周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6
基本的に負け無しの名将だし、
だいたい実績ってのは人材推挙やスポンサードは入らんのか?
甘寧や魯粛を引き入れたのは彼だし、孫家に自宅まで提供していたんだぞ >>94>>95
山越の討伐の成績が、呉における武将評価の、
基本的な指標になっていたりするのかも。
まぁ、今までブルペン登板すらしたことの無かった選手にいきなり日本シリーズの先発投手
みたいな起用をやらかした諸葛亮よりは、呉の方が堅実ではあるな。 呉の方が、譜代となる臣を養成するだけの期間があったからね。 とりあえず避難
三戦の同スレが荒れててビックリした >>105
土着と、よそ者の差と言うべきか
孫氏はいつ頃から江南に居住していたんだろうか? 普通に漢代のうちに、中原から流れ着いた一族なんじゃない >>114
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 = 中国英雄 周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗と並べると、世代が違いすぎるからか、
陸抗だけが浮いてしまう感じがしちゃうな。 呂蒙:兵法のお手本のような戦い
陸抗:他人にまねできない戦いっぷり >>100
江陵に残った曹仁を最終的に駆逐した主力
伝が分散してるけど中々名勝負を繰り広げてる >>121
孫堅はわりと自分で考えて頑張っていそう。 ホウ統と周ユの関係が謎だ。
江陵攻略後なのかとか
なぜ孫権に推薦してないのか
益州攻めの計略は元々は周ユの為に練られたものか
人を見る眼があるらしい?劉備も躊躇したモッサリ君
いきなり功曹登用はエラくない? 周瑜が南郡太守になったのが曹仁を駆逐したあとなので、
南郡功曹のホウ統と主従になったのはこのタイミングだね。
周瑜は亡くなる直前まで益州攻めを計画してたから、
ホウ統が一枚かんでいた可能性もなくはないね。 >>124
>益州攻めの計略は元々は周ユの為に練られたものか
あー、そっか。その見方は面白いな 周瑜が孫策一家に提供した
「南側」の大きな屋敷
南の表現に力関係が現れてるという考えは的外れ?
単に日当たりの問題? そもそも周瑜ってその気になれば孫家なんか目じゃなかったと思うんだが
武力的要素では孫家に劣るかもだけど
あんだけ優れた人間が孫家にひたすら尽くしたのが不思議だ 損得を度外視しての付き合いだったからこそ、真の友誼と言えるのではなかろうか。 周瑜までは名門だけど、周瑜の子からあんまりパッとしてないな。
だから孫家に寄ったのか? 呉の四姓とか、呉の建国初期と、末期じゃかなり扱いが違っていたんだろうか。 単に周瑜が「自分<孫策」と認めたことに尽きるのではないだろうか。 結局武事に秀でた人間が上に立つべきとされる時代だったからだろう。
曹操・劉備・呂布らもそうやって家格や財力では上の人間達に推し立てられたけども、
初めは協力体制的でも成功するうちに集権的になっていく。
孫策と周瑜の軍事の能力はどちらが秀でるかは置くとして、
孫堅の子という期待が孫策にあった分だけリードしていたと。
が、周瑜もよく孫権の代まで独立とか考えなかったもんだとは思う。 反董卓の孫堅を周家が援助した。
そのあたりの判断は周瑜の祖父か叔父かは知らないけど、
周瑜本人でないことは明らかだろう。周忠?だっけ?
孫堅死後の孫策と周瑜の関係はその幼い頃に構築した「情」としか説明しようがない。
分かんないのは孫堅死後の周家がどういう状況にあったのか、ということ。
孫策は一家の長になったわけだから勝手するのは理解できるんだけど、
周瑜は勝手に孫策に付き合えるような状態にあったのかな?
周家を挙げて若武者に全力援助するわけがないし・・・周瑜の独断としか思えない。
まあ周家はなんとなく袁術嫌いそうだけどw 単に周尚が袁術の部将として失敗したからなんじゃないの。
それで袁術とは距離を取っていた周瑜が代わって台頭したと。
もしかしたら周尚が失敗するまで周瑜の方は冷や飯を食わされてたかもしれない。 後漢書で周忠の息子の地元の評価が高く、
常に数百の車が付き従う、とある周暉が
洛陽で董卓に兄弟もろとも殺されている
(周忠は献帝の東帰に従い李カクと戦い、
捕まったのを買クに助けられている)
一族の仇の董卓とまともに戦った孫堅は
周瑜達には恩人かも。
袁術にも袁安以来の恩で板挟みだよね。
民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ >民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ
kwsk >137
今戸栄一編『赤壁秘話呉臣編』光栄w
『太平〜』にも記述があったような…怪しい記憶でスマン
ほのぼのとした笑い、ラブラブネタの中で
曹操と内通した叔父一家を惨殺!辺り血まみれ…
これだけが妙に怖くて生々しいエピなんだよ ファームごときの難易度にされる山越カワイソス
山越はアメリカのアフガンでのタリバン掃討ぐらいの難易度だぞ多分 周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 「掃討しても掃討してもどこからか湧いて出る・・・ヒイィィ」 陸遜「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくる。
こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰よぉ」 ジーコジャパン発足当初の黄金のカルテットみたいだな
周瑜:中田英寿・・不動の司令塔
魯粛:稲本・・縁の下の力持ちのボランチ
陸遜:中村俊輔・・テクニックに優れるファンタジスタ
呂蒙:小野・・テクニックあるが病弱 >>146
○↓
「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくるわァ!
こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰だのォ!」
塚本史に任せるんだ! 張昭は劉備と孫権が漢官を互薦した時に、劉備から軍師の官職をもらってる
ちなみにスレタイのメンツで軍師の官職に就いた者は皆無 そうだな、呉の軍師って言われるとなんとなく張昭が思い浮かぶな。
都督とか提督とか前線最高指揮官とかそんな印象が先に来る。 都督とか軍師とか大司馬とか
呉って孫権の時代から伝統的に二頭体制なのな。 いや、二頭といえるのは荊州牧の陸遜からだろう。
周瑜らは陸口の都督というだけで、日常から諸将への命令権があった
わけじゃない。
比較上位だったのは間違いないけど、大都督は戦時任命であって、
しかも指揮権の優位を巡って程普や孫皎と問題になりかけてる。 権力集中させたくない場合や、力量不足の場合補佐で右に補佐役
置いたりするみたいだな。
呉は若干皇帝権が惰弱だから結構合ってるのかも。個人的には
小国が右と左置くのは良くないと思ってるけど。 演義での、赤壁の戦いの影響もあんじゃね?
あと、肥のゲームとかも。 演義が書かれた当時の明朝は、軍の最高司令部の名称を、
枢密院から大都督府に改めているね。
その後、権力を分散させるために、前後左右中の五軍都督府に改編した。 唐代の都督は節度使の陰で存在感が薄かったけど、
宋代にも、臨時の最高司令官の称号に使われていたりするから、
都督という言葉は、かなり上級のものとしての響きがあったのだと思う。 いなくても勝てたけどいないとそもそも戦うという前提に辿り着けない 周瑜がいないと勝てなかった
少なくとも劉備じゃ無理 周瑜がいなくても曹操は追い返せたけど
江陵を落とせたかは微妙なところだな 自分が居なくても勝てるくらいの状況を作ったのが周瑜とも言える。
江陵の件は>>117に同意。 陸遜から陸抗までの期間長いから間に朱然入れよーぜ。 >赤壁って周瑜がいなくても勝てたよな
能力的にはね
知名度、カリスマ、財力、曹操と立ち向かうのに
国を束ねられる人物は周瑜しかいないよ
あらゆる面で孫権より影響力があったのは確か
家柄も孫家より上だし >>190
荊州失陥の事を言ってるのなら、先に食糧庫を襲った関羽が卑怯でクズ。 周瑜の直系の子孫が発見した家系図って信憑性あるの? うさん臭くても、死因は本当っぽいから判断に困る。
子孫的には、病死より戦没のほうがカッコいいから捏造したのか? いや、あの死因が本当だとすると江陵攻め以降の事跡が
全部病床からのものだったってことになるんだが、どうなのかなあと。
一年くらいあるでしょ、矢を受けてから死ぬまで。
その死因さえなければ系図を信じてもいい。
死因が胡散臭いから信じれない。 1600年からの系譜が記されてる(らしい)系図の真贋を周瑜の死因だけで判断するのかよwww
記述が誤り(または誤りが多い)だとしても、後代の人間が作った贋作か、
それとも清代の周家の人間が実際に作成し使用した真作かはまた別の話なんだが。