導入しながら、家康専横を許したという側面をこそ考察すべきじゃないのかねえ ちかひの条々と檄文、多数決の十人衆という視点で読み直すことをお勧めする
「誓詞と遺言に背いてるじゃねーか」というオンパレードであり、誓詞は九月三日のものだ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0083?m=all&s=0048&n=20
これなんかだと十人衆の約束を破ったことが冒頭に出てきている そもそも大老衆で天下政治に興味があるのは徳川家康と前田利家くらいだからね。上杉景勝なんて秀吉から帰国の許可を貰ってた(と本人は主張している)
十人衆合議は十人衆が同じ場所に居ないと意味が無い。初めから破綻してたんだな。 >>25
1点目(19へのレスについて)
だからそれはあくまでそこまで
政権には正式に何の位置付けもない
十人衆の間での合意だよ
秀吉の意志によるなら何故生前整備しなかった?
あなたは秀吉の意志だと結論づけるが
その根拠は起請文がある、その中で最初に書いてある
だけではないか?それが何故根拠になるの?
2点目(20へのレスについて)
論点は職制が整備されてたかだぞ
何故起請文がるというだけでその論拠になるのか
そもそも十人衆の職名も決まっておらず
明確な職分、職分を果たすための部下も定まらない
それらが決まってた徳川幕府と比べて
職制が整備されてないのは単なる事実で
誰も起請文を無視なんてしてない
起請文があるから整備されてたなんて言えないてだけ >>25
3点目(23へのレスについて)
陰謀論というのは何らかの事件の裏に黒幕がある
というもので例えば七将は家康に命じられてたとか
そういうの
そういう話は俺は一切しておらず
奉行と家康利家の大老間で権力闘争があった
と主張してるに過ぎない
政権の意思決定は彼らによって決まるのではなく
あくまで秀吉が決めるのが生前の仕組み
秀吉生前には奉行は秀吉の命を奉じる存在で
秀吉や大老と合議を行うという例はない
死後にそれを飲ませてるというのは単なる事実だし
それを何の史料的裏付けもなく秀吉の意志だとして
そこに権力闘争があったと言うと陰謀論扱い
それは流石にフェアではないよ 俺も繰り返すが起請文は秀吉死後に成立したもの
秀吉の意志の証明にはならんし
内容的に徳川幕府のような職制が
それによって整備されたとも言えない >>29
秀吉の遺言を見てみるのが手っ取り早かろう
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0201/0135?m=all&s=0135
上記は一番まとまっている浅野家文書ね
秀吉がもっとも重要視したこと、それは秀頼の未来だということには異論なかろ
それをどう担保しようとしたか
家康は「孫むこ」、利家は「おさなともたち」であり、血縁と個人的な関係性だ
ここに血縁や官職、役料などで秀忠と利長がぶら下がる
秀家は「幼少より御取立」の縁があり、ここの記述で「御奉行五人」と「おとな五人」(もしくは年寄)という職制がこのとき整備されたことが分かる
関ヶ原前後でごねる景勝と輝元は一番関係性がいい加減で、「りちき(律儀)」に盛り立ててね、だけ
一方、いわゆる五奉行(年寄)については「誰々成共背御法度申事を仕出し候ははさけさや(下げ鞘)の躰にて罷出」、追い腹覚悟で処理に当たれと命じられている
もうひとつ職務があり、豊臣家の会計処理で、家康と利家が監査することになっている
「誰々成共」という記述と合わせ、大老奉行がお互いに監視しあう体制を秀吉が望んでいたことが分かる
続く >>33
「何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、其次第相究候へと、被成御意候事」とあり、政策決定や裁決については家康と利家の認可を求めている
具体的には「伏見には内府御座候て、諸職被成御肝煎(裁定や人事管理)候へと御意候」
前田と長束が在城し、サポートせいと命じている
対して利家は大坂に入り、豊臣家政の肝煎役となった
遺言を見ると、のちの十人衆によるお互いの権限、権利の抑制などは一切触れられていない
職制が未整備との指摘があったが、江戸幕府ほどシステマティックではないものの、秀吉が明確にいわゆる大老、奉行の職を設置したことが浅野家文書から分かる
家康と利家は抜きん出た権限を持っているようだが、逆にいえば「肝煎」(世話役くらいに考えておきたい)程度の権限しか与えられておらず、そもそも政策立案の主導者はあくまで奉行の側にあり、家康と利家は認可を与えるものにとどまっていたとも理解できる
たとえば慶長三年八月五日、五奉行が家康と利家に宛てた起請文がある(まだ秀吉存命なので秀吉の考えが当然反映されているとみなしうる)
ここでは「御法度御置目等諸事、今迄のことくたるへき儀勿論候、并公事篇之儀、五人として難相究儀は、家康利家得御意、然上を以、急度伺上意、可随其事」となっている
法度置き目は秀吉時代と変わらない、公事(裁判)については奉行五人で決めかねたときは家康と利家の意見を聞きます、と
よくよく見てみると、家康に許された権限というのはあまりないのです
問題は、こうした文脈の中で秀吉死後に誓約した「十人衆で多数決」をどう捉えるか
生前とさして変わっていないととるか、奉行側が巻き返したととるか、はたまた第三の解釈か
家康はあまり気にしていなかったように思えるけどね 忠臣家康は豊臣の為に尽力してた
気がつけば周りが勝手に家康を天下人にしてただけ 十人衆が伏見と大坂に分かれてるのに合議とかできるものなのか >>36
厳密に十人が顔を揃えて一つ一つ議決するわけではなかろう
基本的には秀頼の成人まで新規政策は凍結される予定だったわけだし
大老と奉行の関係性を示す面白い史料がある
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-3/15/0029?m=all&s=0028&n=20
博打や相撲を改めて禁止したごくごく普通の法度なのだが、五大老が五奉行に宛てて誓約している
内容は「自身之儀は不及申、家来之者共下々に至る迄、御法度之旨」に注意すべきとした上で、背くものがいれば成敗し、「其時少も存分申ましく候」
つまり、五大老の家来であっても五奉行の裁きで成敗されて仕方ありません、文句は言いませんと誓っている
両者の関係性と実務の分担などがよく分かる文書だと思うね なるほど厳密に多数決だったわけでもないし
重要案件凍結という秀吉の遺志を覆して
十人衆が決める仕組みを作ろうとしてたし
奉行の巻き返しという見方も否定できないと >>36
慶長3年9月7日若しくは慶長4年1月7日に比定された宇喜多秀家宛石田三成書状見ると、
合議のため家康のもとに集まっていた形跡は一応確認できる
発給された日付を見ると慶長3年9月なら秀吉の死の直後だし、
慶長4年1月なら秀頼の大坂城移徙の直前に集まったと思われる
いずれも重要な時期だし顔を突き合わせての合議も理解できるけど、
それ以外はこうやって集まることは少なかったんじゃないかと推測する
この時でさえ増田と前田玄以は欠席してるし
「早々いへやすへ御出被成候へく候、各はや御出候由にて候、
我等・あさたん・長大も参候、増右・とくせんハ御城御用にて不参候、此者御申候、かしく、
七日 三成(花押)」
早々に家康の所(伏見)へおいでください。各々(大老衆)も既にお着きとのことです。
私(三成)・浅野・長束も参ります。増田と徳善院はお城の御用で参りません。
詳しくはこの者からは申し上げます。 政策を断行する『力』は大大名である五大老、なかでも徳川家に頼らざるを得なかったわけで
奉行衆と前田利家が束になって家康の私婚を詰問したけどウヤムヤにされてるから
つまるところ多数決ですらなかったのよね >>38
否定はしないが、なにか史料なり論文なり、示してもらいとこではあるね
そっちだと言いたいなら
そういうのが一切ないから印象論ばっかだよね、と指摘してるわけですよ >>39
興味深い史料ですね
前田は伏見で、増田は大坂でそれぞれの仕事をやっていたということでもあるんでしょう
議題はなんなのか、それと同じ話ですがいつに比定するのかが決定的に重要ですね >>30
まあ駄目押しに
慶長三年八月十一日(秀吉生前)に五奉行(いわゆる大老)に対していわゆる五奉行(此方五人間=年寄=いわゆる五奉行)が宛てた誓約
一 今度被成御定、対五人之御奉行衆、不可存隔心候、如何様中説申候トモ、御直二御理申入可相澄候、其上切々得御意、秀頼様御為可然様二、可奉抽忠功事
一 此方五人間之儀、是又致入魂、無隔心、節々致参会、諸事可申談事
これでも秀吉生前に最低限の職制すら定められていないと言いますかい?
大老奉行の関係性も分かりますしね >>43
俺が職制の未整備について書いてきたのは
徳川幕府や室町幕府との比較してだぞ
「最低限」なんてこれまで誰も語ってない定義を
今更もちだして何がしたいんだ? あと政権を運営する上で最低限の整備も
それによってなされてたとは言えないだろ
たったそれだけでうまくいくなら何故
この世にはもっと複雑な仕組みがあるのか? 室町幕府も江戸幕府も政権のシステム構築には何代かかけて政争や権力闘争もあるが
共通してるのはその主体があくまで主家と運命共同体の一門や譜代で外様の入り込む余地がなかったこと
政権のトップが将軍という幼児でも就任できるもので政権の象徴性が失われなかったこと
豊臣政権はこの2つともなかったんだから職制云々以前の話
何度か言ってるが家康なんて例え豊臣に忠誠心があったとしても
その豊臣家が自家の地位と繁栄を保証してくれるにはあまりに頼りないんだから
自家を守るためにも色々動いて当たり前だったと思うし何の実力も無くなっていた豊臣家に非難される謂れはない 別に徳川だけ擁護してるつもりではなくて
そもそも毛利上杉ら他の大諸侯も自家を犠牲にしてまで豊臣を支える動機などなく
あくまで自家の利益最優先でその範囲内で豊臣を支えることが自家の利益になるならそうするだけのこと
言い換えれば豊臣を自家の利益に使えるなら使うし使えないなら捨てる
秀吉死後の豊臣家なんてのはその程度のものでしかなくなっていた >>45
ゴールポスト動かしちゃ駄目ですよ
秀吉の意志によるなら何故生前整備しなかった?
あなたは秀吉の意志だと結論づけるが
その根拠は起請文がある、その中で最初に書いてある
だけではないか?それが何故根拠になるの?
とか
俺も繰り返すが起請文は秀吉死後に成立したもの
秀吉の意志の証明にはならんし
とあったから、秀吉生前に奉行(五大老)、此方五人(年寄=五奉行)が整備されていたという証拠を出したまでです
「今度被成御定」の「御」は秀吉への敬意であることは明らか
そしてそれはある種、お互いを監視しあう緊張関係を持つように設計されていたということを各種史料を挙げて説明してきました
それと、その制度が設計通りに機能したかは別の話です
というより、機能しなかったから二年ももたずに瓦解したわけで、そこは争いはないんじゃないですか? >>48
すまんがあなたが急に「最低限」とか言い出したのこそ
「ゴールポスト動かした」と思ってたわ
・徳川幕府や室町幕府のような職制が整備されてたか?
は俺が繰り返し否定してきた点
それは明確に否定されてるということでいいね?
・十人衆が生前秀吉の意志によって定められてたか?
というもう一つの点だが
時系列的には確かに生前に成立してたと
することは可能だね
その点は確認した
十人衆は秀吉が晩年になって病状深刻な中
突然成立したと認識を改めよう 十人衆とか言われてもな
他の大名や豊臣本家が徳川家康以外認めてないのは関ケ原の顛末を見ても明らか
ということは公式なものでは無かったということだろ
誓詞は職場のローカルルール扱い程度じゃね >>49
可能だね、じゃなく不可能なら各種史料が偽書や誤りであると証明してもらわないと
明確に書いてあったでしょ?
論点としては、十人衆体制がどう推移したかでしょう
慶長四年一月には家康の婚姻政策に抗議、問責があった
以後、三月に利家他界、直後に三成失脚
七月には上杉景勝が会津に帰る、家康秀忠は歓迎(https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/18/0021?m=all&s=0021&n=20)
関ヶ原軍記大成によると理由は病だが、越後古実聞書は「内府様伏見(おそらく大坂の誤り)の御城へ御移被成に付而」としている
九月には家康は大坂の石田正澄亭に移った
遺言に背くし、せめて豊臣家政を司ったかと思いきや、島津氏文書によると、「内府様大坂へ御下なされ、国家の置目等被仰付候通、従毛利殿注進」とのことttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/19/0091?m=all&s=0091&n=20
国許の義久がどんな経緯だったのか、義弘に問い合わせている
同月、前田利長と浅野長政が家康暗殺のかどで事実上、失脚
家康の大坂入城の前後で十人衆のうち、利家は他界、景勝は追い出されるように帰国、石田三成、利長、浅野が失脚し、中央政界に残ったのは六人だけ
同月二十六日には北政所まで大坂から京都へ移る
この顛末を義円准后日記では「小坂城は内府へ御渡か」とみている
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/19/0097?m=all&s=0091&n=20
遅くとも慶長四年九月の大坂入城の頃には十人衆は崩壊済みで、家康専制体制になってますね
ここからは表面上はともかく、関ヶ原へ一直線 >>4
コミック乱で連載しているのか?
今回は明と日本の和睦で加藤清正、小西行長のどちらを使者にするかで
家康と奉行衆がもめてたな
それで石田三成と浅野長政の対立が決定的になったみたいにあったが 秀吉が合議制を構想していた筈は無いからなぁ。
だとしたら上杉景勝は大嘘ついてたんか?って話になるし。 >>51
何を言いたいのかわからない
可能だと言ってる俺が何故に
不可能だと証明する必要があるんだ? >>51
どのように推移したかを論点としたいなら
秀吉が衰えてしまい病床についた後に
ようやく出てきた体制だという点は
俺としては結論が出てるよ >>52
一次史料でもこの二人仲悪いからなぁ…なんなら秀吉存命時から仲悪い そもそも奉行衆、というか奉行派にも問題あると思う
というか、晩年の秀吉はやはりおかしい
朝鮮出兵の和議で奉行らは明らかに秀吉に偽の報告を繰り返してるのに、これ秀吉は全く気付いてなかったのか? >>55
いや、素直に誤りを認めろよって、私なりの皮肉のつもりだったんだが
下手くそでどーもすいません
あなたの中でなんの結論が出ているのか知らないが、少なくとも他人にも理解してもらおうと思うなら、史料なり論文なり、根拠を示されたらどーでしょうか
一つもそういうものには触れられず、なぜか勝手に断定されるもので、こちらとしては検証すらできないんですよね
あと、十人衆がちゃんと合議していたケースというか、時期もあるんですよ
一番分かりやすいのは朝鮮撤兵に関してですわ
慶長三年十一月二日付け島津ら宛て石田、浅野書状では「最前御奉行衆、年寄衆対談之上」朝鮮に使者派遣や撤兵の意向を伝えたとある
朝鮮撤兵については秀吉以外は誰もが迷惑していたので、十人衆としても合意形成がしやすかったというか、利害が一致したのでしょう
もう翌年正月には家康と利家がいがみ合ったり、十人衆としてのまとまった行動はみられなくなりますが
まあ何でもいいのでソース出す癖くらいは付けましょうね >>58
???
死後と言ったのは死の直前だったと認めてるけど?
そこが読み取れなかったってこと?? >>59
ああもう結構です
それより史料なり論文なり、今後は出すようにしてくださいね 既に出てる史料で十分なのに
何故無駄に出す必要あるの?
あなた史料出してマウント取りたいだけ
とか言われてなかった?
そういうとこだぞ
史料はもちろん大事だけど
相手を言い負かそうと頑張るんじゃなく
何を言わんとしてるかをちゃんと考えた方がいいぞ >>61
あなたすでに出てる史料すら知らないもんで、だから秀吉生前から大老奉行が置かれたことも知らなかったんでしょ?
別に翻刻してくれとは言わないから、すでに出ている史料に当たりがあるなら史料名だけでも挙げてくれないですか?
マウントどうのという下らない話じゃなく、持論を述べるなら根拠となる史料を提示するのは史学の基本でしょ?
私はできうる限り挙げているので、他人による検証待ちなんですけど、史料そのものへの解釈の話にてんでならないんだよね
たとえば下記史料
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/21/0015?m=all&s=0014&n=20
これなんか読むと慶長四年十月までは三成は家康に融和的に思えるんだが、実際にはどうなのか >>58
この書状を見れば分かる通り、十人衆合議とかは制度化もされてないし実態として働いてなかった。慶長三年十月には石田三成・浅野長政は九州に居た。どうして彼らが遠く伏見の大老・奉行と「合議」ができようか?出来るはずもない。
五大老・五奉行は実は何ら制度化されていない、名前だけの(正確には名前すら無い)ものだった。一応五奉行は自分達がイニシアチブを取ろうとしていたが、失敗した。 >>63
制度化されていたとしても、秀吉の死の直前にできたものだから
体制になるまでの時間が全然足りない >>52
史実だと五大老連署状(慶長3年9月5日付)で清正が和睦を調整する方向で進めながらも、
清正で難航するようなら誰でもいいから至急和睦をまとめろと言ってるんだよな
それに加えて朝鮮の王子が日本に来くれば一番手っ取り早いが、無理なら貢物だけでも良しとする
貢物の多寡は問わないから日本の体裁が保てればいいとも言ってる >>63
そこら辺、いちいち説明するの手間なんで「豊臣五大老・五奉行についての一考察」という論文のPDFがネットに転がってるので読んではどうでしょうかね
結論だけ言えば、「奉行衆」という名の五大老、「年寄衆」という名の五奉行が成立している
だからといって秀吉の目指した十人衆体制が機能したのは皮肉にも朝鮮撤兵までで、翌年一月には対立が表面化し、九月、十月には家康の大坂入城で家康専制体制が固まった
そんなことを縷々、史料を挙げて述べてきたわけです
それとは別に
先の論文にも引かれた起請文なんですが、要約すれば「秀吉はボケているから、領土やると言い出しても取り次いじゃいけないし、もちろん取り次ぐ人間も領土もらっちゃダメです。秀吉の病が快復するまで(そんなことはないと分かっていたはずだが)領土関連は凍結しましょう」なんて一文がある
秀吉の目指す体制へ動くと同時に、秀吉の手を離れて十人衆が勝手に取り決めを交わす部分もあったと分かります
そういうのが紛れ込んでいるのが、平易な理解を拒む一因なんでしょう そもそも秀長も秀次も亡き状態で、豊臣の家政までできる権利がある人間ってあの10人の中では
家康だけじゃないの?
秀吉の義弟で、秀頼の外祖父になる予定で、官位も秀頼より上位の内大臣だし 秀吉の遺志を無視して作られた十人衆合議制は、早くも朝鮮撤退で破綻した。>>65で出てる四大老連署状には「和睦は加藤清正が主導し手に余るようなら誰でも良い、まとめてみせよ」とあるが実はその前日付の五奉行連署状には「無事之儀、最前増右・徳善院申入候刻ハ、各方々へ御使二罷下、同書二不申入候」とある。(曽根勇二は講和を五奉行が仕切ろうとしたとしている)ただこれは実行されなかった。おそらくこの両書状の差異が混乱を招いたんだろう。結果、朝鮮撤退は徳川家康・前田利家の二名が統括し奉行はそれを追認するという形で決着した。秀吉の遺言体制に落ち着いたのだと言えるのかもしれない。 >>62
くだらない話を始めたのはあなたじゃん
俺はあなたの史料を見て認識を改めたのに
認めないのなんだの難癖つけてさ
だから結局そういうことがしたいんだなと 一つ聞きたいんやが三中老ってゴミ扱いやったの?
そもそも三中老は幻やったの? やっぱり三中老の定義付けは無かったんやね
まーあっても蚊帳の外やし関係ないか >>69
不毛な応酬しても仕方ないんで
私はここらの研究に詳しくないので、基礎史料に当たりつつ、詳しい人の見解を聞きたいんですよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/21/0015?m=all&s=0014&n=20
ここの末尾から引用されている慶長見聞書なる史料
三成挙兵スレとしても見過ごせない史料の一つだと思うんですが、あなたの見解は?
というのもこの家康による柴田左近、ないしは本多中書の佐和山派遣、史料によって内容がまるで違うんですよね
大日本史料をぽちぽち読んだ限り、この佐和山偵察と家康の大坂入城はけっこうな画期だと感じたんですが、どうなんでしょうね 自説の検証に人使いたいならバイト代払って
史学専攻の学生でも雇ったら?
多分意外と喜ばれるぞ
それかいっそ論文にまとめてみるか >>74
ワイはこういうの詳しくないんやがなんで方眼紙みたいな用紙を使うの?
写しやから? >>77
影写本という、原本を忠実に透き写ししたものをそのまま使っているんです
升目はそのためです
引用した部分は大日本史料の稿本という、いわば草稿段階のもの
大日本史料は東大史料編纂所が百年以上続けている、日本書紀に連なるこの国の正史を編纂する偉大な事業
刊行されると
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/1221/0065?m=all&s=0065
みたいに翻刻(活字化)されて読みやすくなる >>73
三中老はあったという証拠とされるのが以下の史料
上杉景勝が上洛を拒むので会津征伐するという家康に、長束、増田、前田に中村、生駒、堀尾が中止を求める連署状を出した
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-2/4/0102?m=all&s=0102&n=20
ただ、創作説もあるようで、読んでみると言い回しが安土桃山くさくない印象を受ける
内容も来年は不作だから兵糧どうするのか、今年はやめて来年春に出陣を、とか支離滅裂
続く落穂集にも同様のエピソードが描かれているが、家康に「先公(秀吉)のときも北条の輩が上洛を拒んだもんで征伐した先例があるじゃないか」と言いくるめられている
三中老ってのは甫庵の創作か、仮に実在したとしてもなんの影響力もない存在だったんでしょう >>68
その翻刻某ブログからそのまま引っ張ってきた?確認したらブログの方も「同書ニ不申入候」になってたし
と言うかあんたの主張はブログの内容そのまんまだな
原本確認したら分かるけど正しくは「同事ニ不申入候」だよ 三中老という役職があった訳ではなく単に有力な奉行の下っ端が居たって話かねぇ。ただこの書状も奉行とその背後の輝元が謀反する気満々って事を考えれば内容に矛盾は無くなるけどね。的確な指摘をしたら謀反する機を逸するから。 >>74
どう思うも何もこの時期何が起こったか並べてみればすぐ分かることじゃないか。
慶長四年九月に石田三成は徳川家康に前田利長が謀反を企てている旨を通報し、所謂家康暗殺計画が露見してる。利長は上洛要請を拒絶したので即座に戦争体制が敷かれた(家康の大坂城入城もその一環)
三成は大谷吉継と共に越前に兵を送ってる。となれば十月の使者派遣はその要請・相談だった。石畑氏の研究だと派兵は十一月に行われたって事なので時期的に矛盾は無い。三成=家康の敵という構図が有名だがこの時期の三成は家康を敵視はしていない。 もし信忠が生きていれば秀吉が天下取らずに織田幕府になっていたかな? 石田三成スレに織田信忠のことを書いて、織田信忠スレに羽柴秀吉のことを書く。
スレタイの文字も読めない白痴。
そもそも合議制は秀吉の今際の際からにしか出てきてない上に遺言の記述と矛盾が起きてるからな
秀吉死後に合議制で動いた事柄が全然ないことからも機能していたともいえない 1599年に宇喜多騒動が起きてるけど、これよく宇喜多は処罰されなかったよね
奉行は宇喜多処罰とかはやろうとしなかったの?
やはり豊臣一門格だから特別扱いされてたのかな? 公儀筆頭の徳川家康が超穏便派だから助かった
仮に強権派なら潰されてたろう 家康が宇喜多弱体化のために意図的に反秀家の家臣を温存したとか言ってる人もいるけどどうなんだろうね >>87
合議制が秀吉の考えだったかはともかく
まったく合議制が機能しなかったわけではない
先に>>58で挙げた史料、朝鮮撤兵は十人衆の合議
また、朝鮮出兵の論功行賞で島津に蔵入り地から五万石(三成所領を含む)と少将が贈られた事例は、いわゆる五大老と五奉行がそれぞれ連署した宛がい状が出されている
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-2/1/0040?m=all&s=0040&n=20
では内情はどうだったのか
利家夜話では、利家が長束と相談して島津加増を求めると、家康が反対
しかし利家が「秀頼様の御代の戦に勝ったのに加増なしではまかりならん。家康には俺から話しておくので、浅野や石田とも相談して朱印状を調えろ」と島津加増が決したことになっている
ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953320
落穂集では、家康と利家が相談して奉行衆の前で加増の方針を打ち出す→石田が「秀頼様の最初の仕置きなので、他の三人の大老の意見も聞いてはどうですか」と提案→家康が認める→宇喜多がまったく同心せず、それをみた景勝と輝元も賛成の言質を与えない→その旨を奉行が家康に報告すると、家康は「賞罰は国家の基本で~」などと説教→前田玄以、すかさず家康に賛成→増田、長束も「太閤様なら十万石を下ることはなかったでしょう」と追い打ち→石田赤面
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-2/1/0047?m=all&s=0040&n=20
両史料ともその性格からまるまる鵜呑みにできないものの、前田利家が元気なうち(家康と対立する前)は合議制の実態が一部であったと思われる
なおなお、朝鮮征伐記では「五人の年寄五人の奉行相談(あいだん)し」「十人の連判にて感状をたまわりけり」とあります >>90
マジで弱体化させたいなら御家騒動起こさせて崩壊させるだろうからなぁ… >>91
その慶長4年1月9日付五大老連署状写って大日本古文書家わけの方に
「コノ文書、文言等疑フベキ点アリ」って注釈があるんだよね
内容的におかしい(島津の武功を強調するするための偽書)ってことならまだ分かるけど
文言に関しては当時使われてる表現だし特におかしいようなところはないと思うんだが
敢えて言うなら最後の「於當家御名誉之至候也」の「也」くらいか
それと五大老連署状のみで知行目録と五奉行連署状は翻刻されてないな
東大史料編纂所は偽書と見做したから翻刻しなかったのかその理由は不明だが
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1601/0429?m=all&s=0429 >>93
引用してもらった翻刻には「也」はなくなってるし、特段不可解な文言はないですよねえ
興味深い
島津が偽作する動機もないしなあ
書状写しと二次史料で合議の実態を突合できる恒例と思うんですけど
細川家記には薩摩の細川領三千石を島津に与えた替地として、越前府中に三千石与えるという五大老の連署状(用語や署名の並びも一緒)が収録されているから、本物だとは思うのだが
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-2/1/0043?m=all&s=0040&n=20 秀吉は家康に全権を預けるつもりだったけどそれを家康・利家の二大政治に変えて死んだ。ところがこれを快く思わない者(従来石田三成と思われているけどおそらく毛利輝元)が合議制をでっち上げて家康・利家の権勢を削ろうとした。
でも朝鮮撤退で早くも挫折して以後、家康・利家の二大政治制が復活した。一見合議制っぽく見えるが現実は家康か利家の意見が主になってる。 >>87
というか、朝鮮の日本軍が帰国して、秀頼が大阪に移動して、10日もせんのに有名な
三家との私婚問題起きてる。
合議制を機能させたら俺の野望もついえるって、狸妖怪が勝負かけたようにしか。
大体、秀頼大阪移動は太閤の遺言だけど、そのあたり幾らでも拡大解釈できるしな。
秀頼移動の時点で大老の合議がなかったとは考えにくい。
そこで前田に押し切られたので反撃なのでは?
若い頃からの狸妖怪の行動パターンですよ、失敗したら掛け金あげて倍返し 日本でトップの弱い合議制なんかで政権が安定した試しはないだろう。織田家だって当主が幼少で宿老4人の合議制になったけど1年もまともに機能しなかった
いっそ家康を秀頼成人までの後継者としてハッキリと位置付けて、その下に有力大名と奉行を置く合議制にした方がよかったんじゃないか 武家政権で合議制が機能したのって鎌倉幕府と江戸幕府だが
それぞれ北条徳川が圧倒的なイニシアチブを持っていて
江戸幕府の場合だと徳川家の家政機関の枠内での合議で外様が入る余地はなかった
秀吉死後の豊臣は将軍のいない室町幕府みたいなもので意見の衝突が軍事衝突に直結しやすく
統制裁定すべき豊臣家には何の発言力もない
これで徳川がいなければ互いに牽制し合って均衡し上手くいってたなんてよく言えると思うわ
毛利も上杉もその他大諸侯も別に豊臣に絶対の忠誠心があったなんて証拠はないからな
徳川がいなければそれこそ室町のように政争内乱続きで戦国逆戻りのほうがはるかに現実味があった その通り。合議制と言っても上に絶対の裁定者がいないと合議に参加してる有力者がそれぞれ己の利権のために統治機構を利用として争いが起こるだけ
室町幕府は義教という裁定者が暗殺されて幼年の将軍が続いて崩壊、戦国時代に突入したし、織田政権の宿老合議制も織田家にまともな裁定者がいなかったからあっという間に分裂対立内乱になった >>96
婚姻が問題視されて弾劾まで 10日という短時間
というのはむしろそれ自体が計画されてたと
考えるべきでしょ
秀頼の大阪入り自体は遺言通りだし
合議の結果で急遽持ち上がったことでもない
家康がそれに反対したという傍証もない
その報復として短期間で3つも婚姻まとめて
反家康側もあっという間に根回しして弾劾
というのは単純にスケジュール的にも考えにくいよ 合議制自体無かったという話もあるくらいだし
そもそも会議場はどこにあったのやら 家康が合議してあげるのは、秀吉の命令ではなくて家康個人の善意に過ぎない
別に秀吉は家康に合議しろなんて要求はしていないからね
三成たちの態度が悪い、現場とトラブルばかり繰り返して役に立たない、と判断すれば
家康が三成たちを無視することは何も問題ない
むしろ三成たちが調子に乗り過ぎたのが悪いと言える そもそも三成の地位で政権を引っ張るなんて無理すぎると思う
鎌倉時代の平頼綱みたいに強権振るわない限りは 家康の縁辺問題も五奉行によるいちゃもんって話ですし 結局、秀吉が生前に作り上げていた後継体制を秀次やその一党を殺してぶち壊したのが
全ての原因なんだよな 三成は「関ヶ原の総大将だった」って印象から逆算して権力者っぽいイメージあるけど実際は有能な奉行の域を出てないからね 増田長束前田は有能なイメージあるけど三成はどんな有能エピソードがあるの? >>108
その有能も怪しいような……
三成を弁護する研究者って「有能だけど横柄だった」って
よく言ってるけど、組織の和を乱す奴って無能じゃない? 横柄っちゅうか真面目で原理原則を曲げないというか
それで助けられて三成に感謝してる大名もいるわけだし三成からしたらキッチリ仕事をしただけとしか思ってないのかも 杓子定規な官僚そのものということか
それが三成の本質としたら政治家的気質は全く無かったわけで
同じく政治家的気質の無い奉行も含めて本当に関ヶ原のようなクーデターを主導できたのか
やはり輝元が首謀者で焚きつけたんではと勘ぐりたくなる
恐い家康が遠くに行った隙にコソコソ空き巣同然に挙兵するなんてカッコ悪さも
いかにもヘタレ坊ちゃん育ちでセコい野心だけはある輝元らしいと言えばらしいし 輝元は「金吾殿が祟られて死んだって?ふーん、それはかわいそうに」とか言いそう
なお祖父や家康並みの天寿を全うする模様 吉川元春からも小早川隆景からも豊臣秀吉からも徳川家康からもこいつアホやなあって思われてそうなのが輝元 「小悪党」という呼称が輝元ほど似合う男もいないね
人間として何の尊敬すべきところも一目置くべきところもなく
スケベ根性の野心だけはいっちょ前にある癖に乾坤一擲の勝負に出ることもできず
我が身だけ可愛さに他人も家臣も使い捨てに捨てて本当に強い者にはひたすらへーコラする
輝元ほどあまりに無能で情けなく軽蔑すべきクズだと殺す価値すらないと見なされてかえって長生きできるんだろう 信雄と似てるな
どっちも父祖が残した大領をガッツリ削られたけど長生きしたし >>113
長生きはしたけど、歴史に
自分のせいで毛利領が小さくなったと
書かれるのが嫌だっただろうな
なんとかして他人のせいに出来ないものか…
例えば三成のせいにするとか 小悪党というより小才子
そしてそんな奴と結託して破滅した奉行らも大同小異 毛利氏は徹底的に輝元の行動を隠蔽したんじゃないかとか言われとったな >>118
考えてみたら小早川氏に知行逆転されたんだな毛利って
秀秋が早死にしたから一瞬だったけどクソダセえ >>109
秀吉の朝鮮出兵が無謀と知って即座に辞めさせようと頑張ったし… 輝元は痛い目みたけどなんだかんだで逃げ切って子孫も残った人だからどれだけ嫌われても安心して見ていられる >>123
織田信雄もそうだしな
徳川家は表面さえしっかりしてれば面倒見がいい >>122
三成が朝鮮出兵辞めさせようとした一次史料はないぞ
反対したと言ってるのは全て後代の史料
むしろ賛成している史料があったはずだが 関ヶ原の一番の皮肉は徳川が後に豊臣を滅ぼしたから本気で豊臣に造反するつもりだった上杉景勝が徳川と敵対しただけで戦ってすらいないのに豊臣への忠義の臣みたいな扱いになったこと そもそも朝鮮出兵は小西が和睦を偽装したのも大問題のはずなんだがな
あのあたりは石田三成研究者は全て「豊臣政権のためを思って」とか言って正当化してるよな
小西が独断でできるとは思えんから、絶対に奉行衆も和睦偽装に関与していたと思うんだが よりによって一番豊臣への忠誠心が薄く秀吉も五大老の中で唯一全く信用してなかった毛利輝元と秀吉死後早々に誓詞を交わし結託して、家康が留守を開けたらあろうことか大坂城に大軍を伴って入城させてる時点で増田前田長束石田の四奉行は忠臣どころか自分たちの利益のためなら体制崩壊や主君の遺言に背くことを厭わない人たちでは >>125
名護屋博物館所蔵の名護屋奉行衆宛石田三成・大谷吉継・増田長盛書状で普通に反対してなかったか?正確には「諸将に秀吉からの軍役を拒否するよう言って欲しい」だけど。 >>128
クッソ大問題だけどそれはトップがマトモな場合だからね。
トップが現場からの報告を真摯に受け止めてくれるなら良いんだがトップが現実を見なかったり都合の良い情報だけ取るようになると現場はトップが欲しがる情報だけ上げるようになる。例えば三菱自動車もトップが決めた数字を達成しようとして粉飾したって話だしね。 >>125
賛成したってのは天正20年6月の西笑承兌書状のことか?
「当月大閤太相国可有御渡海之由相究候処、徳川殿・前田殿内々以誓紙被申入候間、
即被召御談合候、石田治部少輔迚も被成御越候者、当月可然之由候」
今月太閤様が渡海すると決まったところ、家康と利家が内々に誓紙を差し出し
(渡海を辞めるよう)申し入れたので、すぐに皆を召喚され話し合いに及んだ。
三成は(秀吉が)どうしても渡海されるなら今月がよいと言ったそうだ。
この内容だとむしろ反対で渋々了承したって感じがするが
他の史料のこと言ってるなら済まない >>130
拡大解釈しすぎだろ
秀吉からの軍役を拒否するよう伝えてほしいとそこまではっきりとは書いてない
「私は現地の実情をありのまま申し上げている」、「秀吉へ折を見て披露して欲しい」とは言ってるが
諫言と言うよりは実情を伝えることにより秀吉に再考して欲しいってところだろ 徳川家康と東軍諸将が岐阜と大垣を抜けずにまごついてる間に、毛利輝元は瀬戸内海沿岸地域を実行支配下に置く、上杉景勝は越後を取り戻しつつ奥羽に勢力を拡大するのが主な目的で、二人とも家康と全面戦争する気は最初から全くなさそう >>134
なお、岐阜はわずか1日で抜かれた模様
なお、毛利軍は伊予で夜襲にあって壊滅した模様 >>134
毛利や上杉の行動は戦国時代の大名視点だと別に間違ってないしな
ただ毛利は結構東に兵力を派遣してるから、奉行側の思惑にある程度は乗って
関ヶ原前の家康のポジションを狙っている節もある
結果論だが、輝元は西国制圧に全力投球をして東国に足止め兵を送る戦略にした方が
よかったのかもしれない、結局は中途半端なやり方で全部失敗してしまった
それに家康は岐阜陥落までは関東に留まってたから(まごついていたのとは違うだろうが)、
西軍側の戦略はある程度は機能していたともいえるだろう
東軍先発隊が全力で対西軍として行動したのが完全に予想外だったように思える 軍役拒否ってのは要は謀反みたいなもんだからな。三成はそれ程の事をさせないと秀吉を止められんと思っていたらしい。
まぁ止められなかったんだけど。 >>112
毛利が焚き付けたということにしたいようだが
実際には毛利方では「三成が大阪占拠しろと
焚き付けてきてるけどこりゃ無理だよね」って
言ってる史料がある >>132
中野等は朝鮮出兵が失敗した理由に指揮系統を挙げてる。
つまり現地で指揮を執るんじゃなくて内地の秀吉が指揮をしていることから効果的な指揮が行われずにしかも現地が秀吉の怒りを恐れて誤った戦況報告したので更に歪んだ指揮命令が行われて破綻したと。三成は軍才はそこそことは言え戦争体験もあるし朝鮮出兵の指揮系統に危険性感じていたんじゃなかろうか。 三成は有能か無能かといえば超有能だろう
上杉が転封の時に騒ぎ起こしたのに揉み消してみせたんだぜ 関ヶ原の石田三成といい大坂の陣の淀殿といい昭和の頃までは戦役において一番主体的な役割をしていたとみなされていた人が実際はそれまで傀儡だと言われてた人に散々振り回された挙句滅んでダメ押しに都合の悪いとこや責任を押し付けられた人だったという皮肉な話 クソ皮肉な事に三成の大局観は当たっていたという。だから家康を甘く見るなと… 杓子定規な官僚ていうのも
正直虚像じゃねえのかな
豊臣政権自体杓子定規が活躍できるほど
体制も法制度もまとまってねえべってのと
三成自身も勅使と行動してた明との和平交渉なんて
杓子定規の対極の展開でしょう? >>143
むしろ大局観がないんだよ、西軍は挙兵しちゃいけないんだから
そのせいで徳川が豊臣政権を完全に見限るきっかけを与えてしまった
後の徳川政権で将軍側近が代替わりで排除や隠居をおとなしく受け入れたのとは対照的だ
要するに自分達の時代は終わったと引き下がる気もないし、政権の礎としておとなしく
排除される気もなかったというだけの話だ、政権の行く末よりも自分達の繁栄を望んだんだよ
正直、三成は奉行として政権運営する政治家をするより、内政官として上司の命令を忠実に
実行する中間管理職の役人位が一番向いてると思うし、その方が本人も幸せだったろう 西軍決起には三成関わってないしどうしようも無いかと。隠居同然の身で殆ど兵隊持ってないのに大谷吉継に佐和山入られた時点で詰みだし大坂を輝元に握られてるから嫡男重家人質だし…西軍に参加しないっていったら殺されるか逃げ果せたとしても嫡男は死んでるだろう。 検地やら代官としての庶務やらなら
事務屋として優れてたら業績あがるかもだが
諸大名との取次やそれを通した統制となると
相手のあることで他の能力がいる
実際三成は上杉島津佐竹と言った大大名の
秀吉への帰順を担当してきた実績がある
単に検地や代官の実務経験者であれば
五奉行にもなれなかった中にもいるわけで
てことはやはり三成はその部分買われて出世してる
もちろん事務屋、実務家って側面もあったろうが
秀吉からしたら新参の大名への指導役
仲介される大名からしたら頼りになる口利き役
て部分で重宝される能力があった筈なんよ そこから導かれる三成像は融通の効かない堅物てより
超大物権力者秀吉の求めてるものを噛み砕いて
担当諸大名にうまく伝えて物事を進める調整役
島津義弘の三成評「秀吉の股肱之臣で威勢比肩なし」
これも単に融通効かないけど実務能力ある人てより
必要に応じて口利きしてくれてたからと
考えた方がしっくりくるでしょ
ただ明との交渉の経緯を見ると必ずしも
秀吉の意志に忠実なわけでも
実態を的確に秀吉に伝えてたわけでもない
あくまで秀吉と交渉相手の間で
うまいこと立ち回って双方納得の形に
ことを進めるタイプだったんじゃないか
だからこそ決定権者と直で話せない
明との交渉ではまるでうまくいかなかった
唐入りは三成のやり方の限界が出たもの
という気がしてくる 三成が徳川家にいたら本多正信や井伊直政あたりの職位まで行けたかどうか
家康て秀吉みたいにぜんぶ自分で事細かに指示しないで、下から突き上げられてそれを承認するみたいな印象
伊奈忠次とか板倉重昌あたりの職位になりそう >>149
大久保長安くらいじゃね
あいつも5奉行並に権力集中して腐った 殉じようもないけどな。秀吉子飼衆ですら殉じてないのに… 1598年8月28日に輝元が出した起請文っておかしくない?
「もし今度定められた5名の奉行の内、秀頼様への謀反では無くても、増田・石田・前田(玄以)・
長束の意見に同意しない者があれば、私(輝元)は長盛・三成・玄以・正家に同意して、秀頼様に奉公する」
まるで輝元が筆頭大老みたいな書き方してるよね、これ
輝元って増長してたの? その解釈謎な
謀反でなくても奉行と意見違えば討つって
むしろ大老なんて奉行次第で討てる存在という
奉行による奉行のための政治宣言 せめて「坂西の儀」に限定した話では?胸が躍るぞ!毛利家を西国一の雄藩にのし上がらせるのじゃ! そう読める用にしてたんだろ。その添削部は石田三成によるものだと安国寺が言った事にしてるが真相はわからん。この書状案を残したということは毛利にとって都合が悪くないと毛利が判断したからなんだし。
もし西軍が勝てばこの書状は輝元のリーダーシップを示す書状にして使え、負けた時には石田三成が輝元を担いだのだと言える。小細工で両建てしたがる輝元らしいかもな。 輝元が豊臣政権にこんな真似をしたのは、やはり秀吉が死ぬ前に毛利秀元に下した裁定に問題があったからなのかね?
1598年8月1日のやつだけど
9月3日の書状では「以前申し下し候國分などのこと、みな徒事に罷りなるべく候。先々目出度く候」とあるから、どうも
秀吉の遺命に早速背いてるとしか思えないんだけど輝元 秀吉はやはり晩年は狂ってたのかな
毛利輝元に対して秀元を立てろとか滅茶苦茶言ってるし
しかも死ぬ少し前の1598年8月1日に
8月1日の秀吉裁定で毛利元康に出してる書状
「私は成り下がってしまった。いうべき言葉もない。秀元は同意しているので、給地分配すれば
私は身軽になりよいのだけれど、下々の者は何事かということだろう」とあるし 輝元なんて隆景の付属物として立てざるを得なかっただけだろうからな
晩年でつい本音が出ちゃったんじゃねーの?江戸幕府も秀元相手にしてたし秀元は優秀だったんだろうな >>159
秀元って輝元の元養子で一時は毛利の後継候補だったこともあって、
秀吉が自分の養女(秀長の娘)を嫁がせてるから、豊臣家視点だと姻族とはいえ、
貴重な身内なんで優遇するのは当然といえるからな
でも輝元視点だと自分の息子である秀就の取り分が減ってしまう事を意味するから
(それどころか毛利分裂の危険すら孕んでいる)から愚痴っぽくなるのもそりゃそうだろうし >>153
私は四人の味方ですってだけで、見せけち含めて輝元が大老筆頭だのなんだのなんて全く触れられてないと思います ただ内容としては似たようなもんだけどね。十人衆合議が制度化されれば輝元は奉行四人を握ってる筆頭格に躍り出る。 >>163
どこが似てるんですか?
家康、利家の二頭体制からいわゆる奉行衆が巻き返したという文脈で捉えるべき話ですよ
輝元が主導してないのは明らかでしょう
起請文の宛先は四奉行であり、四奉行から輝元に出された文書ではない
また、三成の訂正とされる見せけちがあるのもそう
ただ、家康がこういう動きに神経を尖らせた形跡はないと思うので、気にしてなかったんだと思います
力こそパワー >>163
逆でしょ
輝元の軍事行動は十人衆でも秀頼でもなく
奉行が握ってるという内容だぞ >>164
この書状が真実だとしての話になるが輝元の狙いは明らか。徳川・前田体制(秀吉遺言体制)を破壊する為に奉行四人を固めた。しかも巧妙に「輝元は担がれた」ようにしてる。
多分利家(60)と家康(57)が死んだ後に自分(46)がイニシアチブを握れるようにしたかったんだろう。一見四奉行に輝元が誓っているように見えるがパワーバランスは明らかに毛利の方が強い。まず政治集団を作って隠然と支配する。家康と利家が居なくなれば四奉行が起請文を持ってきたところで実力で潰せる。実際輝元は「家康を父と思う」起請文を踏み躙ったんだぜ。起請文の文言を気にするタマじゃないよ。 >>163
宛先が四奉行宛になってることでも明らかだけど、家康・利家の寡頭制を牽制するため、
奉行衆が自分たちに相応の権力や発言力を持てるよう画策したものとしか読めないな >>166
じゃあそれでいいよ
どうせあなたとコミュニケーション取れないし しかしこれを輝元主導の証拠とするんじゃ
話があべこべ過ぎて何も言えなくなるな 多分この書状は毛利が「輝元は巻き込まれた」証拠にする為にねつ造したものなんだろう。正式に出した書状が残ってない以上真実はわからんし。 【芸能人体調不良】 多すぎ 【救急車のサイレン】
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/body/1651722234/l50
>>172
じゃなくて、8月28日の起請文は、8月1日の秀吉遺命を取り消してもらうために
輝元が奉行と結託したんだとしか思えん
奉行4人抱き込んだら、遺命は取り消せるだろ
8月28日から数日後に内藤周竹書状で
「以前申し下し候國分などの事、みな徒事に罷りなるべく候。先々目出度く候」
とあるから、奉行が秀吉遺命を白紙化したとしか思えん
9月10日の毛利輝元書状でも
「別条なく候。國分の事に付いて、存じ寄る儀ども申談べく候」
とあるし、どう考えても輝元は奉行と結託して秀吉遺命の白紙化を狙っていたとしか思えん
この時期の家康や利家は在鮮の引き上げに集中してたからか、このことについて何も言ってない
家康が秀元問題に介入したのは確認できるのでも1599年
4月だし >>159
もし正気だったら徳川に天下譲って子孫を不満分子もろとも滅ぼしてもらって平和な世の中を実現するつもりだったが一番辻褄が合うとさえ思える
上杉にしても佐渡そのままに越後取り上げて会津に移すとかしたらそりゃ秀吉死後に造反して取り返そうとか思うわ
そしてその反乱鎮圧したら権威や声望が上がるのは豊臣家ではなく徳川家康で、そんな家康相手に秀吉の子育て方針や誰も主君に逆らえない豊臣家の家風などが引き継がれた結果甘やかされまくってプライドだけ高い常識知らずの無能に育った秀頼がどうするかと言われたらそりゃああする ていうか四奉行には輝元に命じるだけの力が無いだろ。こいつらがデカい面出来たのは秀吉に好き勝手報告出来るからで秀吉死後はよくて万石の大名でしかない。現実四奉行は輝元の奴僕に等しいからな。 秀吉が最後いちばん信頼してたのは家康だとおもうよ
同時に恐れてもいたと思うけど
劉備玄徳と諸葛孔明みたいな感覚じゃね
三成も輝元も小才子つーか
天下を預けるにはスケールが小さすぎる 輝元の野望はどんなに大きくても西国の覇権を掌握して徳川と天下を東西で二分するくらいだろうし、実は元就の言いつけを守ってると思う >>176
輝元にそこまで強い権限があったかは疑問だがそれ以外はまあ、結果的にはそうかもしれん
しかし、奉行側はそんなこと認めるわけにはいかないだろう
自分自身の立場、ひいては全国政権たる豊臣政権の権威を否定するも同然だからだ
つーか家康も反発しそう、関ヶ原前の家康の大義名分って政権の筆頭大老なのが大きいし
政権の役職が軽んじられるのは政権の権威の否定に繋がりかねないから不快だろう
というより、政権における役職が無価値なら、政権内の主導権争いをしていた
奉行も家康も無価値なものを価値があると思い込んで奪い合ってた愚か者の集団になって、
ある程度冷めた目で政権に見切りをつけた感のある上杉や毛利の方が、彼らよりも
遥かに賢かったという絶句したくなるような結論になってしまう >>174
その二つの書状はどこかで見られますか?
読んでみたい
毛利が主導したとは思えないんですが、毛利は豊臣公儀として自分の立場を守ろうとしたのは間違いなさそう
一方で家康は奉行らの巻き返しに反応せず、せっせこ婚姻政策で足場を固めていたってことなんでは
慶長四年一月の四大老五奉行による家康の婚姻政策への問責
史料読むと後世のものほど大げさ、大事件に描かれているが、一次史料の言経卿記だと「然共(問責翌日の)廿日に大略相済了」とあっさり
そのあとすぐに頼みの利家まで死んでしまうわけで、なんというか、遺言も起請文も関係ないとばかりに家康が突出し、それをかなりの勢力が追認していたようで ttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953320
この一巻がまるまる問責事件にあてられています
ご参照あれ(ただしほぼほぼ二次史料) >>176
それ言ったら十人衆合議なんて最初から無理じゃん
でもその無理を通したら4/10
さらにその政敵は毛利が排除する
というのがこの起請文
つまり約束が履行されれば5/9になる 秀吉が生きてたら四奉行も履行を強制出来たろうけどなぁ…
確か増田・石田・長束・前田で足して60万石くらいじゃなかったか?これじゃ毛利輝元の手綱はとれんだろ。 >>182
起請文の多数決条項を引用したものだけど、実際に多数決で何かを決しようとしたことはないようで
中近世の社会通念とも齟齬するし(だからこそ面白いと思ったんですが)
あくまで二次史料ですが、関原軍記によると、婚姻政策への問責で家康らに使者を出したあと、反家康の大老奉行らは秀家の邸宅で談合
とくに結論も出なかったようで、退出してから庭で石田が「我人数(軍勢)は早々出し可申候」と家康討伐を口にすると、増田が「治部少は是程大事の事を卒忽(粗忽)に仕る義、無勿躰(もったいなく)候」と指摘し、もっと話し合って決めようと軍事行動は取り止めになったそうな
増田が言うように事が重大なのもそうなんですが、実際には多数決条項は死文化していたとしか考えられないと思います >>180
174じゃないが恐らく萩藩閥閲録所収文書だと思うよ(輝元書状の方はもしかしたら閥閲録じゃないかも)
この文書は詳しく調べてないけど、前に萩藩閥閲録所収の他の文書調べた時はネットにはなかったな
国立国会図書館のデジタルコレクションでも萩藩閥閲録は著作権の保護期間中で見れない
これも閥閲録所収文書だけど9月2日付内藤隆春書状では筑前を毛利に預けるって話が出てたみたいだな >>177
中国人の姓名とあざなを
くっつけんなよ
素人じゃないんだからさ >>184
182は別に十人衆合議が機能してた
と言う主張じゃないぞ
政権奪取を狙う四奉行と輝元には意味のある
結託で奉行が優位に立てる力学もあり得た
と言う話をしてるだけだ 秀吉が自分がやったことを振り返れる程度に正気を保っていたなら秀頼がどうなるかぐらい分かってただろうよ
俺は信雄も秀信もそれなりに遇したぞ。だから豊臣のこともそれなりに頼むぐらいだったんじゃないか 景勝はそんなに中央政治に興味が無かったんじゃないかとは言われてる。むしろそれより国許または越後への野心の方が大きかったんじゃないかとか。 四奉行の狙いは最小で浅野長政以上の地位確保、最大で政権上層部に食い込む事だけど、
毛利輝元の狙いは豊臣公儀の転覆だったからな… 斉藤利治にしても信忠が有岡城を囲んでいる間に
越中への援軍を任されて功名を挙げてるのよ
このくらいの規模になってくると
誰か一人の天才が全て掌握して
その人がいないと何もできないなんて
そんな馬鹿げたことにはならない
そういう存在がいるとしたらそれは
トップである信長、信忠そのもの 諸大名は参勤後代で莫大な出費を強いられ金がなかったのは有名だが
それがない江戸にいる徳川将軍家が財政難なのはなんでや? 働きに応じて加増すると子孫もそれをもらえちゃうからってのはデカかったみたいよ
それで吉宗が足高の制を始めた。ありゃ人材抜擢というより、抜擢した人材に与えた禄高の世襲化を防いで出費を抑える制度だからな 関ヶ原ってやはり石田が首謀者じゃないの?
1600年7月23日の家康書状では
「治部少輔、刑部少輔才覚を以て、方々触状を廻すに付いて」とあるし
7月27日の榊原康政書状でも
「上方において石治少、大刑少別心仕るについて」とある
輝元や秀家の名は全く出ていないんだけど そりゃ大坂三奉行と毛利家が真実を知られない様に虚偽の報告してたからな >>198
7月27日の書状では
「大坂より御袋様、並びに三人の奉行衆、北國羽肥州など早々
内府上洛致され尤もの由、申し来り候間、右の別心仕る両人成敗のため、
今度此方へ御下り候上方衆同道致し、上洛申され候」とある
三奉行が石田や大谷の謀議に当初から関与していたとは思えないんだがね 同心してないのに勝手に名前使われて
なのにその後ノリノリで主戦派ってのは
ちょっと無理あると思うわ
元々同心してたから名前使われた
というならまだわかる 時系列で見れば真実がわかるさ。七月十二日、大坂三奉行は広島の毛利輝元に「大坂の仕置きについて」として上洛要請文を送った(松井文書)これが輝元に届いたのが十五日。輝元は即日行軍して十七日には大坂に到着、同日に毛利秀元が大坂城西ノ丸に入ってる。
通常広島-大坂は10日ほど掛かってる。それが2日で移動していること、また要請文が届いたその日に出発していることから輝元は自分に要請文が届く事を知っていて待っていた事は明らか。海路を使ったのは明らかで前々からの綿密な計画作成が絶対必要、三奉行と輝元は事前に共謀していた事になる。 七月十二日、増田長盛は永井直勝に「大谷吉継が垂井で病気、石田三成は代理を拒否」してると送ってる。輝元への上洛要請文と同日だから明らかな時間稼ぎ、情報工作だろうね。
吉川広家は十四日にこの事を知って徳川に知らせようとしたが、なぜか二十三日になってこれを報告した(ただし内容は「輝元が三成に担がれてる」というもの)
十八日には長束正家ら西軍が伏見城を攻撃。毛利軍は当然傍観してる。ところが淀君含めた誰もがこの事実を徳川に報告していない。当然と言えば当然で毛利と三奉行が首謀者なのだから報告するハズも無いわな。 で問題は石田三成だけどどうもこいつ、三奉行とも輝元とも景勝とも繋がってない。研究によるが三成が大坂についたのは七月末という話もあるくらいで三成は蚊帳の外だったんだと。おそらく大谷吉継に誘われて初めて知ったんだろう。 >>201
12日のって、確か「様子においては、安国寺より申し入らるべく候」って
なかった?
となると輝元は恵瓊に乗せられてたんじゃないの? >>203
三成が蚊帳の外はない
7月16日の蜂須賀書状で
「今度、石治、大刑逆意是非無く存じ候」とあるし
三成は首謀者としか思えんが >>202
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/7/0067?m=all&s=0066&n=20
この書状のどこに石田が代理を拒否だの書かれているんですか?
訳してもらえますか? 7月12日付永井直勝宛増田長盛書状は偽書説もあるな
どちらにせよ代理を拒否って妄想くんはほんとに自分で史料読んでるんか
全く逆の意味じゃねえか >>205
それは無い。何故なら輝元は十二日の三奉行書状を受け取って即日に出立して二日で大坂に到着してるから。輝元の意思無しで十四日に着くように軍勢が準備されていたなら毛利軍じゃなくて安国寺軍じゃん。 蜂須賀家政は元毛利取次で「三成と吉継が謀反した」と聞いて輝元に参加するなと忠告してる。それが十六日書状。
これから分かるのは西軍は敢えて「三成と吉継の謀反」という情報を流布していたこと。というのも輝元を大坂に呼んだのは増田長盛ら三奉行でしかも輝元もこれに気脈を通じてる大規模クーデターが真実だから。西軍が何故三成を誘ったのかその理由はここにあるんだろう。単なる目眩しで毛利軍が大坂に到着するまで徳川が戻って来ないための布石程度。 そんで蜂須賀家政は毛利輝元が大坂に入ると「徳川家康と親しいのは言語道断」として改易、蜂須賀領は毛利が入り家政軍は豊臣軍に吸収されるという末路を辿る。
勿論改易をしたのは豊臣秀頼なので輝元は弁護したが秀頼がどうしても許さなかったのだ、という可能性はある。ただ一連の流れからして輝元が家政領欲しさに策動した可能性の方が高い。輝元は謀反の首謀者だったのだ。 それはわざわざ事態を陰謀的に考えすぎでは
その書状でわかるのは家政の認識
・謀反は三成、大谷主導
・輝元は酸化してない(がしてしまいそう)
そこから三成は目眩しで参加してないとかまで
読み取っちゃうのはさすがに文書じゃなく
先入観によるものよそりゃ >>214
ずいぶん饒舌に語っているのに、私だけ無視しないでくれよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/7/0067?m=all&s=0066&n=20
を読み下すなり訳すなりしてくれい 人間心理が判ってないなぁ
たとえ日本中を揺るがすような歴史上の出来事であっても首謀者なんて特に必要ないんだよ
空気、空気感なんだよ
なんとなくそんな空気になって皆が自然に乗るってのはよくあるだろ
「あいつ気に食わねえなぁ」と日頃思ってる奴が遠くに出かけてしばらく帰ってこない、なんて時にな
残った者たち(別段お互い仲が良いわけでもない)の間でなんとなくそいつの悪口・陰口が発生して、それが思いのほか盛り上がったりして
「そうかwお前もそう思ってたかw」みたいになんとなくその場だけの意気投合が自然形成されて
「そうだwあいつ戻ってこれないようにしちまおうぜw」みたいなノリってお前らも経験あるだろ?
それだよ
こういうパターンって首謀者なんて無いのよ
で、思いの外大事になってしかも大失敗してヤベェ!となったら
「お、俺じゃねえぞ!あいつだよ!あいつが言い出したんだ!」みたいにして責任の押し付け合いになる
元々仲間でもなんでもないからな ・西軍決起は大坂三奉行が毛利輝元に軍事行動を依頼して起きた
・毛利軍の動きが迅速過ぎるから三奉行と輝元はお互いに前々からこの軍事行動を計画していた
これに対して石田三成のやってる事と言えば大谷吉継に会ってるくらいで何ら主導的立場に無い。ていうかそれだけで徳川に複数から通報されてるから三成はどうも警戒されていたらしい(元上杉取次で景勝と親しいからか)
ただ家康は三奉行や三成、輝元を疑ってない。それは書状からも明らかだけどそれは家康が良い人(悪く言えば間抜け)ってだけで三成が首謀者だった事は証明出来ない。 そうは言うけど島津も7/15には三成も
首謀者の一人と認識して
3日後には豊国社参拝
遅くとも8月にはすでに西軍首脳
全てが三成発信みたいな小説じみた俗説は
明らかに誤りだけど 当時の三成は失職中なので表立って行動することもないし
誰かを動かすような権限もないので主導的立場になることも当然ないわけだから
決起計画に早くから絡んでないことの証明にもならんのよね
むしろ失脚中の奴の名前が早くから取り沙汰されてることの方がおかしいというか >>218
どっちが間抜けなんですかねえ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/24/0080?m=all&s=0079&n=20
吉川が戦前にこれはやばいと黒田を介して家康に寝返ろうとした
それに対する家康から黒田へのお返事
読めないだろうからざっくり訳すと、「輝元を兄弟のように考えていたから(敵対して)不審に思っていたけど、ご存じない(首謀的立場でない)とのことで満足しました。こんな情勢だから(吉川に)よきように伝えてくださいね」
「そっか、やっぱり輝元さんはいやいやだったんだね!」なんて家康が思ったと受けとる人間は皆無だろう
「そういうことにしといてやるから敵対すんなよ」だ
そこは推測になるが、事実として戦後、約束を破って「やっぱり首謀者だった証拠ありました~」ってお取り潰し寸前までいったのが傍証になる
以前、君が誤読した史料でも、関ヶ原前日までの東軍の計画では南宮山に向けて手厚く布陣していた
吉川が前日に飛び込んでくるまではてんで毛利方を信用していなかったことが分かる >>218
これが家康の本心だと思ってるのか
当該書状にしても安国寺一人のせいだろうが何だろうが毛利が楯突かなきゃいいよという風にしか読めない
8月17日付吉川広家宛黒田長政書状
「随而今度之一義、輝元義ハ被成御存知間敷候、安国寺一人之才覚と内府公も被思召候、
然上者、輝元へ御内儀能々被仰入、内府公御入魂ニ成候様に、御才覚専用ニ存候」 >>220
何が言いたいのか支離滅裂だぞ。もう一度時系列で考えてみよう。
まず家康は会津征伐にあたって石田三成・大坂三奉行・毛利輝元を全く警戒していない。例えば上杉景勝と個人的親交のあった前田利長からは母を人質にとってるが彼等にはその様な扱いをしてない。
七月十二日、三奉行は輝元と以前から計画していたクーデターを実行する。と、同時に「大谷吉継と石田三成が会っている」といった情報を徳川に流して計画が露見しないよう工作している。輝元は書状を受け取ると即日海路で出発する。
十七日に毛利軍は大坂城を占拠した。
対して家康はこの情勢を全く掴めてない。家康は「三成と吉継が小規模な謀反をした」程度と甘く見ていた。これは三奉行と輝元の情報工作の結果で石田三成は関係無い。 つまり西軍にとって三成の存在意義毛利軍が大坂城を占拠するまでの目眩しでしか無い。三奉行が輝元に上洛を呼び掛けた十二日以前に三成が西軍の為に動いたって史料が無い事からもわかる。 >>223
七月二十九日家康書状を知らないんだろう。時代劇だと取り扱わないから。知ってればこれを境に徳川の情報が更新されてるとわかるのだが 三成が関与してないは無理がありすぎる
仮に三成が関与してないなら、なぜ家康かその家臣に弁明の書でも送らなかったのかな?
1600年7月15日の島津義弘書状で三成と大谷の名が出てる。まあ他に小西、輝元、秀家、
大坂御老衆(三奉行?)の名前もあるけど
ただ、自分が驚くのはこの書状が上杉景勝に対して出されてること
島津義弘から上杉景勝って、何か繋がりあったっけ?
それともこれ偽書かな? >>226
いや義弘と景勝はそれまで交流はないよ
その書状の冒頭に「雖未申通候、令啓候」とあるからこの時初めて景勝と連絡したことが分かる
呉座勇一が当該書状は偽書だと主張してるな
写ししか現存してないこと、当時義弘がそこまで西軍の内部事情を知ってるはず
がないことを挙げてるが、主張としてはかなり弱い感じはするけど >>227
だけどこの書状「貴老御点前同意然るべき」
とあるから、やはり景勝は三成はじめ誰とも事前に
連絡とりあってなかったのかな?
だとしたら景勝やはり頭おかしい >>226
冒頭に「雖未申通候、令啓候」とあるから付き合いはなかったようで
桐野作人氏が、三成に書かされた書状じゃないかって指摘してたやつだと思うが、どうなんだろうね
中納言の島津も味方だと上杉に印象付けるためって理屈だったと思うけども
まあ確かに内容が薄くてなんだこりゃ?感はある
「輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談」
偽書でないなら、こいつらが首謀者だと認識してたことになるね
と、引用は
ttps://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2017/01/09/205554
このブログを参照させていただいたんだが、そこによると呉座氏は偽文書の疑いを持っているようで >>229
7月晦日付真田昌幸宛三成書状で会津への使者の護衛を真田に頼んでるから、
上杉と事前の連絡はなかったと見る方が自然じゃないかね
8月6日付清野長範宛直江兼続書状で兼続は「佐和山ゟ之使者被召出、御懇比可然奉存候」と言ってる
早い時期から交流があれば今更懇意云々と強調する必要はないだろうし
まあ今後もっと連携を強めるために三成とは懇意にしろとも取れるかもしれんが >>231
景勝ってもし三成らが挙兵しなかったらどうする気だったんだろ
勝てるとでも思ってたのかね? >>229
ちょうど信濃史料のこのページに載る輝元と三成の書状が分かりやすい
ttps://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/2000710100/2000710100100010/1805/?pagecode=31
輝元は輝元で「各々で相談して兵を挙げました。人質も固めたし、景勝と相談の上は関東なんてちょろいものです」
これは素直に読むと、上方で決起してから景勝と連絡を取るとしか
続く有名な三成書状では、真田に石田使者の会津までの道案内をお願いしている
やっぱり事前に連絡なんか取っていない
そんな中でやりあう気満々の景勝やばい
ついでにいえば、「この度の意趣を事前に教えてなくてごめんなさい、腹立つのも分かります。でもね、家康が大坂にいる内はみんながなに考えているか分かんなかったんで差し控えました」とある
6月16日に家康が大坂から出陣する前に、三成を交えてすでに謀議があったようで >>232
一戦して降伏
徹底的に上方とやりあうつもりなら関ケ原の勝敗関係なく戦争を継続してた >>232
(天正10年)5月1日付佐竹義重宛上杉景勝書状
「就中景勝好時代出生、携弓箭、六拾余州以越後一国相支、遂一戦可令滅亡事、死後之思出、景勝幅ニ者甚不相應候欤、
若又出萬死於令一生者、日域無双之可為英雄欤、死生之面目歓悦、天下之誉人々其羨可為巨多欤」
(慶長5年)6月10日付家臣宛景勝書状
「右之趣無拠分別仕候者、供之用意可申付候、自然無分別を以、理不盡之滅亡被述懐を存候者ハ、
何者成共無相違可出暇候、然者上方勢下候日限聞届次㐧、半途へ可打出候」
本能寺の変の直前の時といい関ヶ原の直前の時といい景勝って自己陶酔してる感じがするわ
滅びの美学というかなんかそんなもん持ってたような気はする
単純に懸命に頭を下げれば命だけはなんとかなると思ってたのかもしれんけど >>235
東国の大名はそういうの多い
伊達政宗や佐竹もプライドは高い 戦わずして頭を下げるなら
そもそもなぜ親徳川派追い出すような真似したんだって話になって
対内的にも景勝主従の責任が問われるわけよ
逆に家中の意思を確認して反抗した形にすればみんながやりましたって形にできる
ある種の保身というか責任転嫁というか >>232
毛利も上杉も18年前は信長に滅ぼされる寸前だったけど
本能寺という神風が吹いて助かったという経験が体に刻まれているから
好き勝手やってもそのうち神風が吹いて自分たちは助かるという思想が根付いている
だから毛利も上杉も家康と正面から戦わずに他力本願で神風を持っていた
単に2度も幸運は続かなかったというだけ まぁ強烈な他力本願の成功体験はまともな人間の思考すら変えるからわからんでもない >>224
それ言ったら12日以前に西軍として行動した
という記録がある人物なんていないじゃん
>>235
自己陶酔か
その感覚はおもしろいな
俺は全く逆の感覚
同時の書状は公式な外交文書であって
お友達同士の文通的なものではない
そこで稀有壮大な自己陶酔をあえて
対外的に宣伝してるということは
それは政治的なポーズとしてやってる
対外的には滅亡も辞さずの強硬姿勢を演じつつ
実際には抜け目なく講和して生き残る道を
本能寺前後でも関ヶ原前後でも見つけてる
一戦も交えずに最初からなりふり構わずに
降伏前提で話を進めてしまうと
当然対外的には足元見られてしまうし
内部的にもそんな弱腰の主君を立てるより
どう転んでも勝者になる敵方に通じた方がマシ
となってしまう
だから軍事的には不利でも戦うぞという
政治的なポーズをまずはとってる
と考えた方が妥当だと思うけどね >>240
そりゃ12日が西軍決起の日だからな。三成が参加したのはその遥か後だ。 >>226
二次創作だと大谷吉継を石田三成が誘ってるけど一次史料ではわからない。逆に三奉行と繋がってる大谷吉継が三成を誘った可能性だって否定出来ない。
そんで三成の嫡男石田重家が大坂に居る。東軍に参加したらどうなるかわかるだろう?だから三成は西軍に与するしか無いしまた求められた役割を果たしてしまった。そこら辺は奉行らしいと言えば奉行らしい。 可能性云々するなら三成が誘った可能性も否定できない
その奉行らしいという人物像も想像でしかない
>>241
遥か後?7月中にはバリバリ西軍として働いてるぞ 豊国社参拝を決起同心の証と取るなら18日
ただ15日時点で西軍内部の島津書状に
他の首謀者と並んで名前が出てる 12日より前の話じゃないと意味無いんだよなぁ
大谷吉継に誘われる(誘いと言うか脅し)→参加表明した、ってだけでこれで首謀者なら島津も首謀者になるし 豊国社へ参拝すると西軍に同心を表すことになるってのは興味深い説だね。確かに八月十八日、大谷吉継は北政所に供奉して豊国社に参拝してる(正確には代理を送った)
また豊臣秀頼は八月三日に豊国社を参拝してる。豊臣家は西軍に同心していたんだ だから12日より前に活動してる西軍諸将はいないって
大谷が脅迫したって根拠もないし 少なくとも三奉行と輝元は動いてるんだよなぁ。でなけりゃ上洛要請文が届いたその日に軍勢連れて出撃、二日で大坂到着とかできん。 史料にない動きであれば三成にも
なかったと断言できる根拠はないけどな
なぜかなかったと断定しちゃってるけど 豊国社に参拝すると西軍に参加するってなら宇喜多秀家は七月五日に豊国社に参拝しとるらしいな。秀家は伏見攻めにも関わってるから当たり前か? というよりも毛利素通りさせたわけだから宇喜多もグルなんじゃね。 7月15日の島津書状にあるのが
西軍首脳であり首謀者だろ
輝元三奉行大谷小西石田
三成は毛利入城までの目眩しでしかない論は
正直論拠も乏しいし穴もあるよ
論拠は単に(他の首謀者同様に)史料上の
12日以前の活躍が見られないというだけで
大谷が脅迫したとか重家が人質だったからとかは
想像でしかない 入城までの目眩し論だが
そんなことせんでもても遠く関東の家康は
上方の事態へ介入することはできない
どころか本来家康が上方の異変に気づくより
早い段階でその目眩しが届いて
不要な注目集めてる可能性さえある
12日に入城要請と同時に増田から
徳川家臣宛に三成大谷に関して注進してるが
19日の輝元入城を待たずに
17日に内府違いや輝元から利家の書状で
隠しようのない敵対行動を起こしてる
その間に西軍に目立った活動はなく
せいぜい毛利軍の反転くらいなんだけど
それが自然に伝わって疑惑を招くと同時か
下手するとまだそこまでいかないうちに
上方で(三成)謀反の動きあり戻ってほしい
というメッセージが届いてしまう 全部成功した現代から見ると当然の帰結に見えるけど当時はそうじゃないからね。確かに輝元と三奉行は事前から準備を進めていた。記録から気象情報を予測して「15日付近なら問題無く航行出来る」として三奉行もそれに合わせて12日に書状を送る。ここまでは必然と言える。
問題は海路ってのは100パーセントが無い。極端な話、100年間時化が来ない季節でも100年に一度の時化が来たなんて事は普通に起こり得る。特に瀬戸内海は危険な海。だから彼等はそれにも備えてないとならない。何故なら徳川家康に勘付かれて軍団が戻ってきたら大坂城を取られたら負けだしなんなら伏見城に入られても詰みになる。 >>254
広島から大坂まで当時の交通で2日なんて絶対不可能だろ
中国大返し越えてるやんけ
17日に入ったのは秀元だろ
義演日記では毛利宰相とある
輝元なら毛利中納言か安芸中納言になるはずだし
義演日記では7月19日に中納言とあるが、秀元は在坂
してたんじゃないの? >>254
そういうだとしたらますます
12日付でわざわざ情報出しちゃうのは下策じゃん 広島市~大阪市はざっくり350㎞ほどやから2日は無理やな
東京~名古屋ぐらいやぞ 白峰氏の論文『在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について』
によると輝元の大坂城入城は7月17日説と19日説があるらしい
光成氏は19日説を主張してるけど普通に考えれば19日入城が自然だろうな
流石に15日広島出発で17日大坂入城は無理がある
また白峰氏によると義演准后日記七月十八日条の頭注では毛利宰相を輝元に比定してるんだと
まあこれは誰が見ても間違いだし、白峰氏も昨夕(7月17日)大坂城西の丸に入ったのは秀元だとしてる そもそも関ヶ原の原因って景勝のわがままから始まってるよな
景勝がさっさと上洛してたら無問題だったのに、何やってんだ景勝 そらそうよ 景勝はもともとよくわからん人なんで仕方ない
それよりも直江の見通しが甘々やったんよ 確かに転封したばかりという事もあって秀吉生前に領地への帰国は認められてようだけど、
いわゆる御掟には不誠実な申し立てがあった時には双方を呼び出して必ず究明せよ、
という一文があるんで景勝の態度はどう考えても政権運営側視点、当然問題になるのよね
奉行ですら、上杉征伐の延期を家康に要求したようだけど、中止自体は求めてないし >>255
だから輝元が首謀者って話。2日で広島・大坂を移動するのは海路を使うしか無い。陸路を使えば7〜10日は掛かるけど海路なら遥かに迅速に大軍を動かせる。当然書状が来るのを知った上で船を準備させてないといけない。輝元は当然準備させて書状が来たら即日船で出発してる。 >>262
7月14日付吉川広家書状を見る限り、やはり石田三成が首謀者としか思えんがねえ
あの書状には「去五日、雲州罷り〜安国寺江州において石治少、大刑少、手前見及ぶ仔細候哉」
とあるし 一斎留書には輝元は17日に大坂の木津についたとあっておそらく先触れとして秀元を大坂城に送ったとみられてる。
なんで17日到着だと言うか、って話だがそれは一連の事実を並べて考えると17日に輝元が大坂に居ないと凄い話になる。
整理しよう。大坂の三奉行が広島の輝元に上洛要請文を送ったのは12日だった。これを輝元が受け取ったのが15日。つまり使者が大坂・広島間を走って3日掛かる。と、言う事はだ。どうして大坂付近にいる秀元が17日に大坂城に入ったんだ?
輝元が陸路で使者を送ったなら間に合わない。てことは輝元は海路で秀元に命令を送った。つまり秀元が大坂付近に居たのは最初からこれを考えてのこと。つまりこの場合はさらに関与が深くなる。 17日に朝廷から大坂へ見舞いに広橋権大納言が下向している
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0073?m=all&s=0030&n=20
翌18日の夕方には帰洛しているが、その間に面会したのは前田徳善院であり、「なに事もなく、まつ大さかのていはもり(毛利)したいにて候まま、御心やすくおぼしめされ候へ」との回答を得ている
ここから分かることは、18日の(広橋が大坂を離れる)おそらく昼過ぎまでは輝元が大坂にいなかったこと
徳善院は輝元が来坂すれば事態は解決するとどうやら楽観視していたこと
それとは無関係だが、三成、大谷、安国寺の関与は多種多様な史料から明らかであり、それを下手くそな時刻表トリックみたいなもので「三成はめくらましに過ぎない!」と繰り返すのは単なる妄想である ちなみに話題の17日は三奉行が内府ちかひの条々を発した日でもある
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0083?m=all&s=0030&n=20
その一番大事な第一条は「五人の奉行(いわゆる大老)と五人の年寄(いわゆる奉行)で約束しあったのに、すぐに二人の年寄を追いやったじゃねーか」
三成と浅野のことを指しているわけだが、こんなもの三成の考えが入っていると考えるのが普通だと思う
受け取った方からすると「えー、まずそこ?!」ってずっこけるわ 七月十四日書状は三成首謀って内容じゃない。
まずこの書状では謀反の首謀者は輝元だと漏らしてる。「恵瓊は輝元が三成と吉継を大坂に呼んだと言ってる。でも広島の輝元が大坂の事を知ってるはずがない。だから毛利は無関係」ってのが広家の主張だけど輝元が三奉行と連携してる事から恵瓊は真実を語ってる可能性がある。
次にこの書状、何故か送付されてない。徳川に直接送らないで何故か黒田長政に送ってる。なんでなのか。 ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0092?m=all&s=0030&n=20
関ヶ原後に徳川方に生け捕られた島津家重臣、新納旅庵の覚え書き
徳川方は尋問で、島津が「今度謀叛之張本」と疑った
旅庵は「人質が危険になるかもしれないので仕方なくです。石田は安国寺を使いに出して維新に謀叛をけしかけました。維新はさまざまに違見してやめさせようとしましたが、石田は納得しませんでした。私が国許から上ったときに維新が話していました」などと回答した
大日本史料では安国寺派遣は7月14、15日頃と推定している >>264
毛利軍は元々会津征伐に参戦する予定で
近江まで来ていた
それが入城要請とほぼ同時に転進してる
マジでそんなことも知らんで長文書いてんのか・・・ >>267
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0030?m=all&s=0030&n=20
これの一連の文書群のことですか?
また誤読さらすんですか?
輝元が首謀者だなんて漏らしてません
そもそも、安国寺が(おそらく)吹いたホラの内容は「殊更安国寺自輝元被呼帰候様申上候段、無是非次第に候」
輝元から安国寺が関東出陣をやめて大坂に帰れと言われたと吹聴し、吉川怒ってるでしょ
その前に安国寺が江州で石田、大谷となんか話をしてから帰ってきたともあるんだから、石田は立派な首謀者
だいたい、黒田に送ったのは別の書状だろ?
官兵衛以来、懇切だからとか理由はいろいろ記されている
それで
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/24/0080?m=all&s=0079&n=20
「輝元は知らなかったんだ!余は満足じゃ」の書状となる
迷惑だから史料使わないでほしい >>267
「然れば右御両所御企承り」とあるから、さすがに無理がありすぎるんじゃないの?
しかも書状の日時は去五日になってるし ここ最近の話は白黒つけてなんか意味ある?てのばかりだな 輝元って凡庸で気が弱いといわれるわりに、四国や九州の派兵には元気でよくやってると思う
人が変わったみたいに
家康という強大な敵がいなければやれるぞ、とかいう気が弱い奴特有の自信かな? 結局三成は巻き込まれたという結論ありきで
既存史料を誤読しまくってるだけだな
話題になってた史料からわかるのは
・吉川広家は内府の命に従わない転進に反対で会津征伐軍へ報告してる
・転進は(輝元の命と称する)安国寺恵瓊の指示による(と報告した)
・広家は(西軍蜂起に繋がる)転進命令に大谷石田の関与を疑ってる >>270
その読みは意味不明じゃね?安国寺がなんで関東に出陣せんといかんのよ出陣するなら会津だろう。
それの箇所は安国寺恵瓊が三成と吉継が大坂に来る事を説明した上で「これは輝元が来るよう命令したのだ」と言っているって話。関東に云々ってどの研究者が言ってるのだ? >>269
そんな事は誰も問題にしてないぞ。
毛利秀元がどこに居ようが問題は毛利軍が十七日に大坂城を占拠した(対外的には徳川を追放して大坂守護についた)ことにある。
三奉行が十二日に出した書状が広島の輝元に届いたのは十五日。つまり大坂→広島間は三日掛かるワケ。じゃあここで問題。十五日に出した書状が毛利秀元に届くのは何日掛かりますか?毛利軍が何処に布陣していたかは定かでは無いがまず間に合わないだろう。
更に言えばこの場合秀元も一連のクーデターに参加していたことになる。藪から棒に「大坂城西ノ丸を占拠せよ」という命令書が届いてこれに従う筈もない。輝元が予め秀元にこうした命令が届くと伝えていたからこそ滑らかに占拠出来たんだって話になる。 >>276
関東出陣でも問題ないと思うが、嫌なら「会津出陣」と読み替えてくれて結構
あとさ、どこに石田、大谷が大坂に来る説明なんてあるの?
引用してみてくれないか? 7月14日付書状って慶長6年吉川広家自筆覚書案(吉川家文書917号)読むと榊原には出されてないんだよな
「完戸・益玄・熊豊ゟ榊式・本佐・長右近迄之書状被認候、吾等も書状相調、完戸殿飛脚同然ニ可遣と催候之處、
中納言様御上着候間、此時ハ此文言偽ニ候間、飛脚指留申候」
上記の7月13日付榊原・本多・永井宛益田・熊谷・宍戸連署状と併せて、
光成氏は関ヶ原後に広家や益田等重臣が偽造した可能性もあることを指摘してる
榊原家をはじめとする徳川方には当然これらの書状は伝来していない 正確に訳するとこうじゃないの?
「去る五日に雲州から播磨明石国に着いたところ、安国寺より大坂に石田三成・大谷吉継が来てるので我々も大坂に来る様にとの指示があったので昨日十三日に到着しました。そこで三成・吉継の企みを聞いて驚きました。更に安国寺が二人は輝元が呼び戻したのだと触れ回っているのは言語道断です。そもそも輝元がこの事を知っている筈がないので不審に思うばかりです。今、大坂の様子を留守居役と共に広島に派遣しました。すぐにでも真相をお伝え出来ると思います」 >>280
「安国寺於江州石治少・大形少手前見及子細候哉、大坂罷帰候て、我等事も可相抧由申候条、昨日罷着候」
この部分は「安国寺は江州で石田・大谷と協議して何か特別な問題でもあったのだろうか。
大坂へ帰ってきて、私(広家)にも大坂で待つように言ってきたので、昨日(大坂に)着きました。」だろ
ここでの「我等」に複数の意味はなく単数の私の意味になるから広家一人のことを指す
なので石田・大谷へは大坂に来るようにとは言ってない >>277
うんだから輝元は元々奉行らと交渉してて
その意を受けて安国寺恵瓊が軍勢を転身させた
そしてその陰には大谷石田との共謀があった
これは俺が言ってんじゃなく広家や宍戸ら
徳川よりの毛利家臣の認識
まじでそんなことも知らんで何を主張してんだ? 七月十四日広家書状はその前の十三日宍戸ら三臣書状とセットになってる。それによると
「安国寺恵瓊が出陣するということで我々も江州まで出陣していたのですがそこで訳は分かりませんが石田三成と大谷吉継が大坂に向かっていくのを目撃しました。その上、輝元はこれを知っていて実は輝元が呼び戻したのだなどと触れ回っているのは許せません。輝元はこちらのことを知っているはずがないと全員不審に思っています。今留守居役にこちらの事を伝えて広島に送りました」
って事が書いてある。(広家書状からして「輝元が三成吉継を呼び戻した」と触れ回っているのは安国寺恵瓊)内容がかなり類似してるから本当にあったか広家がまとめて創作したかはわからん。 でこれは大日本古文書にもハッキリ「輝元ニ呼戻サルト申廻ル」とあるから安国寺恵瓊は三成・吉継は輝元が呼び戻したと言っていたと解釈して間違いは無いと思う。三臣書状で大坂に戻ってるのは三成と吉継だから。もし恵瓊が直々に呼び戻したとしたら一家臣に出来る範疇を超えてるから輝元が呼び戻したのは真実かもしれない。 >>279
完戸じゃなくて宍戸だね
13日書状は木津留守居衆から徳川方に出されたとされてるわけだから偽造する意味が薄いし、吉川としても幕府に提出するわけでもなく内向きの文書だからなあ
14日付けの書状を準備していたのに輝元が上洛しちゃったので「偽」になると飛脚を差し止めたってのは日付考えても不審ではあるが
>>280
全然違います
>>283
書かれてません >>284
間違いです
安国寺が佐和山から大坂に戻り、輝元の命令で帰ってきたと触れ回っただけ
安国寺はこんなこともした
「然処ニ大坂西丸御留守居衆申理候間、此方人数可入置之通、達而申され候、中納言様御意承届候ハで、各我等式不及同意之由返答申候、然者長老被申様ハ、於此儀者中納言様得御内証申候、去春福(福原広俊)式・堅(堅田元慶)兵木津(摂津)ニ被残置候も此儀ニ付而之事由被申候て、一円ニ無同心候、宰相(毛利秀元)殿・宍戸(元続)殿其外もかやう之儀少も無御存由候、此時ハ長老いかに被申候ても、御意承居候ハてハ聊爾之働不相成事ニ候段申候、其時長老、其申分ニ候時ハ無曲次第ニ候とて腹可仕之由候て、殊外違乱被仕候キ」 >>285
宍戸だというのは知ってるけど原文ママってことで
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0902/0080?m=all&s=0059&n=20
光成氏はもう一つの可能性も指摘してるな
直後に安国寺から広家等に輝元も了解済みである何らかの証拠を提示されたから書状の発送をやめたというもの >>287
ほんとだ、確認したら原典も完だね
申し訳ない
そこまで推測に推測を重ねていいのかという疑問がある一方で
いくら安国寺とはいえ、ここまでの重要事項を一人で決められるのか、輝元の動きの速さ含め不可解なことも多い というか安国寺恵瓊が本当に輝元と
関係なく動いてたと思ってる人誰かいるん?
普通に考えたら輝元の命を受けて動いてる
そうでなきゃ実際に毛利の軍勢は動かせないし
勝手に動かしたなら敗戦前に処罰もの
単に毛利軍は三奉行の要請とほぼ同時に動き
つまり輝元と恵瓊はそれ以前から
大阪入城に向けて動いていた
そして毛利軍の連中はその動きは
恵瓊も石田大谷らの策動であると認識してた この書状は別段新史料でわけではなく
西軍総大将を引き受けた輝元が
三奉行から要請あるまで動く気なかった
なんて発想の方が新説、というより珍説
別に誰もそんな主張はしてない
今更そんな当たり前の事実を持ち出して
三成より先に輝元が動いてるから
三成は後から参加したというのも
かなり奇妙な説で
通常その書状は三成の早くからの
関与を伺わせるものと言える 宍戸ら三臣が送った(とされる)書状には「自分達には理由がわからないが石田三成・大谷吉継が大坂に向かっている」ことが明記されておりまたこれを安国寺が「輝元が呼び戻した」と触れ回っている事も書いてある。更に吉川広家も十四日に大坂城で三成・吉継と対面してる。広家もまた「これは輝元の指示である」と聞いている。
この2つは明らかに関連性がある。片方のみ嘘とは考えられない。両方真実か何方とも偽物か。どちらにせよ輝元が全部裏で糸を引いていたのは間違いない。安国寺が独断で行っていい内容では無い。 >>291
素朴な疑問なんだけど
複数人から誤読だと指摘をされても無視し、さらに誤読を何度も自信満々にさらすのはなぜ?
誤読に妄想を積み上げて得た結論に意味はあると本気で思ってる?
都合の悪い指摘には黙り込むのもなぜ? 益田・熊谷・宍戸書状「石治少、大刑少手前如何被見及候哉、大坂被打歸候、其上、輝元存候而被呼戻候被申廻…」
この三人は近江近くを行軍していたがそこで石田三成・大谷吉継が大坂に帰っていく姿を目撃した。その上輝元はこれを知っていて実は輝元が呼び戻したのだと触れ回っている、と書いてある。十四日広家書状では「安国寺が輝元が呼び戻したのだと触れ回っているのはけしからないこと」とあるからこの三人に伝えたのも安国寺と見て間違いないね。 光成氏が書籍で指摘していたけど広家がこの書状を徳川に即座に送らなかったのは輝元の関与が明らか過ぎて手に余ったからだろう。輝元は大坂に祐筆を派遣していてこれで安国寺は輝元の命令書を発布出来た。安国寺が独断でやったとしたら毛利家への謀叛だから輝元の命令があったのは明らか。おそらく十三日に安国寺に会った広家は輝元の命令書を見せられて徳川への釈明が不可能と報告を先延ばしにしたんじゃないか。輝元-安国寺・三奉行の繋がりはある。 広家にしろ三臣にしろ安国寺の主張を否定する根拠は「広島の輝元が大坂の事を知っている筈がない」という想像に過ぎない。そして輝元が大坂の事を知っていたのは大坂からの書状が届いたその日に船で出発している事から証明されている。つまり広家らの主張は間違っていた。この書状が送られなかった理由はこれだろう。 多分>>284は七月十四日広家書状が十三日益田熊谷宍戸書状とセットになってること知らなかったんだろうな。この二つを並べればというかこの二つが並んでるのは石田三成と大谷吉継が大坂に来たという点を強調させたいからだし。
尤もどうやっても輝元と三奉行がグルなのは明らかだから安国寺が輝元の命で動いてるのも確定なんだけどね。 すでに書かれてるけどこの書状自体
そもそも新史料でもなんでもなく
定説の三成首謀もこれらの史料を踏まえたもの
なのだが司馬遼太郎はじめフィクションの中では
主役級の三成の活躍を強調するため
毛利の動きなんかは大幅に割愛してるせいか
定説も三成がひたすら働いてたというものと
思い込んでたんだろな
だからこれ読んで毛利が動いてた
→三成は首謀者じゃない証拠だ
というおかしな取り上げ方しちゃったんだろね 三奉行からの上洛要請文を輝元は加藤清正に送ってこういう事情だからお前も上洛せいと書状を送ってる。それを加藤清正はスルーした。輝元がおかしいのか清正がおかしいのか?
と言えば輝元がおかしい。もし何も知らなかったら清正みたく動かないか陸路で時間使いながら上洛するだろ。即日にしかも船で出発ってのは偶然なら異常。 上方で恵瓊や三成が工作してたのが
実ったんだから即動くのが当たり前で
別に異常でもなんでもないんだよ
通説でも輝元は別に言われたら動くだけの
受け身の存在でもなんでもない
そこを勘違いしてるから異常とか思うだけ
元々定説でも三成と並ぶ首謀者の一人 7月21日の細川忠興書状でも「石治部・輝元申し談じ色立ち候」とあるし、三成は明らかな首謀者 実は三成は輝元や三奉行と違って全く活動してない。一次史料では三成が何時から西軍として動いていたかというと七月末に漸く動いてる。三成が西軍に呼ばれた理由が上杉との連絡係って点に疑問は持たれてないけど三成は上杉と交渉するどころかその通り道の真田とすら連絡してないからね。
そうなると七月十四日の広家書状にあるように三成を呼んだのは輝元ってのは恵瓊のハッタリじゃなかった可能性が非常に高い。 >>302
まずそれは忠興の感想ではあるんだが実は忠興は「石田三成が主人」とは考えてないってのが面白いよね。 >>295
赤点です
というか、行軍を目撃だの、何が見えてるの?
まともに日常生活送れてる? そら近江まで来たら石田三成と大谷吉継が大坂に帰ってたと言ってるんだから当たり前だろ。むしろどこをどう曲解してるんだか。
無論この二つの書状は「輝元が西軍決起の首謀者」である事を受けて吉川広家が必死に真実を捏造する為に作ったもんだが。だがこの書状の存在によって実は輝元がクーデターを画策していた事も証明されるんだけど。 >>305
ここがこうだとか指摘するなら兎も角必死に悪口言うだけって
「私が間違ってました」
って事でOK?
てか十三日宍戸書状知らなかったんでしょ?教えてくれてありがとうとかは? そういやこの書状の内容が正しいとして三成が大坂に到着した事は一切他の史料に無い。てことは毛利軍が密かに彼等をエスコートしてた筈。そんなことを元奉行の三成が命令する権利は無いし安国寺恵瓊の独断で出来る根回しじゃない。輝元の意思なんだろう。 >>295
「見及」を直訳して目撃したと訳すからおかしなことになるんだよ
ここでの「見及」は知り得たとか分かったと訳すべきで見たとか目撃したではない
つまり冒頭部分は「この度安国寺が(会津に)出陣するため江州まで出たところ、
石田・大谷に会いどのように(こちらの様子を)知り得たのか、大坂へと帰った」となる >>309
そりゃそうだろ、7月13日の時点で大坂へ帰ったのは安国寺一人であって石田と大谷は大坂へは行ってないし
三成が確実に大坂に居たことが分かるのは8月1日付青木一矩宛石田三成書状写
「去月廿八御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、拙者儀昨日当地着候」 >>308
おそらく彼は「吉川広家の関ヶ原」みたいな吉川家文書をまとめた書籍を読んだんだろうね。十三日書状と十四日書状を読んでいれば大坂に戻ってるのは三成吉継で恵瓊ではない(少なくとも恵瓊のみではない)事は一目瞭然。また「輝元が恵瓊を呼び戻した」というよくわからん訳もしないだろう。
それに十四日書状では「恵瓊が近江に行った」かどうかは分からない。明言されてるのは関ヶ原後の輝元宛書状案(これにはしっかり恵瓊が佐和山に行ったと書いてある)
つまり彼が読んだ本はそれら全てを一つにまとめて時系列を無視したもの。ただそれを除いても吉川家文書は広家の自己弁護本って事を知っていて欲しかった… 石田大谷に会いどのようにこちらの様子を知った?
どこの馬鹿がそんな説を書いてるんだ?ちょっと書籍名と著者名をあげて欲しい。
だっておかしいだろ?どうして毛利家臣それも益田熊谷宍戸と3人が恵瓊が石田大谷と会ったとか言うんだよ?妄想で言ってるなら悪口だし佐和山まで着いて行ったなら謀反の当事者じゃねえか! >>308
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0030?m=all&s=0030&n=20
を真っ先に引用してるんですけど
読んでいただけなかったのかな?
あとね、当該部分は「安国寺が出陣にあたって佐和山まで到着したところ、石田と大谷と会って何を見聞きされたのか、大坂まで帰ってきました。その上、輝元の命令で帰ってきたのだと触れ回りました」と訳すのが普通
石田、大谷の行軍を見ただの、大坂に両者を呼び寄せたのは輝元だの、14日に広家と面会しただのは一切書かれていない
低レベルな、誤読というのすらおこがましいような単なる無知
それとよく分からないのだが、あなたは複数の回線で書き込んでるの? >>313
自演おつかれ
光成氏も白峰氏も石田と大谷が大坂へ行ったなんて訳してないから自分で確認してみたら
明らかな誤読をいつまでも認めず同じ主張を続けるのはみっともないからやめた方がいいよ >>303
輝元が三成を呼んだなんて書かれていません、断じて
>>307
この書状案は幕府に提出されるものだったんですか?
公表される性格のものですか?
誰に宛てたものか分かってますか?
>>312
もう自演と誤読の相手も疲れたんだが
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0032?m=all&s=0030&n=20
14日文書というのは上記書状だな?
「安国寺於江州、石治少、大形少手前見及子細候哉」とあるけど、江州ってどこだっけ?
どうせ崩し字は読めないんだろうけど、翻刻も読めないから一緒だな
ああ、追記だけどその本は読んでません
よさそうな本の紹介をありがとう! >>313
白峰氏の訳ね
『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その1)』から引用
「この度安国寺恵瓊が(上杉討伐のために)出陣して、江州まで出たところ、
石田三成・大谷吉継と(会って)どのようにわかったのであろうか、(出陣せずに)大坂へ帰って、
その上、毛利輝元の考えにより(大坂へ)呼び戻されたように申し回った。」 >>313
横からだけど、七月十四日の書状を本当に読んでますか?
再掲
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0032?m=all&s=0030&n=20
「安国寺が近江で石田と大谷に会ってなにか見聞きしたのか、大坂に帰ってきた。(出雲から出陣していた)私(広家)にも控えていろ(東国まで行軍を続けず大坂で停止しろ)と言ってきたので、昨日着きました。すると石田と大谷の企てを聞いて驚きました」
書状の付け日は14日なんだから13日に安国寺から話を聞いたわけで、留守居衆の一日早い書状とも整合する
安国寺から聞いてるんだから知っていて当たり前でしょ
書いてあることは読めないのに、書いていないことは読める、すごい才能をお持ちのようで
まあこの史料の真偽をどう評価するかは分かれるのかもしれないが、そもそも読めていない読めない君は論外なんだよ
百年早い、というか聞く耳持たないから千年やっても君はダメだろ >>295
もうちょっと細かくやるか
大坂の木津留守居三人衆がなぜ近江を行軍するのか
あと、三人衆が行軍を目撃したと(そんなこと一言も書いてないんだが)断定しているが、君の主張する一文には最後に「哉」がある
この「哉」、どういう意味ですか?
疑問ですよね
三人衆からの伝聞で吉川が書いたという筋は無理矢理なら妄想できますが、残念ながら実際に見たはずの三人衆の13日書状でも「哉」があるんですよね
目撃したはずなのに、目撃したのか?なんですか?
高校古文漢文くらいやってれば理解できる簡単な話だと思うんですけど まぁ幾つかの点で論理的じゃないからね。まず「石田・大谷…大坂被打帰」を安国寺が帰ったことにするのは余りに論理の飛躍があり大凡支持することは出来ない。
次に安国寺の主張は「輝元が呼び戻した」ことである。仮に宍戸らが安国寺が佐和山に行くところを見たのなら問い掛けは「佐和山に何をしに行ったのですか?」になりその返答は「佐和山に行ったのは輝元の指示です」だったろう。つまり返答が180度違う。 >>313
その通りで宍戸らは安国寺が何処で何していたかを知っていても誰と会っていたかは分からない。つまり宍戸が「安国寺が石田大谷と会ってる」と知っていたならそれは謀叛に加担していたことになる。また当該書状には安国寺が佐和山会談を触れ回っていた事に触れてないのでこの三人はその事を知らないはずである。
整理すると宍戸たちは安国寺が出陣するとしてその関係で近江付近を行軍していた。ところ、石田三成・大谷吉継が大坂方面に向かう場面を目撃する。彼等にはその理由が分からない(手前如何被見及候哉)。そこで安国寺にこれを報告して「どういう事かご存知か?」と尋ねたところなんと安国寺は
「輝元が石田大谷を大坂に呼び戻しました(輝元存候而被呼戻候)と返答してきた。安国寺が勝手に大坂に戻るだけなら毛利家内の統制問題だが武将を勝手に呼び戻したとなれば公儀への挑戦と取られかねない。ただちに彼等は徳川に釈明に走ったのであろう。 白峰さんかぁ。あの
ねらいたてとは茶道用語であり、ここぞの見せ場の事を言う。その様な言葉を練り込む石田三成の教養の高さが窺える
っていう説で有名な… また自演してて草
自分の間違いを認められず誤読と妄想垂れ流し続けるのはもう治らんね
光成氏の訳ね
『関ヶ原前夜』から引用
「恵瓊が近江で石田三成・大谷吉継とこちらの状況について(協議し)判断した事情があったのだろうか。
大坂へ帰ってきて、私(広家)にも(大坂に)来るように言ってきたので、昨日大坂に到着しました。」
見及の部分の訳は両氏多少違っていて意訳されてるが、石田・大谷と会い相談を
して何か思うところがあり、安国寺は大坂へ帰ったというのは一致してる
また石田・大谷が大坂へ行ったなんてアホなことは当然だけど両氏とも言ってない
研究者じゃなくてもそんなことは普通にわかるしな >>321
もうすべてが間違っていて、指摘していくのも疲れる
むしろうらやましい、その思い込み力
>>320
こう誤読していたのか
どこをどう読めば石田、大谷に大坂に帰れと命じただの行軍を目撃しただの、広家と会談しただのと読めるのかてんで不思議だったんだが、やっぱり斜め上なんだなあ
そういえば石田が代理を拒否したとかいうのはどうなった?
どこをどう誤読したのか参考までに教えて >>313
恵瓊が言ってたに決まってんだろww
基本的な知識なく半端に史料見ると
(読めないので見るという言い方がピッタリ)
変な妄想に陥って大変だな 宍戸が石田三成・大谷吉継を見れた筈がない!
いや安国寺が会談した事を知ってるって事は佐和山付近見てるじゃん。安国寺が憧れの三成サマに会えた嬉しさを叫びまくってたとか考えるのは最早小説の域 こんなヘタクソな自演見たことがない
相手にしたら負けだわ >>326
更に言うと安国寺がそれを話したとしたら「輝元が呼び戻した」は返答としておかしいからね。その返答は「輝元が私を佐和山に送った」となっていたら可能性はあるんだけど。
尤もこの二つの書状は吉川広家が「全部三成と恵瓊のせい」とねつ造する為のもので真実性は皆無なんだけど。広家がこの書状を送らなかったのもそのため。 >>324
はぁ…じゃあまずお前さんの説の間違ってるところから指摘するか?
まず安国寺が三成と会ったというなら宍戸はそれを知った経緯を明記する。そうしないと讒訴かその現場に居たと見做されてバカを見るのはこいつらなんだから。
次にお前さんは「手前如何被見及候哉」を「どのようにこちらの様子を知ったのか」と訳してるがこれは意味不明。安国寺が宍戸らを気にして大坂に帰る?何を言いたいんだ?
最後にもし宍戸らが安国寺が佐和山に行った事を知ったとしたら彼等の問いは「どうして佐和山に行ったのですか?」で安国寺の答えは「輝元の命令で佐和山に行きました」だろうが。何故大坂に戻ってきた事を輝元のせいにするのか。
つまりお前さんの説は論理的に破綻していて文章の体をなしていない。 じゃあ正しく訳するとどうなるか?「石治少、大刑部…大坂被打帰候」とあるから大坂に帰っているのは三成と吉継だろう?これを目撃した宍戸らは安国寺に理由を知ってるか尋ねた。その答えが「輝元はこれを知っていて、実は輝元が彼等を呼び戻した」だった。
当たり前だがこの時宍戸らは三成が謀叛してるとは思ってない。三成は挙兵すらしてないのだからね。だから三成らが大坂に戻る事も何なら佐和山で会談する事もそれ自体は問題では無い。問題はこれが輝元の命令なら輝元が公儀を気取り出したことになる。当然釈明が必要でだからただちに釈明をすると徳川に約束したってわけ。 >>332
全部、史料の根拠つきですでに説明してるんだけどなあ
宍戸らがなぜ密談の内容を知ったのか
14日書状だと安国寺から大坂にとどまれと達しがあり、「昨日罷着候、然者(しからば、読めないだろうからルビ振っとくね)右御両所(石田と大谷)御企承驚入存候」
つまり、13日に吉川や宍戸は安国寺から直接聞いている
ttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180
上記の冒頭部分はこの13日の会談の経緯と内容が詳しく記されている
ご存じなかった?
全部書いてあるんだよなあ
次、「こちらの様子を」と訳したのは別の人
私は「石田と大谷と会って何を見聞きしたのか」とすでに訳してるよ
石田、大谷を「手前」にして安国寺が「如何被見及候哉」という解釈
もちろん、「手前」を当方の事情と解釈し、石田と大谷が被見及という見方もできると思うけどね
最後のは意味がよく分からんが、毛利軍は遅延しながらも上杉討伐にそれぞれ出陣を始めていた
その内の安国寺が行軍途上の佐和山に寄るのはとくだん不自然ではなく、そこから大坂に引き返すのが不自然
佐和山の位置把握している?
それとは別件で
自演してると思うんだけど、なんで? >>333
赤点です
「今度安国寺出陣に付而」とその前にあるんだから主語は安国寺
大坂に帰ったのは安国寺だけです
さっきのレスで示した申上候条数之案の全文でもそうなってます
つまり、複数方面から確認できます
ご存じないのかもしれないが(文書に明記されてるけど君は読めないしね)、宍戸らは大坂木津の留守居で出陣はしてませんので、近江方面で目撃なんてあり得ません
というか、そういう読み方がまずできないんだけど一応
後半はちょっと意味が取れないのでスルー
だいたい、14日書状についての君の考え方がブレブレで理解不能なんだよね
三成が代理を拒否したってのはどこいったの?
当たり前の前提は共有した上で、たとえば吉川文書の真偽はどうとか、そういう話がしたい人が多いと思うんだよね
そこに君が信じられないくらい低レベルな誤読をさらし、しかもそれをさも定説であるかのように断定し、下らないとしか言いようがない妄想を連発する
コミュニケーションも取れない、誤りは一切認めない
あげく、どうもバレバレの自演までやり出す
自覚ある? >>332
7月13日付連署状を「どのように(こちらの様子を)知り得たのか」と訳したのは俺ね
こちらの様子=上方の様子の意味で、つまり石田・大谷と上方の状況について
協議した結果、安国寺はどのようなことを知り得たのだろうかと言いたかった
しかしこのままの文言だと本意ではないが「(安国寺は)どのようにして上方の様子を知り得たのだろうか」
とおかしな意味になるし、また当該書状では具体的な会談内容に
言及されてない以上、上方のことを協議したと限定すべきではないわな
なので「(協議して)どのようなことを知り得たのだろうか」に訂正する >>332
あと334の人も言ってるが宍戸らは佐和山に行ってないぞ
13日に広家は大坂に到着してて、宍戸・益田ら木津留守居衆も大坂で安国寺から石田・大谷の謀議を聞いてる
そこで宍戸ら木津留守居と広家は関東方へ報告しようとして書状を認めたが輝元が大坂に到着してしまったから、
輝元が何も知らなかったと言ってもそれは偽りになるので書状の発送を止めたと言ってる
まあ普通に考えれば輝元が広島を出発したのは15日だから広家らが13、14日に輝元の
上坂を知ってるのはおかしな話で書状の発送を見送った理由としては矛盾してるんだが
それが下記の部分
吉川広家自筆覚書案(吉川家文書917号)
「中納言様無御上之内、益玄申様ハ、御弓矢ニ罷成候時之さゝハりニハ成間敷候、
若中納言様無御存知之由被仰度時ハ、可然候之間、木津御留主居之者として言上仕之通、関東へ可申遣候哉、
其旨趣ハ中納言様此企曽無御存知候、其段自廣嶋雖可申開候、遠路ニ候之間延引仕候、
先輝元不被存之段、木津留守居之者共言上候由申捨度候、後々御用ニ立御事もやと被申候、
是ハ無余儀被申様と申候て、完戸・益玄・熊豊ゟ榊式・本佐・長右近迄之書状被認候、
吾等も書状相調、完戸殿飛脚同然ニ可遣と催候之處、中納言様御上着候間、此時ハ此文言偽ニ候間、飛脚指留申候」
※申捨度→一方的に伝えること 8月7日の三成書状に「去月二十三日」「同月二十六日」とあり、この時点で三成と佐竹義宣
が連絡を取り合っていたのは明らか
関東の東端から佐和山までの日数を考えても、三成が西軍の首謀者として早くから関与していたのは
明らかだと思うんだがなあ >>341
今手持ちの愛知県史で確認してみたけど10日だな
冒頭部分だけだけどこの書状でしょ?
「去月廿三日ニ其地を罷立候飛脚、無異儀大坂江罷着候、
同月廿六日之御状茂於江佐拝見、此飛脚大坂江罷通候、追而帰遣候節可申候事」 >>342
そうそれ
石田三成と佐竹義宣の通信を示す書状 この二人の関係性なら普段から連絡を取り合って不思議でないし、それでも最初の23日発書状は佐和山をスルーしていそうだし
佐竹が大坂方と通信していたという、それ以上でもそれ以下でもないような
>>302
白峰氏はこの細川書状を三成首謀を示す一次史料と断言してるね
そこまで言い切っていいのかは疑問なんだが
あくまで東軍の認識に過ぎないわけで
とはいえ、そこそこ信用が置けるだろう二次史料の数々から三成が首謀者の一人だったのは確かだと思う
疑惑の一次史料なら>>230もある
こっちは真正なら西軍内部の人間の認識だ >>324
「安国寺が石田三成・大谷吉継と佐和山で会談して大坂に帰りました」を漢文にしろと言われて
「石治少大刑部大坂被打帰候」
って書いたら0点だぞ。正解は
「安国寺佐和山被罷越候て、石冶・大刑被遂相談、如何御座候ツルか、忍候て大坂被罷下候」
これは中納言宛広家書状案だが。十三日書状にも勿論十四日書状にも「相談」「申合「談合」といったおおよそ話し合ったと言う単語が無い。つまりそれはお前さんの想像なんだな。
その想像が論理的に正しいかといえば間違ってる。 >>334
で、残念ながらこの解釈は間違い。
まず十三日書状と十四日書状は同じ人物が書いたものじゃない。なので実は宍戸らが「誰から」石田三成・大谷吉継が輝元の命令で大坂に戻っているのかを聞いたのかは判らない。これが安国寺だろうというのは十四日書状に「輝元が呼び戻した」と安国寺が触れ回っていることからの類推。
んで更に君が挙げた広家書状は実は根拠に使えません。内容をよく読んでごらん。何故か関ヶ原の合戦について書いてあるだろう?どうして七月十四日に関ヶ原の合戦の事を輝元に送ったのかな?あぁ、広家は超能力だったのか!
って君は妄想してたのかもしれない。ところが真実は異なる。これは関ヶ原合戦後に広家が輝元に「徳川とはこういう事情と説明しました」という辻褄合わせを報告したもの。
つまり全部安国寺と奉行衆に押しつけたので輝元さまもそういう態度取ってくださいね、頼むから総大将面しないでねってこと。 宍戸たちは佐和山で何が有ったのか分かり得ない。彼等が知り得るのは佐和山に恵瓊若しくはその使者が入って行って出て行くところだけなのだから。故に彼等は安国寺が佐和山で誰と会ってるかわからなかった。彼等が徳川宛の書状を書いた十三日時点では吉川広家が安国寺に呼び出されて到着した時でまだ安国寺・吉川の会談が行われてない。だから宍戸たちは「何故三成と吉継が大坂に向かっているのか?」程度のことしか書けなかった。もし彼等が安国寺が佐和山で行った会談を掴んでいたら、それを率直に書いたろう。 >>345
んん?本格派のバカなんだね
君が引用した条数之案にそのまま書いてあるじゃないか
引用した部分のあとには安国寺と吉川、宍戸らのやりとりが詳述されているし
ttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180
君の主張だと石田、大谷も大坂に帰ってる(帰ってるという表現がそもそもおかしいんだが)のに、どこにも出てこないね
なんでだろうね
佐和山で密談した安国寺だけ大坂に戻ってきて徳川討伐の話を吉川らにした
吉川や宍戸ら木津留守居はやばいと思って徳川方に通報した
そう全部、君が引用した史料に書いてあるんですけど
想像じゃなく
理解できる?
>>346
根拠に使えない史料を一個前の自分のレスで「正解」にしたの?
条数之案が関ヶ原後のものなんて当たり前だろ、さもしてやったりみたいに自爆するから笑える
なぜ私はバカですと自ら触れ回るんだい?
>>347
別IDになったのは偶然ですか? >>344
その説には重大な欠陥があるぞ
どうして長岡忠興が「三成が首謀者」と思っただけで三成が首謀者になるんだ?そんなにこいつは偉い存在なのか?
当たり前だがこうした史料に書かれてるのはそいつの「感想」でしかない。忠興がこう考えてたから真実もこうなんだなんてのは研究者というより小説家の考え
研究者なら三成の発給文書や命令系統を示さないとダメ >>348
申し訳けどどこに「宍戸が十三日の会談にいた」と書いてあるんだい?宍戸らがこの密談に居たとは一言も書いてないよ?
更に付け加えると君が挙げた文書は吉川広家が「輝元は関わってない」と事実を捻じ曲げたことの報告でしかないよ? >>349
おや、「。」を使わない術を覚えたんですか?
改行も適宜した方がいいですよ
細川書状については、疑問もあるって私も書いたでしょ
それすら読めないの?
>>350
さいですか
然処ニ大坂西丸御留守居衆申理候間、此方人数可入置之通、達而申され候、中納言様御意承届候ハで、各我等式不及同意之由返答申候、然者長老被申様ハ、於此儀者中納言様得御内証申候、去春福(福原広俊)式・堅(堅田元慶)兵木津(摂津)ニ被残置候も此儀ニ付而之事由被申候て、一円ニ無同心候、宰相(毛利秀元)殿・宍戸(元続)殿其外もかやう之儀少も無御存由候
いますね、宍戸さん
一連の吉川文書が釈明というか、毛利一門の「公式」記録になったのはそうだろうよ
だから、全面に信頼していい史料ではない
ただだね、それを使って石田、大谷を輝元が呼び寄せただのという誤読を繰り返したのは誰だっけ?
こっちは君の問いに全部答えてるので、君も答えてもらえますか?
まったくもって返答がないんですよね 三成首謀者を否定する=どれもこれも書状の主の見解にすぎない
これならどれだけ書状を根拠にしても無駄じゃないのかな?
家康の1600年7月23日の書状でも「治部少輔、刑部少輔才覚を以て」とあるんだけど、これも
家康の見解に過ぎないのかな?
7月27日の榊原康政書状でも「石治少、大刑少別心」とあるんだけど 松井は西軍の首謀者は輝元だと言ってるが?上方の貴族は豊臣による徳川の追放だと言ってるらしいな?だから輝元や豊臣が首謀者ですって言われたら信じるんかね妄想くんは。
そもそも細川書状の内容も知らないだろうし。 ・7月16日付堅田元慶宛蜂須賀家政書状
「仍今度石治・大刑逆意、無是非存候」
・7月21日付松井康之・有吉立行・魚住昌永宛細川忠興書状
「石治部・輝元申談色立候由、上方ゟ内府へ追々御注進候」
・7月23日付最上義光宛徳川家康書状
「治部少輔・刑部少輔以才覚、方々觸状を廻付而、雑説申候条、御働之儀先途令御無用候」
・7月24日付中川秀成宛松井康之書状
「毛利殿御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」
・7月26日付堀秀治宛徳川家康書状
「仍今度治部少輔・刑部少輔雖企謀叛候」
・7月27日付秋田実季宛榊原康政書状
「然者於上方石治少・大刑少別心仕ニ付而」 これ忘れてた
・7月29日付黒田長政宛徳川家康書状
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」 >>180
萩藩閥閲録見る機会があったので(慶長3年)9月2日付内藤元家宛内藤周竹書状の翻刻だけ
かなり長いが折角なので全文掲載する
邪魔な人はお手数ですがNGして下さい
松壽様(秀就)御事、とも(鞆)より被成御戻候て昨日御着候、舟中之御草臥茂無之候て、一段と御氣分心よく相見へ申候、
直ニ御本城江被成御移候、御袋様御同前候、各御對面之時茂人々ニ名を被付候、被召寄候て御盃被遣候、
肴を茂安安とはさませられ被下候、次㐧次㐧殊外かしこくならせられ候、
始而之旅御門出よく、頓被成御下向候事、千秋万歳不過之候、
一 大閤様御事、去廿三日被成御遠行之由候、然者五人之奉行と家康半不和之由ニて、当家御操半之由候、
安国寺御使之由被仰下候、御手前之御氣遣少茂無之由候、御存命中被仰堅候事、もはや相違之分ニ候、
菜束大蔵(ママ)・増田右衛門・浅弾正忠(ママ)・石田治部少輔・徳善院、右之衆奉行ニて候、
一 当家御人数二万餘被召置候、鉄炮七百丁、其外御家中相加候ハヽ、
五千丁も可有之由候間、不及氣遣候由佐石(佐世元嘉)被申候、
一 筑前をハ当家江預ケ可申之由候、近日人を被差渡けに候、是ハいまた密々にて候、不可有他言候、
一 右之分ニ候間、已前申下候国分なとの事、みな徒事ニ可罷成候、先々目出度候、
某ニも被成御書候而、廣嶋しかと可罷居之由被仰下候、今月宍善兵(宍戸元富)被差上せ候、
一 宮菊(内藤元忠)手前之事ニ候、梅隣(林就長)懇被申上候、少も不可有相違候由内儀候、
然者木二(木原元定)下向之由只今到来候、定可被仰下候、重而可申下候、
此由各江茂可被仰聞候、㐧一山田(元宗)可為氣嫌候、
一 宇喜多事、日々殿様へ参之由候、家中者共之悦候事非大方之由風聞候、於于今ハ無餘儀候、
一 隠又下向之時具申下候、学又(文カ)事不可有油断候、東堂様細々申入、何之書物なり共可被得御意候可被得御意候、
定而上表之儀追々可有御左右之条、重々可申下候、恐々謹言、
九ノ二 周竹
又二郎殿まいる
申給へ >>351
…え?お前さん、ギャグ?ギャグでしょ?
お前さんの言う「居ますね宍戸さん」の箇所だが安国寺恵瓊が吉川広家に対して
「去春」つまり『今年の春に』「福式・堅兵木津(摂津)ニ被残置候も」福原と竪田に、「此儀ニ付而之事由被申候て、一円ニ無同心候」この事について申し出たのですが誰も同意してくれませんでした。と言ってる場面でしょ?
しかもその後に「宰相殿・宍戸殿其外もかやう之儀少も無御存由候」『毛利秀元や宍戸元続、その他誰もこの事を知っては無かったそうです』と続いてる。
だからまずこれは七月十三日・十四日の場面では絶対に無い。これは慶長五年の春の話。いやまさか七月を春と仰いますか…そうですか。 七月十三日の益田宍戸熊谷書状には一言も安国寺が佐和山で 話し合ったという表現が無い。あるのは石田三成・大谷吉継若しくは安国寺が大坂に帰って来たというもののみでこれが輝元の命令という事だけ。
十四日の吉川広家書状で漸く安国寺が何かを企んでいる事がわかる(ただしこの書状は送付されてない)
この事から宍戸達は安国寺の企みを知らない、若しくは知らなかった事にしたいという事実がわかる。つまり宍戸達は「何か異変が有りそうだと思った」程度で留めたかったという話。何故か、というと西軍は毛利輝元によって組織されたからだろう。輝元は三成に担がれた訳ではなくむしろ三成より上位の存在で輝元の命令書で西軍は動いていた。これを吉川達は否定出来ない。 鍵は日付にある。輝元は入念な計画を練っていて十二日に大坂から出た書状が十五日には広島につき、そこから海路で飛ばせば二日で大坂に着けるという日程を作っていた(愚かにも輝元はこれを加藤清正に伝えてしまったから現代まで残っててるのだが)
これだけ入念な計画、安国寺が無関係な筈がない。安国寺は得意満面で披露したに違いない。ここで広家らが即座に書状を出すと毛利軍の大坂城占拠と同日くらいに徳川の手元に書状が着いてしまう。そうなれば後々「吉川は計画を知ってたのに我々に黙ってたな」と言われて交渉の余地が消える。
その為に、彼等が安国寺の計画を知るのは輝元の大坂城占拠の後で無ければいけなかったのだろう。 >>357
ギャグはお前だよ
大坂城西の丸に毛利の人数を入れることに対しての相談をしてる場面の描写だぞ
なんで春にそんな話してるんだよw
で、一同輝元の御意がなければそんな勝手なことは同意できないと言って、
それに対して安国寺は既に輝元の許可を内々に得ていると言った
更に安国寺は去る春に福原広俊・堅田元慶を木津に残し置いたのは、大坂城に毛利の人数入れるためだったと言ってるんだぞ
それに対して一同は当然同心なく、秀元も宍戸もそんな話は少しも知らなかったと言ってる
去る春の話じゃない >>356
ありがたい
全体的にのんびりした文書だが、いわゆる奉行衆が秀吉の掟にはむかっているという認識なんだね >>352
西軍からも首謀者と認められて
実際本人もノリノリの主戦派なんで
それもう首謀者だろ >>360
「去春」とあるならこの箇所は慶長五年の春じゃん。
毛利家では前々から計画が進んでいて春に一度計画を相談したけど誰も同意してくれませんでしたっていう内容。
読んでみるとこの輝元宛書状での大坂会談は安国寺と広家のツートップ対談だったことがわかるね。安国寺が言う→広家が反論する、これしか内容が無いから。仮に宰相や宍戸がいたらこいつらが何言ったかも書いてるだろ。
つまり宍戸らはこの会談には参加してません。 >>362
おう、次はちゃんと史料読み込んでこいよ!分からなかったら聞くんだぞ >>365
前言撤回
また語っちゃいます
赤点です、というより零点
どうせ言っても理解できないだろうからざくっと
佐和山で密談した安国寺が戻ってきて、蜂起計画を打ち明ける
吉川がやめろと言うと、安国寺は「いや、輝元も知っとるけんね。春に留守居置いたのもその一環じゃけ」と主張
それを聞いた宰相と宍戸は「知らんけえの」と?だった
ところで、石田と大谷の行軍を目撃して、吉川と石田が会談したという驚きの新説を明かしていたね
それ、どこいったの?
吉川が輝元に徳川方に裏返った経緯を釈明する文書案なんだから、吉川が何を主張したかを詳述するのは当たり前でしょ?
石田、大谷と会談していたら彼らが何を言ったか、吉川がどう反論したかもVS安国寺と同様に書いてあると思うんだが、それどこ?
もうね、誤読とかそういうサイズ感じゃないのよ
釣りでやってるんじゃなければ何らかの症状がつく >>360
まあこれが答えなんですよ
書いた人に失礼な言い方になるかもしれないが、ごくごく普通の読み方
なんら難しいところはない
13、14日書状の「手前」の解釈なんかは難しいと思うんだけども >>352
お前の中では家康は神なのか?家康さまが仰るなら真実だと?家康にしろ忠興にしろ限られた情報の中で判断してるだけで家康が言ってるから真実になる訳じゃない >>368
うわーこれは恥ずかしい。
良い?まず九月の広家書状には一言も「安国寺と宍戸たちが会った」とは書いてません。貴方の出した箇所には「去春」とありますよね?つまりこれは春のこと。君の国では七月は春なのかな?
だから当然、この会談では安国寺と吉川の会話しか無いでしょ。他の連中が何言ったか書いてないのはなんで?居なかったからです。はい終わり。茶でも点ててがんばってね。 >>365
ゴミみたいな訳で草
先ず該当部分を10万回くらい声に出して読んでみたら?多少マシになるんじゃねw
去春って書いてあるから春の話なんだ!前々からの計画?妄想も大概にしろアホ >>365
あと逃げてないでこれ早く出せよw
複数種類があるんだろ?
289 人間七七四年 sage 2022/09/12(月) 20:24:37.95 ID:w0rYrW9L
>> 283
内府違いの条々は複数種類がある。その一つが福岡市博物館所蔵の内府違いの条々でこれは全十三条で大坂三奉行の署名もついてる。乃至政彦が「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」で取り上げてる。これらは九州の諸領主に宛てて出されたもの。俗に内府違いの条々は全国に出されたものだと言われているが実際には九州を対象にしたもの。何故九州を対象にしたものには署名があるのかは考察の余地がある。 >>371
いくら匿名の便所の落書きとはいえ、恥かいてるのは君なんだよ
それすら分からないようだから、幸せな人だね
大坂で安国寺と吉川や宰相、宍戸らが会談した
もちろん石田、大谷はいない
そこで「春に留守居置いたのそういうわけだから。輝元も知ってるし」と西の丸に兵を入れろと主張した
と、吉川は釈明というか、輝元にこれが正式な毛利の見解だと突きつけたわけだ
安国寺長老はこんなデマを言っていました、ってのが言い分、ぜんぶあいつに押っつけろって話だな
それが実際にあったことなのか、吉川がでっち上げたことなのかという話をしたいんだが、君が奇想天外な誤読をわーわー言うもので困ってるんだな >>365
あとね、読んでみるととか言ってるけど、そもそも基本史料なんだから読んどけと
まあ、読んだところで赤点だから意味ないんだけど
君は赤の他人だからどうでもいいといえばいいんだが、ちょっと知能の検査をした方がいいと思うよ >>365
ああ、書き忘れた
宍戸らが近江で石田と大谷の行軍を目撃したとか、吉川と会談したとか書いてあるという主張はどこいったんですか?
無視せずに説明してね
なんでか、安国寺と吉川の差しの会談にすりかわってるけど
それすら間違いなのは置いておいて
ちゃんと答えてください
行軍を目撃したんですか?
三成は広家と会談したんですか?
あと、自演してたと思うんですけど
それへの回答もないですね
やってないならやってないと言えば済むんじゃないですか? 上杉と誰かが事前に話し合った形跡はない
輝元の積極性はうかがえるが、かといって三成と連絡した様子もない
奉行三人が発したちかひのには三成関与の気配がある
その三人が輝元を大坂に呼びつけ、輝元次第だから安心だと朝廷に太鼓判を押す
みんな何かしらに関わっているんだが、首謀者としての決め手はなにもない
そもそも上杉がファイティングポーズ取る理由もよく分からない
不思議な戦だよ しかし、この時期の家康はピカレスクな魅力に溢れてるな。
何処まで読んでるのか想像も出来ない謀略の天才 自分を正当化する物語作らせて悪逆ぶりを糊塗し
後世に至るまで騙しおおせてる稀代の詐欺師秀吉には敵いませんよ
家康は何だかんだで自家と家臣を守り生き残ることを主眼に動いてるが
秀吉は純粋に野心だけで動いてる本物の悪党だからな そもそもピカレスクという文学的修辞をあえてつけるなら家康などよりよほど秀吉のほうが相応しい
己の野心のままに悪漢として成り上がり最後は自らが奪い取ったものが全て失われていくのを悟りつつ死んでいく
自己破滅的に終わるあたりが実に文学的だし庶民に人気が出るのも無理はない
そこは大いに認めるところ >>378
最近はそういう結果から逆算して家康の計画通りだったみたいな考え方はしたびみたいだよ 秀忠に真田攻めをさせたのも関ヶ原に参加できなかったのも家康のミスだしな >>377
司馬遼太郎あたりで描かれてる
石田-上杉(直江)ラインでの謀議はないね
でも石田-毛利(恵瓊)はピンポイントで
関ヶ原前夜の直接連絡に絞らなければ出てくる
前年と比定される三成から大阪入りを
求められてる史料から家康が伏見にいる頃から
両者が政権奪取の機会を狙ってたことがわかる
(これを関ヶ原前夜のものとする説もある)
またここで語られてるように
毛利家中では恵瓊と石田大谷の陰謀
と理解されてる 結局いまだに関ヶ原とその周辺のことってよくわかってないんだな
秀忠の遅参だって家康は別に短期決戦になると思ってなくて、当初は秀忠にも普通に中山道を固めながら進軍しろと言ってたとかって 要するに小早川隆景がいなくなって世代交代した毛利家中の内ゲバだろ?結果的に吉川が勝ったから安国寺恵瓊が全部悪いってことになっただけで 主君の輝元が暴走したから毛利家臣団多数派が抑えつけ輝元派だった恵瓊が生贄になった
「近ごろは万事がさかさまで、主人が家臣に助けられなければならぬ時節だ」 先代から重用されてた人間は世代が変わればウザがられるというもの
恵瓊もそんな感じだったんじゃないの。代が変わった時にサッサと身を引くのが賢者のみの処し方なのよね >>387
輝元の先代は元就か隆元だけど
どちらも代替わりから30年も過ぎてるんだよなあ……
そもそも輝元が当主としての存在を示せなかったのが悪い
広家には小笠原家養子の件で大反対したり、秀元には養子解消の際の約束を
うやむやにしたりしてるし
結局、輝元は隆景がいなけりゃなんもできない木偶だったんだろうね >>384
もっぱら史学というより文学や物語の対象だった弊害だね
軍事学としても陸軍参謀本部は質の悪い二次史料を参照したきらいがある
だから最近の研究発表はいろいろ新鮮だわ >>368
なんでそう想像力豊かなのに論理力が無いのだ。
吉川広家は「宰相宍戸殿『其外も』」このことを知りませんでしたと書いとる。この時点で安国寺との会談に他の人間は誰も居なかった事がわかる。
何故ならば、ここに宰相以下の毛利家臣が居たら安国寺は「この話は誰それにしましたが」と言うから。去春の会談に誰が居たか、どんな話があったかを安国寺は当然知ってる。もし目の前にいる全員が居なかったなら誰が居たかは明示しないと信じて貰えん。
まぁ文章的には明らかに春のことかさもなくばこの書状が書かれた九月までの話ではあるんだけどね。 ついこの前まで江戸時代に面白おかしく捏造された物語が史実認定されてたんだもんな
「北条早雲」とかあまりに違いすぎてビックリだわ >>376
君の漢文能力がどんだけか知らんけど
「石治少、大刑部手前如何被見及候哉、大坂被打帰」(七月十三日益田・熊谷・宍戸書状)
こうあるから石田三成らが大坂に帰ってたと言ってるのは間違いないね。この書状には安国寺が佐和山に入ったとかこいつらが申し合わせしてるとかそうした記述が一切無い。
この三人は安国寺の東進に先立って近江を行軍途中で三成・吉継が大坂に向かうところを発見した。理由は不明。更に言うと彼等は安国寺がどんな計画練ってるかも知らなかった。 >>392
このあたりの家康の悪辣な陰謀は世間に流布してないからね。
家康が横暴な事をしたと言われても、具体的に何したか知らない人多いだろ。
私婚問題からの、大坂伏見の睨み合い、そして前田利家死去からの7将蜂起。
そして流れる様な徳川軍による伏見城占領。
豊臣家第二の城塞を、戦闘も無しに占領しちゃうんだからさ。
更に此処まで横暴な事しときながら、前田利長が帰国すると加賀征伐連呼。
時系列でみるとここまでの流れが秀頼大阪移動から半年かそこいら。 実際さあ、加藤清正なんて何故こんな事してて忠臣って宣伝されてるんだか。
7将蜂起時点で豊臣家見限ってるでしょ。少し思考力あれば家康のクーデターに加担してる
事ぐらいわかるだろうに 7将蜂起って実際は三成に対する苦情を訴訟しただけだよ
それで三成がキレて勝手に兵を集めようとしたから奉行をクビになっただけ
訴えられたら襲撃しようとか完全に暴力団な振る舞いをする奴が奉行である方がおかしい
三成みたいな問題児を抱えている豊臣政権がどうかしていた >>394
最初に秀吉の遺命を破ったのは家康ではなく輝元だぞ
1598年8月1日に出された秀吉遺命を、8月18日に秀吉が死んだら
あっさり奉行衆と結託して白紙化するという身勝手さだし
8月13日の秀吉遺命まで実行されてない
明らかに輝元と奉行衆が秀吉の死につけこんで何かしたとしか思えんわ
いい加減、家康だけが一方的にやっていた、という見方は幼稚すぎるから改めろ >>394
それと「そして流れる様な徳川軍による伏見城占領。
豊臣家第二の城塞を、戦闘も無しに占領しちゃうんだからさ」
って?
何かの小説か漫画の知識かな?
秀吉の1598年8月5日の遺命知らんのか?
「奉行共五人の内、徳善院・長束大両人は一番にして、残る三人の
内一人宛、伏見城留守居の事、内府、惣様御留守居の事」とある
つまり伏見城留守居は家康と玄以と正家ともう1人の奉行が在城してやれとあるんだがな? >>398
そいつ前からいる小説の知識ベースで家康ディスってる例え話くんって言われてる奴だから構うなよ
まともな史料なんか読んでるわけない >>394
私婚問題とか言われているけど秀吉は大名間の婚姻禁止なんて言っていないし、
家康の婚姻は適正な手続きで行われたのに三成たちが難癖をつけて騒いでいただけ
七将も三成に対する訴状を提出しただけなのに、三成がブチ切れて兵を集めて騒ぎになった
加賀征伐も発端は増田や長束が前田利長や浅野長政の謀反を主張したことによるもの
家康に責任転嫁されているけど、全ての騒動は元をただせば奉行連中が引き起こしているんだよね
まさに奉行こそ豊臣を蝕む癌細胞だった >>396
訴訟と言いながら、実際には奉行の屋敷武装した私兵で囲んだんだぞ。
猶、その直前までの流れ説明すると私婚問題で大阪には前田派、伏見には徳川派の大名があつまってた。
そして7将は全て徳川屋敷に詰めてた連中。
そして時期的に前田利家が死んで葬儀すら行われてない。
前田の死で勢力バランスが崩れたと見た事実上のクーデターでしょ。
豊臣家の現職の奉行を徳川派の大名が武力で追い回したんだからさ。
そして、これで合議制は完全に崩壊した。
公家が天下様におなりって日記に書く訳だ >>398
内府違ひの条々読んだ事ないの?
伏見には、太閤様が任命した城代がいたのに追い出したと。
で伏見城には徳川の増援が入って占領したけど、この大兵力養える領地なんて徳川には
ないんだよね。
つまり、伏見城の倉の中身を勝手に横領したと思われる
これって、事実上の軍事クーデターだと思うぞ。 >>404
あの弾劾状とか奉行と元奉行が抜かしてるやつがどうかしたのか?
んなこといっても伏見在番は秀吉の遺命なんだが?
奉行どもが抜かしてることは秀吉遺命より優先されるのか? 何だ?
まーた「徳川を悪者にしなきゃ死んじゃう病」の人が暴れてんのか?
まあこのスレ自体が石田三成を主人公視してるものだしな
実情は割とグダグダな挙兵だったり早めに決着がついちゃったりで
敗戦から石田三成を免責するスレにになり果ててるけど どっちかというと家康様は何も悪くないもんおじさんが暴れてるような クーデターだから悪いという話でもないし、武力を使ったから悪いという話でもないしな >>396
所謂「七将襲撃事件」は独立した事件というより
慶長4年正月に秀頼が大阪城に移ったことに端を発する
一連の政変・政争の一部と認識すべきと思う
「私婚問題」にやる利家と奉行による「家康弾劾」もそう
遺言通りに秀頼が大阪城に移った途端に
待ってましたとばかりに弾劾は起こってるが
利家と家康の折衝で一月余りで和解が成立した
この間諸大名は徳川、前田の屋敷に参集し
一触即発の事態になっていたわけだけど
実は和解後も大阪の騒動は治ってない
つまり大阪方(利家派)の中にはこの和解を無視して
人数を集め続けてた者がいた
これは政権としては当然捨ておけない状況 そして七将のうち「私婚」の当事者だった以外は
利家のいる大阪に参集していて三成とは
政治的な立場を同じくしていた
もちろん「私婚」が槍玉に上がる以上は
当事者である福島黒田らは当然家康方
家康が負けたら自家の婚姻も違反行為として
罰せられるだろうから当然と言える
(成り行きによっては取り潰しさえある)
つまり七将は一連の政争が起こった時点では
成り行きによるものかもしれないが政敵同士で
けして小説で言われるような家康の与党ではない
それが利家と家康による両派の和解によって
結びついた結果三成の弾劾が起きて
三成の謹慎によって大阪での騒動は治った
これは一連の流れだし古い小説の
無理のある陣営分けで捉えるべきじゃない クーデターは起こしちゃいけないとは思うけどね。
豊臣政権による、安定政権を武力で壊してるわけだし。 従来説というかよく言われるとこだと
七将は三成と対立(武断派文治派の対立)
家康と接近、利家が押さえてたが
死んでしまい三成襲撃に至る
が、一次史料からその流れが説明できるか
となると無理だし確かに矛盾がある
少なくとも七将が一つの政治的グループなら
その成立は家康・利家の和解後となる
たしか三河物語だったか徳川方では
七将襲撃を家康に腹を切らせようとした
豊臣家臣たちが三成に責任を被せできた
と認識してた史料あるけど
案外実情に近いのかもね
最も三成も毛利に大阪入り勧めたり
クーデター計画練ってるから
(七将がどこまで認識してたか不明ながら)
事実無根という訳でもないけども 誰が正しい悪い、優秀だ無能だという主観でしか歴史を見られない人は史学向いてないよ
何があったのかなかったのかを探るのが根幹で、そこからお遊びとして派生するものだから
ましてや近現代の話ならともかく、400年前のことに >>403
三成が訴訟されたことにキレて兵を集めて毛利などにも援軍を要請したりしたからな
石田屋敷に武装勢力が集結しないようにブロックするのは当然だろう
三成を始めとした奉行連中は些細なことでブチ切れて何をするかわからない危険な連中だ
こんな制御の利かない連中が政権中枢に巣食っている状態では豊臣政権は存続不可能だ
家康も必死に奉行を制御しようとしたが匙を投げる羽目になった >>417
というか、奉行三人ってとんだ風見鶏やんけ
毛利輝元書状に「然れども家康懇ろ大方あらず候、
彼衆身にはあられぬと聞こえ候」
こんな奴ら奉行にしていた秀吉にも問題あるわ >>418
その輝元書状の家康と懇意にしてるのは三奉行じゃないぞ
蜂須賀・如水・加藤の三人のことを指してる 確か福島正則って改易の使者が来た時「命を捨てるべき時に捨てなかった為に恥をかくことになった」
といったとされるよね。
とりあえず、死に場所は見つけた感あるんだよな。
奉行衆が家康に媚び売っても結局消されただろうからなあ。 才能では信長に、人望では秀吉に敵わなかった家康
天下を本格的に狙い始めたのは秀吉から秀頼の頃を任されたあたり?
もし文治派と武断派が対立しておらず豊政権が一枚岩だったらつけいる隙はなかったかな? 秀吉は人望があるのではなく、金や土地のばら撒きが派手だっただけでしょ
天下統一後も派手なばら撒きを続けるためには海外遠征を決行する必要があった
秀吉自身も自分に人望がないことを自覚していたからこその行動だよ 天下人は人望あることにしとかないとね
あいつ酷いヤツだよな、人望ないよな
とか間違っても言っちゃいけない
実際落書とかしたヤツ酷いことになってるから 落書きの案件一つ見てもとても人望があるような人間には見れない
この辺からだいぶ性根が表面化してるやろ >>420
長束はともかく、前田と増田は生かされてるんだがな >>393
横からだが当該書状の所蔵先の見解も聞いてみたくて問い合わせたところ、
7月13日付榊原等宛益田・熊谷・宍戸連署状「石治少・大刑少手前如何被見及候哉、大坂被打帰候」
「安国寺が江州で石田・大谷とどのような話をしたのか分からないが、大坂へと引き返した」と回答があった
「談合」や「相談」等の単語がなくても「如何被見及候哉」から三者間で会談があり、
その結果安国寺は何かを見知って大坂へ帰ったと読むのはごく自然なこと
当然だがあんたの主張する行軍途中で大坂へ向かう石田・大谷を目撃したってのははっきり否定してたぞ 益田・宍戸・熊谷は安国寺が何を企んでいるかを知らない。
これは十三日書状からも明らか。知っていたら十四日の吉川広家書状と同じく「御両所」の企みについて触れてる。
そもそもこの三人は安国寺が佐和山で誰と会っていたか知らないしもしかしたら佐和山に大谷吉継が居たことすら知らなかったろう。公式には吉継は垂井で休養してるんだから。
「安国寺が佐和山で三成・吉継と会談」というのは十三日以後の情報から作り上げた想像でそれ故に小説のネタにはピッタリ。だが史料上は完全な間違い。 >>428
この内容が真実かどうかはまた別問題ね
当該書状を普通に読めばお前のような読み方は誰もしてないってこと
私に限らず研究者や当該書状の所蔵先の学芸員も含めてね
どうせお前に何話しても通じないしその間違った認識のままでいればいいよ >>420
そもそも石田が関白を糾弾したり、小西が朝鮮で偽講和を仕掛けてことで豊臣が崩壊したのだから
家康がどうこう以前に石田・小西を先に処刑しなければ筋が通らない
むしろ福島はきちんと筋を通した立派な人生を送ったと言えるし
非難されるべきは石田・小西の無能・無責任体質なのだから本人も満足していただろう >>430
確かに朝鮮での小西、石田の工作はあまりに酷すぎる
あれを石田擁護の学者連中はよく「石田は豊臣政権の
ためを思ってやったんだからしゃーない」と言ってるんだが
どうなんだろうな…… 加藤や福島が豊臣子飼いだから徳川に潰されたと言うのは違うと思うんだよな
蜂須賀や黒田が残ってる限り、他にも原因があったんじゃ無いかな 自分が何で清洲城を任されたかなんて微塵も分かってなかったんだろうな
所詮は縁故採用の足軽大将レベル 黒田蜂須賀は織田の直臣で加藤福島は秀吉の直臣だな
まあだからなんだって話だけど 黒田忠之はよくお取り潰しを免れたと感心。優秀な家来がいたからだな。加藤式部少明成と対照的 そもそも秀吉が三成を甘やかしたのも悪いぞ
信長みたいに切る奴は切るべきだった 甘やかしたというか勝手してたけど
切れなかったというのはあるだろうね
唐との交渉経過を見るに十二分に背任だ
現場はなれた秀吉がろくに把握してなかったのか
離れたいからお任せできる三成を切れなかったか
もはや切れないくらい中枢食い込んでたのか
まあその全部だろね >>433
福島が清洲城を任されたのは、西国大名が謀反を起こして大坂に侵攻してきた場合に
東海大名をまとめながら西上して謀反を鎮圧するためだよ
別に家康と戦うために配備されたわけではない
福島は任務を粛々とこなしただけであり、三成たちが全く理解していなかっただけ 福島正則の前は豊臣秀次だったから、そっちへの対応がメインだろ
つまり秀吉が悪い むしろ毛利ら西国大名の畿内侵攻を食い止めるために配置された宇喜多が真っ先に裏切って
西軍の先鋒として牙をむいたことが問題だろ
福島が素早く反転して西国の謀反を鎮圧したからいいものの
宇喜多の裏切りを福島が尻拭いしたのが実態だよ 関ヶ原って、秀頼目線で見ると、干されかけてた文官連中が
クーデターを起こして、実力No.2の毛利家の軍勢を呼び込む、
内憂+外患の状況を、豊家親族の福島や小早川が実力No.1の
徳川と一緒に解決したってだけだからな。 そもそもの発端の上杉景勝は秀吉からの会津転封が嫌で越後欲しさに反乱。
西軍総大将の毛利輝元は秀吉から受けた内政干渉を無効化したくて反乱。
仮に未来人でも秀吉が原因なんだからどうしようもないわ。 逆だろ
関西の芸人がうざいわ
関西の芸人がいない番組は面白い 関より東だから尾張は関東とも言える
戦国時代は東海地域の概念があったんかな? どのみち家康は豊臣を滅ぼした
家康の野心野望は紛れもない事実
三成にも非はあるけど、三成が勝利していたら
豊臣は少なくとも滅んではいないだろう 勝っても負けても、豊臣政権に大きなダメージしか与えない時期に、わざわざ外様の有力勢力の毛利と組んでまでクーデター起こしてるから、安易に三成たちなら大丈夫とは言えないと思うけどな。
三成たちは、秀頼政権の権威を大きく損ねても、自分たちの野望を優先させたわけで。 西軍が勝っても三成や毛利が豊臣を滅ぼす可能性だって十分あった
そんなことはあり得ないというのはただの宗教信者の信仰に過ぎない
徳川政権があれだけ長期安定政権になったから勘違いされがちだが
豊臣政権て前代の室町幕府並に不安定要因だらけの政権で
徳川政権とは全く比較にならず室町幕府とこそ比較して考察すべきなんだよ >>454
そういう言い方はないだろう
もっと親切にしてあげなよ >>453
だから何?
世は戦国
最初から豊臣家を滅ぼす気満々な家康を信じた淀君たちが馬鹿なだけ 統治機構が構築されてないんだから豊臣政権など続くわけがない
五大老五奉行が木っ端微塵じゃん
それ以外に加藤や福島など武闘派がいた そもそも反家康派が挙兵なんてしなきゃもっと長く続いたよ、豊臣政権
上杉や毛利が潰される?政権の不安要素が消えるんだ、結構な事じゃないか
奉行が排除される?政権安定のために自ら身を引くような配慮もないのかとしか思わん
おとなしく政権から排除された徳川の大久保一派を少しは見習え
徳川が政権の実権を握って豊臣が神輿となって徳川の立場と権威を保証する、
この形で何も問題ないのになんで挙兵したのか意味が分からんよ
政権内の実権をいくら握っても徳川の御家安泰に繋がらないって事を、よりにもよって
西軍が証明しちゃったんだから本当にどうしようもない
そりゃ徳川はシンプルに自分がトップの政権を作る方向に舵を切るよ
実際豊臣家以外はその結果おとなしくなったんだし なんなら三成は決起せずに
「家康様あとは豊臣家をお願いします」
と言って切腹して家康を情にほださせるほうが良かった まあ家康なんかを信じて小牧•長久手の後も家康を滅ぼすことに傾注しなかった猿がアホなだけだな
朝鮮なんかに手を出さずにな >>453
逆だな
三成が100%悪い
家康は反乱を討伐したら
自然に実権を握っただけ
野心野望なんてなかった 家康ばかり目がいくが秀吉の秀忠に対する扱いは相当なものだからね
明らかに徳川家そのものを豊臣家の次席扱いで重用してる
前田や毛利とは同列じゃない位置よな 何度も言うけど諸侯唯一にして公武最高官位の内大臣
諸侯で唯一秀頼と直接縁戚関係を結び外戚を約束
これだけの優遇特典を秀吉から与えられたのは家康しかない
前田の傅役なんてのは家臣の役割でしかなく家康は豊臣一門としてもはや主筋の立場と言ってもよかった
これだけの秀吉の政治的表明を後世の研究者でもあまり重視してないように見えるのが不思議
奉行や毛利はその秀吉の意志が認められなかったわけでいわば秀吉に反逆したようなもの >>453
野心野望があろうがなかろうが
家康が諦めるくらい立派な政権運営を奉行が実行すればよかっただけ
ところが奉行は威張り散らすばかりで豊臣を守る意欲がまるでなく
外征講和や関白継承問題などの重要政策でことごとく失敗を繰り返した
奉行への批判が高まり自分たちが首が危うくなってから慌てて豊臣を守るとか叫び始めたに過ぎない
三成たちの調子のよい態度に福島たちが激怒するのも当然だった というかはなからその仕事は
奉行ではなく秀吉、死後は家康のもの
あくまで天下人の奉行なので
命じられて遂行するのが仕事であって
何を命じるかとか、どう意思決定するかとか
それは別に奉行の仕事ではないんよ 秀次を殺す体たらくだし奉行衆や前田利家じゃ頼りないしで家康しかいなかった
大半の大名が家康を支持していたのは関ケ原からもわかるし どっちかというと秀吉の失敗は家康じゃなく
奉行を信頼しすぎたことだな
彼らは自分の手足として優秀だけど
まさか政権の座を狙ってくるとは
思わなかったんだろう 三成や輝元が政権握っても豊臣は滅ぼせないだろ
こいつらが豊臣の名なしで自分で政権作るなんて不可能だし
実権は握るが名前だけは豊臣を残すだろ
家康は豊臣を潰した 西軍が家康を押し返してたら日本はしばらく東西に割れてたんじゃないかな
関東まで行って家康を完全に滅ぼせるとは思えないな >>474
あなたがそう言い切れる根拠がわからない
西軍が勝ってるのなら輝元はあの家康を野戦で打ち破った名将になるんだから
何の問題もなく毛利幕府を開けるし、しかも徳川と比べて豊臣との縁が薄い
豊臣を滅亡させることに何の躊躇も抱かないだろうね、ちなみに毛利は謀殺の話が結構多い
石田の場合、そもそも全国政権を単独で維持できる力がないのだから
要は何の力もない奴が態度だけ偉そうにふるまうのと同じなので戦国時代に逆戻り、
いや、義輝より身の程知らずだから速攻でつぶされて終わるな、10年持たなそう
はっきり言うが秀頼が一番長生きするルートって、関ヶ原が起きずに家康が豊臣政権の
実権を握って秀頼が身の程を知って現実を受け入れるだからね?
史実ルートってバカが余計なことした挙句に愚か者が現実逃避しただけの話だからな
そんな事を朝廷から全国統治を委任された徳川のせいにされても困る >>476
毛利に謀殺の話が多いのは元就と隆景の時代だよ
隆景がいるならわかるけど、3年前に死んでるし
毛利家に隆景に代われるような人間はいない
輝元の実力でそこまでできるとはとても思えないが 別に家康だって秀吉だって元々名族でもなきゃ
朝廷と特別な関係があったわけでもない
石田毛利が独自の政権を得て政敵いなくなったら
家康以上に秀頼を粗略に扱う可能性あるくらいだろ
なんせ秀頼との関係においても家康は一門で
石田毛利よりずっと深い関係にある >>477
つまりは家康に勝てる輝元というのは史実の輝元とは違う家康よりも能力のあるスーパー輝元だろう プーアノンと家康マンセーは何処にでも湧いてきてスレ違いの妄想を垂れ流しては
スレをつまらなくするからほんと迷惑
いくらでもある家康マンセースレでやってくれないかな 延々妄想垂れ流してるのはむしろアンチ家康のほうだろう
西軍勝ってたら豊臣は続いてたとかそんなのばっかり
そうなる可能性があるのは否定するつもりはないが「そうならない」可能性も等しくあるわけで
史実で起きなかったことの一方の可能性だけだらだら垂れ流しても何の生産性もない白痴の戯言でしかなく不毛 三成の子孫はいるんだよな
真田信之の子孫はいるけど、信繁の子孫はいたっけ?
あと大谷刑部 信繁の室は大谷吉継の娘だったな
生き残った信繁の子が誰の産んだ子なのかによっては
仙台真田家が大谷の子孫にもなりそうだが、詳しい人、いるかね 織田や豊臣は短期で終わったが、徳川が250年も続いた理由はなんだろ?
信忠が生きてたり、秀次が自害させられなければ、家康は天下取れなかったろうね それにもし豊臣政権内の文治派と武断派が対立していなければ家康が付け入る隙もなかった 秀次事件も豊臣家臣団の内部分裂も秀吉のせいなんだが そら三成って別に西軍の大将でも何でもないし。秀吉の寵臣だったから権勢あったけど死んだらもうお終い。この時期は寧ろ家康にどう接近したものかってところだし。仮に勝ったとしても自分に恩賞出せるかも怪しい。
逆に毛利は実力で取りに行けるからね。豊臣から徳川討伐命令受けてないならこの戦乱自体が輝元の計画になる訳で自分に都合の悪い奴なら秀頼だろうが淀君だろうが容赦せんだろ。 文治派武断派って小説の用語だろ
加藤清正や福島正則も奉行の仕事してたし その辺は織田政権とあまり変わらんよな
武者が奉行の仕事もこなさないといけない
むしろ戦えないと高禄をもらえない 専業特化してくのはそれなりの技術者を抱えてたりノウハウ持って無いと無理だからな
戦国期だと鉱山、水軍、建築このあたりは重宝スキルよな 家康ageで三成が忠臣なのを認めたくないアンチ多すぎる
あのまま家康を放置していたら豊臣は間違いなく潰されていた
それを守ろうとした三成は正しい
ただやり方があまりに性急すぎたのは間違いだったがな 歴史小説の読み過ぎで最近の研究動向を知らないのかジジイ 逆に昔の小説通りの三成忠臣以外
認めないヤツ頑なすぎる
秀吉の奉行なのに騙して好き勝手してたり
死の床に着いたら自分ら奉行の地位拡大して
大老の毛利には秀頼への忠誠より自分たちの意向に
従わない奴討つと約束させる
そして政権トップがいない間にクーデター
マジで昔の小説の忠臣設定の方が謎過ぎる 家康も関ヶ原で勝った段階では豊臣を潰そうとまでは考えていなかったと思う
孫娘を嫁がせているし、豊臣政権下の織田氏のように無力化できればそれでよしって感じかと
ただ豊臣方はそれで納得出来ないからああなった
結果から見れば淀殿が三成の要請に応じて秀頼を出陣させてれば家康の天下はなかったわけだが
秀吉も淀殿も家康をなぜあそこまで信用していたのかが分からん 家康のそれまでの生き方を見れば信頼するのも分からんではない 関ヶ原時の家康って何か問題行動してるのか?
上杉征伐って豊臣政権の事業として行ってる軍事行動だから別にこの件で
家康が謀反や反乱してるって話にはならんはずだし、中央で政権の正規軍が
企図してない挙兵が発生したのなら、それを止めるのって政権軍の仕事だと思うけど
それに関ヶ原時の西軍って、上杉征伐に向かう途中だった諸大名の軍勢を足止めして
軍勢として組み込んでる訳だから、形式上事業妨害として見られてもおかしくないぞ
こんな状態で豊臣家が直ちに西軍を信任すべきとか言われても、豊臣だって困るだろう 後世の結果から逆算創作した小説やドラマで描かれてるほど
淀殿秀頼と三成や毛利は近くも親しくもなかったということ
家康は豊臣一門筆頭主筋の立場だが三成毛利などは家臣筋でしかない
淀殿にとり秀頼の親類で最大の保護者ともいうべき家康が留守の隙に家臣がいきなり蜂起して大坂城を占拠し
許可もなく大坂城下の大名妻子を人質に強奪しようとし果ては金穀を要求する
まるきり留守狙いの強盗の所業でありこれで淀殿が幼い秀頼の出陣に同意などするはずがなかろう
事前に話をつけていたわけでなくどこに連れていかれるかわかったものではないからな そもそも三成や毛利は事前に豊臣家を自陣営に引き入れる工作やってたのだろうか
豊臣家のためというならまず肝心要の当の豊臣家を確実に味方につけておくのが大前提のセオリーだろう
もし真田昌幸同様事前に全く話をつけていなかったのだとしたら
主君である豊臣家の意向など全く無視し○○桟敷の置いてけぼりにしたということになり
そんな連中を信用しろというほうがあたおかという他ない >>499
上杉征伐までの政策意思形成過程は不明瞭だね
信頼できる史料読む限り
原本は残っていないが、出馬前に三奉行は延期を家康に求めている
これは史実か分からないが、家康は「北条が上洛しなかったので征伐した先君の先例がある」と突っぱねた
反対論があるなか、家康が強行したのは間違いないところ
内府ちかひでも事実、三條目に上杉はなんの咎もない、止めたのに許可なく馬を出した、とある
とはいえ、後れ馳せながら毛利も会津に向け出陣はしてるしねえ
だから不明瞭とした
それによる個人の評価とかことの善悪には興味はありませんので悪しからず >>496
だって家光なんて生まれてもないもの
関ヶ原後すぐはあくまで豊臣家臣政権トップとして
謀反人三成を討ったという流れだったのが
幕府出来て秀頼滅んでからあれは
豊臣vs徳川の天下分け目の戦いだったとなる
その文脈で当時知らない家光が言っただけ
同時代人で誰か三成忠臣とか言ってる? 三成「豊臣家を守ろう」
清正&正則「うるせー馬鹿」
三成「秀頼様の御出陣を!」
淀殿「ダメじゃ」
家康「豊臣の領地は削減ね」
淀殿「ファッ?!」
家康「加藤も福島も改易ね」
忠広&正則「ファッ?!」
三成「だから言ったろお前ら・・・」 >>506
そもそもそんな展開になったのは奉行と輝元、秀家が挙兵したことで、
単なる政権事業としての上杉征伐が、政権崩壊を誘発する天下大乱になったからだろう
自分らのやらかしを棚に上げて言うようなことじゃない
それと何度も言われてるけど、加藤と福島の改易は天下政権となった江戸幕府の統制に
違反したからであって、あくまでも悪いのはそっち側だから家康批判は筋違いだ
いい加減、政権崩壊や大坂城落城、加藤福島の改易を徳川のせいにするのをやめろ、
自らの至らなさが招いた自業自得だと考えたほうがいい、徳川は現状に対して
その都度適切な対応を取り続けただけに過ぎないよ 同じ豊臣恩顧の黒田や蜂須賀、浅野あたりは改易されてないだろ
なぜだっつー話 オウムやら統一教会やらの宗教信者と同じなんだよ西軍びいきのアンチ家康は
だから最新の研究と知見を聞かされても異端として頭から排斥し
司馬遼太郎をはじめとするエンタメ創作を絶対真理の神話として布教し続ける
洗脳されやすい人間のサンプルとして社会学心理学の研究対象にできるかもしれない 福島の広島城改修の件は届け出たのに本多が握りつぶしたって話はなかったか? >>511
福島正則について語るスレ3
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1252751655/927
927 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/22(水) 03:43:46.39 ID:ioKaf2Vb
>>923
笠谷先生の徳川幕府の大名改易政策を巡る一考察(一)がciniiで無料pdfリンクあるからそれ読むといいよ
かいつまんで言うと、修繕届けは確かに出てたけど、小規模修繕という話だったのに修繕終わらせて大規模改修をしていた
関ヶ原での大功を鑑みて許すから早く指定の箇所の破却をしなさいという命令も指定箇所を破却せず済ませようとした
さすがに堪忍袋の緒が切れ改易という流れ
史料を冷静に用いた論なので、かなり正確だと思うよ 福島家改易の件に関しては本多正純は穏健派で徳川秀忠が強硬派だって >>509
三成を排除するのはいいよ
なら秀頼が成長したら政権返せよ
秀吉はあくまで秀頼が成長するまでお願いしますだったはず 確かに家康からすれば秀吉から頼まれた義理があるから筋を立てたい所だろうが世の理で言えば秀頼が天下の政権運営をする大義名分もそこまで無いからな >>512
読んだ
おもしれえなあ
かいつまんでの要約よりも福島は悪質で草 江戸幕府は豊臣政権じゃないんだよ
新たに政権を立てたのだから秀頼に返すべきものはないよ >>511
笠谷氏の論文にもあるけど本多正純が握り潰したってのは『福島太夫殿御事』にある記述
笠谷氏は改修に関しては本多正純に再三断りを入れた後着手したものではなく、
正則が無断実施したものだろうと言ってる
それでも幕府は本丸以外の破却をすれば許すと言ってるのに、正則は幕府の
命令と違うこと(本丸の石垣と櫓の破却)をやってるので自業自得かと
(元和5年)5月3日付黒田蔵人宛福島正則書状
「其地本丸普請之儀、急度石垣、やくらこわし可被申候」
(元和5年)6月2日付福島正則宛酒井忠世・土井利勝等幕府年寄連署状写
「構置本丸、其外悉可被破却之由被仰出候」 >>514
違うんだよ
関ヶ原は家康による三成の排除なんていう
ちっぽけな話じゃない
政権を運営する側である奉行の挙兵によって
豊臣公儀が惣無事を担うという存在意義が
完全に失われてしまったんだよ
そりゃそうだよね
自分らの権力争いで大乱起こしてんだから
それで新たな政権を立てようとなった >>514
その可能性は西軍が潰してしまっている、豊臣政権での立場をいくら盤石にしようと
徳川の御家の保証に繋がらないことを西軍の挙兵が証明してしまったから
よく西軍が徳川に勝てる可能性があったという人がいるが、そのことを力説すればするほど、
徳川が豊臣政権を見限るしかない事を裏付けてしまっているのだ
何故なら豊臣政権は部下も守れず、政権も維持できず、統制下の御家の保証も出来ない
という事を言っているようなものだからだ、政権2を守れないとはそういう事だ
こんな政権に無条件で従えと言われてもこっちだって困る、江戸幕府だって
統制下の大名をまともに守れなくなったら政権崩壊したのだから、豊臣政権だってそうなるよ
そもそも、秀頼は成長したとはいっても豊臣家はともかく、豊臣政権を継承したと言えるか?
あいつ政権の象徴としての地位である関白にすら就任してないんだが
家を継承するのと、政権を継承するのってイコールじゃないぞ 関ヶ原で豊臣家に天下人としての統制力がないことが知れ渡ったのに加えて
秀吉の関白就任経緯や秀頼成人までの叙任停止措置で五摂家をはじめとする朝廷に
豊臣政権の継続を支持する動機が皆無で消滅させたいくらいだったと思われること
外交面でも対明和平交渉を進めるためには侵略した当の豊臣政権よりかつて友好的だった征夷大将軍に
政権の看板を変えた方が好都合だったことなど
内外の要因から豊臣政権の継続は極めて難しかったと思う 朝廷秩序は好き勝手されたけど
天下治めて金くれるから仕方ない
→と、思ったら自分らが大乱起こしてるやんけ
もういらんわ徳川さん新政権よろしく
て流れよね
皇室や公家にとっては割と真面目に
戦争状態に逆戻りなら好き勝手されただけ
になってしまう 忍城も攻略できない石田さんが信玄とやり合った家康に勝てる世界線存在しないだろ。 結論から言えば徳川が豊臣を滅ぼしたことは紛れもない事実だし
やはり三成だけは家康の腹の内を見透かしていたわけで賢いんだよな
清正や正則ら武断派は脳味噌筋肉だし
淀殿も関ヶ原の後にようやく家康の本性に気付く有様 結論から言えば豊臣家は自業自得で天下人から転がり落ちたということだよ >>503
たぶん、その前段階で挙兵の覚悟はしてたんだろうさ、三成さん
盗将大権現様が拒否するのは計算の上で「こんなに横暴だぞ、簒奪の意志明確だろ」って
宣伝の為に反対してる
で、ある意味盗将さんもわかってる。この時点ではあんなに大規模な挙兵になると思って
ないですから
「知者のつもりやろうな、豊臣家にはそんな可愛げのある家来はおらんwwwww」とね
狐と狸の化かし合い >>520
普通に挑発してだろ狸妖怪
大体な、上杉家の領地安堵してるの豊臣家なんだぞ
それを自分一人で決めて討伐軍送るって「豊臣家の安堵状なんて意味無いんだよ」と
宣伝したも同じ 上杉征伐のきっかけは旧領に入った堀の訴えで
訴えられた家臣の残留や税の徴収の違反は
どれも秀吉在世時に定めた命令への違反
その糾明のための上洛命令を無視して
逆に浪人集めて砦作って戦争準備をしてる
(豊臣政権下でも徳川幕府ほど徹底してないが
東北でも破城が行われてる)
はっきり言って中央政権としては
攻めない方が問題あるくらい 家康(豊臣政権)に従えと言うことがなぜ挑発になるのだろうか 命令無視して戦争準備始めたのに
討伐しないならその方が
「豊臣政権なんて何の意味もない」
という宣伝そのものだよ この時期家康は朝鮮再出兵を企図していて前田・上杉にその先鋒を任せると言う噂が流れてる。だがこれは実は、前田・上杉が軍備拡張してることの言い訳として家康が用意したものらしい。利長はピンときたらしく交渉を重ねてお咎めなしで終わってる。問題は景勝で景勝は本当に謀叛を考えていたから降りられなかった。 >>525
三成は昔から、利休が反逆しているだの秀次が謀反を企てているだの同じことを叫び続けてきた
これだけ同じことを叫び続けていれば、いつか当たるに決まっている
むしろ三成が粛清を叫び続けたことで豊臣が崩壊に突き進んだと言える
正則は三成の本性に気付いて奸臣討伐を成し遂げたが、討伐するのが遅すぎた
淀殿も関ヶ原の後にようやく三成が残した傷跡に気付く有様 >>533
もういいよ
自分のツイッターかなんかでやってくれ >>528
> >>503
> たぶん、その前段階で挙兵の覚悟はしてたんだろうさ、三成さん
>
> 盗将大権現様が拒否するのは計算の上で「こんなに横暴だぞ、簒奪の意志明確だろ」って
> 宣伝の為に反対してる
>
> で、ある意味盗将さんもわかってる。この時点ではあんなに大規模な挙兵になると思って
> ないですから
>
> 「知者のつもりやろうな、豊臣家にはそんな可愛げのある家来はおらんwwwww」とね
> 狐と狸の化かし合い
盗将って言っちゃってるジジイと宇宙太閤の中の人は一緒? 三成の挙兵で豊臣家の寿命短命にしただろ。
秀頼も近江方の血筋やろ。 盗将大権現で思いだしたけど、自分の神格化進める心理ってやはり後ろめたさ
なんでしょうか?
昔よんだローマ時代舞台の小説で、ラストで暴かれる裏ボス「大量の暗殺こなしてる」の最後の
願いが自分の神格化だったな。
何故かというと、只の人間なら悪行の報いを受けないといけない、でも神は何をしようが
批判される事はない、神だからね。
だから自分が神格化されるかどうかは死活問題なんだとさ。
家康も主君殺しとか子殺しとか嫁殺しとかしてたからなあ。 日本では死んで神として祀るのは古くからある
歴史の基礎の基礎
崇徳天皇、平将門、菅原道真、武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉 まあ経緯は色々だが
祟られないように神として祀る
死者の功績を後継者たちが自分たちの権威付けに使うために死者を神格化する >>539
秀吉は虐殺や侵略をやりたい放題に繰り返したため、神格化で誤魔化すしかなくなったけど
神格化しても焼け石に水くらいに無意味なほど体制がガタガタに落ちぶれたからな
秀吉をみると神格化にも限度というものがあると分かる 豊国大明神の明神は縁起が悪いから権現にせよとの天海の進言は
後世の創作なんじゃないかってくらい的中してるな
倒幕後豊国大明神を大々的に奉じた明治政権は秀吉の霊が乗り移ったかのように海外侵略を続け
100年も経たずに国を滅ぼした
確かに豊国大明神は縁起が悪いな 豊国社なんて維新政府の寺社政策でいうと
ほんの一部でしかないぞ 豊国神社は関ケ原の時に西軍が参拝して敗けたという結果もある
上杉征伐で家康も参拝してたか
御利益は無いな >>533
西笑承兌が直江兼続に宛てた書状で家康が再出兵考えてるから早く上洛するんだって書いてるから理解力ある人間ならすぐ分かることだったんだろうね。前田利長も城砦整備してたけどお咎め無しだったのはこれ言い訳にしたからだろうし。 >>547
なんで別人装って自分の書き込みにレスしてるの? >>538
三成は豊臣家のためを考えて挙兵した
家康はどのみち豊臣を滅ぼしていた
三成の挙兵が滅亡を速めたは同意
三成があんなことしなければ豊臣は形だけでも
存続はできた公儀として >>550
豊臣家のことを考えるのなら豊臣家(秀頼)が
鼎の軽重を問われる事態は避けるべきで
重臣の派閥争いはご法度のはずなんだけど
騒動を穏便に収めるどころか大きくする方向にしか動いてないんだよなあ >>549
何が豊臣家のためになるのかを決めるのは、当時は秀頼の専権事項だった
だから関ヶ原前では家康も会津征伐が豊臣家のためになることを秀頼に確認する儀式を守っていた
ところが三成は秀頼の専権事項を剥奪して、自分に決定権を移そうとした
だから関ヶ原は豊臣家にとっても三成の謀反であり
三成の謀反で秀頼の専権事項を奪われた以上は、豊臣の天下は三成によって消滅させられたことになる まともな判断が出来ないであろう子供の秀頼に付き従う大名は居ないやろ >>503
三成の進言受けて延期したらどうだったのかな?
延期だから上杉討伐は賛成とみるけどやはり挙兵しちゃうのかな? >>482
大谷刑部はおるね
ちなみに島左近の外孫はあの柳生十兵衛 >>555
延期を提案したのは増田長盛ら三奉行で石田三成は何も政治運動できてなかったと思うんだが… >>557
関ヶ原が起きなかった場合は、徳川は秀頼が死んだら困るぞ
徳川の権力の源泉は家康が秀頼の外祖父であり、後継者である秀忠が秀頼の義父という
秀頼個人のと極めて関係が近いという点にあるのだから
逆に言えば秀頼が死んだ途端に徳川と豊臣の縁は薄くなる、他の大大名と同程度に疎遠に
なってしまう(秀康が後継になった場合のみ例外だがまず秀秋が優先されるだろう)
そもそも家康の大義名分って強力な全国政権たる豊臣政権の第一人者であることだから
政権の権威が高まってくれないと困る、というより権威の低下=徳川の立場の低下だ
これは秀吉が作り上げた見事なロジックであり、老いたとはいえさすが秀吉というべきだろう
ところが関ヶ原の西軍挙兵はそのロジックを見事なまでに壊してしまった訳で
逆に言えば関ヶ原さえ起きなきゃ徳川が対豊臣なんて考える必要ないんだよ
だって徳川は藤原氏をやればいいんだから、徳川は豊臣という神輿の担ぎ手であればいい
後は他の有力諸侯が大伴や橘の役目を担ってくれれば(政権の礎として骨になってくれれば)
それで万事解決だったのに… 三成たち奉行連中は十数年間誰よりも政権中枢部にいたのに
豊臣の威光を借りて威張り散らすばかりでまったく豊臣を守ろうとしなかった
それで苦境に立たされた秀吉が家康に助けを求めて政権に招聘したんだろ
それなのに三成たちは批判が高まりクビが危うくなった途端に豊臣を守るとか言い出す
三成たちの調子のいい態度に清正や正則が激怒するのも当然だった
一部の人間は関ヶ原だけを切り取り、都合のいいように解釈して
三成が豊臣を守ろうと常に考えていたように偽装しているが
十数年間誰よりも政権中枢部にいながらまったく豊臣を守ろうともしなかった以上は説得力がない 三成が威張り散らしてたソースはあるの?
そもそも政権中枢部に居るなら立場は偉いから多少は仕方がない
三成もゴミだし清正正則もゴミだと思うけどな >>557
最終的には殺すだろうね、家康の性格だと
只、家康は関東で自立する事が目的ではなくて全国政権乗っ取りが目的なので
殺すタイミングはシビアだろ >>563
やっぱプーアノンで反ワクでDS信じてるの? 史実では乗っ取ってないのになぜ乗っ取ると決めつけるの? 逆に政権乗っ取りはそんな難しくないので
殺す必要もなかったんだよ
だからずっと秀頼生かしてきた
関ヶ原がなきゃ上杉討伐のあと
秀頼の番頭として秀忠に仕事引き継いで
徳川が動かす豊臣政権を磐石にしてたろう 年齢はいずれ逆転するからなあ
去年大河やってた鎌倉幕府だって泰時が死んだ後に跡を継いだ北条の頭領と傀儡にしてた摂家将軍の年齢関係が逆転して摂家将軍に主導権を奪われそうになったことがある
豊臣と徳川だって将来的にそうならないとは限らないしそうなったらまた天下が2つに割れたかもしれない
吾妻鏡を愛読してた家康ならそんなこと当然分かってただろうからなあ さて、家康がそこまで考えていたのかね
史実においてさえも、家康が大坂城を落城させたのは関ヶ原から見ても15年後だ
さらっと流されがちになるけど、15年ってものすごく長いぞ、まして当時の衛生状態を考えれば
幾ら家康が健康に気を遣う人間でも正直いつ死んだっておかしくないだろう、年齢的にも
何故か家康を天下への野心溢れる人物としかとらえないのがいるけど、実際問題
関ヶ原がなければそこまでするのか、大いに疑問が残る
すでに豊臣政権の実権を握っている現状でそこまでの博打をする人間に思えんのだが みんながみんな天下人を目指してる訳でもないからな
家康の場合はどうしても関ヶ原からの副産物的要素が大きく見えるんだよね 逆に
15年も天下を預けっぱなしにしておいて今さら主筋だのなんだの厨二の反抗期みたいなこと言い出すアホ奴らの無邪気さがかえって気に障るんだけど リニア新幹線建設を巡り、JR東海と川勝平太静岡県知事の対立が泥試合の様相を呈している。泥試合を仕掛けているのは、川勝知事だ。静岡県内における建設着工を防ぐために、ありとあらゆる難癖をつけて妨害を続けている。
2020年6月10日、JR東海の金子慎社長は(当初計画していた)2027年の開業について「ギリギリで難しい工程」と述べていた。あれから2年と半年が過ぎたが、静岡県との協議は一歩も前へ進んでいない。下手すると、2030年まで開業を後ろ倒ししなくてはいけない可能性がある。
一民間企業であるJR東海の事業を、権力者が徹底的に妨害する様は、徳川家康が豊臣秀頼・淀君にもつけた難癖に近い。もはやイジメだろう。経営体力のあるJR東海だから大人の対応をしているが、これが他のJRだったら万事休すとなっていてもおかしくない。徳川家康には、「自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼしておく」という目的があったが、川勝知事にある「大義」とはいったいなんなのだろうか。
かつて川勝知事は、「静岡空港直下への東海道新幹線新駅設置構想」なるものを太田昭宏国土交通相(当時)に提案している。「新幹線静岡空港駅」構想だ。この提案に対してJR東海は「明らかに短い区間にたくさん駅を作れば列車本数が入らなくなり、東海道新幹線の輸送力が傷んでしまう」(2013年12月11日・JR東海社長定例会見での発言)として拒否。リニア建設において、JR東海へ嫌がらせをすることで、新幹線静岡空港駅の譲歩を引き出そうとしたのではないかとされている。 三ちゃんとその仲間達って、直江君、佐竹君、大谷君だけだろ。奉行の連中なんて戦力外だし
自分の人望を過信してたのではないか。 >>568
権力闘争は修羅の道だぞ、傀儡にしてたはずの奴に不意討ち食らって滅びるとか普通に
有る世界だからね
前漢の宣帝なんて武帝の皇太子の孫だが、政争に負けて一族皆殺しで自分一人生き残った
状態で霍光に担がれて即位したからね。
実際最初は間違いなく操り人形で霍光がその気ならあの時点で新王朝も作れた様な状況
で、宣帝はひたすらおとなしくしてた。
で霍光の死後に霍氏族滅のクーデター敢行
まあ冷静に考えると霍氏の勢力強すぎるんでこうなるよなと。 中国の皇帝の概念や権力闘争といったものは文化も思想も違い過ぎて参考にもならんよ 大谷と一緒に会津討伐に加わればとりあえずは名誉回復できたのにな
三成得意の政治力で徳川を抑えるべきだった
五奉行の復帰が豊臣の為になるのに 秀頼の成長まで、大きな事が起きず家康が配下のままだったら、秀頼自身の才覚次第で宣帝になれたかもしれないけどな。
秀頼自身が、関ヶ原の大乱を治めることが出来なかった事で、天下人の座から落ちてしまったわけで。
そんな事態を招く行為を、なぜ三成達は毛利を総大将として行ったのかという研究はちょっとみたい。 >>567
そうならないための将軍職と江戸幕府じゃん >>574
だから傀儡にもせず一大名として残したんじゃん >>577
秀頼が年齢的に何もできないから西軍は決起したんだろ?
そもそも毛利主体のクーデターで三成は政権復帰を餌に片棒担がされてたんだろ 年齢的に秀頼が何もできるわけないからこそ秀吉が生前に様々な待遇を与えて
家康と徳川家の実力を秀頼の後ろ盾として成人まで守らせようとした
毛利は自分で秀吉から西国統轄を任されたとか確か家臣宛ての手紙で吹かしてるが
家康とは秀頼との縁戚関係や官位で差があり過ぎて俄に信じ難く
遺言覚書でもほぼ無視されてるし状況的にも毛利上杉はもちろん奉行も秀吉の構想からハブられていたと見ていい
毛利は秀吉から下された所領裁定問題もあり秀吉の構想に反発する動機は十分あった >>580
それな
秀頼が自分で判断できるようになってからじゃ
傀儡として使えるか微妙なので
今のうちに身柄押さえないといいようにできない 家康が秀頼を守る?
冗談はそれくらいにしてくれ
三成や輝元が秀頼を守るんだよ
それは1598年8月28日の書状で石田ら4奉行と輝元の
忠誠の厚さがよくわかる かつて毛利輝元スレでテル呼ばわりされて
けちょんけちょんにバカにされてたのを思い出した 秀頼への忠誠とかどうでもいいから
奉行が気に入らなきゃ毛利が討つってやつか そもそもあれ、遺言違反と解釈されても仕方のないものじゃなかったっけ 冷めた見方をすれば秀吉が諸侯に求めた遺言内容もふざけてる所が多いからな >>583
三成たち4奉行は10年以上誰よりも豊臣政権中枢で活動していたが
その間にも豊臣関白は命すら守られず家族もろとも虐殺されて
太閤も三成たちに偽講和を仕掛けられ明・朝鮮の家臣扱いされて立場も守られなかった
三成たちは口先だけで一度として豊臣を守ったことなどなかったんだよ
クビが危うくなってから慌てて勇ましい発言を繰り返しているだけ
加藤・福島でなくても三成たちの調子のいい態度に激怒するのはやむを得ないだろう 関ヶ原の戦いの戦いで西軍が仮に勝ったパターンで行くと三成の行動が気になるわ
なんか秀頼をないがしろにして豊臣家を乗っ取りを図りそうだし >>586
Enpediaとかいうのに「毛利秀元処遇問題」とかいうのが
あって読んでみたけど、あれ事実なのか? 西軍がもし勝っても家康を東に押し戻すだけで江戸幕府みたいな統一機構は出来ずに応仁の乱の頃みたいな2大勢力に分裂する状態になったんじゃないかと思われる
実際奥州でも九州でもそうなることを見越して諸大名が動いてたし >>593
というより、戦国時代逆戻りでしょう
大体の大名は、上の支配(強力な中央政権の押し付け)なんか無視して好き勝手に
領地経営や拡大をやりたいものでしょうし
勘違いしてる人がいるが、天下政権の崩壊に天下を狙う野心なんていらんのよね
地元で好き勝手にやりたい程度の野心の方が余程厄介だったりする
権威なんて都合のいい時は盾に使って悪い時は無視するのが一番効率いいし 二大勢力に分裂いうほど
まとまらないんじゃないかな? 2大勢力というとあれだけど要するに、織田~豊臣と強力な武力政権が朝廷を擁して単独で成立してた時はお前らケンカ止めろと言われたら逆らいようがない
でもそれが2つになると自分が気に入らないものを武力で排除するためにどちらかへの協力を約束してお墨付きをもらうことが出来る。相手は逆側にくっついて自分を正当化するだろうしね
応仁の乱勃発から日本はそれが畿内から全国に広がってあちこちで対立勢力がお互いに東と西どちらかからお墨付きをもらって殴り合いをした結果戦国時代になった 毛利秀元処遇問題っての読んだけど、先に私党形成してるの輝元と奉行やん
それで家康に私党形成するなとか無断私婚したとか言ってたのかよ
どういう神経してるんだこいつら >>598
一応の言い訳としては「豊臣を守るための私党なら問題ない」とか
「あくまで問題なのは大老や奉行が他大名と私党形成する事で、大老・奉行間なら問題ない」
みたいなのはあるけど、前者はその基準はいったいどういう形で誰が決めるんだってなるし、
後者はそう言ってるのが西軍が自らの正当性を主張する「内府違いの条々」での記載なんで
その内容をそのまま鵜吞みにしてよいものか…となる >>599
豊臣を守るためって
あそこに書いてあったAの起請文は絶対にそうは読めない
あれだと「4奉行の意のままにならない奴が出たら、毛利は4奉行に協力する」
ってなるやん >>600
自分もかなりはっきりとした奉行・毛利による豊臣政権の私物化としか思えんのよね…
まあ政治的に無垢であれとまでは言わんけど、奉行と毛利の件は完全に一線越えてるよな >>589
西軍勝利で終わった場合、毛利、宇喜多、上杉の三大老の勢力が増大しますよねえ。
後、俺は意外と勢い付いたら雪崩現象が起きると思う方なんで、家康が野戦で敗北した場合
普通に討ち死にまで行くと思います
そうすると、東海道の豊臣恩顧が籠城抗戦して西軍食い止めるとは思えんし、徳川家滅亡までは
意外と直ぐいくだろうなと。
只、この場合東海道の豊臣恩顧が消えるので全体として豊臣系大名の勢力は弱まる上に
三大老強大化って普通に室町幕府ですね。 西軍勝利の大前提は毛利が裏切らないこと
毛利が裏切らない大前提は岐阜が落ちないこと、多くの諸大名が徳川を支持しないこと
ハードルが高すぎて無理 三成の戦っていうと
忍城攻め→高松城攻めの真似して失敗
朝鮮攻め→立花や毛利系を呼び集めて勝利
関ヶ原→陣城築いて賤ヶ岳の真似して失敗
こいつ基本的に秀吉の真似っこと成功体験に基づいて戦ってるけど
成功の条件を満たしてるかどうかに無頓着なんだよな
真似はできるけどよくわかってないやつの典型 当時から問題有りとされたんじゃないか?輝元は閏三月二十一日に家康を父と思うとした起請文を送ってる。流されがちだけど何で輝元がこんな起請文を家康に送る必要があったのか。家康が自分の立場を固めようとしたのなら大老奉行全員から取ってるだろうからこれは輝元が何らかの糾弾を受けた可能性を示唆してる。三成が家康に保護を頼む対価としたか七将らが事実を掴んで報告したかはわからんけど。 >>559
用済みになったら殺すってことだよな?
大久保長安みたいに >>607
大権現の凄い所は思考に慣性が見られず、状況が変化すれば周囲の人が唖然とするような
行動が平気で出来る事でしょうね
大久保長安にしても、蓄財を知らないとか有り得ず見て見ぬ振りで利用してたようにしか
見えない。
長安の子供は使えないから、殺して全財産没収って顔色一つ変えず決めたようにね。
こういう事出来る人が、秀頼生かしとくはずはないよな 無能は無能なりに有能は有能なりに
上は上なりに下は下なりに
それぞれ処世を工夫しないといけないというだけの話 >>605
朝鮮攻めでは幸州山城をはじめ三成が参戦した戦いは負けているから
三成が戦に勝ったことは実質的にはゼロに近いぞ >>604
関ヶ原前の時点で明確な反家康派以外が徳川を排除しなきゃいかん理由が特にないもの
それに不支持を表明するにもタイミングって物があるし、不支持=排除というのも短絡的だ
それに家康を支持しない事と反家康派を支持することは全く違うというのもある
「現状のあいつを全肯定するつもりはないが、だからってお前は支持できねえ」ってのは
歴史上幾らでもある話だ
これは別スレでも書いた事があるのだが、関ヶ原は東軍(家康)が支持されたというよりは、
西軍(奉行)が諸大名に支持されなかったと考える方が適切ではないかと思っている >>611
その通りだな
三成に人望あり人たらしの才能があればもっと西軍も増えていたし >>611
関ヶ原は西軍が他大名を拉致ったり内府違ひの条々などで選択を迫ってるから
叛旗を翻してるから当然だけど そもそも毛利を総大将と言うのがな
輝元なんざ武将としても大名としても戦歴経歴とも家康の足元にも及ばぬボンボンに過ぎないし
豊臣政権下でも存在感希薄で家康はおろか利家ほども諸侯への影響力があったと思えない
そんなのがいきなり出張ったところで諸侯からしたら「お前誰だよ」状態で到底求心力があったとは思えず
淀殿から見ても親しみなど感じない他人にしか見えなかったろう
そんな多少の石高と動員数程度しか見るべきものがないのを家康の対抗馬に担がなきゃならないほど
西軍てのは初めからメンバー的にもうらぶれていたんだなと
というか当時家康が何から何まで圧倒的に突出していたんだよな 逆に言うと輝元が家康に対抗できるような傑物だと奉行としては困るのよ
奉行の不満は家康が自分たちでは制御できない格上の人物だということだから
色んな意味で輝元ぐらいがちょうどいい すでに、関ヶ原の最中でも毛利は奉行たちが制御できてなかったけど、大丈夫だったのかな。
毛利が総大将で戦に勝って、その後は実権は自分たちに寄越せって図々しいとは思うけど、考慮しなかったのか毛利をも葬るつもりだったのか。 かといって他の選択肢があるかといったらないし
できるできないの問題じゃなくて家康比でできそうかの問題だからね
あと関が原ではすでに政治的に追い詰められている状況なので
戦後の事まで考える余裕はなかったと思われる >>617
豊臣政権の命令であればどんな大諸侯でも逆らえないと考えていたなら一応成立はする
関ヶ原においては徳川を、戦後に毛利がでしゃばるのなら同じように豊臣恩為を掲げて
毛利を討伐すればいい、こんな風に考えていた可能性はある
実際この時期は豊臣の権威はまだかろうじて残っているし、政権内最強の徳川でさえ
豊臣政権の主導的立場である事を政治的大義名分にしてるから、その政治的立場を
家康から取り上げてしまえば(徳川の政権排除に成功すれば)徳川などどうとでもなるし、
その他の大名など最早敵ではない位に考えてもおかしくはない
要は悪い意味で豊臣恩為という言葉を絶対視していたと考えればいい >>617
たとえ秀頼に忠実な者でも奉行と意見が違うなら
毛利が討つという約束をさせてたからな
甘いと思うが奉行としてはその延長で考えていたろう
ただ関ヶ原については強大で経験豊富な
徳川を除くという共通の利害がある
毛利としては瀬戸内各地に勢力を伸ばせるし
奉行としては毛利が徳川に変わっても
徳川よりは御し易いという目論見もあったろう 奉行衆は家康抜きの豊臣家に自分たちを制する力が無いと判断したから家康が畿内を離れた隙に兵を挙げ豊臣家を騙って畿内で勝手をした
傍から見ればただの武力を背景にした権力闘争
だから毛利は形勢不利と見るや離脱したし家康も豊臣から独立することになった 結局んとこ
秀頼というか
豊臣家としての意思がまったくないのよね 秀吉→秀頼への権力移譲は無理だから中継ぎでの家康起用
自己中心的なご都合主義で考えれば家康も高齢なので10年程度を大老として勤めてもらえればその後は秀頼へのバトンタッチも容易と考えれる
外戚としての立ち位置も申し分ないから頼るしかないやろね >>610
うん、本人はまるで勝てない武将だね
とりあえず小早川や毛利呼んできたら勝ったことあるんで
関ヶ原もその作戦で万全って思ってたはず
秀吉の威光という大前提無視しすぎだわ あと西暦1600年の段階で家康のカリスマ性は凄かったと思う >>622
まだ6歳の子供に政治的意思を示せって酷なこと言うなあ
しかも秀頼を助ける近親がいないのに(秀吉がこれは悪いけど)
三成や輝元が勝つには結局、家康を暗殺するしかなかった
あるいは家康の寿命を待つか(まさか74まで生きるとは思わない) まだ幼児で政治判断もクソもないし
だから当然主君の意向なんてのを盾に
お家の方針を決めるてのも単なる奸臣ムーブ
なのでまともならそんなことしない
が、したのが奉行の挙兵 >>627
挙兵はどう考えても最悪だよなあ
何でもう少し考えないかねえ
家康に何が何でも追従して近づいて時期を待つとか 西軍が仮に勝った場合は小早川秀秋が関白になるんだろ
秀頼と揉めそうな気がするんだが >>628
その辺は挙兵理由が何だったのかにもよるから一概に最悪とまでは言えんな
挙兵理由が御家の既得権益の維持や没落を防ぐ為、或いは権益の拡大や奪取を
目的としたものであるなら別に全否定はしない(要は御家大事)、対抗戦力が残っている間に
連合して事に当たるというのは、単純ではあるが優れたやり方である事は疑いがないからだ
ただしこの理由だった場合、西軍は政権の行く末や安定よりも自らの利益や立場を
優先した事になるからその挙兵を豊臣恩為という言葉で包むのは言語道断になるが >>586
秀吉の遺命である国分を覆したい輝元と、輝元との関係を深めることで政権内での
権力強化を図りたい四奉行の利害が一致した結果が8月28日付起請文なわけだしな
奉行衆が家康・利家の寡頭制に対する牽制を目論んだものであり、逆に輝元&四奉行
の寡頭制ということになればまさに徒党を組むなという遺命に背くものだし >>631
そもそも秀吉の國分が無茶すぎるような
秀元を優遇しすぎ >>632
だって秀元って嫁が秀吉の養女(秀長の娘)だから、一門壊滅状態の豊臣家視点では
姻族とはいえ超貴重な身内だもの、秀吉視点では贔屓するのは当たり前だ
しかも豊臣と毛利の血縁というか婚姻関係は事実上ここしかない、秀秋はちょっと微妙だし
毛利の後継である輝元実子の秀就が豊臣と縁もゆかりも現状ない以上は、
豊臣政権に毛利を縛り付けて置く為にも秀元を優遇するしかないだろう
もっというなら豊臣家視点、秀元が毛利家の後継になってくれた方が都合いいんだよね
一時期は輝元の後継として養子扱いだったし(だから秀吉の養女が嫁いでる) 秀元が関ヶ原で武功を立てれば立場が強くなり、逆に秀就の立場が危うくなる
輝元としては、秀元が関ヶ原で何の武功も立てられなかったということにしなければならない
吉川が勝手に東軍と内通したというのは後からのアリバイ作りに過ぎず
実際は輝元の指示通りに動いたに過ぎないのに吉川が後から罪を被せられただけ 秀元は朝鮮へ渡海する直前の天正20年4月に
「もし輝元に実子ができたら私は相応の扶持をいただき、私が自由に振る舞うようなことがあれば、
輝元のお心次第にその処置を任せる。そして輝元には今後忠孝を尽くす」
と一応実子ができた場合の起請文を提出してるんだよな
まあ時間もだいぶ経ってて状況も変わってるし、何より秀吉の遺命という後ろ盾
があるんで起請文にあるような輝元の処置に秀元が素直に従うということはなかったが >>611
あるぞ、自分一人の花押で家康が文書出しまくってるんだから黙ってれば実質的に
家臣にされてしまうからな。
三国志でさあ、何故反董卓の挙兵とかが起きたのか?とか考えた事ありますか?
董卓は本来涼州刺史でしかないのに自軍率いて洛陽にはいり、事実上軍事的に制圧したうえで
皇帝を廃立して献帝劉協を建てた。
この時点で実質董卓の命令だろうが皇帝の命令という事で地方官の任命が出来ますからね。
そして全国の地方官全部董卓派閥の者に出来れば見事に王朝乗っとり
拒否する地方官は反乱容疑で討伐軍を贈ると
こりゃあ、漢王朝忠義の地方官は挙兵するしかありませんな 家康が自分一人の花押で文書出してるって事実甘く見過ぎですよ
そして複雑に転封組み合わせてるけど、豊臣家の領地の山分けも始めてる。
あとは、邪魔な太閤が封じた大名の改易の理由つくりって段階まで来てる
でね、問題は家康だって子飼いが可愛いし傘下にはいったからといって外様大名の立場は
非常に危険な訳で 確かに自分たちで政治を仕切りたかった
奉行と毛利にとっては脅威だな
それが嫌だから秀吉の死の直前から
遺言とは別に御掟違反の誓詞でもって
家康の権力を削いだといつのに
このままではそれ以前政治向きは
家康が仕切ると言う
秀吉の判断力がまだあったころの遺言と近い
形に戻されてしまう 時代背景とか違うから、一概に言うのはどうかと思うけど。
董卓の立ち位置って、毛利とほぼ同じだよな。
権力闘争で、一部の重臣が地方軍閥を呼び寄せて、利用しようとして制御出来なくなるって。 >>636 >>637
そもそも奉行たちの実力不足で関白も失い戦争も解決できなくなって政権が傾いたから
家康が豊臣を助ける執権として招聘されたわけ
だから家康が自分一人の花押で文書出したところで何の問題もない
むしろ酷い働きばかりで政権を傾かせた前科しかない奉行連中と協力する意味がないだろ
家康だって足手まといを何人も抱えていたら仕事にならないよ
奉行連中は何の成果もあげていないくせに口先だけで威張り過ぎだろ
これでは加藤や福島が激怒するのも当然だよ 諸大名が秀頼を秀吉同様尊重する誓詞を出してるから勘違いされがちだけど
秀吉の死後公的に天下人だったのは秀頼ではなく家康なんだよな
秀吉が生きてた頃から朝廷が家康を次の天下人扱いしてたし
朝廷が認める天下人しかやれない石清水八幡宮社務職代替わりの裁定も秀吉の次に家康がやったとか
秀吉の遺言からも法的には家康一人の決裁で天下の政務が行われても別におかしくない
そのお膳立てをしたのも他ならぬ秀吉で奉行や毛利が異を唱えることこそ秀吉への反逆行為に等しい >>627
輝元からするとこの時以外に政権に触れる機会無いし 仮に西軍が勝ったとして輝元に奉行が文句言える筈もない。
大坂城を占拠してるのは毛利軍だし石高でも圧倒してる。どうして奉行が嘴突っ込めるだろうか。 そこで奉行衆は次に宇喜多をぶつけてくるんですよ。徳川残党も生き残りをかけて宇喜多につくかもしれない。かくして本州はヘトヘトな状態になり、いよいよもって老獪な黒田カンピョーエが満を持して 西軍が勝ったら三成が論功行賞やるんだろ
石田家が200万石になるな >>649
要するに三成はそういう見返りが欲しくて関ヶ原起こしたと言いたいの?
とんでもない奴にするにも限度ってもんがあるだろ、とんだクソ野郎になってるじゃないか
「僕はあなたに忠実に仕えてるんだから、ご褒美としてこれ位は頂戴ね」とか言い出したら
(しかも主君が命令もせず自己判断で起こした戦争で)俺ならそいつ絶対許さんな 小和田、千田二氏の独擅場だった戦国ご意見番に最近光成という人が喰い込んだようだが、
この人の名前が呼ばれるたびに石田三成のこと言ったのかと一瞬思い混乱する。 三成が欲しかったのは200万石じゃなく
政権を好き勝手できる立場だろ
200万石は毛利のもの >>653
政権を好き勝手にするにはある程度の力が無いと無理じゃね?
秀吉時代にそれができたのはあくまで秀吉という後ろ盾があったから
秀頼の時代に同じことができるとは思えないから、やはり力は要る
家康だと自分の思い通りにならない、利家も同じ
輝元なら何とかなりそうだから近づいたとしか思えない >>655
その通りだよ
だから西軍勝ったからって三成がいきなり
200万石くれとか言っても通らない
毛利の200万石は史実でも攻め込んでた
瀬戸内諸国を実効支配したら軽く超えるし
今更奉行が咎めることもできまいよ
奉行らも牽制し合うしそんなに甘くない
彼らの当面の狙いは太閤生前の権力の回復
徳川はそれを保証してくれなかったから
自分たちのために政敵を討つと約束させた
毛利に討たせたまでのこと すでに指定あるように西軍勝利自体が
想定しずらい上、徳川取り潰しまで
一気に持ってくのはさらに苦しい
その上で総大将でも実質的な指揮官でもない
三成の一存で論功行賞が決まるというのは
さらに考え難いのは確かだろう
となると三成が200万石得るほど
西軍内で声望あるとも思えんし
総大将に迎えられた毛利の優遇も
当然あるだろう 10年前くらいに流行していた「石田三成忠臣説」はいずこに…… 10年どこじゃなく少なくとも平成くらいから
ずっと康簒奪者三成忠臣の図式やん
それどころか下手すると御一新の頃の
超敵徳川史観からの流れのまま >>658
今でも日本人の大半はそう思ってるで
ほとんどの人はフィクションしか知らないからな 三成はやってる感を演出する天才なんだよね
よく見ると三成は具体的な成果を上げているわけでもないし
豊臣を守った実績なんて実は何もないけど
まるで豊臣を常に守り続けているように錯覚させ続ける才能があった
こういう演出の才能は加藤・福島にはない才能といえるね
三成が演出するやってる感に司馬など後世の人間も騙されて三成忠臣説なんてものが出来上がった 現代においては司馬遼太郎の功績だよ
忠臣説を小説として見事に昇華した
史実と違うエンターテイメントを作ることでは羅漢中と並ぶ天才 信長の野望を作っいるコーエーテクモがやたらと三成を持ち上げているからな
三成役の人が三成の事で散々と言われていて参っていると話があったし
その方曰く、僕はコーエーテクモの用意したストーリーの三成役を演じているだけで実際の石田三成とは違いますとコメントしてたわ
こんな感じで三成像が出来ているんだろうと思うわ >>662
それは現代の小説家や映像作品の功績で
三成自身はそうでもないんじゃね? 戦国無双は2までしかやってないけど
(OROCHI2もやってるから正則清正のキャラは知ってる)
あの不器用な三成のキャラは嫌いじゃない
あくまでゲームとしてね
幸村兼続よりはまだキャラ立ってるし魅力も感じる 三成たち奉行に豊臣を守る意欲と能力が満ち溢れていたら
そもそも政権が傾いて秀吉が家康にすがりつく羽目にならないからな
奉行の意欲と能力が足りずに失敗したから家康にすがりついたのに忠臣も何もない
だいたい忠臣説の根拠なんてクビが不服で暴れた以外に何もないわけだから
10年以上誰より政権中枢部にいて、クビが不服で暴れたしか実績がないことの方が異常 家康が政権中枢に据えられたのは
秀吉の晩年というよりもっと前だな
少なくとも秀次死後の連署体制ではすでに筆頭だし
御掟違反の十人衆誓詞より前
というか徳川上洛の時点で序列はかなり高く
信雄失脚後は確実に2位
秀次が関白になり3位に落ちるが両方死んで一位 家康だけじゃなく小早川隆景、堀直政、蒲生氏郷といった面々も重用してた
秀吉晩年まで生き残ったのが家康 要するに秀吉は全然天下統一できてなかったということやね https://youtu.be/Ak2fEVTTgJE
輝きながら 徳永英明
かがや!
かがわ!
照明、独り占め
証明
輝いて、かがや!
コウメ太夫
歯、どう?、ケン、と思ったら
歯、モン、ケン、でした https://youtu.be/bjzR5wpNfq8
やまかつウィンク
さよならだけどさよならじゃない
国ちゃん >>669
浅野長吉はもうちょい上に行けても良さそうもんだったけど
秀長、秀次の次の席次くらい
やっぱり巷間いわれているように三成との不仲があったのかね?
近江閥と尾張閥の主導権争いとか そもそも秀吉がおかしい遺言とか朝鮮出兵とかやった結果が関ヶ原じゃないのかねえ
三成忠臣とか言ってる研究者も、「三成は横柄で傲慢だが、仕事はよくできたから忠臣」ってスタイルだけど
組織の和を大いに乱す忠臣って、忠臣とは言えなくないか? >>674
浅野と三成の不仲は宇都宮国綱改易事件の時の状況見ても明らかだな
この時連座で改易されそうになった佐竹義宣の書状(父義重宛)にも
「一刻も早速御稼御登尤候、宇都宮へ浅野弾正方為御検使被罷下候、路次中ニ而はるかに御よけ被成、
御手前御上洛之儀を弾正方不被存候様ニ御透候へと、治少御内儀にて候」
義重の一刻も早い上洛が必要だ。宇都宮へは浅野の検使が来るので、道中鉢合わせしないようにして、
義重の上洛が浅野方にバレないようと三成より内密に知らせがあった
このように義重が上洛して秀吉への釈明が必要だが、浅野方に見つからないよう注意して来てくれと三成は言ってる >>675
若い頃から秀吉に仕えて、その最晩年まで一貫して直接彼の意思を体現するような役職を勤めている
秀吉にしてみればかわいいところもあるし、役に立つ奴だったんでしょう
ただ、秀吉の死後すぐに失脚して、
その際に誰かが庇ってくれたり復帰に尽力してくれたりした形跡が残ってないのよね
本人が思ってるほど豊臣家にとって無二の存在ではなかったんかなぁ… >>677
柳沢吉保みたいに政権を去るべきだったな >>677
長年秀吉は政権の番犬として育て、その役目果たそうとしただけでしょ。
といいますか、実の所政争から逃げたいのならあの儘佐和山で隠居で良いからねえ
正直、三成ってあの儘逃げる選択肢もあったと思える
「豊臣家守れって言っても俺20万石しか貰ってないぞ、その上奉行は豊臣家の旗本を
動員する権利もない、これでどうしろと」 >>669
それらと比べても家康は公的に序列No.2
一門筆頭、奥州仕置の副将で次期関白の補佐
とまあ明確に差をつけられてるよ
>>677>>680
主君の意思を体現するのは奉行全員そうなので
三成が特別と言えるかは微妙だよ
奉行内での序列も別に高くはないし
政権守れとも言われてない まあとにもかくにも秀吉が馬鹿だっただけ
一番信用ならない家康だけはなにがなんでも滅ぼしておかなければいけなかったのに
秀長の危惧が当たったな 逆じゃないのか
一番信用できる徳川に全面委譲して、
毛利吉川小早川をバラバラに解体して上杉を田舎送りにして石田を失脚させればよかったんや 徳川滅ぼしてれば万事OK全てうまくいってた
こういう後々の結果だけから単純に逆算した思考って何なんだろうな 豊臣家は盤石だったとでも思ってるんだろう
秀吉のいない豊臣家本体はヘニャヘニャヒョロヒョロ
朝廷とも疎遠になって大名たちが一丸となって支えなければいけない状態になってる
実際に上杉が見切って離反してる 三成は家康に助けられてから徳川派に転向したんとちゃう?
動きはしたけど何の役にも立たんかった毛利やそもそも何してたかわからん上杉と仲間のままとはならんでしょ。 >>688
転向はしてないでしょ
してるならそもそも三奉行や毛利に協力しないと思う
三成は領土とか物欲より、名誉欲とか政権欲が強かったのかな
秀吉が死んですぐに毛利とあんな起請文交わしてる時点で…… 前田利長の謀叛計画を家康に伝えたのって三成らしいけどな。大谷吉継とセットで出陣命令出てるし。 武功のない治部少輔が戦争やる気満々なところが不思議だよな >>691
戦争で派手な功績を立てれば復帰できるとでも思ったんじゃないの
実際仙石秀久とかそうだったろ 三成はやる気を出すのが遅すぎるんだよね
戦で勇ましい姿をほとんど一度も見せたことのない人間が
クビが危うくなってから突然やる気を出して勇ましい態度を見せたところで
はいはい政権復帰がしたいので必死だね、という白けたムードしか出てこない
三成の態度は積み重ねがないから説得力がないと言える
そんなやる気があるならもっと早く見せてみろよ、というのが当時の大名の正直な感想だろうね 考えすぎて正しい結論にたどり着いた時には機を逸している男だからな 武功がないからこそ最初は
乗り気じゃなかったのかもな 三成は豊臣家のためを思って挙兵したんだって持ち上げるけど
三成が豊臣政権をどういう方向にもっていきたかったのかよくわからない
最大限好意的に解釈して秀吉のときのような秀頼独裁政権にしたかったのか
それって今さらどの大名も懲り懲りで誰も望んでいなかったと思うんだけど >>690
家康なんて利長と手を組まなきゃ勝てない相手だろうに、なぜ利長を敵に回すような事をしたのか謎 前田は秀頼の傅役に指定されてるから家康同様奉行の競合相手になる
利長の義弟の浅野長政や大野治長が連座したのも
北政所や淀殿といった豊臣家と(奉行たちより)縁深い人物が狙われたと考えられる 結局西軍が勝てなかったのは毛利輝元の計画に乗ったから。 >>696
そんな考えだったら秀頼へ忠実でも
奉行の考えと合わないなら討て
なんて約束させる一味に加わらんやろ >>676
おもしろいな
クズみたいな想像を開陳するんじゃなく、こういう史料読ませてくれよ
さっと見て史料引用してなさそうなのはそもそも読みもしないけど
つまりここの九割九分 そもそも三成が1598年8月28日に輝元や三奉行と交わした起請文だけど、よくあれ問題視されなかったな
というか家康は輝元や三成が起請文交わしたこと知らなかったのか? 知ったから輝元が家康を父と思うって起請文書かされたんだろう 家康好きな奴ってつまらない人間多いいよな
岸田とか 間違った家康像を好きと言っている奴らを叩いても意味ないやろ 三成が好きな奴ってどこが好きなんだろうね?
戦は弱いし、何かしらの成功を収めたわけでもない
現場の武将と揉め事を繰り返す問題児で、勝手な行動で組織を崩壊させる
ネタではなく真面目な話で褒めるところが何もないだろ そりゃキャラとしての三成が好きなんでしょ
それも司馬遼太郎が完全に創作した「石田三成」というキャラ
三成という人物が歴史上どうだったかなんてのはどうでもよくて
>>706にあるような人物像も、もし西軍が勝ったとしても豊臣政権が崩壊したことには変わりないだろうって考察も
三成ファンには本当にどうでもよくて司馬遼太郎がでっち上げた作品世界観内の三成というキャラが全てで
むしろそういう考察を野暮だのロマンがないだのと冷笑さえする
エンタメという宗教の中に閉じ籠った信者なんだよ
創作の舞台になったところへ行くことを「聖地巡礼」と形容するがあれと同じメンタリティ
そのメンタリティで実証的に考察してる場にしゃしゃり出てくるから滑稽なんだけど
信者は信者同士で馴れ合ってりゃいいのにどっちが野暮だと思うけどな 三成も哀れなところはあるよ。朝鮮出兵とかまさにそれじゃん。秀吉のイカれた計画と現実の折衝役だもの。これで秀吉の命令に殉じていたら多分出征組は日本に帰れなかったろうしなぁ。 国書偽造とかでなくて、現地の意見をもとに秀吉に諌言出来てたら良かったけどね。なかなか難しかったとは思うが。 真面目な事言うと、歴史上には「どうしてこなた」という出来事はよくある訳で。
漢の高祖とか、元々は田舎町のやくざの親分でしかないからね。
この人には天運が付いてるとか、豪運ってカリスマが一度ついちゃうと意外と勢いでいっちゃう事が。
実の所、関ヶ原で西軍勝利で化け狸あえなく敗死って結果が出たら三成って物凄いカリスマが
つく気がするよなあ。
野戦の名人を逆に野戦で討ち取ったという名声は凄い物だと思うぞ
そして関ヶ原って狭い山狭だから前衛が崩れたら東軍の本隊も普通に巻き込まれるだろ。 えーとそれはまさか三成隊が
立ちはだかる軍勢を全て蹴散らし
数倍の徳川本隊に突貫し打ち破り
家康の首級を上げるって想定かい?
確かに関ヶ原配置後はそのくらい
物理的無理起きなきゃ勝てそうにないし
そうなりゃカリスマにもなれようもんだが >>710
名護屋博物館に三成たち三軍目付が
「唐入りは不可能、朝鮮を治めないと無理。諸大名に軍役を拒否するよう話してくれ。あとこの書状を秀吉が機嫌の良い時に渡してくれ」
って本土に送った書状が残ってる。秀吉は部下からの諫言とか聞かなくなってた。国書偽造は彼らに出来る最大限の奉公だった。だってさもなくば絶対勝てない戦争に日本人を投入することになったんだぜ。こっちの方が悪だろうさ。 >>713
前に>>133でも言ったけど軍役拒否するよう話をしてくれってのはあんたの拡大解釈だ
書中には兵粮の欠乏や繋ぎの城に入れる兵がいないなど現地の窮状や、先ずは獲得した領地の所務を申し付けて
安定させるべきことなどが述べられてるが、軍役拒否してくれとそこまではっきりとした要求は書いてない 中野等が訳してたけど
「謹んで辞退すべくおのおの相談し、諒解を得るべきです」
って書いてたか。過激だな。 「拒否しろ」でなく「辞退したいと
相談して受け入れてもらえ」
どっちもどっちのヤバさだなw
「このプロジェクトの進捗は不可能だけど
俺から上司に正直に報告して
計画変更するのは無理
皆んなから無理だから勘弁して
って言って欲しい」
うんまあ普通に色んな意味であかんヤツだし
そりゃ嫌われる 日頃君側で権勢を振るってる(ように見られている)やつが
こういう時に保身に走ったら反感を受けるのも致し方ない
やはり側近は代替わりのタイミングで身を引くのがいいんだろうな 戦場働きしか評価できない武断派みたいな脳筋には確かに三成の功績とかは全く理解出来ないだろうなあ
仕事したことも一切なさそう 三成の歴史的な功績は何と言ってもあのタイミングで毛利上杉宇喜多といった大大名を道連れに挙兵し
見事に敗れ徳川家に封建大名史上最高の石高をプレゼントし
江戸幕府を武家政権史上最も磐石安定した政権にさせたことだろう
それまでの鎌倉室町では中央政権の勢力は諸侯に比して貧弱なのが当然だったのが
三成のお陰で圧倒的な支配力を得た >>718
三成も福島らも秀吉という頭がいて機能する駒にすぎない
秀吉がいなくなった時点でこいつらは終わってた >>718
三成に対する好悪はともかく、あいつの内政官というか、行政処理能力を疑う奴いないだろ
三成(というより奉行)の最大の問題点は、秀吉死後に毛利・宇喜多と組んで
豊臣政権崩壊を誘発する大乱を起こしてしまったという事実だろう
勿論それまでの功績を認めないとまではいわんが、この失態はあまりに大きすぎる
実際豊臣家側にも思うところあったんじゃないかな、豊臣と徳川の関係が悪化してからも
豊臣家って別に石田とかの名誉回復とかした様子がないし
むしろ石田を顕彰する動きが出たのって江戸時代になってからだろう、光圀とか典型例だけど
過剰に乏しめるような逸話も江戸時代になってから出てきてるようだが 文禄の役ってトップが無茶苦茶な目標掲げて部下が粉飾してましたって事案だから中間管理職たる三成にはどうしようも無いだろ。しかも戦争でこれじゃさぁ… 【調査】愛知ナンバー2の都市はどこ?「家康出身の岡崎市」「世界のトヨタの豊田市」「新幹線が止まる豊橋市」三つ巴の争い結果発表
一宮だろ >>712
有名な、小早川の裏切りの場面想定してるんだが?
幾ら事前工作してても、あの陣形の状況で戦闘してるんだぞ。
気が変わったとか、先鋒隊が勝手に動いたとか有るでしょ
偽装退却のはずが混乱が止まらず潰走したなんて戦いとかも歴史上にはありますし
淝水の戦いとかね 時代劇で秀吉は名古屋弁で喋らされるけど信長は標準語という不思議
三成は近江出身だから関西弁だろうね >>726
その場合武功は別に三成1人のものにはならん
三成は別に全軍を指揮してた訳ではないし
予定通り参戦して勝負を決めたのは金吾殿となる 小早川が裏切っているという噂は耳にしていたけど確証は無かったらしい(増田長盛宛書状によると)
まぁ家康が上手いのよ。自身の到着と秀秋の松尾山占拠をタイムライン合わせてやって西軍を動揺させた。松尾山攻撃に南宮山の毛利軍動かせるなら良かったけど三成に指揮権無いし >>721
三成の内政官とか行政処理能力が有能というのは
なんとなくのイメージで語られているだけで
根拠のある具体的な説明は歴史学者でも無理だろ 実際それて佐和山19万石貰ってるから結果論的には有能だったんだろう。 >>731
島津家中の検地とか朝鮮半島からの撤兵とかは
伝説なの? 秀吉の期待に応え続けてるというだけで有能
第三者から見てどうかというのは秀吉が生きてる間は関係ない >>728
まあ、戦争は究極のドタバタなんで家康が勝つべくして勝ったというのは疑問だと思うんよ。
幾ら事前工作をしたとしても、戦場では群衆心理が働くので一度混乱が起きればどうなるかは
正直分からないし。
淝水の戦いの場合、先鋒隊の一部が偽装退却して敵に先に渡河させる作戦だったみたいですが混乱が収まらず
結局全軍潰走まで行ってしまった。
作戦上の退却ですら不運が重なればこうなるんです。内応工作してた相手が裏切らない程度の
事は普通に起こりえるでしょ。
そして関ヶ原は狭い隘路ですから、先鋒隊が潰走したら幾ら家康でも手の打ちようがないと
思うんだよね >>733
朝鮮の撤廃は島津と立花が必死に戦っただけで三成は関係ないでしょ
強いて言うなら加藤に茶会に招待してやるとか言って喧嘩沙汰になったのが三成の功績か >>735
史実では福島勢は宇喜多勢に押し戻されてるけど
それで総崩れとはいってない
背後に新手がいたからだ
石田勢についても条件は同じで
それがなぜか石田個人のカリスマになるような
勝ち方ができるとしたらそれはやはり
かなり極端な奇跡的なことが起きないと無理だな 「三成率いる西軍」みたいな決まり文句で
あたかも関ヶ原で起こることはすべて
三成の働きかけで三成の手柄
みたいに思っちゃいがちだよね
ただ実際には三成は総大将でもなく
奉行の中での序列も高くなく
何より直前まで失職中
西軍の寄り合い世帯の中で
かなり積極的に動いてたのは確かだが
西軍の勝利が三成の勝利と理解されるか
といえばかなり微妙な立場だ 松尾山を東軍に占拠されたのでこれを排除しにいったら背中からも東軍っていう最悪のシチュエーションだから西軍に勝ち目は無かった。 なんか調べれば調べるほど
政治的にも軍事的にも詰んでてみっちゃん(´・ω・)カワイソス >>739
というか三成アホだろ
松尾山が裏切ったから、間近にいた東軍そっちのけで小早川を先に討とうとしたとか
この場合、もう大垣に留まっても勝算全くないから、追撃や側面攻撃覚悟で一気に西へ突破し、佐和山か瀬田あたりで体制を立て直すしかないだろ
戦場を全然経験してないから、こういう馬鹿な判断しかできなかったのか? >>741
南宮山の味方と大垣城で東軍本隊は足止めできるはずだったんだよ
南宮山の毛利勢が寝返ったから足止め不可になって逆に挟み撃ちにされた >>742
???
南宮山と大垣城の位置や距離を考えると挟み撃ちなんて不可能だろ
東軍は実際に大垣城の東側から動いてないし
というか西軍は岐阜城を失った後は何してたんだ
この場合は、長良川と揖斐川を2本の盾にして大垣城を本営にして徹底防備するしかないはずだが >>743
南宮山が機能してれば垂井から関ヶ原は一本道だから妨害は十分可能
伊勢街道も妨害できたんじゃないか
もっともそれ以前に南宮山と連絡をとらずに三成たちは進軍した可能性もあるけど
玉城説もあるからここの部分も不明な点は多いよな >>276
研究者挙げるまでもないことだな
会津征伐のことを「関東陣」とか「関東出陣」と言うぞ
(慶長5年)6月14日付安国寺恵瓊宛毛利輝元書状
「今度関東御下事、御大儀御辛労中々不及言悟候」
(慶長5年)7月18日付明行坊・経聞坊宛稲葉通孝書状
「仍関東陣沙汰も相延候由ニて、道より令帰宅候」
(慶長5年)8月3日付東条行長宛細川幽斎書状
「此度越中関東出陣之段、内府世間為御後見候欤」 >>741
増田長盛宛書状を信じる限りは西軍は補給を佐和山から頼りっきりだからここで松尾山を取られると最悪西軍は戦わずして戦闘不能。だから速攻で取り戻さないとマズい。
ただ南宮山の毛利からすりゃ既に東軍先手衆が動いてる中、有利な山を降りて徳川軍と戦闘しても勝てる訳ない。あと吉川広家曰くこの行動が南宮山に相談無しだったせいで南宮山はこれが松尾山を攻撃しにいったのか佐和山に逃げたのかわからなかったらしい。 南宮山からは関ヶ原が見えないから毛利軍には三成たちが佐和山に逃げたのか松尾山を攻撃しに行ったのかわからんかったって事だろ。仮に三成達が逃げ出したんなら山から降りて東軍にぶつかるのは自殺行為でしかない。松尾山を取りに行ったと知ってから下山するんじゃ遅過ぎる。 > 彼らはよく、社会に貢献したいと口にする。
> なんでも社会悪のネトウヨを自殺に追い込むことが、社会に貢献することなんだそうで。
> イジメや嫌がらせで社会に貢献できる教師や警官になるために、あえて帰化したんであって、祖国同胞を裏切ったわけではなく、心は●●人なんだそうだ。
>
> 昔は帰化すると裏切り者と呼ばれたりしたが、祖国に国籍を残したまま帰化する方法が確立された現在では、社会に貢献するためにむしろ帰化することが推奨されている。
> 拳銃所持で前科のある生粋の反日家ですら、今では普通に帰化している。
>
> ●●学会などはネトウヨ認定した日本人を盗撮して、痴漢の写真だと言ってばらまいている。
> それらの写真は、集団ストーカーに使用される。
> 彼らは集団ストーカーを、[地域で子供を守る安心安全パトロール]と称している。 >>748
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/40/0002?m=all&s=0002
一戦可仕に相極候処、九月十三日内府様赤坂御着之刻、冶少刑少大垣南宮を捨候て山中へ引取候時は、前日之儀定相違候而、佐和山へ可被打入催露顕候、然は拵之儀連ゝ申上も此時候間、黒甲州へ可申試之通
吉川広家は石田、大谷は山中に退いたことを知っており、さらに前日の取り決めと違って佐和山に引っ込むに違いないと認識していた
松尾山を攻めるって、なに?
見えないから分からないってなに?
この動きを見て裏切ってるんですけど
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0068?m=all&s=0067&n=20
内府着に付、至青野原悉先陣衆は打出、最前之陣所へは内府被入移候、然処に筑中御逆意はや色立仕合に候、就夫大垣衆も如山中、大刑少陣無心元よし候て被引取候、是は佐和山へ二重引可仕覚悟と相見候
これも広家の認識
別に勝手な和談のように伏せていた情報じゃないんだから南宮山全体で動きは把握していたことは間違いない
さも史料に書いてあるかのように誤読ばらまくのやめてくれる? 三成が増田長盛に宛てた書状だと大垣方面軍の兵糧は刈田じゃなくて近江から運ぶことにしたらしいが、美濃赤坂から垂井まで取られていて更に松尾山まで取られたとして兵糧を運び込むルートって残ってるんか? >>751
輸送ルートがなくなりいよいよとなれば刈田して確保するだろ
三成も「爰元苅田候へ者、兵粮ハ何程も有之事ニ候へとも」
と刈田すれば兵粮はいくらでもあると言ってるし、払底すれば敵が怖いとかそんなこと言ってられん >>751
え!
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/37/0005?m=all&s=0004&n=20
これの後ろから二番目読んでみな
刈田すればいいのにびびってしない
仕方ないから近江から兵糧出すけど「近比(ちかごろ)味方中ちちみたる体に候事」なんて愚痴ってる
大事なとこは「爰元苅田候へは、兵粮は何程も有之事に候へとも」な
刈田という略奪行為なんだが、もしかして地名だと思っちゃったの?
どんだけ読めないの? いや、冷静になって考えるとこっちが間違ってるな
失礼しました 苅田しようとしたけど、長束と恵瓊が同意しなかったんじゃなかったか? 家康に過ぎたるもの二つあり、唐の頭に本多平八
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城 そもそもどこで苅田するの?
大垣城周辺は元々西軍大名領だしちょっと遠くにお出掛けしても東軍に返り討ちに遭いそう 黒田、政宗「三ちゃん西軍の総兵力を1日で溶かすってマ?三成を信じたのが、、、ないわー亅 土佐は勤皇になれなかった
関ヶ原で直接徳川と戦った島津や、領土を大幅に減らされた毛利と違って
山内は徳川から土佐一国という大恩を与えられた立場だったから
明治に薩長が幅を利かせたのも仕方なし 石田三成 津軽杉山家
真田信繁 仙台真田
長宗我部 土佐の下級藩士
北条 狭山藩
今川・大友・福島 旗本
敗北した家もなんだかんだ生き残ってるんだよな
完全に滅亡したの武田くらい? 豊臣姓は普通に木下家で存続してる
江戸時代を生き抜いて幕末まで残ったし、幕府側でも豊臣姓使用に特に何も言ってない >>761
武田家も家康五男信吉が継いだが嗣子なく断絶ですな
継ぐべきひとがいないのではどうしようもない 甲斐武田家
武田晴信(信玄)の次男信親(竜芳)の家系が江戸時代高家に
五男盛信の家系が江戸時代旗本として存在
あと七男信清が面白い事に宿敵越後上杉家の元へ逃れ
(上杉景勝の正室が信清の異母姉の菊姫)
そのまま上杉家家臣として存続
他にも信玄の弟の川窪信実の家系も江戸時代旗本に
どうみても滅亡に程遠い >>760
別に島津は直接徳川と戦ったりなどしていないぞ
三成と喧嘩別れして撤退しただけ 石田三成の挙兵は間違ってない
私婚とかやりたい放題していた野心満々の家康に乗っ取られるんだからその前にやろうとしただけ
ただ時期が余りに悪すぎた
なぜもう少し我慢しなかったのか 少し前まで秀吉がやりたい放題していたのに比べれば、家康の行為などたいしたことない
三成は自分のクビが危うくなった途端に忠臣面して誤魔化しているだけ
誰よりも政権中枢にいながら豊臣関白の命を守ろうともしなかった人間が
クビが危うくなったので豊臣を守るとか調子のいい態度を取っているのだから
東軍大名たちが激怒して三成を処刑しに行くのも当然だろう >>771
豊臣政権を家康が仕切っても何も問題ないし悪でもないじゃん >>757
多分恵瓊たちもそう考えたんだろうな。それに苅田で兵糧確保するとして何日分賄えたんだろうか 兵糧を近江からの輸送で賄おうとしてたんなら松尾山取られた時点で詰みだし即座に松尾山取りに行くのは当然か >>775
すぐに追撃されるのは目に見えている
それならもう大垣は諦めて追撃覚悟で正面突破して佐和山か瀬田あたりまで逃げるしかない >>776
大津の京極がすでに東軍だから撤退するのも大変だぞ
陥落したのは関ヶ原合戦当日だからその時点だとまだ落城してないし
これ以上の撤退したら美濃方面の西軍は士気崩壊しちゃうんじゃないか
撤退前に大津城が落城していたとしても、タイミング的に大津が足止めの拠点として
使えないという事でもあるし 一番問題なのやっぱ毛利軍じゃないか?大垣城の三成たちは最悪城に放火して逃げりゃいいけど南宮山に陣取ってしまった連中はどうするのっていう…しかもここに総大将の長束正家と安国寺がいるわけで戦線縮小に同意してくれるかどうか というかその時点でジリ貧どころか
すでに尻に火がついてる
まだまだいけるつもりの連中がおかしいだけで
ケツまくって生き残り模索してるのが正常 >>778
大垣城には火をかけただろ
吉川広家書状で確か「大垣城の外郭部分を破却した」
とかあったはず でも大垣城本体には手を掛けて無かったんじゃないか?おそらく吉継は大垣城攻めに使われそうなところだけは破壊したんじゃないかと。大垣城を取られても良いなら一部の破却なんて無駄な労力だし、取られたくないなら本丸を焼くしか。
…そんな力も無かったのかな >>780
吉川書状じゃなく石川康通・彦坂元正連署状だな
「治部少輔・嶋津兵庫頭・小西・備前中納言、十四日之夜五つ時分に大垣外曲輪を焼払、関ヶ原へ一所に打寄申候つる」 秀吉が築いた伏見城を攻撃したことからしてどーなのよ? >>782
あの書状信用できるの?
確か島津忠恒が関ヶ原に出陣して戦死したとか
言ってたやつでしょ? >>783
当時の伏見城は徳川軍の拠点でもあった。だからこれを豊臣軍が攻めても論理的破綻は無いと見たんだろう。無茶苦茶だけどそれでも攻めない訳にはいかんかった。 >>784
忠恒の部分は単なる誤記でしょ
その他の内容についてはこの書状に対して疑義を呈してる研究者もいないし、
使用されてる文言も特に怪しいところは見受けられない 大日本史料読むと14日夜には井伊に大垣方の一部から「ないおうしまーす」って書状を送ってるな
16日に井伊も返信して、「あんたそこにいたの知らなかったー、けがしちゃったんで略例でテヘペロ」と書いてる
で、相楽らがいくつか城のなかで首を挙げて帰参してるね 16日の井伊の書状だと秋月種長と高橋元種へ書状を送ってるけど未だ返事がないんで相良へ頼むと言ってるな
で、17日の水野勝成書状では熊谷・垣見・木村の3つの首を確かに受け取ったと相良に返信してる 大垣城に兵隊残してるし松尾山を奪還したらすぐ戻るつもりだったのか、松尾山を東軍の想定より早く落として関ヶ原で連戦する気だったのか。曲輪を破却したのはそこを東軍に使われたくないから。ただやはり見込みが甘い。 仮に三成が作戦考え着いてもまず正家・恵瓊に相談しないとダメなのが割と 岐阜城陥落の前に起こっていた事
・黒田如水が毛利輝元にゴマ擦り
・加藤清正が家康による上杉討伐を不審がり方々に問い合わせ
・伊達政宗が佐竹本家と支族に使者を送り関係強化
・上杉を攻める筈だった南部が帰国「上様(秀頼?)中納言(景勝?)を粗略にしない」誓いを最上義光に立てる
・佐竹義宣が上杉景勝へ江府(江戸)を攻めるには政宗の同陣が必要と
・堀秀治が西軍に誼を通じたという書状が三成から届いたので一揆を中止すると景勝書状
家康弾劾状~岐阜城陥落までの家康はかなり危険な状況
東軍&西軍寄りだった各大名が次々に西軍にも尻尾を振り始めている
もし関ヶ原で家康敗北!なんて報が広まったら家康弾劾状の比ではない
黒田・堀・南部・伊達らは家康から一気に離れ上杉佐竹も全力で南下を開始する
まぁ関ヶ原本戦で勝つのは(実は家康本陣に人質を差し出してなかった)吉川広家が家康を攻めない限りほぼ不可能なので
やはり岐阜城陥落が運命の分かれ道だった 秀忠も島津も上杉主従は前倒しで上洛すると言っていると家臣団や国許に報告
上杉家中でも秋から夏に上洛を早めるよう指示しているので本当だったんだろう
奉行衆は家康弾劾状で上杉を擁護しつつ言い分を聞かなかった家康を批難
家康の罪状の一つとして挙げている
なので全国的にこの討伐は変だなという空気が有った >>791
岐阜城陥落、大津城寝返りで状況一変してる
関ヶ原で勝てばというけどその時点で
奇跡起きないとまず無理 >>791
如水のごますりって8月1日付吉川広家宛書状で輝元が大坂城に移られめでたいって言ってるやつか?
あれは長政の人質を吉川に預かってもらうため社交辞令で言ってるようにも取れる
書中の後半では内府の上洛は必定なので、その時は吉川の肝煎りで輝元が無事済むよう力添えしてくれと言ってるし 家康の野望の有無はさておいて
豊臣政権の立場で考えても100万石以上の大大名がゴロゴロいるのは危険だったのは確かだからなあ
何だかんだで秀吉の天下って持続可能性では本当に厳しかったと思う 西軍の正当性では東軍の岐阜城攻めを止められなかったからな。石田三成が言う通りに兵を美濃に集めてたらまだ良かったろうが。まさか毛利輝元の戦略決定能力が奉行以下とは。 伏見城落城に半月もかけて8月1日までかかってる時点で終わってる
あれがもし信長なら神速のように美濃尾張まで進出しただろうに
どんなにかかっても8月初めまでにせめて木曽川まで行けるくらいのつもりで攻勢かけないと
いけないのに、最初から終わってる 秀吉の土地に対する考えが、一所懸命な従来の武士と違うような。大所領を与えるけど一代限りの能力給、本人死んだら相続させずにほとんど召し上げみたいな感じじゃない。 >>798
徳川や前田にそれが通用するかなあ
島津や上杉だってそんなの受け入れないと思うよ >>797
徳川軍がはちゃめちゃに強かったのが運の尽き そもそも一次史料から見る限り、関ヶ原(というか山中)の戦いは、三成が正面に東軍がいるのに
大垣城に抑えを残したら大丈夫とばかりに松尾山に向かったのが敗因でしょ
秀秋が裏切ったのが分かった時点でもう東山道は抑えられてると考えてもいいから、伊勢方面に逃げて
伊勢大和の残兵を集めて立て直しを図るか、近江に残ってる西軍と連携して東軍をたたくかとか考えれなかったのか
よりによって正面に大敵がいるのに後ろにいる裏切者を第一にたたこうとかどうかしてる >>798
なお、秀頼だけは例外にしてくれと縋りついた模様(秀次にも適用して排除した癖に)
>>801
佐和山が落ちたら、本人がいくら意気軒高でも家臣や兵士の士気が崩壊するだろ
伊勢に逃げても佐和山に移動しても正直どん詰まりだし
大体大津がその時点だとまだ陥落してないから南近江はもう西軍視点危険地帯だぞ 家康の直轄隊はだれが軍事的な指揮を取っていたのか?
井伊や本多は自分の家臣を統率していた そこら辺が家康の戦略がキレ。赤坂に徳川家康、垂井に東軍衆、松尾山に小早川秀秋と大垣城を完全に詰ませてる。
これに西軍は対応出来んかった。 佐和山じゃなくて大垣が落ちたら明確に終わり
大垣延命のための小早川攻め そもそも西軍の指揮をとってるのが長束正家、石田三成、恵瓊とか全員文治で生きてきた
奴ばかり
なぜ島津義弘とかの意見を聴かなかったのか >>807
形式上豊臣恩為を掲げて挙兵したんだから、当然でしょう
奉行どころか大老でもなく、子飼いですらない豊臣とは縁もゆかりもないただの外様だよ?
発言力低いのは当然、言い方悪いが部外者がでかい口叩くなで終わりだよ
特に奉行視点だと、奉行中心による合議に外様が口出しをすることを認めるような
言質を取らせてしまうのは、後々を考えると非常に不味いでしょう いわゆる五大老の宇喜多秀家とか
輝元の名代の毛利秀元あたりが空気なのはなんでなの? 結局お題目はどうあれ本質的には
奉行の好き勝手できる政権を目指しての
クーデターだものね
そりゃ成功しないわな 意見聞こうにも島津は小国過ぎる。トップだけで作戦決定せにゃならんかったんだろう。 >>810
そもそも豊臣五奉行連中の中でも消極的な態度取る奴が居る時点で無理だわ >>809
秀家の場合、表向きには宇喜多騒動で戦闘力=発言権を維持できなかった。秀元の場合、そもそも輝元の意思が重要なので家臣に過ぎない秀元が目立つ場面が無かった。
でおそらく裏の理由としては西軍の総大将である毛利輝元が意図的に自分のライバルになりそうな宇喜多の発言権を押さえてたんじゃないか。また秀元は広家もろとも徳川派と見做されて発言権が無かったらしい(三成・広家・秀元は美濃への注力を提案したけど拒否られたらしいし) >>811
島津義弘は当主ですらないし
そもそも勝手に自分の手勢を呼び寄せて参戦してるだけだからな 指揮系統としてどうしても格を重視しない訳にはいかないからね。そうしたところを無視して参謀を任命するのは三成じゃなくて輝元の領分なわけで 二次史料(軍記類)では西軍圧倒的有利だけど
一次史料では全く逆すぎて草すぎる
伏見城の攻略に手間取る
岐阜城の救援失敗
無意味な安濃津攻め
西軍ってやる気あったのかな? 今年の大河は家康を都度選択を迫られる迷いと悩み多い主人公としてるが
関ヶ原から大坂の陣に至る過程は近年の研究を元にすれば十分その人物像で描けそう
それとも去年の義時のようにクラスチェンジさせんのかな >>818
余りに一次史料を参考にしたら石田が悪になる
関が原はどうやっても石田=正義、家康=野心家で悪
の構図だから、それでいかないと視聴率がとれない 逆に流石にそれはもう食傷なんで
少しは史実に即していいと思うのよね
個人的には野心的な三成像も魅力的なのだが
絶対受け入れられんて怒る人もいるだろし
簒奪を疑われてって線に落ち着くだろな >>506
よく関ヶ原を東軍(徳川)VS西軍(豊臣)と勘違いしてる人いるけど
大坂の陣と違ってあくまで豊臣政権内での戦いに過ぎないからな
徳川が完全に自立するのは家康が将軍職を秀忠に譲って大御所になってからの話 岐阜城が落とされた時点で西軍は何してたんだろ
大垣城がもう最後の防御線だから、揖斐川と長良川を徹底的に固めて、大垣城を本営にして
長期戦に持ち込むしかないのに、赤坂まですぐに進出されてるし 秀吉の家康への突出した優遇とそのことへの反発としての三成ら奉行と毛利の私的盟約や
十人衆誓詞のゴリ押し、毛利の秀元所領問題などをしっかり描けば奉行や毛利といった西軍側の事情もわかって
単純な善悪構図にならないと思うんだけどね→つまりは秀吉がもともと全ての元凶
ただかなりの解説が必要になりそうだからわかりやすくはならないだろうな
関ヶ原を観光資源にしてる向きからはあまりよく思われないかもだし まず西軍は東軍が西進してくる可能性を軽視してた。だから美濃方面軍(司令・石田三成)からの度重なる援軍要請を無視していた。そこに徳川家康は東軍先手衆を突っ込ませたから戦線が崩壊して赤坂から垂井まで取られてる。
それで西軍としてはまずこの状況自体が想定外だから兵隊集めからしないといけなくて戦争計画なんて立てられなかったんだろう。まぁ垂井まで制圧されてるから大垣は捨てて退却するべきだったのかもしれないけど。 どっちかって言うと東軍先鋒(会津征伐軍)が
徳川方についた時点でかなり無理
その時点で戦力比的には劣勢だし
北陸と東海の二正面作戦になっちゃう >>817
やる気満々な毛利石田上杉以外は烏合の衆だし、他はやる気無いでしょ。知行数千石以下の西軍に与した武将連中がその後実質加増みたいな扱い受けてる奴も多いしな。
実情は毛利や石田に忖度して渋々出陣したのが大半なのでは。 西軍の小勢力は会津行き途中で拉致られたり、領地を西軍に囲まれて仕方なくってやつらが多いから >>817
もともと劣勢で成功率も低そうな西軍決起の割には善戦したほうじゃないの
伏見城攻めは政治的意味合いが大きいし速やかに落城させる意味があった
家康が捨石にした説は創作等の話だし被害大きくとも仕方がなかった
岐阜城の支援失敗は最大のミスやろね
善悪抜きでここ落とされると希望が無い
東海道からくる東軍は軽視してたとしか思えんし織田との連携も悪かった
普通の読みなら中山道から主力等は来そうなものやしね
伊勢方面は中長期的にみれば攻める必要があるから攻める事自体は何とも言えない
東軍の侵攻スピードを測りそこねてる時点でもう完全不利な形勢になってる >>817
もともと劣勢で成功率も低そうな西軍決起の割には善戦したほうじゃないの
伏見城攻めは政治的意味合いが大きいし速やかに落城させる意味があった
家康が捨石にした説は創作等の話だし被害大きくとも仕方がなかった
岐阜城の支援失敗は最大のミスやろね
善悪抜きでここ落とされると希望が無い
東海道からくる東軍は軽視してたとしか思えんし織田との連携も悪かった
普通の読みなら中山道から主力等は来そうなものやしね
伊勢方面は中長期的にみれば攻める必要があるから攻める事自体は何とも言えない
東軍の侵攻スピードを測りそこねてる時点でもう完全不利な形勢になってる Wi-Fiだろね
関ヶ原で一大決戦があった
というのがそもそも多分に後世の創作
布陣した軍勢こそ多いし
全国規模の動乱だったが
関ヶ原で積極的に交戦した西軍は
石田小西宇喜多ら一部でしかない >>830
IDが違うなら違う人じゃないの
なぜ同一人物だと思うの? 毛利が大阪城に入る頃
美濃勢 石田 長束 大谷あたりでなんとか清州を落とせないか >>832
いわゆる『決戦』像の現れてくるのはどのあたりなんだろうな >>834
流石にそれはゲーム的発想だろ…
例えそこまで毛利が統制取れる程に有能なら前田家も西軍だろうし上杉討伐軍は瓦解してそうだし家康は江戸で剃髪して蟄居謹慎してると思うわ 岐阜城か落ちたのも石田三成の責任とは言えん。どちらかと言うと輝元ら首脳部に問題がある。
織田秀信と合わせて二万ちょいくらいしかいないのに敵は五万以上で突っ込んできた訳で軍才で何とかなる領域を超えつつある。しかも犬山城・竹ヶ鼻城裏切りと揃えばどこをどうしたって勝てん。垂井まで取られたのは取られ過ぎとは思うけど。 籠城戦をやるために野戦築城した陣地を小早川に乗っ取られたんだよ ダメなとこばっかりじゃん!
誰かみっちゃんのいいところも言ってあげて! >>834
石田と福島が仲が悪かったっていうのが後世の捏造臭い
石田は福島はこっち側につくと見込んでたみたいだし >>821
というより今では徳川公儀(東軍)vs毛利公儀(西軍)の戦いって認識が生まれてる。豊臣は西軍に与した扱い。つまり豊臣公儀はこの時既に破壊されていて勝った方が天下人になる。そしてその次の天下人を徳川に求めた東軍と毛利に求めた西軍の争い。というのも東軍も西軍も豊臣の意思とか無関係に戦してるからね。あえて言えば西軍は秀頼の名で土地の収奪してるんだが。 家康は関ヶ原時点で豊臣公儀じゃ無い。白峰氏や髙橋氏が指摘するように七月十七日の内府違いの条々によって家康は豊臣公儀から放逐された。家康はこの争乱で自分が公儀だと主張した事が無いと言うから家康も自覚してたんだろう。対する輝元は大坂城を守護する立場として豊臣公儀として振る舞えた。とは言え豊臣は実質輝元の統制下にあり既に毛利公儀となっていた。豊臣は輝元有利な処断を連発するがこれと大坂城に数万の軍勢で居座っている事が無関係な筈が無いからね。 西軍の考えていることは後鳥羽や後醍醐と同じだからね
自分が正統な公儀であり、関東にいる嫌いな義時や尊氏や家康を糾弾すれば
全員が自分の正当性を認めて従ってくれると思い上がっていた
後鳥羽や後醍醐は身分によって勘違いするのも理解できるが
三成や輝元は天皇でもないのに何を思い上がっていたのか理解に苦しむ 公儀もクソも初めから豊臣家の内紛だろ
こんな事にまで公儀性を求めるのおかしいしこじつけも甚だしい >>845
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/13/0086?m=all&s=0086&n=20
最上義光に宛てた7月23日の家康書状
「大坂之儀は仕置等手堅申付、此方と一所に付、三奉行之書状為披見遣之候」
三奉行連署のちかひが出されたとはいえ、家康はこんな認識なんですよね
短いから全文読んでほしいが、石田、大谷の「才覚」(現代語と意味違うので注意)としか認識していないし、だから軍事行動はちょっと待ってねと
そりゃ家康と三奉行は裏でつながってたわけだし
これの案文にある榊原書状だと「御袋様」(淀だな)や前田も家康に上洛せいと言っているとある
あんたの公儀の定義は知らないが、家康は軍事指揮権を行使し、大坂の仕置きも担うと宣言している >>835
何を持って決戦像というかによるけど
今通説とされてるものは昭和かと
ただそれでも西軍で戦ったのは一部と
いうのは一貫しているし
「天下分け目の関ヶ原」で近世大名たちは
「徳川に奉公した」という感覚は
江戸時代通じてあったとは思う そりゃ豊臣公儀の奉行が連署した書類が豊臣と無関係って方がおかしい。仮にこれが豊臣の意思に反するなら謀反ってことになる。秀頼からの討伐命令は避けられないし逆言すれば討伐命令が無いと言う事は豊臣公儀の意思とみるしかないわな。 >>851
毛利輝元から復帰を許されてたんじゃないの?
「関ヶ原の合戦はなかった」とか書いてた著者が確かそんなこと言ってたよ
長束や増田、恵瓊より下位に置かれる立場だけど奉行には復帰したと >>847
8月23日か24日か忘れたけど、確か榊原康政が遠藤義隆に宛てた書状で
毛利輝元が「天下之仕置」をしているって書いている書状がなかった?
つまり徳川四天王ですら毛利輝元を政権主宰者として認めていたことにならない? >>841
もしそうなら三成はとんだ糞バカでしょ
味方になるというなら積極的に工作しないと
しかし三成が正則に調略していた形跡はほとんどない
家康が秀秋を寝返らせるために積極的に工作を続けていたのと雲泥の違いすぎる >>853
皮肉じゃね
東軍が一丸となって西上してるのを榊原は知ってる
それなのに輝元が天下の仕置をしてるつもりでいるとね >>853
前スレにも書いたがそれは8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状だな
当該書状に「この度別心の衆は始終天下の仕置をすることができるだろうか」という記述がある
白峰氏はこれを根拠に榊原康政は西軍が天下の仕置をしていることを認め、
家康がこの時点で公儀から排除されていたことを自ら認めていたことにもなると言ってる
ただ表現としては「天下の仕置きをしている」ではなく「できるだろうか」という反問に近い表現になってるので認めてたとは思えんが 政治家としても戦国武将としても輝元三成は家康の何枚も下なのは間違いない
関ヶ原は戦そのものより場外戦が大事だったということが最近の研究でよく分かる >>858
輝元と三成が家康より能力とか指導力が上です、と言っても誰も認めんだろう
むしろ大笑いされるだけかと そもそも三成や輝元って頭おかしい
「内府ちかひの条々」だけど、「家康が秀頼を見捨てた」って条
家康が大坂から会津に出陣しただけでなぜ「見捨てた」ってことになるわけ?
あの条々時々意味不明な条文があってよくわからん >>860
この真田宛て長束書状が一番本心に近いかもしれん
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/18/0060?m=all&s=0059&n=20
会津征伐やめてって家康に言ったのに無視して行っちゃった
「如此一人宛(ずつ)被討果候ては秀頼様可被取立儀にあらず候に付而」、おのおので相談して西の丸を襲った、とある
秀頼云々というより前段への恐れが強かったのかもねえ すげー穿った見方をすると島津義弘がわざと三成輝元を焚き付けて関ヶ原にしたって線は無いのかな
東軍が勝てば親類が勝手にやった俺関係ねーわで突っぱねられる理由があるし一々チャチャ入れてくる豊臣連中を始末してくれる。西軍が勝てば加増でゴネれる。どっちに転んでくれても自分は美味しい展開。 >>861
本音と建前で秀頼はあくまで建前だろうな
輝元も同内容の書状を送ってるが、家康の対抗勢力が一人また一人と
減っていくことに対する危機感が頂点に達した末の行動ってことだろうね
7月27日付青木一矩宛毛利輝元書状
「殊更奉行・年寄一人宛被相果候てハ、
秀頼様争可被取立候哉」 >>862
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/1602/0463?m=all&s=0448&n=20
ここら辺の義弘書状いくつか読んで判断されたらいかがですか
愚痴ばっかだよ 義弘寡兵というけど、一次史料見る限りは島津軍は3000はいたらしいな
3000ならそこそこじゃね?
庄内の乱のすぐあとなんだから島津全軍の出動なんてまず無理だし そもそも西軍は御家騒動やりすぎだろ大事な戦いの前に
毛利は秀元処遇と隆景の遺領問題
宇喜多は家中騒動
島津は庄内の乱
上杉は藤田出奔に年貢略奪
佐竹は父子で対立
何やってんだこいつら >>866
だから島津兵は隊列をなして行軍して来たのではなくばらばらと集まった
当主義久が兵を送らなかったから >>864
清正が松井に送った書状に「大友が秀頼様から城を与えられて攻め上ってる」みたいのもあるが、そういう注進があったってだけだし、秀頼の影がかなり薄い
家康は家康で秀頼のことにはてんで触れず、勝手に知行宛がいしてたりするし
不思議な戦 >>850
実際謀反として討たれたし
秀頼からもその恩賞出てますよ
徳川と対立した大阪の陣の頃も
別に石田らが顕彰されたりしてない >>856
白峰先生は色々史料紹介してくれるのはいいけど
その扱いはどうにもうろんだよな
紛争当事者の一方である西軍の主張をもって
他方の徳川は正当性を失ったと結論付けるのも謎
そりゃ西軍を支持する者は当然その主張を支持するし
西軍と連絡する者はあえて真っ向から
否定したりせんのは当たり前なのだが
400年後の、歴史として語る立場の人が
一方の主張を元に結論付けるのは何がしたいのかね
せめてその主張を誰がどれくらい受け入れたのかとか
その主張を受けて家康の発信にどのような変化があったか
というとこまで踏み込んで研究するならわかるのだけど 関ヶ原に豊臣馬回が参加していたらしいけど、あれは誰の意思かな? >>851
そうそう、無職のおじさんだよ
俺達と同じ 豊臣家は「家康と親しいとはけしからない」として蜂須賀・生駒を改易処分にしてる。これが東軍に与えた影響が大きかったんだろう。豊臣公儀のメンバーが反家康思想なだけならいざとなれば上位者の豊臣家に和睦を斡旋して貰える。ただ豊臣家自体が反家康なら家康と親しい連中は家康が勝つ以外に首が繋がる道がない。西軍に降れば蜂須賀らのように改易にされる、下手すりゃ死ぬ。
そうなるとまず家康と縁戚にある福島正則・池田輝政は徳川と心中になる。家康に後見されていた前田利長、徳川屋敷を警護していて徳川と半同盟関係だった浅野長政・幸長も降りれない。景勝憎さで家康に近付いた堀秀治、三成が家康に近付いた事を契機に九州取次役を内定してもらった寺沢広高なんかも同じだろう。
そして西軍の後ろには毛利輝元がいる。輝元が秀頼の「家康が憎い」という感情を慮った可能性は少なく謀反の動機は領土的野心だろう。蜂須賀・生駒領を貰ったのが毛利だから輝元の野心が向く四国・九州の諸将も徳川と一蓮托生だ。つまり加藤嘉明、藤堂高虎、細川忠興、黒田長政、加藤清正、この辺りは西軍には転べない。
って見れば豊臣が反家康を明らかにした事が結果的に東軍を一枚岩にした事がわかる。豊臣に敵視された以上、徳川に賭けるしか無かった。 >>872
誰の指示にしても、大問題だよな。豊臣家の軍隊が毛利に従ってるんだから。
こういう軽率な行為って奉行たちは何にも思わなかったのかな。 諸侯の妻子を人質にとろうとしたのはあれ擁護できんのか
やり口がまんま誘拐強盗かチンケなテロリストなんだが
ああいうのって武略として当時許されたのか他に事例があったのか >>876
玄ニに距離置かれて、長政を追い出しに掛けてる時点で奉行内でもバラバラだと思うが >>877
とはいえ一旦送り返したような事例も聞かない
西軍にしてみりゃ保護するつもりでとりあえずノックしたら中から勝手に火が出てポカーンだったのかも知れん
細川殿のカミさんってアレがアレだし >>875
普通に今まで家康筆頭での五大老運営だったのに上杉討伐出陣後に掌返しで蜂須賀、生駒を糾弾する豊臣家なんぞ軽蔑の対象だろうな >>869
その8月28日付清正書状の他にも7月晦日付斎藤利宗宛松井・有吉連署状で
「越中身上之義、秀頼様ゟ曲事ニ被思食之由候て、丹後隣国衆城請取ニ被指越、
御奉行衆ゟ觸折紙之写被見置候、忝存候事」
と、松井は秀頼様が曲事に思われたことによりなんて言ってるが、これも丹後に出兵を命じる
三奉行の指令書にある文言(従秀頼様為御成敗)を松井がそのまま使っただけだしなあ
7月17日付別所吉治宛三奉行連署状写
「羽柴越中守事、何之忠節も無之、大閤様御取立之福原右馬介跡職、従内府公得扶助、
今度何之咎も無之、景勝為發向内府江助勢、越中一類不残罷立候段、不及是非候、
然間従秀頼様為御成敗、各差遣候条、可被抽軍忠候、至于下々も依動可被加御褒美候」
この写しは清正が入手して松井に転送したことが7月27日付松井宛清正書状に書かれていて、
冒頭の7月晦日付書状で松井はこの写しを見たことと転送のお礼を述べてる
これらを以て清正や松井が大友の豊後侵攻や丹後召し上げは
秀頼の命によるものだと認識していたと断ずるのは早計だと思う >>876
真田信繁だって馬廻衆だったみたいだし単に奉行衆に縁故のあるのが勝手に参戦しただけなんじゃね東軍もとくには気にしてないし 自演くさいな
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1590/16-3-2/6/0029?m=all&s=0029
豊臣公儀としての戦ならば、上記のようなことが行われるはずです(例は小田原征伐)
「正こういん殿へ、ちん東(鎮東)に事もなきやうと御きたう(祈祷)の事仰いたさるる」
朝廷が秀吉の出陣に備え、武運長久を祈る祈祷を命じている
同日には勅使が秀吉を訪問し、武具のプレゼント
では、家康の会津征伐のときはどうだったでしょうか
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-2/5/0066?m=all&s=0066
「いえやすあいつ(会津)にぢんたち(陣立ち)につきて、御みまいとして」、朝廷から勧修寺らが派遣され、さらし百反を家康にプレゼント
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-2/5/0106?m=all&s=0106
「御出陳おいとまこひ(暇乞い)に、秀頼公三歳おもてけんくわん(玄関)の前迄御出、家康公おもてへ出、御御あい(お見合い)なされ候」と厚遇された上に、太刀や茶道具、黄金二百枚米二万石をプレゼント
西軍が豊臣公儀だというならこうした振る舞いが朝廷、豊臣本家から輝元にあるはずなんだが、とんと聞いたことがない
単なる私戦とみなされていた証拠
公儀だなんだじゃなくクーデター >>881
ちょうどかぶったが、家康による会津征伐は朝廷も豊臣本家も公戦だと認可しているのはさっき引用した史料からも自明
翻って西軍になにかお墨付きを与えた事例があったかというと、うーん
あなたのも三奉行がそう称しているってこと以上は言えないわねえ
せいぜい輝元と北政所が同一日に豊国社に神楽奉納したとか、馬廻りが一部参戦したくらいか?
弱すぎる
家康からすれば官軍はこっちで、わざわざ言う必要もないし、周りも当然そうだと認識してたのかもね よく知られていることとして本能寺の変では
朝廷は5日後に吉田兼見を遣わした
その後光秀を討った信孝らにも3日後に
勅使が下っている
なのに家康に会津征伐前に勧修寺が派遣された後
関ヶ原までの期間西軍へそのような動きがない
これはなぜか?
一つには朝廷の見方として本能寺後のように
支配者の交代が確実な形でなされたと観てない
なので軽々に一方にお墨付きを与えるのを控えた
もう一ついずれにしろ豊臣政権の内部抗争なので
元々豊臣政権、豊臣家に信任を与えているのに
主家を差し置いて徳川や毛利・奉行に対して
勅使を向かわせる必要がない 大坂の陣だと徳川が15万で豊臣が7万だっけ?
滅亡寸前の状況でも7万も集まったのに驚いたわ
腐っても鯛やね
関ヶ原で西軍に属した連中がお家お取り潰しになって
全国的に浪人が多かったのもあるだろうが >>885
後者だろう
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/24/0071?m=all&s=0071
「八月十五日、天下無事義御禁裏被仰出由候、広橋大納言、勧修寺宰相両人大坂へ明日被差越候」
この場合の御禁裏は天皇自身かは不明だが、「無事」を求めたという時慶卿記のそっけない描写
その時慶も九月七日に近衛と面会し「天下扱」の話を聞く
二日後は伝聞で「天下無事」の会合があったと
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/24/0071?m=all&s=0071
古今伝授のケースなんかもあるが、とりあえず京が燃えちゃかなわんくらいで実質、なにもしていない
少なくとも西軍に肩入れはしていないな スレ違やが…
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡するとそこまで考えてた人間がどれほど居たんだろうな
浪人衆はどのみち行き場も無いならとりあえず身を寄せてただけと思う
秀頼もまだ助命されると思ってたと思うしな
助からないし仕方なくでも覚悟を決めてたなら蔵に逃げる行動も考えられないから
最後まで天守に居たなら切腹介錯は必定だっただろうし 豊臣公儀の奉行が連署して家康を追放した。これが上方の貴族たちの認識。尤もこれは西軍の報道の結果なんだが。
だから実は正当性を主張せねばならないのは家康の方。西軍は「家康が秀頼を見捨てて軍事行動を強行した」と主張したからこれを否定するには豊臣からのお墨付きが要る。だが豊臣は西軍なので当然こうした援護をしない。普通なら詰んでいたろう。
詰まなかったのは豊臣の認識が誤っていたから。「豊臣公儀が認めたから家康は偉い」のではなく「家康は偉いから豊臣公儀が認めた」のだ。つまり豊臣公儀からの任命は家康にとって枷でしか無かった。だから家康は正当性(公儀)を主張する必要がなかった。逆に秀頼からの書状なんかが来てたら家康の天下はもう少し遅くなっていたかもしれない。 >>892
だから上洛して豊臣から上洛協力した武将へ恩賞出て
その正当性を証明したわけだよね >>894
それ秀吉や秀頼、あるいは豊臣の血統でもなんでもないんだが…… >>892
なんでちょくちょく自演するの?
妄想はよそでやって
朝廷も秀頼も会津征伐について家康にプレゼントしてるんだから公認の戦、官軍でしょ
対して輝元には何もなし
奉行らがめちゃくちゃなこと言ってるだけだ
ちなみに朝廷は情勢を探る狙いもあるんだろうが、ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0073?m=all&s=0073&n=20
「ふしみ大さかことの外さわき候て、ひてより(秀頼)へ御みまいに」広橋大納言を派遣してます
騒ぎがあって秀頼さん大変ですねー、ってお見舞いにいった
西軍蜂起に同情されてますw
それと、豊臣が徳川敵視ってソースもらえますか?
豊臣ってのがなんなのかもあやふやだが >>895
豊臣は姓だから豊臣姓が使われているってだけで問題ないんじゃないの?
血統なんか正直どうでもいいだろ >>884
あなたが引用してる御湯殿上日記なんかからも明らかだけど、この時期家康の書状に
「公儀」や「秀頼様御為」みたいな文言がないのは一々入れる必要がなかったってことだろうね
逆に西軍首脳が公儀や秀頼様云々をあれだけ乱用してるのは、朝廷や豊臣家から
のお墨付きが
ないんで殊更公儀や秀頼様を前面に出して強調せざるを得なかったってことだもんな
この時期東軍側で秀頼様の為的なこと言ってるのは清正と正則くらいのもんだ
8月24日付浅野長政宛福島正則書状
「羽三左・左京殿談合いたし、秀頼様御為よきやうニ可仕候、於様子ハ可御心安候」
9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而、
大閤様御遺言を被相立、秀頼様御奉公可被成ニ付而、無二内府公へ可有御一味之旨、為其験人質被差越候」 9月12日の増田長盛宛石田三成書状だけど、あれも酷いな
「軍資金と兵糧を美濃に送れ」
「近江から美濃に向かっている者(小早川秀秋のこと?)が思わぬ行動をする恐れがある」
「西軍はほとんど戦意を無くし、全体の指揮が回りかねている」
こんな状況では最早末期的だよな…… >>898
白峰とか乃至とか三成が奉行復帰したと言ってたけど
あれは秀頼の承認を得たのではないのかな >>898
そう考えるのが自然だよなあ
しかしおもしろいな
下の書状じゃ、秀頼が幼いのをいいことに西軍が秀吉の遺言に背いたと言ってるんだなw >>901
浅野と石田更迭のときに秀頼の承認なんて得てるのかね
辞令が出る性質のものでもなし
ただ、輝元だけは三成が奉行に戻ったと勝手に認識していた形跡があるというか、可能性はある
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/18/0063?m=all&s=0059&n=20
真田に三奉行と宇喜多、毛利がほぼ同内容の書状をそれぞれ送ってるが、三奉行と宇喜多は「なお石田から申し入れます」なのに輝元だけ「なお年寄衆(いわゆる奉行)から申し入れます」になっている
まあ細かいことは知らんってだけかもしれないが >>901
乃至氏の主張の方は知らんが白峰氏は確かに三成の奉行復帰について論証してるな
ただ秀頼の許可を得た上での復帰かどうかまでは言及してない
白峰氏は7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状を根拠に三成はこの時点で実質的に奉行に復帰していて、
8月4日付松井康之宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状を以て正式に復帰していたという主張
8月4日付松井康之宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状
「其郡之儀為可請取太田美作守差下候、於様子者従年寄可被申入候間、早々明可被渡候」
白峰氏はここで年寄衆から申し上げるって部分を根拠に三成が正式に奉行に復帰していたとしている
ただ902の人も言ってるが、年寄衆から申し上げますってのは
7月29日付真田昌幸宛毛利輝元書状でも言ってて時間的にこちらの方が早いな >>904
白峰さんはそういう論立てなんだ
自分と似たような史料を使いながら出てくる推論は真逆とは
少なくとも7月29日時点では当の三奉行も、松井宛てに連署した宇喜多も三成を奉行と認識していないのは確実だと思うがなあ 三成たち奉行は、豊臣という名前が誕生した瞬間から常に自分が豊臣の権威を振りかざす側であり
他人に豊臣の権威を振りかざされたことなどないに等しい
三成たちが豊臣公儀になったというより
豊臣が生まれた瞬間から豊臣公儀じゃなかった経験が三成たちには存在しないので
単に習慣として昔のノリのまま行動していたというだけ 三成は奉行職からは退いていたけど正式にクビにはなってなかったらしい。ただこれはどちらかというと家康の配慮っぽいけどね。 ていうか豊臣公儀ってのはどうあれ十人衆の合議で決まる。だから連署状に重きを置く研究者が多い。
そうみると西軍は事の発端である景勝抜いて二大老三奉行(三成復職で四奉行)東軍は二大老一奉行だから正統性では西軍が圧倒してる。豊臣が軍隊まで預けて西軍に加担したのがこのためなのかは不明だけど。 その辺の職掌は曖昧じゃん
何でも多数決で決めるとはなってないし
そもそも十人衆の定義も曖昧
全ては単に十人衆自身の誓詞で決まったことという 西軍が公儀であったのなら関ヶ原で敗れた瞬間家康は豊臣政権を超克したことにならんか
豊臣家が家康を切り捨てたことで秀吉の遺言覚書体制はもちろん十人衆体制も崩壊したわけで
その後の体制再編は完全に勝利者の家康がフリーハンドを得た
家康としては自家を守るためにも二度とああいうことが起こらないよう
徹底して徳川家の立場を強化し利益を独占する権利がある
何しろ豊臣家が家康を敵とした西軍に加担したわけだからもはや豊臣家に遠慮する必要などない
これは同じ目にあったら信長でも秀吉でもやっただろう >>909
玄ニは土壇場で降りたから3奉行じゃね? 西軍は勝手に挙兵した反乱軍
と言う前提を忘れちゃいかんよな >>909
家康は内大臣で筆頭大老だろ、秀吉が伏見城で政務を見てくれと言い残している
中納言大老とは格が違う
人数の問題だけではない >>914
クソ問題なのは豊臣公儀がそれを明文化してないことじゃろ。だから「家康が勝手に」とか抜かす連中がいる訳で。
というかそもそも十人衆合議自体が秀吉からほぼ全権委任されてた家康の権限を縛る為の方策なんだから家康の地位を考慮に入れる筈がないし。 >>909
十人衆多数決原理をここで紹介したものだけど
あれは秀吉没直後の権力抗争の一環としてみれば面白いというだけのもので、早々に死文化していたのは明らか
あんたの妄想のこん棒にされたくはない
家康が大坂城へ移ってからは事実上の独裁体制といってもいい
「内府様大坂へ御下なされ、国家の置目等被仰付候通、従毛利殿注進」ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-6-1/19/0091?m=all&s=0091&n=20
十人衆合議が重大事案で唯一機能したのは朝鮮撤兵
慶長三年十一月二日付け島津ら宛て石田、浅野書状では「最前御奉行衆、年寄衆対談之上」朝鮮に使者派遣や撤兵の意向を伝えたとある
これは誰もが利害が一致したまでだろう
会津征伐については三奉行らが反対していたが、家康は強行し、朝廷も豊臣家もお墨付きを与えた
となったもので、この前に引用した「一人一人倒されたら困るんでやっちゃいました」という反家康勢力の動きになる
西軍に正統性はない、秀頼を質にしているだけで >>904
補足
同日付で松井宛四奉行連署副状があり、松井宛宇喜多・毛利連署状にある年寄は四奉行を指していることが分かる
ただ下記連署状の発給者は「毛利輝元・宇喜多秀家・四奉行」なので白峰氏の言う8月4日よりは若干早い
8月1日付木下利房宛連署状
8月1日付筑紫広門宛連署状
8月1日付蒔田広貞宛連署状
8月2日付真田昌幸宛連署状
>>903
7月29日付真田宛三奉行連署状が同日付輝元書状の副状になってるだろうから、白峰氏は輝元書状
にある奉行衆に三成は含まれてないし、この時点で正式に奉行に復帰したとは見てないかもね
だから白峰氏は三成の署名がある8月4日連署状を根拠にしてるんだろうし
7月29日付佐波広忠宛毛利輝元・三奉行連署状にも三成は含まれてない
内容は猪山城(徳島城)周辺以外での陣取や乱妨狼藉を禁じたもの
「阿波国猪山城山上山下之外、陣取不可有之候、
若乱妨狼藉之族於有之者、速ニ可被加御成敗者也、仍下知如件」
とは言っても、白峰氏は実質的に7月中旬には復帰していたと言ってるし、その辺は誤差みたいなものかもしれんが >>919
三成は普通に復帰していたとみた方がいいのか
期日なんかのずれは、当然ながら三成が大坂にいないと連署できないから、そういうことなのかな
白峰さんも、だから実質的には七月中旬にはって言ってるのかね
ここら辺りの三成の動きが案外と不明だわ >>920
今思い出したが8月1日付青木一矩宛三成書状で
「去月廿八御飛札、今日朔参着、於大坂拝見候、拙者儀昨日当地着候」
と三成は7月30日に大坂に到着したと言ってるから29日の書状は不在で連署できなかったってことかもね
現に8月1日からは三成も連署に加わってるし、そういう意味での日にちの誤差と見たほうがよさそうだな
と言うことは史料にはないが既に正式に奉行復帰してた可能性もあり得るってことか 三成奉行復帰があったとしても十人衆合議と同じで豊臣本家と全く関係なく進められた話
復帰に関しては敵対してる家康は当然関わりがない
秀頼の神輿の軽さの証明 三成が挙兵したとき、京坂にいた大老は家康だけでしょ
十人衆合議は無理 >>923
そもそも十人衆合議にしたのは輝元と三成ら4奉行なんだが
8月28日にこいつらが身勝手な私党契約して輝元が毛利軍2万動かして
家康脅して、五大老五奉行との間で勝手なことしないという制約結んで
秀吉が作った遺言覚書体制を半ばぶっ壊して十人衆体制にしたんだけどな >>919
これらの書状で三成の名が無いのに、なぜ家康は
西軍の挙兵を知った時点で「三成と大谷が逆心」
という趣旨の書状をなぜ各地に出してるんだろ
三成がその時期に出した書状が現在に伝わってないから? >>921
7月15日に島津義弘が上杉景勝に宛てた書状で
「毛利と宇喜多、三奉行に小西、大谷、石田が家康と戦う決意した」
とあるから、この時点では復帰してないのかな? >>921
おおすごい
これは定説になるといっていいくらいだね
いつ復帰したかはたぶん、永久に分かりそうにないな
よっぽどピンズドの新史料でも見つからないと
>>924
8月28日のはみせ消ちばっかりで、当初案は別にごく普通なんだよ
急に過激になってる
にしても結局、多数決原理なんて有名無実のものとなった とは言えど輝元も四奉行もヤバいことやってる自覚はあった筈。何しろ起請文誓紙の取り交わし自体が違法行為だから。
実はあの起請文、四奉行だけでなく輝元にもメリットがあるんだよな。秀吉に命令されて家康・利家に出した起請文を無効化するには四奉行と連んで対抗するしかない。 御掟体制、遺言体制と十人衆体制は
それぞれ内容や成立の背景が異なってて別物
御掟は秀吉(豊臣家)を頂点としたピラミッド構造
遺言は政治向き家康、奥向き利家の寡頭制
十人衆体制はその権力を規制する仕組だが
具体的な職制は未整備で整備の動きもない
んで私婚問題での家康弾劾、三成弾劾
家康暗殺未遂による利長、長政弾劾
国替トラブルによる上杉弾劾と
その都度体制は変わって行ってる 十人衆体制を元に家康はそれに反してるから
正当性は西軍にあるというのは
まさに西軍自身の主張
現代人である我々がそれと同じレベルで
正当性を云々すること自体ナンセンスなので
せめてその主張は当時として妥当なのか
当時としてどの程度受け入れられたのか
という視点は必要だろう
十人衆体制はの根拠はあくまで
十人衆自身が交わし合った誓詞による
その上家康排斥、三成排斥、利家長政排斥と
十人衆自身がすでに互いに追放しあっている
それを今更「家康が全部悪いんです」と言われても
「知らんがな」ってなもんじゃなかろうか
それぞれが巨大な権力者なので
直接批判は残ってないだろうけど 慶長5年8月晦日島津忠恒宛毛利輝元・宇喜多秀家連署書状には「公儀」という言葉が使われてるから
毛利や宇喜多など西軍首脳には自分らが公儀だという認識はあったんと違うか? >>921
7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状に
「去廿一日両度之御使札、同廿七日於江佐到来候、
拝見候」
とあるから、7月21日に三成が何かの活動をしているのは事実だと思う
挙兵してすぐに復帰したんじゃないの?
というか、この7月21日の書状? 使者の派遣? というのは自分も良く知らないが >>925
西軍の偽装工作に徳川が惑わされたってだけだろう。三成謀反といっても具体的に三成が何をしたから謀反だと言われたのかは定かじゃ無い。残ってる史料だと七月十二日、大谷吉継が病気で三成が代役って話が徳川に送られてる。要は吉継が佐和山に来てたって話だがこれ自体は謀反じゃない。徳川の城を攻めたって訳でも無い。
しかし西軍は違う。七月十七日に毛利軍を大坂城西ノ丸に招き入れると家康弾劾状を発布、十八日には伏見城を豊臣軍(宇喜多・長束らから成る)が攻撃してる。どっちが謀反といやこっちだろう。この差を埋める為に小説だと三成がフィクサーとして描かれるけどそんな能力あったら上杉と連携取れてるだろうさ。 >>933
家康だけじゃなく、蜂須賀家政に松井康之とか
徳川に関係ない奴らも確か三成謀反を言ってたぞ 松井は三成謀反とは言ってなかったはず。彼は細川忠興から「輝元と三成が謀反したから防御を固めろ」と言われていたが、調査の結果「輝元と御奉行衆が謀反した」と知って中川に伝えてたはず。石田三成は慶長四年に奉行職から降ろされてた訳でこれは大坂三奉行のことだろうし。多分時期的に見て松井は内府違いの条々と蜂須賀・生駒の改易を知っていたんだろう。この二つを見れば西軍の中心人物が輝元・三奉行なのは明らかな訳で(逆に三成は全く出てこない) >>935
ごめん松井じゃなくて7月21日付松井宛忠興書状だったね >>933
まあ確かに、家康が書状を出した数確認できるだけでも
1600年の9月14日までに169通も出してるからな
しかも7月から9月までの間に161通も出してるし
三成のほうは隠密に計画勧めるつもりもあったんだろうけど
数がそこまで確認できないからなあ 西軍蜂起によって家康の下から諸将が離反するという前提で動いていたなら
お手紙書く必要性をそこまで感じなかったかもね
むしろ向こうが必死になってコンタクトをとってくるだろうと >>938
如何にも官僚的な考え方だね……
秀吉の近くにいたから誤解していたのかな そもそも謹慎中だし普段から交流があって親しい相手にならともかくそうでもない連中に手紙書きまくってたら怪しすぎるでしょ >>937
「徳川家康文書の研究」だったかと思うんだけど、この関ヶ原戦役での書状って諸将から家康に送られてその返書に追われてたってのが多いらしい。
それが真実なら、豊臣から追放された事で却って家康の人望が上がった事になる。秀吉が嵌めた枷が外れたことが分かったんだろう。 >>941
○○文書の研究シリーズは史料集だぞ
解説もつくが 卜斎覚書読みゃ三成が策動してると家康が知る経緯はわかるでしょ
長束含めバンバンと密告あり
金森なんか三成から届いた書状箱の封を開けずに家康に渡してるよ >>927
確かに
現状の史料で確定させることができない以上は結局史料に拠らない推論になってしまうしね
>>932
「21日に真田から出された2通の使者付きの書状が27日に佐和山に到着したので拝見しました」
その後に使者の口上を聞いて、書状に添えられた覚書も見たと言ってるな
21日に三成が何かしたんじゃなくてその日に真田が書状を出したってことだね
真田とのやり取りを復帰していたと見るべきか人によってとり方も違うだろうしその辺は難しいな
秀頼のお墨付きみたいなものでもあるなら別だがそんなものはないわけだし
904でも書いたが白峰氏なんかは7月中旬には実質的に復帰していたとしてるが、
三成が輝元や秀家、三奉行の連署に加わったのを以て正式に復帰したとしてる >>935
7月21日付書状で忠興が防御を固めろなんて指示してる箇所あったか?
杵築に残れと言ってる有吉にすら頃合いを見計らって中津に移れと言ってるけど
・松井と魚住は番子まで残らず連れて丹後へ行くように
・万一の時は松倉を捨て女子を連れて宮津へ移れ
・有吉はなるべく杵築に在城して様子を見て如水のいる中津城に移れ 問題なのは「三成が謀反した」という報告はあるのに具体的にそれが何なのか誰にも分かってないこと。東軍が分かってないのはまぁ仕方ないとして西軍にとって三成が何をしてどんな利益を得たのか正体がわからない。三成が回状を出して蜂起を呼び掛けていたらしいけど西軍の動きとは関係無いし。 >>944
8月晦日書状で輝元と秀家が自分たちを「公儀」なんて
言ってるから、三成は早いうちに奉行に復帰させたと見ていいんじゃないかな? >>943
その三奉行の密告が嘘くさいっていうね
東軍諸将の人質を収容するわ伏見を焼くわとやっておいて何を密告したんだ?っていう >>931
そりゃクーデターを起こしたわけだから
相手こそ公儀ですなんて言うわけない >>947
それって忠恒宛の早く上洛しろって言ってる書状か
それなら晦日付じゃなく8月朔日付だな
さっきも言ったけどまあその辺は確たる史料がないんでなんとも >>950
晦日付じゃなかった?
「御人数有次第御馳走之時候」って上洛のこと指してるの?
「玉薬兵糧」と「公儀仰候」しか見てなかったから気づかなかった >>952
ありがとう
そういえば8月28日に宇喜多は大垣にいるのに
大坂にいる輝元と晦日に連署するなんて無理だよね >>947
公儀と名乗るのは自由だし、西軍内部で三成が復帰していたことと、世間が公儀と見ていたかは分けて考えないといけない
前者については復帰時期は不明ながら、大坂に戻って翌日から文書上にも出ているというのが極めて有益なところ >>948
嘘臭いといわれてもな
卜斎覚書は読めば分かるが、それなりに信憑性高いと思うぞ
一次史料との逐次整合性まで調べたことはないが 東軍を倒して初めてクーデター成功やからな
それまでは正式なんてのは何もない 「そら諸大名がやな、西軍公儀が正しい思うたら増えるがな、そらなんぼでも。せやろ。何も東軍でのうてもやな、よその大名家からでもやな、入れてくれ、入れてくれ、って来とんねんから。ちゃう?やっぱ世間の人はじーっと見とるわこれを。どっちが正しいか、どっちが本当か。」 そもそも西軍決起自体が豊臣家の要請によるものなんだからクーデターですら無いという。具体的には「徳川は追放、毛利が代わりに大坂城守護」って扱い。豊臣家が徹底抗戦しない限りにおいて西軍は公儀として振る舞えたし、家康は公儀としては振る舞えなかったんだろう。 >>955
存在が嘘臭いって話じゃなくて内容が嘘臭いって話
三成がやってる事といえば佐和山で大谷吉継と会ってるくらい。対して三奉行と毛利輝元は大坂城の人質を収監したり毛利軍に大坂城を占拠させたり伏見城を攻撃したりとこれぞ謀叛って事ばかりしてるだろう?これで三奉行が「徳川の事を考えて三成の陰謀を密告した」説は否定されるんじゃないか?徳川の事を考えたら毛利軍入城や伏見城攻撃計画をまず密告しないといけない。三成が回状出してますよりも明らかに重要な情報だし。最初から西軍決起までの時間稼ぎとして嘘を書いたんじゃないか? >>959
きっかけと結果を一緒にするな
君にいちいちソース示すのもバカバカしいからしないが
えけーも絡んでるでしょ
三奉行からすれば迷惑だったんじゃないか
苦々しい思いは家康にあっても
そこらの想像は史学の範疇から外れるから、まあご随意に >>958
幼少の秀頼に意思は無い
あのころの子供は大人の猿真似がせいぜい
淀や北政所や秀頼側近衆が西軍に要請したと断言できる史料も無い
西軍に豊臣家の後ろ盾があったら会津征伐軍は崩壊してる
西軍が数の暴力で勝手に騙って公儀として振る舞ったと見るのが妥当
大阪人質や会津行き大名軍勢拉致と同じ 豊臣宗家が西軍側なら内府違いの条々と同時に会津征伐中止命令出してるよな 家康が諸将を率いてる法的根拠みたいなもんじゃないの会津征伐て? >>963
豊臣宗家から関東に会津征伐を中止するように使者を派遣するとかみたいな 西軍側は家康から豊臣公儀の立場を奪い取ったつもりだったのはそうだろうが、
上杉征伐軍が崩壊せず、西軍側に対抗の意思を見せたという事は
実際は公儀の看板の争奪戦になったと考えるのが妥当だと思えるが 豊臣政権は公儀というか権威や正当性も時間経過が短い為にそこまで大きく形成されてもないからな
秀吉個人の義理人情、恩顧で朝廷や諸大名との関係性を維持してる状態
一摂家の秀頼はそこまで重い神輿でもない
言わゆる軽い神輿で利権が美味しいからみんな担ぎたいだけでしょ 「秀頼!、云うとってあげるが、あんたは初めから、
わしらが担いでる神輿(みこし)じゃないの。
家がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。
神輿(みこし)が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみないや、
のう!」
「わしらの云うとおりにしとってくりゃ、わしらも黙ってこのまま担ぐが、
のう、秀頼!、喧嘩は銭がなんぼあっても勝てんのですよ!」 >>958
西軍決起が豊臣家の要請という根拠は?
「一人一人倒されたら秀頼を守り立てられないから」とはいっているが
近いものでいえば、石田が直江に「越後は上杉の本領だから、上杉に与えるというのが秀頼公の御内意」なんて送っている書状写しがあるんだが、「秀頼公」としてるから偽書だろう 西軍の主張をそのまま鵜呑みにした
歴史観がはびこりすぎてるんよ
神君史観とか言ってる今伝わる歴史は
江戸時代に徳川が歪めたものとかよく見るが
家康が大老を確固撃破していこうとした
なんて反乱起こした西軍のプロパガンダまんま >>971
要請でなきゃ豊臣は抵抗してるだろ。抵抗してないなら西軍を容認してたことになるし何なら三奉行に命じて輝元に要請した可能性まである。豊臣の人質取られて太閤の伏見城を焼かれて豊臣公儀に従う大名を改易されてるんだぞ?豊臣の意向に反してたら大問題ですわ。 利家死亡後は豊臣家中の差配が出来る人間は居ないんじゃないの
家康は政務の重責で率先して豊臣家中の仕切りをする気が無かったかもしれんけどしいて言うなら豊臣の番頭も家康ぐらいなんだよな
家康が居なければ豊臣家は意思表示出来ない程に脆弱よ 現実問題として大坂城には六万の毛利兵が居たんだから
秀頼やその側近に抵抗する気なんか毛頭なかったとも考えられる
意思表示すらできないなら豊臣に天下人たる資格はないとかそういうのは抜きにしてね 西軍の主張を鵜呑みも何も主張してるのは西軍しか居ないんだからそれが通るのは当たり前じゃね?時代劇だと「敵は三成のみ、家康さまが秀頼さまを〜」とか言ってるけど家康は公儀を名乗ってない訳で西軍の主張を肯定も否定もしてない。ただ黙殺しただけ。家康は正当性は主張出来なかったけど勝利したんだがそんなに珍しい話でも無いだろうし。 毛利を呼び寄せる要請が出来るくらいなら関東の会津征伐軍の諸将にも大人しく西軍に投降しろぐらいのこと伝えられるよな >>972
幕末事実上の徳川から天下を奪還したのは輝元の子孫だからそうなるのは仕方ないとも言えなくもない。 >>973
じゃあやっぱ徳川は豊臣家の支持を得てるし
西軍滅ぼした後も支持され続けてたってことじゃん >>978
でも輝元は無能扱いじゃん
やっぱ歪なんだよ
司馬史観 >>976
そもそも正当性なんてのは周りが判断するもので
主張してるって時点で疑われる立場ってこと
なのに主張してれば鵜呑みにするってのはおかしいよ >>973
豊臣家がそんな有様だから西軍がクーデターを起こせたんやろ
というか豊臣家が天下を治められていれば家康が政権運営する必要もなかったわけで >>982
それ言うなら織田家にも同じこと言えてしまう
しかも織田家の場合は信雄や信孝みたいな成人男子がいて
あれだからなあ……
まあ豊臣は自分がやったことを徳川にやり返されたんだろ
三国志の魏と晋みたいなもん >>962
事実上の徳川軍になっただけだろ
家康は名目上の主君すら出して無いから、秀頼が戦死しても良いという事。
あとで誰か適当な奴担いで論功行賞するという宣言に近い >>986
ちょっと何を言ってるかわからない
流石に日本人じゃないよね? そもそも秀吉がある意味無責任すぎる
秀次と一族を粛清して、豊臣一族といえる一族は秀頼と家康(秀吉妹の旦那)、秀忠(秀頼義父)
しかいなくなった
幼児死亡率が高い時代にもし秀頼が夭折したら、どうするつもりだったんだ 細川管領家のお家騒動とかで、事実上当主に謀反起こしてるのに後で名目上の主君
建てて論功行賞とかやってますよね。
西軍が大阪城に陣取ってるのに、家康が豊臣家の家老主張するってどういう意味だよ。
つまり実力で西軍潰すし、秀頼が戦闘に巻き込まれて戦死しても構わないという事
あとで、誰かを名目上の豊臣家当主に建てて論功行賞するよって事だ。
古来から下克上の言い訳に使われた手口 >>989
もともと家康が大老筆頭なので主張もなにも無いだろ
あくまでも豊臣政権内での争いなのと全員が秀頼大事な立ち位置なので秀頼の命が危険とかそういう話でも無い
名目上も何も豊臣家の当主は秀頼 >>984
三国志の曹魏の場合は、曹叡が養子の曹芳を後継ぎに指名した上で後見人に一族の曹爽と
司馬懿を指名するって馬鹿な事したからね。
最初は燕王の曹宇を後見人指名「曹操の子の一人で曹叡の叔父」するはずだったんだけど
一族だと養子の曹芳の立場が危険だと吹き込まれたらしい。
曹爽は曹真の子で、曹氏と言っても遠縁だから安全と。
まあ、一門の後見人排除して危険人物後見人指名して滅亡は似てるかも。
曹爽が曹芳担いでるのに、皇太后担いで謀反起こす司馬懿の強引さに負けたというか。
皇帝が幼少だから、皇太后の命令が優先するって屁理屈なんですが。
皇帝が戦死しても、皇太后に適当な男を皇帝に指名してもらうから、司馬懿が正統魏軍と
いう屁理屈を通せるという脅しだね >>990
内府違ひの条々って、事実上「お前解任したから」と言う意味だろ。
なのに豊臣家担いでると主張してるって事は「豊臣家当主って俺が任命するんだぞ」と言ったも
同じじゃないですか。
秀頼が戦死しても、俺が適当な奴を当主に任命するから無問題だとね >>995
わかりやすく言えば家康は秀吉から豊臣政権の運営を任された存在なので政権トップの五大老として上杉討伐も行なってる
家康が豊臣家を担ぐというニュアンスがわからんが豊臣家中の事に関すれば口出しはして無いだろ 武力で占拠しただけの連中が言ってるだけで
事実上解任とか都合良すぎるでしょ
秀吉の関白就任以来豊臣政権の序列は
宮中官位と紐付いた厳格なもの
それを無視してる点で西軍の主張はちぐはぐ
秀吉の築いた秩序と逆行してるんよ >>989
サンド富澤「ちょっと何言ってるか分からない」
伊達「俺も分からん」 このスレッドは1000を超えました。
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