周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6
真贋じゃなくて胡散臭いかどうかって話でしょ。
それこそ系図の真贋なんて実物触れないこっちじゃ判断できない。 近年病気がちで、それを利用して関羽を引っ掛けたのであって、
病身で軍を指揮したわけではない。 呂蒙の荊州奪取は戦じゃないな。
戦うつもりでやったかも知れないが、結果的に見れば。
関羽死後、孫権との宴の席で呂蒙に関羽がチュルッと入って
喋らせた事件って、嘘ですよね?
関羽伝説の影響力が半端じゃないので、史実に結構大きな
ノイズとなったなぁ・・・・ >>206
チュルって入ったのは史実ではないが、関羽殺しに関わった
呂蒙
ショウキン
曹操
が相次いで死んだのは事実 やめれw
そんなうどんみたいに真顔でチュルッてwww >>207
しかし孫権や陸遜や曹仁や徐晃は死ななかったのは事実 演義で語るなら諸葛亮も関羽に呪い頃されてもおかしくなかった >207
素で忘れられてる于禁が哀れだ
いや彼は関羽を怨んでいる側か >>210
なんで?
>>209
そっちの事実は無意味だろ。
関羽の死後呂蒙がすぐに死んだという事実を元に関羽の祟りが創作されたんだから。
ついでに演義で語るなら、曹操の死に関羽の霊は特に関わってはいない。
華佗を殺したことと伏皇后・董承らの霊が語られている。 呉という国の立ち位置からして、物語性は薄いからな・・・・
地元の人間ならまだしも、曹操や劉備に比べても孫権は色褪せる。
軍師や将軍は優秀な人材が揃っていたと思うが、結局は魏の領土を
侵食するにも及ばず、蜀と喰い合う邪魔者って感じが強い。
周瑜:彼の死が、呉の方向性に大きな影響を与えたと思う。
生きていれば、少なくとも呉の歴史や印象はガラリと変われた気が。
魯粛:地味な印象だが、三国中戦略眼は随一。
劉備との同盟が最たる例、彼の戦略を具現化出来た周瑜の死が痛い。
呂蒙:荊州事情を打破した功績は、大きい。
関羽と張り合った存在感も評価したいが、彼の真価は関羽撃滅後の
対魏・対蜀にあったと思う。
この時期に死んでしまったのは、歴史の悪戯としか・・・・・。
陸遜:多分、普通に優秀だったのだろう。
夷陵戦での働きも評価するが、蜀軍にも色々問題あったと思うから。 >>212
関羽にハン城攻めを提案したのが孔明だから ハン城攻めは成功してた。
関羽が陸遜を侮ったのが悪い。
陸遜を侮らずに防備を緩くしなければ(麋芳や士人を叱責しなければ)問題無かった。 >>214
なるほど。
しかし
・諸葛亮が樊城攻めによって魏呉の連携を事前に防ぐよう進言する
・関羽が孫権の申し出た嫁入りを拒絶して手ひどく侮辱する。
・それを聞いた諸葛亮は「荊州が危ない」と言うが、矢継ぎ早に関羽敗死の報が入り間に合わず。
という順序で上手くフォローしているからな。
それで祟れというのはちょっとどうだろう。 演義では、樊城攻めが対魏の重要な起点として書かれているみたいだが、
実際はどうだったんだろう。
荊州での小競り合いがある中、呂蒙不在ってだけで一気に北上するか?
そもそも、益州との連携なしで単独ってのが・・・・
孔明策だと、益州と荊州の二方面に加えて、合肥方面からの三面攻撃が
前提だった気が。 そもそも呉が荊州の残りを狙っていることは周知のことだったようだ。
漢中の劉備もすぐには動けない。
だが、この時の関羽の状況はその不利を振り切るには十分すぎるものだったのだろう。
なにしろ劉備が漢中を得て、漢水によって直接連絡するという見込みが立った。
曹操の中軍は遠く関中にあり、戦の後必死に急行している状態。
樊城が堅城とはいえ、曹仁の征南軍自体は大規模なものではない。
宛などで反曹操の反乱が起きて関羽に呼応した。
しかも、魏王国左将軍仮節鉞という枢要にいた于禁の増援七軍を水没させる。
つまり、襄樊を抜けば許都まで要害も大規模な兵力も存在しないという千載一遇の好機。
関羽がそれ以上北上できないとしても、人心に与える影響は巨大なものになっただろう。
遷都案も出ようというもの。
これを阻止するために、急遽徐晃が派遣される一方、曹操の中軍が駆け戻り、
対呉都督夏侯惇が張遼を率いて急行し、エン州刺史裴潛、豫州刺史呂貢までが召集される
という総動員体制。
結局徐晃の驚異的な奮戦で樊城は解囲され、呂蒙が背後を襲うことで関羽軍は瓦解するわけだけど、
この時の曹操のシフトは樊落城の最悪の事態を想定した背水の陣だったといえる。 大国魏に楔を打ち込む関羽、その関羽を真っ向から迎え撃つ魏軍。
一方その頃、呉軍は魏の陰から荊州を掠め取って喜んでいた。
曹操を無視して関羽を斬首したが、蜀の逆襲を恐れて首を曹操に送る呉。
三国鼎立のサバイバル状態とは言え、魏蜀に比べて呉の矮小さは際立つなぁ。
周瑜も魯粛もいなくなって、呉は目先の事しか考えなくなったのか? それはあると思うなぁ。
周瑜魯粛は劉備の扱いで意見は違ってたが、あくまでも対魏決戦を目指してた。
呂蒙陸遜はただ単に呉の領土を広げただけで、魏に漁夫の利を得させた。
周瑜魯粛は故郷が魏領に入るか入らないかの境目にあったけど、
陸遜なんかは安全圏だからかな。
呂蒙は貧民出身で、豪族連の言いなりだったし。 呉の立場からすれば、荊州は自国の安泰のために必要な土地。
三国が分割統治状態ならまだいいが、蜀か魏に支配を固められると、
揚州は北と西の両面に敵を抱え、水軍の利も薄くなる。
また、取ってしまえば守る自信があったのだろう。
長江流域での呉の強さは本物で、222・223年の対蜀魏連戦を見事に凌いでいる。
或いは、蜀漢の立場からすれば、荊州を奪われても最終的な破綻には至らないと
読んでいたか。
結局、荊揚交の三州を固めた呉を滅ぼすには、荊・益・淮南の三方からの攻撃を必要とした。 とりあえず
いつ呂蒙が豪族のいいなりになったのか、
史料から引用してもらえんかね。 >>220
俺も>>222が気になった。最後1行以外は面白いと思ったんだが いわゆる孫呉を豪族連合政権と捉える見方なら
豪族でない呂蒙には政権内で発言権が無い、と言える。
いや、まあ微妙な理屈だが。 孫権の寵愛があれば別。
荊州奪還は孫権の兼ねてからの願いであり、呂蒙の計略とぴたりと一致したから
実行に移されたのだろう。
呉の大豪族の陸遜が荊州を欲しがったというのは理由がよくわからないが、
それだけに面白そうだな。その辺続けてくれ。 >>222-223
んー、そこに説明が必要だとは思わんかったが。
とりあえず呂蒙が貧民出身なのは分かってるわけだよね。
孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
襲粛や成当らの部曲を辞退したのも知ってるよね。
徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
その周泰と呂蒙、呂蒙と一緒に学問をやった蒋欽の三人は、
三人とも濡須督に就任していて、似たような地位にいたと推測できる。
明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。 >>226
で、どこがどう豪族の言いなりに結びつくの?
>孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
何故豪族が出てくるの?こんな仮定は意味ない。
>徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
>そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
あの出自を馬鹿にされたエピソードから、
何故に言いなりにまで発展するのか。むしろ、そこが疑問だ。
と言うか、呂蒙を推挙した張昭。蒋欽を虚仮にした徐盛は、徐州の人で豪族じゃないし、
大体言いなりだったとするなら、行間を読むなりしてそれと解る所を指すのが筋。
ただ、呂蒙や蒋欽等の出自が低かったこと、一時期それで侮られていたことを示すのみ。
出自の低いこと、侮られていたことを何度示しても、
結びつけても言いなりだったとの結論にたどり着かない。
>明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
この手の一文は最近よく見かける。
史料に完璧があるわけないことを利用した非常に便利な理屈だな。
要は、数箇所史料から抜き出し、
明記されてることしか、信じないのは史料の読み方じゃないと、言えばいいわけだからね >>226と「いいなり」が全く結びついてない
説明して欲しかったのは呂蒙が豪族の「いいなり」になっていたと見る理由だ
孫権は豪族層よりも呂蒙、蒋欽、周泰らの非豪族層を厚遇していた
豪族にこれ以上力をつけさせたくなかったからだ
>>225の言う通り孫権のそういう意向があれば別 思うんだけど、前提となっている時代背景に対する認識が違うんだろうなぁ。 >>229
いや、そんな一文で誤魔化さずに、
呂蒙が活躍した頃に、四姓を始めとする豪族が張昭や張紘、周瑜等の名士より権勢があって、
尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
豪族の言いなりだったことを示そうよ。 間違えた。
>尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
じゃなく
尚かつ呂蒙に孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾がなく、
に訂正します。 認識が違うなら30行でも50行でも使って認識させればいいよ。
それが理に適う論ならば、納得させることが出来るはずだ。 >>227で面白いと思ったのは、
張昭と魯粛が孫権への影響力を争った形跡があることだよな。
魯粛・周瑜はいわば同じ党派に属する。二人とも江北の出であるが豪族で、
故に軍事力を持っていた。
張昭は儒学的名士であり独自の武力を持たず、名声は高いが
孫権の幕府や宮廷にあるしかない。
これは言うまでも無く対曹操戦で真っ二つに割れた組み合わせ。
張昭の政治的行動を追ってみる必要があるかもしれない。 >>233
張昭は面白い題材と思う。好きな人物だし。
魯粛とは外交(含む軍事)を巡って争ったのでしょうね。
ただ張昭は軍事行動に結構反対しているから、
外交軍事主体の魯粛と意見が対立するのは自然と思う。
けれど党派を組んでの争いとは言い難いと思う。
赤壁の時のも諸将達が皆、降伏論を唱えたと書かれるように抗戦論は極少数だったようだし、
張昭と周瑜の二大巨頭が役割分担し、あくまでも孫権の決断を尊重したから、
明確な派閥争いに至らなかったと思われる。
さらに孫政権初期は党派意識も薄いと思う。周瑜と魯粛は劉備を巡って意見が割れたし、
呂蒙のように張昭、周瑜の両者から目をかけられる人物もいる。
魯粛が友という諸葛瑾と張昭は姻戚だしね。
あと周瑜と魯粛は豪族の出といえるけど、豪族の所以たる土地と切り離されているため、
呉の四姓や全氏や呉氏の様な土着とは区別が必要と思う。
どちらかと言えば豪族出の名士層と位置付けられると思う。
琅邪諸葛氏の諸葛瑾もこのタイプ。 ここまで読むと、呂蒙の話題よりも孫権の君主としての有能さが分かるなww
身分に関わらず、的確な人材抜擢するのは才能だろうか。
周瑜や張昭、魯粛などが、それを支えたというのもあるだろうけど。
まず、孫家三代の確固たる地盤があって、三代に渡って君主が変わるという
不安定を埋めるべく、一丸となって呉を盛り立てようとした感じか。 >>235
わかるわかる。初中期の孫権マジ有能。
宗族・豪族・名士・武官のごった煮状態で喧嘩しまくる臣下を片っ端から仲裁してるもんな。
呂壱が一時期権勢を振るった時も、改めて謝罪して臣下との和を維持してるし。
孫権が傾いていくのはやはり孫登の死後か。 孫権は長命だったが、周りの優秀な人材は結構バタバタ死んでるんだよな・・・・
「もしも、生きてたら」ってのが一番多い国かも。
周瑜、魯粛、呂蒙も悔いの残るタイミングで死んでしまったのが残念すぎる。 苦楽をともにしてきた家臣たちに先立たれ
かなり頑固でうるさいが兄が若くして死んだ時からずっと支えてくれた後見人に死なれ
期待していた息子に先立たれ
自分だけ一人取り残され年取っていく
孫権がおかしくなるのもわかるな ここの流れいいな
合肥あたりのはかばかしくない戦績と、晩年のみをあげつらって無能認定してる
奴らにはこういう考察はできんのかなあ >>238
勉強仲間の朱然はかなり頑張った
やはり孫権は長生きしすぎたな 後継者問題ほっぽり出して途中で死なれたらそれこそ目も当てられないことに。 >>242
孫和はごく普通なんだが、孫登と孫慮には明らかに劣るのは痛かった。 >>236
孫権がマジ有能なのは否定しないし同意するが、逆に言えば、そういった有能な
君主が常に仲裁に勤めないとならないほど、政権内部は混沌としていたわけで。
(混乱とは言わない)
国家制度が成立していないから、個人の能力カリスマに頼るしかない。孫権死後
政権がグダグダになっていったのは当然の成り行きかと。
>>220
違うよ。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜。みな同じ天下二分という戦略の持ち主だった。
周瑜は自力で江陵を獲り、荊南に割拠した劉備を取り込んで関張を指揮下に入れ、
さらに蜀も征服することで長江流域を呉一色に染めることで華北の曹操と対抗
するつもりだった。
魯粛も同じで、ただ現在の実力では単独ではそこまでやれないと踏んで、あえて
劉備を対抗馬に仕立て上げた三分に妥協したが、あくまで劉備を呉の下に置く
戦略は変えなかった。演義では役に立たない外交官と道化にされているが、史実
では劉備がしぶれば実力で軍を率いて荊南を奪い返すべく関羽との一戦も辞さない
ほど主戦派。
呂蒙、陸遜はその魯粛の戦略を継承してさらに推し進めた。 >>245
彼らが蜀に対してどう当たったかってことだけじゃなく、
その行動が対魏関係にどう影響したかってことを考えてみてよ。 何度も合肥を攻めたのは、何bセったんだ。
赤壁での孫権も、どっか別の場所で何かやってた気が。 >>236
孫権が有能なことと、孫呉が国家としての伝統をついに確立できなかったこととを、
「逆に言えば」で繋ぐ必要は無いんじゃね?
それにまた、新興の国家が、個人ではなく国家として忠誠心を得て存続しうるか否かは
二代目以降に掛かっている。創業の君主はどうやってもそのカリスマから逃れられない。
臣下の忠誠心を国家に向けさせるには、カリスマを持たない二代目とその臣下がなんとかするしかない。
孫権に責があるなら、適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さないという
君主の最後の責任を果たさなかったことだ。
>>246
有り得るかもしれなかった魏による荊州制圧を未然に防ぎ、鼎立の体勢を40年維持させた。
とも言えるな。
蜀が長江戦線を呉ほど上手く渡りきれたかというと、分は良くはないだろう。
結局呉には呉の、蜀には蜀の理があるってだけだ。
>>248
孫権は戦争の陣頭指揮だけは下手。これはもうどうしようもない。 >>249
>適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さない
これはとても難しい
なぜなら、後継者にあまりに注目が集まりすぎることは自分の求心力低下につながるから
実は分裂の芽なんだ、それは
最高権力者にとって後継者は大事であるが危険でもある
曹操のように良いタイミングで死なないと継承は案外上手くいかない
清の皇太子密建が優れているのは、ここをクリアできるから >>250
嗣子以外を外に出し、継承の意思を明確にする。
皇太子に軍権など持たせず、適度な修養と適度な交際をさせておく。
それだけで全然違うよ。
孫権、袁紹が失敗し、曹操が危ういところだったのは、少子を継がせるか迷って
複数の子が並立状態になり、人心を分裂させたから。
劉表が曹操南下直前という最悪のタイミングで死んだにも拘らず
継承自体を成功させ劉家の系譜を存続させることが出来たのは、
劉gを外に出し権臣と権力を劉jにそのまま引き渡す用意が出来ていたから。
父帝の即位二年、大敗後の死というこれまた最悪のタイミングで
後を継いだ劉禅が国を40年守り抜いたのも、家臣団の忠誠の方向が
予め定まっていたからでもある。剛勇と評された劉封が健在だったら、
帝位を窺わないまでも権力を振るって反主流派を誘引した可能性がある。
能力のある息子を選びたいという誘惑や諸派閥の言に抵抗するのは
難しいかもしれないが、やるべきことはそんなに複雑ではない。
あとは後継者の器量次第。 続き。
密建のやり方が優れているのは、朝廷の基盤が安定して、
誰を選ぼうとも臣下の官僚集団が揺るがないという前提があるからでないかな。 >>251
劉表の継承はカクが言ってるように失敗だよ
成功したのは子孫を残すことだけで、覇業は最悪の形で分裂しどっちも闇に消えてる 劉表が生きていたとしてもどうしようもなかったよ。
割拠が潰えたのは継承の失敗じゃない。
夏口の兵力を持っていかれただけで、荊州の中枢は分裂せず
嗣子と家臣ともども官位を貰って次の王朝に組み込まれた。
家の存続という当時の高価値を、困難な状況で達成したのだから成功だ。
当時の曹操や賈クの視点からはそんな種類の成功は成功の部類に入らなかっただけのこと。
でも、「そんな種類の成功」を収めた人間だけで魏の朝廷は構成されているわけだからね。 権力の保持と家の存続では全然違うから、話が噛み合わない 劉表は劉キを追い出して劉ソウを後継者にするってはっきり宣言してるのに、
それでも御家騒動になっちゃったってのは、結局、
部下の派閥争いを根本的にどうにかしないと意味ないってことなんだろうな。
ていうか、不遇の貴公子なんか作っちゃったら、逆に非主流派に担がれやすいだけでは。 周瑜の死は、かなりの痛手だったと思う。
国家戦略の変更に匹敵するわけで、呂粛は有能な戦術家がいてこそ光る。
でも、周瑜以後は、呂蒙や陸遜が頭角を現す前に死去。
呂蒙や陸遜は呉に尽力したが、この頃になると魏蜀打倒も厳しい。
やっぱり、周瑜と呂粛だなぁ・・・・
彼らの動向によっては、赤壁以後の呉の勢力図もガラリと変わったかも。 陸遜づくし
ttp://www.tanisan.com/ld/rikuson.jpg 多分 魯粛さんのこと? 不思議な人ですよね。初陣が赤壁で、都督になって…政治家、外交官として卓越した人。 >>261
家財で私兵を養ってたとか。
まぁ、当時の呉では一番先見性あった人だろうな。
周瑜の推挙だっけ?
演義ではカスみたいな扱いだけど、超重要人物だった気が。 魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟の話をしてしまったりかなり破天荒な人物っぽいな。若い頃は
金をばらまいたり剣・馬・弓もやってたらしいし。特別強かったわけではないみたいだけど
周瑜・魯粛・呂蒙のうち1人でも長生きしてればなあ。呂蒙は荊州取ってどうするつもりだったのか
よくわからんけど。孫和が継げなかったのも痛いな。特別有能でなくても真っ当な君主だったろうに
魏・晋に対抗しきれたかはわからんが 孫和が継いだらってのは微妙かなー。
二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
みたいなこと言ってるわけだし、
結果的に孫亮に鉢が回ってきたのはよかったんじゃないか。
個人的には関羽の死後、陸遜が北上して魏を侵略したらしいんだが、
これがうまくいってたらどうなったかと思うよ。 孫和の息子はあの孫晧。
孫和が継いだとしても、死んだらジ・エンド。
あと、孫亮は名君の資質があったとは思うが、
幼すぎて権臣の専横を招いたため、
彼にあのタイミングで帝位が回ってきたのは、
呉という国にとって不幸なことだったと思う。 敬愛する魯粛さんのことを、娘に教えてて、陣中でも書物に親しんで勉強してたと言ったら、お母さんも見習わなきゃって話になってしまった。 でも現代で「陣中」って言ったらどこだろうなー?
職場とか?仕事中に書物に親しむのはヤメテっ>< >>264
前々から気になってたんだが、「魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟」のソースは?
江表伝には「孫権は魯粛に同時に劉備と手を結ぶことを命じた」とあるんだが あやふやで悪いが魯粛が弔問・同盟を命ぜられた時は荊州の主は対外的にはわかっていなくて、
たぶん実力者の劉備がまとめるだろ、劉備を曹操の盾にしようぜ!と行ってみたけど劉ソウが継いで
それだけならいいけど曹操軍が凄いスピードで来て、しかも劉ソウは一瞬で降伏、同盟ってレベル
じゃねえ!劉備なら・・・劉備なら江陵に篭ったりして時間稼ぎをしてくれる!と思ったら
どこも落とさず長坂で蹴散らされて領土は無しで呉に来ました!同盟軍の劉備です!とか言われて
えーおまけで誘ったのに本命なにも無しでおまけだけ来ちゃったよ・・・荊州で盾やってくれると
思ったのに・・・そんな同盟聞いてないよ・・・な感じなんじゃないの?今ちょっと見当たらなくて
悪いんだが、江表伝見れるなら劉備伝のそこらへんのところに魯粛とのやり取りでいろいろ書かれてる
ってどっかで見たような。見れるなら見てみてくれ >>270
声出してわらったw
いや、わかりやすくて良い説明だ >>265
> 二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
> みたいなこと言ってるわけだし、
これって誰が言ったの? >>270
時間的にも情勢的にも相当慌しい状況だっただろうからね。
その中で何らかの答えを出さなければならなかった場合、魯粛の判断は
間違いではなかったとは思う。
対曹操という方針になると、早急に同盟組める勢力は劉備くらいか?
まぁ、選択肢も少なかったとは思うが。
周瑜いなかったら、降伏してたかも知れんし。 外交使節としての専権行使じゃないかね
魯粛が諸葛亮をつれて戻った時孫権は戦略の決断を付けていなかったわけで、
劉備with劉gとの同盟というのは開戦へ大きな材料となっただろう >>272
もちろん明言してるわけじゃないよ。
孫霸派の人が魯王は英雄の素質がありますみたいな言い方をしてるのに、
孫和派の人は太子は年上だしお優しい人ですくらいの言い方に留まり、
ちょっと誰だったか思い出せないけど、孫和派の人が
孫霸は有能だから、地方に出して元帥にしようとか言ってたと思うよ。
まああとで確認取ってみるわ。 ああ、俺が言ってるのは是儀のことかもしれん。
しかし孫和を褒める人でさえ誰も孫和を有能だと言わんのは、
まあ戦術的に長幼の序を唯一最大の武器にしたいというのもあるだろうが、
ちょっと寂しい話だよな。
一人くらい「年上だし、しかも有能」とか言ってやれよって思ったりする。 是儀は孫霸の傅(後見役)。
その是儀が「孫霸を都から追い出してください。前線に送ってください」と言っている。
「孫霸が優秀だからこそ前線におくって、国家の盾となってもらいましょう」とエクスキューズ。
そりゃあ「太子とその弟を同列に扱うなんてバカなことやめてください」とは言えんよ。
同じく「孫霸を外に出して夏口の司令官にしろ」と言った吾粲は殺されている。
孫和に関しては孫和伝では褒められまくってるよ。
もちろん信憑性は疑うべきだが。
長幼の序って皇帝位の相続では案外怪しくて、呉から見て手本となる漢ではしばしば長幼の序を無視している
武帝しかり明帝しかり
つまり長幼の序を第一の武器にするのはものすごく心もとない
「光武帝は能力主義で後継者を選んだよね」とか言われちゃうと否定できなくなる
だから能力がそれなりなら、長子であること以上に能力を推すべき
それなのにあまり有能さをアピールされてないということは・・・ >>278
長幼の序っつーか、孫和を太子に立て、孫霸を魯王に封じながら同格に扱ったのが問題なんだよ。
能力の点から孫霸が適任なら、孫霸を太子にすればいいだけの話。
是儀が問題にしてるのは長幼の序ではない。
「二人の宮様の間には段階の差があるべき」「上下の秩序が重要」と言っている。 >>280
そこでそれを是正しようと本格的に孫覇立太子に動いたわけだな 陳寿の呉志が孫和を有能だと書いているのは、
孫和が孫晧の父であり、陳寿は孫晧の時代に編纂された韋昭の「呉書」
を主に引き写して呉志の部分を書いたからだと思われる。
陳寿が孫晧の「昏君」ぶりを書けたのは、呉が滅びた後の記録や、
魏晋の史書を参照することが出来たからだろう。
さて、では同じく孫晧の「悪事」を書いている後の時代の地方史である
「呉歴」や「江表伝」ならば、陳寿が知り得なかったソースを元に、
権力に気兼ねなく孫和・孫覇の人物を描写し得るだろうし、
原典を読み通した裴松之チェックに引っ掛からないはずはないだろう。
にも拘らず、裴松之は
「和は既に正位にあり,適子と庶子は分け定められていて,たとい才コが殊ならずとも,
なお義は庶子の党にない。いわんや霸の実を聞くことは無く、和が令嗣であるならば」
と述べている。これはどういうことか。
…と思って軽く孫和伝見てみたんだが、孫和を褒めてるのはやっぱり「呉書」だけだった。
呉志全体から引用文献ごとに比較考証でもしてみないとなんとも言えそうに無いね。 孫和はともかく、孫覇ってそんなに英邁だって書かれてたっけ?
是儀以外のとこでどっかある? >>282
呉書も含めて、孫和の評価の仕方って、
馬鹿を率直、愚鈍を慎重、独善を独創、乱暴を活発って言い換えるみたいな、
何の取り柄もない人をむりやり褒めようとしてるみたいな感じ。
記述に具体性がなくて、史書ではお決まりの文句の一般論で終わってる。
温厚な人柄ですよーって、それ無能の言い換えじゃないかと。
呉録で、厳しい問いにも即座に答えられたってあるのが一番ましなくらい。
>>283
どん引きするくらい楊竺が絶賛してる。孫権もそれに納得したらしい。 つまり両者とも褒めてるのは党派の人間が主なんだよな
呉についての主な史料である呉志・呉書が当てにならないとすると
史料の量的に随分厳しいことになるわけだが 孫呉は、内部抗争で本当にもったいないことを… 周瑜、呂蒙の子も罪を得てるし、陸遜自身、憤死だし。魯粛の遺児は、最前線の地方周りで無事だったけど中央じゃ活躍していない。 孫権の息子の中で最も権力欲が強くてもっとも無能な孫奮が皇太子という方法はいかが? 呉が天下を獲れる可能性があるのってやっぱり孫策の許昌奇襲と周瑜の益州侵攻くらいか?
天下を獲れる可能性は滅亡前まであった
一番可能性が高そうなのは孫策
次は生存後の予測がつかない孫堅(呉じゃないか)
袁氏滅亡後は以前と較べて中原が段違いに安定してるから難易度も上がる
周瑜の益州侵攻の他には南郡攻略後の益州侵攻が考えられるけど材料が少なすぎるか
合肥攻略、襄陽保持、241年の大攻勢のどれかが成功してればな… 三国鼎立後は我慢比べが蜀呉の基本戦略だったはずなのに、
それに成功して国内を安定させたのが魏を掌握した司馬氏だったというのが皮肉。
呉は孫登が長生きするか、せめて二宮の変がなければ高官同士の勢力争いも起きず、
諸葛誕らの叛乱に十分な戦力を送り込むことができただろうに。 いつも不思議なんだけど、長坂でこってんぱんにやられて一部隊にも満たなかった(魯粛伝)劉備が、何で呉にとって同盟相手たり得たの?
袁紹とこに逃げたみたいにただの帰順じゃない?
妄想1なんだけど、曹操に荊州が落ちてしまえば呉が魏と渡り合うのはまともに考えればまず不可能で、魯粛は実態のない劉備陣営を無理矢理捏造して、同盟しちゃうことで開戦せざる得ない状況を作っちゃったんじゃないか、ってのはどう?
妄想2はもっと身も蓋もなくて、呉と劉備の同盟なんて、実は後から蜀側の人間(陳寿含む)の捏造なんではないかと。
蜀は実質の力から言えば、三国の一部に数えるには馬鹿らしいど田舎の小国なんだが、ただ、"物語"としての三国志演義の中では常に漢室の流れをくむ"主役"として扱われてきた。
何故か?
それは後世の史家(陳寿)の意図的なでっちあげがあったのではないか?
そして、正史と言う歴史書では描けない嘘を、演義が補って来たのではないか?
そもそも演義と言う物語が民間で伝承されるようになった始まりは何だったのか?
その作者は誰なんだ?ってことを考えると、赤壁で風をふかし、三国鼎立と言う巨大なギャグを打ち立てたあの人しかおらんのではないかと妄想するのです。
>>294
妄想1は分からんでもないというか、「捏造」「開戦せざる得ない状況」は言い過ぎと思うが、
魯粛が開戦の方向に持っていく材料の一つとして
「勢力としては弱小でもとりあえず劉備と結んどけ」って思ったのかもしれんね
妄想2はどこから突っ込んでいいかわからんよ
陳寿と羅漢中らの時代は離れすぎてて言いたいことがぼやけているというか…
根拠は省略するが陳寿はそこまで蜀に肩入れしてないだろう
呉志については韋昭らの呉書をかなりの割合で丸写ししているようだ
そんなところをでっちあげるならコッチもソッチもいじったはずだってことになるんじゃないか?
三国志演義の成立までの過程は『三国志演義の世界』(金文京)辺りをどうぞ きれいに突っ込んでくれてありがと!
もっとけちょんけちょんにいぢめられんじゃないかと怖かったよ。
羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めたんで、その伝承がどこから来たのか知りたかったんだけど、文献あげてくれてありがと!
演義も勉強してみます。 >>294
長坂でやられた中に関羽は入っていない
そして関羽は兵を率いていた(諸葛亮いわく1万)
しかも江夏太守劉キは事実上劉備と一体で、もちろん劉キも独自の兵を率いていた(同じく諸葛亮いわく1万)
劉備直属の兵が敗れていても、自称2万の兵の助力は美味しい
それだけでも十分同盟相手としてなりたつ >>296
「羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めた」ってのはちょっと、いやだいぶ違う
単なる表現の違いで実はちゃんと分かってるってんなら申し訳ないが >>294
実のところ長坂でコテンパンにやられたのは劉備、じゃなくて着いて来た民衆や兵の家族で
兵はかなり保全されてるから >>299
保全はされてないだろう
この当時の兵の大半は歩兵なんだから、
敵の精鋭騎兵に追撃されて味方の首脳部が騎馬で遁走した時点で、
大部分の兵は離散してしまう。先鋒だけで兵にしても民にしても殺しきれるような数ではないが、
劉備が再回収するにもかなりの時間が掛かったはず。