武田勝頼が生き延びて大坂城に入場したら
>>130
そいつら天正10年にそっぽ向いた奴らだろ。 >>134
寝返ったのは小山田穴山木曽小笠原とかいった連中だろ 武田信玄は1573年から八ヶ岳の山奥でひっそりと潜伏生活を送っていた。
1615年大坂の陣が勃発。
信玄はただ一人、供の者もつれず大阪城に入場したのであった・・・ それじゃあ>>122みたいになるだけじゃん
おじいちゃん自称武田信玄扱いで終わっちゃうw しかし勝頼本人なら天目山の前に隠した家宝・財産のありかを暴く事で証明出来る
武田埋蔵金とか伝説の一人歩きかもしれないが有名じゃないか ちょっとプロット考えてみよう。(穴だらけだが)
天目山へ行かず真田へ→死んだと思わせる(ニセクビ?)
→本能寺のドサクサにまぎれ、武田旧臣もいくらかあつめ、信濃に再興
→史実の真田より有利に勢力拡大(真田より旧臣が集まりやすい。ついでに木曾にも復讐しておこう))
→豊臣政權で甲斐・信濃の大名として復活(諏訪や小笠原の再興がないって感じで。)
→五大老(きっちり5人というわけじゃないし。豊臣は武田を厚遇することで、徳川対策にする)
さて、ここから関ヶ原なんだが、勝頼の勇名をけがさないように、西軍所属→敗北→取りつぶし までもっていかないとならない。
しかし背後に勝頼いたら、家康も史実通りの上杉征伐はできないし。
ちょっと思案が必要か。 勝頼、史実通り小山田を選択
→岩殿山城に入場するも寝込みを小山田に襲われ捕縛
→信忠の取り成しで死罪は免除。
しかし勝頼は織田家臣となることを由とせず、最終的に隠岐の島へ流罪。
松姫は勝頼助命を条件に信忠の正室へ。
→清洲会議で三法師に織田の家督が引き継がれた半年後、松姫はひっそりと出産⇒武田某
→秀吉晩年に松姫の子は元服。
名門の血筋なので秀吉の旗本として取り立てられるも間もなく秀吉死去。
若すぎるため関ヶ原には大きく関わらずそのまま秀頼の側近へ。
→大坂の陣の開戦がほぼ決定的になると、松姫の子は勝頼へ使者を派遣。
→幕府方の厳しい監視をすり抜け
勝頼「隠岐の島より泳いで参った!!! 」 島流しって管理出来るのが条件で当時の隠岐って織田家の管理下には無いんじゃね? >>144
松姫の子って、父が信忠なら、普通に「織田 某」だろう。
武田の家督つがせるにしても、
秀吉からしたら織田の血筋に継がせるメリットないし。 >>144のフローチャートだと信忠は一応死んでて本能寺が発生してるんだよな?
ここまでifになってくると本能寺が起きても信忠生きてる可能性も強いような
そうなると秀吉のお家乗っ取りも消えるだろうしワケカメ >>147
いや、信忠は京にさえいれば史実同様死を選んでるだろ。
変の発生時に京にいないというなら別だが、いない理由が分からん。
松姫が信忠と共に行動していれば死を選ぶ可能性はあるが、
三法師の守りをしていて京にいなかったとすればよし。
>>146はもっともな話だが、
清洲会議で三法師が跡目と決まった後に産まれるので、
秀吉からしたら、後見している三法師の正当性を脅かすただの邪魔者。
むしろ秀吉に殺されないか心配したほうがよい。
そこで
武田の家名を残したい&息子を死なせたくない松姫と
三法師を正当としたい&徳川との戦の前に少しでも武田の遺臣を取り込みたい秀吉
の利害が一致して協力したとすれば、
秀吉が得意のヘリクツと根回しで
松姫の子に武田を名乗らせる可能性もあると好意的に解釈。
一番難しいのが>>145
たしかに隠岐は難しい。かといって高野山や九度山なんかだと、
本能寺の際に勝頼が謀殺されたり、
勝頼が抜け出して甲斐や信濃あたりで旗揚げしちゃったり、
変後の権力争いの中で誰かに登用されたりと、
>>144のフローチャート通りにならない可能性も高い。
変の際に誰からも無視されて勝頼自身も動けなかったと好意的に解釈する(可能性がないわけではない)か、
別の遠島先を見つけるか、
変の前後のフローチャートの見直しが必要。 仮に勝頼の受け入れ先は上杉、真田以外でどこがあるかな?
伊達や佐竹なんてどうだ? 一応上杉・北条への牽制として交渉はあったわけだし。 遅レスになるけど、佐竹はありかな。家同士が兄弟だからね。
伊達は無さそう。名門同士ではあるけど接点あまりない。
でも実際は佐竹落ち・奥州落ちは勝頼のプライドが許さないだろうね。
もし行くとしたら、北条領を避けて北関東のど田舎を抜けてくんだろうけど、
道中の安全度や治める小大名・豪族と武田の関係はどうなんだろう? >>150
家同士が兄弟でも、当時の勝頼からしてみたら、佐竹なんて縁もゆかりもない。 勝頼と義重はほぼ同い年だから、案外気が合うかもよw
同世代のトップアイドル(お市ちゃん)の想い出話で盛り上がったりしてさ 小笠原氏の勢力が健在で武田と友好関係にあったなら、小笠原を頼ったことだろう。 勝頼が1614年まで生きていたとして、はたして鉄砲中心の戦争に対応できるのか?
これが1番の課題だよね。
いくら元大大名の名家で昔の野戦が得意だったといっても、中身が時代に追いついてなければ、
大坂城にめんどくさい老害が一人増えて、大坂の陣が大規模な長篠合戦になるだけになっちまう 鉄砲は有効利用されていたが、1614も鉄砲中心ではない
日露戦争の様に攻める時に鉄砲隊で突っ込むわけではない あの時代の30年の戦術の進歩は大きいよ。
攻め側なら、まず最初に敵の守陣のどこを鉄砲隊で崩すか。
守る側などこに重点的に鉄砲隊を敷くか、敵の鉄砲隊にどう対応するか。
これが最も重要な判断になり、それを学ぶのに実戦程いい場所はない。
実際に大坂の陣でも実戦を知らない若い将より歴戦の将の方が上手く立ち回ってるわけで、
勝頼にもし30年のブランクがあれば、大きなハンデになることは間違いない。
逆に、もし1580年代以降も現役の将でいたなら、最強クラスの戦力になったであろう。 >>1
いくら、若かったとはいえ、馬防柵に突っ込むような武将だからな。
むしろ、上杉謙信の方が、ふさわしい。 無意味に戦線離脱して長篠城から浜松をせてようと考えてるに違いない >>154
てきとうな事言うな。縁もゆかりもある。甲佐同盟でググれ。 それなら佐竹は十分にありだな。勝頼の中での優先度的には
小山田>真田>上杉>佐竹>>>その他
って感じかねぇ? 生き延びて・・・だから、天目山の戦いで大名としての甲斐武田家は滅亡して、
勝頼1人が落ち伸びて、落ち武者狩りから逃れつつ、密かに大阪の陣まで生き
延びて、大坂城へ入城しました・・・ということだろう。
武田家の元家臣の生き残りの多くは徳川家に仕官してしまってるし、時代も変
わってるから、「今さら冒険したくない」と思うだろうから、勝頼が大坂城に
入ったという知らせがあっても無視するだろうな。
大坂城内では、関が原合戦まで大名だった人物や元大名の有力な家臣だった人
物が大将格になったが、勝頼は天目山から30年余りも浪人をしていたわけで、
「いまさら」感が強すぎて、一兵卒にしかなれないだろう。
一兵卒なら上の指示通りに行動しなければならず、「武田の」だの「甲州の」
だのを語っても誰も相手にしてくれない。「言う通りに動けよボケ」と言われ
る。
そういうわけで、もしも武田勝頼が天目山から生き延びて、大坂の陣で大坂城
へ入城していても、入城したのかどうか、死んだのかどうか、後世には語られない。 それを言ったら始まらないし、「武田」という家名の威信を軽く見すぎ。
実際に前線で兵を任せられるかは分からないが、
豊臣側の重鎮として歴史に名が残るのは確実。
ただ、どうせなので元家臣の徳川家臣化を抑止するプロットも考えてみた。
甲州征伐が始まり、信濃と駿河がほぼ陥落(ここまでは史実通り)
→この時点で勝ち目無しと早期に判断して重臣達と善後策を協議(ifの部分)
→織田への降伏は勝頼と信勝の命が危険、徳川は格下として、北条への降伏が最もよいと判断
→氏直、降伏を申し出てきた叔父の勝頼を丁重に迎え入れる
→甲斐・上野が北条領に。織田も同盟相手の北条には手を出せず
武田の家臣の多くもそのまま北条に
→勝頼は小田原で隠居生活。信勝が北条親族衆格となり武田旧臣をまとめる立場に
→本能寺の変、秀吉台頭などは史実通り
→秀吉による小田原征伐開始
→勝頼・信勝は善戦するも、史実同様に氏政らの切腹で終結
→勝頼・信勝は氏直同様に高野山から豊臣配下の小大名ルート。武田旧臣も多数が従う。
→関ヶ原では徳川との過去の遺恨から西軍につくも、大坂城で終戦を迎える。改易。
武田旧臣離散。
→大坂の役に参戦。浪人の旧臣も集まる。他家に仕官済みの旧臣は半々。
→浪人衆でも最強クラスの部隊として善戦→勝敗は・・・ まぁ小山田領に行かず岩櫃城経由で越後に逃れて
本能寺が起きて上杉に兵借りて真田と合流して信濃を占領した的な
その後は豊臣大名として徳川の押さえに100万石くらいもらって5大老
こうなるとそもそも徳川の出る幕無いな 岩櫃城に行ってたとして、そもそも本能寺は起きてたろうか? 38歳の×1女が、
「出会いはあるけどろくな男がいない」
「再婚したら仕事辞めて専業主婦になりたい」
って言ってた。 こっちはリアルに家康が親か子か?って言いそうだよな よくよく考えれば勝頼が無能のわけないよな
無能だったら信玄が死んだあと9年間も武田家を治められるわけないよ まあ勝頼がどんなに有能でも限界はあるよ、例えば武田の家中じゃ外様が重用されないからね
跡部や長坂より真田昌幸や岡部元信を重用した方がよっぽど勝頼の未来は明るかっただろう 徳川家臣「大御所様!密偵からの報告によりますと、武田が大坂城に入城したとのことです!」
古狸「な・・・なんじゃと!?(ガクガク・・・)
し・・・してそれは父(勝頼)か?子(信勝)か?」
パターンA
家臣「はっ!入城したのは子の信勝であるとのことです!」
古狸「ふぅ〜、そうか・・・あいわかった。報告、ご苦労であった」
パターンB
家臣「はっ!どうやら父の武田勝頼が入城し、
大坂城の南側に武田丸なる出城を築いて籠ったとのことです!」
古狸「ぐぬぬ・・・!よいか、決して武田の兵とは矛を交えてはならぬと
全軍に申し伝えよ!おのれ武田め!
またも儂の前に立ちはだかるというのか・・・。これで勝敗は完全に読めなくなったわ・・・」
パターンC
家臣「そっ・・・それが信じられないことなのですが、
信玄公とおぼしき御人が赤備え隊を引き連れて入城し、
既に大坂方の全権を掌握して我々を待ち構えている模様です!」
古狸「し・・・信玄公ぉ〜〜〜!?こ・・・殺される!ガクガクブルブル・・・・
撤退じゃ!早よ馬を出せ!赤備えが来るぞ!早くせんか!
ヒャ〜〜〜!ブリブリブリ〜」 でもまぁ妄想するなら上杉領に逃げ込んだ勝頼が
秀吉のおかげで甲斐一国与えられて景勝と組んで西軍について
徳川が動けなくなるって設定のほうが面白いな
徳川は武田を潰さなきゃ中山道からも東海道からも安心して上方に進軍できない 慶応の学生です。
大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。
今回の三宅洋平の得票に戻るが0時00分現在で東京都合計で18万8千票である。
区部合計では、13万票 そのうち千代田区では、たったの1千票。
港区では5千500票 新宿区では6千500票、文京区では4千票 台東区では3,500票 墨田区では4千票 品川区では7,569票 目黒区では10,000票
大田区では12,000票 世田谷区では20,000票 渋谷区では8,000票 中野区では8千票 杉並区では1万7千票、北区では4,500票 板橋区では1500票
練馬区では1万2千票 葛飾区では500票、江戸川区では5,000票 八王子市では6,000票、立川市では2500票 武蔵野市では3,500票 三鷹市では4,500票 と続く。
豊島区ではなんとゼロ票 中央区ではゼロ票。江東区ではゼロ票、荒川区ではゼロ票 足立区ではゼロ票 通常、こんなことは考えられない。 武田勝頼は1546年生まれ
数え年で冬の陣が69歳、夏の陣が70歳
立派なおじいちゃんです だから何だよw
ジジイでも活躍した武将なんていくらでもいるだろ龍造寺家兼・朝倉宗滴・長野業正・三好政康 でも逆に言うと数えるぐらいしかいないとも言える
人の健康と寿命ばかりは神のみぞ知るところだけど、当時の寿命と健康状態を鑑みるに
仮に甲州征伐で生き延びていたとしても大坂の陣までには死んでいたか
生きていたとしても戦場で指揮をとれる状態ではなかった可能性の方が高いだろうな 武田信虎は長生きだな
信玄は結核で寿命縮めただけでこの家系案外長生きなんじゃ 竜宝や信清みたいに寿命全うした連中は長生きだからな 信玄が70まで生きてりゃ勝頼が継いだ時は40超えてるな >>234
寂しい、か
高校のころ同級生の女の子と後輩の女の子から言い寄られて遊び、別高校の先輩と付き合った
大学行って彼氏持ちの軽音楽部でヴォーカルやってる女の子と部室でHしながら
オケ部で宣伝PVにも出る看板娘、栗山千明似の美術部の子を家に連れ込んで
結局はサークルの先輩と付き合ってこの前のバレンタインデーもいちゃらぶデートしてきた俺の人生が寂しいのであれば
お前の人生はさぞ充実してるんだろうな 勝頼が生き延びていたとしても、
大坂方に味方するIFは、
有り得なさ過ぎて無意味
としか言い様が無い 勝頼が越後に逃げ込む
↓
本能寺
↓
信濃奪回
↓
豊臣と同盟して徳川を牽制
↓
秀吉の天下統一で甲斐加増される
↓
関ヶ原で西軍について敗北
↓
大坂入場
まぁもし勝頼が大坂に入場したら格的に浪人衆筆頭だわな >>234
寂しい、か
高校のころ同級生の女の子と後輩の女の子から言い寄られて遊び、別高校の先輩と付き合った
大学行って彼氏持ちの軽音楽部でヴォーカルやってる女の子と部室でHしながら
オケ部で宣伝PVにも出る看板娘、栗山千明似の美術部の子を家に連れ込んで
結局はサークルの先輩と付き合ってこの前のバレンタインデーもいちゃらぶデートしてきた俺の人生が寂しいのであれば
お前の人生はさぞ充実してるんだろうな 今川氏真が関ケ原後まで生き延びて徳川から所領をもらってるんだから、
同じように徳川に因縁を持つ勝頼が豊臣に加担して家康に歯向かうってことはありうるのかね? さすがに10年間戦い続けた徳川に与するのは無理だと思うけどな 豊臣秀頼と武田勝頼の境遇があまりに似すぎててワロタw
敵方の娘の産んだ子で親の死後家臣団が離反。
おまけに○頼と名前も同じだし。 日本史上もっとも頼りになる頼は細川頼之
異論は認める 書いてから源頼光と藤原頼通思い出したから訂正しとくわw 秀吉「信玄が生きておれば儂の良き家臣として取り立ててやったものを・・・」 勝頼が大坂方について活躍したとして、万が一勝った場合はどうなるんだろう。
武田の旧領である甲斐・信濃・駿河・遠江・上野・飛騨の回復はほぼ確実
(上野と信濃の一部は真田領になるかもしれないが)
として、そこまで実現すれば、
徳川残党追討名目で武蔵・下野も手中にするのではないだろうか。
だがそうなると、関ヶ原前夜の徳川より強大な勢力が東国に誕生するわけだが・・・ 家格的に事実上の総大将だろうな
勝頼クラスがここまで生き残った上で浪人として大阪城に入場するなら
関ヶ原で反徳川で戦って改易されたのは間違いないだろうし
ただ年齢的に前線に出れる年齢ではないかな
出るのは息子の信勝だろう >>52
このクソ暑いなか、一気に冷え込んでありがたいw 勝頼が生きてたとしたら、真っ先に家康に取り込まれてそうだが 武田征伐のあとからずっと浪人なら誰それ?状態だし
豊臣政権下で一大名として地味に生きながらえて、なんらかの理由で改易されて浪人ならそこまで威厳はないし
関ヶ原に参戦したら西軍につくポカはしないと思う 真田、上杉どれかに匿われてて天正人午で北信濃ゲット。
秀吉と家康の戦いが始まり秀吉から協力要請が来て上杉とともに味方。
その後も九州、北条攻めに協力し今までの功績で甲斐、信濃ゲット。
秀吉気前がいいから駿河もくれたかもしれん。
徳川の押さえにもなるし。
関ヶ原は武田領通れず、上杉、武田同盟が強すぎて起きない。 真田幸村「若様、よくぞご無事でいらっしゃいました!」
武田勝頼「うむ」 >>215
遠目に見たことはあるんじゃない?
勝頼にしてみたら家臣の次男なんざ知らないだろうけど この頃の勝頼ってもう70歳くらいじゃね?
格的に間違いなく浪人衆の筆頭だろうけど
実際はお飾りで大阪城に詰めて勝頼の相談役とかでしょ 家康「武田殿が徳川にご助力していただけるなら甲斐・信濃の2か国をお約束いたそう。
真田殿にも上田の地をお約束いたす。」 大坂の陣まで生き残ったifのしたたかな勝頼が大坂方につくとは思えねーよ 武田征伐で上杉に逃げ込んで運よく本能寺が起きて
海津城主として生き残り関ヶ原では上杉への恩と徳川に逆らっても勝ち目はないとの判断から
逡巡している間に西軍が敗北し、武田は改易
長宗我部盛親みたいに浪人状態のところを豊臣からお声が掛かって入場
みたいな感じかなw 武田が上杉に匿われて天正壬午が起たら史実では海津取って
新発田の乱に向かいたい上杉と地形で不利で攻めることが出来ず
時間浪費するの避けたい北条の利害が一致して和睦しちゃったけど
勝頼いたらそのまま武田残党軍は戦い続いてたと思うけどな。
景勝は匿ってた小笠原洞雪斎をここぞとばかりに利用して
木曾を追放し深志城奪取までしたけど勝頼までいたらもっと成果出てたのは間違いない。
真田も味方するだろうし史実では真田だけでも沼田から砥石城の何気に馬鹿にならない広範囲な勢力。
忘れちゃいけないのが徳川のために大活躍して、こいつがいなかったらまず徳川が北条に勝てなかった。
真田を北条から徳川に寝返らせて北条の補給線をズタズタにして北条の大軍を甲斐北西に孤立させた忠臣、依田信蕃の存在。
徳川なんて9000程度で
武田残党、依田信蕃、真田連合の敵じゃない。しかも完全アウェー。
となると甲信は泥沼化して小牧長久手は起きない。
徳川は五体老になるでもなくたたの80万石大名で終わるか信雄と心中して没落のどれか。 ちなみに北条も佐竹を無視できず織田仲介のもと徳川と和睦してるので
北条もいつまでも甲信に4万など派遣などしていられない。 ちなみに天正壬午で家康は大チョンボをして
信濃攻略は酒井忠次に任せてたがこれが大失敗。
酒井は信濃で傲慢な態度を取ってしまい事前に徳川に味方すると約束していた国衆が約束を反古して北条に寝返ってしまった。
これは徳川家臣団からも酒井忠次のせいでこんな戦況不利になったと攻めらた。
徳川が信濃、甲斐手にできたのはとてとじゃないが家康の能力とは言えない。
織田系勢力の味方してくれる約束などもあり(実際はそんな余裕は無かったのだが)織田の名前使えて運が良かった。 まず武田勝頼は3か月前に部下に見捨てられて滅亡寸前だったということ
武田ブランドは傀儡としてはそれなりに価値はあるが
甲信に勝頼が出てきたからすぐに勝頼に付きますとはならないであろうこと
滝川を撃破して上野を制圧しつつある北条は沼田の真田を取り込もうとするし
碓氷峠から信濃に侵入してくるので北信濃の軍勢を糾合したとしてもとても勝負にならない
だからこそ上杉景勝はあっさり講和結んだわけで
天正壬午の乱は徳川なんかより強大な北条の存在が問題なんだよ 勝頼が生きてようが、いづれにしても小田原征伐はおきて1590年に北条滅亡はさけられない気がする 天正壬午の乱が終わった後
真田と海津の武田勝頼が上杉方
信濃の大半と甲斐は史実通り徳川
上野は史実通り北条
その後上杉方で徳川と戦った武田勝頼が北条滅で関東に移動した徳川の旧領からどこか貰えるかどうか
徳川牽制するなら甲斐にでも置けば東海道を西進するにはまず甲斐を攻略する必要が出てくるけど
でも実際は東海道沿いも豊臣恩顧大名が固めてるからそういう必要性はないんだよな
後に裏切るけどこの時点では想定外
案外蒲生が死んだ後に上杉景勝と一緒に東北に飛ばされそうな予感 日銀がETFのための別組織作るなんて日銀法で認められてないだろw
完全に飛ばし用だし 俺が勝頼なら土屋や家族50人ぐらい連れて真田上杉経由で越後から船で朝鮮に渡って満州に入って
ヌルハチと一緒に明を戦って中国で天下を狙うわ >>217
どういう人生を歩んだかにもよるけど、牢人してたなら格も氏真や信雄とたいして変わらんかも 大坂に入城ということは、よく見積っても関ヶ原の時点で没落してるだろうからなぁ 信玄時代のことではあるが、
家康が主導した戦で生涯唯一?ガチで敗走した戦い(三方ヶ原)に
指揮官として参加していたというのはかなり大きいよ。
その後も周囲が敵だらけで苦しい中
局地戦レベルではほとんど戦闘に負けない家康と
タイマンで対等にやり合っているし、
この時代に対家康の実績がここまである将は他にいないだろう。
大坂方からすればこれ以上の人物はいない。
少なくとも浪人衆からの信望は絶大であることは間違いない。
関ヶ原については過去レスでも出ているけど
もし勝頼が関ヶ原にいたらその時点で何かしら歴史が変わっている可能性が高い。
なのでこのスレ的には、輝元みたいに大坂城にいたか
中山道で秀忠軍と対峙していうる内に
史実通り関ヶ原で大勢が決まってしまって何も出来なかったと考えるべきでは?