石田三成の挙兵 ★5
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大河ドラマとかだと余り注目も見向きもされないと思うけど
山岡景隆の弟の道阿弥(景友)って何者?
書状とか見てると、こいつ島津氏の書状にも出てるんだけど
宇喜多氏関係にも名前あったし
こいつ家康の調略担当? >>3
その書状に出てくる流干(卜斎記によると薩摩出身の目薬屋)のがメインっぽいけどな
山岡氏は伊賀越えのときに信楽まで家康を護衛したということになってるから、その縁で近くにおかれてるのかもしれないよ
甲賀衆も任されてるが、だから忍者だーといい出すともはや講談だと思う 三成と上杉の密約って現在では否定されてるけど、やはり三成は何らかの連絡はとりあってたんじゃないの?
例えば佐竹義宣の書状(慶長5年8月7日付)
「去月23日」に常陸をたった飛脚が大坂へたどりついた
「去月26日の書状も佐和山で確認した」
義宣が三成の挙兵をいつ知ったのかは知らんけど、家康が三成挙兵を知ったのは7月23日
義宣が同日に三成挙兵を知るなんてあり得るか?
1日くらいずれてもおかしくないはずだが 西軍方が情報工作で石田三成・大谷吉継謀反を徳川に伝えてるんだし普通にその頃にはわかってたろう。また三成・吉継だけが謀反するなんてあり得ないから当然そこには黒幕もいる訳で三成に近しい連中はそれを知りたがって三成と交信してもおかしくない 慶長5年6月10日付来次氏秀書状は?
春日元忠に宛てたやつだけど
石田三成が佐和山に引きこもって普請してるとか、佐和山を家康に貸与することを拒否したとかあるけど? 上杉や佐竹との密約の証明には使えない。徳川が一切石田を警戒してないことを考察する材料にはなるが 我々凡人が家康を語るのが間違っている
そもそも野心家というものは、傑出した器であり先を見通している
家康が何も考えずに会津征伐に赴いたとか、石田や大谷、あるいは
他の誰かが家康の留守中に何かするとか考えていなかったとか
そんなことあり得ると思うか?
石田や大谷にしても、何も考えずに突発的に挙兵したと思うか?
記録に残ってないだけで、家康は何かあるとは読んでいた
石田らは上杉と共謀していたと考えてよいと思う 石田と大谷あたりは想定してたみたいね
三奉行と2大老が同調するとは思ってなかったみたいだけど
想定以上に敵が増えたから家康は毛利と和睦交渉しつつ裏では全国の勢力に手紙大攻勢かけてるし
岐阜城陥落までの家康は明らかに長期的な分裂状態が到来することを想定して備える動きをしている 家康が三成を怪しいと思っていたら先陣を命令してるはず。佐竹みたいに。また無理矢理佐和山から追い出してしまうってのもできた。それをやってないということは家康は三成を敵とは思ってなかったことになる。寧ろ先陣を命じた佐竹義宣や芳春院を人質にとった前田利長の方が警戒されてる そもそも会津征伐なら、畿内に1万の徳川軍と重臣何人かを置くくらいはできたはず
徳川単独ではなく、諸大名の大連合による豊臣家の討伐という題目も整ってたんだし
1万割いても徳川軍は十分単独でも多い
1万も置いていたら石田らも挙兵はできなかった
しかし置いていたのはたった2000
明らかに誘い水でしょ 家康の侍医の日記に、家康が会津征伐で伏見城に立ち寄った際に不気味な一人笑いをしていた記録がある
なんで笑っていたのかは知らないがね 普通に考えたら予備兵力を置かないのは警戒してないからだろw
誘い水って発想になるのは司馬史観に毒されてるだけだよ 太閤殿下が築いた伏見城を攻撃する阿呆がいるとは思わないだろ 滝川が関東仕置き任されたのは別に
信忠軍団が信忠から離れた証拠にはならんからね
一応それすら分かってなさそうだから言っとくけどw >>15
大胆に誘いをかけるどころか畿内にずっと留められてた家康は上杉征伐を理由に自国に帰ることが出来てホッとしてたと思われる >>14
言うほど不気味か?
「十七日伏見に御逗留、十七日に千畳敷の奥座敷へ出御、
御機嫌好四方を御詠め座敷に立せられ、御壹人莞爾々々と御笑被成候」
かんじ 【莞爾】
にっこりほほえんでいるさま 本当悪の超人徳川家康の思惑通りだった
という司馬史観をもとにしてると
どの史料もその証左にしか見えなくなるんだな 記録から見ても家康は相当自信満々だったみたい。まぁ如何に越後の龍が後継と言っても周囲八方が敵で公儀に勝てる訳が無いから当たり前ではあるが。景勝と親しい利長・義宣には踏み絵を踏ましたけど元上杉取次の石田三成は無警戒なんだよね。上杉との交信が無いから重視してなかったのかもしれん IDコロコロ改行大嫌い妄想誤読くんとアンチ家康嘘つき野郎 昨夜の睡眠夢で安國寺エケーと霊界交信に成功しました。 謙信を越後の龍って当時から言ってたの?
越後の虎じゃないの 景勝と三成が事前に共謀していた証拠は何も無い。史料だとみな西軍決起以降に連絡してる 家康が気に食わない。徳川中心になってくのがムカつく。と言った意味ては利害一致だったんだろうな。それ以外は同床異夢だった可能性が高いけど。
軍事クーデターなんて、ただでさえ弱ってる豊臣秀頼政権に大打撃を与えることは考慮しなかったのかな。 首謀者の大坂三奉行は秀頼の事なんて考えてないでしょう
家康を倒したとして輝元がその代わりになるだけなのは明らかなんだから。三奉行は家康とは繋がり無いけど輝元とは繋がりがあるからそのセンで出世したかっただけじゃないか?家康と遠い縁戚で嫡男が家康に可愛がられてる三成とはそこが違う 豊臣は後先考えずに海外遠征や関白粛清をやってきた
その政権中枢にどっぷりとつかり続けてきた奉行連中だって後先なんて考えるわけがない
今権勢を握りたいから暴れる、1日でも早く奉行に返り咲きたいから暴れる
後で豊臣家がどうなるか、秀頼がどうなるかなど関係ない
そうやって秀吉を手本としてながら刹那的に思いついたことをやっているだけ 輝元は自領拡大が目的だし豊臣家は武力で抑え込めると思ってるから奉行の手引で大阪に押し入った
奉行も前線の石田たちと後方の増田たちとは意思の疎通が上手くいってない
増田や前田玄以から見れば急な挙兵で将来的な展望も共有できていないし時間とともに結束がバラバラになるのは道理
形勢不利になって空中分解の速度が加速して毛利がいち早く脱落したのが史実 >>28
別に挙兵理由が反家康ならそれはそれでいいんだよ
一番嫌なのは、その後の家康の動きをもって西軍の行動を
豊臣御為という言葉でもって豊臣にとってプラスである行動であったかのように
言い出す奴がいることなのよね
検証すると、むしろ西軍を許容してしまうと(挙兵を起こした時点で)
豊臣政権にとってはマイナスというか致命傷になってしまうのに
なんというか、反徳川=豊臣御為という妙な脳内変換をしてる奴がいるというか 反徳川=豊臣御為とか言ってる沼がこのスレに居るのがキツイんよな
YouTubeのコメ欄にでも行ってほしい 戦国の世を生きてきた奴らが、「徳川VS毛利・石田」と見ていたか
あるいは「徳川VS豊臣」と見ていたか、だな
そのあたり公家は冷静に見てる
「徳川家康は大坂城に入って豊臣秀頼と和睦した」と書いてるし とりあえず家康嫌いの連投君はスレ立てもしないから書き込みやめろ >>36
とりあえず家康大好きの連投君は徳川が秀吉の墓所を破壊したことも知らないようだから書き込みやめろ >>37
対豊臣家強硬派筆頭の徳川秀忠は豊臣秀吉からもらった秀の字を捨ててないんだな >>38
下らない話に加わりたくはないんだが秀忠は不思議だなとずっと思ってた 当時朝廷も諸大名も認めた公儀に対して反乱起こした家の家祖を麗々しく祀るなどありえんだろう
アンチ徳川が好きな朱子学イデオロギーで言えば逆賊の家なんだよ豊臣家は 西軍のクーデターが豊臣軍と見なされていたなら、もっと大問題で、天下を安定させるべき責務がある豊臣が、自ら軍事衝突招き天下を不安定させたことになるからな…
血統による支配権の譲渡の唯一の利点を打ち消してるわけで。 >>35
それが冷静な見方なの?
西軍のプロパガンダを鵜呑みにしてるだけじゃね?
九州や東国の東軍大名はあくまで秀頼が
知行宛行をする前提で書状出してるってのは
ここでも指摘されてたけど
どちらかが冷静でどちらかが興奮状態とか言えるの?
そう判断する根拠が不明なんだけど 白峰氏の言う通り豊臣は西軍に就いた、もしくは豊臣こそ西軍の首魁だった。でもそれは東軍には影響を与えてない。東軍は徳川家康を主君と仰ぐ者達で秀頼は形だけの主人に過ぎなかったから。だから東軍諸将は家康の指揮で動いていて秀頼の指揮では動いてない。つまり諸将が奉公するのは家康で御恩を出すのも家康。秀頼はまぁ、御恩の担保みたいなもんだ 家康との対立はともかく、利家とも不仲
恩顧とは険悪で淀との接点も薄い
これだけで考えると、三成こそが豊臣の異分子だったように見える
秀吉の寵臣以上にはならなかったのか、なれなかったのか 西軍は家康が関東に釘付けなりさえすれば本望だったのではないか
先遣隊に岐阜城を落とされた時点で命運は尽きた まさか西軍がそんな、って感じるけど考えてみるとやれるからやっちった!で大失敗した明智光秀さんとかもいるからね… 豊臣政権の公儀性を担保してたのが関白or太政大臣という官職だとするなら
秀頼を抱き込んだだけじゃ公儀にはなれんよね
「室町殿」みたいに、羽柴宗家家督=天下人とする図式は秀次事件で壊れちゃったし >>49
官職で支配してたのも全部ぶっ壊しちゃったんだよなあ
だって頂点であるはずの天皇の代理人関白を処分しちゃったんだから
豊臣関白の権威なんて地に落ちたよね >>50
そのわりにゃ近衛信尹なんかは徳川の専横に憤ってたりするからなあ
現代人の感覚で捉えるのは危険だと思うよ 豊臣政権の公儀としてのあり方は
官位による武家の家格付けとか
積み上げてきた理屈があったけど
それをわざわざ壊してるんよね
実際その直後の御掟はそれまでは
諸大名に命じる立場になかった
大老たちの名義で出されてる
遺言にいたっては公儀としてとかじゃなく
ただただ息子を取り立ててくれという
秀吉個人のお願いでしかなくなった
西軍蜂起後は「秀頼がけしからんと言った」
で改易というとこまで後退する でっかい光秀でしかなかったんか、秀吉くん
何だかんだ言って行き当たりばったりだもんな
永続的な統治機構を完成させちゃった徳川が変態なのか 西軍は人質をとって絶対有利のはずが、細川ガラシャの死で狂いが生じた 戸田左門覚書では「家康は秀頼や淀殿と和睦した」とあるから、豊臣家に反逆していたことを
徳川家康の家臣が認めている
簒奪者家康 >>54
あんま知られてないけど人質作戦自体は続行されてるんだよなぁ…罪深い話だ >>55
わ‐ぼく【和睦】
〘名〙
@ 人々がなごやかな気持で、親しみ合うこと。なかむつまじくすること。和合。かぼく。
※家伝(760頃)下「上安下泰、鬼神和睦、乃国乃家、爰労爰戮、忠貞籍甚、其人如レ玉」
※十善戒相(1774)「家も和睦し、四海も泰平に、草木まで花果うるはしき」 〔春秋左伝‐成公一六年〕
A 仲直りをすること。争っていた人や国が、争いをやめて親しくすること。和解。講和。かぼく。 そもそも三成の挙兵が予想外って、家康は全く予期してなかったとでもいうの?
光成も渡邊も専門家はみんなそう言ってるけど
Enpediaにあった「霜女覚書」
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E9%9C%9C%E5%A5%B3%E8%A6%9A%E6%9B%B8
細川忠興が三成が挙兵するのを読んでいて、家康は読んでなかったとかあり得ないだろ
しかも、7月12日の時点で噂になってたということは、既にこの時点で畿内ではもう三成らの動きが掴まれていたことになる
それで家康は「ヨソウガイデスー」とでも言うつもりか?
家康は絶対に何らかの動きはつかんでいた
だから逆用したとしか思えない
家康の「天下の謀逆が露見した」と光成氏も言ってるし まず霜女覚書は関ヶ原後に書かれたもので西軍=石田三成軍で書かれてるからそこをしっかり呑み込まないといけない
次に細川忠興が考えたことが正しいかなんて誰にもわからん。証拠も無しに謀叛だとかいえない。史料上家康は三成が挙兵するとは思ってなかったのは確か。もしそうなら三成を先陣にしてるわな >>59
そんなこと言いだしたら「当代記」も「板坂卜斎覚書」も信用できないことになるんだがな
特に板坂は後年に吉宗が改ざんしてるからどこまで真実かわからなくなってしまう 霜女覚書だと何故か七月十二日に石田三成が人質取ろうとしてたみたく書かれてたりするけどそんなことあり得ないよねって話。当時人質取ってたのは本来徳川方の筈の三奉行で三成じゃない
家康が動けば何かが起きるとは誰もが思っていたけど証拠は何一つ無いので家康を信じさせる事は出来なかった。家康が三成謀叛と思ってたら佐和山から追い出すなり先陣を命じて拒否したところを叩き潰すなりしてる。やってないのは三成は此方の味方と信じていたからという話 謀反起こされた側が事前に知らなかったはずない
冷静に考えたらめっちゃ奇妙なこと言ってるんだが
フィクションの力って本当すごいな >>62
そこだけ聞くと信憑性に疑問がつく低品質な史料としか思えないな… >>62
当時の家康の立場で強制はできんだろ
佐竹義宣が怪しいと見て家康が弟の芦名か岩城を差し出せ、と命じた際にも、義宣は拒否して
家康はそれ以上は強く出れなかっただろ 家康が公儀だとすれば普通に出せるでしょ少なくとも佐竹義宣には先陣を命令してるしそれは西軍決起まで変わらんもの
怪しかったら予め人質を要求する(前田利長)、先陣を命じる(佐竹義宣)といった対抗手段はある。後世にあるように三成に挙兵させて自分に逆らう奴一掃とかそんなの未来予知者じゃないとできん >>58
こいつほんと平気で嘘つくな
戸田左門覚書に家康と秀頼が和睦したなんて記述はないし(あるのは言経卿記)、
天下の謀逆云々は恐らく舜旧記の記述だろうけど、伏見城籠城が豊臣公儀
への反逆と見なしていたと解釈してるのは光成氏じゃなく白峰氏 公儀なんて1か0かじゃないでしょ
東軍を公儀だと思えば東軍についたし西軍が公儀だと思えば西軍についた
秀吉死後明確じゃなくなったから割れた それな
結果東軍が公儀とする側が優位に立った
というだけのことなのに 西軍が公儀性の獲得を前提に戦略立ててるんだからあれこれ言われるのはしょうがない 西軍が公儀を主張したというのは間違いない
それが受け入れられたとか
東軍の公儀性が否定されたとみなされたとか
それはまた別の話なのにごっちゃにしてるのが謎 西軍の場合秀頼を擁立(したように装うこと)には成功しており
それをどのように喧伝しどのように受け入れられたのかが
人によっては関ヶ原の一番の肝であり興味深いところでもある以上
議論が起こることに文句を言っても仕方ない
過疎版でいちいち別スレ立てろというのも野暮な話だし 議論するなとか別スレ立てろとか
>>72は誰と戦ってるんだ?
そんな話にはなってないだろ
白峰氏やここで書き込んでる人みたく
西軍の主張だけ着目して
だから西軍が公儀で東軍の公儀性は否定されたとか
それが受け入れられてたとか言うのは違うと言うだけ >>72
西軍という挙兵から壊滅までたった2・3ヵ月の集団が、その短い期間「公儀」だったか否かを論じる必要性をあまり感じないが
議論したいってんなら勝手にやればいいだろ
まずは、何をもって「秀頼を擁立(したように装うこと)には成功」したと解釈するのかお前が論じてみろよ どっちが公儀かなんてのは豊臣が家康に救援要請を送ってない事や家康自身が公儀を主張してない事を見りゃすぐわかる
ただ既に家康の人望が高過ぎて豊臣が家康追討を命じても従わない者が多かったという話 確か淀殿が家康に奉行らが謀叛起こしたから何とかしてくれって書状送ってたんじゃなかったか
西軍挙兵に際して豊臣家の人間が公式に発言した唯一の例で
その後大坂城を占拠され軟禁状態になってからは沈黙してる
それに当時最高官位で秀頼と直接縁戚関係を結んだ豊臣一門筆頭であるとともに
秀吉から遺言で政務を任され天下人の格式も譲られていた家康は存在そのものがすでに公儀なんで
西軍のようにわざわざ主張する必要が無かったとも言える 沈黙したのが最悪だったね。これで豊臣は強者に阿る存在と認知された。まぁ豊臣は西軍に好意的だったんだろうが。三奉行は諸将の人質を大坂城天守閣に集めたっていうから そもそも大坂城占拠後淀殿らが西軍を公儀として認め家康追討も認めたって明確な証拠何かあるんだろうか
逸話レベルでも金銭兵糧の拠出を拒否したとか西軍に協力的だったとは到底 途中で書き込んでしまった
西軍に協力的だった痕跡がどうも見られない 家康不在時にクーデター起こした挙句あっという間に鎮圧されただけなのに公儀も何もあったもんじゃない 豊臣って軍事力(馬廻衆・弓鉄炮隊)や正統性(人質の大坂城天守閣収容許可、親徳川大名改易の許可、家康追討書状発布、豊国社参拝)と様々な面で西軍を支援してるし
これが豊臣の意思と無関係なはずが無いし無関係だったらヤバい。それで徳川にコンタクトとらんのはもっとヤバい その辺も足元に大軍擁して居座られてるわけだからなあ
暗黙の脅迫で黙認せざるを得なかったともとれるし無理からぬこととも思える
何しろ秀吉死後秀頼はもちろん淀殿ら周囲も政権運営からは離されてて政治的動きをする能力ないんだから
城占拠されて命の危険感じて傀儡人形になってもおかしくない
ただ本当に淀殿らが西軍を積極的に支援したのなら
勝利した家康が自家を守るためにも豊臣の枠組みから脱して独自の政権立てることを決意するのはある意味当然
そのことを察したからこそ将軍になってもいないのに諸侯が我先に江戸に伺候したのかも知れんね
確か清正からしていの一番くらいに江戸行ったんでしょ
あれ見ても関ヶ原後も諸侯があくまで家康を豊臣家の大老と見なしていたなんてことはないと思うな え、じゃあ関ヶ原のあとも秀頼が生かされたのは家康の温情ってこと? むしろ西軍蜂起から家康が入城するまではら
秀吉、淀の動向がよくわからない期間なのよね
西軍当事者が秀頼の意向を喧伝してるけど
上杉討伐前夜の家康に対する謁見や下賜の動きさえ
西軍諸将との間には観られない
当時少年でしかない秀頼ではあるし
元々淀は家臣と政治向きの連絡するような
女性ではなかった
(一部の勇ましいイメージとは完全に真逆に)
とはいえ後の大阪の陣までの期間には
当たり前に家臣に働きかけている
それもなかったと言うことは
つまり母子の西軍東軍の戦争への支持は
積極的なものとしてはなかったってことかと 豊臣本家から見れば家臣の間の諍いにしかすぎない
織田家の後継者が三法師の時に羽柴秀吉と柴田勝家が争ったようなもの
秀吉はその後関白になり織田家を離れた
歴史は繰り返すということがわかっていれば豊臣家は積極的に関わるべきだったが立ち回れる知恵者が秀頼直参にいなかった まあ頼りにならない主君から離れるのは戦国の習い
朝廷も民草も守護してくれる天下人が必要だから 脅迫されてた可能性は無い。脅迫を感じていたらそれこそ死に物狂いで家康に助けを求めてる。仮に西軍=豊臣が成立して家康が孤立、敗死なんてことになって西軍が勝ったら次は豊臣が消される番だから。脅威を感じないから助けを求めなかったと解するべきだろう >>82
>豊臣って軍事力(馬廻衆・弓鉄炮隊)や正統性(人質の大坂城天守閣収容許可、親徳川大名改易の許可、家康追討書状発布、豊国社参拝)と様々な面で西軍を支援してる
ソースは?たぶん白峰本からの引用なんだろうけど 前スレでこの史料上げてた人がいたが、萩藩閥閲録の国司隼人の項にある書付には輝元が
大坂在城の間、児玉元兼・国司元蔵・児玉元次の三名が秀頼に付けられている
しかし後見とは言いながら実際は監視役に近いものだったろう
「慶長五年、関ケ原御陣之時、輝元公ハ大坂被成御上候、(中略)
此時児玉若狭元兼・国司隼人元蔵・児玉宮内元次、以上三人を為御後見被成御付」
妄想くんは脅迫されてないと断言してるけど、物が言えない無言の圧力のようなものはあったと思うがね >>90
同意
さすがに本丸は最後まで「秀頼様御人数警護云々」だが西の丸には毛利兵がうようよ
輝元は本領安堵などを条件に西の丸を譲ることを呑んだが、家康が来る前日まで西の丸に粘っている
秀頼を人質にしたようなもんだとすら思わせる 淀殿は妹(と松の丸殿)が籠る大津城の開城交渉には高台院と共に関与してるんだから
この時点でもう一人の妹の嫁ぎ先の没落を望むとは考え難い >>67
ちゃんと読んだか?
左門は10月15日に家康が秀頼、その母(淀)と対面し、家康と豊臣が和解したと書いてる
言経は9月27日が和睦したとなってるから、日にちがずれすぎてるとは思うがな
あと、戸田氏鉄は家康を正当化するためか、「家康は孫娘を秀頼に嫁がせて自ら秀頼の後見となったため
豊臣の諸侯も家康が秀吉の後継者であることを認めた」とある >>86
積極的に関わっていたら
そこで秀頼の命運尽きた可能性
西軍総大将になって結局負けて死
西軍に囲まれて東軍支持表明して死
西軍勝ったけど実権は毛利に握られ
さらに西軍同士の内紛に巻き込まれ・・・
結局傀儡なので舵取りは極めて難しいのよね >>89
有名な話ではある
豊臣軍が動員されてる話は義演准后日記(蜂須賀家政の兵が秀頼馬廻衆と共に北に送られる)や吉川家文書(関ヶ原直前に豊臣弓鉄炮隊が南宮山に配置)等で明らかになってる
また秀頼筆頭に豊臣は何度か豊国社に参拝してる(舜旧記)個人的には単なる参拝に過ぎないという感もあるが西軍に与したからという説もあるようだ。おそらく宇喜多秀家、毛利輝元、大谷吉継といった西軍首脳部が参拝してるからじゃないか? >>93
あんたこそちゃんと読んでるか?
単に家康と秀頼親子の対面の様子が記述されてるだけで、和解や和睦したなんて記述はどこにもない
原文でその箇所書いてみてよ
「15日の対面で互いに献杯し合って家康が秀頼への献杯を恐れ多いと辞退した。
それを淀殿が今後は家康のことを太閤とも思うので是非秀頼へ献杯してと言うので、家康も秀頼へ献杯した。
家康は中座して御礼があった。その後雑煮が出されまた献杯を互いにした。
その後西湖の間に移った。この座敷は利休好みの柱や狩野右京の絵が描かれていてそこでお茶を過ごされた。
そして家康は座を退去して京都で北政所と対面し、天下の仕置きなどについて話され家康に仰せ付けられた」 >>96
西軍も東軍も豊臣家臣なので豊国神社参拝はどうでもいい
豊臣旗本の参戦も豊臣本家からの命令なのか独断なのかがわからない
豊臣本家の意思を確認できる書状が無いのが問題 毛利三奉行大谷石田らが参戦したのは
別に秀頼が命じたからじゃない
でも馬廻参戦は秀頼ないし淀の命?
なぜそう言えるのか謎 そもそも豊臣本家が西軍に加担してるなら東軍から大量の大名が離脱してないのがおかしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています