【関東】鎌倉・古河公方を語るスレッドU【擾乱】
応永の乱 反乱軍一覧
1.大内義弘(周防・長門・石見・豊前+和泉・紀伊守護。国際貿易だけでなく、百済子孫と称して高麗臣下として領地を受けようとする)
2.鎌倉公方足利満兼
3.九州探題を解任された今川了俊(探題時は九州ほぼ全域と安芸・備後守護。水島の変で支持を失った際、協力してくれたのが義弘)
4.土岐詮直(土岐康行の乱の片割れ、美濃・尾張・伊勢守護時代の尾張守護代)
5.京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)
6.宮田時清(山名の勢力削減に利用され明徳の乱で潰された氏清の子)
7.南朝残党(ただし、三十年ほど後に持氏と連携して小倉宮聖承を担いで挙兵する北畠すらまともに動いたようには見えない)
主力となり得るのは1.大内、2.鎌倉公方、数段落ちて3の今川ぐらいで、4~6は雑魚。7は大してやる気がない。
鍵となるのは鎌倉公方足利満兼だが、鎌倉から武蔵府中→下野足利とまったく逆に侵攻した所で義弘死亡で終戦。
管領上杉の諌めというがよくわからない。本来は堺で大内が籠城し続ける所に東から関東軍+今川軍さらに土岐などを糾合して本隊として上洛しなければならなかったが、せいぜい関東で足場固めを図った程度。 関東の公方で言えばやはり小弓公方と堀越公方だろう。
特に幕府派遣軍の北条早雲こと伊勢盛時の引き立て役にしかならなかった堀越公方の無様さは特筆もの。
後南朝や各地に派遣された南朝皇胤が浮世離れした悲劇を生み出すのに対して、足利傍流は悲劇とも喜劇ともつかぬ迷走ぶりが実に面白い。
足利氏は本家、有力大名含め没落すればするほど味が出る。この喜劇性は足利氏しか持ち得ないものだと思う。 堀越公方は古河公方勢力に攻め込まれた時も自力じゃまともに対抗できなかったしなあ。
茶々丸は結局、成人しても茶々丸のままだったのか、名前すら後世に伝えてもらえなかったのか、どっちなのかな。 茶々丸っていろいろと残念だよね
成人後も幼名で呼ばれ続けるのと、面と向かって諱で呼ばれるの
どちらが失礼なんだろうか >>253-257
越後上杉家の房朝は、鎌倉公方が復活する事で
上杉一族の宗家である山内上杉家を押さえ込んで欲しかったのだろう。
だから10年近くも上洛する度に鎌倉公方復活を目的としたロビー活動をしていたのだろう。
越後長尾氏への対抗と言うよりは、むしろ長尾氏の後ろ盾になっている山内上杉家への対抗策の様に思える
越後長尾家は、越後上杉家の言う事を全然聞かなかったらしいしが、
それもこれも、山内上杉家が後に居るからで、越後長尾家は、この時点では、まだそれ程の勢力でもない。
越後応永の大乱でも守護の越後上杉家が、守護代の越後長尾家を押さえ込んで勝利したばかりの時期だし。 >>705
でも結局、山内上杉家を、押さえ込めなかったよね。
室町幕府の本拠地は、京都だし、鎌倉公方は、出先機関としての性格が強い。
永亨の乱発生後の鎌倉府の実権は、上杉憲実に握られている。 江戸幕府とは違うんだよ。 旧鎌倉公方の配下だった者達が越後上杉に再興を懇望してるんだよ。
それに関東八屋形と言われるように名家は滅ぼしてはならない。
そしてそれは鎌倉公方の秩序で保障されるもんで、
関東管領に従わなくても滅亡させられないことも意味する。
そして関東管領の職に越後は含まれてないので、
越後上杉は在京国主であり、関東管領と同名衆だが、意見の一致を見る必要もない。
守護代白井長尾もこの鎌倉公方再興には反対だったが、
越後三長尾家はどういう意見だったのかな。
白井長尾に近い上田長尾などは協調しそうだが。 まー利根川以東の鎌倉公方系の諸将にとっては、将軍への取次がいないから
関東管領家の流れを汲む越後上杉を頼ったんだと思う。
今川は関東管領同様に鎌倉公方を滅ぼした側で当然、将軍への取次やってくれないし。
だから越後上杉が将軍や幕府要路へ
関東は公方様がいないとちゃんと治まらないのでと懇願したんだろう。 バッチリ親の仇の関東管領家に復讐も果たしてるしな
因みに管領暗殺劇で功のあった陪臣の多賀谷兄弟に直接領地を与えた説があるみたい
なんでも自分に味方するものを少しでも増やしたかったとか 長尾郷を押領しちゃったのも多賀谷だっけ?
成氏は、手紙だけ見ると管領よりも、
山内上杉家の執事の長尾氏や扇谷上杉家の太田家に対する反感が大きい感じがする。 匿名ロケtbc上野汽車汚染漢字マナー日暮里auノリ港ディラーもろこし台形シニア下空調ラボイランマカオヨハネス豪州低空素マン国画SIM関西農米素人コンビーフひまわりyudo本場豚骨タイピングニューヨーク交際帰国アイフォン頭打ちビタミンパチスロラーメン
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義教がもうちょっと生きてたら、そうなったかもしれん 佐竹とか結城合戦で敵対した武将も討伐されてたかもしれないし以後の歴史がガラッと変わるだろうな >>714
義政が同じ事をやるけど、上手く行かなかったじゃん。
山内上杉や扇谷上杉が、協力するか如何かも判らないし。 幕命となれば上杉は最終的には従わざるを得ないんじゃないかなあ
関東の諸豪族が反発するだろうけど じゃあ何で足利政知は、伊豆に留まったんだよ!? 上杉が協力してないからだろ。 >>720
実際には…
上杉持朝が、相模に入れてくれないんだもの
だろ
渋川義鏡とモメてるし、
持朝は成氏と和睦して政知と争おうともしている。 この頃は、まだまだ扇谷上杉の力は弱くて、
圧倒的に山内上杉のパワーが強くて、全然かなわない。
山内上杉は、上野、武蔵、伊豆の守護だし、
関東管領だし、山内上杉家の所領の方が、断然多い。
享徳の大乱前半の頃の扇谷上杉家の所領は、
山内上杉家の家宰の長尾家の所領の半分も無かったと記録されている。 順番的には、政知が堀越に腰を据えて、渋川義鏡が伊豆での権益を広げていったから境を接する扇谷上杉と険悪になっていったんじゃないの?
その前から持朝と義鏡が対立する理由ってあった? 古河公方と敵対してる山内上杉は、
伊豆を政知に譲渡してるので当初から堀越公方サイドです。
むしろ相模国を領有してる扇谷(上杉持朝)が、
当初から政知の鎌倉入りに協力的でなかったように見えますね。
一応公式には、1462年に兵粮料所の設置を巡る争いから
扇谷上杉と堀越公方が敵対関係になるとされていますが、
堀越公方設置当初から扇谷上杉家は、山内上杉ほどには協力的では無い感じがします。
その後にそれが高じて、上杉禅秀の息子らが政知に扇谷重臣の讒言をして
政知が持朝の相模統治権を取り上げたり、持朝の重臣が引退したりしてます。
その為に、あわてて義政が堀越公方と扇谷を仲裁してます。
義政も政知に「箱根の山を越えるな!」と命令し、
堀越公方が、相模(と言うか関東に)に介入する事を禁じています。
堀越公方の支配圏が、伊豆一国に限定されてしまったのは、この辺が原因なのかなと。
古河公方らが伊豆三島へ侵攻した時も扇谷領を一気に突っ切って伊豆まで侵攻できたのも非常に怪しい。
この時は山内上杉の家宰だった白井長尾景信が下野内を撃破して古河城を落城させて堀越を救ってます。
のちに道灌の死を経て上杉同士の対立になると、
古河&扇谷&伊勢氏VS山内上杉&堀越&越後上杉の対立構造になる。
ちなみに景信の息子の景春の姉妹が扇谷定正の正妻で山内と敵対して古河方にいる。
この戦いは勝ち続けた定正が増長し古河が離反し苦戦するようになり、
最後は伊勢氏の救援なく越後長尾によって平塚まで蹂躙され川越が落城し
扇谷が山内に降伏する事で山内扇谷両家が対伊勢氏協調体制に。 >>711
1450年に長尾郷を押領したのは、簗田持助じゃなかった?
成氏は、持氏の家臣であった結城氏、里見氏、小田氏等を
重用しているが、簗田も持氏の家臣で結城合戦に参戦している。
この地はその名の通り山内上杉家宰である長尾氏発祥の地で、
そこにある御霊宮は、長年にわたり長尾氏一門の祖先祭祀の中心だった。
この事態に長尾景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して成氏に激しく抗議したが、
成氏は、しばらくは、長尾郷や御霊宮の返還には応じようとしなかった。 古河公方勢力の三島侵攻を扇谷上杉が協力はしないまでも黙認してたってのはありそうな話だね この時期、関東では数々の戦乱があるけど、以外と農民一揆や下克上が少ない。
下克上もせいぜい長尾景春の反乱程度で、これも長尾一族の内紛の性格が強い。
これは関東と畿内の惣村の自治性や独立性の違いが大きい。
なぜ関西の惣村の自治性独立性が高まったかを
民俗学をかじったおいらが真面目に学術的に説明しとく。
西日本は基本的に横割りの年齢階梯制っていう社会構造で村落が形成されてた。
村落内のメンバーは平等。年齢ごとに役割を担っていく。
一定年齢に達すると、若者宿や娘宿ってとこに入って、成人すると家を持つ。
ここで成人になるときに、村落のメンバーとして宮座(寺社での寄合に出席する)の構成員になる。
で、年取ると、宮座のなかで村ごとに人数は異なるけど役に就く。そして引退ってのが西日本の村落。
この社会は、基本的に全員平等なわけ。
だから、寄り合いなのでみんなで話し合い村落構成員全体の同意などが
大変重要となるし 外部や上からの強制力も行使し難い。
大名による垂直統合的な権力機構は作りにくい社会構造になっている。
対して、東日本は、縦割りの親方子方制なのね。
親方の家、有力者の家とそこに隷属する子方で社会が構成されてる。
神社の祭祀なんかも、有力者の家が世襲したり、いくつかの有力な家の持ち回り。
この親方子方制の社会だと、不浄とされる仕事は子方にやらせれば終わるし、
戦争になれば手下に動員をかけ易い。非常に上からの支配がし易い縦社会になっている。
こういう関東と畿内の社会構造の違いが、農民一揆や下克上の頻度の違いに現れている。 >>726
山内上杉の方が、圧倒的に強かったからね。
古河公方は、まだ弱っちい扇谷上杉とは、それ程対立していなかったのかも。
関東管領である山内家の上杉憲忠暗殺の時も、鎌倉公方サイドは、
管領邸に居た山内家の家宰の長尾実景・憲景父子を同時に暗殺しているのに、
糟谷館の扇谷上杉の持朝・顕房父子や鎌倉在住の憲忠正室(持朝の娘)は、暗殺していない。
関東八屋形系の小山氏・結城氏・宇都宮氏・千葉氏・那須氏・小田氏等は、
扇谷上杉よりも関東管領の山内上杉家(家宰の長尾家)と長年にわたり対立していた。
その事が、長年の鎌倉府再興の動きに繋がり、足利成氏を鎌倉公方に押し上げた面がある。 茶々丸は、酒乱だかの素行不良を理由に土牢に放り込まれ廃嫡。
代わりに異母弟の潤童子が、堀越公方に予定されていた。
茶々丸は、支持者の武士から刀を差し入れてもらって、
牢番や潤童子とその母親(円満院)を殺害して、堀越公方になっている。
政知とその正室の円満院(後妻・継母)が、
茶々丸を虐待したけど、特に円満院が、茶々丸を嫌っていたと言われる。
その一方、堀越公方の家臣団のなかにも茶々丸廃嫡を疑問視する声があがっている。
関東執事の上杉政憲も政知に茶々丸廃嫡を諌めたが、
堀越公方が相模に介入する事を阻止したのも上杉政憲だったので、
政知はブ千切れて政憲を切腹させてしまった。
また、山内上杉家や在地の伊豆国人、甲斐武田家は茶々丸を支持し、
扇谷上杉家や駿河今川家、幕府派遣の京下りの堀越公方家臣団は、潤童子を支持していた。
茶々丸は、堀越公方になってから
重臣を誅してしまい、その事で伊豆が内紛状態になってしまう。
それと茶々丸は、堀越公方に就任してから、足利政綱と名乗っていた可能性がある。 甲斐に逃げていたけど、引き渡されて、伊豆で切腹じゃなかったっけ? >>726
扇谷は、かなり堀越公方を煙たがっていたらしいからね。
足利政知が、鎌倉に入れなかったのも、上杉持朝(扇谷・相模守護)が阻止したからだしね。
後に堀越府の関東執事の渋川義鏡が、相模に介入したのも、これが原因だと思われる。
ただ、上杉持朝が古河公方と通じていたのは、事実だったのだろう。
それ故に古河公方勢力は、1472年の三島侵攻が実現出来たのであろう。 茶々丸は当時室町幕府の意向で活動し、今川氏親の後見人となってた
伊勢盛時(北条早雲)に攻められ伊豆を取られ甲斐に追放された
盛時は幕臣であり、将軍足利義澄からの命であったと言われている(母や同腹の弟を殺された)
しかし、甲斐の武田氏の後援を受け再起、伊豆を奪還すべく兵を集めていた
とこにそれを聞きつけた盛時に攻められ捕まり首を刎ねられたとも自害したとも 扇谷が政知の鎌倉入りを阻止したって記録はあるの?
それとも状況証拠? 両上杉氏と対立し幕府とも対立した旧鎌倉公方の足利成氏に対抗する為に
足利政知が幕府より鎌倉公方として派遣されたが、足利成氏の勢力が強く
鎌倉に入れず伊豆の堀越に御所を築き堀越公方となった。
しかし足利政知には実権が無く、幕府が軍事命令権を持ち逆に政知には
両上杉氏との複雑な関係から箱根を越えるなと厳命していた
扇谷上杉は内紛を起こしていた
政知は執事の渋川義鏡の息子を斯波氏の跡継ぎとして養子に送り
斯波氏の軍事力を手に入れ成氏を討ち正式な鎌倉公方として関東を治めようと
画策し幕府からも承認を受ける
しかし斯波氏は跡継ぎ問題や内紛が起こりそれが応仁の乱へ突入していく・・ >>732
1460年にも堀越公方の陣所である国清寺が古河公方側に焼き討ちされている。
>>734
相模守護の上杉持朝と堀越府の関東執事の渋川義鏡が、
物資調達めぐり大喧嘩。また堀越府に兵力が全然集まらない状態。
さらに扇谷家の重臣の大量引退、堀越公方による相模守護の権限の停止、
上杉持朝の古河公方への内通の噂、など堀越公方と扇谷家の対立は、かなり深刻な事態になっている。
それを見て将軍の足利義政が、仲裁に入り、堀越公方の箱根越え禁止命令が出ている。
しかも、その近い時期に堀越府の関東執事の上杉教朝が、自害させられている。
これは、同じ関東執事の渋川義鏡が、
「上杉教朝が、同族の扇谷上杉と内通している」と
足利政知に讒言をした事から、発生したと言われている。
堀越府も一枚岩では無かったのが痛い。 それは義鏡が伊豆で権益を広げて隣国の相模と利益衝突したから、険悪になったんじゃないの?
持朝が政知の鎌倉入りを阻止したという証拠にはならんがな。
時系列が分からんから>>735の言う通り解釈でどうとでも取れる。 そもそも当初から扇谷と堀越府の利害が調整されて無いんでしょう。
だからリアルに足利政知は、鎌倉には、入れなかった訳で。
しかも古河公方は、はるか北関東で山内上杉と大戦争の真っ最中なんですが。
それなのに古河公方が、伊豆の三島を2度も攻撃できたのも不思議です。
あんなに距離が離れているし、享徳の大乱が始まってからは、
武蔵南部も扇谷が防衛を担当する事になったのに? 本気で防衛してたんですかね?
さらに堀越府は、執事が自害させられたり、
茶々丸が急に廃嫡されたり、内部が、ガタガタバタバタなんですが。
堀越府は、伊豆一国をしか治めてない。
と言われますが、おそらく伊豆すら治めきれてないと思う。 扇谷と義鏡が対立していたことには誰も異存はないよ。
ただ、両者が最初から険悪であり、持朝が政知の鎌倉入りを阻止した、という点に根拠が無いだけ。 足利政知が、1458年に鎌倉公方として
関東に来た当初から相模に入れなかった。
持朝と政知の関係が、上手くいってないからでしょう。
上手くいってたら始めから鎌倉に入っていた。 足利政知が犬懸上杉家と昵懇だったために
扇谷上杉家が警戒して相模に入れなかったというのは本当なのかな? 政知が下向した段階では扇谷と山内も険悪でも何でもなかったのに鎌倉入りを拒む理由が分からん
単に鎌倉が今川軍の攻撃で荒廃していたからと考えた方が自然 >>742
政知が、犬懸上杉(教朝と政憲親子)と
扇谷上杉の結託を懸念している方が強いね。
しかも扇谷上杉は、大して本気では古河公方と戦ってないしね。
扇谷上杉は、古河公方との対戦を口実に
山内上杉から武蔵南部を割譲してもらったのにね。
本来は、武蔵南部も山内上杉の領地なんだよ。
横浜(六浦湊・神奈川湊)は、山内上杉の所領だしね。
長尾一族発祥の地だって、横浜の長尾台だし、
長尾一族も武蔵南部を扇谷上杉に割譲するのは良い顔しなかったと思う。
事実、政知と渋川義鏡が、相模介入に
積極的なのに、上杉教朝は、それ程でもなかったらしい。
それゆえ渋川義鏡の讒言による上杉教朝の切腹なのかも。 >>744
足利成氏が、山内を中心とする上杉勢と本格的に戦い始めた1455年に
駿河今川勢が鎌倉を防衛する三浦などの鎌倉公方の奉公衆を猛攻で蹴散らし、
鎌倉中を焼討ちにしたのは事実。
でも1460年には、今川勢も本国に撤退しているし、今川が占拠していたのは、
鎌倉周辺だけで、その周りは基本的に扇谷上杉の領地。やはり扇谷上杉と
足利政知の関係が整理されてないから、鎌倉に入れなかったと見る方が自然。
1458年に足利政知が近畿から関東に来た当初も入れなかったし、1462年に利根川
湖畔の決戦である海老瀬・羽継原の合戦で上杉方が大敗し、扇田の勢力の弱った
と判断した政知は、鎌倉入りを目指したが、今度は、将軍の足利義政に箱根越えを
止められる。
政知の鎌倉入りの機会は2回あったが、2回とも失敗している。
相模守護の上杉持朝が、足利政知の鎌倉入りを阻止したと見る方が自然。
古河公方は、伊豆の三島攻撃を2回も実施し、それを扇谷は、大して防ごうともしてない。 その時点では扇谷と山内の関係も良好だし、扇谷が新たな鎌倉公方就任に反対したなんて話もないのに、なんで持朝が鎌倉入りを阻止したと決めつけるのかね?
後年、持朝と義鏡がいがみ合ったらからといって持朝が最初からアンチ政知だったとは限らんだろ。 安房って里見氏入部以前は犬懸上杉氏の守護領国ですよね?
そしたら堀越公方の勢力圏って伊豆+安房なんでしょうか? >>748
安房里見家は、意外と謎が多い。
だから、滝沢馬琴が南総里見八犬伝を構想したという話もあるくらい。
戦国期の安房里見家が実在を確実視される義通の代に小弓公方を支持していて、
一時的に北条氏綱と共闘していたのは間違いなさそうなのだけど。
安房が堀越公方の勢力圏にあったかというと
?が頭につくな。 >>747
どうかね?正面きって山内vs扇谷の戦をしてないだけで、
色々な面で、温度差有りマクリでしょう。特に対古河公方戦なんかでは。
政知が、1458年に畿内から伊豆に来た時から相模には入れてない。
と言うか、相模に入れなかったから、政知と山内が相談して伊豆に落着いたって感じ。
>>748
上杉禅秀の乱以降の犬懸上杉氏には、
もう領国は、もう無いんじゃないですか?
禅秀の乱以降の犬懸上杉氏の活動拠点は、京でしょう。
禅秀は、上総の守護だったようですが、
禅秀の乱までは、犬懸上杉家は下総にも影響力があったようです。
それと堀越公方の勢力圏は伊豆だけど、実際の勢力圏は伊豆北部だけでしょう。 あれこれ推測するのは自由だけど根拠となる資料が無いんじゃ結局、妄想止まりだわな。 じゃ〜なんで、古河公方陣営は、二度も伊豆三島を攻撃できるのよ? 後に持朝と義鏡が険悪になったのは確かだが、だからといって最初から持朝が反政知で、政知の鎌倉入りも阻止したとする根拠は無い。 政知の鎌倉入りを阻止したは、
持朝(犬懸上杉家)以外の誰が居るんだよ?
持朝が、相模守護なんだぞ!?
それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
次第に疎遠になってきている。特に茶々丸と廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。 なにを根拠に「阻止された」と決めつけているのかが謎
政知が鎌倉入りしなかった本当の理由なんて誰も知らないのに 政知と持朝が、もめてる原因は、はっきりしている。
食糧調達であり、それが起因して相模の行政権でも揉めている。
政知と持朝の対立の開始時期には、二つの説があり、
1458年に政知が畿内から伊豆に来た当初からという神奈川県史の説と
1460年以降から対立が生じたと言う家永説の両方がある。
特に1460年に武蔵太田庄、海老瀬口、羽継原の合戦に上杉方が負けてから
堀越公方方の陣営の勢力図が変わり始めたのが要因との家永説だが、そも
そも1458年にすんなり鎌倉に入れなかった時点で、既に扇谷上杉と堀越公方
の意見や利害の不一致があったと思われる。
駿河今川家の軍勢の存在が、1458年の政知の鎌倉入りが出来なかった理由と
する説もあるが、従来から駿河今川家は、幕府方であり、政知の鎌倉入りを
拒否する理由は無い。それに駿河今川家は、1460年に鎌倉周辺から撤退をして
おり1462年に政知の鎌倉入りが阻止された事とも全く関係ない。
1458年からの政知と持朝の対立が、1460年の上杉方の敗北でハッキリと表面化したと言う事だろう。 上杉持朝は扇谷上杉家だったのでは?
754の書き込みが理解できないのだが? >>754を修正
政知の鎌倉入りを阻止したは、
持朝(扇谷上杉家)以外の誰が居るんだよ?
持朝が、相模守護なんだぞ!?
それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
次第に疎遠になってきている。特に茶々丸と廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。 結局、全部推測の話だろ。
今川軍は撤退していても鎌倉は焼き尽くされて荒廃していたんだから、政知が鎌倉入りしなかったことと無関係とは断定できない。 >>758
>それと山内上杉と堀越公方も1462年と1470年の2回の古河公方陣営の伊豆攻撃以降、
>次第に疎遠になってきている。特に茶々丸を廃嫡してから、その傾向がハッキリ見える。
堀越公方は、二回の古河公方の攻撃を受けた後は、
駿河今川家への軍事的依存がハッキリしてくる。
もともと堀越公方は、三管領家の一つである斯波家と駿河今川家、
それに伊豆の国人衆(山内上杉被官衆)の三本立ての軍事力を想定していた。
しかし斯波家は内紛でアボン、伊豆の国人衆の動員も上手くいかず、
扇谷上杉との関係にも対立が生じ、結局のところ堀越公方が頼りに出来る
軍事力は、駿河今川家だけとなってしまった。
特に1470年の二回目の古河公方の攻撃は、大規模で、駿河今川家の
援軍や反撃が無ければ、政知は、堀越御所を奪回出来なかったと言われる。
その為に1470年以降の堀越公方は、急激に駿河今川家への依存を強める。
茶々丸廃嫡と潤童子擁立の動きの素地は、この頃からあったと思う。 >>759
八幡宮は、残っているし、
公方邸や管領邸も残っていたり、再建されている。
今川の鎌倉攻撃の後でも、鎌倉には、関東の武将の出入りはあるよ。 駿河今川家の話が少し上で出ているけど
今川範忠が息子の義忠に家督を譲ったのが1460年で、翌年に亡くなっている(異説あり)。
そういったことから、1460年に今川軍は撤退してしまったのだろうな。 それもあるだろうが、
1460年に武蔵太田庄、海老瀬口、羽継原の合戦で上杉方が大敗した事もあるらしい。
あと今川家は、そろそろ遠江や三河に進出を開始する。
それに今川家は、基本的に扇谷上杉と同盟関係に有る。 堀越公方家と扇谷上杉家と駿河今川家の関係も今一つよくわからないことがある。
今川義忠死後、嫡子の龍王丸(後の氏親)がいるのに、堀越公方家と扇谷上杉家が介入して
傍流の範満を今川義忠の後継者にしている。血縁関係から範満を推したらしいが、
それによって今川家は家督相続でもめることになり、伊勢早雲が介入して事を収める羽目に。
本当に却って堀越公方は自らの支持基盤を掘り崩し、混乱させているのではないか。 そもそも京都の足利将軍家の血統を鎌倉公方に
押し込む構想、それ自体に無理があったと言う事でしょう。
足利義教時代から足利持氏血統を排除して足利将軍家直系を
鎌倉公方にすえる構想があったが、それを義政時代に持ち出した事自体おかしい。
しかも堀越公方は、伊豆北部の所領を
ガンガン収公して、伊豆国人衆(山内上杉被官衆)を怒らせている。
その所為で、当初は同盟関係にあった堀越公方(足利政知)と
山内上杉の関係も、以前ほどの緊密な関係ではなくなっている。
茶々丸廃嫡には、家臣団からのかなりの抵抗が有った様だが、この辺が理由だろう。 色々な勢力の利権や力関係が複雑に絡み合って鎌倉入りできなかったんだな
そこが関東戦国の面白い所だけど人気のない由縁でもある この時代の小山家は関東管領上杉に匹敵する力を持っていたからな
成氏が古河に逃げた理由の1つがそれだし この頃の小山氏は小山氏の乱の後なので
関東公方に散々勢力を削減されまくった後と思っていたのだが。
削減後も関東管領に匹敵する勢力を維持していたのだろうか?
削減前だと下野、常陸、下総等まで宇都宮氏等の妨害に関わらず勢力を及ぼしていたのかな?
小山家がそれほどの力を持っていたとは知らなかった。 .
あ〜 なんか古河公方との戦争(享徳の大乱)、ヤル気出ないっす!
by 上杉持朝 >>766
今川義忠は遠江を巡って斯波氏と争っていたが
応仁の乱が起きて斯波氏の内紛に介入したりして遠江を奪取しようとした
しかし斯波氏側についた国人を攻め、帰国途中に残党に襲われ死亡
義忠が攻撃した斯波義良は幕府から遠江守護に任命された正式な守護で
義忠は幕府の命令を無視して遠江を奪おうと攻撃していた
つまり幕府から見れば義忠が反乱を起こした逆賊であり討伐の可能性もあったとされる
その為嫡男の龍王丸ではなく成人していて器量がある従兄弟の小鹿範満を当主にする動き
があり、祖父の関東執事の上杉政憲や同族であり扇谷上杉の執事大田道灌が支持した
嫡男の龍王丸支持側はその動きに反抗し両者は戦い、今川家は内紛を起こす
関東の上杉家の介入や今川家嫡男の龍王丸の生死を心配した幕府や姉の北川殿の
要請により幕府の取次衆であった伊勢盛時(北条早雲)が駿河に派遣される
幕府の使者である伊勢盛時は小鹿範満やその支持者であり大軍を引き連れてた上杉政憲、
太田道灌と談判し小鹿範満に代行させ龍王丸が元服したら家督を返す約束で
解決した
しかし、龍王丸が元服しても家督を返さないので北川殿や幕府からの命を受けた
伊勢盛時が駿河に下向し兵を集め小鹿範満を討ち龍王丸(氏親)に家督を継がせた
この時期上杉政憲は堀越公方の廃嫡問題で自害に追い込まれており、太田道灌も
主君の扇谷上杉定正に殺されてる
ここら同時期に起きており、何らかの関連性があるとされている >>772
関東管領の山内上杉の憲忠暗殺の時も、足利成氏サイドは、
ほぼ同時に管領邸を攻撃して山内家の家宰の長尾実景・憲景父子を殺害しているのに、
糟谷館の扇谷上杉の持朝・顕房父子や
鎌倉在住の憲忠正室(持朝の娘)には、手を出してない。
成氏陣営は、鎌倉のすぐ近くの扇谷側の七沢の砦にも攻撃を加えた形跡が無い。
七沢の砦なんて、その日のうちに行ける距離なのに。
足利成氏は、当初から、扇谷上杉との単独講和を期待していたのだろうか? あんな狭い街で角突き合わせて暮らすなんて
何か起きないはずがない。 .
自民党の古賀とか、マジで要らないから。
【自民】 9月の自民総裁選、安倍総理の対抗馬に野田聖子氏も
… 古賀元幹事長 「安倍さんの自制心を含め、じっくり見させていただく」
http://hope.2ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1421169037/ 江戸川も氾濫寸前みたいだしスーパー堤防にしてなかったら古河城も水没してたのかな http://ninkyou.blogspot.jp/?m=1
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画像を御覧くださいませ!! 古河公方の勢力範囲ってどの辺りからどの辺りくらいまでだったのですか? 【猿の】 五輪、シン・ゴジラ、不倫報道 【惑星】
終戦時の米大統領トルーマン
「猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放すれば、真実から目を背けさせることができる。」
https://twitter.com/toka iama/status/765657758196637696
ヘルマン・ゲーリング
「国民を戦争に参加させるのは、常に簡単な事だ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、
平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしてると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」
https://twitter.com/neko_aii/status/765532497778139138
コンビニでレジ待ちしていて前の高校生
「期末テストの社会で「原発は賛成か反対か意見を書け」ってあったんだよ。だから俺、「反対」って書いたらバツで返された。意見書けってのにバツっておかしくねえ?」
https://twitter.com/guchirubakari/status/759515386014334976
三菱商事の核ミサイル担当重役は安倍晋三の実兄、安倍寛信。これがフクイチで核弾頭ミサイルを製造していた疑惑がある。書けばツイッターで速攻削除されている。
https://twitter.com/toka iamada/status/664017453324726272
「さんまのまんま」9月いっぱいで終了…31年6ヶ月の歴史に幕
反原発、反安倍を表明している芸能人が、片っ端から芸能界を追放される電通によって
サンマ以降のバラエティ芸人の大半が、暴走族出身で極右思想。原発反対派を「放射脳」と嘲笑する連中。
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312