【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッドU【擾乱】
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┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 面白そうなスレなのに過疎ってんのは惜しいな。
支援age。 だけじゃ何なんで、話を振るか。
戦国時代の始点を「享徳の乱」とする見方は既に定着した。
室町秩序を破壊して新たな統治原理や社会関係を求める動きが爆発的に顕在化した最初の事件だったから−−だと云う。
あんまり異存は無いんだが、しかし室町秩序の破壊というなら何故「永享の乱」を戦国時代の始点としてはいけなかったのか。
詳しい人、御教示をお願いします。 もう一つ。
黒田基樹氏ら諸碩学によると、
享徳の乱の過程を通じて元来室町秩序の代表的体現者であった関東足利氏や上杉氏自らが「戦国大名」化を遂げて行った−−と。
しかし諸碩学はまた、
「戦国大名」とは実力(暴力)を以て中央権力体の掣肘(暴力)を排除した独立地域権力体であるとの定義も提示している。
ここには二つの点から疑問を感じる。
先ず、享徳の乱に於ける両上杉氏は正に幕命に拠って足利成氏追討を目指していたわけで、成氏は兎も角としても彼らはなお室町秩序の中に在ったのではないか。
次に、彼らが「戦国大名」即ち独立地域権力体であったなら地域立脚の領国統治制度−−例えば早雲庵宗瑞の如き−−を持たなければならない筈だが、古河足利氏にせよ両上杉氏にせよそれを確立していたのだろうか。
どうもこの辺り、ストンと腑に落ちては来ない。
議論を望みます。 関東は鎌倉から京に幕府を移した時から火種持ち、それが鎌倉府。
準独立性を持ってるから初めから戦国。中央は南北朝の遺恨が落ち着けば全国への
中央集権への圧力とその権力派闘争になるけど、関東は他地域と比べ複雑で尊氏の子の関東公方と
畠中への抑えで尊氏の子が起用を戻した幕府との繋がりもある直義派で元公家の上杉の関東官僚。
思ってるほど幕府と関東公方の2元対立じゃなく鎌倉府での権力争いも兼ねて、
鎌倉府の独立性への尊重だったりと複雑に各々意向がある。で、永享の乱に重きを置いてるかというと、
自分の考えでは堀越公方を関東公方上杉両陣営が拒否したから(上杉方家臣らが処罰を受けてる)
持氏の時は中央にただいな影響を及ぼした反乱分子だとすると永享の乱は中央のからの影響を
地域が遮断した戦国型だからじゃないか。 >>804
ありがとう。
もう一つ視野を広げると両乱の相対的な位置関係がより明確になる、と。
−−と、いうように読んだんだけど、
脈絡からして最後から二行目の「永享の乱は中央…」は「享徳の乱」ということでいいかな?
確かに貴論の通り、
持氏は明確に反幕府を掲げたが成氏はむしろ「幕府は口を出すなよ。」って姿勢ではあるな。
ここに独立性の在り方の違いを見るか。
なるほど。 >>805
すまない、享徳の乱と書いてるつまりだった。
ただ部分部分で成氏も上杉も幕府との関係を確実に大事にしてる。
だから戦国時代の定義はあいまい、関東は初めから戦国の要素を持つということが前提
において分かりやすさという意味で戦国時代と言いながら時代を逆上りし過ぎることに
ある種の反則感を持つってことが本音だと思うけど笑 古河公方の領国統治についてネットで情報を漁ってるんだが、なかなか無いな…。 少しだけ得られたこと。
足利成氏は鎌倉を喪って古河に移ったとは云いながら、当地は元々御料所だった地域だから経済基盤に変更は無かった。
近辺に御料所の経営実務を担った簗田、野田などの奉公衆がいたから移座当初は統治構造も継続していたかと思われる。
地域には根を持たない公方が奉公衆の経営実務の上にチョコンと乗って居喰いしていた、即ち典型的な室町秩序型の構造(各国の守護も同じ)であったかと。
ではその後の成氏の「戦国大名」化はどう進行していったか、そもそもそれはあったのか…が皆目解らない。
ただ、時代を下るに従って成氏の直接発行文書の増加や個々の文書の「厚礼」化が明確に認められると云う。
これを単なる公方権威の陳腐化・俗化と見るか、それとも北條に典型的な領国直接統治の表象と見るかで評価は変わって来るだろう。
次第に簗田らは自領の経営や防衛に精一杯になっていったから古河も直接統治の方向へ向かわざるを得なかったんだろうな、
という状況推測は出来るが…。
未消化。 小弓義明は更に不明。
領国統治の実体があったかどうかさえ疑わしい。
戦国関東に二十年間も威を張ったわけだが、結局最後まで真里谷の食客、寄生虫だったのか。
だとしたら正に室町秩序そのものということになる。 >>811
食客だったが、それなりに利用価値はあったんじゃないの? 足利義昭みたいなもんでさ。
養うことにより権威が上がるとか、和睦交渉やってもらうとか。 複雑だけど複雑だから面白いのが関東戦国
関東の歴史好きでもこの面白さに気付いていない人が多いのが勿体ない >>813
特に前半期、享徳ノ大乱から第一次国府台合戦までが面白い。
旧秩序の急激な崩壊、その後の混沌に混乱を足して錯乱をぶっ掛けたようなアナキズム、それを止揚して行く新勢力の新思想、等々。
後年の関東三国志も良いんだが、あくまでも前半期に形成された枠組の中における嵐と云う感がある。 関東上杉スレの方で出た話題なんだが、
「国府台合戦で小弓公方足利義明は何故に北條軍の渡河を座視して許したのか」
という疑問。
思うに義明は最後の最後まで北條が味方に付く可能性を捨て切れなかったんじゃないか。
小弓御所成立以来、
北條はこれに対して時に敵対もしたが従属期間も短くなかった。
一方で古河公方とは良くも悪くも関係性が稀薄だった。
あの時点で扇谷(小弓方)との全面抗争下にあった北條が小弓に付くなどあり得ないと後世の我々ならば容易に判断できるが、
当事者として渦中に在った−−そして古河との決戦に向けて味方を増やしたい−−義明が未練がましい空頼みに囚われても不思議は無かったとも思われる。
果たして縁薄い古河の下命で北條が自分(小弓)に命懸けの戦を仕掛けるだろうか?と。
渡河を終えた北條軍が敵対の意志を明確にした瞬間の憤怒と失望が義明をして先頭突撃の暴挙を敢行せしめたのではないか、
と、そんな想像をした。 >>815
>思うに義明は最後の最後まで北條が味方に付く可能性を捨て切れなかったんじゃないか。
敵対してるとはいえ全面衝突は回避するという暗黙の了解を破ったのは義明の方だしそれはないんじゃないか >>816
まあ、そう考えるのが妥当だな。
俺の書いたのは特に根拠の無い憶測だから固執しない。
千野原靖方著「国府台合戦を点検する」という研究書(かなり古い本)を読んでいたら
北條軍は通説よりも北方、つまり小弓軍の視野外へ迂回してから渡河した可能性がある、との仮説が提示されていた。
案外そんなことかもしれない。 憶測ついでに妄想を吹いておくと、
「国府台で北條が小弓に味方していたら」という愚にもつかないIFには魅力がある。
そうなったら
「小弓・里見・扇谷・北條同盟軍」対「古河・山内・簗田・北関東諸侯連合軍」
の関東大戦になった可能性が高い。
足利が関東の覇権を奪回する最後の好機だったろうし、
実際に義明はソノ気になってた(実態は精々房総限定の盟主)わけだから。
落書き御免。 乃至謙信越山も北条氏が小弓公方に降伏しようと考えていたと書いていた気がする。 堀越公方のこともここに書いて良いのかな?
範疇外? 茶々丸って幼名?
なんで、ちゃんとした名前が付けられなかったの? 嫌われてたのは確かだけど元服もさせてもらえなかったのか? 廃嫡に諫言した政憲が自害した時は既に17、8歳にはなっていたはずだし
政知が死んだときには二十歳は超えてたはずだけど
そんなに長く監禁されてたのか? >>821
了解。
関東上杉スレにも書いたが、
伊勢盛時の伊豆侵攻時に足利茶々丸と山内上杉顕定が連携していたのがどうも腑に落ちない。
それまでの経緯からしたら山内が茶々丸を敵と位置付ける方が理屈に合うように思われる。
茶々丸の暴発について顕定は何か言及していないのだろうか。 お前ら和歌山県出身の下村拓郎様(35歳、元自衛官)についてご存じか。この方は神のような素晴らしい人間性を有しているので覚えていた方がよいぞ >>798
鎌倉にいなくともその一族だから
中央から見れば鎌倉か REVELATION
資金源/コング
フロント/天下り/右翼思想
フィクサー/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入
汚職/集団ストーカー/ハッキング/盗聴/盗撮/家宅侵入/揉み消し
揉み消し加担 >>831
現代でも関西の人間が関東全域を東京と言う事があるように、
戦国以前の京都の人間が関東全域を鎌倉と言う事は
頻繁にあったと思うな。 謹賀新年。
良スレage支援。
関東戦国史の真髄は享徳ノ乱から国府台合戦まで。
面目ない。
専ブラのデフォルトがsageだったのを見落としていた。
改めてage支援。
『江戸--平安時代から家康の建設へ』(齋藤慎一氏 中公新書)
今読んでいるこの本によると、
永禄年間、北條氏康は江戸を「鎌倉殿」の恒久的な御座所とするべく本格的な都市整備を推進していた。
公方足利義氏の母や近臣は現実に江戸移住を済ませていたと云う。
徳川幕府に先立って「江戸府」が樹立される可能性もあったということになる。
水陸の要路の衢にして自然災害も少ない、
後背に広大な平野を擁してヒトの集住に適する、
そういう江戸の立地のポテンシャルが史実よりも半世紀早く解放されていたなら。
歴史に対してifを構えるのは無意味な愚行だが、
江戸原住民の血を承ける者としては愚かな夢想の誘惑を禁じ難い。
将軍って一応朝廷が任命するんだよね?公方は幕府の役職ですか? スレ的には関東府のことだろうね
鎌倉公方とかは将軍の代理のことで幕府の役職ではないんだっけかな? >>841
鎌倉公方(同時代呼称は鎌倉殿、鎌倉御所など)は足利幕府統治体制個有の役職であって国制による官職ではない。
よってその任免権は建前上は幕府将軍にある。
朝廷の関与する所ではない。
>>844
狭義の「京都」幕府の体系からは外れるが、
将軍が超越的存在として東西分割統治体制を総攬するという権力の全体構造からすれば
「東国総監」とも云うべき鎌倉御所はやはり「足利」幕府の体系内の役職と考えられる。
但し実質的に独立戦国大名となった古河御所(北條傀儡の義氏を除く)はその限りではないかもしれない。
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