石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ >>三成が挙兵しなかったら
博士「大いに関係あるぞい。 この事件で敦通・通世は京都から追放され、久我家は通世の弟通前が跡を継ぐ事になる訳じゃが…」
博士「久我家とは、太政大臣にはなれる清華家の一家で、村上源氏の宗家…すなわち『源氏長者』の家系なんじゃ」
ケン太「それで判った! 家康が源氏長者を名乗らなかったのは、いくら官位が一番でもそんなあやふやな出自の人を、『源氏長者』にしたくない人たちがいたからなんだね!?」
ゆう子「具体的に言うと、その代表が久我家だったのね」
博士「この事件の直後から、利家との和議以降、各方面に異心はないという書状を連発していた家康が、強気に他の五大老に対していちゃもんつけて討伐を連呼するようになる」
ゆう子「とりあえず、なんでも良いからきっかけを作って、一家ずつ屠りたかったのね」
ケン太「家康にとっては、降って湧いた征夷大将軍就任という手段が、現実的になってきたからだね」
博士「そうじゃな。 一般に家康は上杉討伐に向った後に、石田三成が挙兵するのを狙ったと言うが、別に三成に挙兵されなくても良かったんじゃと思う」
ゆう子「一家ずつ潰していけば、最後は強引になんでも出来るものね」
https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-10800367294.html お人形遊びに「博士」を登場させるのか。
書き手の境遇や心情が滲み出てるな。 会話形式のほうがわかりやすそうだからという事らしいが
博士が出現したのこれ一回だけ 石田三成の研究をしている人が、光成準治先生って分かりにくい 前田 なんくせ
上杉 こっちはほぼ黒。攻撃を受けて当然の口実を与えた
豊家 鐘問題でボロだして口実を与えた
三成が挙兵しなくても何かしら口実を見つけたりしてほかの家を従わせていってたろうな
北条の有力御家人粛清みたいに 前田は利家時代に喧嘩を売ってきた前科がある以上は難癖ではないだろ
それに利長の謀反を訴えてきたのは奉行連中であって、別に家康が自分で主張したわけではない 段取りとか形式なんかに全く頭が回らない知能の奴っているのかw
それで一人前の気で物言ってるんだから勇敢だな
まあそのぐらいのガッツがないとこの知能じゃ社会を生きていけないんだろうけど ハンセン病でもう後先が無いキチガイに巻き込まれた三成可哀想 主犯は宇喜多秀家
負けたから全部みっくんのせいにされた 1番めんどくさい小西を処理されたのを忘れられてて悲しいな 権力闘争は綺麗ごとじゃないですし。
実際、丹羽や蒲生が死後に大減封受けたから家康死後は予想しやすい
家康が悪辣な手を使ってもと考えるのも >>18
朝鮮行かせて削れば良かったのに
行かせたら現地じゃ親分視されるだろうし目の届かない所で派閥作られるのが嫌だったんかな >>19
大谷吉継健康説の根拠は二つあって一つは伏見城攻めの時に吉継が大酒を飲んで二日酔いになったという書状(確か島津書状)と大谷吉継が8月18日に北政所と共に豊国社に社参したという舜旧記の記載による。吉継が重い病を患っていて最期の奉公と命を燃やしていたなら酒の飲み過ぎなんかならない。豊国社は代理を出したって説もあるけどハンセン病の様な所謂業病を患ってる人間に供奉を命ずるほど北政所が大らかだったとは思えない。仮に単なる死病だったとしたら苛烈過ぎる。てことで大谷吉継は健康そのものだったと思われる。 死に直結するような病は患ってなかっただろうが健康体はないわ
外岡氏も吉継は文禄3年以降病気の重篤化を理由に一線を退いていたことを指摘してる
慶長5年から白頭を名乗り黒印を使用し始めたのも眼病が更に悪化したため花押を書くのが困難になったからだろう >>18
太閤遺言でも秀忠、利長は特に遺言されてるんで
一転大減封にさせない方針ではあったよ
次世代構想ができてなかったり
幼少で計算に入れられてなかったりして
無意無冠だった二人とは状況はちとちがう
まあでも政争仕掛けられて負けたりとかは
あり得ちゃう体制なのだけども 病状が重かったら大酒飲んで2日酔いなんてまず有り得んから健康体だったんだろ。それとも大谷吉継もアル中だったのか?一世一代の大戦を前に悪い体調を押してでも酒飲まずにはいられない身体だったのか… 大谷吉継の眼病って慶長には治ってたんじゃなかったかな?
舞を見たとか記録に残ってたはず。それに目の視えない男が最前線に立っていたとも思えないし。 そもそも茶会で膿が云々とかは戦後に出来た話で一次史料はおろか江戸時代の本にすら書かれてないって話だしハンセン病の可能性は無い。健康に問題があったとしてもすぐに快復する程度だった事になる。 慶長4年10月2日付島津忠恒宛大谷吉継書状
「併近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候」
本人が近年はずっと病気で誰にも連絡していないと説明してる
さっきは慶長5年から黒印を使用し始めたと言ったが誤りなので訂正する
白頭を名乗り始たのは慶長5年からで、眼病を患った文禄3年以降の吉継発給書状には黒印が使用されてる
その後死ぬまで黒印が使われてるから眼病が治ることはなかったと思われる
とは言え完全に失明してるわけじゃないし支障をきたすことはあってもそりゃ動けるでしょ 目が悪くなる病気で考えられるのはそうは多くない
ハンセン病、梅毒、糖尿病くらいかな。
この時代一型糖尿病になるとインシュリンがないから直ぐ深刻になるだろな。
梅毒も、数年程度で深刻になる例も記録にあるし。 大谷吉継は慶長四年から七将襲撃事件・宇喜多騒動と外交問題に働き詰めで到底死病とは思えないし関ヶ原でも積極的に書状を送ってる。真田昌幸に対しては三成より早くコンタクトしてる。少なくとも健康体で死に掛けだった訳では無いんだろう。てかそうでないと舞い観たり酒飲んだり豊国社詣たりしてるのはなんなのかって話に。 >>20
秀吉に入っていた情報だと朝鮮は超豊かな大地で唐まで楽勝って話だったから徳川に手柄を立てられる訳にはいかなかった。で奉行が入って真実に気付いて秀吉を止めようとしたけど止められなかった。
慶長では複数の理由で家康を頼れなかった。まず秀次を殺した事で秀頼を守れるのが太閤秀吉と内大臣家康しか居なかった。また家康を送ると現地諸将は家康と繋がりが強くなるから送りたくない。それにもし徳川が敗れると日本最大勢力が大打撃を被ることになり明・朝鮮軍が勢い付く。 文禄の役では伊達政宗・上杉景勝の東国大名が動員されてるので一概に東西を理由にはできない 上杉も伊達もまともに戦ってないし西国の大名と負担は雲泥の差 伊達政宗は晋州城(もくそ城)攻撃に参加している。晋州城主金某は降伏勧告を蹴って徹底抗戦したので大激戦となった。
上杉景勝は熊川城築城を行ってる。こうした普請の殆どは諸将の持ち出しだった。何もしてないとは言えない。特に伊達政宗に至っては現地で戦闘までしてるしな。 西国の大名と負担はどうかというと全然軽い
伊達も2回目はパス 母親宛の書状で政宗は「九州や四国の大名はまだ朝鮮に在陣するが、私はこの城の普請が終われば帰国できそうだ。
これも朝鮮から遠く離れた国を領する我等故で、この時ばかりは東北の大名で本当に良かった」と心情を吐露している
何もしてないとは言えないが、負担で言えば西国大名とは歴然の差がある >>34
元々は、出羽米沢が本拠地でした。
しかし、欧州征伐の後に旧領回復の陰謀がばれて陸奥陸前に転封。
上杉と険悪なのは旧本拠の米沢が上杉領なのもある >>38
戦争地近くの諸将が先陣切るのは兵站の問題があるからだぞ。戦争地から遠ければ輸送コストが高くなる。
まぁそもそも「家康が動員されてないのは東の大名だから」が伊達政宗・上杉景勝らの動員によって否定されてるのでその軍役の軽重は論ずるものでは無いんだけどね。 動員じゃなくて渡航だろ
渡航した東国の大名もいるが、渡航してない大名は東国がほとんど
そもそも負担の重さが問題なんだから渡航したとしても戦病死者続出の西国の大名に比べて東国の大名の負担が軽いのは自明 唐入りで削るという発想自体が的外れだから
負担がどうこう議論しても意味ないんじゃない >>24
島津家文書に大谷吉継が伏見城攻めの最中に酒を飲み過ぎて次の日も気分が悪かったと書いてる書状が残ってる。そこまで飲めると言う事は体調はかなり良かったんだろう。吉継は慶長四年から働き詰めだしな。 伊達政宗らが普通に朝鮮に行かされてるし城の普請等の軍役もこなしてるので「家康は東の大名だから朝鮮に行かなかった」説はとうに破綻してる。
なんで伊達政宗らが朝鮮に送られてるかというと明らかにもくそ城攻略のため。秀吉は晋州城落城で明・朝鮮との講和を有利にしようとしてたから予備兵力も投入した。つまり秀吉は意図を持って徳川を使わなかったわけだけど俗説にあるように関東への移動を理由に断られたからかもしれないし家康に手柄を取られたく無かったからかもしれない。 実の所、口実作ろうと思えば何でも出来るからな。
大坂の陣みたいに、いちゃもん付けしようと思えばさ。
何故徳川を放置したんかね。 妄想太郎は無視として
朝鮮出兵は西国の大名が中心
東国はもともと相対的にずっと負担が軽い
その基本的なルールを変えて徳川だけ難癖つけて先陣任せる?
関東転封したばかりだし、効率面でどうだろうね
勝つための出兵である以上、西国の大名が行くのが効率的 東の大名は渡航してない!→東の大名は負担が少ないから!
とか意味不明なすり替えしても無意味じゃね?東国の大名が渡航してる以上さ。負担が軽くていいなら躊躇う理由が一つ消えるしね。 >>49
ID:C1AxxNDr
ID:WLgvrsnI
ID:GR+gwpjE
ID:mQV8+gyt
これ全部あんたの書き込みだよね?
今日だけでこんだけID変えてるのは何か意図があるの? 家康が東の大名だから外征に呼ばれなかった!ってのは伊達政宗・上杉景勝が文禄の役に呼ばれてるから否定された。当時の大名にも「東だから朝鮮には行かなくて済む」という発想は無かったんじゃないか?南部信直が三月に「(朝鮮に)渡航したくない。朝鮮で病気になると死ぬ」って書状を出しとるらしいし。 >>50
そりゃこんなにガバガバな知識だと突っ込まれるさ。「東国の大名は朝鮮に渡航してない」なんて言ってる学者居るのか?一体何を読んだんだろうな。
小学生向けの伝記にすら伊達政宗が朝鮮に行きたくなくて金ピカの装備で名護屋に行ったなんて逸話描いてるのに。上杉景勝が渡航してないことはあんま知られてないけど。 >>20
文禄2年3月14日付小少将(義姫の侍女)宛伊達政宗書状
「二番ニとしいへ・かもうひた、三番ふねニいへやす、そのほかくハんとう・ゑちこしゆ、
ミなミなのこり不申いたり申候、としいへの一くミハ、今月廿日ころニ候へく候」
という具合に一応前田も蒲生も徳川も皆渡海予定ではあったんだよね
前田・蒲生組はこの一週間後には渡海する予定だったし間違いなく彼らの渡海計画はあったが結局中止になってる 兵糧は基本各自負担だと思ってたが豊臣家からの補助は半分程度はあったの? 蔵米の兵糧支給は有償でしょ
あと水軍が足りなくて徳川とか前田みたいな大軍は運ぶの困難
兵糧もそうだし 今川といい、徳川といい、せっかく大軍を擁してるのに
なんで本陣を手薄にすんのさ?
義元は討ち取られたし、家康も真田に馬印を引き倒されるほど追いつめられてたし 寡兵で大軍を破った戦いであればやはり桶狭間の戦いだな
駿河・遠江・三河を支配し、海道一の弓取りとまで言われた今川義元の軍2万5千を
尾張一国の領主に過ぎない織田信長が3千で撃破し、義元の首級をあげた
兵力差8倍以上
まさに戦国史上ひいては日本史上最大の番狂わせ 頼朝は義経がいなかったら平家を倒せなかった
家康は信長が搗いて、秀吉が捏ねた天下餅をくすねた
征夷大将軍らしいのはやっぱ尊氏
九州大返し、そして湊川の戦いで大勝利とかロマンやん >>48
「徳川は転封したから出兵せずに済んだ」も事実では無い。
というのもまたも伊達政宗でこいつ天正19年(1591年)に葛西に転封されてる。家康の関東転封が天正18年とかだからかなり近しい。にも関わらず政宗は文禄3年(1593年)に朝鮮に渡航させられてる。家康は本国待機。だから転封があろうがなかろうが秀吉は構わず軍役を課してる。 >>61
家康は大軍を率いて名護屋在陣で秀吉の補佐をしている
本国待機なわけがない 伊達は小田原参陣が遅れて豊臣政権下で手柄がない
立場上忠誠をアピールする必要があるから志願して浅野と渡航したんじゃ?
徳川とは立場が違う 小西が「太閤殿下の要求した7か条を全て飲ませました」など出鱈目報告を繰り返していたからな
降伏したも同然(と思っている)相手に徳川とか前田を渡海させる必要はないだろ
小西の出鱈目報告がばれた後に徳川に渡海をお願いするのも、騙された自分が間抜けに感じてしまうし
慶長は西国大名を中心に尻拭いして来いという態度になるのは当然だろう 三成「豊臣家を守ろう」
清正&正則「うるせー馬鹿」
三成「秀頼様の御出陣を!」
淀殿「ダメじゃ」
家康「豊臣の領地は削減ね」
淀殿「ファッ?!」
家康「加藤も福島も改易ね」
忠広&正則「ファッ?!」
三成「だから言ったろお前ら・・・」 北条家臣「真田昌幸の城を奪ったお!」
↓
秀吉「惣無事令って知ってる?上洛して直接謝罪に来てね」
↓
氏政「名門北条が百姓出のサル顔に頭下げれるかヴォケ」
↓
秀吉「やるのか?おっおっおっ」
素直に従って上洛していれば毛利や島津や上杉みたいに後北条も残れたかもしれないね そもそも基本的な知識だと思うのだが
当初の計画はあくまで唐入りで
朝鮮出兵はその前哨に過ぎなかった
んで利家家康どころか
秀吉自身も渡海する予定だった
ところが楽勝のはずの朝鮮で
初戦こそ圧勝で首都を落とすも
政権は降伏せず明の援軍も来て
統治がままならず
万一を懸念して秀吉家康利家の出馬が
引き伸ばされたという展開
(さらに早期講和を目論む小西石田の
欺瞞交錯による遅延も) つまり別に徳川が出馬する予定が無かったのではない
敵に近いほど兵役を多く負担されて
先陣を切ることを期待される傾向はあり
それは朝鮮出兵でも基本的にはその通りだが
その話が何故か徳川は出馬予定がなかったと
すり替えられてないかね?
実際は太閤ともども出馬予定が繰り延べられて
出馬に至らなかっただけよね つまり別に徳川が出馬する予定が無かったのではない
敵に近いほど兵役を多く負担されて
先陣を切ることを期待される傾向はあり
それは朝鮮出兵でも基本的にはその通りだが
その話が何故か徳川は出馬予定がなかったと
すり替えられてないかね?
実際は太閤ともども出馬予定が繰り延べられて
出馬に至らなかっただけよね >>65
三成「関白が謀反を企てている。豊臣家を守ろう」
清正&正則「うるせー馬鹿」
三成「秀頼様のために秀次を妻子もろとも粛清しましょう」
秀吉「秀次を妻子もろとも殺し、家康を筆頭大老にして豊臣を任せる」
三成「ファッ?!」
清正&正則「だから言ったろ」 秀吉も秀吉で家康を妙に信用し過ぎだよな
古い付き合いでも腹の底は見抜けなかったか 政権がお飾り秀頼、実質トップ家康で
安定してれば問題なかったんよ
あえて家康が危険を犯して秀頼滅ぼす必要なくなる
むしろ秀吉は奉行たちを信用し過ぎた
政権の安定を優先して己の権益失ってでも
新しいトップに従うとは人間ならないが
そこが何故かわかってなかった
あるいは冷静に勝ち目ないと判断できると
思ったのかもしれないが >>56
基本的には各部隊が負担する。ただし公儀が軍役として行う場合は支度金下賜や公儀が貯蓄した物資の使用が許可されることがある。文禄の役だと事前情報がデタラメだったのと朝鮮水軍の活動で補給が出来なくなった、ってのと諸将が秀吉怖さで現実の戦況を報告しなかった事が被害を拡大させた。 >>73
なんで妄想でシッタカするの?
『豊臣政権の朝鮮出兵における兵糠米調達政策とその実態』って論文読んだ?
ネットで簡単に読めるんだけど
各大名は兵糧自弁、足りなくなったら公儀からの借米
公儀から支給されるのは秀吉直臣団だけです
妄想くんの言っていることの根拠教えてくれる? >>67
凄い矛盾してると思わない?秀吉の狙いは唐入りなんだがそれが不可能という状況でしかも秀吉自身の渡航すら出来ない程の劣勢だった。だというに「明が降伏した」という明らかに非現実的な報告を何故信じるのか。普通なら「日本を押してる明が降伏なんかしない。何かある」と思うだろう?まぁこの解答として「秀吉は既に論理的思考が出来なくなっていた」ってのがあるしその可能性はかなり高いらしいけど。既に認知症に罹っていたとか。 >>75
妄想の前にシッタカのお詫びは?
なんで都合悪いとシカトするの? 秀吉は明朝鮮相手に勝ったと思ってたのは明らかだからな。でなければあんな無茶苦茶な講和条件を押し付けたりしない。あれだけ高飛車な講和が結べると思ってたんだから正しい戦況を知らなかったことになる。大体秀吉の渡航が延期になったのは天候が理由だし。 五月の漢城落城を知って秀吉は渡航しようとしたけど家康・利家に止められた。ここで二人は「秀吉が渡航する時には共をするから」と言ったという。結構興味深い。少なくとも二人は外征軍の現実を知ってた訳で故に朝鮮には渡りたくなかったろう。こうして秀吉を止めるように振舞いながら実は渡航の順番を最後にしたのだろうか。 人たらしと人を使う能力、家臣の献策を聞く能力に長けてたが
人の言うことを聞かなくなって自身の能力を過信した秀吉自身の軍略の無さは小田原征伐の忍城水攻めから出ていた
秀吉の水攻め指令に現場の三成らは大反対
秀吉の命令だからと渋々実行したら決壊して大損害&沼地化して逆に難攻不落の要塞化
朝鮮出兵も秀吉の当初の目的の唐入りなんか目指さず、秀吉が来ても迷惑だから止められてただけでは? >>79
適当なこと言うな
漢城陥落前の天正20年4月28日付福島正則宛豊臣秀吉朱印状等で既に秀吉渡海の意向は述べられてる
書中で秀吉は自身の渡海準備のため奉行を添えて空き船を名護屋まで運ぶよう命じてる 渡海して悪戦苦闘し彼の地で客死でもすればまだ言い出しっぺとしての責任とったとも思えるんだがな
本人以外ほぼ誰も望んでいなかった国を賭け物にした外征を
結果的に配下任せのやりっ放しで何の後指示も出さず死んで
残ったのは駆り出された諸侯の疲弊と政権の分裂と衰退
これで家康が座りしままに天下餅食ったなんてよく言えるわ
秀吉が捏ねるの放棄して腐らしそうになった天下餅を危うく家康が救いあげて食品として完成させた
残った豊臣家は天下餅食うには幼すぎもしくは衰え過ぎて無理やり食わせたら喉につかえて死亡確定だった >>80
朝鮮出兵は最初から失敗して当然の戦だった。指揮官が名護屋にいてそこから指揮を行うからタイムラグがある。一週間前の情報から一週間先の未来を予測しないとならない。正確な情報伝達が不可欠だが諸将は秀吉を怖がって都合の良い情報だけ送ってきた。こんなので勝てる指揮官は居ないわな。石田三成なんて諸将に軍役拒否させて欲しいって言ってるくらいだし。 >>33
伊達政宗は東の大名じゃなかった…?北の大名ってカウントしてるんかな >>84
そういうのいいから
シッタカしたお詫びは? >>75
基本的な歴史の理解が矛盾してる訳でなく
そういう矛盾した状況だったんだよ
トップに対して失敗してると言えない状況
歴史上というか今の時代の身近な例でも
普通に生活してたらいくらもあると思うけど? >>79
実際秀吉が出馬していたら泥沼化して
撤退がより困難になった可能性は高いよ
秀吉が出馬してたら勝ってたとかは楽観的過ぎる
当面の戦闘での勝利は得られても政治決着が無理
目的だった明を降伏させる全面勝利は得られず
かと言って目的達成もできないうちに
秀吉が撤退するのは政権の明確な失敗となりかねない
そして家康利家が日本にいなくなれば
秀吉を(うまく)諌められる人はいなくなる
政治的にもふたりの渡海引き伸ばしは必要だった
その点では家康利家奉行の利害は一致してたんよね 秀吉が朝鮮に渡っていたら現実を認識して朝鮮出兵は即時打ち切りになった可能性が高い。秀吉が認知症になっていて適切な判断が出来なかった可能性もあるが流石に聞いてた朝鮮と現実の朝鮮の違いを知れば唐入りの不可能さを思い知っていたろう。そういう意味では本土で裸の王様だったのが悲喜劇だった。 >>87
単純に秀吉の認識の問題。秀吉が朝鮮の現実、日本軍大苦戦を知っていたなら明に高飛車な講和条件なんか出さない。史実として秀吉は明・朝鮮に勝ったと思ってるからあんな非現実的な講和条件を突きつけた。これはつまり秀吉は朝鮮の現実を知らなかったということ。皆が朝鮮渡航を止めるのは苦戦してるからではなく気候の問題と思ってた。じゃあその秀吉が家康を朝鮮に送らなかったワケは?伊達政宗や上杉景勝は渡航してるから国の東西は関係ない。答えは家康に手柄を立てられたく無かったから、くらいしかない。 三成は秀吉の出陣を要請したらしいけどそうでもしないと戦争が終わらないとみたんだろ >>89
そういうのいいから
なんでシッタカしたという指摘は無視するの?
論文読んでくれた?
はっきり書いてあるよね、読めば
直臣以外は借米だと
図書館で取り寄せなくてもPDFでさくっと読めるんだから読んでくれたよね? >>92
一応本土に「聞いてた話と全く違う!このままだと日本は負ける!秀吉さまに話して戦略を変えるよう説得してくれ」と書状は送ってる(名護屋博物館所蔵)ただこれは秀吉には披露されなかったと見られてる。この時点で三成は秀吉を見限った。もしくは秀吉の絶対に叶う事の無い夢が叶ったという、優しい嘘を伝えてやることにしたんだろう。明はおろか朝鮮すら倒せないことを秀吉が認める筈もないから。 >>94
で、シッタカした件についての見解は?
君の妄想なんて誰も興味がないんだよ >>95
お前さんが何にそんな興奮してるんだ?朝鮮出兵だと直臣だろうが自弁だぞ。有名なのが加藤清正書状(『今井文書』『本妙寺文書』)で清正は国許に向けて唐入りの物資を集めさせたり、また朝鮮に物資を送るよう命令してる。戦国時代、部隊長が全ての差配をするのは当然なのでそこまで妙じゃない。つまり秀吉は自分の子飼衆にすら物資を与えてなかった事になるがおそらく何らかの支度金位は渡していたろう。 >>97
なんで文末のそれ、わざわざサラッとおまえの妄想書いてんの?
そういうところが嫌われるんだよ >>97
「おそらく」という根拠なきものをさも前提に話すからおまえは妄想太郎といって忌み嫌われるんだよ
ちなみに清正は直臣ではない
旗本と呼べるものが直臣だから根本的な認識も間違っている
頼むから書き込まないで
害悪 >>98
見事にかぶったがこれが共通認識ではないかと思うね 途中でいきなり知識不足丸出しの変な妄想が入るからすぐアイツだと分かる
指摘されてもスルーして再登場
相手にするのも気持ち悪い >>98
だからお前さん何興奮してるの?どっかで論破されて頭真っ赤とか?
仮に秀吉が何ら支援をしていなかったとすると秀吉はとんでもない暴君になると思って言っとるだけよ。お前さんが「秀吉は部下を死地に裸で送った最低野郎」って言いたいのはよく分かったが… >>102
横だが、支援した根拠史料教えて
あ、君は史料読めないんだったね
撤回撤回
だろうで史学できるなら苦労はないな
おめさんには理解できないだろうけど
頼むからいろんなスレでしゃしゃってこないで
そのスレ必ず過疎るから
邪魔だって思われてるの分からない鈍感さんなの? >>102
あと、紹介した論文読んだ?
簡単に読めるのに読まないとかありえんけど
妄想が楽しいだけで新たな知識はインプットしたくないのかな
ならもう来ないで >>97
今井文書?
清正が国元から物資補給を命じてる書状でそんな書状あったか?その今井文書とやらの日付は?
本妙寺文書で物資補給に関する書状は文禄2年4月28日付のものが一通だけあるが、関連史料なら下川文書が圧倒的に多いだろ つまり秀吉は外征という大事業にあたって僅かの支援も行わなかったと?
…ひっどいなぁ。秀吉の株がまた一つ下がったね。 >>106
株とか評価とかどうでもいいんだよ
事実としてあったかなかったか
妄想で下駄はかせて何になるの?
寄り付くなキチガイは >>105
今井文書っていうと天正十九年極月の加藤清正文書では?内容は唐入り始まるから物資集めるぞってもの。その後朝鮮出兵が始まると清正は国許に物資を送らせようとしてるけど書状の感覚からして殆ど送れてない。 >>85
秀吉「家康殿は東の大名だから朝鮮に行かなくて良いぞ」
秀吉「政宗!景勝!お前ら朝鮮に行け!」
そりゃ大坂の陣ですわ ホントズレてんなあ
横から教えてやるけど加藤清正は大大抜擢されて秀吉の御恩に応えないといけない立場
だから他の大名と同様に兵粮も自分で十分に用意することが「忠節」の証
高級取りのサラリーマンが自分で良いスーツを用意したり自己研鑽する必要があるのと同じ
その前提がズレてるから秀吉は最低野郎とか裸で送ったとか変な妄想に繋がってる >>108
12月17日付清正書状か
翻刻見れてないから確認できてないが、内容的には唐入りのための物資調達命令
ではなく、名護屋城普請に関する物資調達を命じたものじゃなかったか
渡海前なら渋沢栄一が所蔵してた天正19年8月13日付の清正書状の方が唐入りに向けての詳細な指示出してる
朝鮮出兵後はほとんど送れてないは言い過ぎだが、下川文書見ると鉛と塩硝が
常時不足してたようでかなりの頻度で早く送るようせっついてるのは確かだな
あと鬱陶しいから一々ID変えんな >>90
秀吉に報告あげる連中もついてくし
今更白紙撤回できる状況でもないよ あと変な話してるけど加藤清正は大名
「直臣」は豊臣家の禄を食む連中
大名は自弁 >>111
まず文禄二年四月十四日加藤清正書状(原富太郎氏蔵文)、同月二十八日加藤清正書状(本妙寺文書)に清正が兵糧欠乏に陥っていた事が記されているね(「都辺兵根不相続」「兵糧相越候事専一候」「兵糧之儀、成次第可差越事肝要候」)同じく玉薬に関しても数回催促が行われているから補給がままならない現実が窺える。具体的には文禄二年で「兵糧を送れ」と言っている書状は簡単に数えて三月に一通、四月に二通、六月に一通、八月に一通ある。 たしかに加藤清正は熊本へ要求した物資不足が半分も届いてないと責めているが、これを公儀に責任転嫁するのは間違いだし清正もそのつもりは全くない 二人の話の割り込みになり、そんな話はとっくにしてたなら済まないが、朝鮮出兵の書状ずらっと見てきた
朝鮮・明との戦争中は秀吉書状に大名の船は兵糧運送のために、秀吉管轄として全部集められてるから戦争中に各大名が自弁したという話はないな
釜山に兵糧が集められて、それを「手繰り」で漢城に至る城の古い御城米と交換しろという話が多々あったな
古くなった御城米は支給なのか借米なのか分からんが、奉行から加藤清正に兵糧は要るかという返答に、「現地調達(略奪?)したから要らんわ!」と書いてる辺り
船が秀吉に使われてるから釜山経由で奉行から貰うか現地調達するしかないわな
そろが兵糧欠乏による漢城撤退からの敗戦になるわけだけど >>116
船は秀吉が用意(各大名から有償で借りた)して各大名が運ぶ兵粮の運賃を免除した
この部分は秀吉の負担
兵粮自体は各大名が用意した(自弁)か、現地調達ありき
秀吉直轄軍の兵粮(御蔵米)は各大名の兵粮と厳密に区分され、原則支給されなかった
されたとしてもそれは借米か何かの褒美として与えられたもの(つまり有償)
御蔵米は秀吉直轄軍だけのものだけではなく、いざという時の籠城戦のためのもの
そもそもの話、直轄地の収入だけで各大名の兵粮賄うのは無理に決まってる(直轄地だって普通に軍役負担があるのだ)
当時は兵粮=現金同等物だから例えば加藤清正が秀吉に兵粮を要求するのは褒賞や減税を要求するに近く、不忠扱いされる で話が戻る。秀吉は何故家康を朝鮮に送らなかったのか?
東の大名だから送られなかったというのは否定された。朝鮮出兵が負担になるから嫌がったのか朝鮮で手柄を立てられたく無かったのか?そう考えるとやっぱり秀吉、明や朝鮮を甘く見てたんだろうなぁ。 >>118
話を戻すけど、論文読んでくれた?
支度金の妄想、なにか根拠文書ありますか? >>117
兵糧を要求しても不忠扱いにはならないんじゃないか。名護屋博物館所蔵の本土宛三成書状に小西行長の言として前線の兵糧不足を記してる。翌年一月に行長が兵糧不足で退却することを報告してる(富田仙助文書)行長と三成は盟友だから行長を嵌める讒言じゃない。じゃあ何故行長は三成に兵糧不足を訴えたのか。兵糧を送ってくれと言いたいんじゃないか?勿論その裏には「それが出来ないなら外征を止めろ」があったんだろうが。つまり仮に清正が兵糧不足を訴えても不忠と切られる事は無かったろう。 >>118
東国の大名だからだよ
文禄の役と慶長の役で分けて考えれば明らか
慶長の役は伊達も上杉も渡航していない
文禄の役は伊達と上杉が渡航したとはいえ、渡ってないのは東国の大名ばかり >>122
醤油うこと
清正を直臣扱いしたり基礎知識がなさすぎるんだよ、あいつ
史料も誤読するから何か挙げていても注意が必要 >>122
天正二十年正月の秀吉書状だと借米の場所は大坂か播磨。仮に借米だとして播磨からの輸送代や手続きは誰が取るんだ? >>121
「東国の大名だからだよ」→わかる
「伊達や上杉は渡航してるけど」→いやおかしいだろ
ここまでド派手な自爆芸は見た事無いんだが誰の本に書いてあるん?伊達や上杉が渡航してるなら東国の大名でも渡航させられることになる。 >>124
上記に挙げた論文読めばほぼ答えが書いてあるよ
ほんと学ばないんだな
妄想だけで楽しめるんだから楽な性格してるね
ある意味うらやましい >>124
だからさ、紹介された論文読めよ
何か不都合あるの? >>125
朝鮮出兵のwikiでも読んでこいよ
東国の大名の負担は圧倒的に軽い
伊達や上杉が渡航してるのに徳川が渡航してないのはおかしい、なんて変な妄想するのは一かゼロでしかものを考えられない君特有の症状
兵站の問題で北上が難しいのに前田や徳川の大軍渡航させても無駄だろ
ましてや政権の中心なのに >>114
自分で史料読んでるか?
文禄2年6月(朔日付)の清正書状挙げてるけど兵糧送れなんてどこに書いてるの?
国元の山中にある米・大豆は兵糧として渡す分以外は全て売り払えとしか書いてないが
「国本山中有候八木・大豆之儀、御兵粮ニ相渡、残分悉うり可申候間、無由断可出事肝要候」
この「御兵粮ニ相渡」は兵糧として使用する分って意味で、ここでは送れとは言ってない 都合が悪いことには返事すらしないクズムーブメント
だからどこでも嫌われるんだよ
それでも妄想を垂れ流すからスレが過疎になる
こういうのを老害と言うんです 普通は論文を紹介してもらったら「ありがとう」と言って読むものだが
シカトして妄想垂れ流すとはどういうことか? >>127
では申し訳ないが言わせて貰うと、君がその論文を信じているならば正直正気を疑うかな。そもそもこの論文は先行研究による補強が無いがそれを抜きにしても酷い。私も秀吉は嫌いだけどこの論文は秀吉への嫌悪感で満ちていると思う。
論文の内容としては複数の一次史料から組み立ててはいる。まず秀吉は蔵入地から兵糧を集めていてこれは唐入りの為と説明してる。そして兵糧が朝鮮に送られた事を挙げる。
ところが突然、天正二十年正月の秀吉書状から「これらの兵糧は外征組の為ではなく「秀吉が統率する軍隊」の為だとする。そしてそれ以外の大名はこれらを使えず使用する場合「借米」となる。筆者は「秀吉が統率する軍隊」なる存在が誰のことか具体的に指摘していない。 まず前提として朝鮮出兵は秀吉の指揮下で行われているので加藤清正から毛利輝元、小西行長や伊達政宗まで全員「秀吉の統率する軍隊」に相当する。相当しないという事は秀吉の命令を無視して行動する軍団がいた事になる。
これをかなり限定して「豊臣家の武将」とする事も出来る。しかしだとすると加藤清正が除かれる理由が無い。清正は秀吉子飼衆の最たる例で秀吉から国を任されている。つまり彼はこの兵糧を使う権利がある。にも関わらず清正は国許に兵糧催促をしてる。秀吉は「兵糧が足りなかったら送る」とまで言っているのに何故なのか。 加藤清正ですら使えないならこの兵糧は何の為にあるのか?
筆者はこれに手を付けると「借米」になるとする。ここはかなり悪意がある。つまり秀吉は大量の物資を集めながらそれを大名には与えず貸し付けていたと言っているのだから。
これは無茶苦茶に悪質で秀吉が嫌いだとしてもここまでは…何しろ自分で諸将を地獄に送り付けておきながら食糧は自弁、山と積まれた物資は使わせずに困窮した大名に貸し付けていた…となる訳で幾らなんでも酷いんじゃないか? だから私としては東京大学教授とやらをしてる高木昭作氏の説の方が説得力があると感じる。彼は著作「公儀権力の確立」の中で「最終的には中央権力が兵糧の補給に責任を持つ」としてるがこれが妥当だろう。秀吉は確かに悪党かもしれないが兵糧三十万石を貸付の原資にするほど我利我利亡者じゃ無かったはずだ。 >>132
> >>127
> 私も秀吉は嫌いだけどこの論文は秀吉への嫌悪感で満ちていると思う。
満ちてません
君の妄想です 好き嫌いとかひどい云々で論文書くわけないだろ
史学というか学問に携わったことないだろ
大学すら出てないんじゃないか?
きっちり先行研究に言及した上で批判するところは史料を挙げて批判しているし
難癖つけるなら慶長がほぼなく文ろくに片寄っているとか、言い様はあるのにこのざま
頼むから消えて >>133
>も関わらず清正は国許に兵糧催促をしてる。秀吉は「兵糧が足りなかったら送る」とまで言っているのに何故なのか。
それが御恩と奉公だから
高級取りのくせに会社にスーツ代と夕飯代くださいと頼むようなものだから
どうしても兵粮が用意できないのなら秀吉が有償で貸す
清正は自分の評価上げるためにも自分で用意しようとする
大前提は各大名が自分で兵粮を用意する >>134
> 加藤清正ですら使えないならこの兵糧は何の為にあるのか?
戦国時代、城には米を備蓄することが日本全国共通の常識
いざというときの籠城のためであり、通過する軍に食べさせるためのもの(もちろん有償)
> ここはかなり悪意がある。つまり秀吉は大量の物資を集めながらそれを大名には与えず貸し付けていたと言っているのだから。
各大名は所領を貰い、或いは所領安堵されて所領に対し強力な徴税権を有する
各大名が兵粮を自弁するのは当然
公儀の米に手をつけるのは恩賞を受けてるのと同義だから公儀として公平性を保つため、有償でなくてはならない
> 幾らなんでも酷いんじゃないか?
君の妄想 しかしまあ、業界向けの論文で基礎を共有している人間に読まれると思って書いているのだろうけど
悪意がどうのとか理解不能な解釈される筆者に同情する
紹介したことに後悔すら感じる 高木先生の論考は未読だが、こいつが書いているとそのままの内容なのか極めて怪しい
史料も実際に読むと真逆の解釈とか平気でするからな ま~たスレタイとは全然関係ない話ししてるな
家康マンセーや朝鮮の話ししたけりゃあ当該スレでやってくれや そもそも関ヶ原のIFスレいくつ立てたら気が済むんだ?
スレタイどーのこーのよりも、「ゴミスレ乱立させんなクズ」って話では? >>117
116のレスの者だけど、やっぱ借米か
釜山から漢城までの輸送は大変だったようで最終的には海路で輸送しやすい南岸側の倭城に防衛ライン引く有り様はやっぱ秀吉の戦略は最初から失敗してんだな
海路も海路で途中で水夫が大量死して秀吉や奉行から日本軍に自分で兵糧確保しろと言った辺りからもうヤバかったな >>121
文禄の役に出兵して渡航もしてるのに知られているのが乱取り報告書くらいの佐竹さんも思い出してあげてください… そういや半島南岸に拠点だけ築いてそれが終わったらそのまま帰国したの結構いたんじゃなかったけ?5万ぐらいだったかな? 御城米については中野等氏や服部英雄氏が既に述べているけど基本的に御城米は城主が受け取って管理するもので借米のように見える。「見える」というのは御城米は政権側が輸送から貯蓄までを担っている点が単なる借米とは違う。だから「御城米が無くなる」ことは政権側の落ち度で城主の落ち度とまでは言えなかった。 >>148
> 御城米については中野等氏や服部英雄氏が既に述べているけど基本的に御城米は城主が受け取って管理するもので借米のように見える。
見えない
御蔵米は御蔵米で公儀のもの
原則手をつけてはいけない
各大名は厳密に管理して数量を定期的に報告し、使ったら報告しろと命じられている 江戸幕府なんて島原の乱で各大名に兵糧米を配ってるからね。秀吉が江戸幕府以下なのは時系列上仕方ないがそれでも似た様な事はしてるさ。服部氏によればまず各大名の陣中兵粮が大名負担なのは当たり前として城の備蓄米は政権側が責任を持つとしてる。この備蓄米は籠城用の米なので気軽に手を付けてはならないが禁止されてるものじゃない。戦になればこれらの物資は当然に消費されるしその補充は政権が責任を持つ。
天正二十年正月の秀吉書状では「全国の武将に兵粮を渡す」と書いてるけど上記の江戸幕府と同じで物資援助を約束してたんだろう。何故かといえば政権にとって戦争に勝つ事が重要で大名を甚振りたい訳じゃ無い。兵粮援助で勝利が買えるなら安いもんだろう。負けたけど。 借米だからとケチで秀吉が意地悪してるように妄想してるようだが、御蔵米に手をつけたら日本でその分返すだけのことだよ
ちゃんと管理してるからこそ勝手に使うなということでもある 御城米は籠城用の物資なので基本的にその全ては政権が担当する。敵に攻められて使用した場合は直ちに政権が補充しないとならない。それで小西行長も「兵糧が無い」と石田三成に報告してるわけだね(名護屋城博物館所蔵)
「手を付けてはならない」は間違いでだとすると何の為にあるのかわからない。籠城用なので気軽に使う事は許されないが使えない訳では無いよ。政権にとって重要なのは戦争に勝つ事でこれはその一環なんだから。 三成は挙兵するにあたり、なぜ伏見城を20日近くも攻める愚行をしたのか
もうあれで挙兵失敗が決まったようなもの
なんで伏見城なんか後回しにして、さっさと濃尾から東海道を抑えようとしなかった >>154
そもそもトットと落とせない体たらくでクーデターなんか起こしたのが間違い 挙兵して味方を集める計画だったけど
結果思うように集まらんかったってだけだわな 関ヶ原で負けたことよりその後陣営を維持できずあっさり崩壊したことのほうが問題
南北朝や応仁のように長期化させればまだ芽があったかも知れないのに 南北朝や応仁と違って豊臣の後継者は秀頼で確定しており
元官僚に過ぎない三成が俺を政権に戻せと我儘を言っているだけだからな 東海道を抑えろというけどそもそも
東海筋の大名が靡かないわけで
留守居の城なら簡単に落ちるでわけじゃなく
内応させられなきゃ時間がかかる
落ちない城が増えるだけかと >>159
清須城だけ落とせれば全然違うぞ。
史実の動きは清須の兵糧あてにして東軍動いてるからね。
西軍が抑える事が出来たら、家康はウルトラマンにしか成らない そもそも石田って奉行席順は4位だろ?秀吉死亡~利家死亡まであんま動いていない。
浅野が主導だしぶっちゃけ七将蟄居後も動いていない。石田の暗躍も基本憶測だしな。
関ケ原は西軍は宇喜多・毛利が主導で中央で都合よく残っていた奉行枠で使われたとかなんじゃね。
後東軍は都合よく首謀者格にできそうな奴だった都合よく切った。
関ケ原の戦いは斜めに見ると大坂の陣より暗闇が深い。 >>161
確か関ヶ原で誰かが伊勢路から清州攻撃言ってたよな
美濃方面制圧前だったから無茶だけど、採用してもよかったんじゃないか
家康に勝つこと自体ばくちみたいなものだし 三成は主力部隊を東進させて徳川を上杉と挟み撃ちにする作戦を提案したけど伊勢制圧を訴えた安国寺らの案が採用されて万事休す。三成の単なる短期決戦志向じゃなくて味方になってる真田家が対東軍最前線になっていて兵を送りたいし岐阜城の織田秀信が兵を集められなくて頼りにならんっていう状況から来てる面もあるんだろうけど 家康に勝つこと自体博打って…
その後の悲惨な結末知ってるからそんな事を言えるだけであって
あの時の西軍の戦略って上杉が関東で暴れることを期待した持久戦でしょ >>163
博打を打つのにも全軍従えてないと無理だろ >>165
それ自体部の悪い博打以外の何者でもないやんw >>163
言ってる奴が大谷吉継とかならいいんだけど確か吉川広家と毛利秀元なんだよな…この2人徳川との内通を疑われてたから採用されんかったんだと >>163
宇喜多らが伊勢路から攻めてたけど時間切れで大垣に集結やん
まさか兵糧運搬の海路のために港掌握しながら順に落として行くのは古来からの常套手段であり常道
未来予知して間に合わないから素通りして行けとかいう話? 伊勢掌握しとかんと東海道から上方に抜けられるやん、九鬼の息子は東軍だし 情報戦で西軍は押されてるからねぇ。三成は単に佐和山、大垣の司令官で他の隊に命令出来たかも怪しいのに単体で東軍に立ち向かえって方が >>169
普通にそういう主張と思ってた
常識はずれの奇策だから博打と言ってるんだと 西軍の中でだれか家康と刺し違える奴はいなかったのか
要は家康さえいなくなれば、秀忠なら何とかなったのに 常識外れの奇策って戦術においてはあるが
兵站無視などの戦略段階の常識外れの奇策ってあるんか? >>173
刺し違える遥か手前で死ぬから無理。無駄死には誰だって嫌だろう 三成って私財を投じて戦争してるからね大坂に捨てられたけど 兵站無視はよくハンニバルのアルプス山脈越えを挙げられるけど
あれ結局、兵站欠乏によりローマ本拠地を攻撃できず
重要港を制圧&制海権を得ていないことからカルタゴ本国から増援と物資も呼べずジリ貧になって負けたんだよな
天才的な戦術による連戦連勝を重ねても戦略的な劣勢を覆せなかった 今川家は稀代の人材をみすみす逃してるよね
秀吉とか山本勘介とか 山本勘助?キツツキ戦法やらをやろうとして謙信に裏をかかれて討ち取られ、信玄の弟の信繁も死なせた無能か? 三成に出来ることと言ったら自分の軍と大垣にある西軍勢力を使うことくらいで後は大坂の増田長盛か毛利輝元に相談するしかないっていう感じ。そこに東軍の大軍が襲来で勝てるはずが無い >>181
三成のいい話ってみんな後世のものなのに
なぜか軍記類でも信頼性ありとされてる疑問 三成は九月十二日増田長盛宛書状で私は大分金使っています早く金を送ってください、と言ってる。どうも分不相応に金を使っていたらしい。織田秀信や織田信雄の逸話から察するに本来大坂が払うべきものすら三成が自腹切ってたんじゃないか。同書状には兵糧の輸送についても重ねて書いてあるから大坂から見捨てられてたんじゃ。 豊臣家の金穀って政権の金穀でもあるわけだろ?
政権の中枢にいる奉行が拠出を求めても拒否できるものなんだな
つまりは豊臣家として西軍を公儀軍として認めなかったということにもなるのでは
西軍が公儀になったとする研究者はこの豊臣家の金穀拠出拒否をどう解釈してるんだろう >>184
主家に金出せって
奉行でも無いのにそんなことできるのか? >>185
三成以外の現役三奉行は拠出を求めてなかったってこと?
家康は会津征伐にあたって豊臣家から黄金2万両と米2万石を下賜されたそうだが
その辺の違いがよくわからん >>186
三成 奉行でも何でもない一家臣
家康 秀吉の義弟で妹婿、秀頼の外祖父(予定)、秀吉の遺命で政権任されてる
格が違いすぎる 基本的に兵糧は各武将が用意する、のだけどそれだと兵糧を用意出来なかった隊が落伍して戦争にならないので最終的にはトップが用意する。それは貸しになったり恩寵米になったりと形は様々だけど要はトップが兵糧を用意する事になる。だから三成が兵糧や資金を要求してもおかしくない。仮に人を調略で引き入れてたなら支払いは豊臣になるし。 >>187
それはものすごくわかるんだけど、じゃあ三成の言う金送ってくれは誰の金なんだろうかと
三成自身は身上はたいてるから三奉行や毛利らの私財から送ってくれと言ってるのか
豊臣家から金出すよう働きかけてくれと言ってるのかどっちなんだろう >>189
そりゃ豊臣の金でしょ
毛利や宇喜多は朝鮮のために財政がそこまで
余裕ないはずだし 9月12日付増田宛三成書状(古今消息集所収文書)って当時は使われてない表現
「遠慮深く」、「ちゝミたる」等があったりして白峰氏は偽書扱いしてるな
高橋氏の主張に白峰氏が検証反論したものだが、5,6年前の話だし今は話がまた進展してるかもしれんが 度々申し入れたってあるから大坂の増田長盛は三成からの度重なる要請を黙殺してたって話で三成からすると不気味というか嫌な予感してたろうな >>183
本来大阪が払うべきものって何?
反乱軍の戦費は払うべきでないと思うけど 石田三成は毛利輝元・増田長盛と同調してる仲間なんだから反乱軍でもなんでもないし。秀頼が西軍討伐命令出してればそれを盾に出来たかもしれんけどね。戦況不利を知って三成達を切り捨てる腹算用だったんだろう。 公儀(家康)に反乱を起こしているのだから西軍は反乱軍だよ >>190
家康の会津征伐は秀頼に事前の許可を取って朝廷にも届け出たから
豊臣家も軍資金や兵糧を出したけど
西軍は何の許可もなく勝手に集まって勝手に暴れているだけ
別に淀・秀頼が三成に「家康と戦ってくれ」と頼んだわけでも何でもない
豊臣家が西軍に軍資金や兵糧を出すなどありえない話だった >>195
それは外部から見たらの話で増田長盛は正にその西軍に参加してるんだぜ。長盛は内府違いの条々にサインしてる反乱の首魁、徳川家康が来たら下手すりゃ首が飛ぶ立場にいる。
「このままだと俺は斬首だ。だが石田三成ら大垣衆を差し出せば罪一等は免れるかもしれない」と考えていたのでは?というならその可能性はあるけど長盛の人間性っていうかその本性ってのが…下劣というか 勝ってるんならともかく敗色濃厚なのに公金つぎ込める道理がない 秀頼も淀君も西軍支持してないからな
大阪城押さえられてもそんなんなんだから 西軍の蜂起のせいで惣無事を掲げた政権の
存在意義が否定されてしまったからな 渡邊大門だったかと思うけど増田長盛は大坂城の蔵を押さえていて金銀兵糧は長盛が一手に担っていたらしい。要は兵站担当なんだがそれが負けそうだからで前線を切り捨てたとなると結構えげつないお話になりそう >>193
反乱軍てw
基礎知識もないバカが無理に口出すなよw 九月十二日の書状だと三成は刈田による兵糧補給を主張したけど長束・安国寺が反対して近江から運ぶ事に決まったらしいがなんで長束たちは刈田に反対したんだろう >>203
豊臣公儀の軍隊ではないぞ
秀頼は命を下してもないし支持を表明してない
対する徳川は秀頼のお墨付きもらって出陣した って訳じゃ無いらしい
秀頼配下の弓鉄砲隊が関ヶ原に参加してるから
毛利輝元が大坂城を乗っ取った時に豊臣の親衛隊も指揮権を奪われていたらしい。対外的には豊臣vs徳川なのも秀頼の軍隊が徳川に戦争してたからなんだと いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない へー
メール欄で自己主張しているつもりなのかもしんないが、出先だとメール欄確認面倒だからコテにしてくんない? メール欄に何か入ってること自体今言われて気づいたわw
とりあえずあなたは面倒な人だな 毛利公儀説だと輝元が大坂城に入って豊臣が文句言わなかった時点で毛利が公儀になったことになってるし… >>212
気付かずageていたなら指摘に感謝くらいはいいんじゃない?めんどくさいってひどいな 武力で占拠したら公儀が手に入る
ってなっちゃうとその公儀から
武力以上の正当性を奪ったに等しい
武力で言うこと聞かせるだけじゃなく
より安定で持続的な統治を実現するために
諸大名の上洛謁見やら朝廷巻き込んだ官位制やら
秀吉は豊臣公儀としての手続きを整えてきた
だから家康は秀吉死後、最大の武力を持ちながら
すでに整えられた公儀としての手続きを
踏むことで継承しようとしてたんよね
逆言うと豊臣公儀は天下の統治手段として機能した
でもその政権手続き無視してしまったことで
実は武力でなんとでもなると喧伝したに等しく
豊臣公儀の命脈は断たれてしまった めっちゃ単純な話政権内での序列争いや
秀頼や朝廷への根回しでトップ争いしてたのが
毛利と奉行らは武力で秀頼抑えた方が勝ちという
別のルールで勝ちを狙ってしまった
結局武力で決めるなら
秀頼の身柄の押さえ合いとかじゃなく
強い方がトップでええやんてなっちゃうわな 内府違いの条々を出しても秀頼を人質に取っても家康の公儀をひっくり返すことは出来なかった
そうなればもう自分がトップになってもいいんやと思うよね どちらかと言えば豊臣の仮想敵国になるのは毛利>徳川じゃないのか
少なくとも秀吉は徳川は親戚として完全に取り込もうとしてたからな もちろんクーデター起こした毛利が悪いんだが、豊臣も豊臣で徳川に西軍討伐指令を送るか毛利に乗っかるかしないとダメだった。中途半端に両建てしたから… >>206
秀頼麾下の詳細な参戦経緯とか指揮系統についてどこかに資料残ってないのかねえ 毛利公儀論者である高橋陽介氏とかの著書によると複数の史料に豊臣公儀が西軍に与した事が残ってるんだとか。
一例だと八月二十九日に保科正光が美濃方面の状況を報告したものに「大柿(大垣)に三成・秀家…そのほか豊臣家馬廻衆」とあったりしてるんだと。最後の南宮山にも豊臣家弓鉄砲隊がいて徳川と戦闘になってたし指揮系統を完全にジャックされてたのかもしれない。ただこの動きだけを捉えた研究は知らない…あるのだろうか。 豊臣公儀なんてものはない、秀吉公儀があっただけ
秀吉の残り香と家康の力で死後も全国統治を継続していたにすぎない
呆けたとはいえ秀吉も戦国の世を生き抜いた人間だからそういう現実は理解していたが
秀吉の威光で威張り散らしていた下っ端連中が理解できず
秀吉の死後も自分たちが公儀だと威張り続けられると勘違いしていた 「西軍が豊臣抗議を名乗った」
「豊臣馬廻で西軍に付いた将もいる」
これは確か
「だから西軍は豊臣公儀」
「だから豊臣公儀は西軍を支持した」
と解釈するかどうかはそれぞれの見解の領域かな
個人的には秀頼が公的に支持を表明してない
(支持を表明する文書さえ出させることができない)
のでそれはどうだろうと思うけど 北条包囲網(山内・扇谷両上杉、古河公方、今川、里見)→瓦解
信長包囲網(義昭、浅井、朝倉、本願寺、雑賀衆、武田)→瓦解
なんでや・・・ 惣無事令で私闘は禁止されて公儀が裁定する事が決まったのが豊臣公儀の骨幹。だから本来豊臣は徳川か毛利どっちかを公儀軍と定めないといけない。秀頼馬廻衆が西軍に着いてるって事は見かけ上は西軍が公儀軍となる。それが実は輝元にジャックされてましたってなるとそれは豊臣公儀がブッ壊れた証拠でそりゃあ滅びるよねっていう… 毛利が軍勢率いて入城してんだから
うっかり反対なんて出来るわけないんだがね 包囲網ってのは後世の作家が
見立てたものじゃないのかな?
まともな歴史家で包囲網
主張してる人いるだろか? 単体で勝てないなら群れて勝てはまぁ兵法だからね。機能したからしなかったかの問題はあるが >>227
それじゃ公儀は名乗れんのだ。本拠地を占拠されようが自分の法を守れないとダメなのだ 徳川に救援要請(西軍討伐指令)を送ってればまだ違ったんだろうけどなぁ 石田三成の去就もよく分かってないのよね。
大谷吉継に西軍決起計画を聞かされたのが七月三日、十一日には参加した…とされるけどこの後何処で何してたのか。
中野等によると三十日まで大坂城には来てないっていうがだとすると吉川広家書状(大坂に向かう三成と吉継を目撃)に嘘があることになるし。 >>234
斬首されてるのに東軍につくということはないでしょ
そもそも中野とか現代の史家が何言おうと無駄 秀頼か淀殿のどちらかが人質or国替えに応じれば
豊臣が織田にした方に生き残れたかもしれんが
てか三成が負けたら家康が政権を牛耳って豊臣家が乗っ取られることくらい
当時の人間でも分かりそうなものだが淀殿も豊臣武断派も気付いていないのか? >236
三成は単なる元官僚に過ぎず、淀・秀頼の了解もなく勝手に武装蜂起しただけ
散々好き勝手な振る舞いを繰り返して、自分が負けたら豊臣が乗っ取られるから従えとか
主張があまりにも理不尽すぎるだろ
淀や武断派でなくても三成の傲慢な振る舞いに拒否感を持つのは当たり前だった
当時はむしろ、三成たち奉行連中が豊臣を自分の私物かのように思い上がっていることの方が問題だった まず生前の秀吉が政権牛耳ってくださいと言わんばかりの優遇を徳川家に与えてるからな
徳川のみ将来にわたって豊臣一門の座が約束され他は前田も含めて家臣扱い
徳川に頼るしかないくらい家として落ちぶれていたのを秀吉もわかっていて仕方なかったんだろうが
それが三成たちの反発と危機感を煽ることになった
家康も秀吉からの優遇があるとは言えそれを担保する豊臣家は風が吹けば飛ぶような頼りなさなんだから
自家を守るためにも権力基盤を固める行動に出るのは当然でそれが専横と批判されたりもする
作用反作用の悪循環が積み重なった結果が関ヶ原 徳川が政権を牛耳るのと
別の政権に取って代わられるのは
またちょっと違うからね
徳川も関ヶ原までは豊臣政権内での
首班として振る舞ってるので
政権とその象徴的トップである豊臣家を
守ると言う意味では成功してた
結果的に関ヶ原で豊臣政権の価値が暴落して
新しい政権を建てられてしまったので
徳川が豊臣政権を牛耳るとそれがそのまま
徳川政権成立、豊臣政権滅亡と
考えてしまいがちだけど 晩年の秀吉が馬鹿やらかしすぎた
少なくとも秀次が生きていたなら、豊臣の家政まで家康が口出しはできなかったはずだし、
政治にしても秀次をある程度は立てざるを得なかったはず 三成がクーデターしたんじゃなくて毛利がクーデター計画したから。五大老の1人が仕組んだんだから勝ち目があると見てたんだろう。引退した元奉行にあれだけ人が動くはずもないから。 どちらにしろ結果的に石田が豊臣政権を崩壊させた
石田のやってる事は私利私欲での周りの事も考えずの権力奪取なんだよな 三成としても難しい局面だしな。大谷吉継の誘いを拒否したら殺されるだろうし。よしんば生きて帰れたとして佐和山には少数の兵しかいないから攻められたら死だろう >>241
毛利輝元が徳川家康に勝てると考えていたとしたら
当時の奴らの嗅覚を疑いたくなるな
人間が余りに違いすぎるだろ
器が 人間の格なんて見て分かるもんじゃないしそれで勝敗が決まるとも思わんだろうし…
単純な戦況だと上杉を背後に抱えてる徳川と背後がそれなりに万全な毛利なら勝負になりそうと思ってたんだろう。まさか九州で黒田がボコボコ前進して上杉は全く前進出来ないとは思わんじゃん… 無知ですまんが輝元って戦は強かったんか?
ちらっと調べても激戦を繰り広げたしか見当たらない 頑なに三成巻き込まれ設定を主張してる人がいますねw 光成氏は輝元について「野心的で強い野望を秘め、その為なら家臣を犠牲にする事も厭わない」と断じてる。その上で関ヶ原の趨勢を決めたのは輝元の人間性、つまり死線をくぐり抜けてきた家康と死地に赴かなかった3代目の輝元の差だという。だから内心の野心に反して能力というか経歴が足りんかった。それでも大国の主ではあるからね。 三成の参戦が義継の働きかけってのは何の小説だっけ? >>248
もし本当に内面を「断じて」いるなら研究者じゃないんだよ
何があったかなかったか、それだけを論じるのが史学なんでね
史資料から人の内心を慮るのは史学ではなく、よくいったところで文学
きみは簡単な史料を誤読して、指摘されても無視するし
史学に向いてないよ、というか史学に限らず学問全般に対して不敬
小説や大河ドラマに一喜一憂しているのが身の丈にあってますよ そりゃ輝元って三奉行と綿密な打ち合わせの上大坂城ジャックしてるからな。三奉行の上洛要請文が十二日、それを広島の輝元が受け取ったのが十五日、その日のうちに数万の軍勢連れて十七日に大坂城を占拠させてる。広島・大坂間を二日で移動した例はこの一件だけで事前の入念な準備が無ければ不可能。この件で輝元が西軍決起の首謀者と知れる。他にも輝元祐筆は既に大坂入りしていてたとかね。 ちなみに光成氏は輝元の上洛記録と江戸時代の参勤交代の記録から広島・大坂間の移動にかかる日数を算出してる。それによれば陸路で約10日、海路で6〜8日かかってる。2日で移動したということは潮流天候を把握した上で最も都合の良い日を予想して準備していた事になる。輝元は担がれたのではなくむしろ指導的立場にあった。三奉行が輝元にここまでの準備を命じる立場にあったとは思えん。その後の輝元の動きを見ても成る程輝元が首謀者なのだろう。 >>253
誤読を訂正もしないやつがらが偉そうに
君は誰かの論拠を引用する資格もないんだよ
誤読して反省もしないんだから
きみに実名で引用される人は迷惑なんだよ どうせ返答はなかろ
都合の悪いことは無視して、自分の勝手な妄想を辺り構わず綴るだけのBotみたいなやつだからな >>250
三成が佐和山に吉継を呼んで西軍に誘った、ってのがまず小説なのよね。この話が初出なのは落穂集って書物なんだがこいつは1700年代の編纂で面白い話だけど信用出来るかと言われると微妙。
一次史料では三成と吉継どちらが誘ったのかは不明。ただしイエズス会の記録日本諸国記には家康が関東に向かった後、奉行の一人が佐和山で三成と連絡を取りかねて仕組んでいた計略を明らかにしたとある。後世の小説の影響を排除して考えると吉継の方が主犯で三成は誘われて参加した可能性の方が高いんだろう。そもそも隠居同然に謹慎してる三成が大規模軍事計画を立てたってのがまずおかしい。 >>252
輝元って大友義統を九州に送って一揆を誘発させるわ大坂城にいた蜂須賀家政を監禁して阿波を毛利領にして蜂須賀軍も接収するわで領土野心ダダ漏れなんだよな。長宗我部に対しても「旧領は保証」といってそれ以外の領土は毛利の物にしようとした疑惑があるし。ところが負けそうになると大坂城から出て決戦とかはせずに安国寺恵瓊や石田三成、大坂三奉行を生け贄にした。ここら辺が危険を呑んで赤坂まできた徳川家康との格の差かもしれない。 >>257
自分にレスしてるけど何がしたいんだ?
あんたの文体は独特だからID変えて別人装ってもすぐ分かるよ >>245
徳川本隊が真田に足止めされて関ヶ原に間に合わなかったのは家康も誤算だったし
戦は誤算が大きい方が負ける
大坂の陣でも徳川方は圧倒的兵力を有するも大苦戦してるからな
真田が強かったことにしておけばそれに手こずった徳川も仕方ないと民衆に思わせるために
江戸時代を通じて真田人気をおさえようとしなかったわけ >>259
そもそも関ヶ原に遅参してる前提なのがおかしい
期日や待ち合わせの取り決めとか無かっただろ >>256
ただ毛利と三成の共謀関係は毛利方の史料上
三成失脚前と比定されるものがあり
かつ東軍側でもかなり早い時期に三成吉継による
策動として認識されているよね
そこを考え合わせると三成は巻き込まれただけ
という主張はかなり難しいと思う 大谷吉継こそ石田に説得されて巻き込まれたという
フィクションをもとに語られがちなのはあるが 豊臣政権を家康が仕切るのが、気に食わない。
というのはまだわかるのだが、なぜ西軍は軍事クーデターなんて手にでたんだろうな。
軍事クーデターなんて起きてしまえば、天下を安定させることが出来なかった、豊臣政権自体の弱体化が進み、豊臣家が天下を運営させる正当性も失われるのに。
そんな、大事を起こしておいて「豊臣家の御為に」と言っても白々しいし。
関ヶ原の時点だと追い詰められてるのは、豊臣家ではなく西軍の中心のメンバーだし。
それなりの理由がらあったのだろうけど。
司馬史観だと、家康に挑発されたおバカな三成はそれに乗ってしまったと、三成を酷い扱いにしてるが。 動機面で見ても面白いぞ。
大谷吉継については徳川は「宇喜多騒動に介入して領国を顧みない榊原康政を家康が「そんなに金が欲しいのか」と叱責したところ同じく騒動に介入していた吉継も気分を害して家康を恨んだ」と推測してる。対して三成は「何故か家康を恨んでいたらしい」と理由を把握出来ていない。実際三成は家康に命を救われて嫡男重家も家康に面倒見てもらってると親徳川に転んでおかしくない。吉継が三成を誘った可能性は高い。司馬遼太郎の小説だと石田三成を漢にする為にドラマチックにしてるけど。 巻き込まれたというより宇喜多秀家とかと同じく呼び掛けられて参加しちゃったというのが最近の見解だな >>261
確かに東軍は最初三成・吉継の謀叛と聞いてたけどこれが輝元・三奉行の偽情報って事も史料上明らかになってる。
七月二十九日に黒田長政に宛てて徳川家康が「大坂奉行衆が裏切ったから」と重ねて談合したい旨を記してる。三成・吉継は既に裏切りを認識してるからこれは増田長盛ら三奉行のこと。つまり以前からあった策略を徳川諜報部が掴んだのではなく、大坂三奉行のウソを徳川が真に受けてただけってのが真相らしい。ここからも石田三成首謀説が疑わしいって話に… 家康ってどのあたりから豊臣家を本気で滅ぼそうと思い始めたの?
二条城会見?自分が死んだ後、秀忠と秀頼がどうなるかとか色々考えちゃった? すまん意味がわからないので
ちょっと補足してくれ
徳川が以前からの策略を掴んでたってのは
まあいい加減な小説以外何物でもないと思う
ただ7月29日なんてとっくには内府違いも出てて
三奉行謀反が明らかになって何もおかしくない時期
それを持って何故嘘情報が流れてたとか言えるのか 嘘云々はいつもの妄想くんの戯言だとして7月29日付黒田長政宛家康書状を見ると
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」
黒田家譜によると黒田長政が小山を出発したのは27日
つまりこの書状の内容が本当なら家康が奉行衆謀叛を知ったのは27~29日と言うことになるな
ただ7月24日付中川秀成宛松井康之書状見ると
杵築に居た松井は24日の時点で既に奉行衆謀叛の情報を掴んでるんだよな
「毛利殿御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」 >>267
幕府成立時点で、放っておいても害はないと判断してるとしか思えない。
喜連川の足利家と同じ扱いにする予定だと思われる。
片桐勝元追放時点で武力制裁を決意、夏の陣開始時点で滅ぼすと決意。
それ以外では武力でつぶすことを検討した形跡すらない。 最初期の認識は石田大谷が怪しい書状出してる
その後入った情報で三奉行謀反へ変化
その間に三奉行が内府違い等明確な行動をしてる
赤の他人に罪をなすりつける欺瞞情報のせいだ
とするには状況証拠にはならないでしょ
別にそれらは新史料でなくて
石田大谷の文書が三奉行の行動より先んじて
東軍に認識されてたというのが普通の解釈
欺瞞情報を主張するならそれにあたる
新史料が出てるとかなのか? >>267
家康個人としては
あえて潰そうとすれば反感は買う、カネはかかる、万が一ということもある
それに孫の婿で、太閤との約束もある
豊臣家に天下人としての能力が結果的なかったのに
本人達がいつまでたっても厨ニ病的な反抗姿勢崩さないし
自分の年齢考えてやるしかなくなったんじゃないかね
幕府の意志はまた別で
さっさと地雷踏んでほしいと思ってたかも 天下統治の体制としてもはや武家関白制が破綻していたんだし
朝廷も見切りをつけて(関白を五摂家に取り返したいとの思惑もあったはず)徳川の公儀を認めた、というか後押しした
家康も例え本人にその気があってもいきががり上立場上愚直に豊臣家を天下様などと奉れなくなったろう
全ては秀吉が豊臣家を他人に寄生しなきゃやってけないスカスカの家にしたことの当然の帰結でしかない >>268
七月二十七日秋田実季宛榊原康政書状で「上方で三成・吉継が家康様を裏切ったので三奉行とおふくろ様(淀君)が上洛を要請…」とあり徳川は当初三成・吉継が謀叛をしたと判断していた。これに対して大坂三奉行は十二日に輝元を大坂に呼び十七日には大坂城を占拠させ同日には内府違いの条々を出した。つまり徳川が大坂から受け取った情報は三奉行による偽装情報だった。毛利軍による大規模クーデターと知られないようにするためのね。 なんで三奉行が謀反の中心人物と掴めなかったかと言うと内府違いの条々にある。内府違いの条々には二種類あって、宛名署名が整ったものと無いものとある。宛名があるものは九州の諸領主に宛てられている。だから九州の大名は「毛利と三奉行が謀叛した」と掴んでる。三成の名が出てこないのはソースが条々だからだろう。これには三成の署名が無い。
対して宛名の無い物は署名も無い純然たる怪文書になる。掴まれたところで証拠にはならない。
尤も三奉行の偽情報は毛利軍入城までの時間稼ぎが第一目標だから入城した時点で目的は果たした事になる。後は西軍配置が間に合えばいいので徳川がまんまとハマってくれて助かったというところだろう。 >>271
逆にそれで三成首謀説は有り得んって話もあるな。
一次史料には載ってないけど吉継が三成に会ったのは二日から十一日の間で、それだけで徳川に「三成に怪しい動き」って報告がいってる。吉継があってるだけでこの騒ぎなのに大坂と西軍決起計画とか立てられないって話。 三成の親戚の熊谷直盛って1599年に改易されているけど、1600年に復活してるよね
あれ誰が復活させたの?
改易は家康が最終決定しただろうけど 今月大阪行くけど、大阪城は一応見るとして
他に大阪市の北部でおすすめの観光名所があれば教えてちょ 何か新しい情報は出ていないのに
三成は巻き込まれたというバイアスで
情報整理しなおしてるだけに見えるな
7月2-11日 大谷石田会談
7月12日付 三奉行毛利に大阪入城要請
7月13日付 毛利軍東下を中止し大阪へ帰るのを
毛利家臣が徳川家臣へ注進
7月15日 輝元国元出立
7月17日 内府違い条々
人質騒動で細川ガラシャ死亡
7月19日 伏見城攻め開始
とまあ西軍が「こと」が起こす前に
大谷石田は結びついているのは確かだ
これら西軍の動きの東軍側からの観測だが
7月27日榊原書状「三奉行からの上洛要請」は
確かだがそれを持って三成を首謀者から
外す理由とするのはわからないな
時期的にも毛利軍が怪しい動きを始めたら
何らかの疑惑は生じるのは避けられない
そこで石田三成謀反のためという口実が使われた
それは良い
がその時点で石田は既に共犯だろう
それを巻き込まれただけとするのは無理がある もちろん西軍として最初期から動いてる連中は
史料の残ってない時期から動いてると
考える方がその後の動きから自然
でもそれらのうち誰が先に働きかけたか?
というのは史料上わからないとするしかない
なのに何故三成は違うとなるのか? 石田正澄による愛知川の関所設置が三奉行の毛利招聘と同日の12日なんだから
決起前の初期段階から関わっていると考えるのが自然で
三成と正澄を別行動と考える根拠も特に存在しないからな 西軍結成と行動開始の状況証拠は
ある程度史料的に残ってる
それみると案外戦後仕置きは妥当なんじゃね?
という気もするのよね
最大勢力の毛利を追い詰めきれなかったけど
それは力関係的なものであって >>275
適当なこと言い過ぎだろ
内府ちかひの条々に発給者の署名と宛名の記載があるのは歴代古案所収の内府ちかひの条々のみ
この他に署名・宛名の記載があるものは全くない
ちかひの条々の原文見たら分かるけど文末は「慶長五年七月十七日」の日付の記載のみ まず一次史料が無い。故に学会では信用されない。
そんで言われてるのは三成はある種の監視下に置かれていて大谷吉継が佐和山にいるだけで徳川に報告されてる。それなのに佐和山と大坂で連絡が出来るわけも無い。またもし三成が西軍決起計画を知っていたなら上杉との連絡は必須で最低でも真田と連絡しておかねばならないが一次史料で否定されてる。
後世の作り話によって信じられてきたが、考えてみれば引退同然に蟄居して何ら実権も持たない三成に西軍決起計画を首謀どころか知り得たかすら怪しいよね?ってことで石田三成の決起ではなく毛利輝元のクーデターというの最新の学説になると。 その西軍決起計画とやらはいつどのように
誰と誰の間で話されたんだ?
普通に大谷石田会談で詰められて
大急ぎで進展してるように見えるけどね
少なくとも一次史料上は他にない
先に三奉行と毛利が連絡してる文書は見つからない
ただし毛利方の史料だと前年から失脚前の三成と
毛利は対家康の謀略仲間だった >>281
石田正澄の話は複数の方向から疑問視されてる。
まずはお馴染みのソース問題でこの話が出てくるのは1700年代に佐賀藩が編纂した『鍋島勝茂公御年譜』らしい。二次史料だからと切り捨てる訳にはいかないが問題はこの年譜、特に関ヶ原のところが潤色激しいんだと。中西豪曰く鍋島家は一貫して西軍として行動してたので幕府の目を考えて史料編纂したという。正澄が関を作っていたのかどうか、はおろかそもそも勝茂が本当に足止めされたのかから怪しいとなるとね… 石田正澄は西軍に与して諸将を足止めした、石田三成は正澄の弟である、だから命令したのは三成だ、というのは論理的に見えて短絡的過ぎる。正澄は足止めしたのが事実と仮定した上で二つめの問題点、正澄が何故足止め出来たのかを考えないといけない。
仮に正澄が三成から足止めを要請されても正澄は拒否するだろう。軍事行動中の軍隊を止めるのは難しい。極端な話謀叛と言われて攻撃されかねない。つまり正澄には「諸将が停まる強制力」が必要。それを出せるのは大坂三奉行しかいない。
豊臣公儀として命令書を出せば諸将は止まるしかない。だから実は正澄は三奉行から直接に命令された可能性がある。三成が大坂に命令書を要求したのでは史料に合わなくなってしまう。 秀頼は1600年の時点で数えで8歳。満で7歳。
まだ政治を見るには確かに少し早いけど、織田秀信の3歳よりマシなはず
自分でそのあたり秀頼がやろうとかしなかったのかな? >>283
内府違いの条々は複数種類がある。その一つが福岡市博物館所蔵の内府違いの条々でこれは全十三条で大坂三奉行の署名もついてる。乃至政彦が「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」で取り上げてる。これらは九州の諸領主に宛てて出されたもの。俗に内府違いの条々は全国に出されたものだと言われているが実際には九州を対象にしたもの。何故九州を対象にしたものには署名があるのかは考察の余地がある。 >>286
先行した軍勢が関所で足止めされて街道を引き返して来てるのだから
そこで後続との情報交換は当然行われる筈だし
鍋島にしか正澄と遭遇した記録が残ってないのは可能性としてはありうる話
他の史料に奉行からの連絡がきたので引き返しましたとかいう記述でもあれば話は別だけど 鍋島勝茂公御年譜だと奉行衆からの命令で大坂に行ったことにはなってる。史実だとしても正澄は三奉行からの指示でやったんだろう。三成がそうした指示を出しても強制力が無いのは正澄だって分かってた事だもの。元奉行ではね。ただ年譜は鍋島家が西軍に加担した鍋島勝茂を擁護する為にした潤色があるから史料として認められるかというと…
一次史料では宇都宮から引き返した連中が居たことは確かみたいだが。 >>289
小野寺義道宛や秋田実季宛の7月17日付三奉行連署状がある
これらも西国大名に宛てたものと同様の内容で「内府公御違之条々別帋ニ相見候」とある
西国大名中心に出されたものってのは事実だが、ちかひの条々が九州限定で出されたものってのは間違ってる
福岡市博物館所蔵の内府ちかひの条々(筑紫文書)は原本じゃなくて写しだぞ
写した人がちかひの条々に三奉行連署状を合わせて写しただけ
その証拠に筑紫文書のものは三奉行の花押(前田玄以は黒印)が据えられてない
元々は真田家文書や中川家文書にある三奉行連署状のように別紙になっていたと思われる >>289
筑紫文書のものは13条に三奉行連署状が付いてるのはあんたが指摘した通り
筑紫文書の三奉行連署状にも「内府公御違之条々別帋ニ相見候」と書かれてる
筑紫文書のちかひの条々は別紙ではないよね
これがもし原本であれば「内府公御違条々如右相見候」と書くはず >>291
軍勢を引き返させる理由(法的根拠)が奉行の命令であることには異存はないんだけど
それは三成の関与を否定する根拠にはならないし
鍋島の史料を捏造とするなら別視点(鍋島以外)の史料による反証はいるでしょ
鍋島が嘘をついている=鍋島の記録は全て嘘にはならないんだから
そこを放置して論を組み立てるのは勇み足というか
鍋島のやってることと大差ないよね 石田正澄は創作物ではなんか
実家で弟の手伝いしてる素朴なにいちゃん
みたいな描き方をされてること多いが
実際には三成とは別個に所領を与えられて
豊臣政権の奉行のひとり
なので石田正澄が動いてるから
三成の命令であるとは必ずしも言えない
が、それをもって三成は関係してないとも言えない
>>294
その通りだよね
いずれにしろ三成は西軍結成の
文書上最初期から合流してて
軍勢差し戻しはその後に起きてる >>294
まず鍋島家の年譜にしか話が無いってだけで眉唾物と判じられる訳で。しかも鍋島家は意図的に歴史を歪めてる。徳川幕府に対してそして鍋島勝茂の名誉の為に。一次史料では勝茂は一貫して西軍に与してるのに「東軍につきたかったのに止められた」ってそんなムシの良い話があるかな?
それを無理矢理是としてなお問題がある。 正澄が関を作って、って話は怪しい。一次史料で言えば佐和山に不審な動きという報告が徳川にはいったのは七月十二日。具体的には吉継が佐和山に立ち寄ってるというもの。
それだけで徳川に報告が入るなら正澄が軍勢集めて関を作ろうとしただけで報告が入るだろうし三奉行も何らかの釈明をしてないとおかしい。
更に言うと正澄が西軍の為に行動したからといってだから三成から命じられたとは言えない。例えば正澄と三成間の書状なんかがあれば証明は出来るが…三成が全く活動してないところからすると正澄は三奉行から命じられたと見るのが自然じゃないか?上杉とも真田とも三奉行とも外交してない三成が正澄に指示が飛ばせる筈がないもの。 詳しくないのだが石田正澄の関所の話って
時系列的に三成が大谷と会って
西軍結成する前の話なの? 鍋島勝茂公御年譜には七月十二日の事となってる。一次史料では増田長盛が徳川に「大谷吉継が病で垂井で療養、石田三成が代理で出陣予定だけど拒否してる」と報告した日。 サンクス
どんなに遅く見積もっても
三成と大谷の共謀は成立してる時期
輝元家臣が家康家臣へ安国寺恵瓊による
東下中止と大阪へ向かうことを注進する
前日ということになるな >>298
三成は公的には失職中だから自分の家臣ならともかく
奉行として他家の人間に対して指示を出せる状況にない
従って三成の関与があろうがなかろうが
正澄が軍勢を引き返させるには現役の奉行による裏付けが必要 一番の問題は仮に正澄の関所が真実だとしてもそれで三成の関与を証明する事にはならないという点にある。三成は関ヶ原全体を観ても三奉行より下の序列として扱われてる。つまり正澄に関を作らせようとしたらまず三奉行にお伺いを立てて、それから三奉行に正澄へ命令書を発付してもらう事になる。ソースが二次史料のみなので何とでも言える話だが三成が全く動いてない以上三奉行が正澄に命令した可能性の方が高かろう。少なくとも三成・正澄の独断では無い。 正澄って言うほど弟思いって人間じゃない気がする。家康が大坂城行った時石田邸を提供したのは正澄だけどだから三成や正澄が親徳川って話でも無いし。要は正澄は典型的官僚で上から言われた事は善悪理非を問わず実行してただけなんじゃないか。家康に邸を貸せと言われたら貸すし三奉行に西軍決起の呼び掛けをしろと言われたらやってしまう。この手の人間ほど使い易い奴はいない。最期は使い捨てに出来るし。実際使い捨てにされた。 人物評価は主観でしかないが石田正澄は義理も筋も通してそうだけどな
そこまでおかしい所があんの? 三成って真田にすら書状送ってないからね。てか真田に西軍参加を促したのは三奉行と大谷吉継で三成は梨の礫。元々西軍決起計画を知らなかったからなんだろうけど。 筋とか道理とか通してるかな?家康に屋敷貸してたのに毛利が決起すると毛利につく。面従腹背を気取っていたのかもしらんけどさ。余りに影が薄いから注目されてないけど。 >>285
大坂三奉行が輝元に上洛要請文を送ったのは七月十二日、これが輝元に届いたのが十五日。注目するべきは輝元は十七日には大坂に着くと秀元に大坂城を占拠させてること。僅か2日で広島・大坂間を移動したのは驚異的。俗に「会議を開いたが恵瓊に押し切られた」とか言われてるけど会議なんか開く暇は無い。輝元は最初から三奉行からの書状が届く事を知っていて用意していた事になる。つまりこの四人は完全に共謀関係にあった。対して三成と輝元もしくは三奉行の間で何らかの共謀があった一次史料は無くむしろ共謀が無かった史料の方が多い。 三奉行と輝元が自分の死や自家の滅亡を賭けて大坂占拠に打って出たわけではないことは明らか
大坂を襲撃すれば全て解決というプーチンみたいに甘い見通しと軽い気持ちで始めただけ
三奉行と輝元に家康と直接戦闘するという覚悟は最初からなかった
当然ながら大坂襲撃では事態が解決せず家康が攻めてきたが
政権返り咲きをしたい石田一派だけがやる気満々だったので
石田一派に責任も何もかも擦り付けて逃げ出したに過ぎない 光成氏は毛利輝元は秀吉死後から豊臣公儀が一つにならないよう政治工作していたんだと >>308
史料ベースでは三奉行と毛利の間にも
共謀の証拠はないし
三成の共謀がなかったという
悪魔の証明をしてる史料もない
単に史料を状況証拠として類推してるだけで
三奉行や毛利の共謀が類推されるからって
三成が共謀してない証拠にはならない
毛利方が以前三成と共謀関係にあった史料や
三成自身の急な出兵の割に積極的な動きはある 三奉行から書状が来たその日に出発して大坂城を占拠してるのでどうみても共謀です本当にありがとうございました 三成って佐和山に蟄居してから交友関係かなり制限しとるじゃん。上杉とも連絡してないし。それで毛利や三奉行とクーデター計画練れるかって話よ 三成首謀説なんてもう逆張りしてる人か史料より小説読んでる人くらいしか信じてないだろ。上杉はおろか真田とも連携できてないってか真田含め諸将を誘ってるのは毛利輝元・三奉行・大谷吉継で三成が誘った奴って誰が居たっけレベルなのに。 首謀者どうこうよりも
三成は巻き込まれただけVS巻き込まれただけとは考えにくい
の論争だと思う
毛利や三奉行の共謀なんてだれも疑ってない >>315
まぁ日本人のほとんどは
フィクションしか知らないから
未だに三成が首謀者だと思ってるだろうけどね >>317
教科書で毛利輝元になってるんじゃなかった?
あれは総大将だっけ? 西軍の具体的な行動としては最初期のものは
7月12日の毛利輝元入城要請と
その直後の毛利軍の東進中止
(他の諸将の東進も止めたという説があるが
江戸時代に成立した史料にしか存在しない)
7月17日の内府違い
ちょうどこの間の7月15日の島津義弘書状では
三成も首謀者の一人として挙げられてる >>307
「新年一発目の挨拶は大老首座の俺だろ?」と言われたら断れないじゃね?
このころの家康は立派なパラハラ上司だよ。
>>316
寺沢広高以上か未満かだな。
あれ東軍についた三成だよ。 巻き込まれたというか誘われたから乗ったというだけの話で総大将って訳じゃない。ただ俗説とは逆に三成は西軍決起計画を知らず、大谷吉継が計画に誘ったのだとすると三成は
「佐和山城を大谷軍に包囲されている」「大坂にいる嫡男重家は人質に等しい」「徳川に救援を乞うても間に合わないしまず救援要請が出来るかすら不明」っていうかなりキツい状況に置かれてる訳でこれで西軍に与せずに済むかと言われると… 淀も三奉行も「石田と大谷が謀反を起こしました」という手紙を家康に差し出している
石田が首謀していないなら最初から責任を擦り付けるための捨て駒扱いということ 毛利軍数万が大坂城を占拠してるのに「石田三成と大谷吉継の謀反」と伝えてるんだから三奉行ともしかしたら淀君も事実を矮小化して誤魔化そうとしたんだろう。 俗説でも三成総大将なんてないだろ
総大将は毛利輝元で初めっから疑問もない >>322
淀殿と親交があんまないしね。
伏見城のカギ持ってたの長束正家だったりする。パワハラ上司の家康に奪われたけどね
大阪城は増田で毛利に献上した(だから2日で大阪城に入れた)。
三成が首謀者というのが無理あるけどね。 そう考えると毛利輝元はよく斬首されなかったよね
三成だけ斬首されて 三成は当時謹慎(あるいは隠居)の身
現代で言ったら執行猶予中の再犯みたいなもんで
クーデターに参加して穏便に済ませてもらえる立場にない >>327
そらま関ケ原合戦前にさっさと和睦したし大阪城も即座に明け渡したからな、輝元 例えばロシアだって、口先でプーチン万歳・ウクライナを倒せと叫ぶ人間は大勢いるけど
そいつらの大多数は自分がウクライナに行って戦うことは拒否しているんだよ
それで刑務所の囚人に金と釈放を餌にして戦わせるなんてこともしている
西軍も同じような内情だと考えればわかりやすい
あくまで自分が家康と戦わない前提で豊臣万歳・家康を倒せと言っているだけ
それで政権返り咲きを餌にして危険な戦いを石田一派に押し付けて、負けたら責任も擦り付けているに過ぎない >>327
斬首されないように、織田がしくじって美濃が落ちた時点から
さっさと終戦工作してるんじゃないか 輝元は三成と恵瓊、三奉行を見捨てる事で何とか命拾いをした。輝元がこれを決断したのは東軍が僅かな皆無と言って良い犠牲で岐阜城を落とした事と、毛利軍が安濃津城一つ落とすのに大損害を出してしまったことによる。家康は八月八日には和睦工作を始めてたけどこれに乗っかれたのも大きかった。 見捨てるっつーか、
「周防と長門だけでいいから、家名存続は認めてくれ。
さもないと大坂城に立てこもって徹底抗戦すっぞ」
「わかった。悪いのは三成。それでいいね?」 せめて西軍は家康本隊が会津征伐を開始(上杉軍と交戦開始)するまで待てなかったのかと
思う
徳川と上杉が戦端開いたら少しは違ったのに 西軍敗北を知ってるから特にそう思えるけど見方を変えれば上杉がヤバいから決起を急いだとも言える 西軍の思惑通りに家康から会津征伐軍が離反すれば
上杉との戦がなくても家康の西上は困難になる
西軍首脳が重要視したのは上杉との挟撃より
秀頼の擁立と毛利の力を背景にした多数派工作
そこがうまくいってないのでああいう顛末になったわけだから
少し経緯が変わったところで同じ結果になる可能性もある >>336
戦端開いたらさすがに家康でもいきなり兵を引き返すなんて不可能でしょ
上杉には大した武将いないからそこまで苦戦しないとは思うけど
ただ、西軍の戦略は誰が主導してたんだろ
上杉と徳川が戦端開いてる間に漁夫の利を得る
こんな初歩的なこともできないようなのが戦略主導してる時点で詰んでるけど
伏見城攻めて貴重な時間を10日以上も浪費するし 時間をかけると史実で無理やり引き込んだ連中がみんな東軍に合流しちゃうんだな 一次史料では大坂三奉行どころか石田三成すら上杉と交信出来ていない。だから「上杉がどれだけ頑張ってくれるか」も分からなかったんだろう。 三成の子孫は青森に落ち延びたのね
真田は信繁は討ち死にしたけど徳川方についた信之の系統が残ってる >>339
上杉が負けるのはわかってること
問題は戦端開いたらさすがにすぐには戻れないだろうということ
史実では引き返すのに1か月弱かかってるし
そもそも、西軍側は江戸城にスパイとかは配置してなかったのか
家康は1600年7月頃に病気に倒れてるのだが、そのあたりの情報は入手してなかったのか?
だけど西軍は戦端開くのを待たずに挙兵している
話にならない 上杉はろくな開戦準備をしていなかったので「東軍が会津国境に来た瞬間戦わず降伏」
の予定だったんじゃないかという説もあるぞ よく言うスマホも無い時代なんで連絡一つ出すのは苦労する
基本は各々の自己判断で動く時代 >>343
信長は足利義昭の挙兵を待って周到に用意していた
こういう戦略家が西軍にはいなかったのか >>337
戦端開くってことは西軍ついた諸将も
毛利軍でさえその戦線に投入されてるってことだぞ 戦端すら開かれない危険性もあるんじゃないか。徳川と上杉間でどの様な交渉されてるか三奉行は探知出来ないもの。
先陣が着くか着かないかで降伏されたらクーデターは失敗になる。出来れば戦争して欲しいけど戦争にすらならなかったら元の木阿弥… 関ケ原の逆で
会津が瞬殺されるパターンも有り得るよね
徳川、福島、黒田、真田ほかの下野口本隊の他に
堀、伊達、最上も戦意旺盛だし 西軍には畿内を押さえられればなんとかなるという見通ししか無かった感が強い >>333
本丸制圧できてないのにそんなことしたら笑い者だよ 輝元の狙いからするとまず大坂城を制圧して公儀を得る。
その上で四国・九州を毛利派勢力で掌握する。そしてゆくゆくは徳川と戦争する。ところが家康の軍才の方が高かった。 家康は会津征伐からたびたび病気に倒れたらしいし、その際に死んでくれたらあるいは、が
あったのかもねえ >>350
家康の軍才より輝元の先見の明の無さだろう
戦国の再来を求めた地方大名が毛利上杉真田ぐらいでほとんどいなかった
家康はサラリーマン並に順序だてて動いただけな感じ もし家康が負けていたら毛利幕府の大名として生き残ることが出来ただろうか
そこが輝元の凄さなんだよね >>350
徳川と戦争する、まで考えてなかったんじゃない?
豊臣政権で徳川をナンバー2以下に落として、自分がナンバーワンになる。
そのうち徳川も復権するだろうけど、それまでに自分の勢力をもっと強めておく。
室町政権下の守護大名なら当然と言える思考。 たとえ分が悪いとしても政変からの権力取りチャレンジした毛利は評価出来るけどね
細い事を言えばきりがないが形にはなってるのは評価に値すると思う やたら輝元を評価してる奴がいるが、輝元は「盲蛇に怖じず」の典型だろう。
大局的に言えば「内府違いの条々」が不発に終わった7月末の段階で戦いの大勢は決しちゃってるんで、
戦略自体に無理があったとしか言えんし。 >>341
それこそが西軍と上杉が繋がってなかった証なのかもね。仰る通り本当なら東軍と上杉軍が戦闘に入ってからクーデターした方が遥かに優位に立てる。それをしない理由は今のところ思い付かないからしなかったのではなく出来なかった。
でもどうして出来なかったのだろう。承兌書状によると家康と話をしているのは増田長盛・大谷吉継。話をするチャンスはありそうだが…景勝は中央と関わりが薄かったからつながれなかったのかもしれんが。 言経卿記に家康は戦のあと秀頼と和睦したと書かれてるから
主君である秀頼に家康が弓を引いた形になったのは確定してる 上杉との交通は沼田で止められていたらしいがこれも三成が事前になんとかできなかったのだろうか 矛先を逸らしたい上杉に情報を売られる可能性だってあるんだから
事前に連絡すりゃいいってもんじゃない 8月下旬の徳川家臣の榊原康政書状では天下仕置ついて述べる記述があって
徳川サイドの認識として石田が政権運営してると認めてる
という主張を見たんだがあり得るのか? 関ヶ原当日に、石田から再三督促したのに島津が動かなかったのは真実なのか、真実なら、墨俣合戦の時に島津軍を見棄てたことにヘソを曲げたという話は合っているのか >>362
それは白峰氏の論考だな
『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その3)』のP5に載ってるよ
その主張の根拠となる書状は8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
当該書状に「この度別心の衆は始終天下の仕置をすることができるだろうか」という記述があるらしい
白峰氏はこれを以て榊原康政は西軍が天下の仕置をしていることを認め、
家康がこの時点で公儀から排除されていたことを自ら認めていたことにもなると述べてる
個人的にはちょっと強引な主張かなと思うが、自分も原文見たことないんで何とも言えない 関ヶ原の戦いは松尾山の小早川を排除しようとした石田三成らの背後を東軍が強襲してきたもの。だから三成には島津への救援を頼む暇すらも無かったんじゃなかろうか。東軍を待ち受けていたなら暇もあるけど…三成らからすると南宮山の毛利隊が東軍進軍を静観するとは思えないから思考的には完全な奇襲が成立した。島津からしても予想外だし戦うどころじゃなかったろう。 >>365
読んだけど、じゃあ別心之衆ってなにかってならんかね?
他の文書にもあるように京都の仕置ともある
畿内、もっといえば京都と大坂の治安維持なり支配ができるのかどうかくらいの意味じゃないのかな
じゃないと誰への別心なのか意味が取れない >>358
上杉との戦端が開くのは天下の大名ほとんどの
軍が徳川の指揮下に入った後だぞ
毛利軍自体引き返さなきゃその指揮下で
上杉攻めに参加するはずだった
>>367
もっと単純に「今後仕置きができるのか?」
というのを「今仕置きしてると認めた!」
ってかなり無理あるよな >>368
九月二十七日条の言経卿記も読んでみたけど、「内府大坂へ御出也云、秀頼卿和睦也」と確かにあるにはあるが
「和睦」って表現が気になる
いまの感覚でいう和睦は当時、「調」とか「扱」(仲介のニュアンスだが)使うのが普通で、単純に親しく仲良くしたくらいの意味ではないだろうか
なんせ二ヶ月前には自分で金銭や兵糧を与えて公儀の軍事行動だと認定してる立場だし >>369
ちょっと調べてみたが、当時の和睦の用例見ても現代の意味とそう大差ない感じだな
あと当時は「御無事」もよく使われてて、こちらの方が多く使われてる
・(天正10年)2月26日付上杉景勝宛蘆名盛隆書状
「随而新發田因幡守被抛御不足、御和睦念願候」
・(天正10年)7月18日付蜂須賀正勝宛毛利輝元書状
「今度和睦之儀、秀吉申談本望候」
・(天正11年)9月9日付吉川広家宛毛利輝元書状
「今度京藝和睦之儀、以御方御上洛之旨、弥令入眼候」 >>371
なんか忘れてると思ってたら「無事」だった
しかし私が無学なだけで「和睦」の用例も多いんだね
だとすると言経の中では秀頼と家康は交戦状態だったという認識なのか 関ヶ原は関東では当初石田三成・大谷吉継の謀反(7/29に三奉行・毛利輝元の乱と判明)、上方では豊臣と徳川の戦争、九州では毛利輝元と三奉行の謀反と認識されてる。上方での認識はおそらく豊臣が西軍に加担していたからじゃなかろうか。側から見ると豊臣による攻撃だったんだろう。 豊臣家が西軍に加担していたのならその西軍に勝った家康はどういう存在になるんだろ
もはや秀吉の遺言も豊臣政権の枠組みも超えてしまったんではないか 単純に西軍のプロパガンダが秀頼の支持受けてます
って言ってたから公家はそう見てたってことでは?
豊臣が西軍加担と言うけど具体的に何を指すか?
秀頼から西軍に対して家康追討を命じたり
馬廻動員のための命令を発したり
支持表明になり得る軍資金や物品の下賜があったり
そういう事実があれば格好のプロパガンダなのに
全く記録に残っていないのではないかと
>>369
アンカミスかな? 西軍は秀頼の命令で土地の収奪を行ってる。一例だと蜂須賀家政は「秀頼が家政が徳川家康と親しかったのはけしからんと言った」として改易処分を受けてる。そして秀頼馬廻衆は西軍に配属されてたとか。関ヶ原の南宮山に居たんだと。それに石田三成は大坂の増田長盛に兵糧・資金の援助を申し出てるけど長盛が自腹切るとも思えないから大坂城の豊臣資産は西軍に使われていた可能性がある。 つまり対外的には豊臣は西軍だったワケだけどこれは秀頼や淀君の意思じゃない、これが豊臣の寿命を絶ったのかもしれない。実力で脅せば言う事を聞く、こんな連中を公儀と認める程戦国大名甘くは無いし。 奉行衆の謀反であって豊臣秀頼や淀君の指示ではない
というところがポイントよね
少なくとも家康自身が豊臣vs徳川の図式が
あからさまになるのを嫌って公的にはそうした
淀君と秀頼もそう取られてる物的証拠になる
文書は残さなかった そういうことなら家康が豊臣を上に戴くことをやめたとしても非難される謂れは無いな
本心はどうあれ敵対行為とられて豊臣政権の枠組みから放り出されたわけだから
西軍公儀説ってかえって家康が独自の政権つくる動機の根拠にしかならんのじゃないか まず豊臣家が西軍に加担する理由が無くないか?
西軍は大義名分が無いから豊臣家の名前を利用しただけだろ
なぜ秀頼サイドが徳川を排除する必要があんの? 豊臣家奉行が大名に書状を送って軍勢を大坂城にいれた。これで秀頼の意思では無いというのは難しい。もし三奉行の行いが豊臣の意思と違うなら豊臣は奉行謀反として討伐しないとならん。がそうした動きが無い。それで豊臣は徳川を敵に回したと判じられた。豊臣の意思決定機構が不完全な隙を毛利輝元に突かれた、最悪のタイミングでクーデターが起きたのかも。 安倍のほうからきたセールスマンから、消火器と布団と印鑑を購入しました。36万9000円しましたが、月賦で払っていますし、快眠できて本当に良かったです 淀が家康に謀反を通報してるからセーフ
ただその後の行動は豊臣家の存続を第一にしたと思われ天下人としての権威を地に落とすには十分だった >>381
そもそも同じ城に軍勢居座られてるんだから
討伐とかどうやっても無理だろ
主君の城を武力制圧しておいて討伐されなかったから
主君の意を受けてる証拠って・・・ そこら辺が事を複雑にしてるわな。公家から見るともし西軍が豊臣の意思に反してるなら豊臣は徹底抗戦してないとおかしい。仮に豊臣が西軍に同意しないで大坂城に籠城したら西軍には打つ手が無い。大坂城を攻めれば謀反になって諸将からの信奉は喪われる。それをしないのは豊臣が西軍を容認してるからだろう。ていうか豊臣が徳川討伐の為に毛利を呼んだと見てたんじゃないか。ただそれとは別に家臣一同に反乱されたら主君はどうすりゃいいの?って話があるわけなんだけどやっぱり命より名誉を取っとけってことに 奉行が反乱→豊臣政権のトップである家康が討伐
何も問題ない 問題は担がれた豊臣秀頼が全く動けなかったこと。豊臣家の存続の代わりに公儀の位から落とされたに等しい。つまり大坂の陣に至る遥か前に秀頼は天下人たる資格を喪っていたっていう。 >>376
百歩譲って秀吉時代ならともかく、秀頼になっても
トップがけしからんと言った(と言い張れば)大名を改易できると考えているあたり
奉行の脳味噌には蛆が沸いていたとしか思えない
三成たちは秀吉時代の強権政治が秀吉死後も続けられるという妄想に侵されていた
精神異常者たちがいかれた妄想を現実にしようとして起こしたのが関ヶ原だと言える 戦国時代ってそんなもんだし。実力があれば何しても良い。大義名分はその後ろからくるもんだもの。秀吉が作り上げた惣無事令は毛利らに否定されてぶっ壊れた。 >>388
西軍の挙兵で豊臣公儀は単なるお題目となった >>390
実力がないけど幼児の威光を振りかざせば何でもできると信じていたのは
さすがに三成たちだけだろ まあ、秀頼の威光と毛利の武力が合わされば無敵!くらいの気持ちだったんだろう 毛利に大坂城制圧されたとき戦闘はなかったんだろうか七手組は何してたんだ >>395
味方だと思ったのかな
「あ、毛利様こんにちは」みたいな これまで味方、それも重役みたいな連中が旧に敵になるってどんな感じかね 守備隊からすると組織上自分達の上司が引きこんでるから防ぐのはかなり難しかったのでは。 >>395
関ヶ原時の七手組って戦闘経験あるの?
秀吉の天下取りの時は主に配下大名が戦ってるし
代替わりも進んでて無力だったんじゃないの? >>399
青木一重とか速水守久とかそれなりに
むしろ政治センスのあるやつがいなすぎてなー ゲームじゃないから政治センスとかあんまり必要じゃない 実践経験のない軍勢なんて役に立たない
歴戦の猛者が来たら虐殺されて逃げ散るしかない
みたいな世界観が既にマンガ >>398
ちなみにおんなじことがチョイ前に伏見城でも起きてる。
伏見城を占拠して金銀がなぜか家康が使いまくったし。
それ考えると大阪城占拠より伏見城占拠の方が大きいけどスルーされがちである。
大阪の玉(秀頼)握ったほうがあとあと有利だと当時だれも思っていたけど
関ケ原でそんな忠誠心当てにならないとわかって意味が薄くかったという流れだからしょうがないけど。 関ヶ原で秀頼無意味とわかったというか
西軍の挙兵が秀頼と豊臣公儀から
意味を奪ったんよ
西軍挙兵まで皆んな秀頼立てて
遺言と政権の枠組みの中で
実権奪い合うゲームをしてた
そこを逸脱したら一斉に叩かれる恐れ
その恐れがあるから家康だって例外ではなく
秀頼の最大の家臣として
政権の法度を破るものを討つという建前で動いてた
ところが毛利も奉行も武力で
秀頼の身柄抑えりゃ勝ち
って戦いを始めてしまった
結果秀頼は武力持つ者がなんとでもできる
トロフィーに過ぎなくなってしまい
西軍もより大きな武力に潰された 輝元からすりゃ大坂城さえ押さえればいけると思ったんだろうけどそこまで甘くはなかった 多分輝元が思ってたほど、「豊臣公儀」には権威も権力も無かった。
それを秀吉なり家康なりが個人の権威でカバーしていただけ 三成さえいなければ
福島も黒田も金吾も西軍だっただろう 福島正則→秀頼から清洲を明け渡せと命令来たけど断固拒否
黒田長政→毛利輝元がクーデターの主犯と睨んでいて九州勢で連携を進めていた。大友義統がやってくると聞いて確信すると徹底抗戦する。
小早川秀秋→そもそも三成と面識無い可能性まである。伏見城攻めに少し参加した後行方をくらませて出てきた時には松尾山を占拠してた。
正直三成がどこに居ようがさほど違いは無かった可能性が高い。三成が東軍についてたら徳川はほぼフリーパスで大坂まで来れるから鎮圧が早かったかもくらい? 多分だがその理由はまず福島正則は三成と吉継の乱なら参加する理由というか勝算が無いし、輝元と豊臣の乱となっても自分が最前線になるから参加する気にならない。毛利領から遠いから援軍が間に合わないだろう。
九州勢はまたちょっと違うベクトルの話になる。九州は基本的に西軍勢力が強い。逆言すると西軍に与しても利益が出る見込みが無い。確かに毛利が出てくる可能性があるが徳川が攻める限り毛利主力は東に向かう。その間九州は切り取り放題やりたい放題。腕に自信があるなら獲れるだけ獲っちまえのボーナスタイムだったろう。 家康でさえ畿内の動静を全て把握できず、西軍首脳部は上杉討伐軍が崩壊すると思ってるお花畑
地方の連中なんて出たとこ勝負が関の山
そしてあっというまに崩壊する西軍本隊の脆弱さ 石田三成は美濃方面の拡充を要請したけど西軍は大局観に立って伊勢から西国の支配を優先したからね。そしたら百戦錬磨の東軍諸将に速攻で岐阜城落とされて大垣城は孤立させられて謂わば詰まされてた。まだそれでも輝元が滅亡覚悟で戦争すりゃ何か起きたかもしれないけど。 三成はまだわかる
幼君奉戴して家康を遠ざけて、あるいは徳川家取り潰して秀吉型政権の家老に座ろうとしてるんだろ
輝元がわかんないんだよな
挙兵したはいいけど
家康に勝てたとしてその後何がやりたかったんだろ
秀頼の忠臣として豊臣政権の柱石に座ろうとしたのか
毛利幕府みたいなものを志向したのか
さっぱり見えない 輝元とすりゃ四国と九州を支配下に置けりゃそれで良かったんだろ 輝元って確か所領に関する秀吉の裁定を反故にしてるから豊臣に忠誠心があったとは思えない
三成は自前の勢力なく豊臣の看板なきゃやれないから豊臣を立てようとするだろうが
もともと独立勢力の毛利も上杉も島津でもしかたなく豊臣に臣従してたんで忠誠心などあるはずがない
せいぜい自家の利益に繋がるなら豊臣家を利用しようとする程度で以前のように切り取り勝手の好き放題したいはず
西軍が勝っても三成(豊臣家)の権益と毛利らの権益が衝突して戦国に戻り豊臣が滅ぶ確率のほうが高い
当たり前だけどどこの大名も名家でもなく何の実力もなくなった豊臣なんぞより自家の利益最優先なんで
西軍が勝ってたら豊臣政権安泰なんて考えるのは全くのお花畑妄想でしかない 毛利輝元って毛利家が本来有してた瀬戸内海の権益を秀吉に取られていて秀吉をというか豊臣を恨んでいた可能性はかなら高い。三奉行決起の後輝元は素早く四国・九州を掌中に収めようとしてるけどこれもかつての毛利家の権益を確保しようとしていたのかもしれん。
だとすると恨みは深い訳で前々から豊臣政権崩壊のネタを仕込んで回ってた可能性も高いんじゃなかろうか。 結局の所、根本的に器が地方大大名程度だったとしか思えない、輝元は
勿論天下取れたらいいな程度の思いはあっただろうけど、逆に言えばその程度
ただ、だからこそ奉行が輝元に接近したってのはありそうだがね
輝元が大局観を持つという事は、要は天下というものを強く意識するのと同義だから
必然的に家康と思考回路が近くなる、というよりならざるを得ない
そしてそうなる事が三成をはじめとする奉行たちにとって本当に喜ぶべき事なのか、
というのは関ヶ原を考える上では必要だとは思う 政争で負けて追い詰められて決起しただけの集団が
家康倒した後の政権運営なんか考えても仕方ない
元が反家康だけが共通項の同床異夢状態なんだから つーか奉行にとっちゃデリヘルのチェンジよろしく
好き勝手許してくれない嫌な上司を
チェンジしたかった訳でしょ
いくらなんでも三成なり三奉行の誰かが
秀吉や家康に取って代わるって
そこまでは思い切って(思い上がって)ない
総大将引き受けた以上輝元もその気だろう >>421
秀吉で勝てなかった家康に、輝元で勝てるとか
どういう神経してるんだ奉行は。豊臣家をさらに
追い詰めて窮地に追いやるだけじゃねーか 有名な「秀頼の為でなくても」の起請文(慶長三年八月二十八日起請文)だけど起請文で他にあんな風に添削されてるものってあるのかな? >>425
奉行視点だと『絶対的存在である豊臣政権から徳川を排除し、これを討伐する』だもの
要は豊臣対徳川だから敗北することはあり得ないんだよ
そもそも関ヶ原前の時点では豊臣の権威はまだ絶対的なものだ、家康だってこれは否定できん
だから奉行は大坂城を抑えることで(本丸制圧は出来なかったが)諸大名に
『豊臣に従うか?逆らうか?』って形に持ち込もうとしたんだよ
実際は奉行のやり方に反感を持った諸侯が『本当に豊臣恩為を名乗れるのはどちらか?』
という形、つまり豊臣の看板争奪戦という形にしたことで失敗に終わったが >>426
そんな文言、8月28日の案文にはないと思うんだが
疑問の向きは「見せ消ち」で検索するのをお勧めします 「もしこの度(秀吉が)決められた五大老の内、秀頼様へ逆心を企てるということでなくとも、
増田・石田・徳善院・長束と心を異にする輩があれば、私(輝元)はこの四人の衆と相談して秀頼様へ御奉公する」
「秀頼の為でなくても」ではなく「秀頼へ謀叛を企むわけじゃなくても」だな 起請文で添削とかあんま聞かないってかそれは起請文と呼んでいいのか >>430
起請文には三種の形態がある
まず誓約する内容を記した前書(まえがき)
次いで神罰を受けると神仏の名前を列挙し、署名や花押、判を捺す起請文本文
それから誓約をあとから再確認する請状
この文書は、実質的に内容を規定する前書で、しかも案文(草稿、下書き)だからなんの不思議もない
細かい文言の調整からいろいろ読み解くことができるのでは、って価値はあれども 仮にこの添削が三成によるものだとしたら、実は輝元が奉行派の発起人だったことになるのか >>432
どういう意味で言ってるのか解釈に苦しむが
下記で検索すると研究者の見解を読めるぞ
それが学界の定説なのかどうかは把握してませんので悪しからず
考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について もう西軍が勝てるのって運しかなくない?
もし家康が清州か小山で病気で急死したらとか >>431
言いたい事はわかるし理論的には納得できるんだけど、
見せ消ちされてる起請文って他に何があるんだい? >>436
そうかな?逆に家康が輝元を甘く見てた部分もあったんじゃないかな
まさかここまでの事はしないだろうと
少なくとも大坂を抑えた(ように見えただけで実際は違うが)時点では、
西軍は政治的に徳川を政権から排除しうる可能性自体は一応あったわけだから
家康視点ではしてやられた!という状況ではあっただろう
実際家康が上杉征伐に向かったタイミングは毛利は完全フリーだったとは言えるしね
とはいえあの時点の家康に対毛利の対策なんか取りようがなかっただろうが 三成が輝元を奉行派に引き込んだように見られがちだが
もしかしたら本当は輝元が三成らを操って奉行派を作ったのかもしれない。家康・利家体制を破壊する利益は実は輝元に多くある。三成ら奉行衆には自分達の政治的地位が上がるくらいしか無いけど輝元には遺領問題や毛利の既得権益を取り戻すというかなり具体的な利益がある。輝元は単純に担がれていた訳じゃ無いのではないか。 ・淀殿をなんとか説得して秀頼を出陣させる
・小早川を寝返らせない
三成が勝つには他に何をすればよかったんやろ? 三成の場合関ヶ原で勝ったらそれでハッピーエンドじゃないからなあ
その後の方が茨の道修羅の道かも知れない >>429
秀頼への逆心がなくても4奉行と意見が違うなら討つ
というのはほぼ奉行による寡頭制だな
輝元と奉行の間に交わされた文書で
豊臣政権としてのものではないとは言え
奉行はそれを狙ってたようにみえる
いくら家康への警戒からのものだと言っても
ここまで行ったらもう
御掟の禁じた徒党でないと言うのも苦しい 関ヶ原自体が予想外の展開だから防ぎようもない無理ゲー。
裏切った小早川を討伐する為に松尾山攻撃に行ったら東軍が何の妨害も受けず関ヶ原に突入とか奇襲もいいとこ。 もし三成が関ヶ原で勝ってたら、自分に大加増したのだろうか? それについては昔、学研()がシミュレーションしていた。三成は近江一国78万石、上杉は越後回復で175万石、毛利は豊前一国加増、大谷は越前一国、秀信は約束通り美濃尾張、秀秋は筑前にくわえ、播磨一国加増、、宇喜多はなぜか関八州250万石。 白峰氏は増田長盛宛書状を偽書とする理由に文調が三成らしくないって主張していたけど
当時の三成って前々から指摘していた危険性が顕在化していてその上毛利の動きがおかしいときてるから弱気になってもおかしくない 9月12日付三成書状は心情的な表現の問題もあるが「遠慮深く候」の用例が気になる
「加遠慮」とか「致遠慮」は当時よく使われる表現だが、遠慮深いは見たことない
白峰氏は他にも「はいくん」をわざわざ平仮名で表記せず漢字で「敗軍」と
書いたはずと、疑義を呈し偽書である根拠の一つとして挙げてる
しかし天正9年7月29日付家族宛吉川経家書状に「はいくん」が使われている
子供宛の書状だからという見方もできるがこちらは根拠としては少し弱いか >>449
「遠慮」については現代的な意味より、深い思慮というような使われ方が多いという感想
「加遠慮」「致遠慮」は後者の用例で多いのではないか
あと気になるのは「体」の乱用が過ぎること
「躰」の方が用例が多いんじゃないかとも思うし
しかし、大日本史料は関ヶ原軍記集成による本書状の東軍による奪取を肯定してるようだ
稿本段階だけど >>450
仰る通り当時の遠慮は深謀遠慮の意味で使われることが多いね
「致遠慮」については辞退するという意味で使われてるが
・「加遠慮」の用例
(天正14年)9月25日付上杉景勝宛石田三成・増田長盛連署状
「真田事、是又㝡前如被仰出候、表裏者候ニ付而、
御成敗之儀雖被仰付候、先今度之儀、被加御遠慮候事」
・「致遠慮」の用例
(天正10年)5月27日付森乱丸宛織田信忠書状
「中国表近々可被出御馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候」
白峰氏によると「遠慮深い」は国木田独歩の『二老人』(1908年)
で登場する近代になってから使われ出した用語らしいので、これは偽書説の根拠の一つになり得るかと
体の乱用か
確かに見返してみるとかなり多いな
「~のようだ」と断定できないところを見ると、
当該書状が偽書でないとすれば三成の自信の無さの表れになるのかね
「躰」は「体」の異体字だし「処と處」や「万と萬」、「珍と珎」と同様に翻刻する際は
「処」や「万」と表記する場合もあるし、またその逆もあるからこれはあまり問題ではないかな
原文に忠実に翻刻するなら「躰」で間違いないんだけど、それは翻刻する人の裁量に任されるな 所詮三成と家康、ゴミ同士の戦いだからロマンが無いんだよな
信長が天下統一してたら鎖国なんかしなかったくらいのロマンがあったらなぁ >>453
石田三成的には小早川秀秋の裏切りよりも毛利輝元の裏切りの方が遥かにダメージデカかったというね。本来壁になる筈の南宮山が動かないで東軍を素通りさせるとは思ってなかったろうし。 >>454
家康は鎖国なんてしてないし信長よりも優秀だよ 現代で例えるなら
石田三成←地位を失った財務省事務次官矢野
大谷吉継←矢野に媚びへつらう腰巾着
だからなぁ、こんな小物糞役人どもが一世一代のライバルなんだから
家康が信長秀吉よりショボく見えちゃうのは仕方がない 西軍の主は毛利輝元だしなんなら豊臣すら敵なんだよなぁ ウンコ漏らす程の死線をくぐり抜けてた猛者に立ち向かう実績ではないな 伏見城落とすのに何日掛けておるのだ!まったく!私の手際を見せてやる。よおく見ておくのだな。 伏見城攻めてるのは毛利や宇喜多、三奉行で三成はまず伏見を攻めてることを知っていたのかから怪しいっていう 秀吉なんておっ死んだ時点で過去の人やぞ。
尤も伏見を攻撃した事で毛利に豊臣を立てるつもりが無かった事が露見したのも事実。伏見を焼いてどうやって朝廷と協議する気だったのか。 毛利輝元が降伏した時点で西軍に勝ち目が無いんだから仕方ない。輝元が大坂で死んでも良いと腹括ってたら話は別だったけど。 キエフのちんぽ事件見てからおもうよな。
普通に覚悟決めて大阪籠城してたらな。
瀬戸内の水軍は西軍だけだし、落とせないだろ 大阪が一丸なら落ちないと思う
でも秀頼と淀の協力が怪しいなら
相当厳しい賭けだね
んでやらんかったってことは
つまりそう言うことでは?と思う 大阪城〜京都あたりで第二戦やるにしても、両軍の戦力はどの程度だ?
双方とも分散してた戦力を集めたり、中立や慎重派も動くだろうし、
関ケ原での東軍勝利や、西軍による秀頼の擁立で裏切りも発生するだろ
東北〜北関東、信州、九州あたりは膠着状態だろうけど 西軍が勝ったところでそれは決して豊臣家の勝利ではないのが虚しいな
結局奉行なり毛利なり上杉なりの権勢が強大になるだけで秀頼は傀儡になる未来しか見えない
まあよくて傀儡悪くすれば殺される運命だろう 輝元が降伏したのは関ヶ原の前だからつまり大坂決戦をするという事は南宮山の毛利隊も打撃を受けてる事になる。まず大垣城から佐和山城が落城してるのも確定でその残存兵力を大坂に掻き集めることになる。
後は秀頼を担ぎ上げるしか無いけど西軍は一貫して秀頼の意向として動いているのに東軍に影響を与えられなかった。て事は恐らく余り効果は無いだろうから…凄いことにはなると思う。大坂は灰燼に帰したんじゃないかな。 立花さんは早々に徳川に降伏してるから物の役に立たない説がなぁ… >>472
毛利や上杉に秀頼傀儡にして操るような政治テクニックあるのか?
傀儡って結構難しいんだぞ
上杉憲政を殺すような景勝、足利義昭を持て余すような輝元にはそんなの無理だと思う 秀頼を傀儡にってならもう成功してるし問題無かったんじゃないかな。西軍は「秀頼が蜂須賀が家康と親しいのはけしからぬといった」として毛利軍が蜂須賀領を占拠したり秀頼馬廻衆を南宮山に置いたりしてる。これを傀儡と言わずしてなんと言おう。しかもこの戦に勝つということは徳川の戦力はかなり減衰してるハズで尚の事豊臣が口出す余地は無い。何なら秀頼なんて大坂城で病死させても良いくらいよ。 >>471
元々大垣城は東軍勢力に囲まれていて絶体絶命、既に西軍は浮き足立っていたらしい。この状況で西軍が負けたとなると… 東軍がほぼ離脱者が出ずに西上してきた時点で西軍の戦略は崩壊してる そもそも西軍に戦慣れした奴がいないのが問題
唯一いた島津義弘は無視されるし、これで勝てるわけない 猛将扱いされてる島左近だって
家康から見たらシロウト童貞みたいな奴だからな そりゃ実戦経験なら毛利だって豊富だし。それがまさか全く通用しないとは思わんでしょう。
島津にしろ鍋島にしろ立花にしろ国力や動員数で毛利の遥か下だから発言権が無い事はそこまでおかしくはない。 毛利が覇権握ったら、秀包を小早川の後継者に
復帰させるつもりだったのかねえ 島津が提案した夜襲ってのも圧倒的な戦力差考えるとなぁ 島津による夜襲の提案は『落穂集』(1727年成立)が出典 政治的に支持者獲得で負けてんのだから
それひっくり返すのに戦慣れやら実戦経験やらが
頼りというのは特攻精神と変わらん
それに当時で言ったら徳川の兵たちは
天正19年(1592)の東北再仕置以来戦場から遠ざかり
しかもその前年の関東入府で大量の新規雇用が
あったのだから実戦経験などろくにない >>479
大坂に籠城したら離脱者出るんでは?
彼らは名目上未だ秀頼の家来なんだぞ。
大坂攻めに成ったら士気はどん底に落ちると思いますよ
更に家康の性格だと、自分の子飼い温存して攻めさせようとするでしょうし 東軍は既に豊臣が西軍に与してる事を知ってる。それでも彼らは徳川を選んでるワケで大坂城だって「秀頼さまを助ける」為に攻めていたと思う。その過程で秀頼が死んでも輝元のせいになるし。 大体、自分の命惜しさで命令出すような奴を主人に仰ぐか?って問題がね。秀頼が大坂城に立て篭って徳川に救援要請してたらまだ主人として認められたかもしれない。 秀頼からの命令って出てたんかね?
関ヶ原前後の西軍への秀頼なり淀の文書って
確認されてたっけ?
そりゃ同じ城に兵を詰められて
命令出さなきゃ殺すとまでなりゃ
出さざる得ないだろうけど
そこまでやったのかな? 現状確認されてるのは、奉行集が秀頼の名前で命令書を出していることだけ。
これをもって秀頼が西軍についた、と解釈している先生もいるけど、
奉行が勝手に名前を使ったって解釈もできる。
豊臣は秀頼の名前が使用されることはおろか豊臣配下武将の土地収奪や秀頼馬廻衆の派遣などを許してる。これらが豊臣の意志でなかったならば討伐ものだがそうした命令は現在確認されてない。ということは豊臣は西軍に与していた事になり少なくとも東軍はそう見ていたことは間違いない。 少なくとも清正は秀頼が幼いことをいいことにという認識だな
東軍全体が共有してた認識かは不明だが、豊臣は西軍側だと東軍が認識していたとは断定できない
(慶長5年)9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」 小学校あがるかどうかの幼児だからな
そもそもまともに命令できるとみなされてるなら
遺言もその後の権力争いも無意味だ
>>494
流石にその理屈はどうなんだ
脅して従わせれば全ては望み通りとはならんやろ やっぱ幼君の場合誰からも認められる直系の成人した親族がいないと駄目だな
主家としての意思表示ができないからその時近くにいる実力者の意のまま追認するしかなくなり
簡単に傀儡化してしまう、つまり政争が起きやすくなる
恐らく秀吉はその親族の役割を家康と徳川家に期待したんだろうけど他の大老や奉行には全く認められなかった >>496
冷徹な話だが豊臣が否定してない以上、西軍の動きは豊臣の認可があったものと見なすしかない。
そもそも西軍の動きを拒否するのは簡単で本丸にでも篭って輝元と三奉行の動きは謀反だと叫べばいい。西軍が正当性に秀頼ら豊臣公儀を使おうとしてるのは火を見るより明らかでということは西軍は秀頼に害を加えられない。もし豊臣を武力攻撃すれば西軍の正当性は完全に消失し家康に鎧袖一触に滅ぼされる。つまり豊臣が「許さない」と言えばそれで全てが終わってたのよ。 >>500
冷徹とか、どう見做すかとかの話じゃなくて
俺がしてるのは実際どうなのかな話だよ
あなたの言ってる「簡単」な方法は
同じ城の大兵力を敵に回し襲撃される危険と
背中合わせで全然簡単ではないよ
逆に本当に積極的に支持してるなら
もっと簡単に出陣せずとも文書で命令出すなり
西軍支持を表明すればよい
でもそういう証拠を残すことはしなかった
大阪の周りどころか大阪城内まで西軍の兵がいて
大義名分を求めてたにも関わらずね イヤミな比較になるが室町幕府の3代義満、江戸幕府の4代家綱7代家継も幼君だったが
周りを固める運命共同体たる一門譜代の質量ともに秀頼とはまさしく雲泥の差天地の違い
あれくらい充実していないと幼君で政権維持は不可能というのが歴史的な定理
秀吉が秀頼に遺したものは政権などではなく傀儡となって飼い殺しされるか殺されるかのどちらかしかない運命だけ
その意味では実に哀れだが逆に言えばやはり秀頼は産まれてくるべきではなかった >>497
だったら何故秀次を殺した、という話になるな
こういう事言うとすぐ秀次と秀頼で跡目争いが、とか言い出す奴がいるが
そもそも譜代のいない豊臣で身内以外に幼君を誰に託せばいいというのだろう
信用信頼できる部下?そいつはいったいどこのどなたですか?って本気で聞きたいわ
ここで三成とか言い出したら腹抱えて笑うけどさ
秀家?お前はまず豊臣だの天下だの語る前に宇喜多家の内情どうにかしろよって話だな ていうか直系の成人が誰からも認められてるなら
幼児ではなくそちらが後継ぐわな 直系の成人というのは徳川家のようにもともと赤の他人なのに押しかけ一門化したのではなく
秀長とかそれこそ秀次のように秀吉と直接血縁がある縁者という意味で傍系としたほうがよかったかも
秀吉のエゴ的にも最もよかったのは鶴松が夭折しないことで
秀次が一門の代表として鶴松成人まで後見するという体制だったろう
ただその場合でも鶴松成人まで関白をどうするのかという問題はあるんだが
それは関白という職を政権トップに選択した豊臣政権の構造的欠陥でまた別の話 >>501
西軍というか毛利は「家康に味方するとはけしからぬと秀頼が言った」として蜂須賀領を収奪してる。これこそ積極的な参加に他ならない。土地の保証・配分は武士にとって正に一所懸命の価値があるからね。
仰る通り豊臣はビビって両建てして身の安全を確保したかったんだろうがその真の意味を理解してなかったんじゃなかろうか。この後豊臣は諸将の支持を失っていくわけだがそれは関ヶ原のこの動きに理由があるとしても不思議じゃない。 直系というのは家系図上で一直線で表せる
親子関係でのつながりのこと
なので秀吉にとって秀長は直系ではない
>>506
その命令を豊臣家が文書化してるか?
それがあればこの上ない正当性を主張できるが
そのお墨付きがないと単に西軍が秀頼の命令だと
称してるのと変わらない
そのレベルのコミットメントなんよ なんで大名が公儀に従うかっていうと土地を保証してくれるからだぞ?逆に言えば保証してくれないなら従う事はない。
秀頼が蜂須賀を改易にしたことは書状で残ってる。これは実際に実行された。豊臣が西軍に与して無いならそれこそ書状に残してこれを否定しないといけない。ところがその形跡はなく蜂須賀領を回復させたのは徳川家康ときてるからなぁ >>508
だからそれは秀頼自身の発給文書でもなんでもない
そもそも秀頼が知ってたかどうかも定かでない
秀頼の命令を西軍が騙っただけかもしれんし
秀頼や淀も承知で加担していたけど
具体的なお墨付きは与えなかったのかもしれない
実情はそれでわからないのだから
だら豊臣が西軍に加担してた、とはいえない 豊臣家の人間がかかわったのって身内のいる大津城の開城以外にあったっけ
東軍も西軍も関が原前に領地を失ってる者がいるけど
彼らに対して豊臣家がなにか保証してやったという話はあるの?
そういうのがないなら西軍が秀頼の意向と称しているだけに過ぎないと思うが 蜂須賀領が収奪された時点で「秀頼は西軍についた」のが確定したのよ。輝元が大坂城に入って一緒に豊国社に参拝した程度ならまた豊臣が西軍についたとは言えなかった。でも土地の収奪はそうした範囲を遥かに越えてる。改易は公儀の権能なんだから。
「秀頼の名を騙った」なら即座に毛利・三奉行討伐命令を発付しないとならない。ところが豊臣はその様な動きを全く行ってない。そもそも、大坂城に籠城すれば西軍は攻撃できないのに戦ってすらいないどころか秀頼馬廻衆は西軍についてる。これで「豊臣は西軍では無かった」というのは相当難しい。上方では豊臣vs徳川と捉えられていたらしいが当然なんじゃなかろうか。 豊臣家が東軍と西軍にしたことって
対東軍→特に無し
対西軍→北政所が西軍首脳部と豊国社参拝(秀頼も同時期に参拝している)・西軍に秀頼馬廻衆を与える・西軍に四国九州での土地収奪権を付与・徳川に情報工作を行い石田三成、大谷吉継による小規模騒動と誤解させる・大坂城物資の供与
こう見てみるとあからさまに西軍なのよね豊臣は。ていうか徳川を排除する為に毛利輝元を呼び寄せたと見ても良いかも。少なくとも東軍はそう見たろう。 >>511
確定したと言うのは誰にとっての話だ?
あなたはそう解釈してるし
そう解釈してる同時代人もいたろう
でもそのことと実際にどうだったかは別の話 表向きは西軍側に見えるってだけで、秀頼発給文書でも出てこない限り実情は不明としか言えんと思うがな
義演准后日記七月十九日条によると大坂城には6万の毛利兵が居た
数の誇張はあるかもしれんがそれでも相当数の毛利兵が居た状況下で、
秀頼やその周囲の側近に毛利や三奉行に追討令を出すだけの胆力はないだろ
(慶長5年)9月22日付前田利長宛徳川家康書状
「大坂も一両日中相澄可申候、即乗懸雖可責崩候、秀頼様御座所ニ而候間、致遠慮候」
仮に家康が完全に豊臣を西軍と見做してたんならこんな遠慮なんかしなくてよかったのにな 胆力云々の問題では無く公儀としての資質の問題だからな。
まず毛利軍が居たから怖くて言う事聞いてたってのは論外。そんなの豊臣に公儀たる資格は無いって言ってるに等しい。大坂城に籠れば西軍は攻撃出来ない。攻撃したら西軍の「秀頼のため」という正当性は失われるから。徳川に助けを求めずあまつさえ西軍の行動に助力してる以上豊臣は西軍に属してた。東軍だってこれは分かってた。だから誰もが秀頼では無く家康を主人と仰いだのさ。 >>515
東軍も分かってたって史料はないよね
あくまであんた個人の解釈であり主観でしょ
個人的には東軍全体でも清正のように幼君を出しに使いやがってと、
秀頼は利用されてると感じてた人が多かった可能性の方が高いと思うがね
あんたの言う大坂城に籠もればいいってのも現実問題として輝元と毛利兵がいる状況で簡単にできる事ではない
結局実情は不明としか言いようがないし断定は難しい >>514
というか発給文書で秀頼の
西軍方の動きが確認できても
大阪城占拠されてる訳で
脅迫されてる可能性は捨てきれない
>>515
論外とかではなく普通にその可能性はあるだろ
信頼してた奉行と大兵力持つ毛利が脅してきたら
実際のところ女子どもが抵抗できるかと言う話
それでも跳ね除けて従わせる超人的な資質が
秀頼の天下には必要でそれがなかった
というのならまさにその通りと思うけど
そうあるべきなのにしてないから
協力してたんだとか断定されても・・・ 実際のところ大軍で主君の城を占拠する
ってのはそう言うことだと思う
主君からしたらクーデターみたいなもので
自分の意思を通すどころか迂闊に表明もできない
支持を表明しても額面通り受け取れるか疑問符付くし
むしろその状態で具体的な支持表明してないなら
圧力に屈してなかったとさえ取れてしまう
もちろんそれは会津征伐前の家康についても同様だが
秀頼も淀も自分の意思を表明することも
ままならない状況だった可能性は普通にありえる 9月の時点で西軍に勝機はほとんどない
どうせなら破れかぶれで夜襲するとか、刺客送って家康殺るとかしたら良かったのに
家康さえいなくなれば挽回も可能だったろうに じゃあ伏見に抑えの兵をおいて
清州から東海道を江戸まで一気に攻めるって積極策はどうよ >>520
以前あった関ヶ原スレでの記録を見る限り、東軍の前田が南下して終了だな
近江が東軍に染まった時点で西軍崩壊だろ >>514
それはものの言い様じゃろ。例えば何故家康は秀頼に遠慮しないといけないのか?豊臣が単純に東軍に属しているなら家康は遠慮する必要なんて無い。八月八日より行われていた毛利との和睦交渉は関ヶ原で合意に達してる。後は毛利軍が大坂から退去するのみ。徳川軍は解放軍として大坂に入るだけではないか?何故遠慮するかといえば秀頼が西軍と誰もが思っていたからだろう。つまり毛利ごと秀頼を粉砕してしまえという風潮が徳川、下手すると東軍全体に存在し家康は苦慮していたのかもしれない。結局のところ豊臣が東軍に属していた証拠にはならないのだ。 >>516
大坂城に籠るなんて簡単に出来る。三奉行や毛利は秀頼を攻撃出来ない。攻撃して秀頼らを殺害すれば西軍の正当性は潰えるんだ。また徳川に「毛利と三奉行が謀反している。伏見城も攻撃された」と伝える事だって出来たろう。何故やらなかったのか?「怖かった」なんてのは戦国時代だと大罪に等しい。少なくとも天下人たる資格は無いな。豊臣が徳川を信じていたなら本丸に親衛隊を集めて立て籠り全ての手段を使って太閤恩顧衆に討伐命令を出す。それをしなかったので豊臣は西軍に属してると見做された。だから家康は公儀を主張してないし東軍は家康の指示で動いてるだろう? 西軍が公儀名乗ってんのに東軍が名乗ってないのが物語ってる気がする >>523
単純に、どちらかに属していると
言える状態じゃないんだって
公式に文書も出してなきゃ自身も動いてない
西軍は秀頼の命令を喧伝してるけど
それはクーデターなら当たり前のこと
>>524
奉行も西軍周りも西軍に取り囲まれて
どうやって関東の家康に連絡すんの?
毛利や西軍が暴挙に出ないというのも
希望的な観測でしかないしな
奉行「我々の正当性を根底から覆す書状を
内府にお出しになる。宜しいお通りください」
なんてことが起きると思うの?
恐怖という個人の感覚の問題だけではなく
その状態で軽々に行動することは
豊臣の権威や政権の命脈を断ちかねない 秀頼の命令で西軍によって改易が行われてる以上西軍じゃないって言うのは不可能だろう。脅されて仕方なくなんて言い訳が許される立場じゃ無い。毛利が大坂城に入った時点で豊臣は死んだんだ。 そもそもこの時期秀頼の名で出てる書状って何あったっけ >>523
「致遠慮候」を現代人の感覚でいう秀頼への「遠慮」と捉えている時点で基礎知識もないし、古文書読みのセンスもない
間違った解釈の上に憶測に憶測を重ねれば壮大なゴミができあがる 関ヶ原以前で秀頼名義の書状って確かにあんまり思いつかん。 というか輝元が大坂城に籠城しようと言い出しても広家に秀元とか福原をはじめとした宿老達が付き合うとは思えんのよな ああすまん秀元が徹底抗戦主張してたとされてたのか
だとしたら関ヶ原での対応は何だったのだろう? 秀元が後世「俺はヤル気だったけど広家が止めた」って自己弁護しただけ。広家も言ってたらしいが南宮山では既に秀元含めた毛利軍は誓紙人質出して降伏を決定してる。輝元含めた毛利軍は降伏した以上戦闘は出来ないから動かなかった(この事実を知らない、若しくは知らされなかった者達は南宮山で徳川軍と小競り合いを起こしてる) >>529
その秀頼の命令って西軍が言ってるだけやん
脅されて云々は単にその可能性あるってだけで
西軍が捏造した可能性だって普通にある
その可能性を排除するには正式にでも私的にでも
秀頼自身の文書を出させるしかないのだが
西軍はそれを引き出すことはできてない ちょっと謎なんだけどこの時期秀頼って自分の意思で書状出せてるのかな?「西軍に対する秀頼の書状が無い」って事は逆言すればそれまで秀頼は領地宛外や事件解決において書状を出していた筈だけど…尤も、東軍にも秀頼の書状は無かったんだが。秀頼が自分の意思で書状を書けるならどうして西軍の横暴を徳川に訴えなかったのか。秀頼は輝元が降伏してからもそうした書状は書いてなかった気がする。逆に秀頼が書状を書けなかった場合「秀頼さまの意思」と言えばそれがそのまま公儀の意思だったことになる。 秀頼を抑えてる以上表向きは西軍が公儀を名乗ることは別に否定してないよ
ただその内実は分からんよねってことなんだが妄想くんは断定しないと気が済まないんだな
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状で三成・大谷の別心により淀殿と三奉行が家康へ上洛要請をする
同月29日付黒田長政宛家康書状では三奉行も騒動に加担していた情報を掴み長政にその旨を知らせている
情報が錯綜する中、家康としては秀頼・淀殿の真意が掴めない以上文書の上では
「公儀」や「秀頼様御為」等の文言を安易に使用せず差し控えてたって見方もできると思うがな 内実とかイタコで秀頼の霊でも呼び出さないと判らないものを長々論じても仕方ない。秀頼は西軍と行動を共にして東軍と敵対している。であるからして豊臣は西軍だよねって話。実は心の内側では違ったんだとか想像逞しくしても東軍には何の影響も無いわ。しかも秀頼若しくは豊臣関係者が徳川に救援要請した史料も無いのに幼児の心情を語られてもなぁ。 一個思い付いたのは三成襲撃事件を家康が裁定した時に輝元と取り交わした起請文。この中に「天下の儀について秀頼さまから粗略には思わないと仰せ頂いて重畳」とある(ただし家康が送った起請文には「秀頼がいうのはもっとも」とあり恐縮してない)しかし秀頼が真に事態を解明した訳じゃ無い。この一件は家康・輝元・北政所による会議で解決されてる。おそらくこの時期は「秀頼さまが仰った」と言えばそれが秀頼の意思と同視されてたんだろう。つまり西軍の「秀頼さまが仰った」事は全て秀頼の意思と見てなんら問題無い。少なくとも諸将にはそれで通ってたことになる。
この効力を否定するには秀頼が否定するしかない。ところが豊臣は日和って若しくは内心に反徳川の思考が有ったが故に機を逸した。それが太閤恩顧衆の離反を招いたのは間違い無い。 幼児といえる秀頼が緊急事態を自分で判断して政治的な指示を出すのは不可能というのは誰が見ても明らか
当時の政治は秀吉の遺言もあって家康が担ってきたわけで
秀頼の側近たちは秀頼の命を守ることを優先させるだろうから戦火を交えることはさけるはず
その状況で上方で大阪城に乗り込んできた西軍が勝手をしても止められる勢力は無い
そしてそれは秀頼の天下人としての権威喪失とイコール >>537
秀頼自身の発給文書がこの当時ないよ
なのに西軍は急に「秀頼の命令」を持ち出した
何の文書的裏付けもなしに >>539
実際に協力したかわからないのだから
協力したかはわからないが正解
何故協力したと言い切れるのよ
あなたこそ降霊術でも使ってるのか? >>540
嘘はいかんよ
闕字や平出こそないが「様」は付いてる
あと「秀頼が言うのはもっとも」って何?「秀頼様に対して疎略なきことは尤もだ」だけど
(慶長4年)閏3月21日付毛利輝元宛徳川家康起請文
「今度天下之儀、各申分在之處、被對秀頼様、無御疎略之通尤候」 >>538
つまりお前さんはあの殺人者は心の中で泣いていたのだという。その心は大変美しい。だが私が言っているのは心の中で何してようが殺人に及んだなら最早意味は成さないということだ。
そもそも秀頼が脅されていた可能性からして怪しい。それは西軍の主張、内府違いの条々を読めば分かる。西軍は明確に「秀頼の為に」徳川と戦うのだと宣言してる。つまり西軍は絶対に秀頼、豊臣には手を出せない。豊臣が西軍の行動を不服としたなら「太閤の遺言に逆らうなら我らは大坂城を枕に討死にする」と叫べば良い。そうなったら西軍に出来るのは下手に出て説得するくらい。大坂城が燃えれば西軍の寿命も尽きる。つまり豊臣が西軍に同調していた可能性はかなり高い。残る可能性は豊臣が西軍の行動に全く関心が無かったというものだがだとすると怠惰というより無能ではないか。太閤遺言を反故にされ、土地は勝手に収奪され、馬廻衆すら使役され、大坂城の物資は使われている。これを見過ごす程豊臣は政治に無関心だったのだろうか? ここでいう豊臣家って具体的に誰のこと言ってるの?
秀頼は幼いし三奉行のことか? >>506
徳川政権では武家諸法度の何条に違反したと法治主義を前面に出して進めるけど
豊臣政権というのは法も何もない人治主義政権なので
「〜がけしからんと言った」というのがまるで法律のように前面に押し出される
こんな無茶苦茶な人治主義政権には東軍大名はもちろん西軍大名の大半もついていけないのは当然だろう
豊臣には元から法治という概念自体が存在していなかった >>545
それは西軍の主張を鵜呑みにしすぎだね
脅して命令を引き出してるかもしれないし
(というか同じ城に兵を入れてる時点で
脅してるのと同じ効果ぎある)
そもそも命令なんてないのに捏造してるかもしれない
手出しできないというのも希望的観測でしかなく
拒否されたら暴発する危険はある
その仮定の上でそれでも屈しない英雄的存在であれば
豊臣の威信は守られた(はず)というなら
それは一面正しい
でもそれをもって秀頼は西軍支持してるとは言えないよ >>548
その辺の法治主義の破綻は重要な指摘と思う
ただ「元々」というのはちょっと考える必要がある
政権発足からながらく秀吉という一個の
巨大権力者による支配が続いてたのは確か
でも秀次事件以降は御掟や秀吉の遺言を
基にした政治を行うという「建前」はあった
特に奉行らは序列、実力ともに二位の権力者である
家康への権力集中を阻止するために
御掟や遺言違反だと牽制してきた
つまり本質は権力争いであっても建前は法治
ところが西軍挙兵以降は「秀頼がけしからんと言った」
という非常に雑な人治主義で大名を攻めてる
「建前」は以前とコロッと変えられてしまった
そりゃ付いてけない人増えるよね
ってのは確かにあなたの言う通り まず三成ら奉行からして秀吉の御諚や遺言覚書を遵守せず破ってる
輝元は生前の秀吉の裁定を反故にして三成もそれに加担してるし
秀吉が人治主義の独裁制とった弊害なのか奉行らに遵法意識がハナからなかったんだから話にならない >>543
まず豊臣は大坂城に毛利軍が来た時に抵抗や抗議、報告を行ってない。更に豊臣は蜂須賀家政を改易処分にした。理由は「家康と親しいのはけしからぬ」とのこと。同じ理由で改易が出てる事から豊臣は反徳川思想を持ってた事が証明される。
また豊臣軍は全面的に西軍についており弓鉄砲隊はおろか馬廻衆までもが西軍に与してる。馬廻衆は親衛隊、ほぼイコールで本人がいると見ていい。これほどの事をしているのだから豊臣は西軍に与してた事になる。 >>549
脅してる可能性は皆無。加藤清正すらそうは見てなかったろ?そもそも三奉行はおろか毛利すら豊臣を攻撃出来ない。攻撃すれば「秀頼のため」という正当性が消滅する。攻撃出来ないのだから脅せない。当然の帰結である。
細川ガラシャの件を思い出して欲しい。彼女は西軍の人質収容を拒否して死んだ。天下人である豊臣が明智光秀の娘にすら覚悟で負けるというのか? >>552>>553
軍隊連れて乗り込んできた相手に
抵抗やら抗議やら悠長な話だな
あとその論法だと秀頼はそれ以前に入城していた
徳川家康もまた支持していたことになる
脅した可能性が皆無というけど
軍隊駐留させる行為自体が脅しになるし
情報ないのになかったと言い切れるのは単に
あなたが西軍をそうみてるというだけの話 九州にいた加藤清正が実際に見てるわけでもないし
そもそも「秀頼の命令が出た」ではなく
「西軍方がそう言ってる」という
限定的な物言いをしてる >>553
死の覚悟がどうこうの話は
何も断定する根拠にはならんよ
ガラシャの死はむしろ当時武家において
最も大切な家の邪魔にならないためのもの
秀頼の死は家の断絶を意味する
必要とする覚悟の質も引き起こす事態もまるで異なり
それを個人の死の覚悟という意味で一緒くたにするのは
現代人的な勘違いだとしか言いようがない とりあえず関ヶ原に勝って大坂城に乗り込んだ家康はどう思っていたんだろう
「女子供のことゆえ」お咎めなしとしたのは史実なんだろうか
史実なら西軍に与していると見たが女子供だから許したるよ、ともはや主家に対する態度ではない感じがするが >>555
豊臣が単なる平民ならそりゃこんな事は言わんよ。でも豊臣って一応天下人なんだろう?なら彼等はこれに対処する義務がある。抗議や抵抗して当たり前でそれをしないのは同意してるのと同じ。まぁこれは平民でも同じなんだけどさ。 西軍の行動を黙認、もしくは協力した時点で豊臣は謀反人として処罰されるか無能なトップとして天下人の位を明け渡すしか残ってない。で、家康に天下人の座を明け渡して延命させてもらった。家康からしても義理の孫を殺したくは無かったんだろう。身の程を知ってくれればそれはそれで使い道もあるしね。東軍諸将としては不満もあるだろうが、謀反人秀頼の土地を取り上げて分配してくれた家康には頭は上がらんし。 >>560
伊達政宗が秀頼の自殺知った時の書状の内容からして
家康に秀頼を殺したくないという気持ちがあったとは思えんがな 秀頼が自殺ってそれ家康に刃向かった後じゃん。
しかも一度許してやったのに。そりゃ愛情も冷めるだろ。 どこを擁護してんだこのバカ
何で5周遅れみたいなことドヤ顔で言いだすのか謎過ぎる 秀頼の配給文書が無いなら「秀頼が言った」ことがそのまま秀頼の意思として認識されるのは当たり前だし脅されてたんだとか想像が行きすぎてる。馬廻衆筆頭に豊臣親衛隊をかき集めて籠城戦しても良いし決死行覚悟で使者を徳川に送っても良い。そうした動きが全く無いからには豊臣は心情的には西軍だったんだろ。北政所なんて宇喜多や毛利と豊国社参りしてるからな。 ID変えて妄想垂れ流さないで欲しい
貴方の書くことには興味ないから 確かに「秀頼が脅されてる」なんて妄想は良くないよな。
そんなこと書いてる史料無いし。 >>540
輝元の起請文にも「秀頼様から仰せ頂いた」なんて文言はどこにもない
誤った解釈の上にあんたの妄想が加わって酷いことになってんな
(慶長4年)閏3月21日付徳川家康宛毛利輝元起請文前書案
「今度天下之儀、各申分御座候処、我等事、秀頼様御儀不存疎意之旨申入之通、
被聞召分、重畳御懇意之段、誠以過分存候」
天下の儀について各々申し分もあるところに、私(輝元)が秀頼様に対し疎意なき旨を(家康へ)申し入れましたが、
それを(家康が)お聞き入れになり、重ねてのご懇意誠に過分に存じます >>545
何このくそ気持ち悪いポエム
頭おかしいんじゃね
ちかひの条々に秀頼のために徳川と戦うなんて文言はないぞ
ちかひの条々と同日付で出された三奉行連署状の方は
「家康は誓紙と秀吉の置目に背き、秀頼を見捨てて会津征伐に向かったから戦うことにした」
と、秀頼のためにとは言ってないもののそれに近いニュアンスは多少含まれてるが
あんたこそちゃんと読んだらどうだ 秀頼が脅されてたって話の史料はなんなんだろ?
誰がそんな事を言い出したんだか。 >>571
ちゃんとレス返しなよ
そういうところだよ君が嫌われるのは >>559
どうあるべきか?を論じるのは歴史じゃない
どうであったのか?の話をしてくれ >>566
それはおかしい
発給文書もない上に
「秀頼が言ったと言ってる人がいる」だけ
心情的に西軍であったなら
それこそ西軍の行動にお墨付きを与えるために
文書を発給すれば良い
死を覚悟する籠城なんかよりよほど簡単だが
それをしなかった >>568
秀頼が脅されたかどうか関係なく
軍隊で居城を占拠されたら圧迫されるだろ 脅されたと断定してる人もいないからな
一方あなたは西軍を支持したと断定してる
それを証明する発給文書もないのにね >>569
解釈というより単なるひどい誤訳だね
「申入之通」ってあるんだから「我等」(私、つまり輝元)が秀頼に疎意がないと申し入れたとしか読みようがない
「秀頼様被仰出之旨」とかならともかく
双方の起請文から、秀頼を互いに粗略なく扱おう、盛り立てようという誓約だ
ここに秀頼の意思や、秀頼の意思に仮託されたものなんて一切ないね
まあそもそも妄想さんがなにを言いたいのかもよく分からないんだよな
たぶん本人もクリアに思考立てされてない
それだけならともかく、誤読を垂れ流されるのだけは勘弁なんだが >>563
盗将大権現様の生き方って、野望の為にここまで情を捨てられるかですもんね。
漢の武帝は「仙人に成る為には妻子を捨てる覚悟」といわれて、即答で「ぞうさもない」と
言ったそうですが。
嫁も、息子も、孫娘も、ノータイムで捨てられる人だけが挑戦者になれるんだろうなあ...
こういう人って最後の時に何を思うんだろ 豊臣VS徳川の図式に囚われすぎだよね
調べるほどに関ヶ原時点まではあくまで
豊臣政権を牛耳るための権力闘争で
劣勢の側が武力蜂起に踏み切っただけ
秀頼はこの時点では自発的な支持表明もしてない
少なくとも記録されてない 家康はそもそも豊臣の大老で一門筆頭者
会津征伐軍を率いるにあたっては
秀頼と淀に拝謁してせん別を与えられ
それによって両者の了解の下の
政権としての出兵という大義名分とした
回りくどいようだがそれが当時として
家康を支持する表明であったわけだが
その後の蜂起の際に家康は大老の地位を追われ
秀頼の支持も失った、あるいはなかった
というのが対する西軍の主張
であればそもそも「秀頼の支持」は
状況によって変わり得流ことになってしまい
何ほどの意味があるんか?となる
また政治的に無意味になった家康への支持より
一層のコミットメントが秀頼になされたか
となると疑問符がつく 西軍に豊臣馬廻衆が参加してる事を知らないんだろ。馬廻ってのは親衛隊で乱暴に言えば大将がいる様なもの。豊臣が西軍に属してなかったら絶対に参加させんわな。平和な現代日本人からすると「軍勢が来たら降伏するのは当たり前」かも知らんけど当時はバリバリの戦争してる訳でナメられる訳にはいかない。大坂城本丸に豊臣親衛隊集めて籠城しつつ徳川に密使を送るくらいやらないと豊臣が西軍に反対してたことにはならん。少なくとも歴史的には行われてるしな。 あの秀頼馬廻衆の参戦ってあんま重要視されないよね
もっとスポットライト当たってもいいと思うんだが
西軍が松尾山に迫った時も三成が大将で馬廻衆が後備の位置に見えてきてしっくりくる >>574
西軍は徳川派と見做した大名の領土を改易し、豊臣馬廻衆を動員し、大坂城物資を使用してる。これに対して豊臣は抗議反抗、面従腹背の行動等一切を行っていない。
これが大坂城を占拠して豊臣の意思を脅迫した結果なら、なんで西軍は秀頼のお墨付きを出させない?改易や軍役は豊臣公儀の権能でこれを行使させた時点で公儀を乗っ取ったようなもの。これらに抵抗せずお墨付きだけは死守するとか意味不明過ぎる。この時期、秀頼のお墨付きなんて無いからそもそも必要が無かったんだろうけど。 西軍に脅されてたならそれこそ秀頼のお墨付きを徳川に届けてるだろ。乱終わった後毛利が自分達をどうするかわからん豊臣じゃないわ。 >>585
全く同じことが言える
それらが全て秀頼の支持や命令によるのであれば
何故ちゃんと秀頼名義で命令を出さない?
それさえあれば完全に西軍は豊臣正規軍で
内府は反逆者というお墨付きになるというのに >>588
西軍を支持していたならそれこそ
お墨付きを与えていただろ
それをしていないということは
支持はしておらずせいぜいが日和見だということ >>577
この場合は誤訳だね
指摘サンキュー
妄想くんが史料引用すると度々誤訳や誤読があるし
その上曲解もあるからそのまま素直に信じられないんだよな
ほんと厄介 どちらにしても西軍が蜂起して敗北したことで十人衆誓詞の枠組はもとより
秀吉の遺言覚書体制自体が完全に崩壊してしまい 途中で送信してしまった
秀吉の遺言覚書体制が崩壊したことで勝った家康に新たな体制づくりのフリーハンドが与えられたのは確か
秀頼とその周囲にはそんな能はないからな ていうか幼児に天下を差配する能力なんて
ある訳もないわけで
元よりそれ前提の政局でしょう
秀頼は変に誰かに肩入れなんてせず
政治を担うものに奉られていればそれでよかった
幼君に政治の主導権なんてはなから必要ない
担ぐ権力者にとって神輿あって権力安定してるなら
あえて波風立てて神輿を壊したり辱める利点はない
秀吉はそれはわかってるから生前に
家康の力を削ぐ為の政争なんて仕掛けない
家康も心得てるから実権は握るけど
秀頼の立場を脅かしはしなかった 岐阜中納言ぐらいの扱いを家康がしてくれりゃいいなあぐらいに思ってたんじゃねーの?
もちろんそんなこと口に出したら終わりだから口には出してないだろうけど そもそもこの時期秀頼は命令書自体発給してないんだから西軍が秀頼の命令書を出さなかった事はおかしな事じゃ無い。
それに豊臣は西軍に加担してるのに東軍には全く加担してないことよ。豊臣が反西軍だったとは言えない。徳川に密使すら送ってない。これらから西軍の行動を豊臣は黙認してたことになる。思うに豊臣は元々徳川が権勢強めるのを苦々しく思っていて毛利のクーデターを認めたんだろう。豊臣の狙いは徳川と毛利が消耗し合う事にあって頃を見て和睦を命令する気だったんじゃないか?ところが余りに早すぎる展開が豊臣の政治処理能力を超えてしまった。 >>596
誤訳についてはスルー?
返事もしないならROMってろよ 家康は西軍と違って反乱軍をおこしたわけじゃないのだから
改めて秀頼に認めて貰う必要などない そもそも西軍は朝廷工作はしていたのか?
そのあたりが全く論文とかもないのかな? >>596
その論法だと軍事行動自体してないから
毛利の入城に抵抗してなくても西軍支持してないし
政治発言する私的文書も発見されてないので
徳川に助けを求めてなくても西軍加担したと言えない
ということになるね
あと元々話してたのは「豊臣は西軍を支持した」かどうか
スレには西軍支持派とどちらとも言えない派がいると思うが
何故「反西軍だったか」という論点に変わってるんだ 徳川も毛利も豊臣公儀だった説は司馬遼太郎の『関ケ原』が元ネタ。これは家康を簒奪者に描きたい著者が一次史料を見ずに書いたものでハッキリ言って事実でも真実でもない。
そもそも徳川は豊臣公儀では無い。毛利が大坂城に入って豊臣が徳川追放を宣言した時点で徳川は公儀たる資格を失ってる。その証拠に家康は公儀を称してない。だから東軍は豊臣公儀ではなく徳川家康を主人と仰いだ集団ということになる。
思い出してほしい。武士は理屈には従わない。それは後鳥羽上皇や後醍醐天皇が証明しただろう。 豊臣が家康に軍資金2万両、兵糧3万石を送ったのに比べれば
豊臣は石田や毛利に金も食糧も渡していない
ドラマのように豊臣が家康を脅威に思って倒したくて仕方がないなら
家康に送った以上の金と食糧を西軍に渡さないと辻褄が合わない
西軍蜂起というのは単にテロリストが大坂でテロを決行したに過ぎない 何故西軍が秀頼のお墨付きを使わなかったのかと言うとそんなもの要らなかったから。秀頼は「家康と親しい者は許せぬ」として蜂須賀家政を改易、その領土は毛利預かりとした。これが実行され豊臣が黙認した時点で秀頼は家康を見限った事になり豊臣=西軍となる。実は秀頼お墨付きが必要なのは家康の方で家康には「秀頼が家康を見限った」事への反論が出来ない。豊臣は徳川に一切の支援を拒否したのでこの事実は満天下に知れ渡る。
これをもって白峰氏なんかは「徳川は窮地に陥った」と言うんだがそうはならなかった。何故ならそも戦国大名は理だけで動かない。大量の利益に少しの理があればそれで良い。却って豊臣が西軍に与した事が東軍を結束させたかもしれない。勝てば上杉領に毛利領、更に豊臣領まで分配となれば… >>603
西軍に豊臣四奉行が参加してるのに何故大坂城物資が使われてないと思うのか。豊臣が西軍に与していても西軍に脅されていても金蔵も食糧庫も武器庫も明け渡してるに決まってるだろう。例えば毛利軍六万の食糧は何処から賄ったと思う?
九月十二日増田宛石田書状から大坂城の物資は西軍が使っていたと考えられてるがまぁ正しいだろう。わざわざ毛利が国許から兵糧を運ばせるとは余り考えられん。 >>606
じゃあ東軍の食糧は何処から?
何で国元から運ばせてないと思うのか 毛利が蠢動してたのに土壇場で煽ってた三成たちを裏切ってこっそり家康と手打ちしてたんだろ?戦後に影でセコセコ策動してたのが全部バレてたのを家康に示されて家を潰されそうになってたけど
大坂の陣でも保険で大坂城に送り込んだ家臣を尻尾切りで殺してるしクソみてえな野郎だな輝元って 東軍の場合は街道沿いに諸将の城があるからそこの備蓄を使っとるだけじゃね?それでも足りないかも知らんから家康は長束に食糧を渡してくれと言ってたけど >>605
必要なかった?あっただろ
実際お墨付きのない西軍が言ってるだけの「命令」で
西軍が諸国の大名の支持を得られたか?
答えは史実が語っている 西軍というのは現代で例えるならイスラム国が蜂起したのと同じ
イスラム国がどこの都市を占拠して支配しようが公儀にも政権にもならない
西軍も同様にどこまで行っても武装テロリストが暴れているだけだ 筋で言えば毛利も宇喜多も上杉討伐の話を断固反対すれば良かったんよな
西軍決起は豊臣に対する背信行為に他ならんよ >>613
輝元は最初反家康ノリノリだったけど、無理に決まってんだろの吉川の意見が通って関ヶ原土壇場で家康に頭下げた
で、吉川は恵瓊と対立してたから丁度いいと始末されたんだろうな >>613
毛利の外交僧だから対外的には毛利の顔だといえるからな
西軍の敗北が見えて奉行の没落もほぼ確定してるから、奉行とのパイプが太いであろう
恵瓊は毛利家視点でも存在価値が低下しているし、そのうえ毛利一門という訳でもない
責任の押し付け先としてみた場合、ほぼ完璧ではあると思う 戦闘以前の多数派工作で負けてんのよ
東軍先鋒が切り崩せなかった時点で
そいつらは最初から家康派っていうのは
結果知っての逆算でしかない
生きるか死ぬかの博打より
損害あっても生き残れる道を探るのは
当たり前と言えば当たり前 西軍からすると豊臣を担いだ時点で徳川よか優位だとは思ったろうさ。ただ徳川は正当性とか関係無く勝っただけで。
徳川が勝った=徳川に正当性があったってのは間違いだからね。正当性なんて勝利の後に着いてくるわな。 関係なく勝ったのかというのはまた別の話
東軍についた諸将は豊臣に対する謀反人として
覚悟を決めて戦ったのか?
だとしたらその後の振る舞いが謎すぎる
単に西軍の唱える正当性が無視されただけでしょ 正当性は必ずどちらかにある
というものではない
むしろ双方が自分の正当性を掲げるのが政治対立 そりゃ覚悟決めてるだろ。徳川にはこの時秀頼からのお墨付き含めて何も正当性主張出来る物証無いんだぞ。対して西軍は秀頼のお墨付きを持って来てる。これを「奉行が勝手してる」の一言で無視してるんだぜ?公儀に敵対したら天から裁きが降ってくるとかそんな訳でも無いからな。むしろ弱い豊臣を倒して土地を増やす大チャンスと見てたろ。 ちなみに言うと徳川は一切自分が公儀、正当性があると主張してないんだと。これが何を意味するかって話よ。 上杉討伐軍に参加してた諸将としても
コソコソ留守を狙った空き巣まがいの蜂起には寝耳に水の横っ面張られたような不快感あったろうし
加えて公儀の正当性を標榜する割には妻子を人質にとろうとする犯罪的な卑劣さ
いかに戦国の風が残っていたとしても武士の風上にも置けぬ陰湿さで到底新しい時代の担い手とは思えず
感情的にも恭順しようなどとは思えなかったろう
よくよく見るとやってることマジでカッコ悪いよ、西軍て 政権側は西軍だぞ。秀頼の名によって改易してるし豊臣軍も西軍についてる。対して徳川は豊臣に切り捨てられた反乱軍扱い。でも徳川の方が実力があったし能力も高かったねって話。政権の敵に回ったら負ける訳じゃない。 家康は西軍蜂起した時には
豊臣公儀としての行軍中だからな
それが三成別心、三奉行謀反というなら
それは豊臣公儀に対するものと理解すべきだろ 秀頼からは文書一つも、面会しての下賜も引き出せず
パフォーマンスとしてもせいぜい豊国社参拝
しかも秀頼と一緒に参ってるわけでもない
それでお墨付きをもらってるってのは
はっきり言って相当弱いぞ >>625
必ずしも傀儡の秀頼=政権側とはならないよ 豊臣軍まで参加して改易も実行出来てるならこれ以上のお墨付きは無いだろう。徳川にはそうした動きが全く無いのだから尚のことね。秀頼が幼年とかお飾りとかはあんまり関係無い。東軍は豊臣が敵に回った事は知っていたろう。それでも東軍は徳川を主人と認めて戦っただけで。だから豊臣公儀はブッ壊れた。家康のせいという訳ではなく罪を見逃してもらう代わりに公儀たる資格を捨てたってだけで。 三成って1600年の挙兵の段階では奉行に復職してるの? してないの? 家康以外の東軍から西軍をみてもエゲつない行動とられているからな
むしろ家康にどうにかしろと頼られる雰囲気さえあるだろ >>631
してない。三成は終始奉行衆の指示で動いてるし。 毛利輝元が大老の立場から復職を認めるとか無理だったのかな
宇喜多秀家と上杉景勝(名義借り)して >>629
蜂須賀の件なら多勢に無勢というだけだろ
家政は阿波本国じゃなくて大阪にいたんだし
>>634
豊臣家の奉行への復職は秀頼の名前が必要
秀頼と豊臣家が西軍に与してたらやったはずだがやってない 会津征伐は至鎮が僅かの兵力で従軍(光成氏によると18騎)、家政は大坂屋敷に居た
阿波本国には相当数の兵がいたはずなんだが、家政に危害が及ばないよう留守居は軍事行動を控えたのかね
輝元は地下人と相談して仕置するよう指揮官の佐波広忠や村上元吉らに命じてる
けど大した騒動も起きてないし阿波占領は割とスムーズにいったんだよな ていうか大名の留守に隠居の身柄押さえて
接収されたらそりゃ抵抗できんわな 無理やり西軍に参加させたり大名の妻子を人質にとったやつと同じこと 秀頼を担いで行動すればその行為は正当化されるというなら
家康の専横を批判できる理屈がなくなる
西軍の行動原理は家康が好き勝手に振舞うなら
こちらもやらせてもらう以上の道理にはならないよ なぜ大坂城を抑えたなら、無理やりでも秀頼を担いで美濃にまで出陣しなかったんだろ
輝元じゃそういう政治テクニックは無理なのかな 「大軍が入っているから豊臣の意思が歪められた」ってのは余り堂々と言える話じゃない。今でも言う人いるが「徳川が軍勢入れてるから会津征伐が決まった」って話になる。じゃあ何をもって豊臣の意思だと言える?既に豊臣には意思決定機構が無かった。となると大坂城を握って豊臣と連携してる奴が「豊臣の意思」を出せる。 >>640
普通に考えたらそこまでの協力関係が
気づけなかったからだろう >>641
ていうか大軍が入ったら支持が覆るってことは
つまりそう言うことだから
豊臣政権、豊臣公議なんて意味ないねとなった その前の秀次事件から豊臣のオワコン感が決定的になった
その後何をやっても行き当たりばったりの弥縫策でしかなく政権としての安定感重厚感頼もしさが失われた
次に取って代わるだけの実力者がいなければワンチャン室町幕府のように権威だけでダラダラ続いたかもだが
それはすなわち政争紛争戦乱の世の再来でもある
徳川という全てにおいて豊臣を上回る圧倒的な統治能力を持つ存在がいたからそれが回避された 本来惣無事令で騒動特に土地に関しては公儀のみが裁定する。それで西軍は蜂須賀家政を改易した。これが秀頼、ないし豊臣の意思でなかったならこれは越権行為どころの話じゃない。即座に毛利・三奉行らの討伐を行わないといかん。
でも豊臣はそうした動きを全く見せていない訳で豊臣が西軍でなかったと言うのはかなり難しい。
尤も既に豊臣家が組織として終わってたという解釈も出来る。既に豊臣は戦国大名としては終わっていてただ強い者に従うだけだったんだと。だとすると秀頼は幼少期、何も出来ない時に天下人ではなくなっていたのだ… 上杉も三成も秀頼が成長するまでじっと我慢だよ
関ヶ原はなく
大阪の陣で家康を討ち取る 石田の思惑、石田の勝算
とかについて書けないのか?
関ヶ原スレじゃねーぞ >>646
関ヶ原の頃だって秀頼が6,7才なら幼少期、何も出来ない時といって差し支え無いと思うが、
豊臣が大名、政権として終わったのがその時であっても、それ以前であってもそれは同じ 勝算については有識者がいろいろ議論してたけど無さそう
今は勝算がない戦いに挑んだ責任転嫁で話題が逸れてるフェーズ >>640
まず西軍首脳部は軍議で軍団を伊勢・四国・九州に振ることを決定してる。これは石田三成が提案した勢力を東、つまり美濃に集中して徳川と決戦する戦略を却下したことを意味する。豊臣が西軍に与した事で家康はまず戦力の再選定を行うと思ったんだろう。実際家康は江戸から動かなかった事で彼らに一種の油断を産んだのかもしれない。ところが東軍に動揺無く福島正則・池田輝政ら攻撃隊が岐阜城を強襲して戦局が決まった。この状況から輝元が動かなかったのはまぁ輝元が安全圏に居たかったからなんだろうけどどの道そんなに結末は変わらなかったといえる。 他に同意も得られてないのに豊臣が西軍に与した前提で話進めようとしてて草
流石妄想野郎と言われるだけあるわ よく「西軍は何故秀頼のお墨付きを得なかったのか」と言われるけどそれは太閤恩顧衆が家康に従った事を曲解してるから。つまり「太閤恩顧衆が家康についていったのは家康が豊臣公儀だと信じたからだ」というもの。だがこれには根拠が無い。豊臣は徳川に西軍を討てといった命令を一切出してない。逆に西軍は秀頼が家康を討伐せよと言ったとして行動してる。つまり西軍=豊臣であり東軍=反豊臣とみて間違いない。秀頼が脅されていたとか妄想してる人も居るけどこれも根拠が無い。あくまで史料に忠実であるなら豊臣は西軍に与してる。 戦争の勝敗と正当性の有無に関係あるとか現実を知らな過ぎる。正しい者が勝つんじゃなくて勝った者が正しいんだぞ。 どちらが反豊臣かなんていうのはどうでもいい話やな
毛利に付くか徳川に付くかの選択があるだけや >>654
史料読めるようになってから御託を並べようね
解釈の問題とかじゃない、明らかに赤点の誤読だから 秀頼の馬廻りが西軍として参加してる時点で少なくとも形式上は豊臣家は西軍なんだよな しかも豊臣弓鉄炮隊は南宮山で徳川隊を攻撃してるし。 徳川家を関東移封したときに譜代を引き剥がせればよかったのかな
大友家から立花家を直臣にしたり
毛利本家から小早川家に親類筋送り込んだり
第二の石川数正釣り上げるとかさ
指揮権が一本化された250万石の大勢力を放置した時点で
秀次でも秀頼でも秀長でもどうしようもない気がしてきた 親豊臣派なら秀頼が言ってると言えば従うし逆に言えば秀頼が言ってるといって聞かん奴に何しても無駄。
「秀頼は毛利軍に脅されてる」「所詮幼児」って言い訳は強いからね。秀頼のお墨付きとやらがあったとしても「毛利が強要した」「幼児だから訳もわからず書いた」でお終い。 毛利軍が入ってきたことは仕方ないにしても諸将の妻子を人質にしようとして死者がでる、親徳川派を理由に蜂須賀家政を確保改易処分にする、反徳川戦争を仕掛ける、これだけのことをお膝元でやられて豊臣軍を与えた訳で豊臣もそれなりに腹括って戦争しようとはしたんだろ。宇喜多秀家や毛利輝元と仲良く豊国社詣もしてアピールもしたし。 >>646
いや実際討伐しなかったことで
豊臣公儀は地に落ちたやん
豊臣は西軍の見方って思いたいんだろうが
正直あなたずっと願望を力説してるだけだそ >>654
西軍が書状で書いた以外には
豊臣が家康を討伐せよと書いたものもないぞ >>663
奉行や毛利が「〜と言ってる」と言うだけで
本人から一切の発信がない状態で
奉行や毛利を信じるかどうかは全く別だぞ >>660
9月12日付増田長盛宛石田三成書状写
「今度勢州口より被働衆、中国ハ不及是非、其外長大・大刑并御弓鉄炮衆も、
長大・安国寺一手ニ被引向様ニ相見へ候間、大人数廻り兼候、
人数も少々そつ尓罷成躰ニ候事」
長束と安国寺は長束・大谷と(秀頼の)弓鉄炮衆まで引き寄せようとしているように見える
当該書状では引き寄せたとは書いてないし、ましてや徳川に攻撃したとはどこにも書いてない
確実に南宮山に秀頼の弓鉄炮衆が居て徳川に攻撃したという根拠となる史料出してみてくれ 秀吉は大事だったが秀頼なんぞはぶっちゃけどうでもいいと思ってる大名が大半だろ
秀吉死去後は主従関係が個人から家(組織)に落とし込めてない状態だからそもそも秀頼が絶対的公儀でもない もし秀頼もしくは豊臣公儀が自身の意思で政治を決められるなら西軍討伐指令を徳川に送ってないとおかしい。西軍は秀頼の命によって動いてるからこれを否定する物証を徳川に送らないと徳川が兵を集められない危険性があるから。
秀頼が幼くて物事を決められないんだとしたらそもそも会津討伐軍は誰の命令に従っていたのかが問題になる。物事を決められない秀頼の命令に従う道理は無いから要は徳川家康に従っていた事になる。つまり既に豊臣公儀は徳川公儀になっていて秀頼は単なるお飾りと化していた。 >>672
家康が決めて、秀頼の承認を得たってことじゃないのか
王と宰相の関係では >>664
腹を括ったのなら東軍大名の妻子が大坂から脱出したことに対して何も言わなかったのは何故?これ本来ならかなりの重大事案だと思うが >>668
卜斎記には関ヶ原の一年後に家康が田中吉政が南宮山の部隊を撃退した事を賞した事が記述されている(実はこれにより関ヶ原に家康は居なかった事が証明される。記述から導き出される家康本陣は南宮山より東だった。つまり家康は南宮山毛利軍の督戦、東軍先手衆の退路の維持をしていた)
これは毛利との講和違反なのではないか?これに対して吉川広家は「この和睦は我々しか知らない事で長束、長宗我部、豊臣は知らないこと」と答えたという。つまり毛利軍は戦闘に参加せず、それ以外の者達が戦闘に及んだのだという。 >>642
普通に考えたら大坂の陣でさえ陣頭に立たなかったぐらいだから淀がよっぽど戦闘頭に加担させるのが嫌だったんだろうと思うんじゃね
頭の働きがあれでそこは全く頭に浮かばないって感じ? 毛利や宇喜多とかに、家康に勝てるような人間が全くいないしな
戦歴で何とか家康と互角になりそうなのは島津義弘だけど、こいつも主力率いてないから論外だし
夜襲は作り話かどうか知らんが、もうあの時点でまともにやっても全く勝ち目無いんだから
やったほうがよかった >>675
大坂から脱出した妻子ってのが黒田親子・加藤清正しか知らんので何ともだがこれは豊臣が徳川派でも西軍派でも説明は出来る。徳川派なら西軍へのささやかな抵抗って話だし西軍派なら徳川派の武将が謀叛的行動をしたにすぎない。だが細川ガラシャの死はちょっと問題がある。西軍派なら説明は簡単なんだが徳川派だとすると説明ができん。 ささやかな抵抗て豊臣に人質としての役割の大名の妻子が勝手に逃亡したら大問題で、
豊臣家がなにもしないのはおかしくないか?
一部の旗本が勝手に参戦したことよりも重大事だと思うが 豊臣公儀への人質を西軍は普通に自分達のために使って豊臣は抗議とか一切してない。剰え死者まで出してるのにね。 そうなんよね豊臣宗家は東やら西にかかわらず主体的な行動してないのよね
まあそもそも何かしようとしても出来ないというのが正しいのだろうけど >>676
また嘘か、いやお得意の誤読か
慶長年中卜斎記には「船越猪子申候は」、田中が三町ばかり敗軍したが、誰の掛け声もないのに「引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働き見事に御座候つると申し候へは」とある
このあと、家康が金森の旗印を知らず、敵と誤認したという本人の愚痴が載っている
まず、田中の働きを誉めたのは船越と猪子、家康は愚痴っただけで賞してなどない
次に、家康前衛にいた田中勢が後退したが「引返」て敵を追い崩したとあるのだから、南宮山の敵であるはずがない
田中勢は300メートルばかり後退したともあるんだから、これが南宮山の部隊のことだったら前後挟撃で後方崩壊の危機だよ
あほくさい
古文書読解とかいう以前の、日本語の読み書きに疑いがあるレベル 黒田・加藤の人質が逃げた事は西軍すらも問題にしてない。その理由は恐らく西軍の戦略にある。確かに西軍はガラシャの死にショックを受けた…らしいんだが代わりに質になりそうなものを取っていた。つまり全然効いてなかったようだ。黒田・加藤からも何かを受け取っていたのかもしれない。 676に反論しようと思ったら684の人が全部言ってくれてたわ
妄想くんが正しく読めるか甚だ疑問だけど、卜斎記の該当部分を載せとくからちゃんと読んでみろ
これ読んで田中隊が追い崩したのは南宮山の部隊だとは誰も思わんでしょ
「船越・猪子申候ハ、田中か人数敵合三町余敗軍仕候か、誰返し候へと下知仕体も見え不申候に、
引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働と見事尓て御座候候つると申候へハ」
この時の家康の様子
「家康公被仰候ハ、間近く金森法印か吹貫を立備候、敵と心得て馬を不寄、法印手と知たらは先へ押立、
法印居候處へ馬を寄候ハヽ、敵ハ一人も洩す間敷事を、法印備を不知故と御挨拶總て」 >>685
まあ一部の豊臣旗本が勝手に西軍に参加していても東軍も特に問題視してないしな >>677
なんで自分が馬鹿みたいに見える煽り入れてるのかは謎だけど
普通にそこまでの支持がなかったってことだね 秀頼馬廻衆に関する記事って9月12日付増田宛三成書状と下記のものくらいかね
南宮山の方は秀頼馬廻衆が居たかどうか断定はできんけど
・義演准后日記八月十一日条
蜂須賀家政の逼塞処分により家臣団が豊臣馬廻衆に加えられ北国へ出陣した
・8月29日付黒河内長三(正光家臣)宛保科正光書状写
「大柿之城、石田治部少輔・備前中納言殿・筑前之中納言殿・嶋津兵庫助・
小西摂津守、其外秀頼様御馬廻衆も随一之衆五三輩楯篭候」
この時保科正光は浜松城の留守居として在番していた >>684
まず吉川家文書から南宮山東麓で長宗我部・豊臣・恵瓊の部隊と東軍が戦闘した事が記されてる。南宮山から攻撃できるとしたら東くらいしかないからこれは妥当だろう。そしてこれを家康は見ていたというのが卜斎記の記述になる。南宮山東麓は軍記物で家康が本陣を置いたという桃配山からは見えない。そもそも家康は十四日に美濃・赤坂に布陣しておりそこから関ヶ原に進む事は有り得ない(毛利が裏切ったら絶体絶命のため)つまり家康は、赤坂から垂井に掛けて布陣しておりそこで田中吉政・堀尾忠氏の部隊が南宮山の豊臣軍と戦闘に及んだところを見ていた。これは別に窮地でも何でもない。田中隊は家康本隊を背後にしてるのだから。 >>687
馬廻衆が居るって事の意味を考えた方が良いぞ。馬廻は大将直属の親衛隊みたいなもんで豊臣馬廻衆ということは秀頼がそこにいるようなもん。これが大坂を離れてるってことは秀頼を護る必要が無いって言ってるに等しい。 居なかったという史料は何も無い。居たと言う史料はあるが。 >>691
そんなことはないぞ
徳川幕府の旗本に相当するもので
必ずしも主君に供奉することが前提ではない >>690
まず、あなたの史料紹介はまったく信用できないから、吉川文書の原文を示してくれるか?
では、仮に南宮山東麓で戦闘があったとしよう
そこで交戦したのが田中隊だと卜斎記にはないし、吉川文書には記載があるのか?
卜斎記にあるのは、300メートル敗走してきた田中隊が押し戻して敵(誰かの記載はない)を壊滅させた
そのことを家臣が振り返って誉めると、家康は「金森の馬印を知っていればなあ。敵だと思ったから寄らなかったけど、味方だと知っていたら寄っていって敵を打ち破ったのになあ」という趣旨の愚痴を漏らした
どこにも南宮山の戦闘を見たなどと出ていないし、敵を打ち破ったのにという愚痴がある以上、田中隊が反撃に転じる前の敗走段階を見ていたと捉えるのが当然
流布している布陣図では田中と金森隊は家康の前衛におり、隣接している
関ヶ原正面で押された田中隊と脇にいた金森隊を桃配山の家康が見ていたとしか解釈できない
そもそもさ、田中隊の働きを家康が賞したって、卜斎記のどこに書いてあるの?
そういうのにはいつも通り知らんぷりするんだろうな
卜斎記には南宮山での田中の働きを家康が賞したことが載っており、これによって桃配山にいなかったことが証明される
はなから史料誤読した上で証明もくそもないだろ笑える >>690
この部分か、なるほどな
この吉川広家の記述が正しければ南宮山方面にも秀頼の弓鉄炮衆がいて、田中隊や堀尾隊と交戦していたことになるな
吉川広家自筆書状案
「南宮山へ之手あてハ、先手池田三左衛門尉・井伊兵部・本多中書・其外内苻馬廻、
此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安国寺陣田中兵部・堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」
南宮山の手あてとして、先手に池田輝政・井伊直政・本多忠勝、その他内府馬廻
これらの衆にて長宗我部盛親の陣から(秀頼の)弓鉄炮衆の陣へ、
安国寺の陣へは田中吉政・堀尾忠氏が好位置にいるので、
これを攻撃してこれを切り崩し、山上の陣へ切り上るようだ。
卜斎記の記述には家康が田中隊の奮戦について言及してないから恐らく家康本人は直接見てないだろ
猪子や船越、若しくは他からの報告によるものだと思うがね >>689
形式上はみんな豊臣公儀対徳川とは捉えていたようで
あなたが引用された徳川方の保科にしてもそうだし(先手からの通報を家臣に報じる内容だから、少なくとも先手の認識)
白峰氏の論文「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」なんか読むと朝廷、寺社もそうだし
かといって徳川が朝敵扱いされたり豊臣戦勝祈願が寺社に命じられるわけでもなく
後陽成天皇も「平和にしろや」くらいしか言わない
東軍についた大名も動揺している様子でもない
西軍が公儀と広く認識されていても実質がまったく伴っていないから、ここのところの議論は不毛にしか思えないんだよなあ >>697
あくまで表面上はってことだね
実際清正や松井康之も細川の丹後領召上について「秀頼様が曲事に思われたことにより」とはっきり書状に書いてるしな
ただ中身が全く伴ってないってのはあなたが指摘した通りだと思う
九州を例に見ても東軍勢力は少ないはずなのに如水を中心として、
清正や杵築城代の松井康之・有吉立行にも全く動揺は見られない
松井は輝元や奉行衆から杵築を明け渡すよう遣わされた書状を投げ返し、
また使者が来るようなら斬り捨てるとまで言って不退転の覚悟を示してるしね >>696
だまされちゃいけないぞ
この書状案の当該部分だけ読んでも仕方ない
あまりに勝ち目がないと悟った吉川が無断で徳川方に内通して誓約が完了
そこで取り次ぎの井伊、本多に吉川が「此上は御行(てだて、軍事行動の予定)之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處」、山中方面は小早川が手引きする、南宮山へはこいつら、安国寺と秀頼の御弓鉄砲衆にはこいつらを宛がうと井伊、本多が明かした
その上で「もう和談しちゃったから攻めたら違反かな?」と言われたので、吉川は「和談を知ってるのはうちらだけなんで、どーぞやっちゃってください」と答えたので、井伊、本多は「じゃあ、君んところは手出ししないで控えていてね」と応じ、吉川は帰陣した
そうしたら「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
つまり、南宮山で戦闘があったどころか、むしろ徳川本隊はなんの手立てもすることなく通過して関ヶ原に布陣したと書いてある
妄想太郎は何度でも誤読する、実際は真逆のことが書いてある そもそも秀吉没後の豊臣政権の機能についてだけど
1599年に三成の妹婿の熊谷直盛が朝鮮渡海組からの訴えで職務怠慢で改易されてるよね
そして、三成挙兵により大名復帰している
改易は主宰者の家康が決めたんだろうけど、復帰はこれ誰が決めたの? 妄想野郎はまた誤読してんの?
いい加減に消えてくれないかな? >>699
サンキュー
やっぱ全文読まないとダメだね
該当部分と思われるとこしか読んでないから時間ある時に全文読んでみるわ 吉川裏切り前の徳川方による単なる攻撃計画を田中による攻撃が実際にあったとすり替える(誤読する、そもそも「可」が入っている時点で過去形ではないと普通はすぐ分かるわな)
単なる攻撃計画が変更されて、吉川が困惑している(井伊、本多との会話を報告したのに違って気まずかったみたいな文言がある)のはスルーする
はっきり言えば誤読以前に自分で読んでないんだろう
「長大、安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合(照会する、つまり窺っているだけ)申候」ともあるから、秀頼の御弓鉄砲衆がどうしたかはともかく、ろくな戦闘はなかった
引用は関ヶ原スレからなので多謝多謝
>>702
あなたが紹介してくれた史料に秀頼の御弓鉄砲衆のことがよく出てきました
安国寺陣の近くにいたのだけは確実
ただ、この書状では、西軍は二手に陣を分けたが、早くも小早川が逆意の色を立て、山中方面にいられなくなった
大谷陣も引いた、「是は佐和山へ二重番引(二段階で佐和山まで引き上げる意でしょう)可仕覺悟と相見え候」
それに「さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候」とあるから、佐和山に引くつもりで戦意は低かったように個人的には感じられる
そういったもろもろの様子を見て吉川は「一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候」と判断して裏切りを決めましたって文書 >>690
南宮山東麓で戦闘があったかどうかはしらないが、田中隊がいて近くに家康本陣があったなんてことは史料上にない
少なくともあなたが引用しただろう吉川文書は真逆のことを記している
田中隊が安国寺、秀頼馬廻りを攻撃するってのはあくまで事前の計画であることは明確に書いてある
でだ、「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
これ、どう訳す?
試しに訳してくれ、無視せずに
卜斎記の訳もデタラメ、吉川文書の訳もデタラメ
もう書き込まないでくれ 奴はどうせ無視して暫くしてまた妄想ダラダラ書き始めるよ
教えてもらったのに有難う御座いますの一言すら言えない >>684
問鉄砲とか信じてそう。徳川家康が関ヶ原に陣取っていて指揮してたなんてのは幕末・明治記に書かれた軍記物を司馬遼太郎が間に受けて小説にしただけ。家康が何処に本陣置いたのかは当たり前だが史料には残ってない。だが何処にいたのかは分かってる。南宮山の吉川広家によれば家康は南宮山の押さえとして布陣していた。 さてここで問題がある。家康が布陣していた赤坂から関ヶ原は約4〜8キロほどの距離がある。それ程の遠距離から文字通り「山中」の関ヶ原での戦いをしかも小雨降る中どうして家康は視認出来たのだろうか?これは超人的な視力と言わざるを得ない。もしくは最新の軍事衛星でも使わないと無理だろう。PADを使う家康というのは確かに面白い図だが小説のネタにしかならない。
つまり家康が目撃した田中吉政の戦闘はその眼前で起きたものでしか有り得ない。赤坂から出撃した東軍先手衆を南宮山の豊臣軍が攻撃したのがそれだろう、って話。司馬遼太郎の小説に毒されていると中々受け入れ難いだろうけど、家康は毛利が裏切るリスクもちゃんと折込んでの布陣を敷いていたに過ぎん。 >>699
珍説披露ご苦労様って感じやな。書状一つを頑張って切り貼りしてるからこうなるのか?講和の席で戦闘計画を話したりそれを「約条違反だ」というようなアスペルガーは戦国時代におらんぞ。
家康が美濃赤坂に到着したのは九月十四日。時同じく小早川秀秋が松尾山を占拠した。この時点で西軍は大いに動揺。広家はここで徳川との和睦を行う。これは時間がタイトだった。何しろ石田三成らが大柿より出撃していて東軍先手衆も出動してる。夜を通して何とか本領安堵、少なくとも改易回避を勝ち取る。ところが十五日早朝、豊臣軍が東軍先手衆を攻撃する。これを徳川使者は「約条を反するのか」と確認すると広家は「この和睦は豊臣は知らぬ。約条違反に見えるが気にせず通り抜けてくれ」と誓った。結果豊臣軍は謂わば見殺しにされた(俗に言う宰相殿の空弁当)
十五日の朝にもなって和睦交渉してたんじゃ遅過ぎる。 吉川家文書のは毛利と徳川の不戦条約であって豊臣とは関係無いじゃろ。長束や豊臣弓鉄炮衆が戦闘しなかった証拠にはならん。 >>707
あのー
何から手をつけたらいいか分からないレベルなんだが
司馬とかどうでもよくて、史料の話でしょ
卜斎記には家康が賞したなんて記述がないし、直接見たかも不明確な家康の愚痴が載っているだけ
もちろん南宮山付近にいたという記載もない
あなたが原文ではなく一部の訳だけ書いた吉川文書は、南宮山への田中隊その他の攻撃「予定」が記されているだけで、実際には「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」とある
日本語読めないのデスカ? >>683
豊臣奉行が扇動してるのに主導的で無いとかヘソで茶が沸くだろ。良くて西軍派悪けりゃ主犯やぞ。 >>709
別の吉川書状案がある
以下、関ヶ原スレから一部引用
一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、山中之合戦勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大蔵殿も、山中合戦悪敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
普通に読めば、戦闘なんかしてないな
それとは別に、秀頼御弓鉄砲衆の戦闘参加の有無なんて重要事項か?
西軍に与したことは大事かもしれんけど 1600年9月の時点でどうあがいても西軍に勝ち目はほとんどない
関ヶ原で野戦なんかもってのほか
やるならとにかく時間稼ぎして家康の暗殺を謀るとか考える奴はいなかったのか >>710
はぁ…良いかい?家康が田中吉政を賞したかどうかなんてどうでも良いの。重要なのは家康は関ヶ原で吉政の戦闘を観てるってこと。上の珍訳でもそこは否定出来てないだろ?
そして家康は関ヶ原に居ない。吉川家文書から家康は南宮山の押さえとして南宮山東に布陣していた事がわかる。 さてここで問題がある。南宮山から関ヶ原までは5キロ以上ある。もし吉政の戦闘が関ヶ原だとしたら家康は5〜8キロ先の吉政馬印を視認したことになる。ということは家康は視力5以上、最低でも3以上あったことになる。また5キロ先でも視えたという事は吉政の馬印は相当巨大だったことになる。しかもこれは平地の話で関ヶ原は山中にある。更に当日は雨、霧の天候。この状況下ではこんな遠距離を観測出来ない。
ということで家康が見た吉政の戦闘は関ヶ原では無い。なら何の場面なのか? >>715
誤読くんなのにずいぶん高飛車だな
以下の吉川書状案を訳してみてくれるかい?君が引用したところもあるから、当然訳せるだろ
両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多ね)い相尋申候處、両使申事には、山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは、其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候
で、さっき引用したところに続く
御弓鉄砲衆は家康が「山中」に進出するのを見ると伊勢路のときと同じく人夫が逃げ出した
山中で味方が敗勢だと聞くと、伊勢路のごとく届けもなしに陣を払った
史料を読めないのに子供探偵団みたいな推理ごっこしても無駄だよ >>714
ほんとに一つも読めないんだな
関ヶ原一周年に家臣が田中の働きを誉めたら、家康は金森の馬印を覚えてたらなあと愚痴った
会話としてはずれているんだが、逆にそこに脚色性のなさ(卜斎が実際に見たこと)が感じられるし、卜斎が語った趣旨としては後段にある、家康はあまり戦の話を好まなかったのに珍しいって部分
まあそういう御託はともかく、流布する布陣図では田中隊と金森隊は近いので、後退してきた田中隊を見て、近くの金森隊に近寄って敵(重ねていうが誰かは書いてない)を破ろうと思ったんだろうな、と推測できる程度
田中隊の働きを見ていたと断言まではできないし、南宮山近くにいたとはまったく読めないし(むしろ卜斎記では桃配山に布陣したけど霧でなにも見えなかったと書いてたはず、確認は面倒なのでそっちでやってね)、君が引用した吉川書状案では攻撃計画はなかったことになって南宮山はスルーされたとある
あのね、悪いけど君の全部間違ってるから
もう無理するな、仮想戦記でも読んでるのがお似合いだよ >>714
仕方ないから卜斎記読み直したよ
14日に赤坂丸山に家康は陣取り
翌日早朝、勝手に出陣し、出向く場所はと聞かれて「敵の方へ」
垂井あたりで軍勢がほぼ追い付いた
家康が本陣を置いた場所と石田、小西、宇喜多、大谷の陣とは一里ばかり
陣立てが終わってときの声をなんどか聞いていたら合戦には勝っていた
垂井で大形の人数が揃ったとあるから、逆に垂井が終着点じゃないと分かるな >>714
で、その家康が南宮山東麓に布陣していたとする吉川文書とやらを「原文で」示してくれるか?
それが一番話が早いでしょ
どうせ知らんぷりするんだろうけど 保身の吉川の信用性はあんまり無いな
西軍贔屓の奴等がコイツを叩かないのがよくわからん 西軍首脳部が調べるほど能無し揃いだから吉川広家はむしろ同情してしまう まあまだ気は早いが、訳してくれってのはどうせ無視すんだろう
「両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多)い相尋申候處、両使申事には」とあるんだから、和談が調い、吉川側から「御行(軍事行動の予定)」の様子を井伊、本多側に尋ねたことが分かる
そこで両使は「山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」と作戦計画を説明した
そもそも、前段を読まずとも「可」という助動詞が使われている時点で、この場合は意志の用法だが、いずれにせよ「過去に起こったこと」とは古文を知っていれば読めない
次いで、「於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは」
それはあくまで事前の計画で、ここにいたって南宮山を攻撃するのは違約かなあと井伊、本多が言うので「此方申分」(吉川の言い分)では「うちらしか知らないんでやっちゃってください。うちらは交戦しないんで」と話して帰陣した
そうすると「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
ここ大事ね
少しも手あてなく、事前に聞いた計画と違って(翌朝に)打ち過ぎられたる(通過された)のはどこか、南宮山でしょ
そう聞いたからそう報告したのに違うから困ったぜ、という内容が続く
つまり、南宮山方面に攻撃予定だったものが吉川の裏切りで(吉川が把握できない家康本陣の中で、一晩のうちに)方針ががらっと変わった
続くところで秀頼御弓鉄砲衆は伊勢路のときみたいに逃げたと罵倒されているから、なんもしなかったんだろ
反論ある? 妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな 妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな 吉川家文書のは凄い誤訳だな。広家と徳川大使の話がトンチンカンな事になってる。広家と徳川の講和条約は毛利と徳川しか拘束しない。じゃあここで出てくる長宗我部や豊臣弓鉄炮衆、また長束は毛利家の支配下なのか?そうじゃない。もしこれが十四日夜の話なら広家の答えは「戦闘が起きない様に努力する」しかあり得ない。この和睦は二人しか知らないから通り抜けてくれ、とした場合どうして長宗我部ら南宮山麓の部隊は攻撃しなかったのかを説明しないといけなくなる。 >>726
横からだけど会話もできないなら書き込みやめなよ >>716
普通に家康は南宮山の押さえと書いてあるな。少し応用になるけど。家康が美濃赤坂に着いたのが十四日(東軍先手衆は垂井に移動)、同日松尾山を東軍が占拠、同日夜大柿衆松尾山奪還に向けて出発、それを見て東軍先手衆は東山道を西進する。
家康が関ヶ原に居たとすると家康は先陣切って行ったことになるけどその手の話は明治以降の作り話。家康は南宮山に居た事は間違いない。 >>728
応用てw
さすがに草生やさざるを得ん
私はタイムマシンを持っていないので家康がどこに布陣したか断言はできないが、あなたが秀頼御弓鉄砲衆が戦闘に参加したとして引用した吉川文書案
それを読む限り、南宮山に池田や徳川譜代、馬廻りを当てるのは情勢が変わる前の計画であって、何度でも繰り返すが「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」と明確に書いてある 立花宗茂や小早川秀包が主張したように秀頼盾にして大坂城に籠もればどうなったかわからん
援軍が100%なかった大坂の陣とは違うからな。まあ扇動してきた仲間を捨てて勝手に家康に頭下げて所領安堵の約束をしてた輝元がそんなことするわけないが >>730
やる気なかったのに終わってからそんな主張するなよ立花 「攻撃したら約定に違反しますか?」の返答が「この約定は二人しか知らない」と繋がるのは確かにおかしい。常識的に考えれば「はい、約定に違反します」か「いいえ、約定には違反しません」のどちらかだろう。で読んでみると吉川広家、なんとこの問いに答えてない。だからキモは「御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条」の訳し方なんじゃないの?ここは何て訳すのだ? 岐阜城が落ちた段階でもう離反者が出てるのにあそこから盛り返せるわけないだろ
関が原後はすべて失うか大損害で済ませるかの違いしかないぞ
大坂城で時間稼ぎしたところで全国各地の東軍勢に対抗できる手勢はないし
そいつらに本国落とされたら終わりなんだから >>730
なんつーか、西軍を支持してる奴が本音では豊臣家も豊臣政権も
どーでもよくて、ただ東軍(家康)をやりこめたいと思ってるだけなのがよくわかるな
「ほれほれ、秀頼がどうなってもいいのか、頭下げろや家康」ってか
自分で書いててみっともないって思わんのかね、恥ずかしくないのかな こんな感じかね
見せ消ちの部分は全て削った
間違ってたら忌憚なく指摘してほしい
あと「長土御弓てつほう衆」だけど大日本古文書家わけにある注釈だと、長宗我部の弓鉄炮衆となってるんだよね
「御」がついてるし秀頼の弓鉄炮衆だとばかり思ってたがどうなんだろうな
【原文】
「於于今者御和談調候ハヽ、相違可仕候哉と申候、先此分尓て候つると申候条、此方申分ニハ、此御和談之事ハ□□先両人計存候、
長大・安国寺・長土御弓てつほう衆なとハ被存間敷候条、御手あて衆已下被出候者ゝ、可及合戦候、
さ候へ者、此首尾相違之様候条、□□□□一圓ニ御手あてなしニ□被作せ之候者、当陣之者不打出様相抧(=控)候て、可罷居候由申候て帰候へ者」
【現代語訳】
現在和睦が成った状況では、そのような軍事行動は違約になるのではないかと(吉川)は言った。
しかし(東軍は)このように行動すると井伊・本多が言うので、こちらの申し分として、
この度の和睦は両人(吉川・福原)しか知らず、長束や安国寺、長宗我部盛親、(秀頼の)弓鉄炮衆等は知らぬことで、
その手あてとして(東軍が)軍勢を出せば合戦に及ぶことになろう。
そうすれば差し障りとなるので、この辺り一帯に(東軍の)軍勢の手配をしなければ、
私達は陣から出ずにじっとしていると申し上げて帰陣した。 >>732
ほんと古文の基本も分かってないし、それどころか現代日本語すらも解さないようで
答えてないってなに?
和談は吉川毛利しか知らないと思うので(ほかの勢力とは関係ないんだから)「御手あて衆已下被出候は、可及合戦候」と明示されてるでしょ
この助動詞「可」は適当、勧誘の可としか取れないから「合戦しちゃうのがいいですよ、やっちゃってください」だ
そうすっと違約みたいに思えるかもしれませんが、うちら手を出しませんのでと吉川は答えて帰陣した
で、事前計画の通りにやってくると思っていたら「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」だと何度も書いてるでしょ
早く家康が南宮山近くにいたという吉川文書を教えてくれな >>735
「此方申分」の以降はすべて吉川の弁で、それ以前は井伊と本多の弁と取るのが普通じゃないかな?
攻撃予定を述べて、「和談が決まったから(南宮山攻めるのは)違約かもね。いまのところはこんな予定です」
これに対し、吉川が「長束らは和談しらないと思うんで。予定の手当てをしたらそのまま攻撃しちゃってください。そうすると違約みたいですけど、○地域一円に布陣されないなら当家は動きませんので、と話して(吉川は)帰った」ではないか
で、秀元あたりに帰ってそう説明したのに、徳川方はさっさと通過していったから立場を失ったという愚痴につながる
「可及合戦候」の「可」は先にも記したけど、やっちゃえの助動詞だと思う >>738
なるほど
井伊や本多の発言とも取れるね
前後の繋がりから自分は吉川の弁だとばかり思ってたが
一応通しでは読んだから全文翻訳して吉川史料館に問い合わせてみようかな
何回か質問したことあるけどほんと丁寧に教えてくれる
現在3分の2位訳したけどこの他にも一部不明瞭なところもあるから聞いてみたいし
遅くなるかもしれんけども結果を報告するよ
あと関ヶ原史料スレにある翻刻は見せ消ちと訂正後の文を合わせて書いてたりする箇所
があるから東京大学史料編纂所のデータベースの吉川家文書を見る方がいいね
「御和談調候はは間」とか文法的におかさしいし
見せ消ちと訂正後の文を比較しながら見れるのもよかった >>734
むしろあなたがどういう感覚でそういうことを書いているのかが気になる
対立煽りでもしたいの? >>736
というか原典だ
翻刻に書状写真まであって最高だ、ありがとう
関ヶ原スレの人はかなり読む力があるけど、明らかな(なんでそこまで力があるのにという不可解な)間違いとかあったし
「於于今ハ御和談調候へハ相違可仕と申候条」とされているし、実際の書状でもそうなっている
予定はこうだったけど和談で変わるでしょうという徳川方に、吉川はいいから攻めろよと言ってるんだな >>739
そこらの不満は>>736で解消される
ありがたい
それを読んだので、「計画はこうだったけど和談で変わるわい」と井伊と本多が言ったと訳を恥ずかしげもなく変更します
まあそもそも大日本史料読めと言われそうだが、関ヶ原回りは稿本だから面倒くさい 関ヶ原史料すれはあちこちから皆が集めたものだから。
ひとりが全てを集めたものではない。 >>729
馬廻衆がどんな存在かあれほど語られてるのに理解してないって…内府馬廻衆が南宮山押さえってことはそこに徳川家康がいるって意味で問題無いぞ。お前さんは家康が相当勇猛果敢な男と思ってるんだろうけど馬廻衆を置いて関ヶ原に突入する程無謀じゃない。 >>735
吉川広家の言ってる事が無茶苦茶過ぎる。押さえの兵を置かなければ戦争にならないなんてのは左翼のよく言う「基地があると攻撃される」論と同じ。現代ですら通用しない理論が戦国時代に通用したとは思えない。おそらく既に南宮山豊臣軍が東軍先手衆を攻撃していてそれに対する言い訳なのだろう。 元々は、関ヶ原合戦の真実スレ、だったかな?
せっかくあそこに貼った史料がdat落ちして読めなくなってしまうので、
新たに史料スレを作っていつでも読めるようにしよう、
としたのが始まり。 馬廻衆は基本は主君の警備ではあるけど別働隊として派遣されることもあるから家康の在所の証明とまでははならないんじゃないか
信長なんかはあちこち派遣しまくりだったし 押さえの軍に戦闘吹っかけるって事は豊臣軍の士気は高い事を意味する。てことは押さえの軍が居なかったら尚のこと戦闘しに行くだろう。地形的に南宮山を避けては通れない訳で。移動中に突撃するのは戦の常道だ。 >>747
主君より安全な場所に馬廻衆を送るはずがなくね?もし毛利が裏切ったら関ヶ原で孤立するのは徳川になる。もしそんなリスキーな戦術してたら逸話に残ってる。関ヶ原は小早川が既に味方で戦力は拮抗してる。家康が出陣する理由が無い。 譜代大名が少ない代わりに旗本は大量に引き連れてたのが関ヶ原の家康隊だからあちこちに分派してても不思議はないが 馬廻のいるところ必ず主君がいるなら史料上
名のある大名は全て分身が使えてた証明となるなw
馬廻というのは文字通り主君の馬の周りで
備え(部隊)を構成する武士という意味もあるが
主君直属の職制を指す語だよ 馬廻衆は選抜された超エリートで大将の周りを固める親衛隊。故に「馬廻衆がいる」ということは大将が居ることを意味する。織田信長は複数の馬廻部隊を抱えていてこれを変幻自在に操った…らしい(本能寺の時にはそれが却って仇になった説があったり)家康も馬廻衆を当然持っていたけど複数部隊に分けたって話は聞かんな。攻撃部隊の旗本衆と防衛部隊の馬廻衆に分けてたらしいけど。 例えば「内府旗本衆」や「内府先手衆」なら家康がいるとは限らんがわざわざ馬廻衆が押さえにあるというのは南宮山は徳川家康本隊に押さえられていた事を意味する。広家からしたら裏切って攻めたところで勝ち目が全く無いから和睦を維持するしかないわな。戦略面でも矛盾は無い。南宮山の毛利軍が関ヶ原の東軍背部を狙う事は防がねばなるまい。 馬廻=少数精鋭のエリートで
主君の周りにしかいないって
史料上そんなに厳密に使われてる?
信長の馬廻はあちこち派遣されてるし
徳川の馬廻だけ特別な職制だったってこと? あのねえ
なんで「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」はかたくなに無視すんだろうね
池田や家康馬廻、井伊と本多らが南宮山方面の押さえとされたのはあくまで事前の計画
家康は一晩でひっくり返して(吉川の裏切りの結果)打ち過ぎていったとあるでしょ
君とは会話にならないんだよ 馬廻りがどうのこうのとか一切関係ないから
家康方との誓約が終わり、吉川が井伊、本多側に「軍事行動の予定はどうですか?」と聞いた
そんでこうこうと予定を明かし、両者にいろいろやりとりがあって、吉川は陣から動かないと伝えた
そんでもって山で待っていたら、「その返事はもはやなくなってしまったのか、(上記の部隊は)少しも南宮山方面に手あてをすることなく通過してしまった」
つまり、井伊、本多側が語った南宮山方面への布陣計画は撤回され、馬廻り含めて関ヶ原方面に突っ込んでいった
布陣計画は意志の助動詞「可」が使われているから「するつもりだ」
その時点で実際に起こったことではない
通過したという方は完了の助動詞「つ」と「たり」の連体形が用いられているので明確に過去に起きたこと
古文や現代文習ったことあるかい? もう一度、以下も引用しておきましょうか
同じ吉川文書
一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、山中之合戦勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大蔵殿も、山中合戦悪敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、
「一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから」と明記されているな
一昨日とあるが、家康が山中に打ち越したのを見ただけで人夫が逃げ出し、山中の合戦が東軍勝利と聞くと部隊全体も届けなく逃げたとあるから、合戦当日の朝に家康は山中に進出し、その後すぐに東軍勝利が報じられ、撤退したのだと分かる
長大も安国寺も似たもの
その前にも「長束と安国寺は軍勢が集結していたが、敵の様子をうかがうばかりだった」といった内容の記述がある
家康は明らかに山中に進出していたし、南宮山の西軍部隊は戦闘していないのが濃厚
反論よろしく、妄想ではなく史料を使って あと、吉川文書によると家康が南宮山東麓にいたと連呼していたが、その根拠史料もよろしく
「山中」が南宮山とか言い出さないでくれよ >>754
家康は軍制で親衛隊を「旗本先手役」と「馬廻」に分けてる。
旗本先手役は徳川でも有名な連中、例えば鳥居元忠・本多忠勝なんかが指名されていて家康の指示で危険な任務をも行う突撃隊として活躍した。対して馬廻衆はそうした逸話があんま無いけどこれは家康の防衛部隊だから。つまり家康は馬廻衆を攻撃と防御に分けて組織したらしい。何故家康がこんな組織化をしたかは不明だけどおそらく本来大将を守るのが役目の馬廻衆に余計な職域を与えたくなかったんじゃないか。
信長は複数の馬廻部隊を作ったけど攻撃と防御両方を担わせた結果本能寺の変で全滅したらしいし。 >>757
その引用が正しいなら家康は決戦時に関ヶ原に居たことを証明は出来なくね?これは確か毛利輝元に戦況報告したものだから正確な報告で無い事は仕方が無いが。 まず徳川家康が「何時に」移動したのか明記されてない。関ヶ原の戦いは巳の刻に始まり正午には終わったとされてる。逆算すれば家康が桃配山に移動したのは早朝だったことになる。なら「一昨日朝…」とあっても良いだろうに。
つまりこうした説明も出来る。十五日朝、南宮山豊臣軍は移動中の東軍先手衆を攻撃した。ところが毛利が動かない。不信と疑心暗鬼が豊臣軍に広がり押し返され以後攻撃出来なくなった。正午近くまず家康本陣に西軍撃滅の知らせが入る。ここて家康は自軍を関ヶ原に移動させる。それを見てまず人夫共がパニックを起こし逃走を始める。流石に軍人は踏み留まるが西軍壊滅の一報が入るとこれも逃走。吉川文書だけでは家康が最初から関ヶ原に居たかは説明出来んと思うが… これは戦略的にも正しい。何故徳川が南宮山を押さえたかというともし全軍を関ヶ原に投入した後に毛利に裏切られた場合東軍は東西から挟撃される形になる。家康の戦略は小早川秀秋裏切りの報で関ヶ原に釣り出された西軍を東西で撃滅することにある。司馬遼太郎が家康が関ヶ原に居た事にしたのは小早川秀秋が既に東軍であることを知らなかったから若しくは物語の都合。
南宮山からは関ヶ原が視えない。しかし今まで動かなかった徳川本隊が関ヶ原に向かうとなれば戦局は人夫だって分かったろうさ。 >>761
大番は江戸幕府が組織したけど関ヶ原時点ではあって名称程度じゃね? >>759
それは関東移封後に組織が急拡大してく中で
馬廻が大名に取り立てられたものと
直属のものとに分けられただけで
直属のものの職質が親衛のみに特化して
他の仕事をしなくなった訳ではないよ
後の徳川幕府の組織上も馬廻にあたる旗本が
他大名家との連絡を業務にしたり
他の役職への出世の足がかりになっていた 幕府の支配体制が固まってから分業専門化が更に進んだんじゃないの >>762
徳川本隊が打ち過ぎたとやっと、やっとやっと認識してくれて何より
しかし「説明もできる」はいただけないなあ
世の中ではそれを「妄想」と言うんだよ
史料に書いてあることを読まず読めず、書いていないことを想像されても困るんだよね
自説が正しいというなら南宮山に家康がいたという吉川文書とやらを早く出せばいいんじゃないかな?
そういうのを出してくれたら、それに対する史料批判(史学用語のね)なり、ほかの史料との兼ね合いなりの議論になるんだが
司馬遼がどうとか、馬廻りがどうとか、真底どうでもいいので 妄想って悪く言ってるだけでしょ
想像とも言えるし推測とも言える 徳川本隊が関ヶ原に向かったのは関ヶ原決戦が終結した時だろう。それまでは南宮山東麓で毛利軍の監視をしていた、というのが吉川家文書の記載だね。一言も十五日朝に家康が関ヶ原に居たとは書いてないし。内府馬廻衆が南宮山押さえって事は家康が南宮山より東に居たことを意味してる。どの一次史料にも家康が何処に陣取っていたかわからない状況だけど南宮山の毛利が裏切ったら絶体絶命の地に敢えて踏み込む事は考えられん。 家康がいる場所は内府御本陣と書いてあるから内府馬廻衆とわざわざ別に書いてあるのは家康から離れた別働隊だな 毛利家の輝元への文書だし徳川の小身の武士だと一山なんぼで記載されないんじゃない
井伊や本多の記載は輝元も知ってるからではないか 妄想誤読くんはまともなコミュニケーション取れないからもう無視するとして
徳川馬廻りがどうのこうの言ってる人もまともじゃない
あくまで「御行(てだて=軍事行動の予定)之様子」を聞いたら答えたってだけで、それと実際は違ったから吉川はむしろ困っている
つまり、家康が合戦当日にどこにいたかという議論において、馬廻りの性質がどうのとか、内府御本陣は別に書いてあるとか、みじんも関係しない
ただの予定だから
少なくとも吉川文書にはそう明確に記されている
ついでに当該文書
最後の念押し部分には「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」とあると附記しときます 馬廻りの話になったから役目や性質の話になったんじゃないのか
とりあえずは馬廻りが居る所=本陣ってのはここでは否定された >>745
広家には約定違反かについての裁定権が無いからしゃーない。
小早川秀秋の裏切りと違って毛利の和睦は土壇場も良いところの九月十四日夜に行われてる。これはつまり徳川にとって毛利との和睦は戦略の前提では無かった事を意味してる。一見公平に見えて実は毛利の無条件降伏な訳である行動が約定に違反してるか否かを決められるのは徳川。極端に言えば徳川は毛利を攻撃しても問題無いが毛利は僅かでも徳川を攻撃したら約定違反で潰される位の格差がある。 >>775
内府御本陣ってのは徳川家康のいる場所
内府馬廻衆ってのは徳川家康が率いている部隊
全く違う概念なのでこれが両立することに問題は無い、てかそうしないと内府御本陣が山中にあったと証明する羽目になるゾ 実は小早川秀秋なんぞより遥かにエグい裏切者だからな毛利って。秀秋は随分前から徳川についていて松尾山とったのも家康からの指示だけど毛利が和睦したのは十四日の夜。しかも目前で豊臣見捨てた訳でよくもまぁ悪評を抑えきれたねって。 輝元は大坂の陣でも保険で大坂に入れた家臣に全部責任を被せて腹を切らせてるからな。小物なクズ野郎 >>783、>>784
そりゃ誠実な行動とやらで御家を潰したらそれこそ先祖に申し訳が立たんからね
御家大事という観点で見るのなら、輝元の行動は正しい
周りからの嘲笑や侮蔑を「お前らなんかに何がわかる」と歯を食いしばって心の中で毒づきつつ、
下げたくもない頭を下げ、心にもないおべっかを使って、それを御家存続の為とひたすら耐える、
そしてその目的の為ならどんな卑怯で汚い手段でも決して厭わない、
これこそが『家』というものを背負った真の武士だと私は思うけどね 豊臣家が家康と三成で権力争いしてるのと同様に毛利家も安国寺と福原吉川で権力争いしてんのよね >>779
妄想をさも事実かのように語り、史料の誤読を平気で定説であるかのように扱うあいつが悪いんだよ
あー、そういう史料あるんだって思っちゃうから
厚顔無恥ってある意味、武器だわ >>778
徳川家康が関ヶ原決戦時つまり九月十五日十時頃には南宮山東に居たって話だぞ。内府馬廻衆は南宮山押さえに入ってるからな。で豊臣弓鉄炮隊は徳川に攻撃を仕掛けた、ってところに繋がる。司馬遼太郎は関ヶ原を決戦に仕立てる為に史料を無視して話を作った訳なんだがそのせいで史料と乖離した話になってしまった。それを未だに信じてる人が居るから大変なんだな。 広家が降伏した日時考えれば徳川の情報とか信じられる訳ないんだよなぁ 関ヶ原で豊臣政権の主だった官僚がほとんど全滅するけど、その中で言えば本人は処刑されたけど子供たちは助かった三成はまだマシだよね
お咎めなしの玄以は息子が発狂し、改易で済んだ増田は大坂の陣で息子が豊臣方についたせいで切腹だし 広家は親徳川派と言われて当初から東軍に与してたみたく言われているが史料上ではこいつが徳川に通じたのは九月十四日の夜。なんと小早川秀秋よりも遅い(秀秋は九月三日には徳川に通じてたらしい)十四日は家康赤坂着陣、秀秋は松尾山占拠なので東軍が詰めに来てるその時。これは家康は毛利を当てにしてなかった事を意味してる。毛利が敵でも勝つつもりで来てた訳でまぁ広家は限界で降伏したわけだ。
なんでこんなになるまで放って置いたのかは人によって解釈分かれるけどこの乱が終結したら毛利は良くて改易悪けりゃ切腹、そうならない様に西軍を高く売れる機会を窺ってたんだろうか。そしたらまさかの大暴落と。 >>791
子供は助かってるけど、父に兄にその息子は殺されてる
なぜ三成の子息は許されたんだろうな >>793
おそらく、直接戦闘に参加してなかったのと、三成の「遺児」を立てて挙兵するような勢力が皆無だったからだろう。 大坂から秀頼を連れ出したパターン
A 「上様がこのような所に来られるはずがない」
B 「上様の名を騙る不届き者だ」
C 「上様でも構わぬ」
D 「上様、お手向かい致しますぞ」
E 「上様、お命頂戴致します」
F 「ここで死ねばただの徳田新之助」
G 「悪党らしく死に花を咲かせてくれるわ」
H 「飛んで火に入る夏の虫」I 「我ら幕臣あっての上様ではないか」
J 「八代将軍もこれで終わりぞ」
K 「もはやこれまで」
L 「笑止千万」
M 「吉宗の首を我が殿、宗春公に差し出せ」
N 「上様の顔を忘れた」
O 「もはや上様の命に従う必要はない」
P 「腹を切るのは拙者ではなく、上様である」
Q 「どうせ上様には死んで頂くつもりでした 覚悟なされ」
R 「御役御免で一度は死んだ身」
S 「そこまでばれているのなら、毒を食うは皿まで」
T 「何をほざくか吉宗。良い所に現れたものよ」
Z その他 西軍の大将って三成みたいに思われてるけど一応は輝元なんだよね。
その大将が無血降伏するのだからその程度の戦意だったのが大きな敗因ではあった。
輝元に野心があって勝利したら逆に毛利に天下をのっとられそうではあるが。
無害で凡庸な部下か、有能ではあるが野心家で有害になりうる部下か
これは永遠の課題でもある。 >>793
本多正信「石田三成は何故か徳川に刃向かったお陰で大殿は天下人になりました。謂わば徳川の大恩人ですので放って置いてます」
おそらく徳川は西軍の中心人物は毛利輝元と知っていた。石田三成は誘われて参加しただけで警戒するにもあたらなかった。後三成の嫡男重家は家康に可愛がられていたとかで哀れに思われたのかも。 「処刑された石田も小西も実のところ従犯だしせめて子供たちの命は助けてやるか」と思ってる中よりによって主犯の輝元が天下の罪人を成敗したと言わんばかりに小西の息子の首を持ってきたときにはそりゃ家康も不愉快になる 輝元って信雄レベルで無能な上に信雄と違って人間的にクズ過ぎて軽く引くわ 輝元はどう見ても一番やりたい放題やった元凶なのに、本人は減封程度で済んで豊臣宗家はじめ巻き込まれた立場の連中のほうが比較にならないほど損してるから不気味
豊臣宗家を直接滅ぼしたのは徳川家だが、秀吉遺言体制を完全に崩壊させ破滅の道に叩き落としたのは輝元では >>800
そもそもそのドクズムーブの原因が自分の無能なのでは?自分のアホな行動の尻拭いを他人にさせてるだけのようにしか見えないんだが 唐様で書く3代目が家遺せただけでも偉いもの。ただここまで情けかけてもらっておいて正月の度に幕府呪ってたとか情けない気もするけど…ま、逸話なんだろうが そりゃ武家ってのはそういうもんだわ
家のために犠牲が必要になった時のためにいる わざわざ無能と結託して主家の天下を崩壊させるんだから
奉行も大したもんだよって評価にしかならないのが悲しいところ つか秀吉の晩年から既に「豊臣体制」ってのは家康の存在前提になってるだろ。
その家康を排除しようとしたらそりゃあ崩壊するわ。 >>802
そのやらかしの責任を、(完全ではないにせよ)うまい事他者に押し付けて
しっかり自分の逃げ道は確保しているから無能とは言えないだろう
実際問題、西軍の首脳部格で輝元よりマシな結末を迎えたのは前田玄以だけだ、
後は破滅か改易だぜ、そう考えると輝元は相当上等な結末に思える
(島津は義弘はともかく、島津家は首脳部といえるかちと微妙だし、上杉家も同様) 単に負け犬目線で上手くやった奴を
妬んでるだけじゃね?
奉行だって単に下手こいただけだべ 主君が死んで早々、その主君の最後の誓詞を五大老の中で最もなんとも思ってない輝元と秘密協定結んだ浅野以外の四奉行って言うほど忠臣かという印象が 輝元は別に上手くやってないよなw
失敗したけど尻尾切りして逃げようとして、でも家康には全部バレてて家を潰されかけたってだけで 裏で色々策動して、家康が迫ってきてからやべえと思って引き込んで仲間をほったらかしで家康に頭下げて、上手くいったと思ったら家康は自分が畿内から離れた後の輝元の悪さを全部把握してて、疎かにしないと約束したけどこりゃダメだ潰すわと
どう考えてもアホだと思います。最終的に頭下げるなら前田みたいに最初から従属しとけと 輝元には豊臣公儀を潰す動機がある。元々毛利が握っていた瀬戸内海利権のあれこれは秀吉に没収されて秀吉配下に分配された。関ヶ原で輝元は四国九州を収奪しようとしたのはこれを取り戻したかったからじゃないかという説がある。その為にまず主流の家康・利家派閥に対抗させる為に奉行派を作らせてそいつらを操って豊臣公儀を破壊した…っていうと深謀遠慮の黒幕なんだけどいかんせんその最後がなぁ 広家が東軍に内通した時にはもう東軍は攻撃体制整えてるし毛利が滅びるか残ったかの瀬戸際かぁ 広家は西軍決起時点から徳川と交渉してた、と言われてるけど実際のところ態度は曖昧だったらしい。九月三日になって黒田らから最終通告食らっても動かなかった。それが徳川家康着陣、小早川秀秋松尾山占拠、石田三成出撃と怒涛の展開を前に急遽降伏した訳で何でこんなになるまで放っておいたのか。おそらく毛利の為に高く西軍を売れるタイミングを図っていたんだろうが… 吉川が後世に向けて正当性を主張してる史料なんてバイアスきつすぎてアテにならんよな 輝元は現代で例えるなら
キーウ攻略に失敗した途端すぐにあきらめてアメリカに土下座したプーチンだからな >>815
なんで毛利がそんな事しなきゃならないんだよ、勢力倍以上の相手に正面決戦
(普通に戦えというのはそういう事だろう)をやるバカがどこにいる?
領国が本格的に攻め込まれてたりしてるならば話は別だがそうじゃないんだから
仮にこのままだと家康に難癖付けられるとか言う戯言を最大限受け入れるにしても、
それは毛利と徳川が政治的対立をする理由にはなっても、正面決戦を挑む理由にはならん
そんな事をしたら毛利が勝利しても大損害もいいとこ、割に合わないよ
真面目に聞くが正面決戦を挑んでもなお、毛利が得だと思えるような褒賞や損害補填を
西軍は用意できるの?又、仮に用意できたとしてそれが確実に実行される保証はあるのか?
まあ毛利が本格的に天下取りに挑む!ってんなら徳川と決戦をする価値はあるかもしれんが
それって一応豊臣恩為を掲げた西軍首脳(奉行衆や宇喜多)にとって喜ぶべき事態と思えんぞ >>819
兵を上げたこと自体が失敗だったから必死で巻き返しただけだよな
無かったことにはできずに所領を大幅に削減されたけど >>819
西軍は毛利の仕切りだろ
自分で扇動しておいて酷え奴だよなほんと >>822
自分の御家が生き残れる道を確保しておかない方が悪いわそんなもん
それが必要な事であるのなら、長年の友であろうと志を共にした仲間であろうと
笑顔のまま平然と切り捨てられるような事も決断出来ん奴が、大名なんてやっちゃだめだろう
個人の義憤や面子なんて下らん自己満足で、代々続く御家を潰したら
それこそ血反吐を吐きながら必死になって御家を残し続けたご先祖様に、申し訳が立たんだろ こういう場合の酷え奴って戦国大名にとっては中々の褒め言葉だよな 戦国大名も酷え奴だと言われたら普通に怒るんじゃないだろうかw 小西の立ち位置がわからん
現場に出てる諸将達と同じでいいの? 三成は関ヶ原で負ければ史実通り、勝っても得るものは失脚から復帰できるかもしれないくらいでそれでも他の奉行より格下扱いだからリターンと比べてリスクがデカすぎる 奉行衆や輝元、広家について色々言われてるけど宇喜多直家が主戦派であったことに異論はないんだね >>824
中世こそイエの存続が最も価値の高いものなんだが。江戸期のそれは中世からの継承に過ぎん。 その家を潰しかけたのが輝元だよな
巻き込まれてギリギリで破滅を回避したなら有能なのかもしれないが、自分で主導しておいて土壇場で自分だけ逃亡。でも領土は大幅に削られるとか無能の極みじゃないか 古代から土地(領地、経済力)が1番大事なわけで家はただそれに付随する概念でしかない 石田三成もわりかし窮地にあるからな。嫡男重家が大坂にいるから人質同然。それに大谷吉継は兵隊連れてきてるわけで果たして佐和山にこれを追い返せるだけの兵がいたかな。 >>830
家じゃなくて土地な
今川家なんて武士として滅亡したも同然だし
その土地を守る存在としてメンツも保たないといけなかった
和田義盛とか見れば分かるだろ なんか肝心なこと忘れてない? 最初期に瀬田に砦普請して東軍?迎撃しようと布陣してたのはその時の毛利主力だよ。 結局前田も徳川も来なくてなぜか伊勢制圧に向かったけど。 少なくとも最初期は毛利は瀬田で決戦する気があったわけでしょ? >>834
いや土地も家あってのものだぞ
今川家は公家旗本としてちゃんと存続したし
そのためにこそ今川の家臣たちは頑張った 高家って家康の良血コレクションて感じだけど、明治で華族にしてもらえなくて大変そうだったよね 輝元のこと無能の極みとか言うとその輝元や西軍に少しでも勝算感じてた大名たちが目も当てられないことになるのが実になんとも
真田みたいに保険で二股して本領安堵勝ち取った家もままいたけど、それなら家康に全面的に味方してれば加増も狙えたと言えるわけで 輝元がまともな判断できたら
そもそも挙兵しなかったし
奉行も輝元と同じ判断ミスして
大阪に招き入れたので同列 輝元からすると秀吉に奪われた領土利権を奪取する事が最優先だったんだろう。ただ徳川家康を甘く見過ぎた。 秀頼が幼年ゆえに統治能力がないから
豊臣政権で最も貫目のある家康がその後ろ盾にすえられるのは当たり前の話で
奉行たちにとって家康より扱いやすい相手じゃなきゃ協力者にはなりえないわけだが
結果的にそいつに梯子外されているんだからざまはない 輝元は軽率とか見通しが甘いとか言われても仕方ないけど、そんな輝元に最後まで手の平の上でいいように使い捨てにされたけど最期まで何も気付いてなさそうな三成はもう底抜けに評価が下がる 毛利が軽率で見通しが甘いなら
西軍首脳全部そうだろ
あと毛利が狙ってたリターンは
単なる領土拡張よりでかいはずだよ
だって実際総大将やって大阪入城してんのよ?
それやって内府の位置狙ってないと言ったら
どんだけストイックなんだよってなるわ 三成は西軍を美濃から東に集めて上杉と共に徳川に圧掛けていくつもりだったみたいだが長束や恵瓊に反対されて西軍主力部隊は伊勢から西に展開して美濃には僅かな兵しか置かれなかった。
そこを東軍が強襲した訳でそういう意味では三成は家康の能力を正しく評価していたことにはなる。対処出来なかったけど。 仮に西軍主力が美濃に集結してても
崩れる理由が北国からの進軍に変わるか
放置した畿内や伊勢からじわじわ蚕食されるか
程度の差にしかならなそうではないかね?
岐阜で睨み合ってる間に東軍先鋒が
丸々鞍替えしてくれるとかない限りは >>846
もうあの時点だと、信長みたいな存在がいきなり
出てこないと勝ち目ない
西軍はやることがとろくさすぎる
伏見城最初に攻めるとか話にならないし
しかも攻めるにしてもそこに14日もかけるとか つまるところ輝元が江戸を滅ぼせるかどうかなんだけど
そこまで覚悟完了してる気配がないのよね
伏見大坂から家康を追放するだけじゃ
全国統一政権である秀吉体制からの後退にしかならんもんね 徳川を滅ぼす気で戦争やるとかもう日本東西全面戦争で戦国初期に逆戻りなんだよなあ >>738
遅くなったが該当部分の訳について報告するよ
吉川広家自筆書状案(吉川家文書913号)準拠で
・「於于今者御和談調候ハヽ、相違可仕候哉と申候条」はあなたの指摘通り井伊・本多の弁
私は>>735で「先此分尓て候つると申候条」と、誤って見せ消ちの部分を加えて
訳してしまったため吉川の弁としたがこれは間違い
福原家文書には「哉」がついてないが吉川家文書の方はついてる
「哉」の有無でここはニュアンスが変わるところだね
「哉」がなければあなたが>>742で言ってるような意味合いになるだろうし
・「可及合戦候」の「可」は勧誘の可ではなく推量の可になるので、
「攻撃してどうぞ」ではなく私が735で訳した「合戦になるだろう」という意味になる
これは確認するまでもないことだが、妄想くんの実際に戦闘があったという主張は論外
あなたの指摘通り、もし過去形として既に戦闘があったなら「可」は付かない
戦闘があれば「及合戦候」とか「合戦仕候」という表現になるはずだからね
前段の内容はあくまで東軍のこれからの軍事行動の予定を話しているに過ぎない >>738
・「其返事ハ者や無之候つるか、少も手あてなし尓被打過たる事候」の「打過たる」は、
軍勢つまり東軍が通過したという意味ではなく時間の経過を表し、意訳すると「もう戦いが終わっていた」となる
当時の「打過」の用例も調べてみたが通過するという意味で使われているものはなく、全て時間の経過を表したものだった
・(慶長5年)9月16日付松井康之・有吉立行宛中川秀成書状
「数多大坂ニ于今在之ニ付、一日一日と打過、無念至極生々無之為躰、筆ニも帋ニも難盡事共候」
・(慶長5年)10月16日付寺沢広高宛島津義久・忠恒連署状
「依遠邦其以来無音打過候、本慮之外候」
・(慶長8、9年頃カ)8月9日付片桐且元宛付加藤清正書状
「此地へ御上御逗留之由候へ共、何角打過不懸御目、所存之外候」
まあ古文書の訳って研究者間でも食い違うこともままあるしこれが絶対とは言えないが参考まで >>847
たかが1800の守備隊が数万の軍勢相手に何が出来ると侮っていた節はある。小説的に言えば三河武士を舐めてたんだろう。
予定では伏見城をサクッと落として上方を完全に固めるつもりが落とし損ねたが故に全部の計画が狂った面は有る。 >>847
いや失敗の本質は政治的な支持を
得られなかったことだよ
西軍の多くは上方以西にいたから巻き込まれたもの
自由に去就を決めれたのに西軍に積極的に
賛同したのはごく僅かだ
何より会津征伐に参集した諸将から目立った離脱者が
真田(の半分)くらいしかいないのが痛かった
挙兵自体が自分達の影響力を過信した
政治的、戦略的な失敗
それを戦術で覆そうというのはまあかなり苦しい >>848
秀次の一族を滅殺したり、家康を関東に移したのがそもそも失敗
五大老のうち4つが束になっても家康には勝てないくらい力をもっちゃった
利家も亡くなって恐れるものもなくなったしな >>851
卓見をいつもどうも
気になった点を少々
古語の「打過ぐ」は通過するという意味もあるからどうなんだろうと思ってttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180を見ると「被打通たる事」になっている
関ヶ原スレ民の誤読の様子
確認に大日本史料を読むとttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0070?m=all&s=0067&n=20
たしかに「通」だ
また、同文書では「一 長(長曾我部盛親)土佐殿御弓鉄炮衆ハ、一昨日内府山中へ被打越候ヲ被見候てから、人夫悉如伊勢路被退候而、山中之合戦勝手ニ成由被間候てから、無届ニ皆伊勢路ノ如ク被罷退候」ともある
こちらでは「内府山中へ被打越候」
もう一つ、吉川が同日に「重ゝ致言上候」として出した書状には、「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」と記されていて、「被打通」「被打越」「被押寄」はすべて同一の出来事を指していると考えられる
なので、素直に「通過した」と訳すのが妥当ではないでしょうか 仮に伏見城から挽回するとしたら、越前は調略してるからそいつらに前田は何とか任せて
自分たちは急いで美濃と伊勢、尾張方面を抑えることが大事なのに、またここでもトロトロ
していて尾張まではいけなくなるし
せめて清州を抑えられていたなら、そこにいる兵糧を手に入れていたなら……まだ何とかなったかもしれんのに
大谷や島は小説とかでは名将と言われてるが、このあたりはどう考えてたんだろうか >>850
こちらの部分についてはちゃんと読み直すと「可及合戦候」の「可」は勧誘ではなく推量ですね
「此方申分ニハ、此御和談之事ハ先両人ハかり存候、長大・安国寺・長(長曾我部盛親)土御弓鉄炮衆なとハ被存ましく候間、可及合戦候、左候へハ此首尾相違之やうニ候条、一円ニ御手当なしニ被作せ候者、当陣ノ者不罷出相控候て可罷居候よし、申候て返し候へハ、其返事ハ無之候ツルか、少も手当なしニ被打通たる事ニ候」
ざっくりいえば、あいつら和談を知らないから「御手当」あったら交戦しちゃいますよ、だから一円(南宮山)に手当てしないでもらえればこっちも控えてますよ、ってことですね
だとすると、「其返事ハ無之候ツルか」の「か」は疑問ではなく「が」で、返事はなかったけどその通りになったという意味か
吉川はむしろ自分の功績を誇っていたわけですね
いろいろお恥ずかしい >>855
その部分はそこまで細かく聞かなかったな
私が東軍が通過する?時間が経過する?と質問して、「戦いが終わっていた」との回答だった
確かに大日本史料は「通」になってるね
「打通」なら間違いなく通過するという意味になるな
大日本古文書家わけ吉川家文書之二の913号の翻刻だと「過」になってるんだけどね
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0902/0066?m=all&s=0064&n=20 >>858
本当だ
「哉」ってのはこれか
こっちだとより、吉川が自分の手柄をアピールしてるように読めるね
むしろ、南宮山への徳川主力布陣を違約になるからやめてと この吉川文書案を素直に読んでみたとする
そこから分かること
誤読があったら指摘してほしい
西軍は小早川の裏切りを早くに疑い、不利とみて佐和山まで引きそうな状況だった
これは勝ち目がないと吉川が裏切りを決意
東軍は吉川の合戦前日の裏切りまでは南宮山の勢力を警戒し、家康馬廻りや井伊、本多ら貴重な身内やその他を手当てして攻撃する計画だった
ただ、それだけ南宮山に勢力を割いても福島、黒田、加藤、藤堂のいわゆる外様衆だけでも小早川の手引きもあって山中では勝てると踏んでいた
家康は裏切りの申し出を信用し、池田らは一応残しつつ、計画を変更して合戦当日には山中方面に進出
合戦はすぐに終わった
南宮山の勢力は家康本隊が関ヶ原に進むだけで狼狽し、敗軍の報が入ると次々逃げた 西軍首脳陣は誰も彼も見通しが甘かったが
それにしてもいきなり江戸まで攻め下って制圧
とまで誇大妄想的だったとは思わんのよね
勢多の普請にしてもそこに天下の兵を迎えて決戦
という構想と取るのは早計でしょう
挙兵当初は遥か遠く関東の家康よりも
前田の上洛の方が早い訳だし
他にどこが敵になるかも分明ではない
政権から家康を排除は後退だというのは
単に豊臣政権にとってそうなだけで
それ言ったら武力で政権奪取の時点でそう
でも徳川から政権奪いたかった連中からしたら
それこそが前進なんよ
>>856
清洲を攻略しても東海道は東軍の城が連なってるし
単に東軍先鋒を完全に敵に回して
家康の出馬を早める程度の意味しかないだろね
伏見に家康の家臣が居座ったままじゃ
政権奪取と言っても説得力ないし
最悪東軍先鋒+家康本隊と尾張で睨み合う中
大津城が寝返って田辺城-伏見城と連動
って展開もあり得ちゃって
さほど有利じゃないのではないかと 関ヶ原の輝元の失敗のツケを一番多く払う羽目になったのは毛利ではなく豊臣宗家だけど、そもそも遺言体制が家康と利家の二人が健在であることに全てがかかってる属人性の高すぎるものだからもう戦乱勃発した時点で東西どちらが勝っても豊臣の天下が崩壊することだけは確定なんだよな
>>856
大谷や島は関ヶ原を先祖の武功として誇るに足る激戦にするためにかなり盛られていると思う 広家は家康が来たと聞いて絶望したと思う。広家のところに家康から書状が来たという話は無いからこれは家康は毛利を問題外と判定してたことになる。要は「毛利が敵でも西軍に勝てる」という話で毛利軍が何しようが西軍の敗北は確定したに等しい(少なくとも広家・秀元には思い付かなかった)
広家は毛利の領土保全を図っていたけど事ここに至れば攻撃して全滅(若しくは奇跡的勝利)するか降伏して僅かな領土を許されるかの択一。そりゃ降伏ですよねー… >>854
秀次の件は突発的で明らかに大失敗だけど家康の関東転封は悪くない選択肢
あの段階で徳川を関東に追いやれたのは明らかに成功だと思うけどね むしろ徳川を最悪ここさえ味方についてれば他の全員から背かれても問題ないくらいまでにして豊臣存続のための第一の藩屏にするつもりだったのでは
なお秀忠 >>860
吉川の発言の真偽の程は別にして、通しで読んだけど自分もそのように読んだよ
それで最後に本来なら直接輝元や輝元の側近と相談したかったが、時間もなく通行も不自由だったので
先ずは御家第一で家が続くよう吉川と福原で和睦を調えたと手柄を念押しして締めてる >>865
秀忠は豊臣を討っても秀の字をあらためなかったな 秀忠、綱吉、慶喜
家の字でない将軍もいくらかはいる 石田三成の子孫はいるけど真田幸村や大谷刑部の子孫はいるのかね?
真田は信之の系統は残ってるけど >>862
奉行がそれをわかってなかった無能なのか
それでも自分達で権力握りたい野心家なのか
どっちか気になる
いずれにしろ従来のイメージとはかなり異なるのは確か >>867
秀吉の秀だし秀吉に対して表立って批判めいた事を言ったりしたりする理由も無い
あくまでも秀頼体制以降の公の話で豊臣家と対立しただけだしな >>865
実際そうだよね
渡海絡みの紆余曲折でも徳川前田が身を挺して
止めたって形で治めてるわけで
それが狂ってくるのが秀吉の最晩年
奉行毛利が両大老の動きに制限つけて権力分散させて
西軍挙兵で排除独占を決行して頓挫した >>861
確かに瀬田で決戦ではなく、佐和山もしくは敦賀への後詰の為の布陣であったかもしれない。
だが西軍主力伏見攻城に向かう中、
野戦用決戦兵力もしくは後詰戦力として最東部にいたことは、
毛利にやる気があった表れと見ている。 秀元はやる気満々だったんじゃないの
だからこそ吉川はずっと毛利一門で変な立ち位置になったんじゃなかったっけ 毛利の運命を決する議決に秀元が居ないとは考え難いしそも秀元がやる気だったら広家を押し退けてでも出撃したろう。尤もその場合、秀元と恵瓊や豊臣軍で南宮山を押さえている徳川本隊約四万と戦争せねばならずやる気があっても勝ち目が無いと思った可能性はあるが…
広家と秀元は険悪だったとかでそれで戦後、責任を押し付けあった結果じゃなかろうか。 秀元と恵瓊に黙って徳川と交渉してたんだろ?秀元は輝元に大坂城への籠城も主張してたみたいだし
結局まんまと徳川に騙されて自分が分知されてた所領も全部没収されちゃったんだからそりゃ秀元は広家を憎むわな 家中一族内であっちは戦う気、こっちは和睦降伏する気とバラバラなんてお話にならない
意思統一され指揮命令系統が機能していた東軍とは雲泥の差だな
そりゃ西軍勝てないわ
西軍内だけでなく毛利家中でも同床異夢だったんだから 国とかある程度でかい組織はそういうもんでしょ
あっちと結美ついてる奴がいれば
こっちと結ぼうとしてる奴もいて
トップの判断でどっちかのラインの話が進む
んで失敗したらそのラインの奴らの責任で
別のラインに切り替えて収拾図る
関ヶ原の毛利は単にそういう状態じゃないかな
しかもそれなりにうまく機能した例
うまく機能してなかったのは徳川や奉行と
連絡してたラインじゃなくて
豊臣恩顧と言われる東軍先鋒の切り崩し ただ秀元に広家を憎む道理は無いかと。最終的に徳川との総和談を決めたのは主人の輝元であって広家じゃない。そんなに戦争したけりゃ勝手に突撃すれば良かった訳で広家を憎むのはお門違いだろうさ。もし決戦して予想通り負けてたら輝元は切腹、毛利は改易だったかも知れない訳で。 勝手に突撃できねーように広家が先陣に陣取ってたんだよなあ そもそも毛利グループを語るには小早川の位置付けをハッキリさせとかないと色んな前提条件が変わるんよな 別に広家は陣敷いて止めたとかはしてないんだよなぁ。 前面に布陣して背後を突こうとする秀元を止めたんだろ?じゃなきゃあんなに長い間確執が続いたりしないだろ 真面目な話、吉川広家と毛利秀元の間に確執があったなどという史料は無い。 山に布陣してる軍団を止めようとしたら広家は麓に布陣しないと止められない。広家は麓より上に布陣してるから攻撃したいという奴を止められない。広家は別に家康に「兵を押さえる」とかは約束してないから秀元も攻撃したかったら出来た…尤も広家の軍団が居ない状況で圧倒的兵力を有する徳川を攻撃したらどうなるかなんて秀元だって分かってたろうし内心攻撃したくても広家が降りた時点で勝ち目ゼロと諦めてたって可能性はまぁある。 >>885
関ヶ原の時の話じゃないが(元和3年)9月3日付吉川広正宛吉川広家書状とか見たら広家と秀元が仲悪いの分かるよ
長いんで一文だけ抜き出すけど他でも秀元に対して色々文句言ってる
「御家れきれきをも役不立、公儀を我一人仕、別ニかたをならへ候者無之様尓仕なし、
公儀内儀共仕度様可計との分別と相聞候事」
家中のお歴々を無能者扱いして、公儀のことは秀元一人で差配をし、
秀元に肩を並べるような者はいないかのように振る舞い、
公儀・内儀共に秀元のしたいように計らう分別だとこちらにも聞こえている 秀元と広家の確執が関ヶ原に由来してるかは我々にはわからない。でも正直怪しいとは思う。仮に南宮山の毛利軍が徳川を裏切るとしてどうなるかと言うと南宮山東麓の徳川軍約四万と交戦、徳川軍を数キロ以上後退させ東山道を5キロ行軍して東軍背後を強襲する事になる。若しくは出来るかはわからんが南宮山を南に降りて裏道を通って松尾山を攻撃するか。結果論だがこれは2時間以上掛けたらアウト。
秀元から見てもまず前者はいきなり家康を討ち取る様な奇跡が起きないと結局徳川軍に背後を突かれるから危険、後者は道が険しくて間に合うか不明なのは明らかだったはず。しかも失敗したら毛利は改易、配下の全員が牢人になる訳で… 秀元と広家の仲がわるいとか関係なく
関ヶ原の時点で停戦は毛利全体の方針でしょ
秀元は戦うつもりで広家の和睦が独断
ってのは小説ならおもしろいけど非現実的 家康が輝元はアレ過ぎるから広家に周防長門を与えて毛利軍団を仕切らせるつもりだったとか色々言われてるよね 少なくとも恵瓊は外されていたのは確か。ただ秀元まで外されていたかは不明。秀元がヤル気だったら広家には止められないんだから共有くらいはしておかないと危なかったわけだし。勿論秀元がそんな馬鹿な戦をする筈が無いと広家が信じてた可能性はあるけどそれよりは一言通してた可能性の方が高かろう。 秀元は秀包や立花宗茂と一緒に大坂城で籠城することを輝元に進言したってのは? 関ヶ原の戦況を秀元がどう考えていたか。
まず十四日、徳川家康が赤坂に着陣。東軍先手衆は垂井に移動する。これは大柿からも見えたので夕刻までに軍議が開かれて大柿・南宮山で決戦と戦略決定する。ところがその後、小早川秀秋が松尾山を占拠したとの報が大柿に届く(松尾山から大柿まで10キロ以上ある事と東山道を東軍に押さえられていて報告が遅くなった)
でどうも西軍はミスを犯した。本来直ちに軍議を行うべきところをそれをしなかった。石田三成ら西軍主力部隊は連絡無しに出発してしまう。 南宮山に連絡が無いから秀元がこれをどう解釈したかだけど二つしかない。一つは大柿衆が敵前逃亡したというもの。家康に恐れをなして毛利(と豊臣)軍を見捨てて佐和山に逃走したというもの。この場合秀元は絶対に動かない。二つ目は松尾山が秀秋に取られた事を知っていて大柿衆はこれを討ちに行ったというもの。ただこの場合、毛利軍も即座に山を降りて東山道に展開しないと東軍を止められない。東軍先手衆が東山道を西上し出した時に騒いでも遅いのは分かってた筈だが… 秀元が輝元に徹底抗戦を叫んだって書状はどこにあるんだろうか?原文分かる方居たら教示頂けると幸いです。もし広家が秀元を無視してまたその行動を阻んだなら書状は広家への憤激で溢れてるはず。逆に秀元も納得していたなら大坂城への籠城は「関ヶ原は負けが見えてたので戦力を温存した」程度の認識だったことになる。 関ヶ原本戦の時点で広家が引き出してた条件は
「本領安堵」な訳だから秀元も恵瓊も
あえて異をとなえる立場にはないだろうよ
のちに詰め腹切らされる恵瓊にしても
この時点で和睦の条件にされてたわけではない
その交渉自体を知らないというのはなかろう
それじゃ広家の交渉は毛利家に無断で
なんの実効性もないことになる 要するに本領安堵で皆納得させたけど実際は吉川に周防長門で他は取り潰しって裁定だったから秀元は広家に騙されたとブチ切れたってこと? 安堵は表向きで実際は減封は受け入れてたらしいけどな、毛利 ていうかマジで「本領安堵」してくれるとか思ってたら底無しのバカだろ。少し調べりゃ毛利軍が主体となってることはバレる訳で無事で済む筈が無い。 輝元って小早川隆景からも吉川元春からも豊臣秀吉からも徳川家康からもアホだと思われてるよね まあその輝元を甘く見たせいで豊臣政権は終わったわけだけどな
家康も輝元を甘く見たことで一時的にはやべー状態になったのは確かだし
輝元自身もやらかしたツケをしっかり払う事になるが(なお、本人は生き残る模様) 戦国期こいつほんとしょうもねーな大名四天王だわ
毛利輝元
上杉景勝
北条氏政
織田信雄
揃いも揃って半端に威勢が良かったせいで父の遺産を潰した無能。土下座するなら徹底して土下座しろっての 威勢ばかりよいけど統一政権も主家も
潰した奉行が入らないのは
そこまで大物じゃないからかな? 家康からすりゃ先に誓紙破っておいて自分の方は守ってくれとか馬鹿にしてんのか◯ね、みたいな話だったろうしまぁよく潰されずに済んだね そりゃ甘すぎる見通しでリスクも考えず、奉行の挙兵にホイホイ付き合った恵瓊(輝元)
の尻ぬぐいのつもりだろ、本人視点では
「全く、俺が東軍に渡りをつけておいたからよかったものの、もし伝手がなかったら
どうするつもりだったんだ、御家が残っただけ感謝せえよ」とか普通に思ってそう
(そうとでも思わなきゃ、やってられなかった可能性もあるが) 吉川が残した広家のおかげで毛利は救われた的な史料は自己肯定感が強すぎてアテにならん それは一面事実だろう
その成り行きが気に食わないにしても
>>906
というか実際上洛して調べてみたら
思った以上に主犯格だったってだけよね 関ヶ原まで出張って来てる時点でもうアウトなんだよな
一面みるならむしろ広家は戦犯とも言える 広家に毛利の所領すべてを与えるって約束したけどそれじゃバランス悪いから2カ国ぐらい与えるわ、みたいな書状があるんじゃなかったっけ?偽書かもしれないけど >>912
吉川家譜所収の10月2日付吉川広家宛黒田長政書状だな
吉川家文書にも原本は伝来してないし光成氏は偽書の可能性を指摘してる >>911
その見方も否定しないけど
広家がやる気満々で毛利一族総出で
決戦してても勝てたかは微妙やで すまん言葉を濁す悪い癖だ
毛利一族総出で血栓に及んでも
勝てない可能性の方がずっと高いし
局地的勝利を得てもその後茨の道で
もっと酷い状況いくらでもあり得るで 広家は八月から徳川と交渉してたけど内通にまでは至ってない。多分輝元の所業を鑑みて余程の戦況にならないと本領安堵は取れないと分かってたんじゃないか。それで南宮山まで来て徳川が「本領安堵するから味方してくれ」と言ってくるのを待っていた。ところが蓋を開けてみたら徳川は既に小早川を落としていて東軍と小早川で西軍を詰ませにきた。毛利は敵対していても構わんって訳でここから土下座外交で何とか家を残すところまで持っていった広家の外交手腕は中々じゃなかろうか。 三成が隠居して石田家の家督はだれだったの?
隠居が西軍を率いられた権力の源泉はなに? 三成が佐和山蟄居になってからは兄の正澄が石田家を差配していたらしい(家康が大坂の石田屋敷を借りる時の交渉口は正澄だったはず) 三成が兵を使えたのは西軍、名目上は秀頼実質的には輝元らから任されたからに過ぎん。しかも指揮権の範囲は美濃にいる一万から二万程度に限られてる。こいつには西軍のほんの一部しか動かす権利は無かったさ。 三成が西軍を率いてたと言うのは文学的表現だろ?
秀頼も輝元も三成に指揮権を委ねたというわけではない 西軍はお題目は秀頼様のためと言ってるので名目上は秀頼が指揮官、ただ実際は秀頼の意思ではなく輝元を頂点とした合議制だったらしい…ここら辺の不明確さが西軍の敗北を招いたのかもしれない。 >>920
すごい納得した
どこの小説でも「石田三成率いる西軍と激突」って書くけど
率いてないんだよな、実際 輝元や秀家の代わりに処刑されたようなもんだ。日本は昔から上級無罪 そりゃ三成はすでにイエローカード貰って後がない立場だからな
この状態で反乱に参加したら温情なんて期待できるわけがない >>922
奉行は関ヶ原前の動きを見る限り、奉行中心による合議での政権運営を企図してるから
輝元に全権を与えるとマズい、輝元を第二の家康にしたら関ヶ原を起こした意味がないからな
この点、東軍はとりあえず家康主導でいいという立場に一応なってるからこの辺は楽だ
>>924
輝元とは広家を通じて手打ちが成立してるからな、問答無用で処刑はさすがにまずい
また、東軍はあくまで豊臣正規軍として反乱を起こした西軍を討伐するという体裁だから、
豊臣一門格の秀家処刑をするのはちょっと微妙だろう、改易程度ならともかく
かといって誰だコイツみたいな小物処刑でなあなあも無理だろう、これだけの大戦乱に
はっきりと決着がついてしまったのだから、こう考えると秀吉子飼いの大物である
石田や小西(長束も一応含む)、そして毛利の外交僧を務めている関係上、
対外的な毛利の顔といえる恵瓊処刑は、実にバランスが取れているように思える 輝元が処刑されないのがアンフェア
という感覚はまあわかる
なんたって総大将なんだから
でも石田の処刑はいたってフェアだろw 結局日本は中世以来常に家格次第なんよね
石田とか小西はその出自で生け贄にされたようなもんだ どっかで精華成の大名だから死罪にできなかったとのレス見た気がするがそういうことも関係あるんかな 西軍の軍事指揮権は、実質的には曖昧だった、
という表現が近いと思う。
形式的にはおそらく主謀グループの合議で決める、
辺りだったんだろうけど、
宇喜多が長島攻城やめて美濃に向かったのも、
大谷が北陸から山中村に向かったのも
石田からの要請じゃないの?
あと、関ヶ原前夜で光成氏が指摘してたけど、
増田と吉川で安濃津の二ノ丸だかの占拠で揉めたりしないでしょ、
輝元と長束、増田、玄以が指揮権あるというなら。
さらに瀬田の守備隊九州勢に大垣入城依頼も石田じゃなかったっけ?
マイナー峠から大垣南方へ抜けるルート使って。 総大将が大坂城にいたまま動かないのではどうしようもない
現場監督が必要、それが三成だったんでしょ 三成には石田軍と豊臣公儀より与えられた大柿軍の指揮権はあったはず。少なくともこの二つを三成は動かしてる。
でも西軍全体の指揮権は三成には無いし関ヶ原前の状況でもそれは変わってない。厄介なところで西軍の指揮系統は輝元>毛利家臣>三奉行>三成なんだけどこれは明文化されてないからいざという時は相談になる。つまり相談の結果で指揮系統が変わる訳で徳川家康に一本化されてる東軍に比べると余りに脆かった。 >>931
現場監督が三成とかあまりにもしょぼい
三成が家康に戦で勝てると思ってるなら尚更 三成に発言権はあっても決定権は無かったと思うよ
毛利としては自分達に無い三成の良い所だけ利用するだけだしな >>928
生贄って言うけど普通に主戦派で
他の西軍諸将が恭順の道探り始めても
ノリノリで本戦戦った面子やん >>935
毛利は彼らに何も言わずに土壇場で勝手に土下座した。生け贄という表現が適当だと思うけど 後々徳川が豊臣滅ぼしたことが本来何も知らないまま毛利輝元にいいように使い捨てにされて滅んでいった連中の集まりだった西軍諸将を幼君を守るため忠義の心で立ち上がったヒーローたちというストーリーにすることができるようになった 大西泰正『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』
「念のため補足しておくが、この史料は、秀吉の死去前後に「大老」らが提出した起請文の一通で、政権=秀頼への忠誠を誓うのが目的である。私的徒党を組むためではないので、大名相互の起請文交換を禁じた「御掟」には抵触しない。
家康や利家・秀家らも五「奉行」を宛所にして同趣旨の誓いを立てている点、同年七月十五日付で家康・利家に宛てた起請文(前書)と一緒に書き留められている点からも明瞭だが、この史料によって毛利輝元が四「奉行」と私的な盟約を結んだわけではない。
彼らは便宜上、政権組織の一部としての奉行たちを、おそらく相互監視の意図もあって宛所に設定したのである。」 >>936
別に毛利のためにやった訳でも
毛利に操られてた訳でもない
彼ら自身の決断の結果だし
それに見合った最後だろ? 安国寺恵瓊ならまだわかるが
そう言ってもらえないのは
ハゲだからだろうな >>935
西軍の総大将である毛利が関ヶ原という土壇場で降参するとは流石に予想できんでしょ。まだ三奉行も諦めてないのに。 家康ヲタのいかれた視点だとそうなんだろうけどな
上にも有る通り毛利は遺訓破りはしてないし
上杉が上洛せず国替後2年は治政に専念するのは秀吉の命
年貢を持ち去るのは全国的に起こってた事
むしろ遺訓破りで利家&恩顧大名と対立したり異常な毛利家介入で荒らしてたのは家康 >>942
輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
秀吉は勝手に徒党を組むなと遺訓していたはず
あの時点で家康はまだ大した行動してなかったはずだが
しかも奉行の内、なぜか浅野長政には輝元は送ってないし >>942
上洛せず国替後2年は治政に専念せよ、ってソースは何?
それなら家康なんか移封2年どころか連年のように豊臣政権に協力していたのに
秀吉って物凄い差別してたんだな
しかも治政に専念せよ、はわかるんだが、牢人雇えとか遺訓あったのか? >>942
そもそも2年なら既に期限切れだろ
景勝が国替えされたのは1598年1月
家康の上洛命令は1600年4月
既に2年以上過ぎてるぞ >>943
>輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
その書状はスレ内でバッサリ否定されてるよ…
>938
いいのか?じゃなくてスレ読もうな 宇喜多も毛利秀元も長束も島津も脇坂朽木らも小早川同様に
「なんでおめーが仕切ってんだよ」
的な目で三成みてたわけだ >>941
そこが甘いんだよ
お家潰す大博打なんてする訳ないじゃん
決定的に情勢が見えてない 関ヶ原で日和って動かないのは流石に酷いと思いますよ
やる気が無いなら関ヶ原から事前に撤退しとけよと思う >>948
領土大幅削減されてるし、吉川が懇願しなきゃ潰されてたじゃん
煽った張本人が勝手に離脱することまで想定していたら何も出来ないよね?輝元みたいなのを信じたのがバカだったって言われたら何も言い返せないが >>938で唐突に輝元と奉行の擁護してるけどこれ何が言いたいんだろう
毛利は純粋に秀頼と豊臣家への忠誠心があったと言いたいんだろうか
その後の行動見れば到底そんなお人好しではなく我が身我が家第一の当たり前の武家に過ぎないんだが >>951
毛利は毛利の利害で動き
石田は石田の利害で動いた
失敗したら破滅のリスクは同じで
石田は失敗したと言うだけだよ
リスクが大きいのでやらないと言う選択肢も
保険をかけて逃げ場を作る選択肢も
双方にあったが石田は選ばなかった 安国寺恵瓊は確かに輝元の意向で
毛利のために動いてやばくなったら
生贄にされたって面が大きいかもな
でも石田は単に自分の考えで内府と敵対して
その結果負けて殺されただけだろう 九月十四日、家康は赤坂に来た。この時点で西軍は窮地に陥ってる。ただそれでも彼等は大垣・南宮山で決戦する作戦を立てた。ところが同日小早川秀秋が松尾山を占拠した。十二日三成書状によれば西軍は近江から食糧を運ぶ手筈になっていたらしいけど、垂井を東軍に占領されてるから残ってる道は佐和山からの道だけでつまり松尾山を取られたら西軍は干上がる。それで三成ら大垣衆は緊急襲撃した。これは良い。 問題なのはどうも大垣衆は南宮山にその旨を連絡する事すらしてなかったらしく(吉川広家が嘘書いてる可能性もあるけど)、南宮山は疑心暗鬼に陥っていた。事情を知ってる広家からすりゃ家康の作戦だと分かった筈でもう降伏か死かみたいな話に。ここから御家残せたんだから大したもんよ。まぁ輝元はそれで良いのかっていう問題もあるけど。 輝元が挙兵しなければ良かったのよ
時勢も情勢を読めずに進んで泥沼に嵌まって行き祖父元就たちが広げた領土を減らしたのは主導した輝元の責任
朝倉義景に似ているというのは当たっている
幸いにも上手く立ち回れる家臣に恵まれ、相手が戦国大名あがりとしては甘い徳川家康だから家が潰れずにすんだ 輝元からすると秀吉に奪われた利権を奪い返すラストチャンス。豊臣公儀を味方につければどんな無茶でも通るし上手く行けば天下人になれるかもしれない。それがまさか瞬殺されるとは思わなかったのは輝元の戦略眼の欠如というべきか相手が悪過ぎたのか。 従来、豊臣を簒奪したい徳川vs豊臣を守りたい石田って構図で語られてきた関ヶ原だけど実は大老レベルでみると秀吉に奪われたものを取り返したい毛利・上杉と現状で満足してる徳川・前田という構図も隠れてる。 >>957
なるほどやはり招き入れた奉行らは戦犯だな >>960
どっちが主導かは不明だけど奉行衆にとって輝元はもしかしたらカモネギだったかもな 明らかに豊臣政権を覆すメリットがある輝元と比べて三奉行が敢えて徳川に挑むメリットが少な過ぎる。実際には奉行を操っていたのは輝元だったんじゃないか。輝元が無能故に目立ってないだけで。 東軍が勝てば史実通り輝元に協力していたことがばれ、西軍が勝てば東軍に内通していたことがばれるので豊臣家や増田ら奉行はどっちが勝っても詰む
しかも輝元は家康より豊臣家を敬う気がない 大谷やらが兵を起こすと不穏な噂が流れてたからビビって輝元の大坂入城を要請したら輝元こそ陰謀の大元だったみたいな可能性はある 増田長盛は蜂須賀家政失脚後毛利取次してたって話だし豊臣公儀ではなく戦国大名豊臣家として見れば取次役に鼻薬効かせてやがったといえばままある。 実は宇喜多秀家こそ真の首謀者だとすると案外全てがしっくりくる >>965
まあ家康が帰国する時は輝元が大阪(もしくは京)に入ると言うのは秀吉の遺言 遺言はあるかもしれんけどソースは無いと思う。秀吉の遺言状って3つしか無いけどそれ以外に「私の聞いた太閤さまの遺言」ってのが各家にあるやん?三年間上洛しなくても良いだの大坂に居ろだの。多分その内の一つで最早真実はわからん系の遺言なんじゃなかろうか。 宇喜多は上級特権で生き残れたけど復権出来なかったのは秀吉の縁者だったせいなのか、実は首謀者に近い立場だったからなのか >>897
そんな書状はない
というか仮にあったとして原文提示してもあなたじゃ読めないでしょ そもそも三成は佐和山に引きこもった翌年に挙兵してるけど
あの時点で奉行職には再度復帰したの? >>973
書類上のことはどうか知らんが
以下所収の三成書状だと、三成は「(越後は旧領だから中納言に返すというのが)秀頼公御内意に候」と伝えている
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0040?m=all&s=0040&n=20
秀頼の内意を承り、大老家へ伝える役目まであくまで自称してるようで
単なる取り次ぎというより事実上の奉行としての仕事ぶりに思われる
ただ、この続武者物語が信用できるのか(秀頼「公」という表記は気になる)、仮に信用できたとして三成がでまかせ言っているだけじゃないのか、などなどいろいろ疑問は残る
詳しくないので識者の指摘を待ちます 白峰説だと確か「そもそもクビになってない」だったかな。ただ史料面では八月越えるまで三成は連署してない。まぁ奉行職とかどうでもよかったんだろうけど。 >>976
白峰氏そんなこと言ってたか?
7月15日の時点で実質的に奉行に復帰していて、8月4日には正式に復帰していたと言ってるけど
それぞれ根拠となる史料は
・7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状
・8月4日付松井康之宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状と同日付松井康之宛三奉行・三成連署添状 >>971
秀家が復権できなかったのは他の誰でもない、本人のせいだよ
縁者の前田家が「大名として復帰しないか?」ってとりなしてくれたのに、断固拒否するんだもの
徳川に頭下げたくないなんて個人の下らん面子で宇喜多の御家を再び浮き上がらせる
最大の好機を捨てちゃうんだから、輝元なんかより余程バカだと思う
本人が嫌でも息子を推挙して宇喜多を再興させるとか、やり方はいくらでもあったろうに
必死になって宇喜多家を大きくしてた父の直家とかあの世で呆れてたんじゃないか >>977
白峰氏の言ってる事はそれなりに矛盾してるからな。論文の中で氏は「三成は奉行を罷免されてない」としてる(根拠としては秀頼に罷免されたら復職は叶わないからとか)つまり閏三月に三成は隠居したのであって罷免されたんじゃない。復職しようと思えば何時でも出来た、と。そんな曖昧なもので良いのか豊臣奉行はって思うが法定化されてないからいいんじゃないの? >>980
確認したら七将襲撃事件の論文でそんなこと言ってるな
まあ罷免はされてないが失脚中だとは言ってるから奉行職復帰の話も一応整合性は取れてるか
微妙な感じではあるが >>978
まあお坊ちゃんだったんだろね
内輪揉め繰り返してる家臣団と
その統率がままならない大名職とに
嫌気がさしていたろうとも思うけど 明治で恩赦されて前田家と政府から金と土地をもらったのに島に帰ったんだな
秀家もそんな気持ちだったんだろうか 白峰説だと三成の立場が曖昧過ぎる。罷免されて無ければ復帰出来る?奉行ってそんな気分で辞めたり戻ったりして良いものなのか?
ただこれが家康の温情って可能性もあるんだよな。家康が三成を追い込まない為に謂わば休職扱いにしてた。だから家康もしくは豊臣公儀が認めたら直ぐにでも復職できる? というかクーデター起こしたんだから
本来復帰できる職かどうかとか関係ないでしょ
武力で主君を取り込んで無理通そうとしてんだから >>984
石田の隠居後、誰かを加えた五人連署状なんかがない以上、補充されなかったのは確か
その理由が石田への配慮なのか、それとも誰かを充てる人事権者といえる卓越した存在がいなかったからなのか(秀頼成人まで人事は凍結という視点)
それとは別に、続武者物語の書状には案の定、偽書説があるようで 人員の補充が必要なのは定数がある場合のみだぞ
残りの面子で仕事に支障がなければ補充は要らない
多数決で何か動かしていたような実績もないし
定員補充の要求があったという記録もないんだから
三成の為に空けておく席というものは存在しないのでは 大老になったかは知らんが傅役は受け継いで大坂城に入ったんじゃないの
すぐ家康に言われて金沢に帰っちゃったけど 上杉家によれば奉行の勧めらしい。ただこの時利長は家康の後見を受けてる事や利家の死で両国統治を固める必要がある訳で全く家康の意思が無かったとは言えないはず。
後の家康暗殺事件で浅野長政が隠居してるから長政が手続を怠ってしまってたんじゃないか?って気もする。 地元で家中が揉めて急遽帰国
家康には無断だったような 家康は八月から諸将の帰国を認めてるし利長の帰国も知らなかったとは思えない(問題としてたら帰国した瞬間に戦闘体制とってるはず)ただ佐和山に居た石田三成が利長の帰国を知って照会したら手続の事実が無かったっていうから利長は手続きを怠ったかさもなくば「家康が個人的に許してくれればええじゃろ」的な感じで帰国したんだろう。それだけ早く国に戻りたかったのか。 そもそも5大老、5奉行は必ずしも
当時固定的な職名ではない
奉行って今の言葉で言うと管理職とか
プロジェクトリーダーみたいな
割とふわっとした言葉だろ >>996
いや、「五奉行」ってのはあくまで後世の呼び名なんですけど…
当世的には大老が「奉行」、奉行が「おとな」だったっけ? >>997
だから当時の職名じゃないと書いたろ?
何が言いたいの?
奉行は当時主君の名を「奉じて行う」ものを指す一般名詞
おとなも家老、重臣を指す一般名詞
五奉行、五大老を指す統一的な用語は当時ない
立場や場合に応じてどう呼ぶかは変わる
所謂五奉行が大老を奉行と呼んでる例もあり
逆に所謂大老が所謂五奉行を奉行と呼んでる例もある
そもそも豊臣政権自体が歴代の武家政権ほど
職制をしっかり定めてない属人性が高いものだった
その中で双方が秀吉から後を頼まれた自分達が
政権の中枢であり相手は秀吉や自分達の命令を
「奉じて行う」立場だとして争ってた
と観ることもできる 南宮山に大軍を布陣するのは不可能
これはあまり語られない
関ヶ原の戦い
本当の布陣を知りたいところ このスレッドは1000を超えました。
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