石田三成の挙兵 ★5
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>>749
というか、史料って確か梵舜記だったよね
大谷は浅井畷の越前工作やってそれから京都に引き返して
豊国社まで参拝したのか
かなりハードスケジュールだけど、病気の身でよくやれたもんだ >>750
白峰氏は「社参」と書かれてないので大谷本人ではなく代理が参詣したのではと言ってるけどね
北政所は社参と書かれてるから本人が参詣してる >>750
大谷吉継は別に病気でもなんでもなかったというだけでは
あいつ伏見城攻めの時島津と深酒をして二日酔いになったわとか書状に書いてる
病気で苦しい時にまして命懸けで友人を救いたいってやつが深酒するはずもないからこの時の吉継は元気溌剌としてたんだろう >>741
東軍の行いにも文句をつけてないじゃん
つまり西軍にもとうぐんにも同じように接した
なのに西軍に味方したとか言い張るのおかしいな >>742
豊臣公儀が実際にどうなっているかなんて大坂に行かなければ分からないのだから
家康が大坂に到着した時点から判断されるんだよ
西軍が豊臣公儀だとか石田・毛利連合政権だというなら大坂に来た家康にそう言えばいいだけ
逆に家康に何も言わなかった以上は公儀でも政権でも何でもないということ ずっと下らない話してるな
西軍が公儀だったと想定して何か意味があったか?
公儀なら伏見城が数日で降伏してくれるのか? 多分、西軍は豊臣家のために戦い、豊臣家もそれを支持した。ということを証明したいんだと思う。
しかし、西軍が負けた時に豊臣家は三成たちを庇いもせず、見捨てたんだよな…… 公儀性で言えば家康>北政所>淀は確定してるんよな
家康が公儀 >>757
それは乱暴だろ
豊臣公儀は家康がトップではあるが、独裁者ではないんだから、
大老・奉行その他大勢含んで豊臣公儀。
公儀が分裂して、東西に分かれた、どちらが正統か決める権威が誰にも
なかった、と解釈すべき。
そもそもトップを決めるルールも無いし、意思決定ルールも決まってない、
ふわっとした組織が豊臣公儀なんだから、ペーパー上でどっちが正統か
決めるのは無理。
北政所や淀は公儀の組織上、いかなる意思決定権限もないし、
アドバイスを求められたこともない。
よって、北政所や淀が東西どちらかを支持しても、豊臣家が支持している証拠
にはなっても、公儀としての正統性の証明にはならない。 秀頼と家康は上下の関係でしょ
で、幼少の秀頼の代弁者として北政所も茶々も奉行も、家康も振る舞っている
代弁者たちが好き勝手に違うことを主張して争うかたちになったときに
本来摂政である家康と利家が責任もって見なきゃいけなかったんだけど
その体制が機能しなかったわけだよね 西軍が豊臣公儀なのは疑う余地はない
ただ日本人は「公儀は負けない」「公儀は正しい」って謎の観念があるから何故豊臣公儀が徳川に負けたのか理解できないってだけ
秀頼筆頭に豊臣公儀が実力以上の事をしたら負けて滅んだという話で大しておかしな話じゃない 野党が首相の外遊中に国会議事堂と皇居を占拠して与党欠席のまま内閣を罷免した的な感じ 挙兵直後の書状を見る限りは、石田大谷、それに毛利の連合軍あるいは連合政権軍と
認識されていたみたいだがね 特に公儀としての実績がないからな
光秀ですらやってた朝廷工作すらない >>758
クーデターを起こした側と起こされた側が同等だというのはおかしい 毛利と宇喜多が島津に出してる武器兵糧
あれ書状では公儀が出すと言ってるけど、誰が出したんだ?
豊臣か?
あるいは毛利と宇喜多か? >>766
同等とは自分も思わないが、公儀性がゼロと断定するのも難しい
西軍首脳部は間違いなく豊臣政権における大老・奉行ではあるので
一定レベルの公儀としての立場はむしろ持ってもらわないと困る
ただし、いくら彼らが少々団結した所でその力をもって直ちに徳川を政権から
排除出来るかと言われれば、やはり疑問が残る(あくまで公儀性は徳川>その他だと思う)
自分は西軍公儀説を全否定まではしないが、この論を唱える人たちが
しばしば結論とする『西軍による家康の公儀性の否定・消滅』はやはり受け入れられない >>752
何でもなくはないだろ
文禄3年10月1日付直江兼続宛大谷吉継黒印状
「眼相煩候間、乍慮外印判ニて申上候」
とこの頃から眼病を発症しており、これ以降の吉継発給書状は全て黒印が使われている
慶長4年10月2日付島津忠恒宛大谷吉継黒印状でも
「近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候」
と言ってるので、眼病は最後まで治ることなく患っていたと思われる
眼病なんだから寝たきりとかではないし、不便は感じても移動や飲酒は可能だったというだけ 三成たちは自分が公儀だという自己暗示にかかっていただけ
三成本人は死んでも解けないほど強力な自己暗示状態だったが
他のほとんどの人間はすぐに解けて公儀でも何でもないことに気付いた >>762
野党じゃないだろ
総理大臣不在時に、総務大臣と財務大臣と官僚が武装ほう起した、ぐらいだろ 余り知られてないけど大津城降伏の一件では単なる使者だった新庄直忠が改易処分を受けてる
高野山の木食応其が追放、使者が改易で主犯の北政所・淀君が無罪放免なのは異質に見えるけど北政所は小早川秀秋が東軍に属したからその取りなしで許されたんだろう
淀君は秀頼の母だから見逃された
それだけだったのにまだ自分たちに威光があると思ったからあんな最期を迎えることに 西軍はプライドだけは高いので、どんな些細な場所でも言うことを聞かない奴がいるのが許せない
だから畿内各地はもちろん四国や九州だろうがしらみつぶしに兵を送り込もうとする
そのため東軍が美濃に入っているのに各地の城に兵を送り込み続けて
決戦場所でも何でもないところで北政所・淀の名前で権威を振るったつもりになっている隙に東軍本隊が攻め込んできて終了だからな
いくら奉行が戦を知らない素人でも酷すぎて諸大名に見限られて当然だろう >>768
双方公儀を主張したのは間違いない
結果きた方が残り認められた
公儀性などという微妙な要素を想定する必要がわからないな >>766
前の年の7将蜂起時点で徳川のクーデターといえるからねえ。
まああそこで合議制が完全に崩壊したんだし伏見城占領してる徳川軍の方がクーデター軍だよ 七将は三成に対して訴訟を起こしただけ
ブチ切れた三成が兵を集めて襲撃を企てたので奉行をクビになったに過ぎない
合議制も秀吉はそんな指示を一切出していないのに奉行連中が勝手に捏造した
家康としても奉行の捏造には付き合えないので無視するのは当然だろう 強訴ってのはようは武装蜂起。実際少なくとも浅野幸長が伏見を包囲してる。 合議制を強要したことで秀吉の遺言の価値の低下とともに公儀の威信も豊臣家の権威も低下した
武力の価値と徒党の価値が増したからこその集団訴訟だっったんだろう
合議制導入でタガが外れたが、そのために合議制は潰された というか西軍は挙兵後の行動が酷すぎる
周りと連絡を取り合うのは当然なんだけど、なぜ素早く行動を移さないのか
伏見城などは短時日で落とす、無理なら抑えを残して進軍する
とにかく尾張と美濃、うまくいくなら三河か遠江あたりまで進出して、あちこちに堅固な陣を作り持久戦に持ち込む
秀頼という玉を抑えてるのは事実なんだから、秀頼をその上で無理やり出陣させるとか、
秀頼の花押を使用して調略するとかやることいくらでもあるだろ
なのに伏見城落城は8月1日。三成が大垣城に入城したのが8月9日
この時点でこいつら何してんのというような状態 豊臣弓鉄砲隊や秀頼馬廻衆使って東軍に何の影響も無いんだから秀頼の価値がそんだけ低いってだけでは? そもそも豊臣軍ってそんなに強かったのかね
秀吉は九州征伐あたりから諸大名に戦争を任せるようになって、小田原征伐なんか徳川、上杉、前田あたりが働いてるし
朝鮮出兵でもこれといって豊臣軍は参加してない
秀長が亡くなり、秀次もぶっ殺して一族の所領や軍隊は自分から解体したし
豊臣七手衆ってそんなに強かったのか? 銀河英雄伝説のラインハルトの艦隊は最初は無敵だったけど使える連中を前線に抜擢しまくって補充の教育が間に合わなかったのか
バーミリオン会戦では同数でヤン艦隊にボロ負けして途中参加したミュラーに外から奇襲してもらって兵力でも優勢になったのに崩せなくて二人そろってボコボコにされてたな
豊臣本軍も優秀なのから大名などに抜擢されて抜けていくからこんな状態になっててもおかしくない 三成や輝元は秀頼を抑えて公儀を称したら勝てると思ってたんだろうなあ 輝元としては岐阜城と大垣城で家康食い止めてる間に瀬戸内に根を張るつもりだったんだろう というか秀頼の威光で東軍動揺して一丸になって上洛とかないと見てたんだべ? 秀頼というか、奉行が秀頼担いだ豊臣公儀にそれだけの権威があると踏んでたんでしょ 東軍中核の諸将は徳川家康と縁が深いから豊臣公儀を持ち出しても動揺が無い
ただその下の連中、主人に不満を持ってる連中まではわからんからね。「あいつは太閤の恩を忘れ、秀頼さまを裏切った」と反旗を翻すかもしれない。前田家でそんな話があるし
まぁそんな甘い統制してる家が無かったのが意外だったかもだが 秀吉がそんなに慕われてないんだからそう考える人あんまりいなそう 秀頼を手中に納めても、やってることが私欲丸出したから嫌われただけなのかな。 >>788
前に史料示したけど、西軍の自信は人質を取っているから
そんだけなのよ
最初から最後まで >>795
どこで愛妾の知識を仕入れたん?
教えてほしいわ 実際どうだったかより家康をはじめ東軍諸将からどう見えていたんだろうな
戦勝後大坂城に入ってから秀頼周囲や北政所が何やってたかは逐一わかっただろうし
女子供のことだから咎めだてはしないと「和解」したかのような話聞いたことあるが史料的根拠あるのかな
その文脈だと淀殿ら(北政所も?)が家康に敵対する行動をとったかのように認識されていたようにも思えるが 北政所愛妾説をはっきりさせないことには話が進まないな その文脈やら認識とやらは何を元にしてるんだ?
咎めだてしないとされた行動とは具体的に何?
すでに観てきた通り北政所、淀、秀頼いずれも
西軍にお墨付き与える文書や下賜の記録はない
豊国社参拝は他の期間にも行われてたし期間中のものも
東軍調伏や打倒東軍を祈念したものとは確認できない
北政所は大津城に対して第三者による「仲裁」である
「扱」をしておりこれを西軍としての
「命令」「降伏勧告」と取るのは根拠のない曲解 いやどっかでそういう話を読んだか見たことあった気がするから何か根拠あるのかなと思っただけ
なんの根拠もない逸話レベルなわけね 慶長5年8月18日付下地右衛門宛来杉氏秀書状に以下のようにある
8月1日に伏見落城し、秀頼が「京都御仕置」を残るところなく仰せつけられている
家康に一味立てする奴らは上方の様子を聞いて、みんな逃げのぼっている
秀頼が仕置を仰せつけたというのがかなり重要
つまり、秀頼の意思が働いていた、そして西軍は秀頼を擁した正式な公儀だったということでは? >>802
来次ね
白峰氏はその書状を大きく捉えてるが、出羽にいた景勝家臣の一書状だからなあ
そこから氏はほかの史料使いつつ発展して、家康は軍事指揮権を喪失していた、大坂城の受け取りは豊臣諸将であり家康は勝者ではない、と論文に記している
どうかね 西軍が公儀を称してたから(秀頼が)仕置を仰せ付けられたとなるのは理解できるけど
あくまで便宜上のことであってガキの秀頼の意思が働いてのことだとは誰も思わんよね
「伏見城ニ鳥井彦左衛門尉与申仁、人数弐千計ニて相籠候、罷出ハ被相助候て、
自然ハ物かへにも可被成と思召、様々御理候へ共、合点不申て、先月廿三日ゟ人数
四五万ニてとりまかれ、此朔日ニ落城ことことく討果、京都御仕置無残所被仰付居候事」 >>802
秀頼(主君)のクーデターだとしても東軍に勝つまでは正式ではない >>798
北政所については小早川秀秋が東軍に属したから罪を免じた
それは八月二十八日の浅野幸長らが秀秋に宛てた書状から間違いない
淀君に関しては秀頼の母親なので罪に問うより許してやって政治的な影響を狙ったんだろう
どのみち豊臣軍は実質解体状態で徳川の天下は防げないし >>803
家康が豊臣公儀から軍事指揮権を奪われた事と諸将が豊臣と徳川どっちを選ぶのかはまた別問題だしなぁ というか秀頼の名義で何らかの命令が下ったならその文書は残るよね?
蜂須賀改易の時の伝聞の秀頼がけしからんと言いましたとかじゃなく キリスト教側の記録では「石田三成らは完全に天下の主となり、極めて大きな権力を手にするに至った」とある
つまり三成や輝元ら西軍が政権主宰者
家康は反逆者である
要は家康は反逆者という立場を力で覆しただけ 現代でも中国や北朝鮮の言い分を信じて日本政府を叩く人も多いからな >>811
確かにロシア中国韓国北朝鮮の言うことは
まるで信用ならない 秀頼の意思云々は言ったもん勝ちじゃないの
家康の会津征伐だって秀頼からの書状は何もなくて「秀頼さまが言った」だけじゃない?
それで通ってたんだから西軍の「秀頼さまが言った」と言うだけで秀頼の命令として機能してたことになる。現に蜂須賀・生駒は改易され反逆者は処罰されてるんだし 前に誰かが書いてたが敵と味方、好きと嫌いって別々に考えれないのは発達障害の特徴とか言っててなるほどとは思った
二極の対軸でしか思考できない人にとってはどちらかが善ならもう片方は必然的に悪になるんだよね
両方が悪いとか良いとかの概念自体が理解出来ないらしいから善悪の結論付けをしないと精神が崩壊するらしい
だから暴れるんだとさ >>813
「秀頼さまが言った」の根拠は?
めかけくん 三成は忠臣だったけど結果が出せなかった
結果が出せなかった人間の後年の評価は哀れだ 西軍が言ってるんだからそうなんだろう
秀頼が従前から朱印状で命令発してたなら徳川も西軍もそれを持ってるはず
そうしたものが無いなら豊臣公儀ってのは実力者が秀頼さまが言ったの一言で政治をしていたってことになる。一見豊臣家の力が強い様に見えるが実態は大坂城に兵を入れた奴の勝ち 宇喜多秀家は慶長四年九月六日に家康から伏見に移動するよう命令され、秀吉から秀頼を守れと遺言されたと抗弁するも聞き入れられず伏見に移った。また北政所も同月二十六日に大坂城西ノ丸から京都新城へ移動させられている(西ノ丸には家康が入る)
豊臣贔屓の皆さんはこれを家康の天下簒奪の証拠として捉えてる。家康は秀吉の遺言(在伏見三年の遺言)を反故にするべく秀家を伏見に送り、また豊臣を支配するべく淀君には再婚を要求して拒否されると不義密通のスキャンダルを流し
北政所は北政所派の宇喜多秀家・小早川秀秋を北政所ごと伏見に、浅野長政は流罪にして影響力を削った
これに怒った豊臣は家康の天下簒奪を阻止するべく関ヶ原の振舞いに及んだ、と >>816
そもそも三成は関ヶ原の前から忍城や幸州山城の戦いなど失敗しかしていないのだから
それよりも規模が大きい関ヶ原で都合よく結果が出るわけがない
三成が本当に忠臣だったら失敗続きの自分が結果を出せるはずがないと冷静に分析して関ヶ原に手を出すことなどしない 秀家については島津義弘の国許への第一報でも三奉行、石田大谷小西、輝元と並んで名前が出てる
なので挙兵当初からの首謀者の一味だというのは考慮すべき
宇喜多騒動は秀家が側近を重用してこれまで執政してきた重臣たちが反発したものだが
秀家としては自分に刃向かった重臣は処断したいところを家康の裁断で国外退去で済まされた
この辺の流れも関係してるんじゃないかね
>>817
まさに西軍はそう思って挙兵して秀頼様が言ってるで従うと思ったんだろね
もちろんそれで諸将さら信用されたり服従を受けたりするほどに甘くはなかったけど たまには石田擁護派からの家康叩きもなるほどと言えるような意見が欲しいんだよね
現状は家康が叩かれるほど株が上がってるんだよな… >>820
実の所、史実の流れはよく見ると危ういと思うんだけどね。家康が一度江戸に戻った後で
東海道の豊臣恩顧を国元に返した事を考えなよ。
あれは、あの時点では豊臣恩顧大名に離反する物が出るかもって警戒してたんだと思うんだけど。
一度家康の本体が東海道に出た後で退却する事態になれば戦闘が無くても政治的には敗走と
同じ事に成りますので
岐阜落城までは混沌としてるし、あの段階で西軍本体が尾張まで出てれば家康は如何したのかな。 >>822
考えなよってw
何で考えてない前提なんよwww
離反は家康も想定してた
でも東軍先鋒は高い士気を維持したまま攻め上った
武力で幼君を抑えときゃいいんだろ?的な考えは通用しなかったてこと 仮に東海道の東軍先鋒諸将に離反が出た場合どうなるかという想定で言うと
離反する大名家がどの程度になるかによるとしか言いようがない
・離反武将たちが東軍を圧倒する規模であれ
東海道への救援は間に合わず伊豆(と甲斐)で
防衛ラインを引くことになる
・東軍西軍が拮抗した場合双方が援軍を送り合う
・東軍優勢の場合さほど史実と変わらない
前二つの場合長期化があり得る
それがあり得たからこそ家康は警戒して岐阜陥落まで動かなかったし
西軍も別の戦線に力を入れて勢力圏を伸ばそうとした 石田三成は忠臣だったが、結果を出せなかった
結果を出せなかった忠臣は害悪である >>825
秀吉の忠臣だった三成には大いに意味があります いや秀吉公儀ではなくやはり豊臣公儀なのよ
秀吉は絶大な権力持った独裁者だったけど
その権力を公儀たらしめたのは
朝廷を巻き込み関白位や豊臣賜姓で権威づけして
天下の諸侯を武家官位や公家に倣った家格で統制したからこそ
「うるさいワシは偉ぇて強いだぎゃみんな従え」
とか欲望剥き出しで周囲に迫っても
その場は屈服させられても無理を通すたびに影響力を失い
権力を維持することはできない
その意味で秀次事件はせっかく政権が積み上げた
公儀としてのロジックをわざわざ否定する暴挙
そして幼君を暴力で制圧したら自分らが公儀
という西軍挙兵もまた同様
「豊臣公儀」はそれによって無価値で無用のものと成り果てる >>830
秀吉って独裁者かな?
豊臣家以外にはあまり
命令出来ないのでは? 秀吉の弱点として自分の権勢が天皇、朝廷に依るものだからその意向を無視できないってのがあるんだとか
文禄の役では天皇に渡航を止めるよう要請されて結果手詰まりになってしまった >>831
徳川を関東に転封できたり、仮にも内大臣だった信雄を転封拒否を理由に追放したり、
関白だった秀次を死に追いやったり、右大臣だった菊亭晴季を流罪にできる程度には
独裁者だったんじゃないの? 慶長5年7月17日から9月25日までは、西軍が豊臣公儀だった
家康はその豊臣公儀に逆らった反逆者
関ヶ原で勝利したことで反逆者で無くなっただけ >>835
反乱軍である西軍がそう思っているだけだな >>835
「俺が先に言ったんだから俺が正しい」「最後に発言した奴の勝ち」というニートの理論は西軍に通じるよな
結果が出せないやつの共通項 >>835
西軍が豊臣公儀だったという言い方自体がおかしいんだよな
三成たちは西軍を作ろうとして蜂起したわけではない
豊臣公儀になろうとして蜂起したが、公儀よりも格落ちした西軍でしかなかったという言い方が正しい >>836
現実には、前の年の前田利家死去からの7将蜂起、そして国元からの増援を勝手に伏見城に
入れた時点で徳川のクーデターだぞ
公家の日記に「天下様になった」と書かれてる様に豊臣家第二の城塞が徳川軍に占領された
んだからね
そして、その横暴に豊臣家が何も出来なかったので徳川のクーデター軍に伏見城が占領されて
其の儘というのが正しい
西軍は、直接的には徳川のクーデター軍排除「だから最初が伏見攻め」を目的に挙兵してるし。
実際、西軍勝利なら資料に徳川の謀反軍排除したと書かれたろうさ >>839
合議制を導入しようとした時点でクーデター
秀吉の遺言を無視したんだから >>839
つまりは家康が豊臣公儀だったということやな 政治は家康で家中は利家にザックリ託してたんじゃないの
船頭2人要らんから伏見と大坂で棲み分けさせてた体制やったからな 豊臣も参加してる以上西軍は公儀を名乗れる
ただし公儀の力は絶対じゃないというだけ 西軍は「公儀」や「天下御仕置」を自認する書状を多数送っている一方で
東軍はそういう正当性を主張する書状は一切出してない >>845
物は言いようだが
東軍はそもそもどっちが公儀とか気にする立場ではないやん。何故なら東軍こと上杉討伐軍は豊臣政権筆頭徳川家康が率いておりまた豊臣政権の武力行使として結成されてる。正当性を主張する必要は無い。
対して西軍は単なる反乱軍なので、この挙兵が豊臣公儀への反乱では無いと主張しないといけない。
その差なんじゃないかな。尤も、豊臣公儀とは関係ないところで決着がついてしまったが。 >>845
そりゃあそうでしょ、家康の本音は明らかですし。
豊臣家の権威を強める様な行為をするはずがない。
徳川の権威は武力で支えられてるんであって、豊臣家の支持ではないもん。
豊臣家の支持が必要と思ってるなら、形だけでも合議制維持するでしょ。
家康一人の花押の文書の権威って、徳川の武力以外の裏付けあるのかい 徳川の権威は秀吉から推挙された公武唯一最高の内大臣という官位
秀吉から託された政務担当及び唯一秀頼と結ばされた秀頼との縁戚関係
これだけの根拠に基づいてるんでただの武力などではなく立場として既に正当性がある
西軍の連中は権威の根拠として上記いずれも家康に遠く及ばず
秀頼と大坂城を占拠したことによる公儀性の強弁で明らかにクーデター軍 西軍が政庁を占拠したから公儀と呼んでもいいって説もあるけど
その説に寄っても西軍は軍事クーデタをした側なので積極的に正当性を主張しなければならないってのは言われてる
また西軍が公儀を主張しても東軍の公儀性が失われるわけではなく、家康指揮で一本化している東軍はことさら「公儀」と書状に書く必要もなかったって事も同様
白峰先生発の西軍の公儀性は認める学者はいるけど、東軍の公儀性が消失したとの見解は違うからね むしろ西軍こそ依拠しているのは大坂城を占拠したという武力だけ
家康の内大臣を褫奪することもできておらず朝廷からも認められてるとは言えない
豊臣家及び秀頼だけが権威の源泉でここさえ押さえれば天下だと思い込んでいたんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています