劉備の入蜀 益州争奪戦
中国の住宅価格下落が示唆、日本の「失われた30年」より長い混迷リスク
不動産市場は早まった人口減社会を先取りした動きではないのか >>535
小田原攻めをはじめとする豊臣秀吉の戦役で兵站に苦労したのは
現地のチョンの非協力サボタージュが酷くて兵糧運びが難儀した文禄慶長の役ぐらいで
石田三成はじめとする奉行の有能さは現代でも通用する事務能力
包囲戦は基本的に攻める側が基地外ならやりたい放題だからな
治める側が民用に残した来年用の籾殻まで蝗のように喰い尽くす事も躊躇わない
なので 朝議以樊、襄陽無穀 というのは関羽が包囲した結果
民から全ての穀を喰い尽くしたというのが自然な解釈 >>465
劉備は曹操と袂を分かって遅くとも
次の左将軍公孫康が任命された207年頃には
漢の全ての官職を失って以後は漢中王含め僭称官職のみ
孫権は東漢末期曹魏初は正式な官職貰って呉王も正式な官職
劉備と孫権の正当性議論は無意味とか言うけど
劉備が孫権よりも正統性無いと何か困るの? >>581
味方からの兵糧攻めは日常茶飯事だからね
>>582
官職を失ってはいないんじゃないの行大司馬とかは僭称だろうけど DNAを解析することで動物の寿命を推定する方法があり、そこから推測される人間の寿命は38年程度です。 これは野生動物の管理や保全のために続けられてきた技術です。 左遷して太守とかよく聞くけど、自分なんか太守や県令で十分満足だけどな DNAを解析することで動物の寿命を推定する方法によれば、人間が天から授かった生きられる期間は本来38年程度であるらしい。
オーストラリア連邦科学産業研究機構の分子生物者ベンジャミン・メイン氏らが『Scientific Reports』(12月12日付)に掲載した研究では、動物が年齢を重ねるにつれてDNAがどのように変化するのかに着目し、そこから寿命を推定する方法が考案された。
動物は歳をとるほどに生物学的機能が衰えてゆくが、そのために生きていられる長さが制限されてしまう。これは生医学的にも生態学的にもとても重要なことなのだが、動物がいったいどれくらいの期間を生きられるのか把握するのは簡単なことではない。
DNAは生命の設計図である。ならばここを調べれば、老化や寿命といった情報を得られると思われた。それなのに、これまで寿命の違いを説明するDNA配列はなかなか発見されてこなかった。
しかもなぜだか脊椎動物の寿命は大きく異なる。8週間しか生きられないピグミーゴビーという小魚がいるかと思えば、400年以上生きることがあるニシオンデンザメなんてものもいる。 分かるわ。急に身体が不調になる。
生物としての美しさが失われていく起点な感じがする。
いかにガワが綺麗でもDNAは誤魔化せんな。 前に似たような話を聞いたことがあるぞ
哺乳類が一生のうちに打つ脈拍の数はサイズの大小に関わらず決まってて
それに合わせると人間の本来の寿命は42歳くらいだって >>585
現代人の感覚だと地方でも別にいいじゃんってなるけど当時の地方なんてマジで都と比べたら何もない場所だろうからな 現地人に殺されまくりの雲南郡とか永昌郡の太守は嫌だ
エリートコーチの蜀郡太守なら受ける >>583
>味方からの兵糧攻めは日常茶飯事だからね
普通は味方からの兵糧攻め(曹仁らが襄樊の民から過剰に兵糧徴発)してれば
侯音の乱みたいに反乱起きて襄樊失ってるだろうな
曹魏が襄樊放棄した一瞬を除き晋の時代まで襄樊全うしてるから
朝議以樊、襄陽無穀 の原因は水害と関羽
まぁ関羽の方が味方からの兵糧攻めの数々が酷いのは明らかで
朝議以樊、襄陽無穀 になるまで蝗の如く兵糧奪い喰い尽くしたのはある意味必然だが >>583
>官職を失ってはいないんじゃないの行大司馬とかは僭称だろうけど
たとえ印綬を持ってても次の人物が官職に就任すれば自動的に官職失うのは
例えば日本の安徳天皇みたいに三種の神器持ってても
後鳥羽天皇が即位すれば天皇位失って僭称状態なのをみても明らか
劉備の場合は死ぬまで左将軍の印綬を持っていれば正統性主張出来た可能性あるが
生きてる間に自ら朝廷に印綬返還しているからな >>583
>官職を失ってはいないんじゃないの行大司馬とかは僭称だろうけど
たとえ印綬を持ってても次の人物が官職に就任すれば自動的に官職失うのは
例えば日本の安徳天皇みたいに三種の神器持ってても
後鳥羽天皇が即位すれば天皇位失って僭称状態なのをみても明らか
劉備の場合は死ぬまで左将軍の印綬を持っていれば正統性主張出来た可能性あるが
生きてる間に自ら朝廷に印綬返還しているからな >>594
大司馬は認められたんじゃないの?
特に別の人を大司馬にもしていないし?
後に孫権を大将軍にするから大司馬に移った宋江だか宋人だかいたようなきするけど >>596
確認したけど張楊を最後に東漢の大司馬は居ないな
漢中王とか大司馬とかは上奏文で劉備の配下が推戴しているだけで
漢の朝廷から正式に任命されている訳ではないからな
また劉備が漢中王僭称した時に左将軍と宜城亭侯の印綬は朝廷に返納して
正式に自身の漢の正式な官職を全て否定している
上奏文出したらといって朝廷から正式な官職が貰えてる訳ではないからな
例えていうならポエム満載のラブレターを片想い相手に送り付けて
これで正式な恋人同士になったと吹聴しているようなもんだ
その恥ずかしいポエム満載のラブレターがたまたま残って史書に記されてるだけの話 このスレの住人全員を、鎮宅将軍・子供部屋太守に任命する 進む男性の婚活離れ
婚活する女性なんて見た目も中身も醜くて気持ち悪いだけ
おまけに子供を欲しいにチェックした男性を叩く
結婚相談所の職員は子供が欲しいと言わないようにと指導
子供も望めないで気持ち悪い性格の悪いおばさんと結婚する意味なんかない 劉備が益州獲ったときには武官充実していたのにな
益州獲った時点の武官ラインナップ
上の上 関羽、馬超、張飛、黄忠
上の中 趙雲
上の下 魏延、糜芳、士仁
中の上 霍峻、李厳、輔匡、費観
中の中 袁?、呉懿、呉班
中の下 雷銅、呉蘭、趙融、馮習、趙累
下の上 高翔、陳式、杜路、劉寧
下の中 張南、向寵、?禄、王士、張嶷、范彊、張達
下の下 王平、句扶、詹晏、陳鳳、陳?、鄭綽、習珍、傅? なんでも諸葛亮のせいにする人がいるけど問題は高齢化でしょうな 荊州失陥は諸葛亮が関羽のそばにいなかったから
夷陵の敗戦は諸葛亮が劉備を止めきれなかったから
南蛮の反乱は諸葛亮の統治が上手く行ってなかったから
北伐の失敗は諸葛亮が馬謖や姜維を登用したから
あとなん? この時の蜀攻略戦は面白いのに鄧艾、鍾会の蜀攻略のつまなさよ
いきなり剣閣に立て籠り、そして別働隊が成都落として終わりとかあっけねえ
正史ならともかく演義なら物語なんだからもっと面白くなるように書いてよ >>604
晋の時点で劉備と孔明の人気が確立してるのに
なんでエンタメ作品が2人が居なくなったの話を詳しく語らなきゃならんねん >>602
後期は老人ばかりだし若手が育っていないか出世してないからね 人間や動物の幽霊の話はよく聞くが、時には生き物以外の幽霊話を耳にする事がある。
第2次大戦中に目撃された幽霊戦闘機(フー・ファイター)や、怪談でも登場する幽霊列車などがそれだ。
海にも「幽霊船」などがおり、山口県周防灘では「煙を吹く戦艦『陸奥』」の姿が昼夜を問わず度々目撃されている。
不思議なのは、それを目撃した人が証言するとき、まず「煙は緑色だった」と先に述べる事だ。 警察官の仕事の一つに自転車の取り締まりがある。
青森県のとある警察官が深夜、イヤホンをしていた自転車乗りを取り締まった。
彼は嘆く。「聴きながらだと集中力が低下して危険なんですよ。音漏れがするほどの大音量でしたし。それに、イヤホン端子が前輪付近まで垂れていたので下手すれば大事故になりかねませんでした。」 官職ではタイフはタイホより上、タイホは大司馬より下 タイイも大司馬より下 ルイジアナのアルヴィン・アンダーソンがある日街で食事をしていると、叔父が店に入って来た。
アルヴィンが声を掛け、二人はしばらく世間話をしていたが、そのうちに叔父がトイレに行くと言って席を立った。
いつまでたっても戻って来ないのでトイレを見に行くと、そこには誰もいなかった。
家に帰り、母親にこのことを話すと、母親は怪訝な顔で「お前に叔父さんはいないよ」と言った。 >>604
五胡十六国や三国志末期から晋も意外と面白いから
結局は書き方次第かと
文明人が俺達野蛮人のことをちゃんと書いてくれなかった
もし石虎とかが漢民族だったらもっと偉大に書いていた >>604
焦点人物になるような魅力がある奴が、敵にも味方にもないから、筆ものらない 攻め:鄧艾&鐘会
守り:姜維&諸葛瞻
めっちゃドラマチックやん >>615
それは歴史オタの感想でしかない
三国時代は、史実・史書とともに、民衆の間でも伝説や説話として親しまれることで、中国の歴史の中で特別な地位を確立した
それらの人物は強烈な個性やエピソードがなく、民衆が求める演義向きのキャラじゃない マッスルトーナメント決勝で戦い抜いたミートくんみたいだよ諸葛千 トウ艾:根暗なガンコ爺
鐘会:根暗なクソ野郎
姜維:剣閣に籠っていただけ。反乱はあっさり失敗
諸葛瞻:黄皓の言いなりボンボン
姜維や諸葛瞻がトウ艾や鐘会と一騎打ちするシーンとかあれば演義でもアピールできただろうけど、
トウ艾は老人、鐘会はそういうキャラじゃないからな 古代 の爵 名は1つ に特 定 され た もので はな 今話題のAI「ChatGPT」に聞いてみた
質問:
魏のトウ艾と鐘会、蜀漢の姜維の三人の理由が争った結果、蜀漢は滅亡し、三人とも死亡しました。
三人のうちで最もすぐれた英雄は誰だと思いますか?
ChatGPT:
三国時代の歴史上での魏、蜀漢の滅亡については、多くの要因があり、単一の要因では
説明しきれない複雑な歴史的事象であるため、誰が最も優れた英雄だったかを判断することは困難です。
しかしながら、三人の中で最も著名な人物は、蜀漢の軍師であった姜維であることは間違いありません。
姜維は蜀漢の最後の帝王である劉禅を補佐し、魏の侵攻に対して蜀漢を守り続けました。
彼の戦略的な才能と、文武両道の人物であることが知られています。
しかし、彼自身の政治的な野心と魏への不忠が蜀漢の滅亡につながったとも言われています。
一方、魏のトウ艾と鐘会も優れた将軍であり、戦略的な才能を持っていたことが知られています。
彼らは蜀漢に対して成功を収めたことで名を馳せましたが、彼ら自身もまた、政治的な野心や
魏への不忠によって、最終的には処刑されることになりました。
したがって、誰が最も優れた英雄だったかを決定することはできませんが、
三人全員がその時代において重要な役割を果たしたことは確かです。 今話題のAI「ChatGPT」に聞いてみた
質問:
ホウ統は劉備に仕えたが、すぐに戦死した。
ホウ統が生きていれば、蜀漢の歴史は変わったのだろうか
ChatGPT:
ホウ統は、劉備の軍師として知られており、数々の戦略や策を提供し、蜀漢の勝利に大きく貢献しました。
しかし、ホウ統は劉備に仕えてからまもなく、濡須の戦いで戦死してしまいました。
もしホウ統が生きていれば、蜀漢の歴史は変わった可能性があると言われています。
例えば、ホウ統が生きていれば、劉備の南征を成功させるための戦略を提供したり、蜀漢と呉との
関係改善のための外交交渉を担当したりすることができたかもしれません。
また、ホウ統は優れた政治家でもあり、蜀漢の政治をより安定させることができたかもしれません。
ただし、歴史的な事実から言えることは、ホウ統が早くに亡くなったことが蜀漢の衰退に直結するわけではなく、
蜀漢が滅亡する運命を避けることはできなかったということです。
蜀漢の滅亡には、さまざまな要因が絡み合っていたため、一人の人物が生きていた・死んでいただけでは、
歴史が大きく変わったとは言い難いでしょう。 法正と?統がいれば、荊州失陥はともかく、すくなくとも夷陵の惨敗はなかっただろうなあ >しかし、ホウ統は劉備に仕えてからまもなく、濡須の戦いで戦死してしまいました。
ここは地名がおかしいけど、後段の調整役としての分析は良い線いってるな 劉備の身代わりになって白馬の呪いにかかって死んだのと、運悪く流れ矢に当たって死んだのじゃドラマ性も違うしな >>623
「ChatGPT」に聞いてみた
3は何のことか謎
AIが収集・学習した情報が間違っているのだろう
質問:
法正は、人格面では批判の多い人物ですが、知謀によって劉備の蜀漢建国に貢献した功臣です。
彼の死後に起きた夷陵の戦いで蜀漢が大敗した際には、諸葛亮は「法正がいれば、
戦いを止めたか、たとえ戦ったとしても大敗はしなかっただろう」と嘆いたといいます。
法正が長生きしていれば、蜀漢の歴史は変わったでしょうか?
ChatGPT:
法正が長生きしていた場合、蜀漢の歴史は多少異なった可能性がありますが、それが
どのように変わったかは明確ではありません。
なぜなら、歴史は多くの要因の複雑な相互作用の結果であり、一つの人物の存在が変えることが
できる影響は限られているためです。
例えば、法正が生き残っていた場合、彼が蜀漢に与えた影響は以下のように考えられます。
1. 蜀漢政府の改革:
法正は非常に賢明であることが知られており、彼が政府の中で重要な役割を果たした場合、
蜀漢政府の改革に貢献した可能性があります。
2. 蜀漢の軍事戦略:
夷陵の戦いでの失敗は、蜀漢の軍事戦略の不備に起因している可能性があります。
法正が生き残っていた場合、彼が戦略的なアドバイスを提供したり、軍事計画を
策定することができたかもしれません。
3. 政治的対立の緩和:
法正は劉備との対立があったとされていますが、彼が生き残っていた場合、
彼と劉備の対立が緩和される可能性があります。
これによって、政治的不安定要素が減少し、蜀漢の安定に寄与したかもしれません。
しかし、逆に考えると、法正が生き残っていた場合でも、他の要因が引き起こす歴史上の出来事が
蜀漢の運命を変えた可能性もあります。
例えば、蜀漢が強力な敵対国であった魏や呉に対して勝利することができるかどうかは、
多くの要因に依存するものであり、一つの人物の存在だけで決定されることではありません。
したがって、法正が生き残っていた場合、蜀漢の歴史がどのように変わったかは確実ではありません。
ただし、彼の知謀が蜀漢の成功に寄与した可能性はあると言えます。 まだまだ間違いも多いなw
質問:
五虎将とはどんな人物ですか
ChatGPT:
五虎将(ごこしょう)は、劉備が率いる蜀漢の代表的な五人の武将のことを指します。
五虎将は、黄忠、魏延、趙雲、馬超、閻芝の5人で、彼らはいずれも蜀漢の建国期から中期にかけて
活躍した優れた武将でした。
彼らは蜀漢の戦略的な成功に大きく貢献し、数多くの戦いで活躍しました。
例えば、黄忠は、赤壁の戦いや夷陵の戦いで活躍し、馬超は?水の戦いや五丈原の戦いで活躍し、
趙雲は長坂坡の戦いや漢中の戦いで活躍し、魏延は定軍山の戦いや諸葛亮の北伐に参加しました。
また、閻芝は関羽とともに、曹操配下の張?との戦いで活躍しました。
五虎将は、蜀漢の武将の中でも特に優れた人物とされ、彼らの戦功や人格は後世に称えられ、
多くの文学作品や演劇作品にも描かれています。 謝られたw
お前らと違って、間違いを指摘されても礼儀正しく応対してくれるな
質問:
五虎将とは「黄忠、魏延、趙雲、馬超、閻芝」ではなく、「関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲」ではないでしょうか?
その情報は間違っていませんか?
以下の情報を参考にしてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%99%8E%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
ChatGPT:
申し訳ありません。私が提供した情報は誤りでした。
五虎将とは「関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲」のことを指し、私の回答には混乱がありました。
五虎将は、劉備が率いる蜀漢の代表的な五人の武将で、彼らはいずれも蜀漢の建国期から中期にかけて
活躍した優れた武将でした。
五虎将の功績は後世に称えられ、多くの文学作品や演劇作品にも描かれています。
私が提供した情報が誤りであったことをお詫び申し上げます。
正しい情報をお知らせいただき、ありがとうございました。 AI連貼りウゼェ
間違ってもいんだから自分の言葉で語れよ
間違ったら誰かが補正してくれるし、見解の相違楽しむのも掲示板なんだから
今のお前はただのコピペ荒らし厨なんだわ AIがほんとに考えてると思ってると確かに楽しいんだわ ネット上の様々な情報を収集し、日本語でこういった文章を書けるのはすごいよね
絵師の業界もAI絵師が大問題になっているし、AIが人間の職を奪う日が来るってのもSFの世界の中のことではなくなった 関羽の于禁撃破と襄陽包囲は魏を震撼させたけど、部下は関平、趙塁しか名前が残っていない
他に武官は誰がいたのだろう? 史書に書き込まれ中他tだけでお、実際はちゃんといた
お前ら日本人だリーガー全部言える?
イチローと大谷だけじゃないだろ?
でも2000年後の人たちはきっとイチローと大谷しか知らんのよ >>638
関興 当時15~16歳程度。荊州にいたとしても父親に同行していない可能性が高い。
関索 架空の人物。
周倉 架空の人物だがモデルになった人物はいたかもしれない。
廖化 当時は南郡の荊州府に属する文官で、潘濬たちとともに呉に降伏している。
鞏志 架空の人物。
劉度 劉備に降伏後、行方不明。
劉延 架空の人物。
趙範 劉備に降伏後、行方不明。
---後方勤務の降伏者・敗者---
士仁 公安の守将。呉に降伏。
糜芳 南郡太守。呉に降伏。
潘濬 南郡の荊州府に属する文官。呉に降伏。
詹晏 蜀の武官。陸遜・李異・謝旌の荊州平定戦で敗れた。
陳鳳 蜀の武官。同上。
文布 ?帰の豪族。同上。
鄧凱 ?帰の豪族。同上。
鄧輔 房陵太守。同上。
郭睦 南郷太守。同上
---後方勤務の降伏者で後に反乱---
樊? 武陵郡の従事。一時的に呉の傘下に入ったが、後に蜂起して呉の将となった潘濬に敗れ斬られた。
習珍 零陵北部都尉・裨将軍。籠城して呉に反抗したが降伏。後に蜂起して、最後まで降伏せず自殺。
襄陽攻略軍に属していた可能性がある人物が全然いない 廖化って降伏組かよ
よく演義で糜芳節人とともに斬られなかったな 廖化は呉から逃げ出してまた蜀に仕えてるからね
演義で悪く書く理由がない ある郡・州が制圧されると、そこに勤める地方文官・地方武官はまとめて
その指揮下に入るのは慣習であり、
地方官僚の意地で民衆を苦しめないための知恵でもある
ましてや廖化は指揮権をもった太守でも県令でもなく、兵を指揮する
郡都尉でもなかった
だから、周囲に従って降伏するか、逃亡するしかない
後に呉から逃亡するときに母親を連れてに逃げていることからも
当時の混乱した状況下で家族を連れての逃避行は危険だと判断して
一時的に呉の指揮下に入っただけだろう >>637
マジレスすると2000年後の人たちはイチローも大谷も知らんぞ
野球は来世紀には絶滅すると予想されるぐらい人気激減している
例えば囲碁は現代でも嗜まれているので2000年前の囲碁打ちは少し名前覚えられているが
現在廃れている樗蒲打ちなんて誰も知らない
古代オリンピックの優勝者は記録に残っているけど
誰も言えんだろ? 廖化は史実よりも演義のほうがかっこいいキャラである。 >>641
呉と和睦した蜀に呉の脱走兵が逃げ込んで保護してもらえる道理があるか
なぜかあったんだがおかしな話だ 黄権も呉に降伏してれば和睦後蜀に送還されて成都に土下座する自分の銅像見つけて憤死したかもな >>645
和睦前、秭帰にいる劉備のもとに帰ってるぞ? >>645
逃げたのは和睦前
まさに夷陵の戦いの直前
自分が死んだという噂を流して、母を連れて脱走した廖淳は、呉へ進軍途中の劉備と出会い、
劉備から宜都太守に任命されるというドラマチックな逃避行
後に呉と同盟国になったため、遠慮して廖化に名前を変えた 夷陵前の廖化は30半ば、低くみると20代だからな
劉備としては大抜擢して、内外に宣伝したかったんだろうね 糜芳が一番かわいそう
さんざん劉備らと苦労と危険を共にして援助もして助け続けてやっと報われる頃にこれ 士仁も
失態あったからって戦争前に後背地の守将を恫喝して不協和音の種蒔いとくとか
流石に関羽の対応も狭量と言わざるをえ
ない
懐の深い名将ならこんな悪手は打たんよね 糜竺は弟の件で劉備に詫び入れて官位返上申し出たけどお前のせいじゃないと許されてたけど、糜竺だろうが簡擁だろうが孫乾だろうが、たまたま公安や江夏や南郡にいたら降伏以外の選択肢ない無理ゲーだよな
あとはもう、戦って死ぬか降って脱走するか、呉でのんびりするか 糜芳には内通説もあったけど
潘濬、廖化などが逃げ遅れて、官民の人材含めて荊州の統治機構がそっくりそのまま呉に奪われた
いかに呉の侵攻が隠密かつ速やかに実行されたのかがよくわかる
潘濬以外にも、蜀漢を将来支えたであろう官僚・武官たちの1/4程度が、呉の傘下に入った
蜀漢の人材不足は、蜀の人口の少なさや、魏との戦い以上に、同盟国である呉の裏切りが大きいと思う 士仁は、ときどき「公安太守」って書かれているけど、公安は武陵郡の県・地名
偏将軍・稗将軍クラスで武陵郡の北部または東部都尉として公安を守っていたのだろうか
それとも劉備軍古参として、もっと上位の将軍として督公安の地位にいたのだろうか >呉でのんびりするか
たぶん虞翻さんとかって人がそっとしておいてくれないんだろうなー >>652
赤壁後に周瑜が南郡太守となった折、劉備が油江口に立営した際に名を公安に改称させているとは
「江表伝」にあるな >>656
虞翻って、現代にいればネットで回転寿司にいたずらするバカとか、不倫した芸能人を
嬉々として断罪バッシングしていただろうな・・・・って、俺たちは虞翻だったのかw