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周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6
0001名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/03(土) 01:13:00ID:XM3pG02J0
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 呉の軍師を語るスレ
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1158115995/
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜を語るスレ
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129711574/
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の中で一番は?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129283103/
周瑜VS魯粛VS呂蒙VS陸遜
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1063987940/
周瑜と陸遜どっちが優秀なのか
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1046456958/
0002名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/03(土) 02:12:23ID:6Z49ziv6O
移転してきたのか
良スレ歓迎します
0003名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/03(土) 02:17:51ID:2hcU+SDyO
移転ではないよ
0007名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/08(木) 16:05:48ID:33/wsKzj0
周瑜
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E7%91%9C
 周瑜(175年 - 210年)は中国、後漢末の武将。字を公瑾と言い、呉の孫策・孫権に仕えた。後漢の尚書令・
周栄の玄孫、周興の曾孫、洛陽県令・周異の子、周循と周胤の父。妻は小橋。諡は忠侯。

青年期
 揚州廬江郡の人。三公の一つである太尉を二名出した名家に生まれ、成長してからは立派な風采を備える
ようになった。若い頃より音楽にも精通し、演奏を聴いていると、たとえ酔っ払っていても僅かな間違いを聞き取
った。これにより「曲に誤りあれば周郎が振り向く」と言われた。

 孫堅が反董卓の義兵を挙げた際、孫策は母を連れて住まいを舒に移した際、同い年の周瑜と篤く親交を深
めた。2人の友情は「断金」、つまり金属を断つほどに堅い絆で結ばれていた。孫堅亡き後、袁術の元にいた
孫策が江東(呉)へ軍を挙げると(194年)、周瑜もこれに付き添って功績を挙げた。

 その後、揚州北部の皖を攻め落とし、この時、橋公の二人の娘(二橋)の姉の大橋を孫策の、妹の小橋を周
瑜の妻にした。『三国志演義』では、二喬は、喬玄の娘で「江東の二喬」と呼ばれており、姉は大喬、妹は小喬
と呼ばれ絶世の美女とされていた。

 その後孫策が急死し、弟の孫権が後継者となった。孫権の母親である呉夫人は、周瑜を孫策同様に兄事す
るよう孫権に説き、周瑜は張昭と新政権の様々な処務を取り仕切る事となった。この頃諸将や賓客の中には
継いだばかりの孫権を軽んずる者もあったが、この時周瑜は自ら率先して敬意を尽くし、臣下の礼を取って規
範を示した。
0008名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/08(木) 16:06:18ID:33/wsKzj0
孫呉の総司令として
 建安11年(206年)、山越討伐を行う。孫瑜らを用いて麻・保、2つの屯所を攻略すると、捕虜は1万人余り
に上り、引き揚げて官亭を守備した。 この後、江夏太守の黄祖が部将・ケ龍に軍勢数千人を預けて孫権軍の
前線基地・柴桑に侵入させると、周瑜はこれを追討して攻撃し、ケ龍を生け捕りにして呉に送還した。 建安13
年(208年)春、前部大督(前線総司令)に任命された周瑜は江夏の黄祖を攻略し、これを撃破。孫堅以来か
ねてよりの仇敵を討ち滅ぼす事に成功する。

赤壁の役
 同年9月、河北の統一を果たして覇者となった曹操が軍を率いて南下する。荊州を降伏させてその兵士を
吸収すると、水兵歩兵あわせて80万ともいわれる大軍になった。 この事態を受けた当時の孫権陣営では
降伏論者が多数を占めていたが、この時周瑜は魯粛と共に意見を同じくし、徹底抗戦を主張した。周瑜は
曹操軍が冒している数々の不利と、対する自軍の利を理路整然と説き、これによって意を得た孫権は曹操
に対抗する事を決断する。

孫権は精兵3万を周瑜および程普らに与え、この時荊州から逃れてきた劉備と協力して共に曹操を迎撃
させ、赤壁の地で対峙した。果たして周瑜の予測した通り、この時曹操軍はすでに軍中に疫病を抱えてお
り、一度の交戦で曹操軍は敗退して、長江北岸に引き揚げていった。

そこで次に周瑜らは南岸に布陣すると、部将黄蓋の進言を採用して、曹操軍艦船の焼き討ちを計画する。
降伏を偽装して接近に成功した(演義ではこの時苦肉の計が行われたとする)黄蓋が曹操軍の船団に火を
放つとたちまち燃え広がり、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。被害は多数に及んだために曹操軍はついに
敗退し、引き返して南郡に楯籠った。

劉備が周瑜らと再度合流して追走すると、曹操は曹仁を江陵城の守備、楽進を襄陽の守備に残し、自らは
北方へ撤退していった。大軍を擁した遠征で必ずや疫病を抱えるだろう事、船団の扱いに不慣れであろう事、
曹操軍の弱点をすべて見越した周瑜の勝利である。
0009名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/08(木) 16:06:49ID:33/wsKzj0
36年の短い生涯
それに続いて孫権は呉にとっても重要な拠点となる江陵に目をつける。そこを守るのは魏の誇る歴戦の将、
曹仁と徐晃であった。さすがにこの2将の守りは堅く、また曹仁も徐晃も勇猛なため簡単には落とせなかった
が、周瑜はその機略を以ってうまく曹仁と徐晃の部隊を分けると、自ら曹仁軍を粉砕し(この時、曹仁は万余
人の兵を失った)、そのまま江陵を攻め立てるがこの時周瑜は流れ矢を受けて負傷し、それが病へとつなが
った。だが周瑜は自分が重体であることを用いて有利に持っていき、ついに曹仁・徐晃らを撃破し、江陵より
追い出した。これにより孫権は重要拠点・江陵を制圧することができた。しかしこの戦で周瑜の病は更に悪化
してしまった。それでも周瑜は無理を押して孫権の元へ行き、益州の劉璋が惰弱なことから益州を占領し天下
を曹操と分けるといういわゆる「天下二分の計」を立てる。が、これが周瑜が孫権への遺言となってしまった。
実行に移すべく江陵へ帰還途中に36歳の短き人生を閉じた。
0010名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/08(木) 16:07:34ID:33/wsKzj0
周瑜の評価
周瑜は度量が寛大で人の心を掴むことが得意だった。宿将程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の
周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈してへりくだり続けたので、その謙譲さに程普もとう
とう感服し、尊重するようになったという。

また、曹操や劉備は周瑜の才能を恐れ、曹操は家臣の蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は
孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようと図ったほどである。史実の周瑜は知略・武略に優れる
名将であり、味方からは慕われ、敵からは恐れられた英雄だった。

『三国志演義』での周瑜は、諸葛亮に翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透
かしてくる諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながら対抗するも遂に敵わず病に倒
れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも
生んだのだ!」と血を吐いて憤死するという哀れな最期となっている

なお京劇では周瑜は「美周郎」のあだ名の通り、二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としての
イメージが定着している。
0011名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/08(木) 16:13:01ID:33/wsKzj0
魯粛
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%AF%E7%B2%9B
魯粛(172年 - 217年)中国後漢末に袁術・孫策・孫権(後の呉)に仕えた武将・参謀。字は子敬。徐州の
臨淮郡東城県(現在の安徽省定遠県南東部)の出身。曹操との赤壁の戦いでは降伏派が多い中、主戦論
を唱え周瑜と共に開戦に成功した。また劉備陣営との提携に成功させた。周瑜の死後は孫権陣営の舵取
り役として活躍する。魯淑の父、魯睦の祖父。

経歴
生まれてすぐ父親が死去。裕福な家に産まれたが家業は放り出し、財産をなげうって困っている人を助け、
地方の名士と交わりを結んだ。また剣術・馬術・弓などを習い、私兵を集め兵法の習得などに力をいれてい
た。周瑜が孫策の元に行く前に、資金や食料の援助を求めにきた時、彼は持っている2つの倉の内の片方
をそっくり与えた。魯粛と周瑜はこれをきっかけに親交を持つ。
0012名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/08(木) 16:13:31ID:33/wsKzj0
孫権政権へ
魯粛の名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県の長に任命された。しかし魯粛は袁術の支離
滅裂な行状に見切りをつけ、一族郎党を引き連れて周瑜を頼り、袁術から独立し急速に力を増している孫
策の配下になった。

孫策が亡くなると、孫家から離反する人物が多かった。魯粛も友人の劉曄に誘われて孫家から離れ、巣
湖に拠る鄭宝の元に行こうとする。しかし周瑜の説得により思いとどまり、孫権に仕官する。

大胆な戦略
魯粛が孫権に初めて謁見した時、「漢室再興」を望む主君に対して、漢の高祖の例を挙げつつ「漢室再興
も、曹操をすぐ除く事も不可能」と断じ、まずはじっと様子を伺い、北方の騒乱に乗じて黄祖、劉表を攻めて
荊州を制圧し、長江を北岸として割拠してから自ら帝王を名乗るべしとした。 この戦略は後年における諸葛
亮の天下三分の計に先んじるものであり、かつ「自ら帝王になれ」という非常に野心的で大胆すぎる提案で
あった。孫権は「今は地方が手一杯。漢室がお救いできればと願うばかりで、そのような事はおよびもつか
ないな」と答えるのみだった。しかし、重臣の張昭が魯粛の不遜さを中傷しても孫権は意に介さず、ますます
魯粛を重用した。

孫劉同盟を司る
赤壁の戦いの直前に劉表が亡くなると、すぐに荊州の様子を探りに行くように進言。その事情を把握すると
劉備と同盟を結び曹操と対峙する事を進言した。そして、周瑜を召しかえし、曹操の軍にあたらせたり、諸葛
亮と話し合い同盟の手はずを整えるなど赤壁の戦いの時は主に縁の下で働いていた。

周瑜が亡くなるとその遺言で後継者として選ばれ、呉の軍隊をとりまとめた。地方でも彼の威徳は行き渡り、
赤壁の戦いで疲弊していた呉の国力を回復させる。劉備の部下の関羽と魯粛の間では、荊州を巡ってしばし
ば紛争が起こっていたが、魯粛は劉備と同盟し、曹操に当たることが呉の将来のためであることを信じ、劉備
達には常に友好的な態度で接し、事を荒立てないようにした。しかし、要求を行う時は常に毅然とした態度で
臨み、兵を用いずして荊州南部の三郡(長沙・零陵・桂陽)を取り返す事に成功した。

217年に46歳で亡くなった。 
0013名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/08(木) 16:14:05ID:33/wsKzj0
人物
『正史』では、虚虚実実の渡り合いを見事にこなし、沈着冷静にして剛毅な人柄であることがうかがえる。特
に、赤壁の戦い以降、煩雑な情勢を巧みにあしらい、あわよくば荊州をものせんとする蜀を退けるなど、外交官、
行政官としても卓越した手腕の持ち主であり、柔軟さに優れた戦略家であった。

しかし、『三国志演義』では、知略に優れた人物として扱われつつも、温厚かつお人よしな性格のために諸葛
亮にいいようにやられ、周瑜になじられるという損な役回りを演じている。また、正史では成功した関羽との交渉
も、演義ではけんもほろろに追い返されてしまっている。こうしたキャラクターのためか連環画などではその性格
を表した風貌に描かれることが多い。
0015名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/03/13(火) 23:59:35ID:0a13yIQF0
軍師って何だかあやふやな存在だよね。
0016名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/15(木) 04:57:18ID:Dug7IT8kO
だな
0018名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/03/18(日) 00:21:22ID:jc+0cg0aO
諸葛セイはなんかもの哀しい
0021名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/04/15(日) 19:10:21ID:dfq7N8hD0
あげ
0022名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/05/04(金) 23:07:05ID:KViKa44E0
軍師か?政治家か?
難しい問題だな。
0027名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/06/23(土) 00:50:31ID:cCVKdtPX0
今制作中の映画「赤壁」は呉側からの視点が中心になるそうだよ。
0029名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/07/27(金) 00:46:07ID:o/YW04jw0
シュウユって実際に流れ矢が元で病気になって死んだのかね
暗殺?
0030名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/07/27(金) 00:56:56ID:PhbeMTAp0
左軍師 :丁奉、全j

右軍師:朱然

軍師 :張悌

副軍師 :諸葛セイ

呉で軍師と名の付く官職にあったメンバーはこれだけ
0032名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/08/03(金) 11:45:10ID:VATHXxLpO
>>30
では、周瑜も呂蒙も陸遜も軍師じゃないってことですか!?演義も正史にも名前はあるけど、軍師というのは演義の創作だったとはorz
0033名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/08/03(金) 17:44:47ID:jfHAV6Zx0
呉の軍師の話なら呉範と孫権のやり取りがあるな
裴松之が批判してるのは孫権が陛下と呼ばれてる点だから
官職の名前にかかわらず参謀の仕事をすれば
軍師として扱われることもあり得た・・・かも知れん
0036名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/08/06(月) 10:16:15ID:HViqxAnb0
軍人の師父だから軍師
0038名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/08/31(金) 22:20:48ID:N3N/MtLK0
カワイソス
0039名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/01(土) 15:11:09ID:FlHgwL7l0
演義で張苞が破傷風で死んでると思い出したが、コレって横光版の特徴なのね。
原版演義読み直したら破傷風とは書いてなかったわ。
0040名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/01(土) 15:23:01ID:FlHgwL7l0
正確に言うと破傷風を思わせるような記述ではなかった。だな。
当時の人が経験則的に破傷風(そうだとは知らなくとも)を避けてたかどうかもちょっと分からん。
0042名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/16(日) 22:45:38ID:a8Ay37JH0
陸遜の改名の意図なんなん? 遜は譲るって意味だけど陸家の
今後の生き残りとして孫呉へ参入を踏まえて孫家に対してそういう含みを
こめて改名なんかな?
0043名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/17(月) 01:03:41ID:sgnvH6NmO
改名の意図は確かに気になる。
でも孫家に云々だったらタイミングが遅い気もするんだよな…
確か陸議の名前って結構後になっても現れてたって聞いたことがある。


遜の字の中に孫が入ってるのも何か含みがありそうだと思うのは妄想が過ぎるかな。
0044名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/17(月) 02:27:45ID:xq6rYDDJO
遜の字を分解すると「孫に走る」で孫家に馳せ参じるの意味

かどうかはわからん。妄想だからウィキとかに書くのはナシで
0045名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/18(火) 15:46:30ID:Tue1MnJ00
陸遜って孫権の姪を嫁に貰っているけど、かなり年下だよね。
陸遜はどちらかと言えば孫兄弟の世代の年齢だし。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/18(火) 20:48:50ID:mLpr8+9n0
陸遜 = 西暦183年生まれ

陸遜の妻 =西暦197年〜200年生まれ?
(孫策の娘)
0049名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/18(火) 23:27:32ID:yCTgqUO60
一般的なイメージと違って、
実際の魯粛は結構、豪傑な感じだね。
0052名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/20(木) 20:57:21ID:DWkA7lrM0
もう一人の息子は出来が悪かったな
陸抗の爪の垢でも煎じて飲ませたい
0054名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/21(金) 23:42:19ID:YDJ5guHQ0
二代目にボンクラが多いというのは、古今東西、時代を問わずによくあることでは?
蜀や魏も、そんな感じが多いだろうし。
0056呉豪族の華麗な血脈
垢版 |
2007/09/22(土) 01:44:04ID:JdADTu9X0
親・子世代
 孫堅→孫策、孫権
 孫静→孫瑜、孫皎、孫奐
 孫河→孫桓
 朱治→朱然
 張昭→張承
 凌操→凌統
 陳武→陳表
 虞翻→虞シ
 顧雍→顧邵
 賀斉→賀景
 陸遜→陸抗
 留賛→留略・留平

子・孫世代

 孫権→孫登、孫慮、孫和、孫休、孫亮
 朱然→朱積
 顧邵→顧承
 賀景→賀邵

呉豪族の血族継承はまこと素晴らしい。
他方、凄まじくダメダメな血族継承も多いのも血族継承ゆえだろうか。
0057名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/22(土) 11:48:05ID:JlvX49Sg0
そういや姜維って子や孫はいたのかな
高官であり年齢考えたらいてもおかしくないはずなんだが名前でてこないよな
0058名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/23(日) 06:20:33ID:T7hpUgjq0
>朱治→朱然

叔父甥の関係だろ
0059名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/23(日) 12:13:58ID:G0A2EwSL0
>>50
陸抗は西暦226年生まれ
0060名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/23(日) 19:04:41ID:w5Jup/8X0
>>57
姜子牙(ウソ)
0063名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/30(日) 15:26:08ID:pFqoKiYJ0
東晋は呉の人材の遺産にも助けられてたり
0064名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/30(日) 20:16:51ID:6TkfthxX0
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182528365/4
http://ex21.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1182929964/
三戦板復興プラン

3
三国志スレは立てない、立てさせない。
既存の三国志スレもできるだけ追い出し、戦国一色の板を目指す。
三国志には常に無双の影が付きまとい、それが糞スレ発生の温床となっているから一時的に完全除去する必要がある。
三国志を語りたい住民には一時的に中英板へ疎開してもらい、三戦板の情勢安定を待って戻ってもらう。


理解できましたか?
という事で板の糞化の元凶の三国志関連スレッドは中国英雄板に出て行ってください。
これも三戦板のためなんです。お願いします。

中国英雄板
http://hobby9.2ch.net/chinahero/
0065名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/09/30(日) 21:56:58ID:JG3fIDTo0
>>63
一方で、その旧呉の人材の勢力が伸びすぎたりしないように、
巧みに操縦している。
0066名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/04(木) 12:18:15ID:f+bVMauj0
周瑜 戦略A 戦術AA
魯粛 戦略B 戦術C
呂蒙 戦略C 戦術A
陸遜 戦略AA 戦術A
陸抗 戦略AA 戦術AA
0067名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/05(金) 19:48:39ID:PqV7aDll0
>>65
ほとんどは琅邪王氏の王導の力によるものだけどね。

>>66
ほう、総合的に見て、陸抗 >>> 陸遜 であると?
0069名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/05(金) 22:14:16ID:xIsUrcO3O
そもそも対羅憲戦は陸抗が総大将じゃないから、もし陸抗に功績があったとしても、それがどれほどまで戦局をかえることになったか…
0070名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/06(土) 00:48:20ID:IqBzE5090
総合的に見て、陸抗 >>> 陸機
0071名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/06(土) 01:25:06ID:CRA/j1Bu0
これらの軍師たちの中で、経済にも明るかったのは、
誰になるだろう?
0072名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/06(土) 15:52:48ID:KK1g61aV0
陸遜だろ、陸遜丞相時が呉の最盛期
0073名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/08(月) 11:59:16ID:UsU0PF7A0
周瑜と陸遜の全盛期が同時期だったら
面白かったね。
陸遜が国内を固めつつ敵を牽制し、
周瑜が戦端を開いていくという構図がね。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/08(月) 19:48:46ID:hmmhiuT90
名将百選スレより、中国の古典名将排行榜

不朽名将
1 孫武  世界第一兵書『孫子兵法』の作者にして中国軍事学の父。
2 呉起   亜聖、軍事政治両面における奇才で、戦国第一名将。   
3 李靖   唐初第一名将で騎兵戦の天才、『李衛公兵法』『唐太宗李靖問対』の作者。

半人半神的名将
4 韓信   漢初第一名将にして西漢建国の最大の功労者、また古兵法を整理した。
5 李世民  唐の事実上の開国皇帝で、有史以来最速で天下を統一した中国第一名君
        (但し部下の助力、晩節を汚した部分などあり)。
6 岳飛   常勝の名将で、南宋の救った英雄。
7 劉秀   東漢の開国皇帝で、昆陽の戦いの奇跡を引き起こすなど、数々の勝利を収めた。
8 曹操   魏の事実上の開国皇帝で、『孟徳新書』の作者。勝利と共に敗北も少なくないが、
        輝かしい戦績を収める。
9 陳慶之  南北朝第一名将で、田中芳樹氏強力推薦(中国でも有名なのか?w)
10 柴栄  五代十国最高の英主で、天下統一の事実上の最大の功労者だが、惜しくも短命。
0075名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/10/08(月) 19:49:33ID:hmmhiuT90
天才的名将
11 項羽  東方のハンニバル、最強の武将だが戦略頭脳に大きな問題があった。
12 霍去病  中国騎兵戦三大天才の一人。
13 衛青  中国騎兵戦三大天才の一人。
14 班超  世界で最も早期の植民者の一人で、「夷を以て夷を制す」策の先駆者。
15 孫臏 『孫臏兵法』の作者で、二度に渡って魏軍を破って斉を隆盛へ導いた戦略戦術の奇才。
16 韋睿  南北朝第二名将で、鍾離の戦いにおける梁軍の事実上の指揮官。

儒将的典范
17 周瑜  若くして優れた武将で、人望もあったが、惜しいことに短命だった。
18 徐達  明初第一名将、北伐を成功させた。
19 郭子儀  唐再興の功労者で、「不戦而屈人之兵」理論を最も実践した。
20 李牧  戦国四大名将の筆頭。その戦いぶりは後世に多大な影響を与える。  
0076名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/08(月) 19:50:13ID:hmmhiuT90
超群的名将
21 劉裕  南朝宋の建国者、北伐で大きな戦績を収める。
22 戚継光  岳飛に匹敵する名将だが、歴史への影響力は及ばず。
23 諸葛亮  諸葛亮は第一には政治家であるが、軍事面での功績も多大である。
24 楽毅   戦績は輝かしいが、五国を連合させれば敗北の可能性は少ない。
25 檀道済  南宋の名将で、用兵の達人、北伐後の撤退の手際が鮮やか。
26 拓跋Z  北魏皇帝で、華北を統一した。  
27 王猛   政治軍事両面に優れていたことから諸葛亮に匹敵。
28 王陽明  思想家で陽明学の開祖であると同時に用兵の達人で、寧王の乱を鎮圧。
29 陸遜   その功績において周瑜に近く、夷陵の戦いで劉備を破った。  
30 袁崇煥   明朝最後の名将で、大砲を実戦投入した。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/08(月) 20:56:35ID:uorADS3MO
>>77
周喩が主導していた頃は、すでに巍は君主制国家として完成していたからな。
周喩が巍にいたら名を残すのは難しいだろうな。
裏返せば、曹操の偉大さを顕している。
0080名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/10(水) 14:09:30ID:hAvfVj1NO
携帯だと変換出来んな
0083名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/11(木) 21:34:20ID:FRX9mOI80
こう並べると周瑜と陸遜がかなり見劣りするなぁ。曹操も・・・
たとえば王朝実質初代で曹操(以上)と思う朱元璋、趙匡胤

項羽がありなら尉遅敬徳、楊大眼、賈復あたりなんか陸遜周瑜より上
と思うけどな。 とりあえず三国志からねじ込みましたみたいな。

周瑜あたり若いつっても岳飛と死んだのたいしてかわらんが赤壁の件
も思えば北→南攻撃で失敗するという典型例の1つとも言えるし岳飛
と比較すると実績がイマイチ。

三国志ならトータルで曹操がランクインがせいぜいじゃないかな。
0084名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/11(木) 23:06:40ID:27Qu+lRR0
>>82
いや、適当に並べてみたもので、権威なんて特にないと思うよ。
でもまあ、中国人の一般的な認識をある程度反映しているんじゃないかな。

>>83
そこまで卑下しなくてもいいと思う。
三国志以外でもやや微妙さを感じる人物がいないわけでもないし。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/12(金) 15:56:30ID:RscledMc0
岳飛が神扱いなのは分かるとしてあっちで岳飛みたいな扱いされてそうな
髭はランクインしてないんだ。 やっぱそこは客観的に髭は実務はそこ
まででは・・という認識は向こうにもあるのかな。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/13(土) 13:56:09ID:vEJgx6cH0
関羽は人気者の神様とは言っても、軍事的功績はそんなに認められていないでしょ。
そもそも商売繁盛の神様なんだし。
0088名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/14(日) 03:38:06ID:wsc0dPmh0
日本人の印象ではそうなってるけど
中国じゃ道教の神、商売の神であって軍神としては信仰されてない
0089名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/16(火) 13:47:48ID:JRd48fGQ0
山越との戦いにおいて、一番の功績を挙げた武将って誰になるんだろう?
0092名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/17(水) 07:34:11ID:QQje4r400
呉内部での、武将に対する評価では、
対魏戦争と、対山越戦とでは、どちらが評価される傾向にあったんだろう?
0093名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/17(水) 10:41:39ID:EO3pgLEV0
>>92
根本的に、両者の考え方が違う。
対魏は実質的には戦争で外交の一手段。(建前的には中華世界内での内乱の征討)
対異民族は呉の場合、領土内なので反乱分子鎮圧で内政の一環。
(魏の烏丸や匈奴対策は、中華世界外の夷狄の討伐、教化という儒教的名目。
蜀の西南夷討伐は、実際の所は反乱を口実にした領土拡張政策)
史書に目を通しての自分の判断ですが…戦そのものでは対魏の方が評価されてる。
対異民族は勝敗より人狩りなどの戦果を目的としているためでしょうね。
ただ潘濬の武陵討伐のような三国時代最大級の異民族討伐となると、幾人もの伝に記載があり
太常という立場の人間が責任者となり兵五万ともなる大事業のようです。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/17(水) 13:51:12ID:54+/aafM0
山越からの兵力吸収って結構重要なんだろうなあ。
周瑜と陸遜は若いころ山越討伐で戦果あげてるよね?
他の人はどうだっけ?
0095名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/18(木) 00:25:55ID:ogn5Rv/D0
山越討伐って地味だけど
多くの呉将が経験してるな
黄蓋が赤壁戦後あまり見かけないのは
山越討伐に携わっていたからという説もある
0098名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/21(日) 01:12:31ID:DTsjdYEl0
>>97
曹操を長江で食い止め
曹仁から江陵を切り取ったのは
間違いなく周瑜の功績
曹操も周瑜の事を認めてるな
0100名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/21(日) 03:20:24ID:x3HT31iJ0
赤壁以外では山越討伐、孫家に根の深い仇敵黄祖の攻略。
赤壁以前の時点で曹操を打ち破る策を具体的に持ち、
孫権に三国鼎立のチャンスを手に入れさせた。
周瑜がいなければ三国時代が訪れていなかった可能性もなきにしもあらず。
対曹操徹底抗戦派の筆頭。
そして>>98
以後、馬超と盟を結び天下二分の計を実施するむねを孫権に献策。そして実行。
あの時点でそのような視点で天下を語り、尚且つ現実に実施したのは劉備と周瑜のみ。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/21(日) 17:33:19ID:q9eoN42c0
基本的に負け無しの名将だし、
だいたい実績ってのは人材推挙やスポンサードは入らんのか?
甘寧や魯粛を引き入れたのは彼だし、孫家に自宅まで提供していたんだぞ
0103名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/22(月) 04:26:24ID:77Qp/rebO
プロ野球のファームみたいだ。 山越討伐
0104名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/22(月) 09:18:47ID:olwUV2r+0
まぁ、今までブルペン登板すらしたことの無かった選手にいきなり日本シリーズの先発投手

みたいな起用をやらかした諸葛亮よりは、呉の方が堅実ではあるな。
0105名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/26(金) 16:24:37ID:njDIJ8rY0
それだけ蜀より呉の方が余裕があったということでは
0106名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/10/30(火) 14:53:51ID:c8GVd9VG0
呉の方が、譜代となる臣を養成するだけの期間があったからね。
0108名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/01(木) 23:33:08ID:l6au9Yp+0
>>105
土着と、よそ者の差と言うべきか

孫氏はいつ頃から江南に居住していたんだろうか?
0109名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/02(金) 21:21:20ID:cz6MYQUM0
>>108
孫武の末裔が本当なら春秋時代
0110名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/02(金) 21:31:51ID:fLfnPrY80
ソンピンが居るから無理
0111名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/02(金) 23:41:57ID:m9BVC6hV0
普通に漢代のうちに、中原から流れ着いた一族なんじゃない
0113名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/11/04(日) 03:32:42ID:f8lHY54U0
全然呉の軍師を語るスレの流れじゃないぞ
0114名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/07(水) 07:43:42ID:aHLLvrRX0
っていうか三戦でやれよ屑共
0116名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/07(水) 23:38:09ID:MbaOYmVL0
周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗と並べると、世代が違いすぎるからか、
陸抗だけが浮いてしまう感じがしちゃうな。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/12(月) 01:45:16ID:0WhnKK6P0
陸抗、もう少し早く生まれていれば…
0121名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/29(木) 21:10:55ID:+gR3D5ip0
孫堅の頃の軍師は?
やっぱり程普?
0123名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/11/30(金) 14:50:41ID:lS5srTVg0
>>121
孫堅はわりと自分で考えて頑張っていそう。
0124名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/09(日) 19:18:03ID:/j5iZbTOO
ホウ統と周ユの関係が謎だ。
江陵攻略後なのかとか
なぜ孫権に推薦してないのか
益州攻めの計略は元々は周ユの為に練られたものか
人を見る眼があるらしい?劉備も躊躇したモッサリ君
いきなり功曹登用はエラくない?
0125名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/09(日) 21:51:37ID:arTKONwp0
周瑜が南郡太守になったのが曹仁を駆逐したあとなので、
南郡功曹のホウ統と主従になったのはこのタイミングだね。
周瑜は亡くなる直前まで益州攻めを計画してたから、
ホウ統が一枚かんでいた可能性もなくはないね。
0127名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/14(金) 15:39:40ID:QOMA4W3bO
周瑜が孫策一家に提供した
「南側」の大きな屋敷
南の表現に力関係が現れてるという考えは的外れ?
単に日当たりの問題?
0128名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/15(土) 18:04:14ID:SNNeFr230
そもそも周瑜ってその気になれば孫家なんか目じゃなかったと思うんだが
武力的要素では孫家に劣るかもだけど
あんだけ優れた人間が孫家にひたすら尽くしたのが不思議だ
0130名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/18(火) 10:46:11ID:2JsptojE0
周瑜までは名門だけど、周瑜の子からあんまりパッとしてないな。
だから孫家に寄ったのか?
0132名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/18(火) 18:18:00ID:tjCa+8CpO
単に周瑜が「自分<孫策」と認めたことに尽きるのではないだろうか。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/18(火) 22:50:32ID:5a4lcYiW0
結局武事に秀でた人間が上に立つべきとされる時代だったからだろう。
曹操・劉備・呂布らもそうやって家格や財力では上の人間達に推し立てられたけども、
初めは協力体制的でも成功するうちに集権的になっていく。
孫策と周瑜の軍事の能力はどちらが秀でるかは置くとして、
孫堅の子という期待が孫策にあった分だけリードしていたと。
が、周瑜もよく孫権の代まで独立とか考えなかったもんだとは思う。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/19(水) 00:15:00ID:tcQ5K6ua0
反董卓の孫堅を周家が援助した。
そのあたりの判断は周瑜の祖父か叔父かは知らないけど、
周瑜本人でないことは明らかだろう。周忠?だっけ?
孫堅死後の孫策と周瑜の関係はその幼い頃に構築した「情」としか説明しようがない。
分かんないのは孫堅死後の周家がどういう状況にあったのか、ということ。
孫策は一家の長になったわけだから勝手するのは理解できるんだけど、
周瑜は勝手に孫策に付き合えるような状態にあったのかな?
周家を挙げて若武者に全力援助するわけがないし・・・周瑜の独断としか思えない。
まあ周家はなんとなく袁術嫌いそうだけどw
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/19(水) 04:01:33ID:ORKEhoi+0
単に周尚が袁術の部将として失敗したからなんじゃないの。
それで袁術とは距離を取っていた周瑜が代わって台頭したと。
もしかしたら周尚が失敗するまで周瑜の方は冷や飯を食わされてたかもしれない。
0136名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/19(水) 05:51:44ID:ZQs1tQIIO
後漢書で周忠の息子の地元の評価が高く、
常に数百の車が付き従う、とある周暉が
洛陽で董卓に兄弟もろとも殺されている
 (周忠は献帝の東帰に従い李カクと戦い、
捕まったのを買クに助けられている)
一族の仇の董卓とまともに戦った孫堅は
周瑜達には恩人かも。
袁術にも袁安以来の恩で板挟みだよね。
民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ
0137名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2007/12/20(木) 12:16:39ID:PZvRX05G0
>民間伝承の周瑜の叔父殺しも気になるところ

kwsk
0138名無しさん@お腹いっぱい。
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2007/12/20(木) 14:57:13ID:pF5SSk6jO
>137
今戸栄一編『赤壁秘話呉臣編』光栄w
『太平〜』にも記述があったような…怪しい記憶でスマン
ほのぼのとした笑い、ラブラブネタの中で
曹操と内通した叔父一家を惨殺!辺り血まみれ…
これだけが妙に怖くて生々しいエピなんだよ
0140名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/01/15(火) 19:54:37ID:xdq2Gu0c0
>>138
エピがエビに見えたwwwww
0142名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/01/25(金) 10:29:33ID:mMB4f7OjO
残酷志
0144名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/01/30(水) 02:05:34ID:q5fvmkEf0
ファームごときの難易度にされる山越カワイソス

山越はアメリカのアフガンでのタリバン掃討ぐらいの難易度だぞ多分
0146名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/01/30(水) 07:51:25ID:DWki1bmD0
陸遜「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくる。
    こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰よぉ」
0147名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/01(金) 00:50:26ID:ju7QPUh30
ジーコジャパン発足当初の黄金のカルテットみたいだな

周瑜:中田英寿・・不動の司令塔
魯粛:稲本・・縁の下の力持ちのボランチ
陸遜:中村俊輔・・テクニックに優れるファンタジスタ
呂蒙:小野・・テクニックあるが病弱
0150名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/03(日) 07:28:11ID:MqoDSOMd0
本家ブラジルの黄金のカルテットならどうなる?
0151名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/03(日) 12:06:30ID:eQSzKXij0
周瑜 プラティ二じゃない?
0152名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/03(日) 16:12:32ID:VGkN02fl0
>>146
○↓
「叩いても叩いてもモグラのように奴等はわいて出てくるわァ!
 こいつらを漢化すれば、呉のマンパワーは将来にわたって安泰だのォ!」
塚本史に任せるんだ!
0154名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/21(木) 20:40:16ID:01QOhFJP0
張昭は軍師?
0155名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/21(木) 20:56:27ID:6E9DzpGS0
張昭は劉備と孫権が漢官を互薦した時に、劉備から軍師の官職をもらってる
ちなみにスレタイのメンツで軍師の官職に就いた者は皆無
0157名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/21(木) 21:19:16ID:NysqZFik0
>>153
ブトラゲーニョはスペイン人
0158名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/22(金) 02:59:40ID:b0iwVuU30
そうだな、呉の軍師って言われるとなんとなく張昭が思い浮かぶな。
都督とか提督とか前線最高指揮官とかそんな印象が先に来る。
0159名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/24(日) 06:02:27ID:zLL2rkcN0
都督とか軍師とか大司馬とか
呉って孫権の時代から伝統的に二頭体制なのな。
0160名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/24(日) 11:46:52ID:8vrXC9SS0
いや、二頭といえるのは荊州牧の陸遜からだろう。
周瑜らは陸口の都督というだけで、日常から諸将への命令権があった
わけじゃない。
比較上位だったのは間違いないけど、大都督は戦時任命であって、
しかも指揮権の優位を巡って程普や孫皎と問題になりかけてる。
0161名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/24(日) 23:46:49ID:WbhjGxJ0O
そういや丞相も左右にいた事あるな
0162名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/25(月) 13:06:22ID:LAYhD79TO
大司馬も
0163名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/25(月) 21:54:50ID:nn4OtKVOO
役職が左右に別れてると
何らかの利便性あるのかな
0164名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/25(月) 23:29:11ID:DWcIZJBo0
権力集中させたくない場合や、力量不足の場合補佐で右に補佐役
置いたりするみたいだな。
呉は若干皇帝権が惰弱だから結構合ってるのかも。個人的には
小国が右と左置くのは良くないと思ってるけど。
0166名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/02/26(火) 18:53:42ID:JXIfojE50
前漢初期も
陳平と周勃が左右の丞相だったような
0167名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/26(火) 23:20:58ID:2zGXJuPm0
都督とは艦隊司令官だと思ってた
0169名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/27(水) 23:01:59ID:LHxq/u7QO
演義での、赤壁の戦いの影響もあんじゃね?
あと、肥のゲームとかも。
0170名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/02/28(木) 13:30:29ID:uxkYhAWw0
演義が書かれた当時の明朝は、軍の最高司令部の名称を、
枢密院から大都督府に改めているね。
その後、権力を分散させるために、前後左右中の五軍都督府に改編した。
0171名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/03/03(月) 23:39:50ID:HGktECxK0
唐代の都督は節度使の陰で存在感が薄かったけど、
宋代にも、臨時の最高司令官の称号に使われていたりするから、
都督という言葉は、かなり上級のものとしての響きがあったのだと思う。
0172名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/03/04(火) 08:51:06ID:MEVSriI60
赤壁って周瑜がいなくても勝てたよな
0175名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/03/06(木) 23:57:04ID:+S4FFH7M0
周瑜がいないと勝てなかった
少なくとも劉備じゃ無理
0183名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/04/02(水) 03:55:47ID:QV+rRutt0
年が近い同僚だったから。
0184名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/04/02(水) 13:06:44ID:YpOD09tqO
元服前から一族ぐるみの付き合いだっただろ
0185名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/07/02(水) 21:22:09ID:PgQUCFBn0
断金の交わりは水魚の交わりよりも堅し
0186名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/07/05(土) 14:41:41ID:0iIN22mV0
断金じゃなく禁断だったら婦女子がよろこびそうだ
0190名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/18(土) 16:55:36ID:avANRtx20
呂蒙・・卑怯者。クズ。卑怯な手しか使えない。
0191名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/20(月) 00:32:12ID:4GkweUMy0
>赤壁って周瑜がいなくても勝てたよな
能力的にはね
知名度、カリスマ、財力、曹操と立ち向かうのに
国を束ねられる人物は周瑜しかいないよ

あらゆる面で孫権より影響力があったのは確か
家柄も孫家より上だし
0194名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/25(土) 17:41:47ID:YcgLONfU0
>>190
荊州失陥の事を言ってるのなら、先に食糧庫を襲った関羽が卑怯でクズ。
0195名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/26(日) 16:53:02ID:NfhTkKsZO
周瑜の直系の子孫が発見した家系図って信憑性あるの?
0197名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/26(日) 20:08:52ID:NfhTkKsZO
うさん臭くても、死因は本当っぽいから判断に困る。
子孫的には、病死より戦没のほうがカッコいいから捏造したのか?
0198名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/26(日) 20:35:11ID:VgOaZC1q0
いや、あの死因が本当だとすると江陵攻め以降の事跡が
全部病床からのものだったってことになるんだが、どうなのかなあと。
一年くらいあるでしょ、矢を受けてから死ぬまで。

その死因さえなければ系図を信じてもいい。
死因が胡散臭いから信じれない。
0200名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/27(月) 17:16:05ID:54sXthxt0
1600年からの系譜が記されてる(らしい)系図の真贋を周瑜の死因だけで判断するのかよwww
記述が誤り(または誤りが多い)だとしても、後代の人間が作った贋作か、
それとも清代の周家の人間が実際に作成し使用した真作かはまた別の話なんだが。
0201名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/27(月) 17:44:57ID:LIjEb3Od0
真贋じゃなくて胡散臭いかどうかって話でしょ。
それこそ系図の真贋なんて実物触れないこっちじゃ判断できない。
0202名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/27(月) 19:32:20ID:zax/cQ4e0
周瑜の死因て、実際には何で死んだん?
0204名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/29(水) 21:40:14ID:ISwH3F7C0
呂蒙も病気なのに荊州獲ったな
0205名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/10/29(水) 21:45:34ID:TJFBBZ730
近年病気がちで、それを利用して関羽を引っ掛けたのであって、
病身で軍を指揮したわけではない。
0206名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/30(木) 00:08:22ID:N4lYr4jd0
呂蒙の荊州奪取は戦じゃないな。
戦うつもりでやったかも知れないが、結果的に見れば。

関羽死後、孫権との宴の席で呂蒙に関羽がチュルッと入って
喋らせた事件って、嘘ですよね?
関羽伝説の影響力が半端じゃないので、史実に結構大きな
ノイズとなったなぁ・・・・
0207名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/30(木) 00:11:48ID:mzRl98yP0
>>206
チュルって入ったのは史実ではないが、関羽殺しに関わった
呂蒙
ショウキン
曹操
が相次いで死んだのは事実
0209名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/30(木) 18:37:45ID:x5fkOn9+O
>>207
しかし孫権や陸遜や曹仁や徐晃は死ななかったのは事実
0212名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/30(木) 22:32:02ID:c1/Nbm580
>>210
なんで?

>>209
そっちの事実は無意味だろ。
関羽の死後呂蒙がすぐに死んだという事実を元に関羽の祟りが創作されたんだから。
ついでに演義で語るなら、曹操の死に関羽の霊は特に関わってはいない。
華佗を殺したことと伏皇后・董承らの霊が語られている。
0213名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/30(木) 23:57:28ID:t7prPSC40
呉という国の立ち位置からして、物語性は薄いからな・・・・
地元の人間ならまだしも、曹操や劉備に比べても孫権は色褪せる。
軍師や将軍は優秀な人材が揃っていたと思うが、結局は魏の領土を
侵食するにも及ばず、蜀と喰い合う邪魔者って感じが強い。

周瑜:彼の死が、呉の方向性に大きな影響を与えたと思う。
生きていれば、少なくとも呉の歴史や印象はガラリと変われた気が。
魯粛:地味な印象だが、三国中戦略眼は随一。
劉備との同盟が最たる例、彼の戦略を具現化出来た周瑜の死が痛い。
呂蒙:荊州事情を打破した功績は、大きい。
関羽と張り合った存在感も評価したいが、彼の真価は関羽撃滅後の
対魏・対蜀にあったと思う。
この時期に死んでしまったのは、歴史の悪戯としか・・・・・。
陸遜:多分、普通に優秀だったのだろう。
夷陵戦での働きも評価するが、蜀軍にも色々問題あったと思うから。
0215名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/31(金) 16:07:13ID:uumghnWn0
ハン城攻めは成功してた。
関羽が陸遜を侮ったのが悪い。
陸遜を侮らずに防備を緩くしなければ(麋芳や士人を叱責しなければ)問題無かった。
0216名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/10/31(金) 18:33:45ID:AuFI6f0/0
>>214
なるほど。
しかし
・諸葛亮が樊城攻めによって魏呉の連携を事前に防ぐよう進言する
・関羽が孫権の申し出た嫁入りを拒絶して手ひどく侮辱する。
・それを聞いた諸葛亮は「荊州が危ない」と言うが、矢継ぎ早に関羽敗死の報が入り間に合わず。
という順序で上手くフォローしているからな。
それで祟れというのはちょっとどうだろう。
0217名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/07(金) 16:13:41ID:AUg3+QvC0
演義では、樊城攻めが対魏の重要な起点として書かれているみたいだが、
実際はどうだったんだろう。
荊州での小競り合いがある中、呂蒙不在ってだけで一気に北上するか?
そもそも、益州との連携なしで単独ってのが・・・・
孔明策だと、益州と荊州の二方面に加えて、合肥方面からの三面攻撃が
前提だった気が。
0218名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/08(土) 00:50:34ID:1Vpezakg0
そもそも呉が荊州の残りを狙っていることは周知のことだったようだ。
漢中の劉備もすぐには動けない。
だが、この時の関羽の状況はその不利を振り切るには十分すぎるものだったのだろう。
なにしろ劉備が漢中を得て、漢水によって直接連絡するという見込みが立った。
曹操の中軍は遠く関中にあり、戦の後必死に急行している状態。
樊城が堅城とはいえ、曹仁の征南軍自体は大規模なものではない。
宛などで反曹操の反乱が起きて関羽に呼応した。
しかも、魏王国左将軍仮節鉞という枢要にいた于禁の増援七軍を水没させる。
つまり、襄樊を抜けば許都まで要害も大規模な兵力も存在しないという千載一遇の好機。
関羽がそれ以上北上できないとしても、人心に与える影響は巨大なものになっただろう。
遷都案も出ようというもの。
これを阻止するために、急遽徐晃が派遣される一方、曹操の中軍が駆け戻り、
対呉都督夏侯惇が張遼を率いて急行し、エン州刺史裴潛、豫州刺史呂貢までが召集される
という総動員体制。
結局徐晃の驚異的な奮戦で樊城は解囲され、呂蒙が背後を襲うことで関羽軍は瓦解するわけだけど、
この時の曹操のシフトは樊落城の最悪の事態を想定した背水の陣だったといえる。
0219名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/10(月) 16:36:41ID:XhMpNn5K0
大国魏に楔を打ち込む関羽、その関羽を真っ向から迎え撃つ魏軍。

一方その頃、呉軍は魏の陰から荊州を掠め取って喜んでいた。
曹操を無視して関羽を斬首したが、蜀の逆襲を恐れて首を曹操に送る呉。
三国鼎立のサバイバル状態とは言え、魏蜀に比べて呉の矮小さは際立つなぁ。
周瑜も魯粛もいなくなって、呉は目先の事しか考えなくなったのか?
0220名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/10(月) 18:16:29ID:mHlRezt+0
それはあると思うなぁ。
周瑜魯粛は劉備の扱いで意見は違ってたが、あくまでも対魏決戦を目指してた。
呂蒙陸遜はただ単に呉の領土を広げただけで、魏に漁夫の利を得させた。
周瑜魯粛は故郷が魏領に入るか入らないかの境目にあったけど、
陸遜なんかは安全圏だからかな。
呂蒙は貧民出身で、豪族連の言いなりだったし。
0221名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/10(月) 18:58:45ID:wmuk+G1t0
呉の立場からすれば、荊州は自国の安泰のために必要な土地。
三国が分割統治状態ならまだいいが、蜀か魏に支配を固められると、
揚州は北と西の両面に敵を抱え、水軍の利も薄くなる。
また、取ってしまえば守る自信があったのだろう。
長江流域での呉の強さは本物で、222・223年の対蜀魏連戦を見事に凌いでいる。
或いは、蜀漢の立場からすれば、荊州を奪われても最終的な破綻には至らないと
読んでいたか。
結局、荊揚交の三州を固めた呉を滅ぼすには、荊・益・淮南の三方からの攻撃を必要とした。
0224名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/10(月) 22:04:47ID:+Qvn0oJq0
いわゆる孫呉を豪族連合政権と捉える見方なら
豪族でない呂蒙には政権内で発言権が無い、と言える。

いや、まあ微妙な理屈だが。
0225名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/10(月) 22:53:28ID:wmuk+G1t0
孫権の寵愛があれば別。
荊州奪還は孫権の兼ねてからの願いであり、呂蒙の計略とぴたりと一致したから
実行に移されたのだろう。
呉の大豪族の陸遜が荊州を欲しがったというのは理由がよくわからないが、
それだけに面白そうだな。その辺続けてくれ。
0226名無しさん@お腹いっぱい。
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2008/11/11(火) 08:45:19ID:aFe+sxhn0
>>222-223
んー、そこに説明が必要だとは思わんかったが。
とりあえず呂蒙が貧民出身なのは分かってるわけだよね。
孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
襲粛や成当らの部曲を辞退したのも知ってるよね。
徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
その周泰と呂蒙、呂蒙と一緒に学問をやった蒋欽の三人は、
三人とも濡須督に就任していて、似たような地位にいたと推測できる。

明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
0227名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 12:07:43ID:RULbJwzq0
>>226
で、どこがどう豪族の言いなりに結びつくの?

>孫権が学問をやれと言ったのが豪族層の上に立たせるためだってことも。
何故豪族が出てくるの?こんな仮定は意味ない。

>徐盛や朱然が、周泰に対してどういう態度を取ったのか覚えてれば、
>そういう疑問なんか湧かないと思うけど。
あの出自を馬鹿にされたエピソードから、
何故に言いなりにまで発展するのか。むしろ、そこが疑問だ。
と言うか、呂蒙を推挙した張昭。蒋欽を虚仮にした徐盛は、徐州の人で豪族じゃないし、
大体言いなりだったとするなら、行間を読むなりしてそれと解る所を指すのが筋。
ただ、呂蒙や蒋欽等の出自が低かったこと、一時期それで侮られていたことを示すのみ。
出自の低いこと、侮られていたことを何度示しても、
結びつけても言いなりだったとの結論にたどり着かない。

>明記されてることしか信じないってのは史料の読み方じゃないよ。
この手の一文は最近よく見かける。
史料に完璧があるわけないことを利用した非常に便利な理屈だな。
要は、数箇所史料から抜き出し、
明記されてることしか、信じないのは史料の読み方じゃないと、言えばいいわけだからね
0228名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 12:14:34ID:B0uPXKzH0
>>226と「いいなり」が全く結びついてない
説明して欲しかったのは呂蒙が豪族の「いいなり」になっていたと見る理由だ

孫権は豪族層よりも呂蒙、蒋欽、周泰らの非豪族層を厚遇していた
豪族にこれ以上力をつけさせたくなかったからだ
>>225の言う通り孫権のそういう意向があれば別
0230名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 12:46:07ID:RULbJwzq0
>>229
いや、そんな一文で誤魔化さずに、
呂蒙が活躍した頃に、四姓を始めとする豪族が張昭や張紘、周瑜等の名士より権勢があって、
尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
豪族の言いなりだったことを示そうよ。
0231名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 14:11:24ID:RULbJwzq0
間違えた。
>尚かつ呂蒙が孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾でなく、
じゃなく

尚かつ呂蒙に孫権や張昭、周瑜等の後ろ盾がなく、

に訂正します。
0232名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 19:28:08ID:IyuVbgiG0
認識が違うなら30行でも50行でも使って認識させればいいよ。
それが理に適う論ならば、納得させることが出来るはずだ。
0233名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 19:36:46ID:IyuVbgiG0
>>227で面白いと思ったのは、
張昭と魯粛が孫権への影響力を争った形跡があることだよな。
魯粛・周瑜はいわば同じ党派に属する。二人とも江北の出であるが豪族で、
故に軍事力を持っていた。
張昭は儒学的名士であり独自の武力を持たず、名声は高いが
孫権の幕府や宮廷にあるしかない。
これは言うまでも無く対曹操戦で真っ二つに割れた組み合わせ。
張昭の政治的行動を追ってみる必要があるかもしれない。
0234名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/11(火) 21:40:10ID:dh97cY0I0
>>233
張昭は面白い題材と思う。好きな人物だし。
魯粛とは外交(含む軍事)を巡って争ったのでしょうね。
ただ張昭は軍事行動に結構反対しているから、
外交軍事主体の魯粛と意見が対立するのは自然と思う。
けれど党派を組んでの争いとは言い難いと思う。
赤壁の時のも諸将達が皆、降伏論を唱えたと書かれるように抗戦論は極少数だったようだし、
張昭と周瑜の二大巨頭が役割分担し、あくまでも孫権の決断を尊重したから、
明確な派閥争いに至らなかったと思われる。
さらに孫政権初期は党派意識も薄いと思う。周瑜と魯粛は劉備を巡って意見が割れたし、
呂蒙のように張昭、周瑜の両者から目をかけられる人物もいる。
魯粛が友という諸葛瑾と張昭は姻戚だしね。

あと周瑜と魯粛は豪族の出といえるけど、豪族の所以たる土地と切り離されているため、
呉の四姓や全氏や呉氏の様な土着とは区別が必要と思う。
どちらかと言えば豪族出の名士層と位置付けられると思う。
琅邪諸葛氏の諸葛瑾もこのタイプ。
0235名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/12(水) 00:17:01ID:VJ/Lz5is0
ここまで読むと、呂蒙の話題よりも孫権の君主としての有能さが分かるなww
身分に関わらず、的確な人材抜擢するのは才能だろうか。
周瑜や張昭、魯粛などが、それを支えたというのもあるだろうけど。
まず、孫家三代の確固たる地盤があって、三代に渡って君主が変わるという
不安定を埋めるべく、一丸となって呉を盛り立てようとした感じか。
0236名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/12(水) 00:21:46ID:hd1Uc+Pu0
>>235
わかるわかる。初中期の孫権マジ有能。
宗族・豪族・名士・武官のごった煮状態で喧嘩しまくる臣下を片っ端から仲裁してるもんな。
呂壱が一時期権勢を振るった時も、改めて謝罪して臣下との和を維持してるし。
孫権が傾いていくのはやはり孫登の死後か。
0237名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/12(水) 03:24:23ID:VJ/Lz5is0
孫権は長命だったが、周りの優秀な人材は結構バタバタ死んでるんだよな・・・・
「もしも、生きてたら」ってのが一番多い国かも。
周瑜、魯粛、呂蒙も悔いの残るタイミングで死んでしまったのが残念すぎる。
0238名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/13(木) 19:01:59ID:WHOd08kw0
苦楽をともにしてきた家臣たちに先立たれ
かなり頑固でうるさいが兄が若くして死んだ時からずっと支えてくれた後見人に死なれ
期待していた息子に先立たれ
自分だけ一人取り残され年取っていく
孫権がおかしくなるのもわかるな
0239名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/13(木) 19:14:07ID:D9hieM3g0
ここの流れいいな

合肥あたりのはかばかしくない戦績と、晩年のみをあげつらって無能認定してる
奴らにはこういう考察はできんのかなあ
0245名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/18(火) 23:37:30ID:GC1KDRvX0
>>236
孫権がマジ有能なのは否定しないし同意するが、逆に言えば、そういった有能な
君主が常に仲裁に勤めないとならないほど、政権内部は混沌としていたわけで。
(混乱とは言わない)
国家制度が成立していないから、個人の能力カリスマに頼るしかない。孫権死後
政権がグダグダになっていったのは当然の成り行きかと。

>>220
違うよ。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜。みな同じ天下二分という戦略の持ち主だった。
周瑜は自力で江陵を獲り、荊南に割拠した劉備を取り込んで関張を指揮下に入れ、
さらに蜀も征服することで長江流域を呉一色に染めることで華北の曹操と対抗
するつもりだった。
魯粛も同じで、ただ現在の実力では単独ではそこまでやれないと踏んで、あえて
劉備を対抗馬に仕立て上げた三分に妥協したが、あくまで劉備を呉の下に置く
戦略は変えなかった。演義では役に立たない外交官と道化にされているが、史実
では劉備がしぶれば実力で軍を率いて荊南を奪い返すべく関羽との一戦も辞さない
ほど主戦派。
呂蒙、陸遜はその魯粛の戦略を継承してさらに推し進めた。
0246名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 09:02:43ID:dw8naFDL0
>>245
彼らが蜀に対してどう当たったかってことだけじゃなく、
その行動が対魏関係にどう影響したかってことを考えてみてよ。
0248名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 16:44:19ID:78LzL3Zd0
何度も合肥を攻めたのは、何bセったんだ。
赤壁での孫権も、どっか別の場所で何かやってた気が。
0249名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 21:01:10ID:RqFLkUoJ0
>>236
孫権が有能なことと、孫呉が国家としての伝統をついに確立できなかったこととを、
「逆に言えば」で繋ぐ必要は無いんじゃね?

それにまた、新興の国家が、個人ではなく国家として忠誠心を得て存続しうるか否かは
二代目以降に掛かっている。創業の君主はどうやってもそのカリスマから逃れられない。
臣下の忠誠心を国家に向けさせるには、カリスマを持たない二代目とその臣下がなんとかするしかない。
孫権に責があるなら、適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さないという
君主の最後の責任を果たさなかったことだ。

>>246
有り得るかもしれなかった魏による荊州制圧を未然に防ぎ、鼎立の体勢を40年維持させた。
とも言えるな。
蜀が長江戦線を呉ほど上手く渡りきれたかというと、分は良くはないだろう。
結局呉には呉の、蜀には蜀の理があるってだけだ。

>>248
孫権は戦争の陣頭指揮だけは下手。これはもうどうしようもない。
0250名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 22:05:43ID:yl/ngXZj0
>>249
>適切な後継者を決定してその元に臣下の忠誠を集め分裂を許さない
これはとても難しい
なぜなら、後継者にあまりに注目が集まりすぎることは自分の求心力低下につながるから
実は分裂の芽なんだ、それは
最高権力者にとって後継者は大事であるが危険でもある
曹操のように良いタイミングで死なないと継承は案外上手くいかない
清の皇太子密建が優れているのは、ここをクリアできるから
0251名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:07:56ID:RqFLkUoJ0
>>250
嗣子以外を外に出し、継承の意思を明確にする。
皇太子に軍権など持たせず、適度な修養と適度な交際をさせておく。

それだけで全然違うよ。
孫権、袁紹が失敗し、曹操が危ういところだったのは、少子を継がせるか迷って
複数の子が並立状態になり、人心を分裂させたから。
劉表が曹操南下直前という最悪のタイミングで死んだにも拘らず
継承自体を成功させ劉家の系譜を存続させることが出来たのは、
劉gを外に出し権臣と権力を劉jにそのまま引き渡す用意が出来ていたから。
父帝の即位二年、大敗後の死というこれまた最悪のタイミングで
後を継いだ劉禅が国を40年守り抜いたのも、家臣団の忠誠の方向が
予め定まっていたからでもある。剛勇と評された劉封が健在だったら、
帝位を窺わないまでも権力を振るって反主流派を誘引した可能性がある。

能力のある息子を選びたいという誘惑や諸派閥の言に抵抗するのは
難しいかもしれないが、やるべきことはそんなに複雑ではない。
あとは後継者の器量次第。
0252名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:11:01ID:RqFLkUoJ0
続き。
密建のやり方が優れているのは、朝廷の基盤が安定して、
誰を選ぼうとも臣下の官僚集団が揺るがないという前提があるからでないかな。
0253名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:24:42ID:yl/ngXZj0
>>251
劉表の継承はカクが言ってるように失敗だよ
成功したのは子孫を残すことだけで、覇業は最悪の形で分裂しどっちも闇に消えてる
0254名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/20(木) 23:33:28ID:RqFLkUoJ0
劉表が生きていたとしてもどうしようもなかったよ。
割拠が潰えたのは継承の失敗じゃない。
夏口の兵力を持っていかれただけで、荊州の中枢は分裂せず
嗣子と家臣ともども官位を貰って次の王朝に組み込まれた。
家の存続という当時の高価値を、困難な状況で達成したのだから成功だ。

当時の曹操や賈クの視点からはそんな種類の成功は成功の部類に入らなかっただけのこと。
でも、「そんな種類の成功」を収めた人間だけで魏の朝廷は構成されているわけだからね。
0257名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2008/11/21(金) 13:21:23ID:VSfiXPKt0
劉表は劉キを追い出して劉ソウを後継者にするってはっきり宣言してるのに、
それでも御家騒動になっちゃったってのは、結局、
部下の派閥争いを根本的にどうにかしないと意味ないってことなんだろうな。
ていうか、不遇の貴公子なんか作っちゃったら、逆に非主流派に担がれやすいだけでは。
0258名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/11(日) 22:27:11ID:uXVfFW790
周瑜の死は、かなりの痛手だったと思う。
国家戦略の変更に匹敵するわけで、呂粛は有能な戦術家がいてこそ光る。
でも、周瑜以後は、呂蒙や陸遜が頭角を現す前に死去。
呂蒙や陸遜は呉に尽力したが、この頃になると魏蜀打倒も厳しい。

やっぱり、周瑜と呂粛だなぁ・・・・
彼らの動向によっては、赤壁以後の呉の勢力図もガラリと変わったかも。
0259名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/14(水) 08:05:52ID:F6qH+J8/O
呂粛って誰?
0261名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/20(火) 17:17:46ID:t+cqH0vhO
多分 魯粛さんのこと? 不思議な人ですよね。初陣が赤壁で、都督になって…政治家、外交官として卓越した人。
0262名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/22(木) 12:51:34ID:HTuszSDX0
>>261
家財で私兵を養ってたとか。
まぁ、当時の呉では一番先見性あった人だろうな。
周瑜の推挙だっけ?
演義ではカスみたいな扱いだけど、超重要人物だった気が。
0264名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/23(金) 13:48:17ID:Lm4M1shu0
魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟の話をしてしまったりかなり破天荒な人物っぽいな。若い頃は
金をばらまいたり剣・馬・弓もやってたらしいし。特別強かったわけではないみたいだけど
周瑜・魯粛・呂蒙のうち1人でも長生きしてればなあ。呂蒙は荊州取ってどうするつもりだったのか
よくわからんけど。孫和が継げなかったのも痛いな。特別有能でなくても真っ当な君主だったろうに
魏・晋に対抗しきれたかはわからんが
0265名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/23(金) 18:51:04ID:8XWYwvg+0
孫和が継いだらってのは微妙かなー。
二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
みたいなこと言ってるわけだし、
結果的に孫亮に鉢が回ってきたのはよかったんじゃないか。

個人的には関羽の死後、陸遜が北上して魏を侵略したらしいんだが、
これがうまくいってたらどうなったかと思うよ。
0266名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/23(金) 20:00:28ID:0nQCzVjB0
孫和の息子はあの孫晧。
孫和が継いだとしても、死んだらジ・エンド。

あと、孫亮は名君の資質があったとは思うが、
幼すぎて権臣の専横を招いたため、
彼にあのタイミングで帝位が回ってきたのは、
呉という国にとって不幸なことだったと思う。
0267名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/23(金) 20:58:00ID:Us8YC4kwO
敬愛する魯粛さんのことを、娘に教えてて、陣中でも書物に親しんで勉強してたと言ったら、お母さんも見習わなきゃって話になってしまった。
0268名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/24(土) 00:18:55ID:SSU5eXuF0
でも現代で「陣中」って言ったらどこだろうなー?
職場とか?仕事中に書物に親しむのはヤメテっ><
0269名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/24(土) 05:10:52ID:NCpjDo320
>>264
前々から気になってたんだが、「魯粛は孫権の許可を得ずに劉備と同盟」のソースは?
江表伝には「孫権は魯粛に同時に劉備と手を結ぶことを命じた」とあるんだが
0270名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/24(土) 09:05:52ID:WtQUKPKy0
あやふやで悪いが魯粛が弔問・同盟を命ぜられた時は荊州の主は対外的にはわかっていなくて、
たぶん実力者の劉備がまとめるだろ、劉備を曹操の盾にしようぜ!と行ってみたけど劉ソウが継いで
それだけならいいけど曹操軍が凄いスピードで来て、しかも劉ソウは一瞬で降伏、同盟ってレベル
じゃねえ!劉備なら・・・劉備なら江陵に篭ったりして時間稼ぎをしてくれる!と思ったら

どこも落とさず長坂で蹴散らされて領土は無しで呉に来ました!同盟軍の劉備です!とか言われて
えーおまけで誘ったのに本命なにも無しでおまけだけ来ちゃったよ・・・荊州で盾やってくれると
思ったのに・・・そんな同盟聞いてないよ・・・な感じなんじゃないの?今ちょっと見当たらなくて
悪いんだが、江表伝見れるなら劉備伝のそこらへんのところに魯粛とのやり取りでいろいろ書かれてる
ってどっかで見たような。見れるなら見てみてくれ
0272名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/24(土) 19:50:52ID:ymqJJLg30
>>265
> 二宮の変では孫和派の連中でさえ、能力的には孫霸の方が上だけど…
> みたいなこと言ってるわけだし、
これって誰が言ったの?
0273名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/25(日) 01:12:49ID:UIpCd4fZ0
>>270
時間的にも情勢的にも相当慌しい状況だっただろうからね。
その中で何らかの答えを出さなければならなかった場合、魯粛の判断は
間違いではなかったとは思う。
対曹操という方針になると、早急に同盟組める勢力は劉備くらいか?
まぁ、選択肢も少なかったとは思うが。
周瑜いなかったら、降伏してたかも知れんし。
0274名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 08:02:42ID:FVntN1s/0
外交使節としての専権行使じゃないかね
魯粛が諸葛亮をつれて戻った時孫権は戦略の決断を付けていなかったわけで、
劉備with劉gとの同盟というのは開戦へ大きな材料となっただろう
0275名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 14:55:58ID:qpe9Kwec0
>>272
もちろん明言してるわけじゃないよ。
孫霸派の人が魯王は英雄の素質がありますみたいな言い方をしてるのに、
孫和派の人は太子は年上だしお優しい人ですくらいの言い方に留まり、
ちょっと誰だったか思い出せないけど、孫和派の人が
孫霸は有能だから、地方に出して元帥にしようとか言ってたと思うよ。
まああとで確認取ってみるわ。
0276名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/01/25(日) 15:05:30ID:qpe9Kwec0
ああ、俺が言ってるのは是儀のことかもしれん。

しかし孫和を褒める人でさえ誰も孫和を有能だと言わんのは、
まあ戦術的に長幼の序を唯一最大の武器にしたいというのもあるだろうが、
ちょっと寂しい話だよな。
一人くらい「年上だし、しかも有能」とか言ってやれよって思ったりする。
0277名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/26(月) 21:49:51ID:eRypHjyC0
是儀は孫霸の傅(後見役)。
その是儀が「孫霸を都から追い出してください。前線に送ってください」と言っている。
「孫霸が優秀だからこそ前線におくって、国家の盾となってもらいましょう」とエクスキューズ。
そりゃあ「太子とその弟を同列に扱うなんてバカなことやめてください」とは言えんよ。
同じく「孫霸を外に出して夏口の司令官にしろ」と言った吾粲は殺されている。

孫和に関しては孫和伝では褒められまくってるよ。
もちろん信憑性は疑うべきだが。
0278名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/26(月) 22:58:31ID:CCPitytf0
長幼の序って皇帝位の相続では案外怪しくて、呉から見て手本となる漢ではしばしば長幼の序を無視している
武帝しかり明帝しかり
つまり長幼の序を第一の武器にするのはものすごく心もとない
「光武帝は能力主義で後継者を選んだよね」とか言われちゃうと否定できなくなる
だから能力がそれなりなら、長子であること以上に能力を推すべき

それなのにあまり有能さをアピールされてないということは・・・
0280名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/26(月) 23:33:20ID:eRypHjyC0
>>278
長幼の序っつーか、孫和を太子に立て、孫霸を魯王に封じながら同格に扱ったのが問題なんだよ。
能力の点から孫霸が適任なら、孫霸を太子にすればいいだけの話。
是儀が問題にしてるのは長幼の序ではない。
「二人の宮様の間には段階の差があるべき」「上下の秩序が重要」と言っている。
0282名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 00:57:56ID:6VoOWVRB0
陳寿の呉志が孫和を有能だと書いているのは、
孫和が孫晧の父であり、陳寿は孫晧の時代に編纂された韋昭の「呉書」
を主に引き写して呉志の部分を書いたからだと思われる。
陳寿が孫晧の「昏君」ぶりを書けたのは、呉が滅びた後の記録や、
魏晋の史書を参照することが出来たからだろう。

さて、では同じく孫晧の「悪事」を書いている後の時代の地方史である
「呉歴」や「江表伝」ならば、陳寿が知り得なかったソースを元に、
権力に気兼ねなく孫和・孫覇の人物を描写し得るだろうし、
原典を読み通した裴松之チェックに引っ掛からないはずはないだろう。
にも拘らず、裴松之は
「和は既に正位にあり,適子と庶子は分け定められていて,たとい才コが殊ならずとも,
なお義は庶子の党にない。いわんや霸の実を聞くことは無く、和が令嗣であるならば」
と述べている。これはどういうことか。

…と思って軽く孫和伝見てみたんだが、孫和を褒めてるのはやっぱり「呉書」だけだった。
呉志全体から引用文献ごとに比較考証でもしてみないとなんとも言えそうに無いね。
0283名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 02:49:13ID:FXNf+eCz0
孫和はともかく、孫覇ってそんなに英邁だって書かれてたっけ?
是儀以外のとこでどっかある?
0284名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 05:16:56ID:ZKwF1cWO0
>>282
呉書も含めて、孫和の評価の仕方って、
馬鹿を率直、愚鈍を慎重、独善を独創、乱暴を活発って言い換えるみたいな、
何の取り柄もない人をむりやり褒めようとしてるみたいな感じ。
記述に具体性がなくて、史書ではお決まりの文句の一般論で終わってる。
温厚な人柄ですよーって、それ無能の言い換えじゃないかと。
呉録で、厳しい問いにも即座に答えられたってあるのが一番ましなくらい。

>>283
どん引きするくらい楊竺が絶賛してる。孫権もそれに納得したらしい。
0285名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 07:44:43ID:6VoOWVRB0
つまり両者とも褒めてるのは党派の人間が主なんだよな
呉についての主な史料である呉志・呉書が当てにならないとすると
史料の量的に随分厳しいことになるわけだが
0286名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 08:56:16ID:HwbV3Z1tO
孫呉は、内部抗争で本当にもったいないことを… 周瑜、呂蒙の子も罪を得てるし、陸遜自身、憤死だし。魯粛の遺児は、最前線の地方周りで無事だったけど中央じゃ活躍していない。
0287名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/01/27(火) 21:30:57ID:J/svOZ560
孫権の息子の中で最も権力欲が強くてもっとも無能な孫奮が皇太子という方法はいかが?
0292名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/05/02(土) 12:49:13ID:m3BacFER0
天下を獲れる可能性は滅亡前まであった
一番可能性が高そうなのは孫策
次は生存後の予測がつかない孫堅(呉じゃないか)
袁氏滅亡後は以前と較べて中原が段違いに安定してるから難易度も上がる
周瑜の益州侵攻の他には南郡攻略後の益州侵攻が考えられるけど材料が少なすぎるか
合肥攻略、襄陽保持、241年の大攻勢のどれかが成功してればな…
0293名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/07/05(日) 17:11:50ID:9KEag+Y10
三国鼎立後は我慢比べが蜀呉の基本戦略だったはずなのに、
それに成功して国内を安定させたのが魏を掌握した司馬氏だったというのが皮肉。
呉は孫登が長生きするか、せめて二宮の変がなければ高官同士の勢力争いも起きず、
諸葛誕らの叛乱に十分な戦力を送り込むことができただろうに。
0294名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 20:53:59ID:wS91Wlkx0
いつも不思議なんだけど、長坂でこってんぱんにやられて一部隊にも満たなかった(魯粛伝)劉備が、何で呉にとって同盟相手たり得たの?
袁紹とこに逃げたみたいにただの帰順じゃない?
妄想1なんだけど、曹操に荊州が落ちてしまえば呉が魏と渡り合うのはまともに考えればまず不可能で、魯粛は実態のない劉備陣営を無理矢理捏造して、同盟しちゃうことで開戦せざる得ない状況を作っちゃったんじゃないか、ってのはどう?

妄想2はもっと身も蓋もなくて、呉と劉備の同盟なんて、実は後から蜀側の人間(陳寿含む)の捏造なんではないかと。
蜀は実質の力から言えば、三国の一部に数えるには馬鹿らしいど田舎の小国なんだが、ただ、"物語"としての三国志演義の中では常に漢室の流れをくむ"主役"として扱われてきた。
何故か?
それは後世の史家(陳寿)の意図的なでっちあげがあったのではないか?
そして、正史と言う歴史書では描けない嘘を、演義が補って来たのではないか?
そもそも演義と言う物語が民間で伝承されるようになった始まりは何だったのか?
その作者は誰なんだ?ってことを考えると、赤壁で風をふかし、三国鼎立と言う巨大なギャグを打ち立てたあの人しかおらんのではないかと妄想するのです。
0295名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/23(日) 22:22:24ID:2B3irdw+0
>>294
妄想1は分からんでもないというか、「捏造」「開戦せざる得ない状況」は言い過ぎと思うが、
魯粛が開戦の方向に持っていく材料の一つとして
「勢力としては弱小でもとりあえず劉備と結んどけ」って思ったのかもしれんね

妄想2はどこから突っ込んでいいかわからんよ
陳寿と羅漢中らの時代は離れすぎてて言いたいことがぼやけているというか…
根拠は省略するが陳寿はそこまで蜀に肩入れしてないだろう
呉志については韋昭らの呉書をかなりの割合で丸写ししているようだ
そんなところをでっちあげるならコッチもソッチもいじったはずだってことになるんじゃないか?

三国志演義の成立までの過程は『三国志演義の世界』(金文京)辺りをどうぞ
0296名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/23(日) 22:34:15ID:wS91Wlkx0
きれいに突っ込んでくれてありがと!
もっとけちょんけちょんにいぢめられんじゃないかと怖かったよ。
羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めたんで、その伝承がどこから来たのか知りたかったんだけど、文献あげてくれてありがと!
演義も勉強してみます。
0297名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/23(日) 22:47:22ID:deBHfkbp0
>>294
長坂でやられた中に関羽は入っていない
そして関羽は兵を率いていた(諸葛亮いわく1万)
しかも江夏太守劉キは事実上劉備と一体で、もちろん劉キも独自の兵を率いていた(同じく諸葛亮いわく1万)
劉備直属の兵が敗れていても、自称2万の兵の助力は美味しい
それだけでも十分同盟相手としてなりたつ
0298名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/24(月) 00:19:54ID:T2SRYNcY0
>>296
「羅漢中は民間で伝承されてるもんを纏めた」ってのはちょっと、いやだいぶ違う
単なる表現の違いで実はちゃんと分かってるってんなら申し訳ないが
0299名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/26(水) 12:03:39ID:6eMtv/k40
>>294
実のところ長坂でコテンパンにやられたのは劉備、じゃなくて着いて来た民衆や兵の家族で
兵はかなり保全されてるから
0300名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/26(水) 17:53:19ID:izQrzc9x0
>>299
保全はされてないだろう
この当時の兵の大半は歩兵なんだから、
敵の精鋭騎兵に追撃されて味方の首脳部が騎馬で遁走した時点で、
大部分の兵は離散してしまう。先鋒だけで兵にしても民にしても殺しきれるような数ではないが、
劉備が再回収するにもかなりの時間が掛かったはず。
0301名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/26(水) 18:14:20ID:MXOwtzmV0
当時の劉備の軍が一部隊に満たなかったってのは魯粛伝にソースがあるんだけど、
関羽、リュウキの軍二万って結局赤壁でなんかしたのかな?
勉強不足ですみません。
謎多き赤壁。どんな戦いだったんだろう?
孔明の矢を集めた話は嘘にしても、連環の計や苦肉の策、法統や闞沢の活躍はほんとにあったのかな?
ごめんね、余りに無知過ぎて。
0303名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/26(水) 20:30:21ID:MXOwtzmV0
ありが惇!
物語にしても、やっぱよく出来てるね、演義って。
演義って、呉が不当に貶められてる感じがして、結構避けて通ってた。認識を改めます。
スレチなんだけど、お勧めの演義訳があったら教えてくれると嬉しいです。(変にナウい文体にしていない、原文の良さ(漢文)が伝わるものがあれば)
吉川も面白そうなんだけど、純粋な三国志演技で。
色々ごめんねm(_ _)m
0304名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/26(水) 20:52:56ID:6eMtv/k40
>>300
時間ならいくらでもあるんだよ
結局江陵まで取ったら取ったで曹操は戦後処理しないといけないからな
実際、長坂から赤壁までは数ヶ月ブランクがある
0306名無しさん@お腹いっぱい。
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2009/08/27(木) 04:48:34ID:FIO+46af0
>>291
周瑜の益州侵攻プランってのは周瑜自身の才能に頼るところが多くなってしまいそうな気がする
もちろん、周瑜ってのは頼るに足りる才能なんだけどさ
機を制して相手に不利な場所に陣を張らせる戦略眼(赤壁)、疲労した軍でそのまま城攻めして成功する統率力(江陵)
加えて部下の進言をよく聞いて採択するから独立して軍を預けるにこれほど相応しい将はいない
曹操は結局そういう武将を持ち得なくて天下を制することが出来なかったし、劉備は任せた関羽は能力が及ばなかった

時期的に考えると漢中の五斗米道と益州の劉璋が一番険悪化している時期だし、ここに呉軍が攻め込むってのは面白い
法正らも味方するかも知れないし(彼らは別に絶対劉備じゃなきゃ駄目って事はないだろう)
最初から大兵力で、相手が漢中に敵を抱えたまま、名将の周瑜が攻めるなら劉備と同じ1年かそれ以下で陥としてしまうのも夢じゃないかも知れない

問題は劉備で、これを外交力で抑えられるかというと中々難しいと思う。魯粛や孫権もキレ者だけど
さらに曹操は史実では西涼にちょっかい出して馬超と交戦状態に入るけど、周瑜益州に入るという状況なら馬超とは友好関係を維持したまま南下する可能性も大きいだろう
周瑜自身は馬超を同盟相手にしたいと考えているけど、それも上手くいくかどうか
最悪、劉備、曹操と戦うとして本国に残した兵で足りないってことはないが(絶対的不足なのは揺るがないけど、戦線を維持できない程ではないだろう。3万ほどあれば)
海千山千の劉備軍、曹操軍に誰が対抗しえるか、外にいる周瑜の動きを理解して行動しえるか、というと誰もいない。呂蒙がもっと早く育ってればいいが。
孫権には悲しいかな武将としての才能がないんだよね。これが孫策なら……
0309名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/28(金) 13:11:41ID:zMG8w5kE0
>>308
関羽、劉キの2万ってのは前提な
そんだけいりゃ十分同盟相手になる

さらに劉備が兵を糾合するわけだから
開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ
0310名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/28(金) 18:15:14ID:nHgQ1KkN0
>開戦までにかなりの兵が揃うって話だぞ
そんな話をしていたかどうか微妙だが、目算自体には一理ある。
魯粛と諸葛亮が「これから左将軍が荊州兵をどんどん集めますからもっと増えますよ」
とか半分ブラフかましたかもしれない。「保全されている」とは言わないだろうけどね
0311名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/28(金) 21:37:17ID:lzLzukEr0
オレは立間祥介訳以外の演義は読む気になれん。
これ中身は講談調で読む人を選ぶかも知れんね。
0312名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/30(日) 20:23:23ID:uUnx6k4x0
関羽の一万なんてソース見あたらないんだけど?
先主(劉備)伝にも、関羽伝にも、船数百艘としか残ってない。
となると、劉備の一部隊、数十騎と関羽の数百隻が劉備の全軍で、加えるリュウキの一万の方が圧倒的に多い。
劉備と同盟って言える数かな?

陳寿が蜀贔屓にして他(特に呉)を貶めているのは、正史 蜀書の解説に詳しい。ハイショウシの注の膨大さにも、後世、蜀を正当とせんための意図的な誇張、改竄が明らかに思う。

結局、正史にしたところで蜀を賞揚しようとする陳寿の意図に、真実は多く隠蔽されている。

だからこそ、こうして裏の裏の裏の行間を読み、自由に想像を広げる楽しみもあるんだろうけど。
0313名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/30(日) 20:54:09ID:VkmwZ7dT0
>>312
諸葛亮伝も見たかい?

あと、仮に「同盟」時点では少ない兵力だったとしても、潜在的な兵力というものもある
つまりちりぢりになった兵の回収や荊州における募兵などで、今後兵力を増やすことが出来る可能性が高い
これらは元々劉表と敵対して荊州を侵略していた孫権には困難なこと
0314名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 00:13:09ID:KAkbBE1l0
>>312
呉の「国選史書」である呉書から主に採録され(他に史料がなかっただろうが)
呉歴や江表伝から注が引かれまくってる三国呉志が存在しなければ、
その意見は正しかった
0315名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 02:41:43ID:ElpcHXC90
>>313
そういう荊州絡みの事情は大いにありそうだ
漢の血が流れていると言われている劉備のネームバリューも込みで
後々呉のために便利に使いたかったんだろう

そう考えれば、たとえ劉備が身一つだったとしても
評判さえ失っていなければ同盟を結ぶ価値はあったんじゃなかろうか
0316名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 02:58:14ID:ElpcHXC90
>>312
もしかして>>294の人だろうか?
>>314で完全に反論できているから蛇足だが…

もしも「一人の史家の感情一つで歴史なんてどうとでも伝えられる」とか思っているなら
昔の人や社会を馬鹿にしすぎというものだ
陳寿の蜀に対する遠まわしの優遇や敬意の表現は確かに見られるが、
陳寿の頃は「明らか」と言えるほどのあからさまな贔屓ができる状況ではなかった
ちなみに三国志が正史に認定されたのは世間が蜀贔屓になるより前の時代

陳寿の蜀書がそっけないほど短いから、裴松之の注が自然と長くなったとも考えられないか?
裴松之はいくつかの矛盾する逸話があればそれらをそのまま掲載した上で
自分の意見を沿えるという公平な手段をとった人物
蜀の注の量しか理由が無いのでは「誇張、改竄が明らか」とは言えない

そこまで断定的な表現で書き込みをするなら先にもう少し勉強するか、
或いは、自分の意見に凝り固まらずもっと人の意見に耳を傾けたほうがいいぞ
0317名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 10:28:13ID:sFewg5gm0
普通、陳寿の蜀贔屓の根拠とするのは、楊戯の季漢輔臣賛を入れたことだな。
季漢輔臣賛の採用は他国と比べて明らかに公平性を欠くが、
(他国の賛は取り入れなかったし、賛をいちいち採用していたらきりがない)
賛に付随する形での陳寿の筆による記事は、伝に漏れた人物を知る上で重要な史料でもある。
0318名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 17:58:02ID:M9Qi/pLMi
確かに久々に蜀書を読んで、蟠ってる赤壁までの流れを参照すると、色々あれれとおもうところがあって、ちょっとばかし頭に血がのぼってしまい、言葉に行き過ぎたところがあったように思います。面目無い。

けれど、(けっして陳寿のことが嫌いな訳じゃないけれど)劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方に、蜀と呉の間で(魏晋は除く)「あからさまな贔屓目が」あったかなかったと言うのは、もはや個人の感性の問題と言う気がします。
(数百の船と、劉備の兵と言って本当に良いのか、と言うリュウキの一万を軍に迎えるのが、同盟っぽくないと感じるか感じないかも、やはり感性の問題な気もします。)

バカバカしくも私は決して>>294で述べたような妄想を、盲信するつもりもないですし、私は自分の意見に凝り固まってると言われる謂れもないです。私は関羽一万と言う数に、正史の記述から多いに疑問をもったに過ぎません。

ただ、私は蜀書の井上律子さんの解説にある様に、正史の中に、既に劉備を正当と認めようとし、演義の元となる様々な仕掛けがある、と言う説にとても説得力を感じた次第です。

長坂から赤壁までは、劉側と孫側では、結構印象が違います。(劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)
0319名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 18:37:59ID:ElpcHXC90
>>317
自分は三国が公平だったとも一切贔屓が無かったとも言っていない
蜀の優遇は輔臣賛以外にもいくつもあるだろう
それらを総合するとかつて自分が仕えた国に対する義理だけというよりは
もう少し大きな優遇をしていると自分も考えている

しかしそれらの優遇は主に表現の上での扱い方だ
「意図的な誇張、改竄が明らか」だとかいうならば、
陳寿が事実を曲げた他の具体例を挙げねば論理的ではない
少なくとも、他の資料ではなく陳寿に原因があると推測できる明らかな矛盾点等が
いくつか挙がらないことには説得力が全く無い。話はそこからだ
ここは呉の軍師のスレなので呉の軍師に関わる矛盾点で頼むw
0320名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 18:46:50ID:KAkbBE1l0
荊州東部はこの時劉備-劉g連合の所有だったのだから、
そこに呉軍が進出して戦う以上、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け」というのは正しい表現。

一方呉の記述を見ると、孫権伝や周瑜伝・魯粛伝では「備と伴に進み」というように書いてある。
この赤壁前後の戦力はというと、劉備軍が諸葛亮による公称2万。
周瑜が呉書では3万。建康実録では周瑜2万に孫権の後詰1万とされる。
その後の荊州戦線の分担を見ても、この場の投入戦力では極端に格差がある同盟ではない。
(地力では大きな差があったことはその後の数年の劉備の苦労によってわかる)

>劉備だけを先主として、孫権は権と呼び捨てたり、劉備の妻だけ皇后とする書き方
云々に込められた陳寿の故国顕彰の念とは別のところで、
国史というのは結局自国を中心に歴史を書くものだし、陳寿は三国それぞれに伝わる史伝を
結構忠実に書き写したのだろうと判断できる。
0321名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/08/31(月) 19:55:45ID:sFewg5gm0
>>319
自分は陳寿による贔屓と言えば普通は季漢輔臣賛を取り上げるだろうと、
>>312に言いたかったんだが…どうも誤解されたようですな
0322名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/01(火) 00:18:23ID:40OqMEW+0
おっと失礼、自分より前に>>318が書き込みしているとも>>317が別人とも思わなかった

>>318
あれこれ想像するのは良いことだし、楽しみ方は人それぞれだが、
歴史である以上「感性の問題」で片付けられるものではない
本当に感性の問題だと思っていて、もし誰に同意されなくても良い、
誰にどんな意見を言われても聞く気がないのならば、こんなところに書き込む必要もないのではないか?

>>294では自分で妄想だと言ってるからけちょんけちょんにする気も起きなかったが
>>312では正史すら充分に読めていないのに、それまでのレスに対して充分なレスもせず
それらの意見を踏まえもせず自分の言いたいことだけ言い、しかも断定口調だから「凝り固まってる」と感じた

このスレや板には井上律子並に勉強になるレスも多いし、良い本も良いサイトもいくつもある
それらを読めば大方の疑問や間違いは自然と解消するだろう
0323名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/01(火) 21:35:27ID:EIKHJMke0
>劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」
>なんて記述がありますが、これはやはり殆ど詐称の様な書き方であることは認めて頂けるのでは?)

周瑜伝でも呉主伝でも「劉備と協同で軍を進め、曹操と赤壁で遭遇し打ち破った」
「劉備は周瑜らとともに追い打ちをかけた」とあり戦闘での劉備軍の活躍を否定してない
それに本人の伝では自分が主体になるのは当たり前でなぜ明らかな詐称とまで言えるのか分らない
0324名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/01(火) 22:17:24ID:Or2DUD6N0
>劉側の赤壁は、「劉備が曹操と戦うのを孫権は助け、これを打ち破った」
これが何で詐称の様な書き方なのか分からないけど
関羽伝のことなら「打ち破った」じゃなくて「曹操は軍を引いた」だよ。
先主伝、諸葛亮伝では「力を併せて」だし気にしすぎじゃないか?
蜀書に限らず信憑性を疑いだしたらきりがない。
0325名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/09/02(水) 13:28:21ID:khQzHNTP0
正史の記述に疑問を感じる部分があったら
まずは記述を全て事実として整合性のとれる説明ができないか必死に考える
(多くのことはそれで何らかの答えが出たり仮説が生まれたりする)
前後の記事だけでは説明できないなら正史の他のどこかに参考になる事例がないか探したり
近い時代の他の資料を当たったり、時期・地理等も考慮する
それが無理ならどこか1箇所が事実と異なることを疑ってみる
(凌統の死去年のように正史が誤って伝わる例も実際にある)
当たり前だが事実と異なると認定するには他の資料等にそれなりの証拠が必要

特に証拠となる資料もなく正史の複数箇所を疑うなら、
最初から正史なんか読まなきゃいいんじゃね?ってことになる
0328名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/06(日) 20:05:22ID:OSBgd4eW0
それにしても呂蒙って、演技の小説だと評価低いな。
NHKの人形劇じゃ極悪人扱いwwww

やっぱ関羽を虜囚にしたのが評価を下げてるのか??
荊州奪還の功績はまるで無視?
0330名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/06(日) 21:19:33ID:VxL2nQSN0
あれって当時の人の価値観だとどうなんだろうね?

自分は、合肥前の時間の惜しいときに無駄な血を流さず城とったんだから良いと思うけど、
人によっては卑怯ってことで評価下げる要素に数えるのかな
0332名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/06(日) 21:49:33ID:JUFTvElI0
>>330
卑怯というかその後、呂蒙というだけでみんな警戒して言葉を信用しないようになる可能性があるのでメリットばかりでもない
0333名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/06(日) 22:07:51ID:vhqKG/O/0
>>332
敵方は警戒するが、味方にとっては万々歳
「賊」相手なら、宴会や交渉に呼び寄せて撫で斬りしてもおkな世の中だから
「呂将軍は詭計で敵を欺いて城一つ落としたんだって」「すげーや!」だろう
味方が呂蒙のことを信用するかどうかは日頃の態度の問題
0335名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/07(月) 02:28:57ID:iZXUzPIQ0
あの亜蒙が・・・
0338名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/12(土) 02:45:49ID:w2AbgOd00
呂蒙は貧民出身だから身内の評価は高くないはずだよ。
だからこそ呂蒙は士大夫の反発を買わないよう謙遜してたんだね。
0339名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/12(土) 03:14:17ID:Ws9YFKqG0
呂蒙は孫氏に仕える士大夫の代表格の張昭からも高く評価されてるんだが。
あと、呉の人間が呂蒙を低く評価した記述は呉下の阿蒙のみ。
しかし、これも親しみ混じりだからねえ。
0341名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/12(土) 21:08:40ID:w2AbgOd00
まあ、単家に対する差別意識と、単家出身者に対する個人的評価は別かもしれんけどね。
しかしどれだけ個人的な信望を築こうとしても、
やっぱ単家出身者だということで差別的な眼差しは否定できなかったんじゃないかねー。
戦場で計略を使ったら、あいつのやりそうな詐術だ、とか言われたりw
0343名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/13(日) 02:37:55ID:W8fUb7f20
>>342
>>341は眼差しや陰口(?)のたとえで言ってるんじゃないか?
実際に仕事をしたかどうかの話じゃないだろ

指名するのは主に孫家で、孫権なんかは豪族より非豪族の方が使いやすかったみたいだしね
0344名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/13(日) 02:54:15ID:9OcY5omy0
なんか妄想逞しいとか言われてるけどw
>>333のような奸計を用いた場合の身内のリアクションの話じゃないの?
だから貧賤の出自だと同じことしても評価が辛くなるって言ってんだけどさ。
単家出身か名家出身かで周囲の反応がどう変わってくるかって話だから、
虞翻や張昭にどう評価されたかは名家との比較じゃないから関係ないよ。
0345名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/13(日) 04:32:26ID:hN8p6RxZ0
あの虞翻が批判することなく呂蒙に従っていたんだから身内のリアクションなんて大したことないよ
名家との比較でいえば初期の陸遜のほうがよほど批判を受けてるしね
評価が辛くなるという根拠が「謙遜してた」だけじゃ妄想にしか思えないよ

カン沢も寒門出だし呉では差別意識もってる人間のほうがやりにくいんじゃない?
劉巴が呉にいたら大変そうだw
0347名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/13(日) 10:15:11ID:9OcY5omy0
謙遜は評価が辛くなる根拠じゃないんだけど…。
まあ、なんかというか言葉の通じない文化圏の人って感じだな。
0350名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2009/12/13(日) 19:07:45ID:9OcY5omy0
孫権が故人を慕って魯粛をトウ禹になぞらえて語る場面は2箇所あるんだが、
どちらも帝位に即くことを勧めたことが理由になっている。
このことからすると称帝は、呉では魯粛が最初に言い始めたことになるな。
従って赤壁戦後のおべんちゃらも史実。
それを20年後に現実にしてしまった魯粛がすごいな。
0353名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/01/17(月) 20:51:44ID:Jgwvt1d10
5人揃っていれば、まず間違いなく周瑜の天下二分論に基づいて動いた可能性は高い
本拠地と荊州、益州の各方面司令官もいるし、魯粛の戦略も軍事的優位性が高くなれば
「魏呉の二大勢力化」「孫権を皇帝にする」という目的に最短距離で進むだろう
0354名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/01/17(月) 22:55:40ID:/hC1iqCY0
面白そうだな
5人の誰がどんな役割に付くか具体的に話してみてくれ
0355名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/01/21(金) 17:43:46ID:scNtVNy60
>>354
周瑜=益州攻略並ぶに荊州都督
魯粛=孫権側近の筆頭参謀
呂蒙=荊州都督副将
陸遜=揚州都督
陸抗=揚州都督副将

こんな感じかな?
0356名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/01/21(金) 18:48:40ID:mDyThbYn0
陸抗は周瑜に付けてみたいな、なんとなく
西陵での巧みさや統治能力を見るに、彼は時代が時代だったら父親超えてたんじゃないか
0357名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/02/08(火) 16:18:04ID:qTLMdKCB0
>>356
西陵は過去に陸抗の縄張りだったから、攻防の要点は最初から把握していたかもね
永安では3万で半年攻めたが落城させられなかったし、陸遜以上かどうかは微妙
0358名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/04/16(土) 17:58:34.17ID:natLFJYp0
陸遜ハンパないからな
戦争軍事バリバリ、経済にも明るく統治能力高くて、外交も一手に担う
ただ対人スキルだけはどうしようもない
0359名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/18(水) 08:58:09.14ID:G3zyAs0DO
呂蒙の息クサソウ
0360名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2011/05/29(日) 00:41:53.53ID:osv8riOTO
諸葛恪が起き上がり仲間になりたそうな目で五人を見ている。

仲間にしますか?

はい

いいえ
0364名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2013/09/21(土) 06:25:57.00ID:DRV6Q4pD0
来年の大河ドラマは軍師黒田官兵衛。
備中高松城の水攻めを羽柴秀吉に献策したのは黒田官兵衛とのこと。
大河ドラマにちなんで備中高松城の水攻め復元模型を製作した。
http://mirai660.net/castle/
0367名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2014/09/04(木) 10:59:41.55ID:W1EmSZuH0
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0368名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/01/25(日) 04:07:28.00ID:wbvTyaoX0
>>357
永安攻めの主将は歩協では?
だから永安攻めの失敗の全ては陸抗に起因するものではないと思われ
0369名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/01/27(火) 18:22:01.40ID:aXmEAIPu0
/ヘミミミ/  ``'ー-.、,ヽ丶)ヽ、
  、. レ"ヾヘミミ/        ヽソノ;、ヾi
  _ヽlヾミミミン  -zュ、、     ´ ';ソ:|
  i A;ヽミミゾ   ,__,.、,、,..,、、.,、,、、..,_       /i
  | | iミミソ     ヽ;'`;、、:、. .:、:, :,.: ::`゙:.:゙:`''':,'.´ -‐i
  | ヽiミソ       ''、;: ...: ,:. :.、.:',.: .:: _;.;;..; :..‐'゙  ̄  ̄    /i
  ゙iー:ソ           ,、-'  |ヽ,;'`;、、:、. .:、:, :,.: ::`゙:.:゙:`''':,'.´ -‐i
 ノソ         ` = _, |  '、;: ...: ,:. :.、.:',.: .:: _;.;;..; :..‐'゙  ̄  ̄
.  "!      ,.r===;-、, ` '′  ,'
  ハ.      / ヽ、  ヽ,)   ノ
,r'イ ',     l!、   ゙i ./   ,.'
. i |  ',      iゝヽ..ノ,イ   /<韓国人の汚食事風景(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑) @^-^@ (大笑)
. !│ ヽ    ゝ.二 '´ /.│ https://www.youtube.com/watch?v=Izm3Cccl_3w(笑)
. ! |   ヽ      /   !、
. | |     >‐‐ァ"     | \
 | |  ,、r'" ,、r''"      /  
:
「日の丸」に噛み付くキチガイ朝鮮土人(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=oixXyjcBFX8

朝鮮寒流(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=R-6TD2nFxMQ&;x-yt-ts=1421782837&x-yt-cl=84359240

韓国料理の劣悪さがヤバイ!「食中毒出しまくり!」と
台湾テレビ番組が報道している事実を発見! (笑)
https://www.youtube.com/watch?v=Rub2GetQqc8&;x-yt-ts=1421914688&x-yt-cl=845
0370名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2015/02/18(水) 22:31:09.86ID:x1V7B2Qi0
>>329
騙されたカク普は蜀に戻ったのに結局呉の仲間入り
騙されたカク普自体が騙されても自業自得なクズなので
呂蒙が卑怯というよりもカク普がアホなだけ
0373名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/08(月) 00:44:37.62ID:9FWSR3bA0
張昭を軍師としてみると、それなりに優秀だよね?
0374名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/08(月) 21:39:09.65ID:vI1kTWyt0
>>372
粘ったのは評価できるが
隠蕃の件は致命的に状況判断できない人物である事を表している
末路はある意味仕方ない
0375名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/10(水) 19:23:46.71ID:to4J4vs60
◆「得票0に疑義」と提訴 参院選でJAM組合員
http://www.sankei.com/affairs/news/160809/afr1608090021-n1.html


実は、非常に奇異な点があるのだ。それは、区によって、「票があるところ」と「まったくゼロな区」があるのだ。三宅洋平の得票では、

豊島区ではなんとゼロ票 

              中央区ではゼロ票。

                        江東区ではゼロ票、

                                   荒川区ではゼロ票 

                                            足立区ではゼロ票 

                                                      通常、こんなことは考えられない。


慶応の学生です。大学の教授が今回の選挙についておかしい部分が多いとツイートしています。
500の束のバーコードを他者に振り替えていると考えられると言っています。
例として幸福実現党は都内に信者がある程度いるはずなのに、3区以外はすべて0票。犬丸氏も同じだったと言います。
また、娘さんが練馬区で三宅氏に投票、他知り合いが3人も入れたのに、0票。 池袋、渋谷で0票もおかしいと書いています。
明らかにム サシの機械での操作があった可能性が高いと書かれています。
0377名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/08/14(日) 18:55:53.35ID:/DNO48nM0
>>376
策の軍師は張昭でいいのか
なんか策が攻めるときは張昭か張鉱のどちらかが城を守ってたらしいが
この二人を仲間にした策って劉備より運いいな
0378名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2016/09/19(月) 08:53:18.70ID:/lwX90TJ0
>>377
孫策ってやってることえげつない(呼び出して斬殺とか)のに
名士受けいい気がする

と思ったけど、二張だけかな…
0381名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/13(土) 22:48:04.54ID:bpSuax1t0
>>380
呉は地元の名士と豪族が支えてたんじゃ
0382名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/14(日) 01:31:01.12ID:dmQ/nnf00
>>381
呉の地元の名士や豪族は重要なファクターだがそれが全てではない
他所から来た寒門と融合して呉の下骨を支えてきたのが
五胡十六国南北朝時代に生きてくる下地となったと思われ
0383名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/18(木) 23:18:22.57ID:nk5EypYMO
>>377
二張って劉備統治時代の徐州から流れて来たんだっけ
陳群さんもいなくなるし、劉備は魅力ないんだなあ

ところで陸績は孫策の時に配下になったんだっけ?陸遜が孫策の娘を娶ったのは記憶にあるけど、だいぶ記憶力が落ちて忘れてる
0384名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/19(金) 12:21:13.41ID:GbkTfgai0
>>383
策の人物の器がかなり大きいが
二張はトウケン時代じゃないの?
陳群は情勢の危うさを感じてたので仕方ない
0385名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/19(金) 19:21:48.32ID:tvrKpWe10
孫策は劉備と面識のあった太史慈も配下にしているので
器がかなり大きいのは確か
太史慈は人材コレクターの曹操が声かけても配下にできない逸材
0386名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/27(土) 08:49:58.46ID:WkM0j0Ul0
諸葛瑾ってわりと軍を引き入ってるけど采配能力は中の上ぐらいと考えていいの?
0387名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/05/28(日) 06:26:35.70ID:e16ruU+00
良くてせいぜい中の下
0388名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/10(木) 11:51:56.87ID:yCEbO/JS0
諸葛瑾って地元の豪族じゃないのに
よく兵を任されてるね
0389名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/13(日) 20:23:41.16ID:Scl8pBjS0
>>388
地元の豪族だと勝手に兵集めて自前の兵持ってるからな
逆に諸葛瑾みたいな忠実な外様大名は孫権にとって貴重なので兵預けたくなるのは必然

しかし諸葛瑾が兵預かったのは魯粛や呂蒙が死んだ頃なので
単なる使える人材不足しているから仕方なくの感もある
厳oと違って馬に乗れたからとかいう些細な理由でかもしれないw
0390名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/16(水) 01:36:13.87ID:FKk4dWv00
孫権は戦下手で多くの戦は大都督に丸投げしているのに、
何で合肥攻めだけは自ら出馬したがるんだ?

合肥攻めも陸遜に丸投げしておけば、きっと攻略してくれたろうに
0391名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/17(木) 11:35:58.00ID:eEfzxPs70
陸遜はケイ州方面の担当だったけど合肥攻めしてれば陸遜なら成功したかもね
でも攻略してもその後の防衛は大丈夫だったんだろうか
0392名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/17(木) 18:01:18.33ID:HnmYheSx0
どうすれば孫権は天下を統一できたか?

孫権「陸遜、合肥を落とせ」
陸遜「かしこまりました」
孫権「おい魏が荊州に攻めて来たぞ 陸遜何とか撃退せい」
陸遜「かしこまりました」
孫権「陸遜、寿春を落とせ」
陸遜「かしこまりました」
孫権「陸遜、一気に許都を落とせ」
陸遜「かしこまりました」
孫権「陸遜、洛陽へ遠征して魏帝を捕えよ」
陸遜「かしこまりました」
孫権「陸遜、蜀へ遠征して劉禅を捕えよ」
陸遜「かしこまりました」

孫権「ついに天下統一したぞ!!いやあ誠に苦労の連続であった」
陸遜「・・・・・」
0394名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/19(土) 21:35:37.50ID:QKusi/820
>>393
いや陸遜を用いない戦(江夏石陽攻め、合肥攻め、241年の大攻勢)では、
呉は失敗している 全部陸遜に任せておけばよかった
0395名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/20(日) 11:32:54.91ID:huOxAF+W0
陸遜は防御的采配を優先する人だから攻めは無理でしょ
攻めだと曹操や孫策タイプになるんじゃ
そのかわり失敗のリスクもあり失敗すると損失も大きい
0397名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/20(日) 17:10:59.45ID:huOxAF+W0
関羽は一将軍に過ぎないから州を任せるなんて元から無理
劉表の方がましじゃね
0398名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/20(日) 21:53:32.36ID:W4tIKstS0
君主自身の軍事行動を支える参謀タイプの人材がいなかったのが孫権が軍事で何度も失敗した原因じゃないだろうか
曹操でいったら荀攸、劉備でいったら法正みたいな人材
0399名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/24(木) 18:56:05.36ID:rRRbDZiL0
>>398
孫策だったら周瑜や二張なんだが
確かに孫権には参謀居ないのう

まともな参謀居ないならまだ呉範劉惇趙達に占いフル回転営業させた方が
0400名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/08/24(木) 23:53:03.02ID:WaI/yunT0
二張の参謀の能力はどんなもんなんだろ
ただの政治家って印象のほうが強いが
0401名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/06(水) 16:50:10.94ID:jIbMOKzv0
>>393 >>394

始皇帝でさえも、王翦の提言を唯一却下した対楚戦では大敗したからな
王翦に丸投げし続けたおかげで、天下を取れた

孫権も全部陸遜に丸投げしておけばよかった
特に234年の合肥攻めと241年の大攻勢では、朱然じゃなくて陸遜を派遣すべきだった
0402名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/07(木) 15:05:34.93ID:gCLuszTJ0
パンパカパンツ♪
0403名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/09(土) 10:20:12.33ID:vZZKIG5Y0
王翦は老齢で活躍したけど歴史の表舞台に初めて立ったのは楚討伐の10年前ぐらいだから
下積みが長い
呉でいえば陸凱みたいな感じか
0404名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/10(日) 09:43:01.65ID:TSiUKrlL0
>>401

> 特に234年の合肥攻めと241年の大攻勢では、朱然じゃなくて陸遜を派遣すべきだった


陸遜を投入しなかった理由はなんだっけ?
0405名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/10(日) 16:21:41.74ID:GhbSo13E0
全jクラスじゃ話にならないか
0406名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/09/17(日) 08:53:24.66ID:jg/NWeOE0
>>404
234年の合肥攻めの時は別働隊で諸葛瑾と襄陽を攻撃
241年の大攻勢の時は代表引退で後方で城造成
0408名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/10/20(金) 21:19:53.25ID:F2POKuiX0
>>407
諸葛瑾は空気だと思うけど
諸葛恪と諸葛融が息子世代の中で頭角表している
全jは諸葛恪と年近いからな
どちらかというとニュージェネレーション台頭とか世代交代とかの方が近いか
0409名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/10/29(日) 17:11:36.07ID:A4jLE5+A0
>>401
陸遜は守戦の将であって
攻戦では呂蒙ほどの才能が感じられない
呂蒙ぐらいの才能あれば襄陽や江夏ぐらい
攻略できてもいいのだがそれもできていない
0411名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/11/14(火) 19:05:39.06ID:Cgf5hYCv0
呂蒙は
荊州奪取戦(対関羽など)だけでなく
江夏攻略戦(対黄祖など)
江陵攻略戦(対曹仁など)
皖城攻略戦(対朱光など)
荊南攻略戦(対関羽など)
でもきちんと勝ち切って領土奪っているから
関羽の能力は関係なく呂蒙は優秀な攻戦の将
0412名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/11/19(日) 10:13:10.34ID:IG48JC0Q0
呂蒙と周瑜だと、どちらが攻城戦が上手いのか
0413名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2017/11/19(日) 18:50:38.69ID:jaWhEfN00
普通に呂蒙
しかし現場仕事が呂蒙の方が得意なだけで
別に周瑜が呂蒙よりカスという訳ではない
0416名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/25(木) 19:38:28.74ID:PZxWTcQk0
個人的には、カン沢はもっと評価されて良いのではと思うけどね。
赤壁の戦いでは、苦肉の策を見抜いて協力し、曹操を騙しきるという重大な活躍を見せている。
また、夷陵の戦いでは、群臣が猛反対する中、自分の首をかけて陸遜を推薦し、結果として大勝利に導いている。
赤壁・夷陵という呉存亡の大ピンチを二度も救ったキーマンなのに、なぜ、ただの文官程度の評価しか得られていないのか?
0417名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/25(木) 20:16:51.63ID:PZxWTcQk0
その一方で、毎回高い評価を得ている張昭は過大評価だったのではないかと思うところ。
理由は以下のとおり。

・甘寧の天下二分の計の第一歩でもあり、孫堅の仇でもある黄祖を討つことに反対した。
・赤壁の戦いでは、降伏派の中心人物であった。
・魯粛を重用しないよう、孫権に讒言した。
・孫権からあまり信用されていないのか、丞相に就任できず、孫登の教育役にもされなかった。
・孫権が帝位に就いた際に、周瑜は賞賛されたが、張昭のことは「お前の言うことを聞いて降伏していたら、今ごろコジキになっていた」と言われた。

 残念ながら、これを読む限りでは、郭図と同レベル程度にしか思えない。
0418名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/26(金) 05:35:13.71ID:3gf7w8bn0
>>417

張昭の才能は内政オンリー。
0419名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/28(日) 10:57:23.15ID:K7SLAR5X0
蜀の人が孫権に蜀のすばらしさを語って誰も反論できなくて
こんな時に張昭がいれば・・・と孫権が嘆いた逸話もある
やはり重臣として必要な人材だった
0421名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/28(日) 14:58:53.48ID:1zpVzpvF0
張昭といえば、張紘も有名ではあるけど、具体的なエピソードに欠けるんだよな。
死の直前に、建業に遷都するように進言したという話が有名ではあるけど、ではそれ以外は?というと、ほとんど思い浮かばない。
これだと逢紀の方がまだマシに思えてくる。
0422名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/28(日) 15:49:25.48ID:Fn5zl/jZ0
>>421
張紘伝を読んでそんな感想しか出ないなら読解力がないのかな?
それとも本人の伝も読まずに呉叩きがしたいお子ちゃまかな?
0423名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/28(日) 17:31:14.15ID:1zpVzpvF0
>>422
お前こそ読解力のないアホじゃないの?
呉叩きをしたいだ?
じゃあ聞くが、張紘の呉における功績はどのようなものがあるんだ?
結局、曹操とのパイプ役になって呉の危機を防いだというわけではなく、むしろ孫権が曹操に臣従するべきだという感じの立ち回りが目立つのだがね。
二張と言われていたとおり、本質的には張昭と同じだよ。
呉の名士だから自分たちの身分は保障される。だから強い者に従って、無用な争いを起こしたくないという感じでしかないのだが。
呉の臣、孫権の配下というよりは、独立した立場をもった後漢の臣でしかないんだよ。
あえていえば、張紘を叩くというのは、呉を叩くというよりは、後漢を叩くという表現の方が合っていると思うんだけどね。
0424名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/01/28(日) 19:26:29.92ID:Fn5zl/jZ0
>>423
全くもって意味不明だな
どこの記述をもって「曹操に臣従するべきだという感じの立ち回り」をしたのかな
張紘伝を読むと曹操の侵攻を抑えたように書いてあるけど
君は蜀中毒の呉アンチだろ
0425名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/02/03(土) 09:21:20.12ID:3ccb1yda0
>>416
カン沢は演義では大活躍でおいしい人だけど
ただの文官程度の功績しか残してない人だからなあ
カン沢が最も貢献した事績は乾象歴注なので
0427名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/08(木) 23:30:53.80ID:em/liJB10
張昭
●孫策は文事武事の一切を張昭に委ねている
●孫策は張昭を管仲に比す
●臨終の際に後事を託す
 ※孫権に能力なければ、政務をとってよしという諸葛亮なみの後事。
 ※ちなみに内のみというのはガセ。後事においては周瑜ですら群臣扱い
●ママも同じ考え
●公孫淵さんの詐欺に気づく
0428名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/09(金) 06:24:00.80ID:Y5hCJ9cv0
>>425

史実で活躍したのに、演義では活躍していない人もいるらしいが。

演義に登場しない人までいるらしい。
0429名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/09(金) 18:37:48.96ID:9tn207Bf0
是儀「そだねー」
0430名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/09(金) 23:14:27.32ID:lMEcWItM0
>>427孫権「兄貴に後を託された癖に、曹操に降服する事を勧めやがって糞ジジイめ」
0432名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/10(土) 18:17:18.81ID:1h2Tg8Hc0
劉表が病死した瞬間に荊州が
降伏したんだからある程度はしょうがない
劉備が劉奇と一緒に上庸で戦ってくれれば
孫権も南郡が取れてたのに
0433名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/11(日) 03:53:54.17ID:aEfoTa+J0
何が孫家の為になるか、の、問題とも思う

天下が統一され、高官として生きるのが悪いとは思わない
張昭は孫家に忠誠心をもっての進言とも思う。

正直、この赤壁の時点で、地方領主のママ、
皇帝名乗る詐欺師みたいな行動をとっていくなんざ
魯粛以外に考えてなさそうな気がする
0435名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/17(土) 13:36:02.42ID:UCZqIB7y0
関羽がへぼい呼ばわりされるけれど
呂蒙が陸遜まで使って、おべっかして、病気で油断させて
魏に攻めさせて、からの、完全奇襲して完勝だぞ
どんだけ、関羽に時間かけてんねんだぞ
三国志でトップクラスの軍師級の人材が何年もかかっての詐欺働きだぞ
曹操でも騙されるわ
0436名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/17(土) 15:53:51.62ID:RPBOmurb0
何年も掛けずに完勝出来るんだから
ヘボに決まってるだろ
と言うか、他の戦いが全て突発的に起きてるように聞こえるな
0437名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/17(土) 16:42:58.52ID:cP2EbwIw0
関羽にブレーンをつけていれば最悪の事態は避けられたのではないか?

馬良とか法正とかいたと思うが。
0439名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/17(土) 23:04:39.02ID:wsF2uUhO0
魏側の思惑としては関羽と呉軍が潰し合う事を想定してたと思うんだけど
あそこまで呉が完勝するのは予想外だったんじゃないかな
呉側も関羽側の将軍があっさり降服して荊州を奪取できるとは思ってなかっただろうし
関羽の人望の無さがどの陣営にとっても予想外の事だったと思うわ
0440名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 00:48:05.68ID:AJx09leU0
>>436
魯粛が死去(217)してから呂蒙が司令官になってから
すぐに計画を始めたんだぞ
呂蒙の綿密な関羽北上(219)までのおぜん立て、計画力なめんな
関羽の舐めた傲慢な性格に拍車をかけているのは明らかに
呂蒙の計画的な低姿勢。
0442名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 07:59:26.62ID:ywEPPD8p0
>>440
呂蒙が低姿勢なのはヘボ将軍な関羽が攻めてくるから
これは魯粛時代から度々あって呉は魏に専念出来てないから
0444名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 10:08:54.55ID:AJx09leU0
>>442
正史にモロに「荊州ぶんどる為に関羽油断させまっせ。」と計略を述べている

>>441
一応手紙だけだと効果が薄いので病気利用して陸遜と交代する計略をたててる
呂蒙は緻密型
0447名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 13:50:13.85ID:AJx09leU0
>>445
呂蒙が密かに計策を陳述して言った
「今、征虜将軍(孫賁)に南郡を守らせます。潘璋を白帝に住まわせます。
蒋欽に遊撃部隊一万を率いさせ長江の上下を巡回させ敵の所在に応じさせます。
呂蒙は国家のために前線の襄陽に拠ります。こうすれば、どうして曹操を憂いて、どうして関羽を頼るのでしょう。
かつ、関羽の君臣は詐術と武力を矜持とし、所々で裏切るので腹心の待遇をすべきではありません。
今、関羽が東に向かう所とならないのは至尊(孫権)が聡明で、呂蒙らが存在するからです。
今(自軍が)強壮な時にこれを計らず、一旦倒れれば、再び力を陳述しようにも、それを得られるでしょうか」
孫権は深くその策に納得した。

呂蒙が魯粛の代わりになるのに及び、初めて陸口に到ると恩を厚く納めることを倍とし、
関羽と友好を結んだ。後に関羽が樊城を討ち、将兵を留めて公安、南郡を守備させた。

以上が正史
0448名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 13:56:04.18ID:AJx09leU0
魯粛が関羽と仲良くしてたのは困難な時、二国で魏と対峙するためですわ、
でも、情勢が変わりました。俺らで上手いことできます。もう関羽いらんでしょ。
0451名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 14:40:04.73ID:OxGAfi5N0
ID:AJx09leU0の理屈だと関羽よりも劉璋のほうが名将だな
諸葛亮が劉備に会う前から計略を立てて
ホウ統や法正が何年掛かりで罠にかけて
五虎将のほとんどが攻め立て一年あたり戦争が続いているんだから
0452名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 18:00:29.13ID:CtnRzf2V0
>>435
逆に名将ならそれぐらい綿密に計画を立てられても方面軍壊滅されるぐらいの完敗しない
孫呉の関羽に対しての完勝は日本海海戦レベル
なので関羽の完敗能力はロジェストヴェンスキー級
0453名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 19:09:33.66ID:OxGAfi5N0
つーか、へりくだれば関羽は国を傾ける証拠を自分で持ってくるなんて
むしろAJx09leU0はアンチ関羽厨だろ
0454名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/18(日) 22:52:18.59ID:tF2L/kcH0
>>451劉璋とは条件が違いすぎるだろ
劉璋は成都に留まっていたし益州は要害
荊州南部とは難易度が違う
0455名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/19(月) 00:36:15.10ID:Emxi40H20
>>454

>三国志でトップクラスの軍師級の人材が何年もかかっての詐欺働きだぞ

要件はこれ
関羽以上の詐欺働きだから劉璋も名将になるね
0456名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/19(月) 00:45:27.35ID:ezIecLvn0
>>449
どんな時系列なんだよ

>>450
ごめん、主語が無いので意味がわからない。
誰が誰を攻めるの?
呂蒙が関羽を攻めるって話なら、
警戒をとくために仲良ししたって話やで

>>455
当たり前だろ、関羽は方面軍司令官に過ぎないが
劉章は自分の勢力より何倍もでかい、国やぞ?
0457名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/19(月) 01:28:19.57ID:Emxi40H20
>>456
意味が分からん
自分で決めた基準をあれこれ後付けしても理解できるわけないだろ

だいたい南茨州もただ取るだけなら曹操に横やりを入れられるから
難易度は関羽レベルじゃないと無理なんだよ
0458名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/19(月) 06:13:35.32ID:4A/CWjwr0
劉璋の軍事的才能は、司馬懿や陸遜を上回るということは誰の目にも明らかだな。
0459名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/19(月) 21:46:52.62ID:ezIecLvn0
>>457
何が意味がわからんのか教えてくれんか?
主語が無いので、君の日本語がわからん
呂蒙が関羽を攻めるなら警戒を解くというのが
私、オリジナルの解釈だと
思ったの?

>>458
軍事的才能に兵力の保有数を加えるならそうだろうよ。
0461名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/20(火) 21:17:20.50ID:7mDIHc7i0
>>456
>当たり前だろ、関羽は方面軍司令官に過ぎないが
>劉章は自分の勢力より何倍もでかい、国やぞ?

南茨州と益州だと国民の規模はそんなに変わらなかったはずだが?
0462名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/20(火) 23:38:52.67ID:d1DGVpDK0
>>460
劉備と劉章は戦力比がでかすぎて、丁寧な詐術使うのは当然
翻って呂蒙と関羽は同じ方面軍司令官。拮抗戦力を保有している。
にも関わらず、呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは関羽が名将だから
という理屈やぞ?

関羽軍と劉章軍と戦ったら、戦力比が10倍近くあるのだから
劉章軍が勝つだろうさ。それで劉章が勝ったから名将というのなら
君の定義では名将なのだろう

>>461
どのソース参照?
後漢の人口
荊州 6,265,952
益州 7,242,328
ここから荊州は三分割されて、一番大きい都市は曹操ゲットやぞ?
しかも、荊州は至近に戦乱食らった場所であり、益州は戦乱の無い穏やかな土地なんよ?
ひいき目に見ても戦力比4倍以上じゃね?
0463名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/21(水) 18:15:02.47ID:qcmo/wAv0
「獅子は兎を狩るにも全力を尽くす」
0466名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/21(水) 20:09:29.83ID:qcmo/wAv0
>>462
>にも関わらず、呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは関羽が名将だから
>という理屈やぞ?

その前提が明らかにおかしい
呂蒙がここまで丁寧な詐術を行うのは本気で荊州取りに行ったから
とか考えないの?
関羽存命中に関羽の配下やその家族の多くを慰撫し心服させ
孫権まで繰り出して荊州の租税免除したりしてたからな
おかげで関羽の率いる方面軍は壊滅で荊州の土地や于禁らの捕虜含めて呉が手中に収め
呂蒙死後2〜3年後の夷陵の戦いの時には既に荊州は根っからの呉の土地になって
劉備に呼応する勢力ほぼ無し
ほぼ唯一といってもいい武陵蛮は関羽の元配下の潘濬に馬良含めて撃破されるという
0467名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/21(水) 21:30:20.86ID:/7yzWhZ20
>>462
茨州戦が長引けば、夷陵の戦いや西陵の戦いのように
魏晋に攻められるのが分かり切っているのに
なんで関羽だけ呉蜀だけの戦いで完結するんですかねえ?

まともに考えれば無駄に関羽を攻めれば劉璋よりも巨大な曹操も同時に相手を
しなきゃいけないんだけどな

なんで関羽だけ方面軍司令官で議論しなきゃいけないの?
0469名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/22(木) 01:45:53.47ID:L85FNG2Z0
>>466
もちろん本気で関羽から領土を取りに行っていると考えます。まことに計画的に。
魯粛から引き継いですぐに孫権に献策していることからも、そうです。
あと目的と手段の難易度を混同させない方がよいかと。

>>467
呂蒙も同じ立場なのでは?

>>468
それ呉だけ晋書なんですよね。

何故後漢の人口を使うかといえば三国志時代の人口がわからないからですよ
晋書280年で言えば、
梁州・益州・寧州 約200万人
交州・廣州・揚州・荊州(魏領除く) 約380万人

大幅な把握人口減ではあるけれど比率を見る限り
後漢の人口と比べれば、揚州が大いに発展
襄陽群が南群(江陵)にダブルスコアで人口負けてるので
長江付近は呉を経ることで大いに栄えたのが伺えますね。

280年でいけば荊南時代の劉備勢力は劉璋の半分程度に収まりますね。
0471名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/22(木) 06:01:30.25ID:2/uAjQmx0
>あと目的と手段の難易度を混同させない方がよいかと

呂蒙にとっては関羽はイージーな相手だよ
215年に荊南3郡回収した時は関羽は
文弱の魯粛や寡兵の甘寧に阻まれているからな
舌戦でも魯粛に完敗
そんな相手が呉に非礼無礼を働いた挙句
組織グダグダなまま全力で背中向けてるからな
もうアホかと

呉は孫堅の時代から荊州とは戦い続けているので
荊州奪取は呉の長年の悲願
1つ間違えてはいけないのは
呂蒙の真の敵は関羽ではなく自身の寿命と荊州
関羽しか見えていない奴にはわからないだろうけど
0472名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/22(木) 06:25:02.97ID:vVULnxOW0
まあ関羽って言うか劉備が孫権陣営舐めてたからな。華北や中原の人士の江南軽視は五胡十六国時代でも凄いし。
0473名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/22(木) 21:48:18.58ID:NdgzWt750
呉にとっては雑魚、蜀にとっては戦犯扱いされてる関羽なのに
魏側だと大敵扱いされてるのが面白いな
0475名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 01:31:35.13ID:jFn4BiZv0
>>474曹操もビビって遷都しようかなと言っちゃってるし
蜀の名将は関羽のみ的な事言ってる奴もいるし
呉、蜀と比べると魏の方が関羽の事評価してる気がする
0476名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/03/23(金) 11:30:31.85ID:48k78jxx0
>>475
遷都の件は関羽だけでなく、大規模な内乱があったし
司馬懿が絡んでるから信憑性が薄いだよなあ
名将の件も漢中での敗北で関羽なんて絡んでない
あんだけ大敗北しているのに
名将は関羽だけなんてこれも信憑性が無いって
0477名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 11:42:28.13ID:Ay67HIo70
そもそも劉備陣営で中央で名が知られてる将なんて関羽・張飛を除いて
それこそどれだけいるのかっていう疑問の方が大きい気がする
趙雲や魏延、黄忠だって中原じゃ殆ど無名に近いんじゃないのかなあ
それ以下ならもう十羽一絡げだったとか
0479名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 12:01:35.76ID:9OqtFsnH0
劉備は最後が物凄い負け方したけど一年近い対陣を何回もやってることからして統率力は相当ありそう。
0481名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 18:15:36.93ID:rBE/ZUOT0
>>476
大規模な内乱といっても曹丕が片付けた未遂のやつと県兵が鎮圧したレベルの群盗騒ぎ
まぁ曹操が嫌気さすには充分だが屋台骨揺らぐまでに至っておらず
逆に不穏材料や膿が出尽くして後の禅譲時に目立った混乱無い程の雨降って地が固まった感が
あと魏の漢中大敗北とかいっても主将の1人死亡で僻地放棄して軍容崩壊せずに撤退だから
方面軍壊滅で人材主要地域の多くを喪失の蜀の荊州失陥よりはあまりダメージ無い
劉備も夏侯淵よりも張コウ取り逃がして不完全燃焼感表してるから
蜀ヲタの見解よりも劉備自身の方が漢中戦勝利感無さそうだが
0482名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 18:21:21.93ID:rBE/ZUOT0
>>480
いや劉備が夷陵で勝ってたら魏は呉を攻めない
当時は魏と呉は同盟国だからな
逆に三方侵攻の軍が全て呉の援軍として劉備に襲い掛かってた可能性も
逆に劉備が夷陵でもっと惨敗して永安で呉に襲われて死ぬぐらいの壊滅状態ならば
呉は完全ガラ空きで魏の三方侵攻は成功した可能性もあるな
0483名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/23(金) 23:43:13.94ID:WzByyE500
>>469
>呂蒙も同じ立場なのでは?

意味が分からん
立場が同じだから何?

>梁州・益州・寧州 約200万人

漢中付近及びそれより北は劉璋は支配していない
さらに南方の郡も下手をすると支配していないかも
どうも劉備からぽいんだが劉璋が支配してる記述はあるかな?
0484名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/24(土) 16:56:15.53ID:opxg2PiO0
>>482
劉備は夷陵で二回負けて惨敗しているのは正史通りなんだが
陸遜が深追いをさせず劉備の命乞いを許して魏の侵攻を許さなかっただけで
呉の食料庫を襲って両面に喧嘩を売るヘボ将軍じゃないだけだし
0485名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/03/24(土) 17:45:51.38ID:HoM75xaL0
>>484
まぁ確かに陸遜なら万が一劉備の首あげれても必ず魏の備えは怠らないだろうな

それはともあれ関羽の頭の悪さは後世で神格化された人物と思えないぐらいの酷さ
荊州を呉に取られて襄陽から撤退するならとっとと蜀に逃げれば良かったのにな
もしくはそんなに関羽が魏を倒せるぐらい強いならとっとと引き返して呂蒙と一大決戦して荊州取り返せばいいのにw
まぁ実際は異常気象込みのラッキーパンチでに于禁の七軍を撃破できて奇跡的完勝しただけで
例えば楽進相手だとほぼ勝てなったり寡兵の徐晃にやられたりされる程度の将
あと追い込まれて初めて文通攻撃で取られた領土取り返そうとか正気とは思えん
取られた城を手紙送れば簡単に返して貰えるなんて斎藤龍興と竹中半兵衛の間ぐらいでない限りあり得んのにな
日頃の行いが悪過ぎる関羽が取られた城返してくれる訳無いだろ
あと配下のほとんどが脱走して寡兵になって囲まれても項羽なら最後の1人まで戦って全滅なのに
関羽は偽りの降伏で油断させておいて脱走しようとして捕まっていきり立った兵士にフルボッコの挙句処刑だからな
お前はカダフィ大佐か
0487名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/22(日) 11:31:19.97ID:PwD+G83+0
季漢では劉備や関羽の軍事的失敗を批判すると
諸葛亮から誹謗罪で死罪に当たると上奏される
廖立みたいに

怖い国だな
0489名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/24(火) 09:29:43.75ID:lCDu7Gej0
>>488
馬超さん一応漢中王に即位する時の署名筆頭やしな。

やってる事だけみてると冉閔や赫連勃勃と区別つかんけど
0490名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/24(火) 11:47:08.76ID:S6KLFY7e0
馬超は外様の印象だよね
袁術に従った孫堅に近いのかな
馬超が死去してその部下は完全に蜀軍に吸収された感じだと思ってるけど
0491名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/24(火) 14:41:07.51ID:omKAavxN0
馬超は外様とはいえ貴族だからなあ。

やはり一目置かれたのだろう。
0492名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/24(火) 15:26:05.97ID:0VBQJQDY0
馬超さん典略だと馬援の後裔とか書いてるけど祖父の名前すらわからんから怪しい。
劉備から厚遇されたのは関西(羌族)の人心を得るためなんやろな
0494名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/04/30(月) 01:21:07.36ID:Mk6Om6GF0
>>492
馬援ー(略)ー馬平ー馬騰ー馬超

だったような
馬援と馬平の間の2〜3世代分が不明なので怪しいのは確か
直系ではないが馬融や馬日磾の方が馬援の後継みたいに見えるのは確か
0495名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/05/26(土) 21:27:59.04ID:duhox+eN0
☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と生活保護
を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
の導入は必須です。月額約70000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。♪♪
0496名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/05/27(日) 18:38:47.72ID:LtH8pKCl0
>>490
ホウ徳「」
0497名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/05/29(火) 08:54:55.84ID:m8wLILFH0
懐かしい横山光輝三国志 ゲーム

https://www.youtube.com/edit?o=U&;video_id=wxeEgAk_WPY
0498名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/05/30(水) 18:38:55.10ID:4HdZUVKS0
>>497

カプコンの「天地を喰らう」をパソコンに移植してほしいぞ。
0499名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/06/09(土) 08:38:01.13ID:TKOO0st40
呉で軍師と言えるのは張悌だけらしい説
0500名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/06/09(土) 21:38:17.07ID:7U3gdbJP0
>>499

そうかなあ?

この人は事績がたいして伝わっていないので、軍事的才能があったのかどうかわからないよ。
0502名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/06/16(土) 21:22:18.69ID:8Kv5gk/a0
軍師は能力でなく役職
0503名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/06(金) 19:51:50.42ID:KSvNB2al0
軍師将軍
0504名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/08(日) 19:10:13.05ID:zskyxd8D0
まぁ所謂軍師は呉にいないんですけどね
0506名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/07/11(水) 07:51:24.48ID:4z/DfFa20
呉には郭嘉みたいな「軍師」らしい軍師はいない
0507名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/10(金) 18:33:54.39ID:PjpfbQvd0
>>506
郭嘉は軍事祭酒だから
軍師でおkだが酒飲んでないとダメなポジのイメージw
0508名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/13(月) 23:56:51.52ID:K/Cdbb760
呉は君主が酔っ払いで軍師がシラフなイメージ
0509名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/14(火) 22:39:18.78ID:rRz4YuFy0
>>505
校尉て武官で
軍内の部曲を率いる高級武官
軍師とは少し意味合いが違う

まあ魯粛は校尉でも赤壁の戦いではほとんど武官らしい仕事していないし
軍師もほぼ軍師将軍という職がデフォなので
0510名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/23(木) 19:41:14.51ID:rOWHrDGe0
>>507
祭酒は元々戦国斉の稷下の学士の筆頭のこと
「祭酒」の意味は祭りごとの席で乾杯をする年長者。それが転じて長って意味になった
0511名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/23(木) 23:17:57.03ID:5w0W8pYC0
>>507
軍師祭酒な
0512名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/08/24(金) 02:00:12.95ID:Mk15BPqB0
>>510
祭酒て役職
飲み会の多い会社や大学サークルに必要だと思うが
日本で普及していないのは残念
0513名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/09/08(土) 19:59:37.54ID:oEv6VXhU0
象棋では(軍)師と(大)将は同格の駒
0514名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/10/13(土) 17:31:21.74ID:saPYHR5j0
呉の軍師といえば孫武
異論は認めん
0515名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/11/24(土) 19:02:46.38ID:lcSoKkgc0
おk
0517名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/11/26(月) 18:23:04.96ID:49IloivD0
伍子胥は大夫・上将軍なので軍師のカテゴリー外
0519名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/28(金) 00:30:55.57ID:+4aE3O6T0
よく平王みたいな悪人から
昭王みたいな名君が生まれたもんだ
0521名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/28(金) 23:12:37.29ID:Q+LRIV4L0
平王「俺ってそこまで悪人か?春秋の貴人としてはわりと普通じゃね? 王朝を潰しかけたのは息子だし」
0523名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/29(土) 18:07:52.35ID:qOM8n4Ny0
俺が不思議に思うのは、
どうして曹丕は劉備死後の蜀を攻めずに、呉ばかり攻めたのかということ。
曹丕は劉備死後直後の蜀に書状を送り、降伏を勧めたが、孔明に一蹴されて終わっている。
普通に考えれば魏は、関羽張飛黄忠馬超といった名将を立て続けに失い、
荊州をすべて失い、
夷陵の戦いで大敗し、国力が大きく疲弊していた
軍事的にみれば、弱った蜀に対して大軍で漢中奪還へ着手し、
蜀を攻めるべきではなかったか?
イデオロギーからみても、
漢から帝位を簒奪して誕生したのが曹魏なので、漢朝再興を国是とする蜀に対して
一番に討伐すべき対象だ。

三国志演義では曹丕は司馬懿提案の五路の計で、五方面から蜀を攻めようとしたと
物語られているんだから、曹丕が蜀を攻めてもおかしくはなかったと演義の作者にも思われたんだろう
0524名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/29(土) 18:27:07.87ID:qOM8n4Ny0
>>523
4行目書き間違えた

正しくは「普通に考えれば蜀は」だった
0525名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/30(日) 06:13:11.56ID:WjoKsl2a0
>>523

やっぱし地形がきつかったんだろうな。
0527名無しさん@お腹いっぱい。
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2018/12/30(日) 06:49:29.00ID:kcilOOjR0
魏の長所はやっぱ「国力」だが、蜀の山は大軍で攻めるのが難しい
呉は代わりに船と水軍が要るけどそれはしっかり準備すればなんとかなる

だから恐らく曹丕は呉から倒すつもりで計画を練っていた
…とここまでは戦略的に正しいのだが

だがいざ攻めるあたりで呉は夷陵で大勝利しおった
よって色んな軍師が「勝ったばかりの軍を攻めるは下策ですよ!」って呉攻めを反対したが


曹丕はやっぱ臨機応変の才がなかったんだろな
計画力と行動力はあるんだけど情勢の変化に対応できなかった
0528名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/30(日) 16:46:42.96ID:SHIANfaS0
でも魏は張魯を降して漢中を領していた経験があったんだから、
その経験を活かして漢中奪還に本気になるべきだった
漢中さえ奪還できれば、蜀は漢室再興と称して中央へ躍り出る糸口を失ったも同じ
0529名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/30(日) 22:34:27.86ID:gswAnPHL0
曹操の漢中征伐は張魯=漢中が孤立無援だったから成功したんでしょ
後ろ盾を得て抵抗する気満々の漢中を同じ勝手で落とせるとは思えない
0532名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2018/12/31(月) 16:18:17.25ID:gD0UidOP0
>>528
コスパ考えると漢中奪還するなら一気に蜀まで取らないとキツイ
中途半端に漢中だけ落としても曹操が根こそぎ五斗米道信者中原に移動させて
鶏肋の地と化した漢中を中途半端に維持するのも当時なら大きな負担
蜀も漢中の兵站維持するのにかなり消耗しているからな
あと蜀が漢室再興を掲げて漢中取って漢中王だの僭称しても
漢の終焉を願っていた当時の中原では全く響いていないのでな
0533名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/01(火) 01:15:48.18ID:XqWtve0a0
曹丕の帝位即位後・・・

蜀の文武百官「天下万民は、漢を滅ぼした逆賊曹丕を憎み、
慈雨を乞うがごとく、漢の復興を願ってやみません。
わが大王が帝位に即位され、漢の社稷を再興されれば、
、曹丕に表向き従っているだけの中原の者たちは、続々と曹丕への反乱の狼煙をあげましょうぞ!!」
劉備「よくわかった!!これより即位するぞ!!!」


即位後・・・
劉備「おかしいな・・魏で曹丕への反乱の兆しがない・・・」
孔明「曹丕におどされているのです。北伐軍を送れば、
漢室を慕う者たちが我も我もと続々帰順し、魏はわが軍と戦う前から自壊しましょうぞ!!」

北伐後・・
孔明「おかしい。誰も帰順してくれない・・・。益州一州の兵力だけで中原を支配する大国を滅ぼせるわけがない。
出師の表まで書いて成都の宮廷で大見得を切って出陣したのに、今更北伐を撤回できないし、どうしたものか・・・むむむ」
0534名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/01(火) 04:47:42.61ID:keVMScZ+0
>>53
蜀臣「皇帝になった今こそ魏へ討伐のための軍を起こすべきです!」

劉備「は?関羽の仇打ちのために呉を攻めるぞ」

諸葛亮「荊州必要だからしゃーない」
0537名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/15(火) 03:31:26.06ID:LiwOS9A30
ずっと気になってたんだが陸遜も周瑜も魯粛も割と名家だったんだろ?
陸遜が呉の四姓なのは知ってるんだが魯粛と周瑜はどの程度の家柄なんだ?
他にも名家っていうと袁家とかあるけど名家のランクというかスケールが知りたい
0538名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/15(火) 12:59:51.21ID:2FRjhAf20
周瑜のご先祖と袁紹のご先祖は和帝の頃は同僚で和帝の側近として外戚竇憲の専横を防いでた仲。
より正確に言うと袁紹のご先祖の袁安の故吏だったのが周瑜のご先祖の周栄で、司徒時代の袁安が県令をやってた周栄を自分の幕府に招いてスピーチライターを任せて竇憲陣営からは「周栄は袁安の腹心。奴を除かねば」と警戒されてた。
0540名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/17(木) 02:48:28.78ID:VuzGER7R0
ということは袁家>周家>呉の四姓って認識であってる?
周瑜相当な名門なんだな
よく周家が孫堅ならまだしも孫策についていくことを了承したよなぁ
0541名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/17(木) 04:59:27.37ID:If6JJ4yv0
確か外祖父の周景も跋扈将軍粱冀のスタッフで大尉や司空になってて清流派をどんどん推薦してたりする。
袁家ほどではないにしてもバリバリの名門
0542名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/19(土) 14:40:07.72ID:YLnYlebM0
跋扈将軍系:清流
宦官系:濁流

そう考えると宮仕え自体穢れな世の中だな
後漢が終わるのも無理もない話
0543名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/20(日) 08:13:19.86ID:UAEXpQ+t0
そんな名家に生まれたおぼっちゃん周瑜なのになぜ誰からも孝廉や茂才に推挙されてないんだぜ?
0544名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/20(日) 17:06:17.40ID:DY5doglH0
>>543
孝廉や茂才に推挙される前に官職に就いたら推挙されないんでは?
0545名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/20(日) 21:44:45.84ID:UAEXpQ+t0
周瑜が建威中郎将の官位を得たのは24歳の時。それまで推挙の記述なし。
孫権は15歳で孝廉、茂才に推挙されてる。周瑜はなぜ放っとかれたのか。
0546名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/01/21(月) 19:01:00.76ID:sa2rpXJX0
>>545
孝廉は前漢時代に毎年国郡ごとに孝者、廉者各1名とか決められたけど
後漢時代に資格満40歳以上(ほぼ例外多々)、試験ありとか面倒臭くなってるので
あまり官職への欲望の感じられない周瑜が孝廉時代してもおかしくないが
だから周瑜は偏将軍止まり
0548名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/02/09(土) 22:34:45.85ID:wd0ST7DV0
中護軍≒首都防衛軍、中央軍指揮官
0549名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/04(月) 23:32:11.49ID:6W4SECqP0
>>546
×時代
○辞退
0550名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/03/30(土) 12:20:28.78ID:EVNYwvmn0
>>538
>>541
周栄=反外戚
周景=親外戚

どうしてこうなった
0551名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/09(火) 21:34:35.07ID:lBFbv11C0
呂蒙って三国志の創作の中では一周回って横山が一番扱いいいよな
0552名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/09(火) 23:15:19.21ID:n8ChYmZQ0
蒼天航路なんか荊州争奪編は関羽が完全に主役だし
北方三国志でも関羽が一番目立ってたな
史実重視の宮城谷三国志でも関羽がかなりヨイショされてた気がする

日本の作家が関羽好きすぎるんじゃね?
0555名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/12(金) 08:33:26.04ID:KttKX1Fd0
元蜀の文官ですら劉備は何とか庇っても張飛共々関羽は自業自得と明記してるのに何で呂蒙とかにとばっちりが来るのかね
少なくとも俺達が関羽か呂蒙どちらの部下になりたいかという話なら呂蒙じゃないか?
関羽みたいなパワハラの話は無くて和解の約束破ったら相手が甘寧であっても追い込みかけるくらいの面倒見の良さなのに
0556名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/13(土) 09:39:11.68ID:zpPQ3Zp60
>>555
それが三国演義クオリティ
職贔屓にする為に他の善良な人の性格や寿命まで変えてしまう
通俗小説売る為に先人に対する敬意が全くないのが羅貫中の悪い処
0561名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/14(日) 12:28:23.70ID:OlRroFoP0
なのになぜか一貫して羅憲vs陸抗だと思い込んでる人間が少なからずいる
で呉軍が退いたから「羅憲に陸抗が負けた」って単純な結論が往々に
0562名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/14(日) 13:44:19.77ID:nwezl5jb0
羅憲の事は朱然に比べたら取るに足りない事
魏史上一番とも言える陣容で攻められてかつその中でも一番な激戦区を守りきった功績を挙げたはずが
まさかのその前に戦死とはね
0563名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/29(月) 02:44:43.45ID:FobSeMuA0
>>556
先人を魔改造(雑)するのは古代中国以来の伝統文化だから…

作者の都合>>>越えられない壁>>>事実・敬意
0564名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/29(月) 14:36:09.24ID:R70ECGvw0
山本伸一の一行は、中州賓館に一泊することになり、宿舎に移った。

 突然の訪問にもかかわらず、中国人民対外友好協会の河南省分会の関係者が、熱烈歓迎
してくれた。

 夜には、食事を共にしながら、歓談のひとときがもたれた。

 伸一は、河南省分会の責任者に言った。

「雷雲のために、憧れの鄭州に泊まることができ、こうして新しい中国の友人と出会えま
した。雷雲に心からお礼を言わなければなりません」

 笑いが広がった。

 鄭州の人びととの、せっかくの出会いである。伸一は、この機会に、未来にわたる強い
友誼の絆を結ぼうと思った。

 それには胸襟を開き、どこまでも誠実と情熱を尽くし、魂と魂の触れ合う対話をするこ
とだ。

 語らいは弾み、河南省の文化や歴史について話に花が咲いた。そして、三国時代には、
中原は魏の国の曹操が制していたことから、話題は「三国志」に移っていった。

 伸一は語った。

「私の恩師である、創価学会の二代会長・戸田城聖先生は、『三国志』などを青年に読ま
せ、指導者論や人間学などを講義してくださった。

 その先生がお好きであったのが、蜀漢の名宰相・諸葛亮孔明の晩年をうたった、『星落
秋風五丈原』の歌でした。

 これは、日本を代表する詩人である土井晩翠の詩です。

 今日は訪中団の青年たちが、皆さんにこの歌を披露いたします」

 拍手が起こった。

 同行の青年たちが、立ち上がって歌い始めた。
0565名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/04/30(火) 10:13:00.99ID:o+dsEiof0
>>561
で何故か「火事場泥棒」とかいう謎のキーワードが出てくるんだよな
既に蜀の地は魏に降伏して自身も魏の人間になったんだから
羅憲が呉に攻められても当然だったろうに
263年10月に蜀が呉に救援要請して
263年11月に蜀が魏に降伏してるんだから
呉にどうする事もできなかっただろう
0566名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/05/28(火) 19:11:21.13ID:wUBOluCJ0
>>562
朱然「羅貫中、貴様俺の27年間の人生を返せ!」
劉j「俺もそれぐらいもしくはそれ以上の人生を羅貫中に奪われた可能性ある!」

黄忠「その分おいらは羅貫中に人生伸ばされてるし」
馬超「んだんだ」
0568名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2019/05/30(木) 16:46:45.95ID:gUa3L5h70
>>566
朱然「死に場所得た黄忠はともかく、馬超は5年程寿命延ばされてやったことって鮮卑追い返しただけだろ。しかもいつの間にか死んでる扱いだしw」
0570名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/08/13(火) 08:18:40.87ID:QV3WSm9C0
単なるかませなら
無様に首取られて終わり
0571名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/09/20(金) 12:20:39.01ID:QmiXpobv0
>>567
羅貫中被害者の会「訴えてやる!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」
0572名無しさん@お腹いっぱい。
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2019/12/22(日) 09:01:48.73ID:cTkndxbF0
>>571
羅貫中「くるりんぱ!(ダチョウ倶楽部上島竜兵風)」
0575名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/02/26(水) 18:05:55.04ID:lyFTdLgh0
>>568
劉封「俺と一緒に法正黄忠も一緒に処刑扱いにしてくれれば」
0576名無しさん@お腹いっぱい。
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2020/04/19(日) 07:38:13.26ID:9Yfcwjur0
>>567
羅貫中「いいか、押すなよ絶対に押すなよ」
0580名無しさん@お腹いっぱい。
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2021/06/23(水) 20:58:52.65ID:9pmzDitm0
孫策以降孫晧までは呉郡孫氏の方が呉郡陸氏よりも上の立場なので
関係が微妙な時がところどころみられたが
孫呉滅亡以降は呉郡陸氏の方が上なので結構仲良しな関係
陸機陸雲ら一族の族滅に孫拯が殉じたり
0584名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/11/11(木) 17:13:46.60ID:jcgKmVq/0
>>583
陸遜が孫権に仕えた建安8年(203年)から
周瑜が亡くなった建安15年(210年)まで
この4人全員で孫権支える時代が有った
0585名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/11/13(土) 00:20:17.25ID:4/Uqmm7L0
>>584
そういやそうだ
まあその時代は引き継ぎのゴタゴタと事後処理や山越に追われて孫権自体が動けないって時期でもあったし期間の短さがな
みなが60くらいまで長生きしてたらってifだよ
0586名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/11/13(土) 21:39:27.94ID:GhdvTbMJ0
>>581
あったし、上大将軍とか大司馬よりも軍師がついてる必要があるっぽい
というか官職インフレし過ぎてる
魏も漢も王だった頃は前将軍が武官筆頭だったのに
呉は皇帝を名乗る前から普通に丞相とか大将軍とかいるんだよなあ
上大将軍というなんかダサい名前のも
0587名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/12/19(日) 16:57:51.39ID:zH4uzr3G0
>>565
わずか1ヶ月では準備して援軍出すのも容易ではない
蜀が関羽ピンチの時は関羽ピンチに陥ってから関羽死亡まで
ほぼ同距離未満で時間2ヶ月以上あるのに蜀は援軍出す気配すらなかった
0588名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/12/20(月) 11:30:52.10ID:B3m5mhqK0
呉に対して漢の記紀に救援も出さずとか言うけど
3ヶ月で滅びてるんだから間に合わなかったんだろってね
というかテイホウだっけかがその3ヶ月でラケンのところに到着してるんだから
実は結構頑張って援軍出してるような?
0589名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/12/21(火) 05:49:52.69ID:OHrVpl5Y0
結構急いで準備したと思うよ
滅びたら自分らも危険だしね
その後の仕方なく蜀を切り取る行為も晋にまるまる与えたらこっちがやばいんだから誰だって同じ作戦でいくと思う
>>587
あれはなんでだろうね
0590名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/12/21(火) 18:29:37.02ID:aMlaKbL90
三国志演技でも目上の人(劉備)に自分の妻を料理として差し出すって美談(!)があったな
晩年の奸臣ぶりがなけりゃ儒家の教えの体現者としても(少なくとも中国では)もてはやされていただろうに、まあ料理の神様にはなっているが

あくまで明代に成立した作品での描写だから、そのまま鵜呑みにするのは危険だ。武具や服飾の描写は明代そのままの作品だし。

漢代では食人はタブーだった(王忠のエピソードを参照)が、明代では人肉はありふれた食材だった。こうした影響は、水滸伝などの明代に成立した作品全般に見られる。
0591名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2021/12/30(木) 10:32:14.81ID:kYhQL/S80
>>588
蜀が滅亡してから間もなく到着したのが盛憲
ケ艾や鍾会や姜維らが死ぬ前に到着していると思われるので
蜀が滅亡してから1〜2ヶ月ぐらいでの到着
その後蜀が滅亡してから3ヶ月しないうちに到着したのが歩協
更にその後到着したのが陸抗(留平の到着時期は不明)
今考えると当時としては驚異的なスピードで到着している模様
0592名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/01/01(土) 16:15:32.96ID:lw7M6m8K0
263年05月 魏の蜀征伐決定
263年05月 呉の交州で呂興が反乱(-271年まで続く)
263年08月 三路より魏軍進入
263年09月 漢中陥落
263年10月 ケ艾が剣閣迂回して江油制圧
263年10月 蜀から呉へ救援要請 呉は寿春・沔中を攻撃 更に蜀へ援軍準備
263年11月 蜀降伏
263年12月?呉の盛憲が永安到着 羅憲と交戦状態に
264年01月 鍾会の乱 鍾会・姜維・ケ艾ら死亡
264年02月 呉の歩協・留平が永安到着 羅憲と交戦して敗北
264年02月 呉の陸抗の援軍到着して永安包囲 羅憲は陳騫に援軍要請
264年03月 劉禅を洛陽に移送 霍弋が魏に降伏
264年07月 胡烈の援軍により呉軍撤退

蜀が呉に救援要請して呉の援軍が到着したのが約2〜4ヶ月
羅憲が魏に救援要請して魏の援軍が到着したのが約5ヶ月
どうみても呉は結構頑張って援軍出してる方だなとしか
ちなみに『晋書』の羅憲伝読むと習鑿歯の『漢晋春秋』丸写しで
羅憲伝には本文に明らかな誤り有るのに訂正せずそのまま丸写しで
それらの事例もあって『晋書』は現代では
イエロージャーナリズムと揶揄され低評価となっているという・・・
0593名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/01/01(土) 18:43:05.74ID:eAvJnrM90
もうちょっと蜀がもってればなんとか間に合ったのかもね
にしても火事場泥棒のイメージになってるのは悔しい
0595名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/01/02(日) 12:49:05.25ID:KINkLhto0
>>594
遅くても魏軍進入した時点で援軍要請しないと厳しいと思う
漢中落とされた時点ではケ艾が別路から侵攻してて
援軍来ても蜀滅亡待ったなしの感が
0596名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/11(水) 18:12:35.80ID:EJOgfwky0
>>589
>あれはなんでだろうね

唯一関羽に援軍気配あるとすると上庸の孟達劉封辺りか
上庸制圧したばかりで余裕がなく無理だったが
それよりも兵力多くて意外と荊州近くて
上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議
0597名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/11(水) 21:12:30.56ID:x4zBr3oR0
三国志14 (巻52張顧諸葛歩伝、巻54周瑜魯粛呂蒙伝、巻58陸遜伝)

   統率 武力 知力 政治 魅力
周瑜  97  71  96  86  94
魯粛  81  56  92  92  89
呂蒙  92  81  89  78  84
陸遜  96  69  95  88  91

張昭  33   3  84  97  81
顧雍  43  18  80  90  78
諸葛瑾75  34  81  89  90
歩?  75  51  84  86  71
0598名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/12(木) 19:24:56.50ID:+Hba+S6C0
>>596

> 上庸と同じく灌水下れば関羽支援できる漢中が全く援軍出す気配無かったのが不思議


① 当時の漢中には誰が駐屯していた?

② 船が少なすぎて軍勢が移動できなかった可能性は?
0599名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/14(土) 18:36:23.69ID:CwuMlo4e0
>>598
@魏延は確定だろうが他は調べてみないとわからない
 関羽危機の時は劉備漢中王僭称ごっこで
 主だった人物全員成都に引き上げてる可能性あるが

A孟達・劉封は益州・漢中方面から上庸攻略してると思うが
 その時に船を使い果たしていたら船不足の可能性あるが
 そもそも漢中方面から必ず船使わないと移動できないのかは不明
 確かに船使った方が楽に援軍派遣できるが
0600名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/14(土) 19:03:24.77ID:SsYOCjdq0
上庸と樊城の距離は地図で見る限りでは直線距離で350キロ前後
苑城と樊城の距離は直線距離で250キロ

魏から荊州への援軍派遣する際に巨大な後方支援基地としての役割を担ったのが苑城
歩兵と一部荷駄隊を含める編成での1日の行軍距離40キロとして苑城から樊城へは最短で7日前後
騎兵のみでの強行軍で最大90キロで3日

一方で上庸から援軍を送るにしても樊城へ騎兵のみで急いで4日では厳しく5日
魏が苑城から継続的に増援や物資の輸送をしてくるので歩兵荷駄も確実に送らなければ騎兵は樊城で一撃離脱した後現地で崩壊
歩兵を送るとなると9日
しかも送れるのは占領して間もない上庸から割ける2,3000人だろう

関羽から要請されようが「送ったところで…」という判断にしかならんだろうな
0601名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/15(日) 17:46:05.80ID:Pcc5joTI0
蜀はウクライナ侵攻のロシアぐらい兵站酷いからな
関羽も呉との国境の守備兵剥がさないと兵站維持できないぐらい酷い
その点魏は肩で息するぐらい疲弊しても12陣営5万の
夷陵戦の蜀主力と決戦できる規模の予備兵掻き集められるぐらい余力ある
戦線押し込まれても裏でNATO軍の援助有り増援できるウクライナ軍ぐらいの後詰
ゼレンスキーも曹操も首都から政府逃げ出さなかったのは後詰の状況が大きい

スレタイに戻るが蜀の兵站の致命的な欠陥を突いて
荊州完全制圧まで持っていったのは呉の軍師呂蒙のおかげ
呂蒙はゲームでの数値は若干低いが戦略戦術面においては呉最高レベル
0602名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/15(日) 21:21:18.40ID:Z9fSpRfl0
関羽は身一つで安全地帯まで逃げることは不可能だったの?

織田信長が浅井朝倉に挟撃されたときは身一つで京都まで逃げ帰ったが。
0603名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/05/15(日) 23:24:48.47ID:Pcc5joTI0
>>602
襄陽から撤退時に一目散に蜀に逃げ帰っていれば何とか
下手に荊州目指して途中軍崩壊して麦城に籠った時点で詰んでる
関羽の決断力というか判断力というか行動遅すぎて
呉の軍師程の知性なくても簡単に関羽倒せる鴨葱状態だからな・・・
0604名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/08/07(日) 19:16:10.41ID:2PpyzZD+0
諸葛瑾って正史ならどういう業績を残したの?
孔明の兄と内政官ってイメージしかない。
でも子供はかなり偉くなったけどその割に有能なイメージがない。
父の功績が評価されたの?
0605名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/03(土) 17:11:16.71ID:VJ4Y8UI90
諸葛瑾は最終的に大将軍・左都護・豫州牧・宛陵侯なので
どちらかというと武官
地味に戦績重ねているが極めて特筆すべき破格な功績は無い
孫権との関係は「神交」と呼ばれて
孫策と周瑜の「断金の交わり」にも劣らない
0606名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/13(火) 14:55:40.85ID:VTgNnQM20
軍事系の士大夫ですね
経歴を見ても軍事関係が多い
孫権が呂壱問題で群臣に謝罪して意見を求めた時も、諸葛瑾は
「ワシは武官なので国政のことはわからん」と言って、孫権に怒られている
(呉志 呉主伝)
ただ、諸葛亮と同じく柔軟で臨機応変な用兵は苦手だったようだ
0609名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/10/16(日) 16:17:38.07ID:YCQeG6mr0
【対テロ】 NATO 対 BRICs 【防エネ】
://lavender.5ch.net/test/read.cgi/europa/1665799363/l50
0610名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/10/22(土) 16:45:10.55ID:WEqhcwxu0
    統率 武力 知力 政治 魅力 主義
周瑜   97  71  96  86  94  覇道
陸遜   96  69  95  88  91  王道
諸葛恪 72  47  90  80  64  我道
呂蒙   92  81  89  78  84  覇道
諸葛瑾 75  34  81  89  90  割拠
陸抗   91  63  87  85  87  王道
呂範   73  60  74  74  68  名利
孫峻   64  69  68  26  10  我道
孫?   28  46  65  17   6  我道
0611名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/10/22(土) 16:48:48.24ID:WEqhcwxu0
魯粛漏れ

     統率 武力 知力 政治 魅力 主義
周瑜   97  71  96  86  94  覇道
陸遜   96  69  95  88  91  王道
魯粛   81  56  92  92  89  王道
諸葛恪 72  47  90  80  64  我道
呂蒙   92  81  89  78  84  覇道
諸葛瑾 75  34  81  89  90  割拠
陸抗   91  63  87  85  87  王道
呂範   73  60  74  74  68  名利
孫峻   64  69  68  26  10  我道
孫チン  28  46  65  17   6  我道
0612名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/03/12(日) 02:23:50.34ID:rd1A0S7F0
>>600
とても良い分析ありがとう
どうみても上庸から襄陽へ援軍出しても無駄足なので孟達劉封は正しい
援軍出さないから関羽死んだという事で孟達劉封罰するのは理不尽
0613名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/03/12(日) 02:26:42.75ID:rd1A0S7F0
>>601
まだ兵站酷くてもバフムト攻勢してるロシア軍の方がマシだな
兵站酷くて滅んだという意味では関羽は項羽2世を名乗れる
0614名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/03/17(金) 10:08:51.08ID:k8IVQXw20
三国時代は曹操も呂布も他も兵糧が悩みの種でそれに苦労している
理由が分かりにくい同盟その他も幻    原因は部下を食べさせるため
0615名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/03/18(土) 15:02:17.29ID:US6NuFdP0
【日銀デフォルト】 世堺教師マ仆レーヤ、UFO出現!
://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/2chse/1670024543/l50
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