雨宮天アンチスレ ★3
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※前スレ
雨宮天アンチスレ ★2
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/voiceactor/1658288066/
アンチスレというタイトルですが誤解なきように申し上げて
おきますが5チャンネルの声優板では原則として
ひとりの声優さんにつき本スレとアンチスレの2つしか
認められないわけです。ですのでこちらのスレでは
文章が長くなる本スレの人達が嫌うようなお芝居の感想とかを
したくアンチスレの続きを立てさせて頂いた所存であります。
あくまで声優さんご本人さんへの応援としての
アンチスレですのでご了承ください。 このすばの外伝の11話のアクアのカツアゲシーン。
「ほらー」っていうところが息を吐く音に味付けしすぎてる
せいか低くカスれ過ぎててアクアの線が崩れてる。
このカスレね。ウイングガンダムのゼクス役の子安さんが
シャア役の池田さんを意識してカスレタ感じで芝居されてた
時のカスレに似てると思うのね。
杉田さんがシャアの池田さんのモノマネする時も
こういうカスレタ声でモノマネするのねw
ようするに男性声優さんがシャアのモノマネする時の
カスレ声に入っちゃってるのw
このアクアの「ほらー」がねw
そこまで入るとアクアの線が崩れて聞こえるから
気をつけて、シャアのモノマネする時みたいな息の出し方で
なんかアクアのセリフを言う時は気をつけてw 前スレを他の人の為に1000を踏まずにいたら、クソが このスレのURL貼りやがった
その時を虎視眈々と狙ってやがったんだな
実に気持ち悪い ホント気持ち悪い このすば外伝11話の「ほらー」のカスれた声の入れ方。
あそこがちょっと違和感ある他の理由を考えてみたけど、
当たり屋行為をして目論み通りお金をゲットした。
嬉しい。つまり喜の芝居。喜びとしての音圧と声の高さが
持続してないといけないようにおれは感じるのね。
「ほらー」って息を抜くことで「喜」ではなく
地面に落ちたお金を声で指さすような芝居になってるなと
思うの。喜怒哀楽の感情ではなくお金が下に落ちてるっていう
空間に対しての左右上下の「下」に対する芝居。
その「下」の芝居が「喜」の感情の芝居の線の上にきて
ちょっとキャラの線がブレたようにここで感じるのかなと
思うのね。 ここの「ほらー」を強くした方が良いと思うのは
「ほらー」って投げ掛ける言葉なわけね。
カズマに投げ掛けると同時に視聴者にも投げ掛ける。
ここの「ほらー」が楽しく強い言い方なら
それにつられて視聴者の集中力もあがると思うのね。
「ほらー」って強く楽しく言われたらその勢いにおされて
「なんだろう」って画面の中に入っていく気分になるからね。
かすれたような言い方でアクアの卑しさのコミカルさや
お金が下に落ちてる「下」の空間に対する芝居を
見せるより、「ほらー」の持つ投げ掛けの性質という
視聴者への心理的充実に繋げた方が良いと思うのね。
天ちゃんの言い方だと「ほら、みなさい」「ほら、いわん
こっちゃない」「ほら、わたしの言った通りでしょ」っていう
自分の意見への同意を強く求める性質としての「ほらー」に近くて
「こっち、こっち、ほらー 見て見て 海が綺麗」みたいな
みたいな語り掛けて引き込むような「ほらー」のもつ
性質がちょっと消えてるなって思うのね。
これはアクアのキャラとしてのカズマの姉さん女房的に
カズマに言うような部分が、本来「ほらー」って言葉が
視聴者に投げ掛け、語り掛け引き込む性質ってものを
食ってるようにも見えるなと思うのね。 付き合い立ての彼女との海での潮干狩りデートの
男に楽しく言ってくれる「ほらー」が男は欲しいわけよねw
結婚10年目ぐらいの夫婦が夕食ゲットするために海にきて
旦那に潮干狩り真面目にもっとせいって奥さんが激を飛ばす
「ほら、そこそこ 掘って!! 」って感じの
「ほら」は欲しくないのよw
この11話の当たり屋のシーンは卑しくもあるけど
お金というアサリをカズマさんに一生に拾いましょうって
いう初々しい潮干狩りデート的なキャラの可愛さも
いるとおれは思うのよw
赤塚不二夫先生のキャラならいらないよw
でもアクア様は女神様だからねw かのかり25話の感想。気になったところ。
主人公の部屋に入るところで「なによ、居れてくれないの?」って
言うところで個人的には、ちょっと囁きの猫なで声、男に
媚びた感じの声に聴こえる感じで入ってたのが気になったのね。
っていうのは千鶴ってのはクールツンデレキャラで
男のモノになるならないの絶妙な距離感と緊張感からの
ちょっとしたデレを視聴者の心理的な充実に繋げるキャラと
思うのね。このシーンの場合は緊張と緩和で言えば視聴者の
心理の緊張を高めるべきシーンと思うのね。
千鶴を部屋に入れるっていうね。緊張がリビドーに置換され
心理的な高揚としてのシチュレーション効果を持つ場面。
視聴者は緊張したいわけよね。千鶴を入れるドキドキを
感じたい。そしてもしかしたら怒って帰るかもしれない
っていうような緊張も同時に欲しい。
この天ちゃんの言い方だとちょっと猫なで声で男に
媚びた感じに聞こえて、千鶴いつものようにヒステリック
じゃない。優しいって
感じに聞こえて、視聴者の緊張がここで一旦中断しちゃうと
思うのね。視聴者の心理的な緊張が心理的充実に繋がる
シュチュエーションだけど、心理的緊張を解いちゃう
優しい囁きの言い方になってて、部屋に入ったところからまた
緊張の感情を視聴者が起こさないといけない。
このわずかな心理的充実の断続。ここがおれは気になったのね。 千鶴ってキャラは男が手に入らなさそうな高値の花。
その高値感ってのは千鶴の心の壁みたいなクールさに
あるわけよね。ってのは心がどこか完全に読み解けない
ちょっと距離を感じるような距離作ってるような感じ。そこが
天ちゃんの芝居と声があってるわけよね。
だからこそ、緊張のシュチュエーションシーンで
男に媚びた声がちょっと強く出すぎると高値が
安値に簡単になって男が高値の花の女に感じる魅力が
色あせるわけよね。っていうのが千鶴ってキャラの
難しいところだとは思うのよ。 あと25話の良いと思ったところ。
「ほかは何もいらない」のセリフ。絶妙な塩梅で凄い良かったと
思う。千鶴は白いT着てんだよね。後ろの
アパートのドアの白っぽくて、水槽の背景があって、
全体の色彩が明るくて、そこにカッチリあってるなと
思ったのよ。言い方がちょっとでも節が立ってクドイと
この白いTシャツのなんか青春の夢の爽やかさみたいなの
ここまで でなかったと思うのよ。
白いTシャツを着てる意味ってのがちゃんとあって
それが出てるセリフの言い方になってたのが良かったと
思う。このシーン。爽やかな明るさ出すためか
偶然かわからないけど千鶴の後ろに真っ白い
ゴミ袋が描かれてるのねw。
このゴミ袋をゴミ袋と思わせない真っ直ぐさも出てるし
このシーン良いなと思ったのね。 あとちょっと25話で気になったのは「生クリーム」の
ちょーとヌマクリームによりかけててあやしかったw ゾン100~ゾンビになるまでにしたい100のこと~見たけど
やっぱりドラマっぽい感じの雰囲気の役が似合うよね。
息をはきながら言うような時の摩擦音っぽいちょっとした
カスレとは言わないまでもそういう音みたいなのが
あるのがセクシーに聞こえてね。
ひとつ言うならやっぱりOLの人って
電話よく使うから電話ごしでも「名詞や日時」って
先方に聞き取り安いようにハッキリちょっと切った感じで
強めに言われる癖ってあると思うのね。「鳳さおりです」って
っていう時はそういうフレージングの切り方なのね。
でも「請求書」っていう時にこの名前を言った時のフレージング
の切り方と違ってて、ここを合わせた言い方の方が
OLっぽく聞こえるかなと思うのね。
立ち上がるシーンに合わせるために、よいしょって気持ちに
もうなってて請求書の書のあたりに「ヨイショ!」の「ショ」の
感じが入ってるかなと思うんだけど、立ち上がるシーンの
躍動感を声で演じるという点では良いんだけど、
請求書の言い方が名前を言った時の言い方と違って
OLっぽさという点ではおれはちょっと気になったのね。
「請求書関係とか 」ではなく
「請求書、んツ 関係とか」の言い方で(んツ)で立ち上がる表現して
請求書の部分に立ち上がる気持ち入れないで、
フレージングに電話ごしのOLっぽいハッキリ粒立てて言う特徴を
入れた方がOLっぽいかなと思ったのね。 かにかり26話感想。良かったと思うところ。
東山奈央さんの「雌としても元気だー」のセリフの後の
天ちゃんの「なっ!?」みたいなの。子音と母音のどっちにも
癖になる声の高さがあって良かった。
で、あとは東山奈央さんと堀江瞬さんの両方の芝居が
まあ煩い感じの芝居で、千鶴の声の静か感じを聴くと
箸休めみたいな感じの印象が強くて、これは東山さんが
堀江瞬さん同様に引き立たせ役もちゃんとやってる感じで
ペットの魚が「せわしねえなー」って言ってるのがまさに
その通りでこの26話の感想はせわしねえなーなんだけど
そのせわしなさが千鶴を引き立てるためにある。
「フライパン洗お」とか「もう1杯分付き合おうかな」の
囁き芝居のキメを引き立たせるためのせわしなさが
26話の作りなわけで、これはアニメ作ってる方々と
せわしない芝居されてる東山奈央さんとか堀江瞬らとの
共同作業に基づく演出全体の良さだと思うから、
天ちゃん個人的を指してこの2つのキメのセリフに対しての
感想はとくにない。良いんだけどその良さはセリフひとつに
基づく良さじゃないとおれは思うからね。 打ち間違いたw かにかりってなんだwwwww
カニ借りてどうするんだWWWW かのかり27話感想。まず良かったと思ったところ。「うんうん 面白い」の「面白い」の声の高さと抑揚の掛け方。ケレン味のないプリミティブさがあって凄い良いと思った。芝居っていうより直で声の素朴な可愛さが耳に入ってくる感じでね。いつもの天ちゃんの抑揚と声の入りが違うから、耳に免疫ない分ドキッとしたね。ここがプリミティブな可愛さが声にあった分、このセリフ続くに「やるじゃない、プロデューサー」が感情と抑揚がちゃんとのってていつもの天ちゃんの芝居の言い方だから、この「面白い」の声の高さで感情入れずにやや棒気味に言ってるパターンのが聴いてみたいなと思ったのね。この「面白い」のプリミティブさが「やるじゃない、プロデューサー」にも出てればここは最高だったなと思うのね。それぐらい、この「面白い」の言い方は可愛いと思った。 で気になったところは、そもそもおれはこの作品で最初から気になってるのは、千鶴って舞台出る役者の人なんだけど、清楚なクール感出すために1番ボソボソ喋ってるのねw舞台役者の人があんな最近流行りのボソボソアニメアテレコみたいな芝居するかいなって思うわけよw。あんな声馬鹿でかくて よう喋りおる主人公なんていたら「わたし、もっと大声で滑舌よく喋れますけど」って役者の嫉妬心剥き出しの音圧声量合戦になると思うのねwでも千鶴に誰もそんなリアルな役者心なんてみんな求めてないから理想のヒロインキャラクターとしてのボソボソ喋る千鶴がいるわけよねwそこはおれも納得してるわけよw。仕方がないとwでも、「セリフ覚えられる?」の後の千鶴の「できます!」。あれはおれは主人公の「ありがとうございます!」より音圧、声量のある「できます!」の方が見たかったのね。なんか主人公の頑張りの方ばかりが演出過剰になってて、千鶴の女優の本気度、意思が弱くみえちゃう。こういうアニメではそれが正解の演出なのかも知れないんだけど、「うぉ。やっぱり女優の卵だな」みたいななんか暴れ馬、ジャジャ馬感がおれは見たかったなと思ったのね あとちょっと気になったのは天ちゃんは「ビラ配り」を凄いなんか驚きのアイディアを聴いた時のような芝居してるのねw。ビラ配りぐらい誰でも思いつくだろうって思うのよwwwww。ここは「ビラ配り」の言葉を確認するような感じの言い方の方が自然な気がおれはしたのねw。 千鶴の芝居って基本がボソボソだから、ちょっとでも感情がかかって音圧上がって抑揚がついてマイクに入ると大袈裟に聴こえちゃうわけよねw。 あとここが1番気になったんだけど「もちろんやるわ ありがたいから」のセリフ。天ちゃんは「もちろんやるわ」の「わ」の音圧下げて自然な感じにして、そこに合わせてるのか「ありがたいから」の「から」のフレージングの粒を立てずに自然な感じに言ってる。そのせいでおれには「もちろんやるわ ありがたい くらい」にも聴こえて1回聴いただけじゃどっちかわからなかった。「くらい」って早く言いすぎると「から」に聴こえちゃうのね。この逆もしかりで「から」はちゃんとフレージングの粒を立てないと滑舌悪い感じの「くらい」に聞こえちゃう。ここが1番今回気になったのね。 あとまあこれ関係ない話になるけどw。昨日、ジブリの「君たちはどう生きるか」映画館に観に行ってきたのよ。あいみょんさんの芝居が花守さんの芝居と声にけっこう似てたのよ。他のスレで観た人の感想でキムタクさんの声が池田秀一さんに似ててカッコよかったっていうの見たんだけどすげーわかるのよw。カッコよかった。それで思ったことがひとつあるんだけど、君たちはどう生きるかより最近の深夜アニメの方がマイクにボソボソ声優さんら入れてることけっこうあるなーって思ったのよ。今回の映画ではあいみょんさんは花守さんみたいな芝居してる。花守さんって深夜アニメの声優さんの方では音圧あって芝居動かすタイプだからね。そういうタイプの声優さんの芝居、声に今回の君たちはどう生きるかのヒロイン枠?のキャラの声がそう聴こえるってのはやっぱり最近の深夜アニメでけっこうボソボソケレン味削いで入れるアニメって多いんだなと思ったのね。まあ映画館って音響凄いからこれが来年とか再来年の金曜ロードショーで聴くと、あれ?あいみょんさん全然音圧足りてなかった、花守さんと全然違ったわになるかもしれないけど、映画館の音響設備で聴く分には花守さんに似てたと思ったのね。 君たちは生きるかを昨日観てそういうことを思ったから、天ちゃんのこの かのかりの千鶴の芝居 あらためて聴いてても 静かにマイクに入ってるなと思うわけね。本職じゃないジブリ声優さんらの方が芝居が派手になって深夜アニメとなんか逆転してる部分って所々感じたから、千鶴の女優としての音圧のリアルさっておれはわけわからなくなったのねw スパイ教室15話感想。梅原さんが「優れた指揮官がいるようだな」の「いるようだな」を抑えてさらにそこから「あいつが来ているのか」ってボソッって言われて囁くのを聞かせる。ここに続く天ちゃんの「え?」の入り方がここに合わせて静かで、なおかつ声の高さも声の丸みも可愛い。梅原さんの声のベルベットのような艶にかっちりハマってて良いなと思ったのね。でも逆を言えばこの「え?」が良すぎてその次の「抜き打ちテスト!?」のセリフの「ト」の強さとセリフの後ろの息の鋭さが、強く対照的に聞こえて、梅原さんのセリフの語尾を弱めてマイクに入れるリズムをここで崩すリズムになってるように感じるのね。後ろのBGMのしっとりさを考えると、「抜き打ちテスト!?」の「ト」をちょっと弱く入れて、梅原さんの語尾を弱く入れるリズムにここは合わせて、「よくわかんないけど敗北した」のシーンを落とすとこだけで梅原さんの語彙弱める芝居のリズムを崩して、天ちゃんが見せた方が「え?」とそのあとのセリフに対照的な段差がなるべくないように聴こえるかなと思うのね。 リリィはホップな感じで声の鋭さが出ちゃうのは仕方ないし、これが他の女性声優さんのキャラといる時はちゃんとそれぞれの芝居が違って聞こえて良いんだけど、梅原さんはやっぱり若山弦蔵さんのようにベルベットのような光沢ある声で、視聴者は梅原さんがしっとり言われると聞き入っちゃうからね。そこでホップな声の高さがいきなり入ってくると、耳がその鋭い高さをちょっとストレスに感じるなと思うのね。梅原さんが囁く感じで語尾を落として連続でセリフ入れてきたあとのリリィの芝居ってのは声の鋭さが目立っちゃう。これはこのアニメの構造上仕方がないなと思うのよ。だからおれが思ったのはもうこの話数のこのシーンの場合は梅原さんのリズムに合わせて語尾を落として、シーンが落ちるツッコミのところで、リリィのホップさを表現して、全部ホップにセリフ表現したような錯覚に視聴者を持ち込むしかないんじゃないかなと思ったのね。 とりあえずあの「え?」はすげえ可愛かったと思うのよ。かのかり27話の「うんうん 面白い」もそうだけど。こういう入り方、こういう高さ、こういう声の丸みはホント凄い可愛い感じがするなと思うの 天ちゃんが ちりめん山椒食べたことあるか知らんけどwちりめん山椒の中のちりめん山椒の実を食べた時のカツーンとくるあの感じが天ちゃんのセリフの一言のどこかにあるわけね。今回のスパイ教室15話の場合はおれは「え?」だと思うのね。山椒の実の入ってないタダのちりめんじゃこで芝居が終わっちう声優さんで終わらずに、かのかりにしろスパイ教室にしろ、セリフのどこかに山椒の実があって、ちりめん山椒になってるのは良いと思うのよ。ただちりめんじゃこと山椒の割合がまだ黄金比になってない感はあると思うのよ。でも大事なのは山椒の実の入ってないタダのちりめんじゃのお芝居になってないかどうかだと思うのね。おれはいくら芝居うまかろうが声よかろうが山椒の実のないタダのちりめんじゃこのような声優さんの芝居って好きじゃないからw飽きちゃうからw。そういう感じになってない山椒の実がある感じなのは良いと思うのよ。それが1粒だろうが2粒だろうがちゃんと山椒の実があるってのは、とても良いことだと思うのよ。 なんでちりめん山椒の話をしたかというとね。今日外食して食べた蕎麦定食についてた ちりめん山椒丼が美味しかったのよw。山椒の実を食べた時の脳にピーンとくる感じで気づいたのよw。あ、これなんか天ちゃんのセリフがなんか一言美味かった時を聴いた時に似てるってwww。美味しかった。ちりめん山椒丼w かのかり28話感想。よかったと思う所。観劇終わったあとの「ああ~もう最高~!!」の声の高く綺麗に抜けていく所が聞いてて可愛いんだけど高く綺麗に抜けていくから気聴いてて持ちが良い。この高さと対照的に出だしの「ああ~」に赤ちゃんカラスとか赤ちゃんヤギの鳴き声のような濁声がかかってるんだけどここから綺麗にaの母音を高く伸ばせて綺麗に繋げて不自然じゃないし 終わりの声の高さの抜けを引き立たせてるなと思ったのね。動物の赤ちゃんの甘え鳴きのような声の濁声と高さって、動物の本能としての父性本能とか母性本能に直接 こう脳が反応するようなもんがあると個人的には思うのね。この「ああ~」はなんかそういうのがあるなと思ったのね。 かのかり29話感想。この作品って千鶴が完璧超人みたいでその対比でダメな主人公がいる。そこで千鶴の女優の卵としてのギラギラしたエネルギッシュなフレッシュさだからこそある可愛げさみたいなものが主人公のダメダメ系のエネルギッシュさに押されてあまり見えないことって作劇の都合上多いと思うのね。でもこの29話の千鶴の「おはようございます 本日もよろしくお願いします。」のあとの「おはようございます」の声のあげ方は夢に向かっていく女優の卵感あって個人的にはこういうのが好き。なんていうかまだ現場慣れでこじゃれてない感のある可愛げさっていうかねw。主人公を引き立たせるために過度に千鶴が完璧超人になりすぎて現場慣れしすぎてる女優として可愛げない感じにセリフがどうしてもならざるえない中にあって見えるフレッシュさみたいなもんがあるからここの「おはようございます」は好き。 逆を言えば29話の最初の方の撮影クルーの主演挨拶のシーン。女優の卵なら「ありがとうございます」とか「よろしくお願いします」とかもっとはっきり声張り上げる方が自然でフレッシュで若手感あってそれが女優の卵としての可愛さになると思うんだけど、声張るのは主人公の方の演じ方だからね。演じ方被らないようにってのはなんか見えるしわかるんだけど、なんか千鶴が現場慣れしてる可愛げない若手感あるようにもやっぱり見えちゃうのね。そういうのをおれは感じちゃうからこそ、この29話の好きなセリフをあげるなら「おはようございます 本日もよろしくお願いします。」「おはようございます」のシーンになるわけね。なんか女優の卵としての可愛げさがちゃんとある。主人公のためのアクセサリーになってないセリフっていうかね。 あとよかったところをあげるなら 絵も力入ってる 千鶴の見せ場の「殴りたいと思ったことはいっぱいあったけどね」。ちょっと声のうわずりみたいなの入ってるけど、キャラの線がこのうわずりみたいなのでズレれてることもないし、きっちりシーンにマッチした表現になってて、ここは素直に見とれた。「2、3度殴ったこともあったかー」のところはマイクに丸く入ってるんだけど「あ、ハイ!」で高く抜けていく。ここもなんか瞬発力あって気持ちの良いシーンだなと思ったのね。 かのかりって作品は原作からしてキャラデザが良い。漫画原作だからちゃんと見せたい見せ場のシーンが整ってる。だからこそ主人公の騒がしい動的な芝居の反対として存在する千鶴の静的な芝居が絵とシュチュレーションにおされる形でちゃんとひとつの魅力的なキャラクターとして成立する。これは天ちゃんの声、芝居と合わさってドラマっぽさのようなヒロイン性を出してる。でもやっぱり漫画原作で原作ストックある作品だから、ここまでアニメ化するぞという駆け足でアニメの構成がつまってるのか、千鶴のそういう静的な部分の演出かは知らないけど、千鶴のセリフが端々で速いなと感じる部分がある。 ギア付きの自転車で例えるなら1番軽いギア、5速に入れてペダルがくるくる軽く回る軽さに足がつられて回るように、舌が次の子音を意志と関係なく言おうともう周り出してるようなそういう早口の口語で起きるような速さをセリフから感じる部分が時々ある。5速ギア付き自転車で例えるなら4速から5速を多様してる感じだよね。でも主人公は1速から3速を多様してる。千鶴のために頑張ってる男感出すために1速から3速は主人公のためだけにあるみたいなね。見せ場は3速入れるのを許して貰える感じであとは全部なんか4速、5速のように感じるのね。これがクライマックスに向けて主人公とヒロインが同じ3速の芝居でぶつかるようになると、おれはキャラクター分けされてない芝居臭くないモノに、生っぽさってものに見えてくるだろうなと思うのね。 天ちゃん声優グランプリの3月号の記事で生っぽい芝居の事言ってたけど、じゃあこのかのかりの芝居は生っぽいのかと言われれば総合的に見るとおれはドラマっぽいの方になると思うのね。現代口語演劇的という方が近いのかも知れないけど。っていうのはやっぱり前述した通りおれは変則ギア付き自転車の1速から3速が主人公。4速から5速が千鶴っていう明確な演じ分けがあると思うのね。明確な役回りの違いが見えるゆえにそれは生っぽさではなく芝居っぽさになると思うのね。構造主義的、建築物的にそれぞれの柱の建てる違いを見せる 。見せられるゆえに視聴者はこれが建物、つまり構造物だと意識する。ここに生っぽさがあるかというとやっぱりこれはドラマっぽさになると思うのね。構造物の中にいることを忘れるアトラクション性、娯楽性が芝居に噛み合った時にやっぱり生っぽいモノに芝居がなると思うのね。芝居は構造物なんだけど構造物であることを忘れる瞬間も重要だけど、その忘れかけた瞬間に前述した芝居の明確な主人公とヒロインのギア比の違いを見せられてこれが構造物であることを意識しちゃう。これは生っぽい芝居ではないと思うのね。芝居的、ドラマ的だとおれは感じるのね。 このすばの場合は同じギア比のチャリンコレースなんだよねwクソ重い1速のギアのチャリンコで上り坂を福島潤さんと天ちゃんがこいでるw。芝居であることを忘れて笑えるw。つまり芝居が生き生きしてる。おれはどちらかと言えばこういうのが生っぽいって思うのかな。 新潮文庫さんの福田恆存訳「ハムレット」の後ろの271ページに「整然とたゆみなく、せりふが頭上で鳴りひびいてるという感じです。ただ せりふの速度が早いばかりでなく、それを受け渡しする心理的速度が早いのです。」って言葉を福田恆存さんが書いてるんだけど、1番大事なのは言葉の中の受け渡しの心理的速度なわけよね。これがかのかりの場合は凄い女優の卵応援してるダメダメ主人公すげえのための、主人公のためのヒロインのアクセサリー化のために主人公の言葉の受け渡しの心理的速度の方が速い。セリフが絶え間なく頭で響きやすい演じ方は主人公の方。少なくともおれはそう感じる。アクセサリーとしてのヒロインのセリフは心理的速度が遅い。でもクールでドラマっぽくボソボソの千鶴の方がセリフ速度自体は速い。セリフ速度は速いけど、心理的速度は遅い。言い回しがギア5速のペダルみたいにクルクルしてる部分がときおり見えるのはそういう部分が関係してるかなと思うのね。 本当に生っぽい芝居ってのはこの心理の充実的快感を伴う受け渡し速度が速すぎて芝居のセリフであることを絶えず忘れちゃうところにあると思うのね。かのかりの場合は主人公が主人公だからヒロインをアクセサリー化してセリフの心理の受け渡し速度がヒロインより主人公の方が早い。そういうラブコメ漫画の王道な作り方だから生っぽい芝居というよりはドラマっぽいの方の千鶴の場合は入ると思うのね。でこの作品の商業的需要はそういうラブコメ性にあるわけで主人公のヒロインのアクセサリー化というシェイクスピアのじゃじゃ馬ならし的な男権的な心理的充実が正解になる。だから別にヒロインのセリフの心理的受け渡し速度が遅い速いなんてどうでもいいっちゃどうでもいい。ただこれを生っぽい芝居とおれは思わない。ドラマっぽいて思うだけのことでね。 スパイ教室17話感想。良かったところ。冒頭の声色の変え方が完璧だと思うぐらい良い。キャラの線崩れずに声色細かく変えてるの実に良い。逆に気になったところ。これは前々から言ってることだけど声色の変え方がすごい良い。凄い良いから声を聴きたくなる。すると天ちゃんの芝居のやり方であるマイクに息の吸いの音を強く入れるやつ。やっぱりあれが言葉と言葉のフレージングのリズムを強く遮っちゃう。声を聞くことによる高揚感の連続性に中断の結果をもたらしてるなと思うのね。声色の変え方とセリフのノリが完璧になればなるほどダイ・ハードの野沢那智さんみたいな感じで聴きたいなとおれはどうしても思っちゃうのね。野沢那智さんはクラッシク音楽の音楽と楽器の声帯模写っていう独自のボイストレーニングやられてたわけで声色とリズムと強弱の使い方が巧みかつ軽快でクラッシク音楽の盛り上げ方のようにそういう声を視聴者に聞かせてくる。 そういう声を聞いた時の高揚感自体は今の天ちゃんの声色の細かい使い方にも十分あると思うのね。ただ那智さんと違うのは息によるフレージングの切れが起こす言葉の心理的充実の連続性。天ちゃんは息の吸いを強くマイクに入れることでセリフの心理的充実の断続性、中断性ってのがあるなと思うのね。声も良い、声色の変え方も良い。セリフのノリも良い。だから声が聴きたい。そういうのが良すぎて呼吸の音がノイズに聞こえる割合の方がおれは大きいなと思うのね。 かのかり30話感想。感想が難しい。凄い難しい。千鶴のメインヒロインとしての魅力っておれはロッテのお口の恋人クーリッシュだと思うのよw。まさにクールとスタイリッシュの造語のクーリッシュw。運転してどこか買い物よります。車内クソ暑いw。我慢できない
暑い車内戻りたくないw。店屋のアイスコーナーにクーリッシュがあるわけよw。この炎天下車のクーラー効くまで10分ぐらいかかるw。このクーリッシュを買えばこのクーラーが効くまでの車内のクソ暑い10分をなんとかしのげるw。買うわけよw。でもクーリッシュがキンキンに冷えてて吸ってでもでてこない。おれはクーリッシュはマックシェイクの柔らかさで飲みたいw。だから灼熱の車内の前のところに1分30秒ぐらい乗せるわけ。この固くなったクーリッシュバニラ味がマックシェイクの柔らかさになる1分30秒のワクワク感w。つまりこれを引き伸ばしたのがかのかりだと思うのよw。千鶴というカッチカチのクーリッシュがマックシェイクの柔らかさになるまでがこの作品の醍醐味w。 千鶴の主人公への好意の溶け方が本筋としての醍醐味なわけよね。ようするにクーリッシュを擬人化したような喜怒哀楽、状態変化がまあ大筋であるわけよね。個体からマックシェイクになるまで変わっていく飲むアイスに変化していく。そこにそれぞれの喜怒哀楽がある。でもクーリッシュは銀色のガワで覆われてるわけよね。これが普通のアイスなら溶けてボタボタたれてアイスが溶けてることがわかりやすいわけよ。この千鶴のクーリッシュの銀色のケースの部分。これがアイスが溶けているという劇性のわかりやすさ、もっと単純な喜怒哀楽、感情に左右するセリフの部分でアニメとしてわかりやすいバランスという部分で難しいなと思うのね。このクーリッシュの銀色のケースとしての部分が千鶴のドラマっぽい魅力なわけよね。感想言うのが難しいなと思ったのがかのかり30話。 スパイ教室19話感想。2期で持ち直してきて尻上がりに面白くなってる。物語が面白くなる、各キャラクターの個性が魅力的になればなるほど、当初から1期から場をつなぐ道化役だったリリイの必要性が1期に比べると薄くなる。作品が盛り上がらないから道化役がいる。逆に作品自体、他のキャラクター達が面白くなると道化役が場の連続性に中断の作用をもたらす不必要な存在になりやすくなる。リリイのアホの子の道化芝居が、観客の心理的充実の連続性の補強、落語の色物のような作品の息抜き、箸休めの作用としてどんどん、いらない状況に物語と各キャラクターが面白くなればなるほど追い込まれていく。どんなに頑張って演じてもアホの子のキャラクターの説明のようなシーンになってしまう。 これはこの作品が面白くなるまで2期までかかった。そのスタートダッシュのおそさ。そこをつなぐ露払いの道化役としての1期の役目が終わって、2期で他キャラクター達の集点が当てられてる性質上はどうしてもリリイはキャラとして浮く部分がでる。これはこのアニメの構造上 仕方がないと思うのね。作品と他キャラがつまらなかった1期の方がリリイだけを見ればおいしかったわけよね。そこから2期でリリイって道化役を踏み台にしてリリイ以外がおいしくなってくる。セリフだけではどうすることもできない作品の作りのそういう部分。そういう部分こえたリリイちゃん2期で見れたらいいなと思うのが19話見た感想になる。2期の作品のこういう構造の中にセリフがあるなってやっぱり思うのね。 「虫たちは自然が決めた一生のあいだ ちゃんと育ち たべ恋をし卵を産んで満足して死んでいくのよ 人間は虫よりも魚よりも犬や猫や猿よりも長生きだわ その一生のあいだに……生きている喜びを見つけられればそれが幸福じゃないの?」。これは火の鳥の名言であり手塚先生の人生の幸福論の考え方であり、昆虫大好きの手塚先生だからこその視点らしさであるわけで、昆虫にでもある当たり前の幸せ。そこを観ることがアニメってものを観る上での視聴者としての充実感だとおれは視聴者として思いたいしそれは演じておられる声優さんらの人生に対してもそうだと思うのね。 アトムに声を当てた清水マリさんはアトム放送中は子供作らないって約束だったけど旦那さんに生きた証が欲しいって言われて約束破るのね。ご妊娠される。じゃあそれが間違いなのか悪いことだったのか。そんなことを間違いと言えばそもそも手塚先生の作品どころか30分アニメの全てが大嘘になっちゃうわけよね。医者のなりそこないの手塚先生が、結婚してノイローゼ克服して子供産まれて一家の父親になってスタートしたのが30分アニメなんだから。医者のなりそこないが始めたのがアニメなんだから現実の中で生命が産まれること以上に、現実の中で生命を守ること以上に、現実の中 以上に生命が大切なことなんてないし、アトムの制作との約束破った清水マリさんが間違いだったと言えば、手塚先生の生命に対する根幹ってのが全て間違いになっちゃうわけよね。現実の生命の幸福より優先されるべきアニメが存在するならそんなものはもうアニメじゃないって思うのね。手塚先生以上のヤブ医者達の作った人生を狂わせる毒薬だよと思うのね。 。おれはアニメってそういう風に思うわけ。現実の中にある自分の人生を大事にすることがアニメでありそれが天国の手塚先生が喜ぶことなんだと思うのよ。周りの期待とかそんな身勝手なもんより自分が生きがいにしたい幸せを求めて、駆け抜ける姿の中に本当の幸福ってあると思うのね。30代なると今まで以上に人生に悩むことも変わっていくことも増えると思うけど、人生の現実の中の生きがいに進むことはどんな選択であれ本来は正解なんだ、それが幸福なんだってことだけは、これからの人生の応援の言葉としてここに置いておきます。お誕生日おめでとう。 興行が終われば お客さんの心理的充実を満たすことなんて本来は考えなくて良いと思うのよ。でもお客さんの心理的充実を満たすお客さんの心理の鏡に自分の人生の全てを使っちゃうタイプの声優さんっていらっしゃると思うのね。心理の鏡は興行の舞台の上で完結しうるから興行は興行たりえると思うのね。そしてそれが舞台、お芝居ってものが現実と違う美しさを持つ現実の一時の断続性であり隔絶性だと思うの。 自分の心理的充実を満たす役者さんのプライベートの部分とお客さんの心理的充実を満たす興行の部分。これがごっちゃになって全部が誰かの心理を写すだけの鏡のようになってると、おれははっきり言って偶像(アイドル)みたいなだなと思うのね。どこかで限界がきて偶像(アイドル)やめるか、墓の中までプライベート削って芝居しないと人生が立ち行かなくなる。手塚先生の言う生きがいや幸福っておれは自分の心理の心理的充実に向き合うことだと思うからね。他人の心理的充実を満たすことを第一にする興行と、自己の心理的充実の追求である人生の幸福は反する部分ってあると思うのね。その反する部分の矛盾が声優らにあっても全然良いじゃない、当たり前じゃないって思うのよ。他人の心理的充実を満たすことを第一にする興行の中の理想の姿で推しの人生の全てが完結して欲しいなんてそれこそ狂った偶像崇拝で人間応援してないわけよね。そんな連中に振り回されることは手塚先生の言う生きがいではないと思うのよ。生きがいってのは自分の心理的充実の追求の中にある。そこがごっちゃになったまま大事な30代を消耗するタイプの声優さんにはならないようにねw スパイ教室21話感想。気になったところ。「大丈夫、先生が授けてくれた技術で 返り討ちにしてみせます。」。なんかわかんないんだけどここの濁音が主に2箇所甘い感じに聞こえるのね。「授けて」が「サツケテ」に聞こえて「技術」が「キジュツ」聴こえて音が入ってるのね。マイクの周波数の調整の問題とかその時の環境とかの問題とかもあるのかも知れないけど、かなりここの箇所のセリフの濁点2つが聞き取りにくかったなと思った。あとは別に変な箇所なかったし リリィってキャラを完全にモノにしてるから キャラの線とかでの違和感ってないんだけど、なんかここの技術か奇術かわからない言葉として音が入ってる感じになってる点がこの21話で気になったのね。 かのかり おばあちゃんが亡くなるシーンの感想。まずおれが気になったのは現実の病室と芝居との違いの矛盾。ここは創作物だから仕方ないんだけどまず見てて気になったのが、普通、意識不明で人が倒れて側にいて救急車を呼ばないといけない状況になった時って大声で意識ない人に叫ぶよね。三途の川から引き止めるためにね。っていうか三途の川に聴こえるようにね。危篤状態の病院のお見合いもそうだと思うのね。 おばあちゃんが三途の川渡りかけてますと。三途の川の向こうに届くようにやや声大声で話しかけると思うのね。でも千鶴はマイクに静かに入れるような演技プランで作られてるキャラだからここで危篤状態の病院のシーンにおいてリアリズムとの矛盾が生まれる。このリアリズムの矛盾が出だしの芝居臭さにまずおれには感じたのね。これは仕方ないんだけどね。このすばでカズマさんが死んだ時にエリス様の元にカズマさんが送られた時にアクアはちょっと声強めでカズマさん呼ぶじゃない。あの世に声届くようにw。あっちの方がむしろ危篤状態の人に話かける1種のリアリズムなんだよねw。 もう亡くなってる故人なら仏様だからぼそぼそ念じるように喋ってもあの世の神通力で聞き届けてくれるかも知れないけど、まだ危篤状態のおばあちゃんってのは生きてる。仏様じゃない。念仏のような喋りだとおばあちゃんには聞こえない。現実の病院において念仏のようの危篤状態の人に話かける人がいるけどそういう人ってもう危篤状態の人に自分の声をきかせるつもりがなくて自分に酔ってるわけね。福田恆存さんの「人間・この劇的なるもの」の150ページぐらいに書かれてる葬式とお芝居の話に通じると思うんだけど、葬式を死者のための死の儀式であるよりは生き残ってるものの儀式、生の習俗化にしてしまう、人間が現実においても芝居をしたがる自分の人生に劇を求める本能。 その本能に伴う自分の劇場に葬式会場やら危篤状態の病室をしてしまい、そこで危篤状態の人に聞かせるための大声ではなく、自分が悲しんでる主役であることに自己陶酔するための小声のセリフで喋る 。仏壇という劇場でお坊さんという主役が言うセリフ。すなわち念仏が口から出てくるわけよね。まだ仏壇の仏様に危篤状態の人はなってない生者なんだけどね。これが芝居臭さってものになっちゃうわけよね。とくに千鶴ってキャラは普段の会話からぼそぼそな感じのキャラだからね。言葉が念仏の属性としてそれが逆に芝居臭くなるシュチュエーションってのはやっぱりあると思うからね。今回の病院の冒頭シーンはその念仏の属性がちょっと出だしにちょっとリアリズムとの矛盾をもってるように感じたかな。まあこれは仕方ないんだけどね。だって芝居なんだからw 次に気になったのが危篤状態の人を前にしての後悔の芝居の語尾の着地。後悔、無念の芝居なんだけど、現実においては人間って後悔や無念は言葉にならない思い出が溢れ出て心っていうか胸、肺と横隔膜が押し潰れてそれで呼吸が上手くできずに言葉が上手く出なかったり、あとは自己嫌悪で言葉を最後まで張る力が出ない。そういうものの複合。でも声優さんはタイム見て口パクに合わせて母音と子音が潰れないようにマイクに乗るように腹式呼吸を綺麗にしてマイクに音を押し込まないといけませんと。ここで感情が溢れすぎてお腹使った呼吸が上手くできないから泣く時は声が途切れ途切れになるんじゃろがいってリアルとの矛盾が生まれるわけよね。このリアルとアテレコとの矛盾の段差をどう埋めるかにおいて、天ちゃんの今回の芝居は腹式呼吸、肺の綺麗さという芝居臭さがまず前にくるようにおれは感じたのね。でも鼻のすすり方はとても汚くてリアル。個人的にはここまで鼻声を汚く入れるのは好きな芝居なのよ。でも前述した肺の綺麗さの芝居臭さとの段差になってるようにも感じるわけね。鼻声は芝居臭くないんだよね。 あそこまで汚く鼻声入れるなら、もうちょっと子音とか母音のどこかを意図的に崩して感情で肺が乱れてるような感じの方がバランスが整うように感じるのね。「もう少し上手くやれば見せれたのかな」のあとの「ごめんね、おばあちゃん」「ごめんね、おじいちゃん」。天ちゃんね、芝居を聴かせるために、「ごめんね、おばあちゃん」を浅くく言って、「ごめんね、おじいちゃん」を深く言って、「ごめんね、おじいちゃん」を決めセリフにしてんだけど、おれはこれやらない方が良かったと思うのね。これをやることによって、おばあちゃんよりおじいちゃんの方が好きでおじいちゃん贔屓してるような芝居に見えるのね。これからおばあちゃん主役でぽっくり行くのが見せ場なのにおじいちゃん贔屓してもなんの徳にもならないと思うのね。ここは出だしから感情込めて言った方が良かったと思うのね。こういうおばあちゃんとおじいちゃんに言う ごめんねに貴賎の浅さ深さをもうけるのもなんかやっぱり芝居的な臭さにおれには見えたのね。 主人公が病室に無理やり入ってプロジェクターセッティングするシーンで怒った感じでちょっと悲しみの感じも隠しきれない微妙な感じ。あのあたりのセリフは凄い良かったと思うのね。あとやっぱり、おばあちゃん役の定岡さんの芝居が良いのね。人生の価値観に対する作者さんの演説みたいなもんがセリフの中に入ってくるんだけど作者さんの演説を遺言のセリフのように変換して落とし込んで聴かせてこられて聴いてるうちに心にくるのね。定岡さんのセリフが入ってきたからの天ちゃんの泣きの芝居。これは良かったと思うのね。定岡さんが上手くシーンを作って天ちゃんを引きこんだなと思うのね。 意外と好きだな。良いなと思ったのが千鶴がお通夜の受け付けやってるシーン。普段から千鶴って声がぼそぼそに近いから、すげえ違和感なくめちゃくちゃ似合ってるのよねw。通夜の受け付けやってるシーンが。落ち着きと気品と礼儀正しさを合わせた理想の声の通夜の受け付けの女の人になってんだよねw。このシーンの天ちゃんの声 普通に好きw。おじさん通夜の受け付けとかやったら 焦って落ち着きないおじさんだからw すげえ見習いたい憧れの眼差しでなんか ここで 過去1番に普通に 千鶴にドキッってしてんのよw いや今まで充分ドキドキするシーンあったやろがい!!って思うかも知れないけど おれなんか ここの 通夜の受け付けのシーンが1番なんか ドキッとしてるw 芝居が嘘かどうかなんて戦前から続く問題でルソーの自然主義のような粉飾を悪とする道徳的価値観に凝り固まった一般大衆の軽視の中にある演技の価値をどう高めるかなんてのは まさに芝居の芸術性の根幹に関わる話なわけで 嘘でもいいじゃない っていう
軽い話には あの年代の本物の役者さんなら ならないと思うのね。ラブコメ エンタメとして客層にあったセリフとして作者さんが用意したもので 役者のおばあちゃんとしてのセリフではなく、孫を大事にする祖母としてのセリフなわけよね。だからおれはここのシーンはある意味では演技ってものが持つ、ルソーの自然主義に対する反論、それを棚上げしたエンタメ的なセリフが持つ幼稚性で感動しないだろうなと思ったのよ。でも定岡さんの芝居で引き込まれたね。定岡さんのセリフが入ってきてからなんか天ちゃんの肺と横隔膜が乱れるような 声、感極まってきてるなっていう芝居臭くない声を感じたしね。 かのかりの33話見直したけど 病院のシーンの出だしが芝居臭いなと思った原因はたぶん 主人公の入室のタイミングで泣き崩れそうになるように段々 感情込めるような 綺麗な上がり調子になってんのね。この上がり調子の芝居の線のせいで最初の「ありがとう」に感情がこもってないように聞こえるし「~かな?」の問いかけもなんか視聴者が心の底から問いかけられてる感じしないし、「ごめんね、おばあちゃん」の「ごめんね」が軽く聞こえて、そのあとのおじいちゃんに感情が篭ってるように聴こえるしで、とにかく自分が自問自答することで段々 感極まって泣いてるような芝居、そういう上がり調子になってんのね。目の前にいる死にそうな大好きなおばあちゃんそのものを見ての感情が常に爆発しながらそれがセリフにのってるんじゃなくて、自問自答のセリフに段々酔ってるようなセリフの芝居なんだよね。長セリフって役者さん酔わすお酒みたいなもんだからね。でも目の前にある命ってのセリフのようなお酒じゃないわけよね。段々セリフに酔っていくそういう飲み会の上がり調子みたいな酒気みたいなもんが見えておれはそれが芝居臭いものに聴こえちゃうんだろうなと思うのね。 あとこの主人公が病室入ってくるタイミングで千鶴泣くんだけど、声の高さが若干高いのね。定岡さんのセリフ入ってきてからの時より。おばあちゃんのことを思って悲しくて泣く時ってどんな状況でも同じと思うのね。叫ぶ叫ばないの違いはあれど。喉が潰れるように襲う悲しみってね。主人公が病室入ってくるタイミングの千鶴の泣く時の高さはちょっと芝居臭く感じるのね。逆に定岡さんのセリフ入ってからの泣き方は良いのよ。この定岡さん入ってくる時の感情の入り方がおれは病室のシーンのアタマからあるような芝居の方が好きかなと思うのね。冒頭の主人公の入室に合わせて泣くのに合わせて段々感傷的なものを強めていくのは、千鶴っていうキャラは尻上がりに綺麗に纏まってるんさけどセリフの文字の意味がなんかおれには死んでるように聞こえて芝居臭く冒頭は見えたのね。 自動車で例えるとCVTの車みたいに段々加速していくんだけど、
人間の悲しみの感情、そこに共感する感情は果たしてCVT車の滑らかな加速と同じなのかってことよね。マニュアル車のドッカンターボ車みたいに1速入れてもドッカン加速 二足入れてもドッカン加速 何足入れてもドッカン加速みたいな ドッカンさ。これが人間の感情だと思うし 感情が動いてる時ほど 心のクラッチの切り方が変になって変な変速ショックが起きる。そういう心の変速ショックみたいなもんも人間の感情と思うし 果たして CVTの加速のように綺麗に整った加速感が正しいのか。なんかおれは芝居臭く感じるのね。 まあ芝居なんだから芝居臭いってのは正しいことなんだけどね。 みかんゼリー食ってミカン臭い!!って文句いうようなことだしねwでも考えて欲しいのは牛臭いステーキより牛臭くないステーキの方が好きでしょw。牛食べたいけど牛臭いのはいやだ。人間ってワガママな生き物だからねw。 オレオレ詐欺に例えるのもあれだけどw。オレオレ詐欺の犯人って電話の最初に「おれだよおれ!! 会社のお金使い込んで 大変なことになっちゃったから 今から銀行行って指定の口座に今すぐに振り込んでくれ!!」ってお年寄りを初手でパニックにするわけよね。最初に感情を揺さぶって混乱させた方があとあと相手をコントロールしやすくなるから。オレオレ詐欺の犯人は初手で一気に自分の演技の世界に引き込むわけよね。自分のオレオレ詐欺劇場にね。何が言いたいかと言うと誰かが病気とかで死ぬとか言う感傷劇のシチュレーションもおれは同じじゃないかと思うのね。さもその空間に居合わせてるような感傷劇の空間に観客を引きずり込んで空間の共有化、共感化を手っ取り早くすませる方法って、心をかき乱すパニックに近い心のざわつきを視聴者にさっさと叩き込んで冷静な心理の動きを素早く崩すところにあるんじゃなかろうかと思うのね。良いアニメの感傷劇のシチュレーションって観客の心の堤防の崩しと感情のかき乱し方が早いのね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています