石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 輝元って信雄レベルで無能な上に信雄と違って人間的にクズ過ぎて軽く引くわ 輝元はどう見ても一番やりたい放題やった元凶なのに、本人は減封程度で済んで豊臣宗家はじめ巻き込まれた立場の連中のほうが比較にならないほど損してるから不気味
豊臣宗家を直接滅ぼしたのは徳川家だが、秀吉遺言体制を完全に崩壊させ破滅の道に叩き落としたのは輝元では >>800
そもそもそのドクズムーブの原因が自分の無能なのでは?自分のアホな行動の尻拭いを他人にさせてるだけのようにしか見えないんだが 唐様で書く3代目が家遺せただけでも偉いもの。ただここまで情けかけてもらっておいて正月の度に幕府呪ってたとか情けない気もするけど…ま、逸話なんだろうが そりゃ武家ってのはそういうもんだわ
家のために犠牲が必要になった時のためにいる わざわざ無能と結託して主家の天下を崩壊させるんだから
奉行も大したもんだよって評価にしかならないのが悲しいところ つか秀吉の晩年から既に「豊臣体制」ってのは家康の存在前提になってるだろ。
その家康を排除しようとしたらそりゃあ崩壊するわ。 >>802
そのやらかしの責任を、(完全ではないにせよ)うまい事他者に押し付けて
しっかり自分の逃げ道は確保しているから無能とは言えないだろう
実際問題、西軍の首脳部格で輝元よりマシな結末を迎えたのは前田玄以だけだ、
後は破滅か改易だぜ、そう考えると輝元は相当上等な結末に思える
(島津は義弘はともかく、島津家は首脳部といえるかちと微妙だし、上杉家も同様) 単に負け犬目線で上手くやった奴を
妬んでるだけじゃね?
奉行だって単に下手こいただけだべ 主君が死んで早々、その主君の最後の誓詞を五大老の中で最もなんとも思ってない輝元と秘密協定結んだ浅野以外の四奉行って言うほど忠臣かという印象が 輝元は別に上手くやってないよなw
失敗したけど尻尾切りして逃げようとして、でも家康には全部バレてて家を潰されかけたってだけで 裏で色々策動して、家康が迫ってきてからやべえと思って引き込んで仲間をほったらかしで家康に頭下げて、上手くいったと思ったら家康は自分が畿内から離れた後の輝元の悪さを全部把握してて、疎かにしないと約束したけどこりゃダメだ潰すわと
どう考えてもアホだと思います。最終的に頭下げるなら前田みたいに最初から従属しとけと 輝元には豊臣公儀を潰す動機がある。元々毛利が握っていた瀬戸内海利権のあれこれは秀吉に没収されて秀吉配下に分配された。関ヶ原で輝元は四国九州を収奪しようとしたのはこれを取り戻したかったからじゃないかという説がある。その為にまず主流の家康・利家派閥に対抗させる為に奉行派を作らせてそいつらを操って豊臣公儀を破壊した…っていうと深謀遠慮の黒幕なんだけどいかんせんその最後がなぁ 広家が東軍に内通した時にはもう東軍は攻撃体制整えてるし毛利が滅びるか残ったかの瀬戸際かぁ 広家は西軍決起時点から徳川と交渉してた、と言われてるけど実際のところ態度は曖昧だったらしい。九月三日になって黒田らから最終通告食らっても動かなかった。それが徳川家康着陣、小早川秀秋松尾山占拠、石田三成出撃と怒涛の展開を前に急遽降伏した訳で何でこんなになるまで放っておいたのか。おそらく毛利の為に高く西軍を売れるタイミングを図っていたんだろうが… 吉川が後世に向けて正当性を主張してる史料なんてバイアスきつすぎてアテにならんよな 輝元は現代で例えるなら
キーウ攻略に失敗した途端すぐにあきらめてアメリカに土下座したプーチンだからな >>815
なんで毛利がそんな事しなきゃならないんだよ、勢力倍以上の相手に正面決戦
(普通に戦えというのはそういう事だろう)をやるバカがどこにいる?
領国が本格的に攻め込まれてたりしてるならば話は別だがそうじゃないんだから
仮にこのままだと家康に難癖付けられるとか言う戯言を最大限受け入れるにしても、
それは毛利と徳川が政治的対立をする理由にはなっても、正面決戦を挑む理由にはならん
そんな事をしたら毛利が勝利しても大損害もいいとこ、割に合わないよ
真面目に聞くが正面決戦を挑んでもなお、毛利が得だと思えるような褒賞や損害補填を
西軍は用意できるの?又、仮に用意できたとしてそれが確実に実行される保証はあるのか?
まあ毛利が本格的に天下取りに挑む!ってんなら徳川と決戦をする価値はあるかもしれんが
それって一応豊臣恩為を掲げた西軍首脳(奉行衆や宇喜多)にとって喜ぶべき事態と思えんぞ >>819
兵を上げたこと自体が失敗だったから必死で巻き返しただけだよな
無かったことにはできずに所領を大幅に削減されたけど >>819
西軍は毛利の仕切りだろ
自分で扇動しておいて酷え奴だよなほんと >>822
自分の御家が生き残れる道を確保しておかない方が悪いわそんなもん
それが必要な事であるのなら、長年の友であろうと志を共にした仲間であろうと
笑顔のまま平然と切り捨てられるような事も決断出来ん奴が、大名なんてやっちゃだめだろう
個人の義憤や面子なんて下らん自己満足で、代々続く御家を潰したら
それこそ血反吐を吐きながら必死になって御家を残し続けたご先祖様に、申し訳が立たんだろ こういう場合の酷え奴って戦国大名にとっては中々の褒め言葉だよな 戦国大名も酷え奴だと言われたら普通に怒るんじゃないだろうかw 小西の立ち位置がわからん
現場に出てる諸将達と同じでいいの? 三成は関ヶ原で負ければ史実通り、勝っても得るものは失脚から復帰できるかもしれないくらいでそれでも他の奉行より格下扱いだからリターンと比べてリスクがデカすぎる 奉行衆や輝元、広家について色々言われてるけど宇喜多直家が主戦派であったことに異論はないんだね >>824
中世こそイエの存続が最も価値の高いものなんだが。江戸期のそれは中世からの継承に過ぎん。 その家を潰しかけたのが輝元だよな
巻き込まれてギリギリで破滅を回避したなら有能なのかもしれないが、自分で主導しておいて土壇場で自分だけ逃亡。でも領土は大幅に削られるとか無能の極みじゃないか 古代から土地(領地、経済力)が1番大事なわけで家はただそれに付随する概念でしかない 石田三成もわりかし窮地にあるからな。嫡男重家が大坂にいるから人質同然。それに大谷吉継は兵隊連れてきてるわけで果たして佐和山にこれを追い返せるだけの兵がいたかな。 >>830
家じゃなくて土地な
今川家なんて武士として滅亡したも同然だし
その土地を守る存在としてメンツも保たないといけなかった
和田義盛とか見れば分かるだろ なんか肝心なこと忘れてない? 最初期に瀬田に砦普請して東軍?迎撃しようと布陣してたのはその時の毛利主力だよ。 結局前田も徳川も来なくてなぜか伊勢制圧に向かったけど。 少なくとも最初期は毛利は瀬田で決戦する気があったわけでしょ? >>834
いや土地も家あってのものだぞ
今川家は公家旗本としてちゃんと存続したし
そのためにこそ今川の家臣たちは頑張った 高家って家康の良血コレクションて感じだけど、明治で華族にしてもらえなくて大変そうだったよね 輝元のこと無能の極みとか言うとその輝元や西軍に少しでも勝算感じてた大名たちが目も当てられないことになるのが実になんとも
真田みたいに保険で二股して本領安堵勝ち取った家もままいたけど、それなら家康に全面的に味方してれば加増も狙えたと言えるわけで 輝元がまともな判断できたら
そもそも挙兵しなかったし
奉行も輝元と同じ判断ミスして
大阪に招き入れたので同列 輝元からすると秀吉に奪われた領土利権を奪取する事が最優先だったんだろう。ただ徳川家康を甘く見過ぎた。 秀頼が幼年ゆえに統治能力がないから
豊臣政権で最も貫目のある家康がその後ろ盾にすえられるのは当たり前の話で
奉行たちにとって家康より扱いやすい相手じゃなきゃ協力者にはなりえないわけだが
結果的にそいつに梯子外されているんだからざまはない 輝元は軽率とか見通しが甘いとか言われても仕方ないけど、そんな輝元に最後まで手の平の上でいいように使い捨てにされたけど最期まで何も気付いてなさそうな三成はもう底抜けに評価が下がる 毛利が軽率で見通しが甘いなら
西軍首脳全部そうだろ
あと毛利が狙ってたリターンは
単なる領土拡張よりでかいはずだよ
だって実際総大将やって大阪入城してんのよ?
それやって内府の位置狙ってないと言ったら
どんだけストイックなんだよってなるわ 三成は西軍を美濃から東に集めて上杉と共に徳川に圧掛けていくつもりだったみたいだが長束や恵瓊に反対されて西軍主力部隊は伊勢から西に展開して美濃には僅かな兵しか置かれなかった。
そこを東軍が強襲した訳でそういう意味では三成は家康の能力を正しく評価していたことにはなる。対処出来なかったけど。 仮に西軍主力が美濃に集結してても
崩れる理由が北国からの進軍に変わるか
放置した畿内や伊勢からじわじわ蚕食されるか
程度の差にしかならなそうではないかね?
岐阜で睨み合ってる間に東軍先鋒が
丸々鞍替えしてくれるとかない限りは >>846
もうあの時点だと、信長みたいな存在がいきなり
出てこないと勝ち目ない
西軍はやることがとろくさすぎる
伏見城最初に攻めるとか話にならないし
しかも攻めるにしてもそこに14日もかけるとか つまるところ輝元が江戸を滅ぼせるかどうかなんだけど
そこまで覚悟完了してる気配がないのよね
伏見大坂から家康を追放するだけじゃ
全国統一政権である秀吉体制からの後退にしかならんもんね 徳川を滅ぼす気で戦争やるとかもう日本東西全面戦争で戦国初期に逆戻りなんだよなあ >>738
遅くなったが該当部分の訳について報告するよ
吉川広家自筆書状案(吉川家文書913号)準拠で
・「於于今者御和談調候ハヽ、相違可仕候哉と申候条」はあなたの指摘通り井伊・本多の弁
私は>>735で「先此分尓て候つると申候条」と、誤って見せ消ちの部分を加えて
訳してしまったため吉川の弁としたがこれは間違い
福原家文書には「哉」がついてないが吉川家文書の方はついてる
「哉」の有無でここはニュアンスが変わるところだね
「哉」がなければあなたが>>742で言ってるような意味合いになるだろうし
・「可及合戦候」の「可」は勧誘の可ではなく推量の可になるので、
「攻撃してどうぞ」ではなく私が735で訳した「合戦になるだろう」という意味になる
これは確認するまでもないことだが、妄想くんの実際に戦闘があったという主張は論外
あなたの指摘通り、もし過去形として既に戦闘があったなら「可」は付かない
戦闘があれば「及合戦候」とか「合戦仕候」という表現になるはずだからね
前段の内容はあくまで東軍のこれからの軍事行動の予定を話しているに過ぎない >>738
・「其返事ハ者や無之候つるか、少も手あてなし尓被打過たる事候」の「打過たる」は、
軍勢つまり東軍が通過したという意味ではなく時間の経過を表し、意訳すると「もう戦いが終わっていた」となる
当時の「打過」の用例も調べてみたが通過するという意味で使われているものはなく、全て時間の経過を表したものだった
・(慶長5年)9月16日付松井康之・有吉立行宛中川秀成書状
「数多大坂ニ于今在之ニ付、一日一日と打過、無念至極生々無之為躰、筆ニも帋ニも難盡事共候」
・(慶長5年)10月16日付寺沢広高宛島津義久・忠恒連署状
「依遠邦其以来無音打過候、本慮之外候」
・(慶長8、9年頃カ)8月9日付片桐且元宛付加藤清正書状
「此地へ御上御逗留之由候へ共、何角打過不懸御目、所存之外候」
まあ古文書の訳って研究者間でも食い違うこともままあるしこれが絶対とは言えないが参考まで >>847
たかが1800の守備隊が数万の軍勢相手に何が出来ると侮っていた節はある。小説的に言えば三河武士を舐めてたんだろう。
予定では伏見城をサクッと落として上方を完全に固めるつもりが落とし損ねたが故に全部の計画が狂った面は有る。 >>847
いや失敗の本質は政治的な支持を
得られなかったことだよ
西軍の多くは上方以西にいたから巻き込まれたもの
自由に去就を決めれたのに西軍に積極的に
賛同したのはごく僅かだ
何より会津征伐に参集した諸将から目立った離脱者が
真田(の半分)くらいしかいないのが痛かった
挙兵自体が自分達の影響力を過信した
政治的、戦略的な失敗
それを戦術で覆そうというのはまあかなり苦しい >>848
秀次の一族を滅殺したり、家康を関東に移したのがそもそも失敗
五大老のうち4つが束になっても家康には勝てないくらい力をもっちゃった
利家も亡くなって恐れるものもなくなったしな >>851
卓見をいつもどうも
気になった点を少々
古語の「打過ぐ」は通過するという意味もあるからどうなんだろうと思ってttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180を見ると「被打通たる事」になっている
関ヶ原スレ民の誤読の様子
確認に大日本史料を読むとttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0070?m=all&s=0067&n=20
たしかに「通」だ
また、同文書では「一 長(長曾我部盛親)土佐殿御弓鉄炮衆ハ、一昨日内府山中へ被打越候ヲ被見候てから、人夫悉如伊勢路被退候而、山中之合戦勝手ニ成由被間候てから、無届ニ皆伊勢路ノ如ク被罷退候」ともある
こちらでは「内府山中へ被打越候」
もう一つ、吉川が同日に「重ゝ致言上候」として出した書状には、「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」と記されていて、「被打通」「被打越」「被押寄」はすべて同一の出来事を指していると考えられる
なので、素直に「通過した」と訳すのが妥当ではないでしょうか 仮に伏見城から挽回するとしたら、越前は調略してるからそいつらに前田は何とか任せて
自分たちは急いで美濃と伊勢、尾張方面を抑えることが大事なのに、またここでもトロトロ
していて尾張まではいけなくなるし
せめて清州を抑えられていたなら、そこにいる兵糧を手に入れていたなら……まだ何とかなったかもしれんのに
大谷や島は小説とかでは名将と言われてるが、このあたりはどう考えてたんだろうか >>850
こちらの部分についてはちゃんと読み直すと「可及合戦候」の「可」は勧誘ではなく推量ですね
「此方申分ニハ、此御和談之事ハ先両人ハかり存候、長大・安国寺・長(長曾我部盛親)土御弓鉄炮衆なとハ被存ましく候間、可及合戦候、左候へハ此首尾相違之やうニ候条、一円ニ御手当なしニ被作せ候者、当陣ノ者不罷出相控候て可罷居候よし、申候て返し候へハ、其返事ハ無之候ツルか、少も手当なしニ被打通たる事ニ候」
ざっくりいえば、あいつら和談を知らないから「御手当」あったら交戦しちゃいますよ、だから一円(南宮山)に手当てしないでもらえればこっちも控えてますよ、ってことですね
だとすると、「其返事ハ無之候ツルか」の「か」は疑問ではなく「が」で、返事はなかったけどその通りになったという意味か
吉川はむしろ自分の功績を誇っていたわけですね
いろいろお恥ずかしい >>855
その部分はそこまで細かく聞かなかったな
私が東軍が通過する?時間が経過する?と質問して、「戦いが終わっていた」との回答だった
確かに大日本史料は「通」になってるね
「打通」なら間違いなく通過するという意味になるな
大日本古文書家わけ吉川家文書之二の913号の翻刻だと「過」になってるんだけどね
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0902/0066?m=all&s=0064&n=20 >>858
本当だ
「哉」ってのはこれか
こっちだとより、吉川が自分の手柄をアピールしてるように読めるね
むしろ、南宮山への徳川主力布陣を違約になるからやめてと この吉川文書案を素直に読んでみたとする
そこから分かること
誤読があったら指摘してほしい
西軍は小早川の裏切りを早くに疑い、不利とみて佐和山まで引きそうな状況だった
これは勝ち目がないと吉川が裏切りを決意
東軍は吉川の合戦前日の裏切りまでは南宮山の勢力を警戒し、家康馬廻りや井伊、本多ら貴重な身内やその他を手当てして攻撃する計画だった
ただ、それだけ南宮山に勢力を割いても福島、黒田、加藤、藤堂のいわゆる外様衆だけでも小早川の手引きもあって山中では勝てると踏んでいた
家康は裏切りの申し出を信用し、池田らは一応残しつつ、計画を変更して合戦当日には山中方面に進出
合戦はすぐに終わった
南宮山の勢力は家康本隊が関ヶ原に進むだけで狼狽し、敗軍の報が入ると次々逃げた 西軍首脳陣は誰も彼も見通しが甘かったが
それにしてもいきなり江戸まで攻め下って制圧
とまで誇大妄想的だったとは思わんのよね
勢多の普請にしてもそこに天下の兵を迎えて決戦
という構想と取るのは早計でしょう
挙兵当初は遥か遠く関東の家康よりも
前田の上洛の方が早い訳だし
他にどこが敵になるかも分明ではない
政権から家康を排除は後退だというのは
単に豊臣政権にとってそうなだけで
それ言ったら武力で政権奪取の時点でそう
でも徳川から政権奪いたかった連中からしたら
それこそが前進なんよ
>>856
清洲を攻略しても東海道は東軍の城が連なってるし
単に東軍先鋒を完全に敵に回して
家康の出馬を早める程度の意味しかないだろね
伏見に家康の家臣が居座ったままじゃ
政権奪取と言っても説得力ないし
最悪東軍先鋒+家康本隊と尾張で睨み合う中
大津城が寝返って田辺城-伏見城と連動
って展開もあり得ちゃって
さほど有利じゃないのではないかと 関ヶ原の輝元の失敗のツケを一番多く払う羽目になったのは毛利ではなく豊臣宗家だけど、そもそも遺言体制が家康と利家の二人が健在であることに全てがかかってる属人性の高すぎるものだからもう戦乱勃発した時点で東西どちらが勝っても豊臣の天下が崩壊することだけは確定なんだよな
>>856
大谷や島は関ヶ原を先祖の武功として誇るに足る激戦にするためにかなり盛られていると思う 広家は家康が来たと聞いて絶望したと思う。広家のところに家康から書状が来たという話は無いからこれは家康は毛利を問題外と判定してたことになる。要は「毛利が敵でも西軍に勝てる」という話で毛利軍が何しようが西軍の敗北は確定したに等しい(少なくとも広家・秀元には思い付かなかった)
広家は毛利の領土保全を図っていたけど事ここに至れば攻撃して全滅(若しくは奇跡的勝利)するか降伏して僅かな領土を許されるかの択一。そりゃ降伏ですよねー… >>854
秀次の件は突発的で明らかに大失敗だけど家康の関東転封は悪くない選択肢
あの段階で徳川を関東に追いやれたのは明らかに成功だと思うけどね むしろ徳川を最悪ここさえ味方についてれば他の全員から背かれても問題ないくらいまでにして豊臣存続のための第一の藩屏にするつもりだったのでは
なお秀忠 >>860
吉川の発言の真偽の程は別にして、通しで読んだけど自分もそのように読んだよ
それで最後に本来なら直接輝元や輝元の側近と相談したかったが、時間もなく通行も不自由だったので
先ずは御家第一で家が続くよう吉川と福原で和睦を調えたと手柄を念押しして締めてる >>865
秀忠は豊臣を討っても秀の字をあらためなかったな 秀忠、綱吉、慶喜
家の字でない将軍もいくらかはいる 石田三成の子孫はいるけど真田幸村や大谷刑部の子孫はいるのかね?
真田は信之の系統は残ってるけど >>862
奉行がそれをわかってなかった無能なのか
それでも自分達で権力握りたい野心家なのか
どっちか気になる
いずれにしろ従来のイメージとはかなり異なるのは確か >>867
秀吉の秀だし秀吉に対して表立って批判めいた事を言ったりしたりする理由も無い
あくまでも秀頼体制以降の公の話で豊臣家と対立しただけだしな >>865
実際そうだよね
渡海絡みの紆余曲折でも徳川前田が身を挺して
止めたって形で治めてるわけで
それが狂ってくるのが秀吉の最晩年
奉行毛利が両大老の動きに制限つけて権力分散させて
西軍挙兵で排除独占を決行して頓挫した >>861
確かに瀬田で決戦ではなく、佐和山もしくは敦賀への後詰の為の布陣であったかもしれない。
だが西軍主力伏見攻城に向かう中、
野戦用決戦兵力もしくは後詰戦力として最東部にいたことは、
毛利にやる気があった表れと見ている。 秀元はやる気満々だったんじゃないの
だからこそ吉川はずっと毛利一門で変な立ち位置になったんじゃなかったっけ 毛利の運命を決する議決に秀元が居ないとは考え難いしそも秀元がやる気だったら広家を押し退けてでも出撃したろう。尤もその場合、秀元と恵瓊や豊臣軍で南宮山を押さえている徳川本隊約四万と戦争せねばならずやる気があっても勝ち目が無いと思った可能性はあるが…
広家と秀元は険悪だったとかでそれで戦後、責任を押し付けあった結果じゃなかろうか。 秀元と恵瓊に黙って徳川と交渉してたんだろ?秀元は輝元に大坂城への籠城も主張してたみたいだし
結局まんまと徳川に騙されて自分が分知されてた所領も全部没収されちゃったんだからそりゃ秀元は広家を憎むわな 家中一族内であっちは戦う気、こっちは和睦降伏する気とバラバラなんてお話にならない
意思統一され指揮命令系統が機能していた東軍とは雲泥の差だな
そりゃ西軍勝てないわ
西軍内だけでなく毛利家中でも同床異夢だったんだから 国とかある程度でかい組織はそういうもんでしょ
あっちと結美ついてる奴がいれば
こっちと結ぼうとしてる奴もいて
トップの判断でどっちかのラインの話が進む
んで失敗したらそのラインの奴らの責任で
別のラインに切り替えて収拾図る
関ヶ原の毛利は単にそういう状態じゃないかな
しかもそれなりにうまく機能した例
うまく機能してなかったのは徳川や奉行と
連絡してたラインじゃなくて
豊臣恩顧と言われる東軍先鋒の切り崩し ただ秀元に広家を憎む道理は無いかと。最終的に徳川との総和談を決めたのは主人の輝元であって広家じゃない。そんなに戦争したけりゃ勝手に突撃すれば良かった訳で広家を憎むのはお門違いだろうさ。もし決戦して予想通り負けてたら輝元は切腹、毛利は改易だったかも知れない訳で。 勝手に突撃できねーように広家が先陣に陣取ってたんだよなあ そもそも毛利グループを語るには小早川の位置付けをハッキリさせとかないと色んな前提条件が変わるんよな 別に広家は陣敷いて止めたとかはしてないんだよなぁ。 前面に布陣して背後を突こうとする秀元を止めたんだろ?じゃなきゃあんなに長い間確執が続いたりしないだろ 真面目な話、吉川広家と毛利秀元の間に確執があったなどという史料は無い。 山に布陣してる軍団を止めようとしたら広家は麓に布陣しないと止められない。広家は麓より上に布陣してるから攻撃したいという奴を止められない。広家は別に家康に「兵を押さえる」とかは約束してないから秀元も攻撃したかったら出来た…尤も広家の軍団が居ない状況で圧倒的兵力を有する徳川を攻撃したらどうなるかなんて秀元だって分かってたろうし内心攻撃したくても広家が降りた時点で勝ち目ゼロと諦めてたって可能性はまぁある。 >>885
関ヶ原の時の話じゃないが(元和3年)9月3日付吉川広正宛吉川広家書状とか見たら広家と秀元が仲悪いの分かるよ
長いんで一文だけ抜き出すけど他でも秀元に対して色々文句言ってる
「御家れきれきをも役不立、公儀を我一人仕、別ニかたをならへ候者無之様尓仕なし、
公儀内儀共仕度様可計との分別と相聞候事」
家中のお歴々を無能者扱いして、公儀のことは秀元一人で差配をし、
秀元に肩を並べるような者はいないかのように振る舞い、
公儀・内儀共に秀元のしたいように計らう分別だとこちらにも聞こえている 秀元と広家の確執が関ヶ原に由来してるかは我々にはわからない。でも正直怪しいとは思う。仮に南宮山の毛利軍が徳川を裏切るとしてどうなるかと言うと南宮山東麓の徳川軍約四万と交戦、徳川軍を数キロ以上後退させ東山道を5キロ行軍して東軍背後を強襲する事になる。若しくは出来るかはわからんが南宮山を南に降りて裏道を通って松尾山を攻撃するか。結果論だがこれは2時間以上掛けたらアウト。
秀元から見てもまず前者はいきなり家康を討ち取る様な奇跡が起きないと結局徳川軍に背後を突かれるから危険、後者は道が険しくて間に合うか不明なのは明らかだったはず。しかも失敗したら毛利は改易、配下の全員が牢人になる訳で… 秀元と広家の仲がわるいとか関係なく
関ヶ原の時点で停戦は毛利全体の方針でしょ
秀元は戦うつもりで広家の和睦が独断
ってのは小説ならおもしろいけど非現実的 家康が輝元はアレ過ぎるから広家に周防長門を与えて毛利軍団を仕切らせるつもりだったとか色々言われてるよね 少なくとも恵瓊は外されていたのは確か。ただ秀元まで外されていたかは不明。秀元がヤル気だったら広家には止められないんだから共有くらいはしておかないと危なかったわけだし。勿論秀元がそんな馬鹿な戦をする筈が無いと広家が信じてた可能性はあるけどそれよりは一言通してた可能性の方が高かろう。 秀元は秀包や立花宗茂と一緒に大坂城で籠城することを輝元に進言したってのは? 関ヶ原の戦況を秀元がどう考えていたか。
まず十四日、徳川家康が赤坂に着陣。東軍先手衆は垂井に移動する。これは大柿からも見えたので夕刻までに軍議が開かれて大柿・南宮山で決戦と戦略決定する。ところがその後、小早川秀秋が松尾山を占拠したとの報が大柿に届く(松尾山から大柿まで10キロ以上ある事と東山道を東軍に押さえられていて報告が遅くなった)
でどうも西軍はミスを犯した。本来直ちに軍議を行うべきところをそれをしなかった。石田三成ら西軍主力部隊は連絡無しに出発してしまう。 南宮山に連絡が無いから秀元がこれをどう解釈したかだけど二つしかない。一つは大柿衆が敵前逃亡したというもの。家康に恐れをなして毛利(と豊臣)軍を見捨てて佐和山に逃走したというもの。この場合秀元は絶対に動かない。二つ目は松尾山が秀秋に取られた事を知っていて大柿衆はこれを討ちに行ったというもの。ただこの場合、毛利軍も即座に山を降りて東山道に展開しないと東軍を止められない。東軍先手衆が東山道を西上し出した時に騒いでも遅いのは分かってた筈だが… 秀元が輝元に徹底抗戦を叫んだって書状はどこにあるんだろうか?原文分かる方居たら教示頂けると幸いです。もし広家が秀元を無視してまたその行動を阻んだなら書状は広家への憤激で溢れてるはず。逆に秀元も納得していたなら大坂城への籠城は「関ヶ原は負けが見えてたので戦力を温存した」程度の認識だったことになる。 関ヶ原本戦の時点で広家が引き出してた条件は
「本領安堵」な訳だから秀元も恵瓊も
あえて異をとなえる立場にはないだろうよ
のちに詰め腹切らされる恵瓊にしても
この時点で和睦の条件にされてたわけではない
その交渉自体を知らないというのはなかろう
それじゃ広家の交渉は毛利家に無断で
なんの実効性もないことになる 要するに本領安堵で皆納得させたけど実際は吉川に周防長門で他は取り潰しって裁定だったから秀元は広家に騙されたとブチ切れたってこと? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています