石田三成の挙兵 ★5
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>>897
そして小田原城の戦い
決戦江戸城の戦いと続いていく いつまでもごちゃごちゃ公儀だとかなんだとかうけるなw
家康擁護派の大前提が天下取りの野心が全くなく仕方なくそーなっていったってのがあるから話が終わらない
秀吉死後の家康の行動見れば明らかに天下取りにいってる
その事を考えると家康擁護は無理がありすぎる 後継者が余りに年少で大坂に引きこもった以上
一門筆頭が陣代となるのは常なること
結局秀次処分が一番悪い
次に大和大納言家に末期養子を充てず取り潰したこと >>901
合議で運営していけるという間違った考えがあるから
家康の動きが何でも天下取りに見えてしまうんだよ 家康の野心云々以前に秀吉及び豊臣の側にも天下人から転がり落ちるだけの要因や自業自得があったのに
そういうことには一切目を瞑ってひたすら家康の野心だけをエクスキューズにしてるのが必死すぎて見苦しいんだよな ロシアの騒動で御所巻きがツイッターのトレンドになるんだな
三成が合議制をねじ込んだせいで秀吉体制がどうでもよくなったから七将が御所巻に及んだのかもしれない 七将は私婚問題で家康と一緒に咎められた奴らだったからな
外征で苦労して帰ってきた挙句に粛清される可能性まであったらそりゃ怒るよ 家康に野心があったかは定かじゃないからね
よく言われる三成襲撃事件もかなりの危険事態で家康は全力で事態収拾にあたったんだろう
本気で三成を潰したかったにしては甘過ぎる。幾ら三成の息子と仲良しだからといっても
万が一七将が爆発したら豊臣家の力量的にそのまま戦国時代に真っ逆様だったろうしね >>901
『政権内部での権勢を高める野心』と『政権を超える野心』ってのは全く違うから
秀吉死後から関ヶ原前までの家康は前者にしか見えん、その後なら後者だろうけど
関ヶ原で区切る意味?人間は極めて重大な出来事や体験をすると、それまでの認識や
考え方をいくらでも変える生き物だからだよ、関ヶ原は充分にそのレベルの出来事に値する
他ならぬ秀吉がそうでしょう、本能寺前と後で秀吉の行動は全く違います
本能寺やそれに類する出来事(要は信長父子の突発的死亡)が”一切起きなくても”、
秀吉は関白就任して天下人になるだろう、なんていう奴はまずいないでしょう
だから『反家康派が関ヶ原なんて馬鹿な事をしなければ』家康が豊臣政権の担ぎ手のままで
終わった可能性は高いと思いますよ、藤原氏とかの例を見る限り >>895
朝鮮との和平交渉は嘘の報告で騙したけど? >>901
明らかにとか強い言葉を使いつつ
具体的には何も言えないよねいつも >>907
加藤浅野らは私婚問題で家康弾劾して前田邸に参集してるよ
七将全部が家康の与党で一貫してるというのは司馬遼太郎の間違い >>908
それは、政権その物を乗っとる野心と地方で独立する野心の違いじゃないですかね。
丁度、アレキサンダー大王死後のディアドコイに、二種類の方向性があったようにね。
家康は、関東で自立する目的じゃなくて全国政権を乗っとるつもりだから豊臣家の権威が行き成り
消滅してもらっては困る訳で。
豊臣家の大名を徐々に徳川の外様にしたい訳だから。 >>913
例え話くん久しぶりに見たな
相変わらず小説読んでそのゴミ知識を惜しみなく披露してるようで何よりw >>896
奉行を無視して内儀を進める利休を排除するのが正しいと主張したり
奉行を無視して自分と側近だけで政治を進める秀次を排除するのが正しいと主張することに忙しすぎて
徳川に構っている暇はなかったのだから仕方がないだろ プリゴジンは謀反失敗というか、途中で諦めたね
伝家の宝刀 核持って 家康は野心というより
豊臣政権のトップという
責任感でしょう 七将襲撃が家康の描いた絵なら石田三成が生きてるのはおかしい。三成は処刑なり七将に襲撃されて死んでるはず
それを家康は無茶苦茶寛大な裁定を出してる
家康に野心のようなものは無かったんだろう
史料から見る限り、家康が天下取りを決心したのは関ヶ原の後だろう 七将事件で三成に罪を問うなら、騒動起こした七将にも問わないといけなくなるのにか?
七将は現在諸説があるからメンバーが異なる場合があるけど、福島は家康の縁戚
池田は娘婿、加藤も縁戚だぞ
こいつらも罪に問えると? 七将の申し立てを鵜呑みにするなら三成切腹でおわるだろ
それやると七将処罰しなきゃいけないとか謎ルールすぎ W加藤や池田浅野は七将事件の直前には家康を糾弾する前田を支持した
福島は逆に私婚問題で家康と一緒に前田や他の七将から糾弾されてる側
なので七将が一味同心するようになったのは前田徳川の和解後
両巨頭の和解に沿って動いていたとも言える
>>915のいう一連の粛清劇を主導したのが奉行であるかは一考の余地はある
が、少なくとも4奉行は秀次事件では発端となった糾問の使者となり事件後出世、政権の中枢に座り続けてた
実態はともかく責任を問われる立場と見られる素地はある
実は福島も秀次切腹の使者として大出世してる
慶長の役にも出征しておらず立場としては常に前線にいた加藤より奉行に近い
なので私婚糾弾は福島にとっては後ろから撃たれたようなものでその後報復に動くのもまあ自然よね 喧嘩なら両成敗がこの時代の決まりだが、一次史料によると「訴訟」だからなあ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-3/12/0008?m=all&s=0002&n=20
「閏三月十日、晴石田治部少輔江州サヲ山の城へ隠居、大名十人とやらん申合訴訟云々、内府異見云々」
同じページに写ってる義演じゃなく言経だと「伏見雑説、大閤政所御あつかいにて無事成也云々」
主導したのが家康なのか秀吉の愛妾なのかしらないが、「異見」「御あつかい」で決着してる 敢えて言うなら三成が死んでるのにその原因の七将が死んでないのはおかしいという死に損ってことで七将にも責任を取らせろという倫理的な問題
ただそれを家康に訴えることが出来る肝のある奴が多分居ない そもそも七将事件は三成よりその娘婿の福原と熊谷に問題があったのに、なぜか三成に対して行動を起こしてる七人
そしてこの事件で福原と熊谷は改易されてるから三成は十分処罰は受けてると思うが
そもそも改易とか誰が決めたの?
所領とかは秀頼が成長するまで特に判断するなとか言われてなかった? そもそも七将の訴状が明確ではないので福原熊谷が問題だったかも明確ではないのだがそれは置いといて
ふたりが問題だったとする説をとるのであれば彼らが石田の親戚でその与党と見做されたからというのがセット
何も不思議がないと思うのだけど何が「なぜか」なの? 七将が求めてるのはあくまで三成の処刑、その一派の改易はそもそも求めてない(増田長盛みたいな大物は狙ってたみたいだけど)
だから福原らの改易は家康が三成処刑を諦めさせる代わりの落とし所だった可能性がかなり高い
これを蹴ったら蜂須賀・黒田の名誉回復は永遠にされないんだから七将としても呑むしかない >>928
あくまで三成のしょけーを求めたという史料のソースお願いします 慶長3年5月26日付福原・垣見・熊谷連署状にある内容が七将事件
の契機になり、対立がより深まったのは間違いないところだろう
七将の要求に福原らの処罰が含まれていた可能性も考えられると思うがね
ただ七将が要求していたもの何なのか不明な以上結局不明としか言えんわな >>925
そこよな、論功行賞する権限こそが主君の主君たるゆえん
これって建前は兎も角、盗将様のクーデターだろ 別に秀吉死後、諸大名に対する加増は一切行われていない訳じゃないから
その辺のことを言われてもなんともな、少なくとも、森、島津、宗には加増されてる
で、島津や宗は西軍についてるから別に西軍側もこの件を問題視してるとは思えん
つーか、本気で問題視してるなら島津らを糾弾すべきだ、西軍に味方したから許すとかしたら
それこそ政権の私物化だから家康に対する批判自体「どの口が言うか!」って話になる >>932
家康一人の花押で決済してる物は、全然違うでしょ
太閤ですら、自分一人の花押の文書は殆んどだしてないのにさ
盗将様一人の花押の文書の意味って「文句いう奴は俺の軍事力で踏みつぶす」って事だ。
受けた時点で、事実上徳川に臣従したも同じ そもそも朝廷の官位叙任停止もそうだが大名の所領関係も秀頼成人まで手をつけるなってのが非常識
ただ秀頼が幼いからって私的都合だけで停滞させちゃいけない国家の重要事を無理やり停滞させるとか
日本は秀吉の豊臣家の私物じゃないし関白も当然豊臣の私物じゃないんだから
関ヶ原後家康が五摂家へ関白を返還したのも当然だしもともと秀吉が約束していたことでもある
所領に手をつけるななどは武家の御恩と奉公の契約不履行もしくは遅延行為で武家の棟梁失格
家康は子供可愛さのあまり公私の別を弁えられなくなった秀吉と武家の棟梁たる資格を失った豊臣家に代わって
国家を正常化させたまでのことでそのことをどうこう言う者は日本を豊臣家の私物だと言ってるのと同じ 後水尾天皇践祚の儀に出席するため京都にいく。大坂の秀頼も二条城へ来るようにとの大御所様のおん下知である。 毛利も秀元の所領問題があるから秀頼成人まで待ってられない
むしろ秀吉の遺命を反故にするよう奉行衆に働きかけてた可能性が大
そしてそれは成功した 秀吉が天下人としてはどうにもならない奴だと思うのは
もし秀頼が成人する前に死んだ場合どうするのかを何も言い遺してないこと
兄鶴松の例もあり当時秀頼が成人する保証などどこにもなく秀頼が子を儲ける前に死ぬ可能性は十分ある
秀吉はそうなった場合の継承順位を何も定めてないから秀頼が死んだ瞬間豊臣家も豊臣政権も消滅する
公言こそしないが当時朝廷から大名まで全てその危惧懸念は持っていたはずで
だからこそ 途中で書き込んでしまった
だからこそ家康はじめどの大名も「そうなった場合」生き残るためにどうするかも視野に入れて行動していたはずで
単に豊臣への忠不忠や野心の有無だけでは片付けられない機微がある 関ヶ原戦後処理で豊臣政権があっさり解体されたのをみるに
もう誰もが当事者能力を欠いていたのかもね チェーン店の看板に価値が無いならロイヤリティの無駄
独立するか乗り換える 結局は徳川を大きくし過ぎたのが問題だった
秀吉死後に徳川を守ろうと考えたらトップに立つしかないもん そうなった原因はそもそも豊臣家に人材がいなかったから >>940
そう考えると秀次処分が本当に悪手の極みなんだよな
成人男性、かつ関白に就任しているから徳川含めた諸大名とは格が違うし
子供も多いから後継者にも困らない、独自の家臣団を有しているから大老・奉行制度も不要
秀頼に万が一が起きた時の保険としてはほぼ完璧なのに、どっかの誰かが死なせちゃうというね
家督争いのリスク?御家断絶と比べてどっちがマシですかって話だよ
一門っていうのは確かに管理・整理・制御の難しい厄介な存在ではあるけど、
面倒だからとむやみに排除すると結局は御家が詰むってのが頼朝や秀吉を見てるとよくわかる
長期政権を築くなら、やはり一族、一門を豊富にしてそいつらをうまくコントロールして
活用していくのが一番だ、それが後継作成と並ぶお家の当主の最も大きな仕事だろう 秀吉は武家の出身じゃ無かったろうからそういった意識は希薄だったろうし
頼朝の場合は清和源氏では一族内で殺し合いをしまっくてた経緯もあって
今更兄弟仲良くという気にもならなっかたんじゃないかなあ そもそも秀吉遺言自体は秀頼の引き立てだけを頼んでる
家康が政権牛耳って秀頼が傀儡になってもそれはそれで安泰でしょ?
マジでそれでいいんだよ
秀頼が成人できない場合はもうどうでもいいのが本音でしょ
その場合の後継なんて縁の薄い母系から跡を入れようと摂関家から入れようと
秀吉にとってはマジで全くもってどうでもいい
その時の政権のトップが好きにしろよ
そんなことより秀頼の今後だけはよろしくねって遺言 仮に関ヶ原がなくても、成人した秀頼のヤバさだと大坂の陣と関ヶ原をミックスしたような大乱が起きるだろうな。傀儡や象徴としての存在を理解せず徳川家と対立。 >>948
まあ正直それに関しては、秀頼を徹底管理して洗脳をしなかった家康にも多少責任はあるかと
関ヶ原直後はともかく、将軍就任後位の時点で、大坂城に徳川の息がかかった家臣を
大量に送り込んで『適切な教育』をすべきだったように思う >>945
普通に沢山いる秀次の娘の一人が秀頼の正室で問題なさそうなんだよね。
それと、秀頼は織田の血筋って要素が有るので秀次が息子に無理に継がせたがるのかって
問題もある。
あの場合、織田の血筋が当主の方が絶対安定するからねえ。
そして、豊臣家の古参家臣は殆んど秀次に付けてたので最古参を粛清した形になったと
いうのもある
本当、余計な事しなければ家康の出る幕ないんよね、家康に都合よすぎというか 秀次がいなくなって都合よかったのはむしろ三成ら奉行のほうだろう
家康は秀次とも連携取ってたし東の押さえとして秀次政権が続いていたとしても一定の地位は保てるだろうが
三成ら奉行はお払い箱になった可能性が高いから何らかの策動をする動機は充分あった 信雄改易後の織田血筋なんぞそこまで重要なものでもない
そもそも秀頼に織田血筋の云々言ってるのが後世からのよくわからん下駄を履かせ評価
秀頼の外祖母が信長の妹とかもはや別一族だし遠いからな わが伯父、信長公にさんざん世話になった、三河の田舎大名めが、無礼であろう! 秀頼と千姫の子ができると
浅井長政の3×3
織田信秀の4×4のインブリード >>952
連携というか、秀次の弟の秀勝の妻が江だから、がっつり次世代の縁戚関係だね。
秀次が粛清されたのは朝鮮戦役に反対していたから、という説もある。だとすれば秀次政権になると三成たちは責任を取らされただろうね(実際、戦後に加藤ら突き上げられているが) 三成が武将として糞なのは一次史料からわかるけど、秀吉にとっては忠臣だったのは理解してあげよう 三成は小西と一緒に明との和睦偽造で秀吉の降伏文書を明に提出した
まさに忠臣だな >>958
のぼうさまに水攻めして、返り討ちになった時の話なら、
あれは秀吉の指示だぞ 明に勝てないんだから和睦で済むなら万々歳
文禄の役で自己満足で終えていたら傷は浅かった >>960
秀吉「水攻めの指示は出したけど負けたのはワシのせいじゃなくね?」 関ヶ原見る限り三成は糞だぞ
慶長5年8月に真田昌幸宛石田三成書状
「内府は上杉や佐竹を敵にしてわずか3万で20日もかけて東海道を上るだろう。街道筋の面々や上方衆は内府次第とはいえ
20年来太閤様の御恩を被っていたから内府の懇切で心変わりしたり、秀頼様を粗略にしたり、大坂の妻子を見捨てることが
できましょうか」
「分別の無い軍勢(東軍のことか?)を尾三で討ち取るのは、天の与えです。そうなると会津、佐竹、貴殿は袴をはいたまま
関東に乱入できるでしょう」
「家康ほどの者10人上り候共お心安かるべく候。討ち果たし候よりこれほか他事これあるべからず候」
佐竹義宣宛三成書状でも「万一、内府がうろたえて上洛するようなら尾三国境で討ち果たします」とかあるし
それと、同じ書状に妙な記述もある
「会津から何度も連絡があり、伊達最上相馬なども昵懇であり、内府を討ち果たすのはこのときだと思います」
伊達や最上が上杉の味方とか書いてるんだけど
どうなってんのこれ?
書状が8月7日付だから情報としてそれ以前に入ってきたんだろうけど、その時点で伊達はもろに上杉に敵対してたはずだが
これだけ無能だと救いようがない
まるで危機感が無いし 書状では調子いいこと吹かすのは多くの大名もやってることなので… 問題は8月上旬の時点でこんなこと書いてること
伏見城で余計なタイムロスしててよくこんなこと書けるな
しかも尾三で迎え撃つって、清州はどうする気だったんだ…… しかも袴を履いたまま関東乱入って
これは楽々と乱入できるでしょうとか言ってるわけ?
いくら何でも家康なめすぎでしょ?
家康が四方に出した書状でこんな楽観視した書状なかったはずだが 味方してもらうために調子いいこと書いてんでしょ
ちょっと前出てた宇都宮国綱改易時の佐竹宛の書状もそうじゃん
俺の口利きで赦免されたよ全部うまくいくよ
とか言っといて政敵の動き次第では面倒なことになると認めてる >>965
自分で書状全文読めば分かることなんですよ >>963
ポジショントークってご存知ない?
別に三成に限らず誰でもやってること
そんなことも知らんで史料読んでもまともに理解できんでしょ
あと8月6日付真田宛三成書状の最初の部分の訳も間違ってますよ
「内府は上杉・佐竹を敵に回し、わずか三万の人数で15もの城
を抱え、更に二十日の路程を上洛などできるものでしょうか」 ポジショントークというけど、家康はこんな能天気な書状出してたか? 武田信玄、上杉謙信もやってるし情報手段が乏しいから書状だと書き放題で面白いと思うか嘘だらけと思うか 結果的に、三成たちが軍事クーデターなんて決行したものだから、豊臣家には天下を運営する能力が無いことが証明され、次の徳川政権の誕生を促した。
これは、西軍が勝っても豊臣家に関する部分は一緒なんだよな……
こういった部分は、三成たちは考慮しなかったのかな。それとも、考慮はしてたけど、軍事衝突は避けられなかったのかな。
小説なんかだと、考えが浅い三成たちが家康の挑発に乗ってしまったと描かれることが多いが。 三成は単なる一司令官で西軍の指揮権なんてない
にも関わらず西軍総大将みたく扱われてその苦心が真田昌幸宛書状に出てるというだけ
真田昌幸は三成が挙兵したからと徳川に反旗を翻し更に三成に「何故挙兵計画を教えてくれなかったのか」と不満を伝えてた大の三成贔屓、これが実は三成もなし崩しで西軍に与したんですなんて話になったら白けられるですまん
昌幸領は東軍勢力に囲まれてるから強気の発言をして味方にしないと裏切られたら詰みだからね 西軍の基本戦略そのものからくる部分もあるよね
要は徳川は上方の挙兵で疑心暗鬼になるので容易に動けない
伊達最上相馬が実際に西軍に味方してるかは関係なく「敵対するかも知れない」と家康が思えば動けなくなる
家康以外の諸将も迷うからその間にうまいこと言って取り込んでく
いくつかの大名を取り込んで関東攻めの流れを作れば日和見の連中も附和雷同する
という読み
真田への手紙はまさにうまいこと言ってるとこ 良い面だけ伝えて悪い面は教えませんってのはまぁよくある話 早く助けに来て!でないと私の城は落ちあなたのこれまでの尽力も水の泡になってしまいます
と正直に言った人もおりました
当然城は落ち自刃しました(合掌) 三成の場合諜報能力も殆どないのに対徳川の最前線にいてにも関わらず輝元は兵を送ってくれないという可哀想過ぎる立場 岐阜城陥落を聞いてすでにトカゲの尻尾切りに重心かけてるからな>輝元
輝元「奉行にだまされた!」
三成「輝元にハメられた!」
奉行「つかえねー奴らめ!」
茶々「どいつもこいつも口ばっかり!」 大名クラスが西軍に寝返るってことは起きなくとも反当主派が騒ぎ出すことは起こり得るし実際起きてるからね前田とか
小火がデカくなる前に試合を終わらせた家康の勝ち 三成の書状がポジショントークというのもわかるんだが、
その後の行動とかみるとマジでそう考えてたとも思えるんだよな 希望的観測に縋らないと決起すらできない状況の割にはよくやった方では
会津征伐軍から離反者が相次ぐか上杉が損害度外視で動くかしてくれないと
家康を止める手立てがない 三成が最初から西軍決起を知っていたら根回しも出来たかもだが
知らんうちに決起されたら打つ手は無い
信幸が徳川についたのも痛いんだが 三成も奉行も毛利も家康がいなくなってチャンス到来と決起しただけでそんなにスタート時点は変わらないだろ
史料上の時間差はほんの数日でしかないわけで >>985
実の所、予想外のチャンスがころがって来た時、直ぐに食いついた方が良い結果が出る事も
良くあるんよな。
相手が想定してないからこそ、奇襲が決まると言う事もね。
関ヶ原戦役で行くと最初の難問は毛利が乗るのか?になる。
家康は奉行衆の挙兵読んでただろうけど、毛利が西軍に付く事は予想してないかもしれない。
なら、毛利が動くなら大博打も悪い判断ではね むしろ毛利の火事場泥棒こそが考え無しに幸運の女神の前髪掴みに行った例だから
そして大失敗
地アタマが問われる 言っちゃ悪いが家康と輝元じゃ武将としても大名としても人間としても格が違いすぎ
当時の家康相手に動揺をもたらすような総大将はそれこそ信長秀吉クラスじゃないと絶対無理
毛利なら生きていれば小早川隆景が辛うじて近いがそれでも遥かに格は落ちるし
隆景なら奉行の話に乗るような愚かな真似はせずむしろ家康と連携して奉行排除に動いたかも知れない
輝元など逸話レベルでもろくなエピソードがなくしかも奉行からしたら操りやすいと思ったのかもだが
形勢不利と見るや挽回の努力もせずあっさり味方を裏切って敵に媚びる卑劣な性根の持ち主
こんな日本史上最低の小人を動かしたからって勝てると思い込んだ奉行どもの愚かさが後に残っただけ そんな全能感満載な書き方どうかと思うが
言われなくても分かってたでしょ
権力を失ったor失いつつあった立場の人間がクーデター起こしたのであって
負けた側を無能、愚かと断罪するのは簡単 秀次、隆景、久太郎、氏郷が生きていれば、ずいぶん変わってきたでござろうの? 太閤死後、毛利は誰が見ても迷っていましたからね。
徳川に臣従しても、120万石の大所領を安堵されるか不安に思うのは当然ですし。
だからと言って、徳川討伐の挙兵を行なう決断も出来ずでずるずると。
だから、家康は毛利はあの段階でも挙兵しないって舐めてたのではないのかね。
会津征伐に呼応して挙兵が起きても、毛利が乗らないなら近畿の複数の城で挙兵した大名が
籠城抗戦するのみって予想では。
毛利が大阪城まで出て来る予想はしてないと思われ、なら流れに乗るのも悪くない >>988
輝元は家康には劣るが相当な名君、名将だぞ
恐らく小早川隆景や毛利元就に匹敵するくらいの人物 毛利元就は軍事才覚が頭抜けてるからな
並べていいのか? 大友に元就両川のオールスターでボコボコにされ秀吉に両川でボコボコにされたのに隆景単独でどこまで求心力があるだろうか
指揮官としてはそこまで大物とも思えないし >>994
そんなこと言いだしたら、織田軍の援軍無くして武田に手も足も出なかった徳川は大物なのか? 信玄という不世出の名将を相手にしてあの程度の損害で済ませた怪物だろ
近い時代の史料では三方原の損害1000以下だし後から損害が増やされていったけど現実として上級武将死んでないし信玄存命中に奪われた城をいくつも奪回する程度の打撃しか受けてない 家康ほど矮小でつまらない人間が最終的に天下を盗ったのは日本の歴史でもこれ程の不幸はないよな レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。