石田三成の挙兵 ★6
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>>295
おっ、丸パクリくん効いちゃったかw
藤井氏の論文から引用したくらい簡単に書けばいいのに
盗っ人猛々しいゴミに相応しい居直りだな
便所の落書きだから何やってもいいと思ってるこういうバカはほんと救いようないな 三成のは方便でポジショントークしてるだけだから
差し引いて考えるのが普通で真に受ける奴ってアスペかなにかだろ >>296
利長の妻は大坂にいるから
あと利政の様に「人質が大坂にいるので西軍に味方する」って言う連中が多数出ればどうなるかはわからなかった
まぁ大抵は利長がやったように即制圧なんだが 芳春院人質以前にそもそも利長の弾劾も奉行噛んでるでしょ
問題にしたの増田で人質提出で治めたのが家康
これも石田の切腹→隠居と同じでフィクションだと全部家康が黒幕で仕組んだとかされがちだけど
実際にその根拠があるかというとない
>>281
その表現には問題ないけど小早川の内通を待って上洛始めたというのは無理があるね 利長は反家康派筆頭と言われるときがあるが
実は利政の方がヤバい奴
こいつ家康暗殺計画が露見した時には徳川との決戦を主張したっていうタカ派 >>300
まあ連座した浅野長政とか秀頼側近の大野治長は奉行絡み臭いよな >>299
8月上旬に利政の出陣拒否が判明して、9月上旬の時点で能登衆は大方利長へ
人質を出したとあるから一ヶ月程は経過してるし即制圧したとは言えんね 西軍のしたことは秀頼の名による惣無事令の否定だからね
当主や他国に不満がある奴は「あいつは東軍、秀頼さまに刃向かう輩」といって戦争ふっかけることが出来る
惜しいのはそうした動きが当の徳川家なんかで全く起きなかったのであんまり影響を与えなかったことくらい
まぁ佐竹が西軍になったり利政が謀反して前田軍の動きが止まったりと全く何の影響も無かった訳じゃ無いんだけど 細かく言うと八月十三日の出陣命令に利政は従わず、九月五日までに能登衆から人質を集め終わってるね 世界的にどの歴史を見ても、時代や政権の末期ってろくな人材がいなくなるんだよな
ひとりだけ頭飛びぬけた人物を除いて
この場合は家康がそれだった
家康に対して石田三成だ毛利輝元だ上杉景勝だって、この程度の奴らが対抗できるわけないやん
単に所領とか兵力の問題だけじゃない
渡り歩いてきた修羅場の数や経験、器や度量など全てにおいて隔絶しすぎている
三成ごときがどうして相手になれようか >>305
利長が人質集め始めたのは8月13日付利政宛利長書状の動員要請の結果を
受けたことによるものだけど、利政はその少し前に既に出陣拒否してる
9月5日付利長書状「まつ人しゆうち入候て、おいさし物いけなをし申候而、二日中ニはたらき可申候と存候」
と、本来なら金沢帰還後の2涛後には出陣しbスかったけど利瑞ュの出陣拒否に草ュの出陣拒否に荘�チてと続いてb「る
つまり8月13日の動員要請は2度目の要請ということになる
出陣拒否が判明してから利長も少し様子見してた期間があるが、トータルで見ると約一ヶ月 >>307
なんか文章がおかしいけど、コピペした際にミスった? >>308
ん?どこがおかしい?コピペなんかしてないけど
おかしいところ指摘してくれ 2涛後には出陣しbスかったけど利瑞ュの出陣拒否に草ュの出陣拒否に荘�チてと続いてb「る >>310
なにこれ?ギャグ?
お前がバグってるやんけw
この部分がおかしいってことか?
「本来なら金沢帰還後の2日後には出陣したかったけど利政の出陣拒否に遭ってと続いている」
それはお前が9月5日付前田利長書状読んでないから理解できないんだよ
先ず全文読んでこいよ、でないと話にならんわ
これがお前がおかしいと指摘してる部分の翻刻と大意ね
「三日に大せう寺へ取かけ、そくしニせめほし、山口おやこうち取候、すなわち越前へはたらき可申と存候所に、
ふしミのしろ一日ニおち申候由候、其上越後いつきおこり申候由、久太よりちうしん候間、まつ人しゆうち入候て、
おいさし物いけなをし申候而、二日中ニはたらき可申候と存候、孫四郎おんなとも、上方にい申ニつゐて、
孫四郎色々の申分候、のとい申人しゆおたて候ましきよし申候間、此中のしゆえことわり申候」
3日に大聖寺落とした後利長は越前へ出たかったが、1日に伏見が落ちたり、堀秀治から
越後で一揆が起こったと注進があったりして、先ず金沢に帰還して戦の準備を整えて2日の内には
再出陣したかったけど、利政が人質が上方にいるとからと言って出陣を拒否した 2涛後には出陣しbスかったけど利瑞ュの出陣拒否に草ュの出陣拒否に荘�チてと続いてb「る
当時の書状に「b」があるとは思えないのだが……バグじゃなかったのか?
ならごめんね
ただ、自分の誤りなら素直に認めたらいいのに……なぜそんなに人を馬鹿にするように返信するのかねえ…… まあ、ここは便所のごみ溜めだから、こんなもんか……
じゃあさよなら >>312
さっぱり分からなくて草
だからバグってるのはあんたの書き込みだってw
自分は専ブラ(chmate)から見てるんだけどあんたの書き込みは文字化けして読めんのよ
bって何のこと?もしかして俺の書き込みが文字化けしてるってことか?
https://i.imgur.com/8AMalY8.png
https://i.imgur.com/bxtupdX.png どのみち利政が西軍に与したのは明らかなんだしそこは西軍の思う通り
挙兵すら出来ないのは予想外だったろうが 石田三成は自分が忠臣で豊臣家を奉戴し守れば何とかなると杓子定規に考えていた可能性が高い
まあ石田はしょせん官僚に過ぎなかった
仕事はできるけど考え方がとにかくダメな奴だよな 三成が最初から西軍決起計画を知っていたら上杉や佐竹と共謀してもっと上手くやれたかもしれないし
信幸が裏切っていて情報ダダ漏れなんてことも無かったかもしれない
そう言う意味では西軍が三成を軽視したのは痛い
大局観で家康に負けてる 石田を叩くことにより俺賢いとかスゲーとか思っていそうだなここのウンコどもは
バカのひとつ覚えでわらわせる
三十年くらい前と異なり石田はすっかり人気者になり女性人気は5本の指に入るという
毎年やってる石田祭 では地元と関係無い石田ファンの女性が遠方からわざわざ来てボランティアで手伝ってくれるとか
そういう流れなので今ドラマで石田を悪役には描けず今回のどうするタヌキ君でも天才石田がタヌキを苦しませるという描き方になるとか
石田は数年後大河の主人公になる噂がありそうなったらここにいるアンチ石田は全員狂いジニなるだろうな
あとお前らよりも石田の方が1億ばい 石田を叩くことにより俺賢いとかスゲーとか思っていそうだなここのウンコどもは
バカのひとつ覚えでわらわせる
三十年くらい前と異なり石田はすっかり人気者になり女性人気は5本の指に入るという
毎年やってる石田祭 では地元と関係無い石田ファンの女性が遠方からわざわざ来てボランティアで手伝ってくれるとか
そういう流れなので今ドラマで石田を悪役には描けず今回のどうするタヌキ君でも天才石田がタヌキを苦しませるという描き方になるとか
石田は数年後大河の主人公になる噂がありそうなったらここにいるアンチ石田は全員狂いジニなるだろうな
あとお前らよりも石田の方が1億倍頭いいからな
それなのに発達とか笑える
発達が発達というお笑い 関ケ原は石田らの失敗というよりも秀吉が生前めちゃくちゃにしたのでその後始末させられた感じ
秀吉は天下取ったあと石田に全ておまかせすればよかった
家康ごとき関東のかわりに北海道やればいい
家康ごときカスがアイヌを支配できるとは思えないしな(笑) 西の敗退の最大の原因が片桐だ
奴は家康とツーツーの関係があり豊臣は西に何もやらなかった
茶々にもう少し危機感あったら西が圧勝してたよ
毛利テルリンも関ケ原に行かざるを得なかったし
所詮ここにいるアホどもは結果論でしかものを言えない
バカはしゃべるなよ >>321
歴史を結果論で語るべきでないと思ってるのなら、それこそ西軍の挙兵や
三成の西軍参加を否定すべきでしょ
後に家康は大坂城を落城させて秀頼を死に追いやったのだから、関ヶ原で家康を
倒そうとした三成ら西軍の行動は正しいし、豊臣は西軍を強く支持すべきだったって意見は
結果論でしかものを言えない間違った考えだという事なのだから 時々たまりかねたかのように出てくる西軍びいきか豊臣ファンもしくはアンチ徳川が
ゲハ板のPSファンボーイたちにかぶって見えて仕方がない ゲハでいくなら西軍贔屓は現実を直視できない箱厨だと思うが(アフィ >>320
それいいな
樺太、ロシアと進軍しする家康 家康ほどのラッキー男は他におらず
自力で他国を滅ぼした事はほとんど無く
今川に対して恩義も糞もなく平気で小早川する糞さ
信長には一度も裏切って無いがただ単に怖かっただけ
信長が死ぬとあれボクチン天下取れるのではと勝手に勘違いし天下取りに行くも秀吉に降伏
一応小牧の戦いで勝ったと言われているが別に秀吉方の城取ったわけでは無く池田親子のクビ取っただけのお話
秀吉は毛利上杉を仲間に引き入れもはや対抗できなくなっただけ
秀吉花火三成の忠告も聞かず家康に 家康に関東全部を与える愚行
関東と言えば武士政権の聖地
あんなアホ東北数ヵ国だけでよかった
大して強くも無く強いお兄ちゃんの そもそも石田は朝鮮出兵でやりたい放題やってるやん
蔚山城の戦いで蜂須賀、黒田、藤堂らを処罰し、順天城の一件でも早川、竹中、毛利を処罰している
しかも早川は改易されて、その所領が福原に与えられる
これは酷すぎるし、三成が無関係というなら福原には辞退させるべきだった
自分の婿すらコントロールできてない愚物やん その一件は福原が三成に宛てた書状で相談しなかったことを詫びてるから無関係なのは間違いない
その時の三成は景勝の会津転封で大忙しよ >>331
三成が処分に関わってないのはその通りだけど福原は別に詫びてないよ、そんな文言どこにもない
三成に相談したかったが不在でそれもならなかった、しかし増田と相談して首尾よくいったと報告してるだけ 三成は忠臣だが、自分よがりの忠臣
仕事はできるが組織の和を乱す
必要だけど危ない奴なんだよな >>332
それを詫びてると言うのでは?
慶長の役に三成は完全にノータッチで責任が有るとは言えない
三成は小早川領受領を拒否してるので領土的野心は無かったと見られてる
まぁ秀吉政権下だと領土を預かる=責任がある事になるので失敗が分かってた朝鮮戦役から逃げたかった一心なんだろうけど 秀吉のチョン征伐は失敗だった
チョンよりもフィリピンを征服するべきだった
アジアにおける白人支配に一石を投じられるし
チョンはくそ弱いがチョンを攻めれば明が必ずでてくるし無理な計画だった
なお石田は最初から無理な計画と見なし反対したが秀吉の暴走を止められなかったのが実情
もしフィリピン征服なら必ず征服できたしメリットもある
大好きな家康に関東を取り上げるかわりにフィリピンを全部やればいい
秀吉はバカなんだから三成のいうこと聞いていればいいんだよ >>335
どこが?この文で福原が詫びてると取る人はいないな
事前に相談が叶わず残念だ、困ったということは読み取れるけど別に詫びてはない
あと自分は330じゃない
黒田や蜂須賀、目付衆の処分に関しては三成が関わってないのはこの5月3日付
福原書状や5月26日付三軍監連署状からも明らかだしそこは否定してない 朝鮮すら攻め込めない航海技術なのでフィリピンなんて不可能
よしんば盗れたとして維持出来ない 後の天草の乱の原因となった松倉氏は
島原城というすごい城を完成させたのだが
松倉はフィリピンルソン島攻略を考えて島原城を建てたのではと言われている
松倉だけでなくルソン島攻略を考えていた大名はけっこうおおかったらしい
ルソン島はスペインが支配していたがスペイン人の数は意外に少なくもし秀吉がルソン島を攻めたら楽勝だと言われている
またスペインの造船技術も知れていて
少なくとも幕末の黒船とは比較にもならないレベル、おもちゃレベルだよ
スペインはキリスト教を弾圧した秀吉を憎み日本を攻めることを考えるも考えたがとてもかなわないと見て諦めたほど
したがって秀吉がルソン島を攻めれば必ず勝ったのは間違いない 関ケ原の西軍敗退の最大の要因はチョン成敗なのは間違いない
石田が石田がとか言われているが石田はあくまでも監督としてきちんと仕事したのは確か
石田はぬくぬくしてただけで戦ってないとされてるが家臣島左近の活躍とは言えそれなりに戦っているし石田自身負傷までしている
むしろぬくぬくしてただけでしていて戦っていないのが福島だろ(笑)
とはいえチョン成敗で大名たちに何一つ恩賞は無くそれどころか借金返済まで要求されそれが後の豊臣家を背くきっかけになる
石田憎しというよりも奉行憎し豊臣憎しに繋がる家康そのあたりも利用したと言える 三成は負けたから悪く言われるのはどうしようもない
歴史は勝者が常に正義だし作るもの
残念ながら三成はいかに忠臣だろうと、負けて結果を出せなかった以上は奸臣でしかない 多くの大名がフィリピンに興味あったのは確かだ
島原城もフィリピン攻略のための拠点でたてられたと記憶している
島原城は昔行った事あるが書いてあったような気がする
うろ覚えかも知らないが 342
江戸時代ならまだしも現代になっても叩き続ける意味わからんわ
三成は実は明治以降も叩かれていた
なぜなら明治以降政治を握ったのは薩摩長州
特に長州は毛利
もし三成が義士として評価されたら毛利はくそと言われかねない
だから明治以降もボロクソに叩かれた
しかしその後の板垣退助の民主化運動の結果ようやく平民も政治家になれる時代が来て
国会議員ならびに都道府県知事、県会議員、等県、市町村単位の政治まで平民が関われる事になる昭和はじめ当時の平民出身の滋賀県知事がこのまま滋賀県が生んだ英雄石田三成が悪魔のような扱いされるのは間違ってるとして
三成の首が埋められているとされる場所
ちなみに家康は三成の墓を建てることに反対し墓すらなかった
を発掘しきちんと墓を作らせて再評価させた
長浜市石田にある先祖の墓地もきちんと整備されようやく正当な評価されることになったが
世間一般から見たらまだまだ評価されておらず
近年になってドラマの影響もあって義士として人気うなぎ登りになるとは皮肉な話である
ただ今回の家康大河では家康マンセーなので三成がみにくく描かれる可能性も 三成は仕事ができる=忠臣と勘違いしていた可能性があるな
人と和を図ることができないし 江戸時代家光の時にオランダからルソン島攻撃作戦を打診された
西洋軍艦数隻をオランダが用意するので日本は陸軍を出してくれという内容で現実味があったので割と真剣に検討された
んでそれに賛成したのが松倉氏で物資を負担するとまで言い切ったので計画実行されるかと思われていた
実は松倉は重税をとっていて更にルソン島攻撃を口実に更に増税していた。それが農民一揆によって発覚、松倉勝家は江戸時代大名で唯一の斬首刑に処されルソン島攻撃は中止された 島原城に行った時ルソン島攻略するための拠点目的で島原城はたてられたと書いてあったのはうろ覚えではなくほんとだったようだな
どのみち幕府主導では外様の松倉は美味しい思いはできなかったと思うが 石田三成のような嫌われもので主君に対しても言いたい事言える人材はどこで必要だ
徳川でも本多正信がそうだ
他の同僚からは完全に嫌われて主君に対しては数々の策略を授けた
家康は正信のいうことを全部聞いてそのいくつかを実行して天下を取ったが
秀吉は三成のいうことはほとんど聞かず
例えば反乱を影で起こした伊達を滅ぼすべきなのに三成のいうことを 結局外征なんてのは上の人間が優越感に浸れるくらいしか良いところなくて庶民からすりゃ税が重くなるばかりで良い事がない
ってのを幕府が悟ったのが島原の乱
朝鮮出兵と同じで軍役として諸大名に負担押し付けるか幕府が全部面倒みるかという究極の択一になる いうことを聞かずナアナアで済ましている
秀次事件でも実は三成は秀次の助命嘆願したという説もあるが秀吉は一族抹殺を命じている
朝鮮征伐だって三成は反対したが秀吉は三成のいうことを聞かずめちゃくちゃにしたまま死去する
アホな主君を持ってしまった不運だな そもそも秀吉の天下統一が不完全すぎる
信長みたいに信忠みたいな後継者がいたなら、もう少しマシな統一方法を残せたかもしれないけど
徳川に毛利に上杉に島津にと強大な勢力を残しすぎた 信長なら毛利上杉島津長曽我部はもちろん家康すら滅ぼしてたと思う
秀吉は広島三十万石程度の大名で終わっただろう
当然関ケ原すら起こる事は無く
まあ天皇は残るだろう
織田家の先祖をたどれば神官だから天皇をほろぼすなんてありえない話だ
さて大陸出兵するだろうか
またキリスト教をあのままのさばらすつもりなのか
今のこの歴史とは全く異なる歴史になっていたであろう
家康ごとき小心者のゴミクズが天下取るよりましだろう 秀吉がしぬまでは閣僚の中心としてブイブイ言わせていた。
家康が実験を握り、政治を我が物にしてしまい許せなかったのか。
何よりも豊臣恩顧といわれた福島や加藤らが軒並み家康に懐柔されていったのは彼らがバカだったわけでもあるまい。
豊臣政権内の内部分裂に乗じて力のある同僚をつぶしていった家康の政治力は凄まじい。
彼は天下を取ったが同時に日本の歴史において英雄にはなれない生き方をしてしまった。
これは皮肉でもある。 慶長5年8月に真田昌幸に出した三成書状では、「息子の越中は法度を破り、内府をたぶらかし、秀頼様から所領を掠め取ったので遺恨が深い」
とかあるけど、三成は何をそこまで忠興に対して恨んでいたんだ?
そもそも「法度を破り」ってお前がいうことじゃないと思う 三成は政治を司る立場だしおまいうは違うだろ
三成は佐和山城が落ちた時財産が全く残っておらず、つまり私腹を肥やす事は一切せずひたすら豊臣家のために尽くした
たとえ嫌われ役に徹してもな
細川家はかつて将軍家の側近を仰せ尽くした家柄だが豊臣政権ではただの外様大名のそれでしか無く三成が怒るのは至極当然だと思うが
三成を叩けばぼくちんクッコいい当然思ってるか知らんが醜いよな
そもそもホソカーは人間的におかしい人たちが多い 三成は政治を司る立場
違うだろ。三成は奉行だから司る連中から言われたことを執行するだけの立場だぞ
いつから三成が秀吉や大老の立場になった? >>356
佐和山に金銀が無かったから三成は私腹を肥やさなかったんだ、ってこれよく聞くけど
慶長5年9月12日付増田宛三成書状では「金銀米銭を使うのはこの時で、私は手許に持っているものを全てだし、人数を召し抱えたので
逼迫しています」とあるから、単に貯めたのを使い果たしていたから無かっただけじゃないのか?
そもそも佐和山に金銀が無いと書いていたのは、ひとつは「卜斎覚書」だから信頼性があるけど、もう一つは「甲子夜話」だぞ
これは信頼性が無い。何しろ江戸時代後期の著作だし
そもそも甲子夜話のほうは卜斎覚書より詳しく書いていて、どうしてそれを知ったと言いたくなる
卜斎「金銀は少しもない。三成は貯えていなかったのか」
甲子「落城後、18万石の城なので、さぞかし居所も華麗だろうと人々は思ったが、居所は荒壁のまま上塗りもしておらず、
屋中は板張りのままだった」 その書状は割と興味深いね
内府に誑かされてる、とか内府と共に秀頼さまを誑かしてるとかじゃない、ってことは三成にとって家康よりもこういう連中の方が敵だったことになる
三成と忠興というと柿を送っただの秀次事件で讒訴しただのって話が有名だけどそれ除いてもこいつら仲悪い
細川忠興は三成を襲撃したメンバーの一人だし霜女覚書によれば忠興は妻玉子に「三成はクーデターする、そうしたらお前を人質にしようとする、死んで阻止しろ」って命令してたとあるし三成決起を聞いて国許に送った書状に「あいつはやると言ってた通りになった」と残してるから
法度を曲げた件が何のかはわからんけど襲撃事件のことなのか 三成は後の徳川幕府のようにトップがどんなアホでも政治が成り立つような構造を目指したが時間がなかった
大陸出兵等やらず秀吉の天下統一から秀吉の死去までに豊臣天下政権の完成を目指すべきだった
外様大名が中央政権に居座れるようではいけない
関白が政治できない場合石高は少ない譜代大名連中に政治を行わせ外様はいっ 佐久間折檻状にもあるけど人数を召し抱えるのは無駄使いじゃなくむしろ推奨されてるレベルだし、
私腹をこやすってそういうのに使わずに結果的に貯めまくってるかどうかが基準なような気も
+屋敷家具美術品調度品とかに金を使いまくった形跡が無ければ つづき
外様大名は一切政治に立ち入らせてはならない
前田も大大名だからNG
実際問題江戸時代このやりかたで二百六十年以上続いたしな
後家康は幕府を開いて以降石田らがやって来た政策を名前だけ変えてそのままパクっている
このスレでは石田をひたすら叩き俺はカッケーと言いたいバカゴミどもがいるが石田は家康からもできれば引き抜きたかった男だったのは間違いない
後どうする家康でも家康が本当は戦いたくなかった男と三成を紹介するのにそう書かれていた
令和の今三成をたたく時代は終わった
それでも三成を叩くということは頭がおかしいのかそれとも世間を叩きたいためなのか
いずれにせよアホと言うしかない 西軍決起後如水も吉川に宛てた書状で「こうなると常々思っていたので驚きはない」
と言ってるから別に忠興に限らずある程度予想はできたことなんだろ 最後の1行だけは大いに賛同するよ
停滞と衰退の失われた260年よりかは誰がやっても遥かにましだろ もし三成が江戸中期の政治家ならそれなりの評価を受けた人物として教科書にも取り上げられたであろう
基本頭脳明晰でかつ大胆な政治も できる
平和な時代ならともかく一歩まちがえれば再び戦国時代の当時では気の毒であった
もし石高二百まん もし石田三成が二百万石大名もしくはそのくらいの兵力財力を自由に使える立場なら必ず家康を滅ぼし豊臣政権を永続できたであろう
むしろあの程度の石高でよくあそこまで家康に対抗できたものだ
福島小早川キッカーとかアホの極みだ
知的障害者レベルだわな
三成と家康立場が反対なら家康は三成にひたすら土下座したであろう 家康は三成を評価してたようだが
戦のケジメとして本人は処刑されたが子供たちは全員命は助けてる
まあ三成は輝元とおそらくは大谷刑部に乗っかっただけだけで前線指揮官以上の裁量権は無いから家康に対抗云々は外れてる
関ケ原においての総大将格は過剰評価 というか別に関ヶ原の敗戦者は三成以外も族滅なんてされてないって
死んだのは一連の戦闘の結果大敗し 戦死したり敗軍の将として責任取ったり
三成が特別評価されて他と異なる対応をされてるとは言えないだろう >>362
指摘を全否定はしないが、少なくとも自分は三成ら奉行達がそれを目指してはダメだと思う
譜代を中心にとして外様を排除して執政を進める、結構なことだ
しかしね、『秀吉に子飼いはいたとしても譜代なんか存在しない』だろう
それをどうしてもやりたいのであれば、早くても秀頼の代、出来ればその息子辺りでやるべきだ
三成らに時間が無いって指摘はおかしい、むしろ早すぎるんだ
もし本気で三成らがあなたの主張通りの考えを持っていたとしたら、残念ながら三成は傲慢だ
譜代でも何でもない先代側近如きが何を偉そうにという形にしかならないだろう
理想を述べるのは大変結構、しかし物事には段階を経るとか実績を積む、時を重ねるなど
色々順序立てて進めていかなければならない事もあるのが事実だ
仮に奉行が後の江戸幕府的なものを目指していたというのなら
彼らは自分たちの立場を勘違いしてたとしか言いようがない
そもそも秀吉はその辺わかってたと思うよ、だからこそ大老・奉行制度を作ったんじゃないのかね
そういう事がやりたいなら秀頼執政時(要するに秀吉側近を引退させて代替わりした後)か
その息子位になってから実行すべきだと、有体に言うなら譜代を作ってからやれって事 >>360
〉三成は後の徳川幕府のようにトップがどんなアホでも政治が成り立つような構造を目指したが時間がなかった
これはどういう足跡からそう推測できるんです? 三成は西軍総大将でも何でも無く単なる一指揮官だしそもそも西軍決起計画を知らなった
知っていたらもう少し頑張ったろうけど 徳川幕府は官僚制で長期政権化うまく行ったがそれは将軍大御所が主導した結果
豊臣政権は秀吉自身が大身外様の後見を頼み、家康利家を別格の伏見大阪城代としたのを奉行たちが覆そうとした
そもそも奉行たちからして一官僚として考えたら政権本拠近くで大身持ってたりするし話はまるで違うよ ID:QhUd4/sQ
史料も提示せずに自分の妄想並べてるだけだな、話にならん
>>367の「むしろあの程度の石高でよくあそこまで家康に対抗できたものだ」とは、江戸時代の妄想関ヶ原のことでも言ってるのか?
一次史料を見る限りはほとんど家康の圧勝だぞ
慶長5年9月12日の三成状も知らないみたいだし、あれ見ただけで西軍の惨状がわかるはずだが
他にも吉川広家書状、8月29日の保科正光書状、他色々の書状を見たら、どれだけ西軍が不利かわかるはずだがね キッカーがウルトラアホだったのは誰の目にも明らか
知的障害レベルだろ
小早川ヒデアキなんか本物の知的障害者
福島正則も相当なレベルの知的障害だろ
福島正則は関ケ原後家康の家臣を切腹させている、家康はあの時点で福島正則にへそ曲げられて大阪城にこもられたら厄介だから仕方なく家臣を切腹させたが内心ぶちきれただろう
さらに福島正則は酒の席で家臣を切腹させ翌日その家臣を呼んだらすでに死んでたという落ち
大名にさせたらいけないレベルのゴミだわ
キッカーに福島正則、小早川
こんなマジで知的障害レベルのバカのために三成らは負けた
後毛利テルリンもボンボンでウルトラ能無し
こんなアホたちのために三成は負けた
まあ三成は戦知らずは認めるがこんなハンデ背負っていたのたから気の毒だな
それと大阪城のアホども
三成が負けも豊臣家には何の関係も無いとほんきで思っていたんだからな
後そういう事情も見てみぬふりして三成が全て悪いとするこのスレのアホどもも知的障害レベルだわな
近年の三成評価に嫉妬しルのかな
三成の1億分の1の脳ミソしかないアホたちが しかしなんで石田等は大垣城に毛利勢、吉川勢を入れなかったんだろうね?
兵で溢れてるならまだしも、不足してる状況だったのに。
入れなかっただけならまだしも、軍議にすら呼んでいないから意思疎通なんぞできようがない。
挙げ句、関ヶ原は南宮山勢からみたら置き去りにされての退却に見えたわけで、
その状態で東軍を攻めるなんて選択肢などあるはずもなく。 >>376
全く不足してねえ
一万以上いたら十分だろ たわけ
大垣城は行った事あるが予想以上に狭すぎて南宮勢を呼べなかっただけの話
とはいえせめて大将クラスだけでも呼ぶべきだったと思うが
後キッカーは事前にころすべきだったな
キッカーの母親は戦国きってのブス
劣等感のかたまりのようなゴミだからいかしとくねきではなかった >>376
保科正光は書状で「其上大柿ニ篭候人数弐万余有之候由申候間、小城ニ而さやう之人数楯篭候者、輙詰候ハんと存候」
と、大垣には二万余いるそうだが小城にそんな人数で立て籠もってもすぐいっぱいになると思うと言ってるけどね >>375
そんな自分本位な身勝手な理屈で他大名巻き込んで戦争しちゃダメだろ
大体豊臣家が頼んでもいなけりゃ手続きもロクに取らずに勝手に戦争引き起こして
結末は政権崩壊じゃ迷惑極まりない、何もしない方がまだマシだよ
そもそも多数派工作で勝てないような奴がいくら理想論並べ立てても口先野郎でしかない
仮に、後にそいつの危惧した通りの展開になったとしても、政治の世界においては
周りもロクに納得させられぬ無能が戯言を述べてるだけ(そも、歴史を結果論で語るべきではないが)
いっちゃなんだがいくら周りを無能だと騒ぎ立てようが、そいつらをまともに制御・管理も出来ん奴が
偉そうにわめくな、身の程を知れとしか言えない ID:QhUd4/sQからID:Qz1cOqg3に変更か? >>375読んだらわかるけど、こいつ本当に史料読んでないんだな
その「相当なレベルの知的障害」の福島正則を調略で寝返らせようとしたのが三成だろ
その知的障害すら調略できない三成はもっと知的障害ってことかね? というか9月12日の書状も読んでないんだな
小早川秀秋の後背をある程度知っていながら何にも対処しなかったのが三成という大馬鹿野郎だろ 徳川家康は小早川秀秋を八月末には口説き落として味方にし、九月十四日に松尾山を取らせる事で大垣城を孤立させ西軍美濃方面軍を殲滅する計画
秀秋は前々から西軍の指揮を離れていたからこれは必然的に噂になっていたことが九月十二日石田三成書状からはわかる
わかるけど三成には何も出来ない。何故ならこれはあくまで「噂」であり一指揮官に過ぎない三成に対処できる問題じゃない
増田長盛にそれとなく匂わせて警戒して貰うくらいしかできん。仮に三成が秀秋が裏切ったと騒げばそれによって秀秋を東軍に就かせてしまうかもしれないわけだし でキッカーが吉川広家の事ならこれも三成の手に負える問題じゃない
広家は毛利輝元の家臣なので三成には処断権は無い。広家を殺したら三成は最低でも腹を切ることになる
あるとしたら西軍総大将の豊臣秀頼に直訴して秀頼から広家処罰を輝元に命じて貰うとかだがそれは秀頼が輝元を実力でも上回ってないと無理
現実的には輝元に広家が徳川と話し合ってますよと報告するくらい
しかも吉川広家、輝元からの直命で徳川と交渉していた節があるかなやったところで 総じてこの板に書き込んでる西軍びいき豊臣ファンアンチ徳川は
知識知見の卸元が司馬遼太郎の小説止まりなのが多い印象
毛利輝元などは近年の研究踏まえると西軍敗北と豊臣政権崩壊の主犯の一人として
西軍びいきからもっと批判罵倒されていいと思うんだがそういう書き込みをほぼ見かけない
これは司馬の小説での無能だがお人好しという罪のないキャラ設定がそのまま刷り込まれてるからだろうな
吉川に命じて徳川と密かに和睦交渉させてたなどいわゆる小早川の裏切り以上の梯子外しだわ
総大将自身が敵に通じたようなものだからな 384
バカでもわかるように大阪と書いただかだ(笑)
さて大坂から大阪にあらためられた要因として坂では坂を転が落ちるように街が衰える縁起ても無い字なので阪にあらためられたのが定説だが江戸時代のいつごろくらいかはご存知ではない
なお同じ理由で松坂=松阪という例もある
て言うかいちいち言わせるなよ
そもそも今は大阪城と呼ばれている
いちいちつまらない指摘はなくていい
おまえがバカがなのはわかった 三成としては豊臣の天下を諦めて徳川にすり寄る選択もあった
少なくとも徳川天下の暁には福島小早川黒田等々よりはいいポジションにつけてもらえたかも知れない
徳川家臣団は本多正信以外は筋肉バカしかおらず政治はできない
結局江戸時代は石田が行ってきた政治を丸パクリしただけ
ちなみにあくまでも噂だが三成は関ケ原以降実は生き延びて高名なお坊さんになって大奥に入り政治に口出ししていたのではという説もあるとか
まあありえない話ではない
徳川の政治が石田がやって来た政治と似すぎていたからな
ちなみにどうする家康では家康が三成を取り込むためにいろいろと動くが三成にかたくなに拒否されてそして対立するという展開らしい
徳川と石田の間には全く血縁関係がなかった訳ではなく三成自身は戦なしで徳川の野心 をおさめたかったのが本心だったようだし
徳川家康自身石田とは正直戦はしたくなかったのが本心だが毛利上杉が動いてしまった以上結局やらざるを得なかったのが実情だ
最近発売された関ケ原本ではそのあたりをクローズアップして描いたとか
読んでないけどな
そもそも関ケ原は毛利が積極的に動いている
むしろ三成は被害者だわな >>389
でもお前さん「家康が東京を発った」って聞いたら絶対怒り出すじゃん… 全国城めぐりしていて北海道と沖縄以外は全て訪問した
徳川方の城が多く豊臣方の城はさみしい限りだ
とくに三成の城といえば井伊が三成を妬みほとんど取り除きしろ とても城跡とは言えない無惨と言える状態である
一方で井伊直政の城である彦根城は天守閣は小さいとは言え全国5本の指に入る城である
二人のあいだ 石田三成と井伊直政では井伊直政が個人的にかなり恨んでいたようだが関ケ原以前は三成が立場上かなり上であったが戦後石田は滅亡
井伊は一気に躍進した
井伊はともかく政治のできる石田三成が 政治のできる石田三成があのような末路とは家康も内心ザまあとは言えなかっただろう
家康にとって最愛の女房阿茶のつぼねと親戚の関係でもある三成は内心取り込みたかった男だし
あくまでも俺個人の気持ちだがたとえ裏切り者と呼ばれても徳川女房付いて大名として生き残ってほしかった
佐和山の城も立派に残っているかも知れないし
何よりも戦が大嫌いだったと言われている三成にとって関ケ原はやりたくはなかったであろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています