マハシ式のヴィパッサナー瞑想をやる
立ったね
ここ2週間くらいやったりやらなかったりだったけど、
12月に入ってからは毎朝30分、座る瞑想をやってる
これからは毎日記録を書いていくよ 【12月4日 1日目】
座る瞑想30分×2回
さすがに夜の瞑想時は雑念の量がすごい 【12月6日 3日目】
座る瞑想30分×2回
【12月7日 4日目】
座る瞑想30分×2回
いきなりだけど、エネルギーのある無しって大事だよね
この前、知り合いの塾の見学に行ってきたんだけど、
どこも教室に20人くらいいたのに、明らかに教室によってエネルギーの大小に差があった
そしてエネルギーが弱い教室に行った時、なぜか抑うつを発症してしまった
それで後から聞いてみたら、エネルギーが弱い教室は成績の悪い子の集まった教室だった
社会的にどのレベルまで行くかも、頭のよしあしではなく、エネルギーの強さによるんじゃないかと考えてしまい、少し怖くなった 【12月8日 5日目】
座る瞑想30分×2回
いつの間にか腰痛がほぼなくなった 【12月9日〜12月11日 6日目〜8日目】
座る瞑想30分×2回
特にコメントすることなし 【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践5.1スレでは、マハシ式瞑想は効果が無いということで勝負がついたみたいだけど、本当にそうなのかな。 【12月12日 9日目】
座る瞑想30分×2回
>>8
ハーバートベンソンの基準では、これも普通の瞑想法に過ぎないから、「健康法」としての効果はあるだろうね
悟りを開くうんぬんってのは知らないけど
てか、ひょっとしてそれurayasutaroとかいう人とその取り巻きの発言?
宗教板の方は、実際に自分でやるもしないのに騒いでる人ばかりで見ないようにしてたんだけど やるもしないのに→やってもいないのに
もうちょっと語ると、
目的が悟りを開くうんぬんだと、どの方法がいいのかというのは大事だろうけど、
健康法という基準で言えばどれも大差ないんだよね
要は、普段使いっぱなしの頭を一時的に休ませて、ホメオスタシスの働きを回復させて健康になろうって事だから
あと、頭の休息がうまくなれば、頭の体力に余裕ができるから、頭の働きがよくなる可能性もある 【12月13日〜12月14日 10日目〜11日目】
座る瞑想30分×2回
うーん、30分×2回をやめて、1時間を1回にしたいな
というのも、25分くらい(瞑想中は時計見てないので多分)から明らかに違う感覚で出てくるから
ただ、脚が30分で危ない領域になるからなあ・・・
しかも瞑想中は痛みが薄いから、かなりまずい状態になっても気がつかない可能性があっておっかない ああ、そうだ、書き忘れてた事が
ラベリングするマハシ式では、スマナサーラと地橋がいるけど、
よりヴィパッサナーに近い方法なのは地橋だよね
スマナサーラはラベリングを連続させて思考を押さえ込んでる=サマタ瞑想に近い
ただ、健康法としては否定できないし、即効性という意味でも否定できない
でも、これって世にたくさんあるカルトが使ってる手法だよね
つまり、サマタ瞑想をさせる→(させられた人が)気持ちよくなる→信者になる
まあ、ためしに3時間ほどぶっ続けてお経なり真言なりを唱えれば(程度の差こそあれ)この気持ちよさを実感できるかと マハーシのラベリングは補助輪のようなもの。瞑想できるようにする練習法。
マハーシ式は初心者向けで、サティを入れる練習をしているんだよ。
サティが自動で入るようになってから本物の瞑想が始まる。
サマタ瞑想は確かに危険性があるのであまりオススメできん。
だが、ヴィパッサナーするには止(サマタ)が必要である。
慈悲の瞑想なら問題ないだろう。 >>14
文句あるなら書き込まなければいい
この手のスレは人体実験として地味に需要あるんだからな 【12月15日〜12月17日 12日目〜14日目】
座る瞑想30分×2回
これには書いてないけど、ためしに今日1時間やってみた
脚を2回組み直す必要があったけど何とかできた えっと、今日で20日目か
習慣になったらやってることすら意識しなくなるねw ちょっと発見があったので
今日ためしに日常生活にサティを入れ続けてたんだけど、
ふと「ゆ〜っくりとした動作にしたらどうなるんだろう?」と思い、
ゆ〜っくりとした動作にしながらラベリングしてみた
そうしたら、びっくりするくらい平和な精神状態になった
いかに普段、がちゃがちゃした環境で、がちゃがちゃした行動をし、
精神状態が乱高下して疲労困憊してたのかと痛感
座る瞑想より、歩く瞑想の方が精神状態が安定しやすいと気がついてはいたけど、
あれは「ゆ〜っくりとした動作」でラベリングする事にその理由があったんだね
ただ、このゆ〜っくりとした動作でのラベリングは、かなり集中力を要求されるからまだまだ長時間持たない スマナサーラ式ならこちらをどうぞ。
ttp://www.j-theravada.net/4-vipassa.html またまたおもしろいことが
ゆっくりした動作でサティを入れ続けると、ネガティブな感情や妄想がなくなって、
今度はポジティブ(というか、都合の良い妄想)な感情や妄想に支配され始めた
とてつもなく気持ちが良くて、サティを入れるのを忘れがちになるくらい
精神状態も別人のようになって、仙道板の里美氏のようにナチュラルハイといえる状態
スマナサーラが、とりあえず瞑想すれば1ヶ月で元気になるといってたけど、こういうことだったのかな〜と
まあ、ぶっちゃけ、これって躁転だよね
しかし、これ怖いね
怖いものがなくなる
ヴィパッサナーの知識がないと、この気持ち良さにはまって、おかしな事しまくって人生狂わすんだろうな
うつも人生狂わせるけど、行動力がない分まだましだよね
うつでも躁でもない、冷静で穏やかで平和な境地を目指すべきなんだろうね、きっと
>>20
? >>5
因果関係逆でしょ。
エネルギーが弱いから成績悪かったり社会的レベルが決まるのではなく、
成績悪かったり社会的レベルが低いと暗い気持ちになって精神的エネルギーも衰える。 今日で26日目か
今日の朝の瞑想は1時間弱やったんだけど、その後が面白い
まず食事
食事にかかる時間が20分ですんだ
普段は食べてる途中で食欲が失せたり、吐き気がしたり、満腹感が来たりして時間がかかってたんだけど、
そういうものが全くない
なのでばくばく食べられた
しかも、一口に口いっぱい入れているのに、何故か口の中では余裕があった
イメージとしては、一口分の食べ物の周りを包み込むように空気の層がある感じ
だから胃の中に入れても、食べ物外を刺激しない感じだから楽
もちろん、言うまでもないけどこれはただのイメージ(妄想)
ただ、人間ってその妄想で色々な感情が生み出されるから、
妄想だと認識している限りでは良いイメージがわくことに越した事はない
次に目
何故か目をばっちり(というかギョロ目)にしたくてしょうがない
目に力を入れたくてしょうがない
そういえば、体に気が充満すると、余剰分の気を排出するためにやたら目を大きくしてしまうようになる
という話があったけど、関係あるのかね?
瞑想も禅もヨガも気功も、新しい脳(人間の脳)を休ませて古い脳を活性化させて、
脳のバランス、強いては体と心のバランスをとって健康になりましょうというものだし
3つ目にはやる気の向上
何でかしらないけど、何でもかんでもやる気が生まれる(やる気満々というほどではないけど)
例えば、風呂に入るのでさえやる気がわく
ただ、問題が一つ
こういう状態が長続きしない
体が活性化→すごい眠い・・・・→また体が活性化→すごい眠い・・・・
の繰り返し
波がまだまだあるから、振幅幅をもう少し小さく出来たら良いんだろうな 1月4日(31日目)から1時間×2回にしてる
最近は雑念のパワーがすごく、雑念にはまり込む回数が増えてきている感じ。
ただ、どうも雑念の種類が変わってきてるっぽい。
特徴としては
・自己肯定の妄想
・過去のいやな記憶の修正
例えば、自分は物心ついたときから自分の顔に強い否定的感情を持っていて、
「自分の顔がものすごく気持ち悪い顔で、周りの人間は気持ち悪がってる」という思いが強かった
いや、今でもたぶんそう思ってる。
ところが瞑想中だと「違うだろ。そんなにひどい顔じゃなかったのに、自分で自分の顔を気持ち悪いと強く思い込んでいて、
そのせいで自信を失って、気持ちの悪い言動をしてただけだろ」といった思いが生まれた。
そして、過去の記憶からその証拠を自分に見せ付けてくれた。
ただ、瞑想が終わると全てがぶっ飛んで元の自己否定に戻るけど。
しかし、相変わらず長文になると不安定な文章になるな。
紙に書くのとPCに直接打ち込むのとではこうも違うのか。 >>27
何がどう間違ってるのかも言えずに煽るだけなら書き込みすんなよ
毎回毎回そうやって実践してるコテが消えてるんだよ 「効果にこだわりすぎ」「価値判断が著しい」
主観的にすぎるししかもそれに無自覚。
やればやるほど妄想雑念の世界に入ってるよ。
軽く魔境に入ってる。
まあ無視してそのままやってればいい。損するのは自分なんだし。
>>28
あと君ちょっと怒りっぽいね。
多分人生がうまくいかないのもそのせい。
瞑想中だけじゃなくて、日常でも自分の感情にはサティいれるようにしたほうがよい。
じゃなきゃ意味がない。 サティが入ってないのはどちらも同じだと思いますけどね
サティが入って、心に余裕のある人間なら、
>まあ無視してそのままやってればいい。損するのは自分なんだし。
とか
>あと君ちょっと怒りっぽいね。
とか
>多分人生がうまくいかないのもそのせい。
などという発言はしないで、相手に気づかせるような言い回しをするのが普通ですよ
認知療法スレなんかはそれがよくできているので一度見てみたらいいですよ
私もそうだし、ROMしてる人たちをもうでしょうけど、怒りっぽいという意味ではどちらもかわりませんよ >>1の批判してる人って、>>1の過去の書き込み読んでない人でしょ?
認知療法の知識を持って>>1のレス見ると見方が変わるよ え〜っと、みんな仲良くねw
あくまでもチラ裏だし、素人のざれ言を書いてるだけだから >>35
お前、いろんなスレ荒らしてるけど、なんなんだ? 荒らしてなんかいないよ。気をつけてーと言ってるだけ。
非科学的なものには危険性が潜んでいるからね。
マイナスイオンとか、ありがとうというと水がよくなるとか、セロトニンがどうたらとか、似非科学に騙されて
不幸になってる人がいっぱいいるからね。
瞑想なんてのも昼寝といっしょ。リラックスのために昼寝しようぜ、と言えばいいものを、小難しい理屈つけて
わざわざ瞑想なんて言わなくても、ぼーっとしたり昼寝したりすればそりゃ疲れも取れてすっきりするさ。
それだけのこと。 >>37
瞑想は昼寝やリラクゼーションとは違う。
むしろ対極。
目覚めてなければやっても意味ない。
あと、ここはやたら感情的な「認知療法バカ」がいるけど、
そもそも認知療法家自身が瞑想に習熟してないし、ヴィパッサナーは思考の対象化なんて
概念じゃ図れない。まあマハシ式はそういう一面もあるけどね。
おれは認知療法もヴィパッサナーも五年くらいづつやってるが
実際に続ければ、「相容れる点」も「根本的な違い」もわかる。
ヴィパッサナーは表面的な認知のゆがみにアクセスせずもっと深いところから
回復が始まる。っていうか、認知様式自体が変わるから、最終的なところで
認知療法との両立はしがたい。
ここで初歩的なリクツこいてる認知療法バカは、いつも「怒り」に飲まれて自分でも
コントロール不能なんじゃないの?
ヴィパッサナーはおろか、認知療法も中途半端なのはみりゃわかる。 まあ、本当に「おれは認知療法もヴィパッサナーも五年くらいづつやって」たら、
そういう挑発的な発言はしないわな
認知療法スレでのレスをみたらわかるけど、認知療法に長じてる奴はお前みたいなものいいではなくうまく誘導するような言い回しをしてる
そもそも>>1がこなくなったのもお前みたいなのがいるからじゃね?
前スレでもお前と同じように上から目線で話して気持ちよくなりたいだけの知ったかが現れていつのまにか消えたし
実践せずに「俺は知ってます」ならなんとでもいえる。
大事なのは本当に心が成長できているか、ファビョりが少なくなったかがバロメーター。 >>41
だよな
だから>>1以外のやつがギャーギャー言ってもスルーするのがいいんだけど、
その>>1が来なくなったからな
前スレの悟氏と同じで、あきれたのかな? 900 :本当にあった怖い名無し:2010/02/26(金) 17:24:34 ID:kKXS2ASG0
>高橋 賢一 自称プロフィール
>優しく心に響く語り口で、お客さまの気持ちや感覚を大切に扱うため、
>「気が付けば癒されている」との評価を多く得る。
http://www.wholeheart.jp/index.php?%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%B3%A2%E4%B8%80
いつも思うんだけど、2chのキチガイって、
自分で書いたHPのプロフィールに、よくこんな自画自賛を
恥ずかしがらずに掲載すんな・・・・・
2chで自作自演で宣伝してる頭で、
自分のHP書くから、こんな異常なことができる。
まともな人間なら、腹かかえて笑うんだろうけど、
騙されるバカもいるんだな・・・・
901 :本当にあった怖い名無し:2010/02/26(金) 17:32:22 ID:k1gcfKCV0
阿部将英や村上浩樹、松田仁の話題がバンバンでるのに、
同じように書込みされてる「高橋賢一」については
腫れ物でも扱うように、触れようとはしない。
心理学やってるなら、もう少しうまく誤魔化せてもよいものだが、
高橋賢一の経歴が口先だけだということが、
このような些細なことからも理解できる。
心が成長しているかどうかは、いざ災難にあった時に落ち着けるかどうか。
日常ではあまりわかんないねー。 理論は同じなんだから何式でも同じ。
スマさんでも、マハシでも地橋でも
型にはまりすぎないようにすれば良い。
瞑想がうまくできているかどうかは
日常生活でわかる。
あと、スマさんのラベリングがサマタっていうけど
それは
ただ単に感覚を感じ取るのを忘れて言葉が空回りになっているだけだよ。
言葉を唱えるのはサマタだからね。
じゃあマハシ式とスマ式って具体的にどう違うの
認めてないだろ。
認めてるのにヴィパッサナーって言ってんの?
そしたらもう信者騙してんじゃん。 だってそもそもヴィパッサナーの一部にサマタが組み込まれてるんだもの
多分お前は狭義のヴィパッサナーを指してるんだろ ヴィッパサナー瞑想って、つまらなそうなイメージがあるけど、
ちゃんと脳内麻薬出て気持ちよくなれますか? >>51
しばらくこの言葉を忘れていた
思い出させてくれて感謝
精進してないなあ、最近 おう
お互い精進しようぜ
生きとし生けるものが幸せでありますように(^_^) 瞑想の危険性も知らずに「疲れが取れる」とか、アホか。
瞑想は精神分裂病を発症する危険がつきまとう危険な行為だ。
周囲の人々は無知だから瞑想していないとでも思っていたのか?
もう一度だけ言うぞ。
瞑想は、精神に異常をきたす原因となる危険な行為だ。 書評:地橋秀雄『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』
――事実以上に苦しむ義理はない――
http://www.janjanblog.com/archives/16300 2ちゃんねるの危険性も知らずに「疲れが取れる」とか、アホか。
2ちゃんねるは精神分裂病を発症する危険がつきまとう危険な行為だ。
周囲の人々は無知だから2ちゃんねるしていないとでも思っていたのか?
もう一度だけ言うぞ。
2ちゃんねるは、精神に異常をきたす原因となる危険な行為だ。 どこがどうヴィパッサナーなんだと突っ込みたくなる内容
まあ、マハシ式も似たようなもんだけど >>60
ありがとう
アマゾン評は好意的だし、
ネットでゴエンカ氏の蘊蓄を読んだけど(日本語)、
良く理解できたのでビックリした記憶
で、瞑想本にも期待して買おうかどうかと思っているところだったが・・・ ああ、そういう思想重視なら買ったほうがいいかも
やり方としては、マハシ式と同じで勝手にヴィパッサナーと言ってるだけで実際はサマタだけど
ただ、健康法としては意味はある 本当のビパッサナーを知りたい。
そんなものがあるのなら、誰か教えてくだされ。 サマタ瞑想やって集中力を最高潮にした状況で世の中を見る
これがヴィパッサナー
そもそもヴィパッサナー「瞑想」ってのもおかしな話で >>65
先達のお方、もう少しお詳しく。
本物の初心者の私に、お教えを垂れて下さいませ。
という事は、歩く瞑想とかは使わず、座ってする事になりますでしょうか。 >>57
「ヴィパッサナー瞑想では、瞑想を始める前提として、倫理的にきれいに生きていることが必須条件なのです」
とありますが、倫理的な判断が難しい場合はどうしたら良いのでしょうか?
倫理とは、時代や場所などにより変わるものだと思うのですが。 >倫理とは、時代や場所などにより変わるものだと思うのですが。
とりあえずお前の自然法という概念が無いのはわかった 好きな本や勉強等に熱中して、時の経過や空腹も忘れるくらいな状況になることは、
ヴィパッサナー冥想的には、よくないことなのでしょうか? ヴィパッサナーやりながら歩いているとかなり気違いだと思われることまちがいない 風邪ひいて頭痛が酷かったので、布団の中で瞑想して、痛み、痛み、痛み、痛みってやってたけど、痛くて眠れなった。鎮痛剤飲んでやっと眠れた。 ここの閑散を見ていると・・・
ヴィパッサナーも続いてない人が多いのか、ちょっと本とか読んだけど
やり方難しくてそのまま離れていった人がほとんどなのかな〜
自分もなかなか続かないのでね
続かない理由は、やり方がこれでよいのか迷いが多い
本を読んで独学じゃあね
それに実生活での好転も見られないし・・・ さすがに初心者向けのマハシ式で難しいと言ってるならどの瞑想法も不可能だろ
これより楽な方法があると言うかもしれないけど、そういうのはたいてい瞑想法ではなく妄想法だったりする
この前もとあるニートが2年間瞑想を続けた記録をしるしたブログを見つけて読んだけど、
「この世のものとは思えないきれいな場所にたどりついた」だの「過去に付き合ってた女性とイメージの中でまた付き合いだした」だの妄想にどっぷりだったし
しかもそいつが参考にした本を調べたら、そういう妄想を体験するのが瞑想だと書いてるんだよな
瞑想ってのはむしろそういう妄想と距離を置くものだし、
妄想するのが瞑想なら、普段から妄想してるんだからわざわざ時間をとって瞑想する必要も無いわけで 現実世界が変わっていかないとねえ
もちろん、変わる主体は自分(であるはず)なのだが、目に見える現象としては自分を取り巻くすべてが変わっていく
もちろん、良い方向に変わるってことであって、それは、突っかかり、いがいが、ささくれ、隘路のない流れができてくることと言い換えても良いと思う >>82
>現実世界が変わっていかないとねえ
それでわかったわ
お前、やりもしないで文句言ってるだけだ >現実世界が変わっていかないとねえ
もし毎日1時間を3ヶ月ほど続けても何にも変わってないのならそれはやり方がおかしいだけ
実際にやってからそういう管を巻けばいい
まあ、いろんな体験談を見たり、自分の体験からいえば、数日で変化は感じられるだろうけど ありゃ、かぶったか
過疎スレでも上げるとレスがつくもんだな 難しいよこれ
続かない
楽しい気持ちでなんてできない
雑念しかないもん 「自分を変える気づきの瞑想方」Aスマナサーラ著
っていう本です
「雑念、思考は自分が戦う相手、敵だと思った方がやりやすいでしょう。
(中略)瞑想する「私」は敵に負けず、雑念が割り込むたびに
「雑念、雑念、雑念」と三回実況中継して退治してください。」
って書いてあって雑念をなくすことをがんばってたんだけど
わたし、理解し間違えてるのでしょうか・・・ 「退治しろ」と書いてるだけで「力ずくで消せ」とは書いてないでしょ?
そこだけ読んだらそう解釈するかもしれないけど、退治するのは雑念じゃなく、雑念をしようとする気持ちの方
嫌いな虫が目の前を現れたらそれを殺してしまえといってるのではなく、気にするなといってるだけ
大体、雑念を力ずくで押さえ込んだら体の症状となって現れる危険があるわけだし
偏頭痛や高血圧なんかいい例だな ありがとうございます
退治する事と、消すって事の違いが分からないです
雑念を退治してしまったら>>91の「雑念を観察する」事ができなくならないのでしょうか
雑念をしようとする気持ちっていうのも分からない
分からないなりに続けてれば分かるようになるのかなぁ
>>95
あたなもしかして、かなり前に私と遣り取りしたかな?
たしか被害妄想が酷いという人じゃなかった? やってみたけど続かない
難しくて、すぐに飽きる
そんな初心者におすすめの本教えてく 別にマハシのヴィパッサナーにこだわる必要はないかと 健康法としてならどの瞑想法も大差ないしな
一部健康に悪いのもあるけど >>12
歩く瞑想なら地橋もスマナサーラも変わらん
スマ…動きに対してずっと言葉で実況中継する。
例『右足が上がった上がった上がった進んだ進んだ進んだ降りた降りた降りた』
地橋…黙って動きを観察し、動きの最後に言葉で確認を入れる。
例『(右足を上げおえてから)上げた(進めてから)進んだ(降ろしてから)降りた』 >>105 スマ氏は「右足あげる、運ぶ、下ろす」の3つだよ。そんなに連続して言わない。
スマ氏・・・「(1)スローモーションでやること (2)実況すること (3)それを解釈することなく、感じること。」
地橋氏・・・「しかし最初は現在形よりも完了形のラベリングの方がよいでしょう。
「離れる」「着く」あるいは「上がる」「下ろす」…など、現在形では動作の最中
に言葉を付けてしまいがちだからです。感覚を実感する仕事がいい加減な、曖昧なもの
になってしまうのです。
言葉を言いながらでは、よく感じることができません どう違うの?と自分で聞きながら自分でわかってるじゃん
スマ氏はマハシ氏に忠実で、3分割にしてる
地橋氏はラベリングを固定化しないで4つでも6つでもする
この辺、相当前からもめてるから人の多いスレを見てくるといい >>106
スマの直接の指導では『上げる上げる上げる…運ぶ運ぶ運ぶ…』と説明している。
本にも途切れなく実況とある。
まあ、役に立たないやり方だと思うけどね。 本やサイトによって言ってる事違うんだよな
と思って、マハシの本家本元の本を読むと、歩く瞑想だけ特殊だとわかる
特殊というか、適当なんだけどな
そういう型はどうでもよくて、とにかく集中力が切れないように切れ目なく実況するのが大事って事らしい
地橋氏のやり方は他の宗派のやり方の影響をかなり受けて、中心部分を決めてるけど、本来は決めない ヴィパッサナーもいろいろ流派があるけど、
共通している要はサティを絶やさないこと。
仏陀は、起きているときは起きていると、歩いているときは歩いていると、寝ているときは寝ていると知りなさいと言った。
(順番違うかもしれんけど)
結局、ヴィパッサナーとはそれだけのもの。
ラベリングはあくまで初心者がサティを入れるための補助に過ぎない。
修行の初歩が終わり、より微細なサティを入れるためには余計なものになる。
なぜなら言葉は思考なので、ラベリングを入れている間は完全に思考から離れた状態にはならないから。
思考というか、言語を伴った思考だな
言語を伴った思考の暴走を止めるために言語を使うという、一見すると矛盾した方法がマハシ式
ただ、アメリカで色々実験してるけど、ラベリングは感情の暴走を止める作用が証明されてるから効果はあるんだろうな うん。確かにラベリングにはそういう効果はあるだろうけど
ただそれは言葉に一点集中して精神統一しているためで、
マントラと同じく、ヴィパッサナーでなくサマタなんだと思う。
ヴィッパッサナーはあくまで気づきを連続させる瞑想だから、ラベリングをヴィパッサナーと呼ぶことはできないよ。
なのに、ラベリングをヴィパッサナーといって宣伝してる現実 ラベリングは補助輪みたいなもんだろ。
ないのが本来のチャリの姿だしいつかははずすもの。
だけどつけてたからと言って「これはチャリじゃない」と騒ぐほどのものでもない。
大事なのはいかにしっかりこいで目的地に達するか。
最後にはチャリ(方法論)に対するこだわりも捨てる。 >>106
それって、言語野と身体感覚を密接に連動させることになるけど、
他人の洗脳に掛かりやすくなったりする弊害ないの? >>119
もしそうだったとしたら、都合の良い自己暗示がかけやすくなるっていうメリットも
生まれるね。 >>106
>スマ氏は「右足あげる、運ぶ、下ろす」の3つだよ。そんなに連続して言わない。
初期の本やテレビではそういう風に指導してたぜ
というか、あの人指導法ころころ変わりすぎなんだよな >>105
スマ先生に「あがった」とか過去形を使ってる感じで、質問すると
にがにがしい顔をされてしまいます。 /www.youtube.com/watch?v=-BZf4nF8DU8&feature=plcp 瞑想をやるなら、「フォーカシング」を学ぶのが非常にお勧めです。
自己回復のエッセンスが凝縮されたような技法です。
自己の内部、潜在意識下に溜まっている心の傷や痛み苦しみを、
自分で取り除いていくことができます。
自己回復してくためには、「フェルトセンス」というものに意識をフォーカスする事が、
非常に大切な事のようです。それがフォーカシングの一番の核心部分です。
フェルトセンスに意識をあてることで、無意識下に抑圧されているものが顕在化してきます。
それを感じ続けるほどそれが解放されていき、自己回復が進んでいきます。
これは私自身、精神疾患の激しい心の痛み苦しみを自分自身で取り除き、
回復してきた実体験があるので本当です。それなりに時間はかかりましたが。
潜在意識下に抑圧されている痛みを顕在化させて少しずつ解放していった感じです。
ただし、激しいものを抑圧している人ほど、解放過程は過酷なものになります。
また自己回復だけでなく、様々な「気付き」も得られるようです。自己理解も進みます。
自己回復と気付きが得られるので、非常にお勧めです。
フォーカシングとスピリチュアリティ:仏教
http://www.focusing.org/jp/buddhism_rlevin.htm
要するにヴィパッサナーなんだけどな
しかもエビデンスがないくせに医学的っぽいアピールしてる分たちが悪い >>125
なぜエビデンスがないと言われるのでしょうか。
どの変がそう感じるのか理由をお聞かせ願いたい。
フォーカシングは、もともとカウンセリングの中で、
良くなっていく人と良くならない人の膨大なケースを調べた結果、発見されたものです。
地道な調査による沢山のエビデンスに支えられているからこそ、
一つの心理技法として確立したわけです。
そして私自身も実体験からの明確なエビデンスを持っています。
ただ、こういった「心的事象」というのは
他者から確認する事が難しいため、理解が難しいという面はあるかと思います。
実体験や経験則がエビデンスになるってのはおかしい
悦にフォーカシングに効果がないってわけではなく、医学的根拠があるかのように装ってるのが問題という話
漢方薬と同じだな フォーカシングとやら
いたるところにマルチポストされてるな
ぶっちゃけ、ヴィパッサナー瞑想を早く西洋医学的に解明してくれよ!
ってのがこのスレの住民の総意じゃね?
なんだかんだ言ったって「誰でも安全にできる」ことが第一条件じゃないと危ないよ。
その為には西洋医学的な「副作用がある場合の但し書き」とかも必要になってくるわけ。
その点漢方薬や針灸の東洋医学は曖昧な部分が多すぎるから今ひとつの信用をえられていないんじゃね? >>130
ある程度やってるぞ
英文だから見かけないだけで、ゴロゴロでてる
後、西洋医学もそんなに論理的に緻密なわけではない
特に薬学は経験則メイン マハシもゴエンカもサマタ(止)とヴィパッサナー(観)をいっしょくたにしすぎ。
もともと、ヴィパッサナーはサマタで培った集中力を使って瞑想する。
ラベリングは雑念を止めるためのサマタの一手段に過ぎない。
本当のヴィパッサナーは仏陀の瞑想方法からなにも小細工しない
パオの瞑想だってのは常識。
パオではサマタで第四禅定までいかないとヴィパッサナーには入れない。
あと安全を求めるなら坐禅も瞑想もやめときな。
ロックがかかってる脳みそにアクセスしてロックを外すんだぜ?
メンヘル気味の人はこのロックがきついんだ。
外すとショックがでかいからな。
ショックがでかいからこそそれにふりまわされないように信仰心が必要。
だから五戒や八正道を守ることが必要なんだ。
それなしに面白半分にロック外すと精神が壊れちゃうぜ。 そんな5年前に散々言われたことをいまさらドヤ顔で語られても いやだって、いまだにラベリングがどうの…って議論してるんだもん。
もともと瞑想や坐禅は、出家して死ぬ気で「悟ろう」と決意した者の修行なんだから、
病気を治療するとか自分を成長させるとか全く関係ない。
たまたま副次的な現世利益が現れるだけなんだからそれもとめちゃいけない。
しかも「悟った」からってなにがあるわけでもないんだぜ。 >>132
足の裏から脚の神経系統などから大脳まで電気信号が走っているのに
ただ歩いただけでは大脳の進化はありえないとおっしゃるわけですね
猿は二足歩行を経て人間に進化したというダーウィンの「進化論」の肯定に待ったをかける物言いですな
俺は生きているうちも死後も地獄に行きたくないだけだ
人間として智慧を得たいだけだ
それらの望みを破壊するようなことを>>132さんはおっしゃっているのだがその点はどうするのだろうか
メンヘラは生きているのが大事だから、バカはバカのままでいろというのはあまりにも非人道的すぎるのではないか?
その辺はどのように釈明するのであろうか?無論ロックを外して極端なショックを得たいという無謀でもないが >>127
おかしいと感じる理由が述べられてない。
そこをはっきり説明してもらわないと、こっちはあなたが理解できない。
なぜ実体験がエビデンスになるのがおかしいと感じるのですか?
私の考えを述べてみます。
まず証拠(エビデンス)の定義から。
「証拠とは事実を明らかにする根拠となるもの。」
そして、実体験は「実際に起こった現象」の一つですね。
その実際に起こった現象である「実体験」というのは、
ある一定の事実を明らかにしていますね?
実際に起こった現象は事実ですから。
よって、実体験は一つの証拠になるといえます。
ただし、前にも言いましたが、心的現象というのは、物的現象と違って
他者から直接的な観測が難しいので、理解しづらい面はあるかと思います。
だからといって、それは事実ではないという事ではないでしょう。
あともう一つ、フォーカシングが医学的根拠があるかのように装っている
という言説も理由と根拠が説明されてないので、理解に苦しみます。
あなたが何を見て、どんな資料を見てそう思ったのか、
ぜひその根拠を明示して説明していただけますか?
そうでないとこちらも分かりかねます。 >>137
「医学的根拠がないのに医学的というのはおかしい」
↓
お前「おかしいという理由が述べられていない」
どっちが頭おかしいかは誰が見ても一目瞭然だな
>>137
フォーカシングをマルチポストしてる行為は宣伝行為
と思われますが!宣伝行為は嫌われて当然です。
自己回復とかいってますが、どの程度のレベルからの
自己回復かも問題で。
フォーカシングなどは、まだまだレベルが浅い。
根源からの自己変容、そして悟りがであり
フォーカシングとは、レベルが違います。
うつ病のアラハンはありえないでしょう。
フォーカシングで悟れるのですか?
フォーカシングとは、心理面を扱っているものであり、
その程度のレベルないでのことなんです。
ヴィパッサナーとは、自己観察瞑想であり、フォーカシングは、その一部なのです。
ヴィパッサナーの一部がフォーカシングなのです。
ただ、順番、レベルというものがありますので、
まず、単純に、腹のへこみふくらみとか、足の裏の感覚からはじめていくわけです。
あなたがフォーカシングをすすめるというのは、プロセスを無視しているわけで、
修行の邪魔をしているということです。
「瞑想」の話をするから「フォーカシング」って単語使っている人は否定できないけど
一応「マハシ式のヴィパッサナー瞑想」ってスレタイにあるから「仏教系の瞑想だ」「禅的な要素もあるんじゃ?」
って思う人も出てくるわけで…
だから「瞑想」ってスレタイにあるからって神秘主義的なインド要素が入った瞑想や
マハシ式以降に開発されたの瞑想法っぽい話はスレ違いになると思う。
このスレで「フォーカシング」とか安易に使っていると「なんかコイツ違くね?」って思われるから気をつけた方がいいよ
やるなら「マハシ式の瞑想法が仏教経典(お釈迦様直属の言葉)に密接になっているかどうかを話しした方がいいとおもうんだけど
あとは、「お釈迦様は精神病患者の治し方をどのように経典に書き記したか」にスポットを当てて
瞑想できるような方向へ持って行けるようにすればいいと思う。
今ラベリングはつけるのかつけないのかとかフォーカシングとか言っている人はスレに微妙に外れていると思う。
どうせマハシ式を教えている人物がどのように教えるかで決まるのだからラベリングの論議は必要ないと思う。
「今教わっているグルの教えが嫌なら他所当たりな」ってことで 昔の話なんですけど、当時、ネットなどもなくて情報が少なく、道を探しあぐねていたころ、ヨガ指導者の本に「日常生活を修行化する」とか「自分の行為を観察する」とかかいてあったんだけど、
具体的にどうするのか書いてなくて、全然わからなかった。
ラベリングというのは、それらを具体的なメソッドどして、提示したことが画期的なんだと思うわけです。 >>138
お前こそ本当におかしいぞ。
言説がまったくごっちゃになって混乱してる。
しかも自分の論理をすりかえてる。
>「医学的根拠がないのに医学的というのはおかしい」
論理が摩り替わっている。これがおかしい。
「おかしい」とお前が述べたのは「実体験や経験則が証拠になる」
って事についてだろ?それがおかしいと感じるんだよな?
>>127でそう述べているだろ?
だからなぜ「実体験や経験則がエビデンスになるってのはおかしい」と感じるのか
その理由は?って事。
もう一つの問いは>>127で
「フォーカシングが医学的根拠があるかのように装っている」と
お前が決め付けてるものについての具体的な証拠は?って事。
どこの文献でどのようにフォーカシングが医学的根拠があるように装っているのか?
自分の言説の証拠もしめせないで、証拠が云々いいなさんな。
二つの問いは別々だぞ。
一緒にごちゃまぜにして言説を摩り替えて混乱させるな。 >>139
確かにマルチポストはよくなかったですね。失礼しました。
以後気をつけます。 医学的根拠を示せと突っ込まれて何にもいえないからってぎゃーぎゃー騒いでるお前の方がよほど頭がおかしいだろ >>144
すごい馬鹿だなお前。
まずだれがどのレスで医学的根拠を示せって突っ込んだんだ?
俺が言っているのはお前自身の言説の理由と証拠を示しなさいって事だぞ。
議論の流れに無いものを出してくるなよ馬鹿。
俺はフォーカシングが医学的だとも医学的根拠があるとも一切主張していない。
そもそもフォーカシングは医学ではなく、臨床心理学だ。
にもかかわらず、お前が「フォーカシングが医学的根拠があるように装っている」
と主張するから非常におかしいと感じているわけ。
そのおまえが主張している言説の証拠を示せって言っているだけなのに論点ずらすな馬鹿が。
自分の言説の証拠も示せないのに、エビデンス云々言うわ、
論理をすりかえるわ、論点がおかしくなるわ、お前のほうこそ頭がおかしいな。
馬鹿を相手にするとストレスが溜まるので、これで最後にしておきます。 126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/09/30(日) 16:03:35.50 ID:5k3Lrrki
>>125
なぜエビデンスがないと言われるのでしょうか。
自分の言ってることも忘れて発狂してるのか
そもそもそんな頭と混乱した精神状態なのに「これは私自身、精神疾患の激しい心の痛み苦しみを自分自身で取り除き、
回復してきた実体験があるので本当です。」と言ったのは何なんだ?
むしろ一般人より病んでるじゃねえか
エビデンスもない、そして実際効きもしないのはおまえ自身の言動が証明してしまってるんだよ
人に噛み付く前に自分の治療方針を見直せ とりあえず、フォーカシングをやると興奮してひたすら罵倒しかできなくなるのはわかった。 フォーカシングであれヴィパッサナーであれ
なんであれ妄信的なキチガイが布教(普及)させようとすると
必ず逆効果になるよね フォーカシングは、言語を使って自己との会話をするでしょう。
それって、瞑想ではないよ。
ラベリングでも言語を使うけど、単語一個だし、左脳は使われない。
思考を落とし、雑念回路を弱めていくということをやってるのに、
言語を使って自己と会話するようでは、右脳は活性化されないよ。
フォーカシングのような方向性の違うものをもちこまないでほしい。 入院している母のお見舞いに遠方から叔母さんがきて、車で送り迎えしたりして、夜、家で泊まることになり、晩ごはん作ったんですけど、味噌汁にはいってたシイタケが国産のものでなかったことに文句をいわれました。
翌日、駅まで車で送る間にも「私は国産のしいたけしか食べない」といわれました。
こっちは、朝早くから車で迎えに行き、いろいろ移動のために運転し、宿泊も用意し、ご飯も一生懸命つくったのに、スゲー腹が立ちました。
先日もまた来るということで、メールとかしてきていたのですが、もう二度と会いたくもないので、無視していました。
仏教では、慈悲とかいいますが、このような失礼な叔母さんでも許さなくてはいけないのでしょうか?怒るのはおかしいのでしょうか? おかしいとかおかしくないと考えるのが不自然な行動になってると気づくほうが先かと
サマタをちゃんとやらずにヴィパッサナーをいきなりやらせるとこういう迷宮に入りがちなんだよなあ いちいちその程度で腹が立つって、いったいどんなぬるい人生送ってきたんだよ 許すとか と言うより
あ 今 自分怒ってる と気がついているのかな?
気がついているのだけど、許すか
怒っていると気がつくと、それを観ると じっと観ると 消える
なるほど サマタが不足いているという指摘なんだな
怒りに振り回されている
その怒りの固まりを まず止めてみる必要があるのか
止めてそして、それを認識して、観察する
と消える事に気がつく
サマタで止めてヴィパッサーで観て、サティで気がつく
止められないと観れないそうなると、気がつけない
その一連の動作が一度でも出来ると、許すも、許さないも
何も無い 1ちゃんいないのかな?
ぼくちゃんもやろうかな?
地橋さんの本ね、持ってるよ。
あれでいいね。ヴィパッサナーね。 きのうはなかなか瞑想が上手くいかなかった。
水を飲み過ぎて満腹だったからかな。
今日は腹を減らしてやろう。 吸った、吐いた、聴いた、考えた、気にした、吸った、吐いた……
こういう感じで繰り返しました。今日もやるね。 やみくもに長時間やるのは良くないようだね。
思考が暴走して息に集中できなくなるね。
15分ぐらいで休むようにしよう >>159
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
。。。を理解して意識の暴走を それに巻き込まれずに
観察すると良いかも
意識で想起する雑念自体が細かい要素の集合体で
その要素が生まれては消えていくのがわかるようになる
そうしているとそのうちに意識そのものがフラットになっていく >>160
そういうのいらんよ
俺はいいたいことがあったけどあえて黙って見守ってた
この瞑想法を離れた方がいいと本人が気づくまで色々試行錯誤させたほうがいい
そもそも瞑想にお前のような知識偏重のタイプは百害あって一利なし
そういうのはただの宗教だと実践者なら1年もたたずに気づく そういうサティとかの概念にこだわるからみんなおかしくなってるんだよ
ラベリング=サティとかいまだに思ってる奴がいるしな
公式掲示板でも7年やってノイローゼになったとかあるけど、こだわるからそういうドツボにはまる おお、カキコが。みなさん上級者の悪寒…
>>160
仏教的な諦めの気持ちを基本にすると良いのかな。
たしかに「寂しさ」や「諦め」をベースにした
気持ちでいると雑念が暴走しない感じがする。
今は、「吸った」「吐いた」だけを観察してるつもりでも、唐突に
嫌な思い出や人前で演説する妄想とかが始まるような状態。
集中できるのは約10分ぐらい…かな。
>>161
>この瞑想法を離れた方がいい
>サティとかの概念にこだわる
重要な指摘のような気がする…。まだわからないけど。
もう少し続けてみるね。 >>163
メソッドには向き不向きがあるし 禁忌の病気もある
>>164
指導者についたほうが良いですよ
地橋さんお勧め 指導者には絶対付くな
理由はネットでの体験談を見たらわかるだろ
結局はただの宗教になってるし、そもそも地橋は母親の介護のあたりから情緒不安定でおかしくなってる
「自灯明」という言葉があり、またメソッドを書いた書物が腐るほどあるのになぜ誰かに頼ろうとするのか
誰かに頼ってると結局は教祖と信者の関係になって同じところをぐるぐる回るだけだぞ >164
呼吸を観察しているとき、いろいろな雑念がでてくる
じつはこれに気がついて、元に戻る作業が大切だと思える
ありがとう雑念、とも思える サティの一側面として
今の一瞬しか現実は無いと言う事を、知らしめる意味があるように思う。
それがわかると、楽になるとおもう。
サティをかけるたびに、今は安心であり、生きていると言う事を観る事ができるから >160
嫌な思い出が出たとき、それを止めて(サマタ)、そしてそれを観て(ヴィパッサナー)
消える事がわかれば、その思いも変化するものとわかる(それも諸行無常だから)
その瞬間から、あなたをずーーーといじめていたやつが、出てこれなくなる
それに気がついたとき、心に喜びがわきあがる、
そして平坦(不動、ゆらがない、静まりかえった)な自分の心が観測できるようになる >>170
サティでその喜びの向こう側も現れてきますね
>そして平坦(不動、ゆらがない、静まりかえった)な自分の心が観測できるようになる
その通りだと思います 今日は17分ほど。比較的集中できた。
みなさんのカキコを見てイメージできたからかな…?
始めは雑念に「いらない」とラベリングして、
息に集中して調子が出始めてから「考えた」「おもった」とラベリングした。
本を見てみたら慈悲の瞑想というのが載ってた。
嫌な体験の回想などはこれで抑えられるかもしれない。
明日からはこれも取り入れつつ、やってみるね。
>>170
観るのがヴィパッサナーなら雑念に「いらない」というのはまずいかもね。
今はそうしないと引きずられる。まぁ、イジメ体験ですね…。
過去の体験と心の中で闘わないようにする感じなのかな…。これは課題。 観るとき
それを否定もせず、肯定もせず ただじっと観る 私も慈悲の瞑想やってますよ。半年くらいかな。
基本的にスマ氏の教えに沿ってやってます。 過去
過ぎ去ったものに意味は無い
過去を思い出すたびに、自分を痛め続ける
それこそ観てみれば、自分が作り出すまぼろしとわかる
今一瞬が真実
今しか無い
一期一会
これは
仏の教えから自動的に導き出されたもの
未来のことも何が起こるかわからないから
考えても無駄
今を生きる、精一杯生きる、それを続ける
今を気づきつづける
そうありたいとおもう >170
喜びが出たあと、それを続けて行くと
その喜びすらも出なくなってくる。
あれっ?とそれに気がつくようになった。
(はじめはおかしいと思えた)
しかし、それを続けて行くと
苦しみと、喜び、これは根源的には同一の物なので
じつは当たり前の事だ
ということが、わかる様になる。 今日は15分ほど。
やり始めたらちょっと不穏になったので、目を開けて瞑想。
「吸う」「吐く」だけにこだわるとジョギングみたいになってしまう感じがしたので、
途中から弱く静かに呼吸しながら心を観察。まあまあ上手くできたかな。
慈悲の瞑想の文章を黙読して、静かに反芻した。リラックスするような感じ。
明日は30分にチャレンジの予定 早いもので、2013年も4月。新年度に突入した。ますます時間が進むのが速くなる。
このまま、どこに向かうのか?
地球の次元上昇は、着実に進行している。「次元が上昇しているというのなら、
証拠を見せろ」という人もいるけど、証拠はある。
「波動が上がっている」というのが、その証拠だ。
もっとも、「波動が上がっている」と言っても、「ボクにはそんなの、ちっとも
感じられないよ?」という人もいるだろう。
そういう人には、「残念でした。ご愁傷さま」としか言いようがない。
でも、ちょっと呼吸を止めるか静めて、雑念を消し、意識を集中してみよう。
何か、ビリビリ感じられるものはないかな?
そう、それが上がってきた地球の波動なのだ。もしくは、地球の波動に合わせて、
自分自身の波動が上がってきているのだ。何ヵ月かするうちに、ビリビリ感が
だんだん上がってくるから、そのうち実感できるはず!?
どちらにしても、全員がそれを感じ取れるわけではない。
「地球の次元上昇」にもともと興味がなければ、まず無理だろう。
これは植物の生長と同じで、日々の変化は微細なものでしかない。
でも、何ヵ月かすれば、明らかに違ってくる。もちろん、植物と言っても
タケノコとか、ツクシとか、ああいうのではなく、普通の樹木の話。
こんな話を世間の一般人にしたって、笑われるのがオチかもしれない。
「お前は、アセンションを信じ込んでいるのか?」と言われるかもしれない。
でも、まさに、その通りだ。こちらは、アセンションを信じ込んでいる。
それで、何が悪いのか?
そちらも、「このままの地球が続く」と信じ込んでいるのであり、それもまた
一種の信仰なのだから、お互いさまだ。 慈悲の瞑想について
これを各項目ごとに、わき上がる感情を観るという方法がある
慈悲の瞑想はサマタと言われているが
これをヴィパッサナーで観ると言う事を、してみる
言葉で誘導された感情が出てきたとき、それを止めて、観て焼いてしまう
と言う事を続けると、
どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
できる事に気がつく
言葉はよく観れば、空虚であると感じると同時に
色々な自分の言動を観たとき
本当に大切にして
良く気がついて使わなければならない
と言う事に気がついてくると思う。 30分近くできた。瞑目してやった。
無理やり時間を延ばした感じだけど、質は後から付いてくる…と思う。
昨日から放りっぱなしになってた本を読みだした。
ここ2年ぐらい読書欲が無かったのに。これはヴィパッサナーの効果かな。
取りとめのないネットサーフィンも止めてお気に入りを巡回するだけになった。
頭が動き始めたような気がする。
悟る気配は全然無いけど…w
>>181
>どの言葉においても、感情が沸き立たず、同じように唱えることが
>できる事に気がつく
これはちょっと感じています。
あ、あと隣の生活音にイライラしなくなったのも変化かな。昨日気づきました。
嫌な思い出の回想も無いですね。 やはり自分と同じ事が起こっている
これはシステムであり、だれでも同じようにすると
同じ道をたどるようにできている
経典に書いて有るとおりと思う。
今の気づきが増えてくると
心の無駄なおしゃべりが、出てこれなくなる
不安とか後悔とかのマイナスイメージ
出ても薄くなる、出てもすぐ消えるようになる 「気づきの瞑想」で得た苦しまない生き方
という本を読んでみると良いと思う。
どういうルートで変化していくか、事細かく書いてある。 言葉は空虚であると知ると同時に
言葉を大切に扱わなければならないと
気がつくようになる
これは思考と言葉は同じようなものだから >今の気づきが増えてくると
そのうち、それは気づきでもなんでもなく、ただ単に集中力が増して頭が休んでいるだけと気づくから
しかも経典っていうけど、経典では気づきの効果でそんなことおきると書いてない
いい加減、盲信しないで自分の足で歩いてみたらどうだ? 育児中の瞑想はなかなかいいリフレッシュになるわ。
ヴィパッサナー続けていたら子供に腹が立つこともなくなったし
だんだん家庭の雰囲気が良くなってきた。 /plasticdrea.ms/post/47775636426/shnkb-5w2h-taps 【すべては】真・マネゲ【幻】
1 :盥(たらい)らま:2013/05/07(火) 16:35:22.00 ID:/G7q38bP
「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12
ロバート・シャインフェルド著「『ザ・マネーゲーム』から脱出する法」
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/siberia/1367912122/
7 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね:2013/05/07(火) 16:39:19.03 ID:/G7q38bP
色即是糞 糞即是色 です
8 :いやあ名無しってほんとにいいもんですね:2013/05/07(火) 16:44:46.86 ID:/G7q38bP
お金の呪縛から自由になりたいすべての人へ!巧妙にしくまれた、お金の幻想から脱出する法。
だってさ。 >>150
自分のささやかな経験と、ひょんなことから聞いた話などを総合すると、
嫌な相手の幸せを願う方法が一番効き目があると思う。
私見だけど、無視するのも縁を切るどころか縁をがっつり結んでしまうことになって
縁といういうパイプを通って「反撃」が逆流してくるから要注意。
叔母さんの幸せを願ってあげてください。
あなたの平和のために そう思います。無視するとかともかくそういうことを思っていると
体から、なにかキライですよと言うような無意識な
放射が出ているようで、人はそれを無意識に敏感に
察するようです。
幸せを祈るというのは、このものが消えてきますから
難しい事ですが、
これが出来ると、このものを見ることが出来るようになりますから ヴィパッサナーは貯金ができないタイプの瞑想ですね。
サボると頭の中がゴチャゴチャしてきて、ちょっとしたことから
感情の渦に巻き込まれるようになってしまう。
毎日コツコツやって心の仕組みを作り変えなきゃいけない 同感です。
すれば無駄なというか、そういうものが
減っていきますし
その心(感情)を消しやすくなりますから
悟るまではいかなくても、少しでも心安んじて
おれるということは
ありがたいことだと思っています。 おばんです(^^)
自分のヴィパッサナー瞑想のやり方が独りよがりだったような気がしてます。
というのは、嫌な思い出については、息を基本にしてラベリングすることで対処できたのですが、
現在進行形の悩み(職場の女性同僚とのぎこちなさ)についてはまったく対処できない状況なのです。
頭の中がゴチャゴチャして、お酒をたくさん飲んでしまいました。せっかく良い習慣(瞑想)を身に付けられたと思っていたのに…。
ちょっとつらいですけど、ヴィパッサナーを続けてみます。
神秘修行の基礎訓練というぐらいの軽い気持ちで始めたのですが、なかなか厳しいですね。頑張ります。 瞑想で深いところに行っても現実で嫌な事があると一気に吹っ飛ぶよね
瞑想は現実の前では無力なのかもしれん
もちろん大成すれば別かもしれんけど >194
それでもいいのです。またもどれば
心はさまようものですから、気がついて戻れば
なんら問題はありませんから
自分はそう思っています。
しょうがないなと思って
これってよくよく考えたら、瞑想とか関係なくて
当たり前のことのように思えるのです。 >195
つらい毒矢に刺さった状態で、観ても抜けないとき
それに何か追加の矢がエネルギーを供給している可能性があります。
その瞬間身体を観てください。
肩に力が入っているとか、呼吸が浅くなっていると
なっていませんか?
観ればそれ消えませんか? またいつものがわいてきた
実践してないのバレバレなんだよなあ・・・ 耳栓を買ってきましたよ。
これで少なくとも外界の音に注意を削がれることがないので、
しっかり、息と感情を観察できそう(^^)
まだまだ始めたばかりなのでこういうのを使うのも良いかなと。 この瞑想法はマハシ式のヴィパッサナー瞑想でしょうか
ttp://www.amazon.co.jp/dp/4799102486/
やたらとイメージが良さそうな瞑想法です… ヴィパッサナーではない、ヨガ系統だろう
ミャンマーで尼になりましたを推薦 >>201
それは、瞑想法も書かれているのでしょうか?
四コマ漫画エッセイ集と銘打ってあります どのくらいのレベルで求めているのかわからないので
先ほどの本を読んでみて(アマゾンプレビュー)
判断しました。
一番優しいというか、根本の部分が(戒の土台の上に定がきてその上に慧が
出てくるという理解がとても重要であることに気がついてほしい)
(戒の重要性)
わかりやすいので、書いてみました。
マハシ式 瞑想法自体としては地橋、スマナサーラ、
を検索すれば出てきます。
その根源としては、マハシ長老のミャンマーの瞑想法がその土台に
なっています。
どこかの1日説明会くらいから、始めるのが
適当と思います。
ただこの手のものは変なものも多いので慎重に >>201
オススメのミャンマーで尼になりました、買って今読んでるところです。
なかなか面白い。初心者にはわかりやすくていいですね。 ヴィパッサナーの修行方法については
次の天野和宏さんの、ブッダの娘たちへをお読みください。
終章にやり方を書いてあります。
ミャンマーで尼になりましたと見比べて見ると良いでしょう。
この人はいつか位の高きよき観る人となると思っておりますので 畑違いとは思いますが、ヴィパッサナー瞑想が合わない場合は
アーナパーナ・サティなどの瞑想法に切り替えた方がいいのでしょうか
歩きながら「右足、左足…」と観察しても今ひとつ賢くなった気がしません
座る瞑想も立つ瞑想もやる気になれないし、長続きしなさそうで困りものです
そもそも私がヴィパッサナー瞑想に向いているかどうかというのは
A・スマナサーラ著「ブッダの実践心理学7 瞑想と悟りの分析(サマタ瞑想編)」において
それ専用の比丘がきちんと見ないと駄目なようなのです
そういう意味でもどういう人がどういう瞑想法をしたらいいのか、
わかりやすく指導して頂ける方がいらっしゃらないかどなたかご推薦お願い致します
長文失礼 聞くまでもない
最初の集中力をつけるレベルでは効果はどれも変わらんから色々試行錯誤したほうがいい
自分は結局は数息観(アナパナの亜種)に行き着いたし
ただ、このスレもそうだけど「自分のやってる方法が絶対だ」みたいに考えてる人が多くて絡まれる可能性があるけど気にせずに
ちなみに、マハシ式もマハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)とスマナサーラと地橋ではやり方が違う
このことすら気づいてない人がネットには多い >>207
> マハシオリジナル(日本語版は世界平和パゴダが本を出してる)
新装版はアルマット、昔のは国際語学社が発行しているようです(大元は国際語学社ですが)
もし、スマナサーラ長老と地橋さんではなく、世界平和パゴダの瞑想法を忠実に教えている比丘がいるなら
日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
「ミャンマーの瞑想」という本でも結局は「師を求めるべきである」と独学を敬遠している様子なので
その点でお勧めの長老がいらっしゃったらよろしくお願いします
(それでもスマナサーラ長老の書籍は結構面白かったので今も買っています) >日本人だとどういう人でしょうか(東京にいらっしゃいますか)
あそこで学んだ人(井上ウイマラとか)は知ってるけど、教えてる人は見たことないな >>209
ありがとうございます
…そうすると、「ミャンマーの瞑想」オリジナルのヴィパッサナー瞑想を教えられる人は日本では皆無に近い状態で、
スマナサーラ長老や地橋さんの教え方が幅を利かせているのも当然かもしれない
そういうのってマズイ気がするのですが…
まるで「その本を読んでうまくいかなかったらミャンマーへいってください」とか
「ミャンマーの瞑想にある長老たちの名前を訪ね歩いてください」とか
「日本人は真のヴィパッサナー瞑想は教えられません 言葉の壁があるから」とか結論が出てきそうで怖いですね
あと10年はミャンマーが日本と安定した交流を結んでいる間、「ミャンマーの瞑想」は空白状態でしょうか…
寂しいです そうすると、>>201で「ミャンマーで尼になりました」という書籍は関連書籍として有力かもしれない
ひょっとすると書籍に僧侶の名前が書かれていたり、僧侶の指導がそれとなしに書かれていたりするのかもしれないから
「ミャンマーの瞑想」独学のお供に僧侶の代わりにつとまりそうな気がする
それでも今までスマナサーラ長老の書籍を好んできた身としては慎重にならざるを得ない 日本の座禅でも悟った人沢山出てるし
ヴィパッサナー瞑想とか手段よりそのひとのやる気が1番重要なんだろうね >207
試行錯誤すると言うことは
その通りとおもいます
はじめは何でもやってみるってことで
合わなければやめればよいだけですから
206さんへもしかするとらべリングの罠に
落ちているかも
東京近郊なら山下良道師がいます。
ブラユキ師の来日は秋でしょうし
ただ思うことは 気づきというのは
何を自分にさせようとしているのか
ということです。 >>214
ラベリングの罠というと、
「ミャンマーの瞑想」では「歩いている、歩いている」「右足が歩いている、右足が歩いている」
「左足が歩いている、左足が歩いている」ですし、
A・スマナサーラ長老だと「右足、上げます、運びます、下ろします、左足、上げます、運びます、下ろします」
と結構違いが大きいようです
こういうのってどうしたらいいの?と
小池龍之介さんですと「右足、左足」とそれぞれの足が動いている時にラベリングして観察するようです
こういうのは「ミャンマーの瞑想」に原点回帰してうまくできないものでしょうか? >>215
そこも試行錯誤
結局のところ、指導者はみんな試行錯誤して自分に合った方法を見つけただけなんだから
問題は、それを一般化してしまったこと
過去形だろうが現在形だろうが現在完了形だろうが自分にしっくり来るのをやればいい
もしくはラベリングをやめるって手もある 歩いていると言っても
意味が違うんです
たぶん 念ずるのは文字じゃないんだと
おもうのです。
まさかみぎともじでいっているのでは
ないですか? サティは微細に高速になってくるので
文字では駄目のはずですよ ミャンマーでの尼僧修行記
鳥頭紀行 くりくり編 西原理恵子編
ミャンマーヴィパッサナー瞑想修行記録
(3年修行した尼僧の記録の半年分) ミャンマーが熱いな
マハシ流観法が「ミャンマーの瞑想」で紹介されて主流になったからか? 取っつきやすいからです。とくに歩くってやつ
自分もこれならできるかで始めました。
ウォーキングが現在流行していますが
これを歩く瞑想に切り替えると、様々な道果を得られるように思います。 >>223
座るのはキツいけど歩くのは取っつきやすい
さらに、道果が得られなくとも、有酸素運動による体力維持にはなる
走るのと比べて苦しくない >>221
これ連載始まったときから読んでたけど、オチがおかしいんだよね
サマーディーに達したときに「間違った方向に進んでしまった」だの「実は自分のやってることはサマタだった」だの
少し仏教について調べれば間違った方向でもないし、初期段階でサマタもヴィパッサナーもないとわかるのに
もしかすると本をまったく読まない人なのかもしれないけど じつはこの3人の体験から、逆に分解して問題点などを
洗い出し、分析してみた。
3番目の体験については、一応真実として判断している。
どのような人物かは、わかっているが、消息は不明
事実なら超一流のシャーマンの素質がある。
最後の話はおそらく無色界を見ている。
しかしこの瞑想システムは、精緻にかつ広大で
おそるべきもの
またシステムであるので、そのシステムに
従えば、だれでも、絶対に進む事ができるように
組み立てられている。(とうぜん限界はあるが)
日本の大乗仏教は、この視点が欠落していると
思っている。瞑想から逆に経典をみていると
全く違った視点が現れてくる。
実は戒がとてつも重要であると判断している。 >>226
いや日本の大乗はそれはそれで完成されてるんだよ
悟った人をかなり排出してるし
ただ人によってあうあわないがあるので色んな方法論が出て来る
そして上座部と大乗に別れたんだよ
どの国の仏教も形骸化してなきゃ一心不乱に打ち込めば悟れるよ
方法論を追求していくと結局は学者になって終わるだけ >225
元々は全くの門外漢が旅行のついでで興味で始めたのだから
仏教瞑想のシステムの理解などないだろうし
外国であるから、それを知ることもできない
惜しいことだ
あの後2年半やったらしいのだが
おそらくそれとすれ違った記述らしいものがあるが 無色界を見ているのなら
その前に色界4禅を
駆け上がっているはずなのだが
その記述が無いというか、気がついて
いないのかもしれない。
ともかく初禅を形成すれば、修行は進む
この一段前の近定行でも
アラカンになったという話があるくらいだから
では初禅状態とは、これがよくわからない
一応初禅状態になり、そのときのサマタの集中力を
観察方向に変更したのが、お釈迦様の
システムだろうとおもっている。
観察部分は6門を観察していると推定 初禅の前にどうやってその領域にたどり着くかが
問題なんだろうとおもう。
思考を停止させろという
おそらくサティで心を覆い尽くせば良いのだと考えた
思考は出ようとしても、サティが邪魔して出れない
結果的に思考は停止する
ではサティとは何かという問題になる
心は常にさまよっている、とりとめも無く思考している。
こいつを停止させるには、気づきをずーーと
流し続けるしかなくなる。
しかし気づきと、気づきの間に隙間がある。
思考が出てくる寸前まで時間があるので、その隙間がみえてくる
またサティを流し続けると、思考自体が発生しにくくなる
どこかで隙間というか、その領域を捕まえれるかどうか
ここにサマタの力がいるはず
つかまえたらその領域を広げていく
その領域は安定して、動かない、静かな、領域
こいつが必要なんだと思う
この領域が知覚できると、こんどは思考が出てくる時がみえる。
そうなると心随勧ができたことになる。
問題はラベリングだ、右足とラベリングしてしまうと、右足と思考している可能性がある
そうなると、サティでなくなるから、いくらたってもわからない
ラベリングも使い様だとは思うが、この微妙な違いを認識する必要があるとみている。 戒の重要性はここでも出てくる 戒を守ることは心に雑音となる思考が減ってくるからだ 禅でいうところのいわゆる経行、キンヒンは元々はヴィパッサナだったんだろうか。禅でもキンヒンの時にサティを入れたりするような行はあるのかな? 大乗の禅のことを言ってるんだろうけど、そもそも修行中にサティを入れないわけで >>232
サティは単純かすると数息観だから
あるよ 数息観がsatiになるな そう
数息観も間違えるけど
間違いないように努力すべきなんだけど
その間違ったときが重要なんだろう
とおもうよ >>232だけど、いわゆる坐禅での数息観がサティとしても、経行は歩行のヴィパッサナかと思ったんだよ。
というよりもともとヴィパッサナだったものが様式化したんじゃないかと思ってね。
天台の常行三昧とかも案外元はヴィパッサナから来てるのかもとか。
ところで臨済の公案禅はサマタになるのかな。 根本はおなじだから 狙いはみなおなじだろう
あじ観もおなじだ
瞑想による変成を誘導すれば
理解がふかまるよ
ミャンマーで3年のひとの5カ月にあらわれている 頭良くなりたい
けど、瞑想がこんなにも複雑なものとは思わなかった
取っつき悪そう
お坊さんの説法書籍だけ読んで面白がっていよう 瞑想は集中力をあげるものみたいだから
まあなれないなら無理にしない方がよいよ
一切行苦くらいは、3分で理解できるから
諸法無我はまだ分らない
人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によるとサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の
実践メソッドがある
それから導かれる所行無常が理解できるようになるが > 人によるけど、5分でわかる心髄観の実行によると
5分で語られても理解力がなければ何年経っても理解できないかも
そう思うと苦しい
てか、3分で理解できるとか一体… 隣の人にやってみるときくと
宇宙兄弟を見るからに
忙しいといわれた >>237
ちょっと言われている意味がわからないんですが、3年? 静かなところで
目を閉じて 息を ふくらみ ちじみと
観ていってください
ゆっくりと 長く息をかんさつしてください
それでわかるはずですが
そこにある苦を観て >>237
師にちゃんと付けば あじ観 だけでも悟れるらしいね 調子が狂ったときは慈悲の瞑想が良いですね。私が幸せ〜というやつです。
もう10日ぐらい経ちますが、心の反応がマイルドになります。
電車の中でも歩きながらでもできます。
なんだかんだ、自分の場合はここからかな、とおもいます。
心の荒みを取り除くのが最優先事項です、いまのところは。 人の顔色を気にして、憂鬱になるといったことが無くなりつつあります。
自分が幸せにならないと他人も幸せになれないというのは自分の中でパラダイムシフトになりました。
あと、まだ短期的ですが、欲しがらなくなってきた感じです。食事量が減りましたし、
モノも買ってないですね。ニュースもあまり見なくなって、ゴシップネタは
一切見なくなりました。心がシンプルになってきたのかな。良いか悪いかはまだわかりませんが。 >>244
そういう話はよく聞くんだけど、ではその悟ったという人が本当にいるのかという疑問もある。いつも伝聞型だからです。
そういう人を具体的に知っているんですか?
その方の話を聞いてみたい。 >247
自分も同じです。こころが静かと言うか
揺れない、そうなってくると心の雑音というか
色々な考えが減ってきます。
結局戒の重要性に気がつくのです。
正直な生きざまとでも言うものの大切さです。
戒の上に作られる定力を考えたとき
この雑音が少ないことは、定力の上昇を
容易にするようにおもいます。
よしんば、終着点に到達しなくても
そこには立派なよき人が現れるはずですから 戒ってネーミング、誤解招きやすいよな
一般的な宗教の戒律、要するに「問答無用で守るべきもの」と解釈されてしまう
実際は「やってもやんなくてもいいけど、やった方が瞑想はかどるよ」くらいなものなのに >>247
有名人だと
山岡鉄舟とか良寛とか
今だと
原田雪渓とかかな
日本は悟った後も静かに目立たないで生きるのが美徳って感じがあるから
表に出る人って少ないよね
その逆がスリランカの坊さんかな
悟る事よりもガンガン海外に出て布教して相手を論破して地位を築くことを重視してる感じかな 久松潜一とかね。
247だけどw
内証はなかなかハタから分からないしただの妄想かもしれないしね。
しかしこのことを突き詰めても不毛な気もするしどうなんだろう。 個人的には上座仏教は未だ日本に定着していないから
例の長老にはもう少しロビー活動のごとく冊子を刷っていろんな角度から説法して欲しい
信者に檀家になれとかそこまで定着することを要求しないから
せめて瞑想法やお釈迦様の教えで心理的な悩みなどを解決できる話を日本に残して欲しい 今の上座部は日本と大差ないレベルで腐敗してるからいらんわ
アメリカ経由の新仏教の方がまだ使える >>253
そうなんだよねw
上座部を隣の芝生は青いと思ってこれこそ本物って言う人多いよね
でも結局あちらでも色々問題が沢山あって腐敗してるし分裂してるしね それは向こうに修行に行ってる人もよく言ってるよな
佐藤哲朗はそういうのを暴露した奴に絡んでたけど しかし瞑想については1日の長が上座にあると思うな 何か結果が出てくるのは強い 問題はどのくらい素人受けできて効果がある瞑想法が発見できるかということと
お釈迦様の言葉をどのくらい広めることができるかだと思う 簡単な瞑想法は考え作って
一応何人も試したよ
結果
きつねにつつまれたような顔をしていたけど
理解してもらえた >>258
え?あるの?広めてくださいおながいします
って安全な方法ですか? それも重要
A長老はそれで信頼を勝ち得ている(たぶん) >154
から
>177
に書いてあります。
あまりにも簡単で、拍子抜けするかと思いますけど 一日何回も瞑想してる人いるみたいだけど、毎回毎回腹式呼吸で呼吸整えてから瞑想に入るのですか? 歩くとき、立っているとき、食事をしているとき、トイレに行っているときなど
最終的には、すべて瞑想になります。
一度やってみるとおもしろいと思いますよ
satiをしていることは、広義の瞑想だと思っていますから
やってみてわかることは、思考が出てこれなくなって
静かな心がずーーーーーーーーーと現れてきます。
これって涅槃寂静への道にみえてしまうのです。
satiをすることは、こころがsatiで埋められて
自動的に静かな心が現れますから >>262
でもさーこれってよく日本の武術や禅などでいわれてる
ずっと丹田に意識をおいとく
と同じだよね わたしも少林拳をしておりましたので、そのことはよくわかるのです。
師より残心ということばが残っております。
おそらくその意味するところは同じと思います。
同じ見解です。
また、茶道とか作法、所作においては
実はSATIを入れていけば、結果的に
そうなります。
その禅的な心の作り方は、satiと全く同じものとの認識です。
残心については千利休が
何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
この所作はsatiそのものとの認識です。 >何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ
>(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)
よい言葉だね 茶道において侘びとよくいわれますが
この侘びも涅槃寂静に通じるとの
記述もあることからその共通性を
うかがい知ることができます
この境地を作る方法として
sati気づきがあるようにおもえるのです >154
ここにあるじっと観るということについて
こういうものを偶然見つけた
瞑想とは自分の心身に起こっていることを、それが自分にとって好ましいことであれ、不快なことであれ、リラックスしてそれを認知し、じっとただ見つめることをいいます。
これはアシンテジャニヤ師の言葉です。 ★サングラスをかけてプライベートジェットで移動、タイの僧侶に批判 AFPBB News2013年06月19日10時47分
http://news.livedoor.com/article/detail/7779908/ 欲界における瞑想の段階
(1)粗住または粗定
一つの物事だけに集中して、雑念と闘う段階
(2)細住または細定
一つの物事により深く集中する事です。
(3)欲界住または欲界定
意念が安定した後、身体に様々な感覚(感情と感触)が出てきます。
(4)未到定または来禅
次の瞑想の少し手前の段階です。体のいろいろな感覚が薄らいでいくと同時に、軽くなり、良い気持ちになった状態の瞑想です。 なぜ動作を観るのか?
感覚として視覚聴覚など6門と呼ばれる入り口があるのですが
この身体的感覚、接触しているなどの感覚は、最も受想行識の
受の段階で止まりやすいのです。
視覚などは一気に識まで行ってしまうので、じつはまずいのです。
一番行きにくいのが、身体的感覚であるというのは、ちょっと考えてみると
よく理解出来ると思います。 自分ではラベリングを使わなくなってきました。
この理由は、先ほど書いた理由に寄ります。
右足とラベルしたときに、もう認識まで行ってしまうのです。
でもラベリングという考え方は、はじめてこれを行うとき
どうやるかと言うとっかかりがないので、まず意識させる
と言う面からは、優れた方法なのです。
じつはこの事は、この先に現れる重要な問題を意識させることになります。 タイ(テーラワーダ仏教)のベジタリアンとは?(156号)
http://column.chaocnx.com/?eid=967325
タイにいると「私は今日ジェーだから」という言葉をよく聞く。
ジェーといえばベジタリアンという意味だが、
敬虔な仏教徒の中には仏日(ワンプラ)や仏教の大切な日、
誕生日「病気が治りますように」と
願をかけた時などにベジタリアンになる人がいる。(中略)
ベジタリアンとひと言で言ってもいろいろある。
肉を食べない人、卵や乳製品を口にする人、しない人、魚だけは食べる人、
皮など動物のものを身にもつけない人など様々で、
タイでは「ジェー」と「マンサウィラット」という言葉を使っている。
2つの単語を混同している人もいるが、実は使う素材が大きく違ってくる。
どちらも肉・魚を食べない、調味料に肉が原料のものを使わない
ということは同じだが、「マンサウィラット」は卵や乳製品を食べてもいいが、
「ジェー」は卵と乳製品の他、匂いの強いものも口にしてはいけない。 ■ウ・ジャナカ長老によるヴィパッサナー宿泊冥想会★
http://www.j-theravada.net/vp0106.html
>会場となる穂高養生園は、ホリスティック医学に基づいた保養所で、
>お食事は[玄米菜食]となります。豊かな自然に囲まれながらの瞑想会です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■ミャンマーのヴィパサナー瞑想道場とテーラワーダ仏教大学
http://hachisu-net.com/issei/doujou.html
>セヤドー(長老)が菜食主義のためか、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>菜食の食事がおいしいことでも有名である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>そのためか、ミャンマー人女性にも大変人気があるセンターで、
>瞑想修行者の約7割が女性であった。 >>280
そうそう、なるほどね。キミの言いたいことはわかった。よく頑張ってるやないか!
…ということはね…
神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em
キミの今後に期待してるよ。その調子でね。 ゴエンカ師による教えは、もちろん仏教の教義に違いありませんが、
ヴィパッサナー瞑想テクニックの伝授という位置づけなので、
宗教の壁を超えてキリスト教、ヒンズー教、イスラム教等の信者にも
広く門戸を開放しています。
ヴィパッサナー10日間コースのメニューは、
4時に起床して、4時半から21時までの間に約10時間瞑想を行います。
食事は、菜食で1日2回です。また、10日間を通して、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「聖なる沈黙」を守らなければなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本ヴィパッサナー協会
http://www.jp.dhamma.org/Dhamma-Bhanu-Open-House.1489.0.html?&L=12 【これは意外】瞑想が躁病やうつ病の引き金になる可能性ありと専門家が警鐘
ttp://irorio.jp/sousuke/20150526/232000/ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヴィパッサナー瞑想(初日/オリエンテーション)
http://ganesha.dreamlog.jp/archives/11699.html
オリエンテーションのあとは、食事。
カレーピラフとローティー。
ここでの食事は菜食なだけではなく、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
刺激の強いタマネギやニンニクは入っていない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
油や香辛料も控えめ。心落ち着けて瞑想に入りやすいメニューが
考えられている。
------------------------------------------------
酒肉五辛(酒、肉食、ニンニク、タマネギ、ニラ、生姜)を
手にしてはならない。口でかんではいけない。
手にとって口でかんで念仏を称えれば、
手と口に悪瘡(=悪性の腫瘍)ができるだろう
仏教経典 観念法門経より 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:c70c250dd91bb29f505857436e0bc8bd) 「怒りを含んだもの(肉食)を食べない」〜ティクナットハン師が導く食事瞑想法
http://www.el-aura.com/2014042004/
by グーグル瞑想講師 ティグ・ナット・ハン 内容はともかく、まじめなスレは伸びないな、個人救済はこの道しかないんだけれど。
世の中なんてこんなものだ、釈尊の言うとおり。 生きとし生けるものが幸せでありますように。
これはとても素晴らしい言葉で素晴らしい祈りだと思うのですが、この現実を考えた
場合、いったいどのような状態が「生きとし生けるものにとって幸せ」なのでしょうか。
皆さんはどのように考えますか?
人の目に見えない小さなウィルスから、鯨や象のような大きな生き物まで、全ての生物は
他の生物の命とその体を奪って自らを維持成長させようと生きています。
弱肉強食です。但し人間のように必要以上に多くを捕獲して、貯蔵したりはしません。
相手を食べ、そして自分も食べられるのが多くの生物の宿命であり、自然の循環とも
言えます。ですから人間が安易に保護したり、手を加える事は不自然であったり、
本当の意味で「幸せ」とは言い難いことでしょう。
弱い生き物が強い生き物に食べられ短い生涯を終える。
人間的に考えると、この状態が幸せと言えるかどうか難しいところです。
生きとし生けるものが真に幸せとは一体どのような事でしょう。
そしてそんな事は、成立するのでしょうか。 世界観の前提に輪廻転生がありますから、生命現象の捉え方も
今回のこの一生だけを見ているわけではないのだと思います。 少なくともAさんの人生は今回のこの人生だけでしょう。
植物や動物も同じように言えるかもしれません。
ですから「今回のこの一生だけを見ているわけではないのだ」と
言われても、シックリきませんが・・・。 >>293
仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
欲界で生きることはもともと苦しみなのです。
慈悲の瞑想の目的は、心に慈しみの念を起こし、慈悲の念で満たし
慈悲の念から出発して、身口意におけるすべての行いを為すことに
あるはずです。 >>296
>仏教が提示する真の幸福とは、解脱です。
>欲界で生きることはもともと苦しみなのです.
そうだとしたら、それはこの現実社会からの逃避や否定でしかありません。
幾ら慈悲の瞑想を行なった所でこの現実の流れを変えることはできません。
この世が苦しみなら生きる価値が無いという短絡的な考え方にもなり兼ね
ません。
この欲界で生きることは苦しみだと断定する事は間違いです。 >>298
仏教とは要するに四諦のことです、と言い換えることもできます。
しかし、世の中の人は皆がみな解脱を望んで出家修行者になる
わけではありませんから、お釈迦さまはそうした在家の方々にも
この世で幸福に生きる道を示されました。
仏教は世間諦、出世間諦という二階建て構造になっています。
世間向けには世間の人が理解できる、世間の真理を語ります。
一方、出家して山寺で修行に励むような人々が学んでいるのは
出世間の真理、解脱の智慧です。
主に瞑想修行を通して到達するものです。 >>299
瞑想修行によって到達を目指す先は解脱。
でも解脱を果たしたら、二度と人間に生まれる事はありません。
六道輪廻から解き放たれます。
でも本当にそれでよいのでしょうか。
この人間世界は苦に満ち満ちているかもしれません。しかし
苦とともに楽も美醜も善悪も、ありとあらゆる物が渾然一体として
存在し、苦として捉え生きるも、素晴らしい学びの世界として生きる
も皆夫々自分の自由です。
この世が苦ならば、そして人間としてそれを知った以上、多くの苦にあえぐ
人の抜苦与楽と自身の魂の向上の為に何度でも生まれ替わって生きるのが
人間の目指す方向ではないでしょうか。
世間から離れ出家修行でひとり解脱を目指すのは見方によっては
人間としてあまりに「自分勝手な生き方」ともいえましょう。 解脱できても出来なくても、六道輪廻があろうと無かろうと、
心が我々自身を操縦しているわけですから、
心をコントロールする訓練である瞑想は、とても有益だと思います。
瞑想の智慧にも段階があって、これ以上悟りが深くなると涅槃して
しまう、それ以上進まなければ輪廻世界に留まる、という分岐点が
あるそうです。
涅槃せずに菩薩としてこの世に留まりたいと願う人は、ヴィパッサナー
十六観智の11番目、行捨智(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が
止まるそうです。
大抵の人は心に振り回されて生きているから、不自由を感じ、苦しむ
わけなので、ある程度、智慧を育てておくことは、この世で生きていく
うえにおいても有益なはずです。
そもそも、智慧がなければ菩薩行もおぼつかないでしょう。 >>301
>瞑想の智慧にも段階があって、これ以上悟りが深くなると涅槃して
>しまう、それ以上進まなければ輪廻世界に留まる、という分岐点が
>あるそうです。
>涅槃せずに菩薩としてこの世に留まりたいと願う人は、ヴィパッサナー
>十六観智の11番目、行捨智(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が
>止まるそうです。
ヴィパッサナー瞑想を行なうと「バンガ」というある種の「悟り体験」を経験し、
更に瞑想が進むと「ソータパンニャー(流れに入る者)」と云われる段階に至ると
言われます。
そして、カカダガーミィー・アナーガーミィーの段階を経て、
遂には
アラハンに至る。そして更に究極の真理を体験して
アナーサボーとなると聞いています。。
>>301で紹介されている
それ以上進まなければ輪廻世界に留まるとか、十六観智の11番目、行捨智
(行道智見清浄)で自然と悟りの深化が止まるとかは、どんな本に書かれて
いるのでしょうか。或いはネット上にあるのでしたら、そのURLを教えて
頂けると有難いです。 ミャンマー上座部のパオ系で聞いた話です。
「行捨智 菩薩」といったキーワードでグーグル検索すると、この話題に触れた
記事を見つけることができます。
例えば、このブログ記事などです。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2014/02/03/151656
その他、周辺情報は菩提樹文庫およびそのリンク先に詳しく掲載されています。
簡単に補足説明しますと、
悟りの階梯、四向四果において最初の悟りの段階である預流果に達すると
最大でも七回生まれ変わるうちには阿羅漢になってしまうので、菩薩として
この世に留まるためには、その手前で踏みとどまる必要があるのだそうです。
その段階をヴィパッサナー十六観智に対応させてみると、行捨智(行道智見
清浄)に相当するということのようです。 >>303
お教え頂きまして有難う御座います。
坐り瞑想している諸氏にお尋ねしてみたいものです。
「アナタは本気で解脱したいのですか?」と。考え方は人夫々ですから
他人の生き方をとやかく言うことは出来ませんが、この世の苦を知り、
多くの人が苦によって苛まれた人生を送るなら。
その苦を少しでも軽減し、苦に人々の手助けすることこそが、人間と
しての務めではないでしょうか。
自分ひとり「解脱」してしまって、「後はよろしく」ではあんまりではありませんか。
坐り、バンガを体験し、生まれ変わり死に変わり、人々の抜苦与楽に尽くして
こそ人として「あるべき姿」ではないでしょうか。 自分と他人との区別があるのは、肉体ごとに自我を区切った視点から見た場合の見え方で
心の本質の視点からみると、本質的に自分と他人は繋がっていますから
自分が解脱することは、他人を苦しみから救い出すことと、本質的な意味に於いては同質なのだと思います。 >>305
......φ('д'*)フムフム・・・なるほどですがな・・・
しっかしこの世の殆ど全ては自己と他を区別して回ってますから、
本質と現実とに大きな差がありましょう。
その区別が無くなれば世の中の争いは解決され、この地上は神の国に
なる事も出来ましょうが、有史以来いままでも、そしてこれからも戦いは
続くのがこの三次元世界の現実なのでしょう。
またこのような世界も必要なのでしょう。
この世の中が本当に「次元上昇」され、為政者や人々の心が変化するなら
兎も角。人として生まれ修行するならば、どうか解脱することなく、幾度も
生まれ変わって人類の救済に尽くして欲しいと願うばかりです。 「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想をやってますが、それはこのスレで言われる
「マハシ式」のヴィパッサナー瞑想との違いについて詳しい方がお出ででしたら
お教え戴けませんか。
また、自分がやっている「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想について言えば、所謂
「悟り」を目指すというよりも「浄化」を目的に行なわれているように感じます。
瞑想にも様々な方法や、何を主眼としたものか、幾通りもの瞑想があるようですが
、ヴィパッサナー瞑想と悟りについては皆さんどのようにお考えでしょうか。 >>307
わたしも数年前、同様の疑問を抱いておりました。
その後、瞑想の実習を含めた学びを通して分かってきたことを率直に記しておきます。
主観も入っていると思いますが、各流派の特長は次のような感じだと思います。
ゴエンカ
在家向け。社会生活を送りながら修行できるようにしてある。
マハシ
社会生活を送りながらの修行を意図して指導している(と見受けられる)。
パオ
出家向け。
おそらくブッダの時代の出家修行者たちが行っていたスタイルに最も近いと思われる。
一方で、社会生活との両立は不可能ではないにしても、本格的に取り組むためには
かなりの覚悟が必要かも知れない。
日本国内におけるパオの活動は、現在、主に教学を行う日本道場と、主に瞑想を行う
ミャンマー僧院の二系統がパラレルに存在する状態になっている。
マハシもパオも共通してパーリ三蔵を修行法の典拠としている。
特に大念処経(マハー・サティパッターナ・スッタ)の内容を把握しておけば、各流派の
違いが表面的なものに過ぎない(であろう)ことが見えてくると思います。
ゴエンカ氏は、仏教そのものを在家向けにアレンジする思想があるようです。
それを良しとするか、ブッダ由来の伝統を重んじるかは、個人の選択でしょう。 >>308
ご親切に説明戴きまして有難う御座います。
「マハシ式のヴィパッサナー瞑想」をなさっている方で、スレ主さんでしょうか。
>>307 にも書きましたように自分は「ゴエンカ式」のヴィパッサナー瞑想を行なって
います。 なかなか日常での瞑想は思うように時間を費やしていませんが、
ヴィパッサナーを始めてからは一年程です。
このスレは「マハシ式」と銘打ってありますが、時々書き込ませて戴いてもよいでしょうか。
自分の場合「ヴィパッサナー瞑想」に関しては、最初に縁のできたのが「ゴエンカ式」でし
たので、それ以外は知りませんでした。
「ゴエンカ式」での場合、10日間コースに参加してもその費用は全て随意の「喜捨」と
なっていますので、その点でも参加し易いと言えそうです。
人によっては全く喜捨せずに去る方もいますし、奉仕活動等で貢献される方もいます。
究極はどの方式であろうが目指す境地は同じなのでしょうが、坐禅等で目指す
「悟り」とはまた微妙にそのポイントが異なるような気がしてます。
「ヴィパッサナー瞑想」での「バンガ」は坐禅の「心身脱落」に相応するものでは・・・
などと思っておりますが、「ヴィパッサナー」では、「悟りの境地」を目指すというよりも
「自身の浄化」によって苦を無くそうという方向付けのように感じてます。 端的に言うと、各流派の違いは集中と観察のバランスの取り方。
この二つの訓練をするにあたっての順番の違い、指導法の違い
ではないかと思います。
集中力の訓練を個別にやっているのは、ゴエンカとパオ。
集中して観察していれば、観察を通して集中力の訓練も一緒に
できるから、個別に集中力の訓練はやらないのがマハシ。
わたしはそんな風に捉えています。
ちなみにスレ主さんではありません。 また、自身の浄化の延長線上に智慧の発現や悟り、苦しみからの
解脱といったものがあると捉えています。
これらは、それぞれ異なるものというよりも、それぞれが道の途上に
配置されているようなイメージです。
これらの修行法自体は、八正道を通して四諦を悟り、苦しみから解脱
することを目的として、釈尊によって説かれたものだと思います。
つまり、行法の設計思想というか目的はあくまで悟りと解脱ですが、
それを行ずる人の目的や動機はそれぞれ、ということではないかと
思います。
自身の浄化のために行ずる人もいるでしょうし、来世、良い生まれの
ために行ずる人もいるでしょう。 そもそも一般凡夫の我々は「悟る」ことに意味がないし、「悟る」必要もないと思う
第一、「悟る」状態を定義できないのだし、「悟る」ことでその先にある何かを今の時点で
期待したり想像したりすること自体がそもそも妄念だろう
むしろ、瞑想したら日々の生活で腹が立たなくなった、ネガティブなモードに落ちなくなった、
ツキのない出来事が自分のまわりで起きなくなった、自分や家族の健康や運が上向いた、
人間関係が良くなった・・・
そんな現実的事象でも感じることができたら、それで十分な気がするが?
だから自分は「悟り」に何の興味もないし、ここに引っかからない >>313
あぁ、それで十分だと思う。悟りだの解脱だのそんな遠い遠い目標など持つ必要は
ないと思う。
ただ、真剣に坐っていれば「ある種の悟り体験」を経験する事は珍しくない。
しかし、それはあくまで課程の一里塚。あってよし。なくてもよしの境地で
過ごせばよいこと。 皆さんは「アルコール」に関してはどうしてるの?
中には調理用の「みりん」ですらアルコールが入っているから・・・と
使わない人がいるけど、おかしいと思う。
酒を飲んで酩酊するならともかく、在家が梅酒の梅を数個食べたり、
風邪を引いた時に「たまご酒」を飲んだりまったく問題ないと思うが・・・
麻薬もいけないと言うけど、病人の末期治療などでは必要。
それを悉くダメと言い張るのは「本来の戒律」を履き違えている。
あくまで人間がよりよく生きるための戒律なのだから・・・。 >>313
仏教における悟りは四向四果、または十結(五上分結と五下分結)との関係で定義できてる。
悟る意味については、初転法輪の時から四諦との関係で説明されている。 生老病死をはじめ、人間はいつか必ず苦しみに直面しなければならない時がくる。
生きる者の定めとして避けることのできない苦しみはあるが、
しかし、それらの苦しみは乗り越えることができる。
あるいは望むなら、無くしてしまうことができる。
それが悟りであり、解脱ということ。
いつか必要を感じた時に、思い出したら良いのではないでしょうか。
※四苦(生老病死)
八苦(愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦) まぁ苦しいことも辛いことも沢山在るけど、この苦の人間世界が
俺は好きだ。
苦しいからこそ楽しいことも沢山あるし、価値を感じる。
だから解脱なんかしなくていい。来世もその次も人間世界に生まれたい。
今世よりも来世が少しでもマシであるように、今世多くの罪を作らない
よう。尚出来れば多少の徳も積みたいものだ・・・ 【奇跡の脳】脳科学者ジル・ボルト・テイラーの悟り体験 http://goo.gl/VifUuy >>315
アルコールは、飲まなくなりました
でも初詣で御神酒が出されたので、飲みました。 >>313
それって一つのさとりですよ
理解したというか、なるほどそうかって!!! 七覚支
悟りの7つの支分をなす項目
七覚支の内容
1.念覚支 - 気づき。心で今の瞬間の現象を自覚すること
2.択法覚支 - 法の中から真実のものを選ぶ
3.精進覚支 - 努力
4.喜覚支 - 喜びに住する
5.軽安覚支 - 心身に軽やかさ・快適さを感じる
6.定覚支 - 心が集中して乱れない
7.捨覚支 - 対象に囚われない
思い当たる所が有るのでは無いですか? 覚者より 『彼らの時代はほとんど終わっている。間もなく起こる出来事が政府の力を再分配し、国民を解放するだろう。』 2016、8
【安倍マリオ】 どっちが勝つかな? 【メロリンQ】
∧,,,∧
(´・ω・`) < 近い将来、欧米で株式市場が破綻すれば、マイト レーヤは直ちに出て来られるでしょう。
(| |)
し--J
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。彼らはただ座って待っているだけです。世界を餌にして生きており、何も還元しません。
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
ウォールストリートの大暴落(1997年)につながったプロセスが、いま日本におけるプロセスの中に写し出されており、再び株式市場の暴落につながるでしょう。
終いには政府にも支えることができなくなり、どん底に落ちていきます。日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト レーヤは出現するでしょう。
マイト レーヤはまずアメリカに現れ、それから日本です。彼は日本語で話し、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
非常に間もなくマイト レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。彼は「匿名」で働いております。
マイト レーヤが公に現れるにつれてUFOが、とてつもない数で姿を表すでしょう。
矢追純一 「宇宙人側からの申し入れは、核の利用と戦争をやめ宇宙人の存在を公表しなさい。ロシアという大国の首相がね、2回も言ってるんだからね。」
抑制のない成長に基づく現在の経済の終焉を見るでしょう。
日本国民はどう対処すればいいのか。新しい政権は民意を反映し、適切な食糧、住宅の供給、健康管理、教育が最も重要な責任となるでしょう。そして最後に防衛です。
国民の意志を裏切ることは、極端な場合、自殺や殺人にまでつながります。民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。 >>324
(´・ω・`)新しい世界秩序とか現れてほしいものだが、まぁそんな夢物語の
様なことは起きないよ。
2016年秋は次元上昇とかバシャールやらいろんな人が言ってるが
秋って、もうなりかかっているんだけど、兆候すらない。 んじゃ、キミはその自覚症状ある?
それに、個々人の心の中で起きていれば、社会は個々の集まりだから
社会にも変化が現れているはず。
新しい秩序や次元上昇の気配が今の社会にあるとは到底思えない。 >>328
では、その「内面的な自覚」について、どのような変化なのか
詳しく話して貰えないだろうか。 ブッダの正法と思えるものに出会って、修行が進んできているので
この先に悟りや解脱があるだろうとは思ってる。
しかしこれは自分の内面的な変化なので、周囲から見ても何も
分からないと思う。 >>330
俺もそれ系だと思ってるけど、俺にそんなことが起きるとは思えないんだよなぁw 平安で静かで、動かない
それだけで十分ではないでしょうか? ヴィパッサナーやってる人の中で時々見かけるのは、物静かで淡々としていて
落ち着いているのは良いんだが、どうにも人間らしい喜怒哀楽や元気や覇気が
無い。
そしてそんな指導者がいると、そうなることが良い事で、それが瞑想を深めて
人の「有るべき姿」のように思っている人がいることだ。
未熟な俺にはようわからんが、なんか違うような気がしてならん!
瞑想指導者って、そんなものなのか?
禅宗の師家とかは違うんだが・・・。 人に戻る日
長老
はい、あなたたちは今から人です。気をつけて暮らして、ハハハ。。。。。
女
ソープランドでさんざんえばって遊んだやなきゃくじゃねえんだから
そんなにあっさり追い出すこったねんだろうもうちっと何か一言
男
すみません彼女質問があるそうです。
女
わたしのこのお寺で人の一番いけないのはねたみとおそわりました。
でもワタシは、ねたみを紙に書いて生活しています。
長老
いいですどんどんやって、ハハハ。。。
女
だから仏だろもっと親身になってこっちは七日間も飲まず食わずでおっさん.....
男
ハイおしまい、帰ろう帰ろう >>333
欲界善と解脱とでは、向かう方向性が違う。
座標軸で表した場合、縦軸が欲界善で、横軸が解脱だとすると
人が好み、喜ぶのは欲界善の縦軸方向を高くすること。
解脱を求める修行者がやってるのは、横軸に進んで彼岸に渡ること。
両方高いなら文句はないが、みんながみんな天才ではない。 縦軸だけ進んで、ぜんぜん解脱の智慧がない人ばっかりなのが
末法仏教の問題点だった。 >>336
質問良いですか?
で、その欲界善の縦軸が進んだ人というのは、どのような行動や
思考傾向になるのでしょうかね?
また、それとは異なる縦軸方向の解脱に進んだ人の思考傾向とは
どのような特徴がありますでしょうか? >>338
仏像でヴィジュアル的に言うと、前者は天部、後者は阿羅漢。
両方とも高いのが如来や菩薩。
前者は、欲六界から抜け出そうと思ってない。
人によっては欲六界の外があることを知らないし、信じられもしない
とすれば、そもそも抜け出せると思ってない。
欲を満たすことに対して肯定的、積極的。
後者は、欲六界から抜け出し、色界、無色界を含む三界すべて
から抜け出そうとしてる。
欲を満たすことに対して否定的、消極的。
如来や菩薩は、お釈迦さま、ゴータマ王子みたいな感じ。
だいたいこんな感じでしょうか。 縦軸が世間諦で、横軸が出世間諦と言ってもいいかもしれない。 >>339-340
なるほど・・・有難うございました。
前者として天部のたとえがありますが、実際我々人間の瞑想者の場合、
多くの情報が有るので、
>欲六界の外があることを知らないし、信じられもしないとすれば、
>そもそも抜け出せると思ってない。
は無いだろうと思います。
凡夫から天部の境地に到達するだけでも並大抵の努力ではないでしょし、
今世においては天部の境地でも十分と思う人も居るでしょう。 >>339
欲を捨てることは出来るのでしょうか?
遠ざけて消していくには出家でもしないと無理ですよね 欲は無くならないと思いますよ
生きている限りは
ただそれに気がついて、捕らわれないように
する事は出来るように思えます。 考え方にもよるが、解脱を目指して精進努力するのも「欲」と言えば
「欲」でもあろうと思う。
では解脱して場合はどうなのだろう?
凡夫のような俗な欲は無いかもしれないが、より向上したいとか
菩薩行を行いたいとかの「欲」はあるだろうと想像する。
その境涯「欲」の質は異なるが意識が存在である以上、「欲」は
永遠になくならないのでは? 仏教教学的にいうと、悟りにも四段階、より詳しくは四向四果の
八段階があって、段階に応じてなくなる欲も違ってくるようです。
四向四果の聖者たちうち、預流向から一来果までの悟りの段階
においてはまだ欲界を対象とする欲は残っているそうですが、
不還果から阿羅漢果に至った聖者は、もう欲界を対象とする欲
は残っていないと言われています。
そのため、この境地にいたっても出家せずに在家のままでいると、
一週間ぐらいで死んでしまうそうです。 日本の仏教では出家してもそれなりに仕事しないとならない・・・
日本仏教で阿羅漢果になったら一週間ぐらいで死亡かな? 菩薩として、あえて苦界に留まることを選べば、あるいは生きていけるのでしょうかね。
そこまで行ってみたいものです。 本読んで初めて1ヶ月半
今日強烈な喜悦感みたいなのに
吹っ飛ばされそうになった。
一瞬だけだったけどね
これ何でしょう? >>348
喜(パーリ語で piti ピーティ)。
尋、伺、喜、楽、一境性という五つの瞑想を支える要素があるのだが、そのうちのひとつ。
八正道に当てはめて言うと、正精進→正念→正定の部分をやってることになる。 喜や楽が生じてくると嬉しくて気を取られてしまうと思いますが、
集中すべき対象は喜ではないので、あくまで集中すべき対象に集中するようにして下さい。
心身の苦痛は消えるか、気にならなくなってくるはずなので、それ(喜や楽)に助けられて
さらに瞑想がしやすくなるはずです。 背筋を軽くただしてアゴ引いて
胡座で自然に呼吸してるの意識して
次に手足を意識して
体の各部を意識して
周りの音や空気の流れを意識して
自分が意識していない自分(心臓の鼓動、手足の痺れ、)と、自我(?)の両方を自覚して
雑念が浮かべば消して
こんな感じでラジオとか聞きながらのんびきしとったら
多幸感がすごいのだが
今を実感できて素晴らしいのだが
いわゆる魔境かね?
これはどう解釈すればいいのか
いったい何が起こったのか
頭が少し熱いです お釈迦様の親戚で以前は王子であり裕福な暮らしをしていた人がいました。
この人はお釈迦様にしたがって出家し、一人で森の中で托鉢をして食事を取り
家も無く見るからに貧しい状態で暮らしていました。
その人が歩きながらなんて楽しいのだろうとつぶやいていたので
それを聞きつけた人々が、昔の贅沢な日々を思い出してそんなことを言っているのだろう
と言っていました。
それを聞いたお釈迦様は、その人を呼んで、
楽しいとつぶやいていたみたいだけどなにが楽しいのか?
とたずねたそうです。
その問いに対してこのように答えたそうです。
私は王子であったときは、宮殿は常に軍隊に守られ、どこへ行くにも兵で守られていました。
けれど私は毎日、おびえて暮らして、夜も眠れませんでした。
しかし今は一人でだれも守ってくれませんが、おびえる事も無くいつも穏やかに過ごしています。
ですから、樹を見ても、山を見ても、川を見ても、食事をしていても、
いつもなんて幸せなのかと言う思いが出てきます。
そうすると、なんて楽しいのだろう と言う言葉が出てくるのです。
と答えたとの事です。 アーナンダよ、
ベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しいサーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
中村元訳(パーリー語より)
この世界は美しいそして、人生は甘美である
(サンスクリット語より)
涅槃経より ウ・ジョーティカより
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、
私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです。 お釈迦様が修行に入り成道して人生の真理に目覚め、
「人生は苦である」と言った。
しかしその人生を終えるに際して
「この世界は美しいそして、人生は甘美である 」とも言った。
そのどちらも間違いではない。どの様な経験とどの様な立ち位置で
モノを見て捉えるかで違いが出来るだけ。
更に言うなら、人生は、まさに苦であるが、その苦難すらも、
肉体を持って体験できるこの世界は、素晴らしく美しい・・ともいえる。 思考が出てこないとき、思考が止まっているとき
ただ見ているという事が、この不思議な美しく
平安な状態をもたらすことに驚いているんです。
ただ気がついている状態で居るという
猿が出てこないと言うか、このお猿を優しく観ている
とでも言う状態
目の前に見る電話機や、ノートが、やさしく微笑んでいる
なんてうれしいのだろうかと、
ビルに輝く光るが、とても美しくきらめいている
光が優しいのですよ これ、日常生活中に、感覚感じながら、サティを
入れるだけじゃ駄目なの?
別に一箇所に留まってやらなくても、効果を感じることが
出来るような感じがするし。 息を吸って吐く一回ごとに
体感温度が変わっていく
そんなことに気づいて
楽しくて
中心への集中が崩れた 瞑想のやり方を説明してる本って
沢山あるが、一冊あれば十分だよね? 集中力無くなると、ヤル気が失せます。
アドバイスを。 集中力がなくても集中できるようにする。例えば環境を工夫する。
環境が整えば自然に集中できるようになる。
瞑想では集中力はつかない。多分「集中」の意味が違うように思う。
瞑想ではやる気がなくなるというのは良いことだ。しかしやる気を出したい
なら別の方法が相応しい。どんなやる気がだしたいのか? 勉強だろうか?
それなら簡単にやる気がでるようになる。勉強がすこしづつでもできるように
なるとやる気がでてくる。例えば難しい数学を理解できるようになれば
数学が面白くなってやる気がでてくる。そのためには「無理だ」と思わない
で少しづつでも理解するようにする。一つのやり方でわからない時には
別のやり方も試してみる。いろいろな角度からすこしづつでも理解をすす
めて行くと、段々と解るようになる。 >瞑想では集中力はつかない。
? 瞑想を続ければ、集中力が付く、と書いてあったが。
スマさんか地橋さんの本のなかで。 ヴィパッサナ学んでから難しい専門書も一発でスラスラ理解&記憶できるようになった。
地橋先生とこに速読の生徒が来るとか
スマ長も何でも一発で覚えるとか言ってたが
ヴィパッサナの智恵は知的活動のレベルを一気に引き上げるよね
七回読みってのが流行ったがあれもヴィパッサナだろ
>>366
瞑想で得た集中力の出し方をどう多様な対象に工夫して当てはめるかってことだと思う >357
私も、ビッパーサナをしようとしてた時でも、サマタの瞑想してた時でもなく、
意図しなかった時に、一度だけ経験しました。
階段を降りてきてフローリングに反射した夕日を見た時、
今まで経験したことのない、この今を完全に見続けているのに、雑念が全く無い静けさと、
美しさだけを見ている状態を。 最近は、瞑想を行って悟り体験をしたいと思う人よりも、そんな事は
考えもしないのに、いきなり「ノンディアリティ」や覚醒してしまう人が
大勢現れている。
そういう時代なんだとしか言いようが無いが、一生懸命坐って瞑想してる
人が悟れずに、何もしない人でも悟れる不思議な時代だわ 過去世までの積み重ねが違うので、すぐ体験する人は、過去世ですでにすごい努力してる。 歩行瞑想について質問です。
通常、離れたー動いたー触れたー圧、の4つで行うと思いますが、
離れる時、踵から指先まで順番に離れて行きますし
圧も下ろした時の広角の圧から直角の圧まで変化します。
構わず4つでやればいいのでしょうか。
それとも細分化していくべきなのでしょうか。 >369
アーナンダよベーサーリーは楽しい
ウデーナ霊樹の地は楽しい
ゴータマカ霊樹の地は楽しい
七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
タフブッダ霊樹の地は楽しい
サーランダ霊樹の地は楽しい
チャーパーラ霊樹の地は楽しい 瞑想してからスパ銭行かなくなった
いつでもリラックスできる じゃまする思考が止まった状態は
とても平安で心地よいでしょ >377
この言葉はお釈迦様が亡くなられる模様を描いた
涅槃経と呼ばれる教典の一節です。
つまりそのようにお釈迦様は世界をずっと
見ておられたのではないかと思えるのです。 ウ・ジョーティカの言葉から
景色でさえ、心が落ち着いていれば、
日の出や日没を眺める際、私はそこに没頭することができます。
するとその景色は実に素晴らしいものになる。
世界は実に美しいのです 過疎ってるなぁ
俺は地橋秀雄氏のヴィパサナーをやってるんだけど… こないだヴィパッサナーを集中的にやる機会があったんだけど、過去のトラウマなのか
対人恐怖みたいなものが出てきてしまって
(なんかある気はしてたがずっと隠れてて忘れていた)
これこのままやり続けていけば治のかな
もっとひどくならないかな
結構苦しい
メンヘラになりつつある
過去精神疾患が
ぶり返した感じ
多分普通の人はそんなんならんと思うのだが 瞑想をテーマに議論してもまったく無駄やなあ。瞑想中にどんな意識状態になるか、なにを感じるか、なにを見るか
等どんな経験をするにせよ所詮、主観経験やもんな。共通の足場になるものはなんもないわ。 瞑想をはじめてわかったこと
ポジティブになろうなんて思っても無駄
本来の心は澄明で活力にあふれ静かでありながらぞくぞくするほど楽しい
(表現が難しいが)
無限の可能性を秘めている心、それを覆い隠してるのが自我の思い
無理やりポジティブになろうとすると逆効果
思考と思考の間の沈黙と無思考状態になると
普段の生活では感じない力みたいのを感じるようになる
瞑想続けると思考の波が静かにはなるけど
何かトラブルになると逆戻りしてしまう
まだまだ修行が足らないわ 現実世界でトラブルに巻き込まれるのはカルマのせいかな…
それとも魂の成長のための試練か??
折角うまく行きそうなときに滅茶苦茶になる
新たなカルマをつくらないようにすることも肝心だな
修行僧が出家するのも新たなカルマをつくらず解脱するためなんだけどね 瞑想って眠かけのようなぼんやりした感覚ではないし
普通以上に心が澄明になり、思考も明晰になり
力が湧いてくる、うまく行くと病気も治るし、怪我も早く治る…
特殊能力が身につくことすらある…
だけどそれを求めて瞑想すると、失敗するる
求めない願わない執着しない、それが難しい