石田三成の挙兵 ★5
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大河ドラマとかだと余り注目も見向きもされないと思うけど
山岡景隆の弟の道阿弥(景友)って何者?
書状とか見てると、こいつ島津氏の書状にも出てるんだけど
宇喜多氏関係にも名前あったし
こいつ家康の調略担当? >>3
その書状に出てくる流干(卜斎記によると薩摩出身の目薬屋)のがメインっぽいけどな
山岡氏は伊賀越えのときに信楽まで家康を護衛したということになってるから、その縁で近くにおかれてるのかもしれないよ
甲賀衆も任されてるが、だから忍者だーといい出すともはや講談だと思う 三成と上杉の密約って現在では否定されてるけど、やはり三成は何らかの連絡はとりあってたんじゃないの?
例えば佐竹義宣の書状(慶長5年8月7日付)
「去月23日」に常陸をたった飛脚が大坂へたどりついた
「去月26日の書状も佐和山で確認した」
義宣が三成の挙兵をいつ知ったのかは知らんけど、家康が三成挙兵を知ったのは7月23日
義宣が同日に三成挙兵を知るなんてあり得るか?
1日くらいずれてもおかしくないはずだが 西軍方が情報工作で石田三成・大谷吉継謀反を徳川に伝えてるんだし普通にその頃にはわかってたろう。また三成・吉継だけが謀反するなんてあり得ないから当然そこには黒幕もいる訳で三成に近しい連中はそれを知りたがって三成と交信してもおかしくない 慶長5年6月10日付来次氏秀書状は?
春日元忠に宛てたやつだけど
石田三成が佐和山に引きこもって普請してるとか、佐和山を家康に貸与することを拒否したとかあるけど? 上杉や佐竹との密約の証明には使えない。徳川が一切石田を警戒してないことを考察する材料にはなるが 我々凡人が家康を語るのが間違っている
そもそも野心家というものは、傑出した器であり先を見通している
家康が何も考えずに会津征伐に赴いたとか、石田や大谷、あるいは
他の誰かが家康の留守中に何かするとか考えていなかったとか
そんなことあり得ると思うか?
石田や大谷にしても、何も考えずに突発的に挙兵したと思うか?
記録に残ってないだけで、家康は何かあるとは読んでいた
石田らは上杉と共謀していたと考えてよいと思う 石田と大谷あたりは想定してたみたいね
三奉行と2大老が同調するとは思ってなかったみたいだけど
想定以上に敵が増えたから家康は毛利と和睦交渉しつつ裏では全国の勢力に手紙大攻勢かけてるし
岐阜城陥落までの家康は明らかに長期的な分裂状態が到来することを想定して備える動きをしている 家康が三成を怪しいと思っていたら先陣を命令してるはず。佐竹みたいに。また無理矢理佐和山から追い出してしまうってのもできた。それをやってないということは家康は三成を敵とは思ってなかったことになる。寧ろ先陣を命じた佐竹義宣や芳春院を人質にとった前田利長の方が警戒されてる そもそも会津征伐なら、畿内に1万の徳川軍と重臣何人かを置くくらいはできたはず
徳川単独ではなく、諸大名の大連合による豊臣家の討伐という題目も整ってたんだし
1万割いても徳川軍は十分単独でも多い
1万も置いていたら石田らも挙兵はできなかった
しかし置いていたのはたった2000
明らかに誘い水でしょ 家康の侍医の日記に、家康が会津征伐で伏見城に立ち寄った際に不気味な一人笑いをしていた記録がある
なんで笑っていたのかは知らないがね 普通に考えたら予備兵力を置かないのは警戒してないからだろw
誘い水って発想になるのは司馬史観に毒されてるだけだよ 太閤殿下が築いた伏見城を攻撃する阿呆がいるとは思わないだろ 滝川が関東仕置き任されたのは別に
信忠軍団が信忠から離れた証拠にはならんからね
一応それすら分かってなさそうだから言っとくけどw >>15
大胆に誘いをかけるどころか畿内にずっと留められてた家康は上杉征伐を理由に自国に帰ることが出来てホッとしてたと思われる >>14
言うほど不気味か?
「十七日伏見に御逗留、十七日に千畳敷の奥座敷へ出御、
御機嫌好四方を御詠め座敷に立せられ、御壹人莞爾々々と御笑被成候」
かんじ 【莞爾】
にっこりほほえんでいるさま 本当悪の超人徳川家康の思惑通りだった
という司馬史観をもとにしてると
どの史料もその証左にしか見えなくなるんだな 記録から見ても家康は相当自信満々だったみたい。まぁ如何に越後の龍が後継と言っても周囲八方が敵で公儀に勝てる訳が無いから当たり前ではあるが。景勝と親しい利長・義宣には踏み絵を踏ましたけど元上杉取次の石田三成は無警戒なんだよね。上杉との交信が無いから重視してなかったのかもしれん IDコロコロ改行大嫌い妄想誤読くんとアンチ家康嘘つき野郎 昨夜の睡眠夢で安國寺エケーと霊界交信に成功しました。 謙信を越後の龍って当時から言ってたの?
越後の虎じゃないの 景勝と三成が事前に共謀していた証拠は何も無い。史料だとみな西軍決起以降に連絡してる 家康が気に食わない。徳川中心になってくのがムカつく。と言った意味ては利害一致だったんだろうな。それ以外は同床異夢だった可能性が高いけど。
軍事クーデターなんて、ただでさえ弱ってる豊臣秀頼政権に大打撃を与えることは考慮しなかったのかな。 首謀者の大坂三奉行は秀頼の事なんて考えてないでしょう
家康を倒したとして輝元がその代わりになるだけなのは明らかなんだから。三奉行は家康とは繋がり無いけど輝元とは繋がりがあるからそのセンで出世したかっただけじゃないか?家康と遠い縁戚で嫡男が家康に可愛がられてる三成とはそこが違う 豊臣は後先考えずに海外遠征や関白粛清をやってきた
その政権中枢にどっぷりとつかり続けてきた奉行連中だって後先なんて考えるわけがない
今権勢を握りたいから暴れる、1日でも早く奉行に返り咲きたいから暴れる
後で豊臣家がどうなるか、秀頼がどうなるかなど関係ない
そうやって秀吉を手本としてながら刹那的に思いついたことをやっているだけ 輝元は自領拡大が目的だし豊臣家は武力で抑え込めると思ってるから奉行の手引で大阪に押し入った
奉行も前線の石田たちと後方の増田たちとは意思の疎通が上手くいってない
増田や前田玄以から見れば急な挙兵で将来的な展望も共有できていないし時間とともに結束がバラバラになるのは道理
形勢不利になって空中分解の速度が加速して毛利がいち早く脱落したのが史実 >>28
別に挙兵理由が反家康ならそれはそれでいいんだよ
一番嫌なのは、その後の家康の動きをもって西軍の行動を
豊臣御為という言葉でもって豊臣にとってプラスである行動であったかのように
言い出す奴がいることなのよね
検証すると、むしろ西軍を許容してしまうと(挙兵を起こした時点で)
豊臣政権にとってはマイナスというか致命傷になってしまうのに
なんというか、反徳川=豊臣御為という妙な脳内変換をしてる奴がいるというか 反徳川=豊臣御為とか言ってる沼がこのスレに居るのがキツイんよな
YouTubeのコメ欄にでも行ってほしい 戦国の世を生きてきた奴らが、「徳川VS毛利・石田」と見ていたか
あるいは「徳川VS豊臣」と見ていたか、だな
そのあたり公家は冷静に見てる
「徳川家康は大坂城に入って豊臣秀頼と和睦した」と書いてるし とりあえず家康嫌いの連投君はスレ立てもしないから書き込みやめろ >>36
とりあえず家康大好きの連投君は徳川が秀吉の墓所を破壊したことも知らないようだから書き込みやめろ >>37
対豊臣家強硬派筆頭の徳川秀忠は豊臣秀吉からもらった秀の字を捨ててないんだな >>38
下らない話に加わりたくはないんだが秀忠は不思議だなとずっと思ってた 当時朝廷も諸大名も認めた公儀に対して反乱起こした家の家祖を麗々しく祀るなどありえんだろう
アンチ徳川が好きな朱子学イデオロギーで言えば逆賊の家なんだよ豊臣家は 西軍のクーデターが豊臣軍と見なされていたなら、もっと大問題で、天下を安定させるべき責務がある豊臣が、自ら軍事衝突招き天下を不安定させたことになるからな…
血統による支配権の譲渡の唯一の利点を打ち消してるわけで。 >>35
それが冷静な見方なの?
西軍のプロパガンダを鵜呑みにしてるだけじゃね?
九州や東国の東軍大名はあくまで秀頼が
知行宛行をする前提で書状出してるってのは
ここでも指摘されてたけど
どちらかが冷静でどちらかが興奮状態とか言えるの?
そう判断する根拠が不明なんだけど 白峰氏の言う通り豊臣は西軍に就いた、もしくは豊臣こそ西軍の首魁だった。でもそれは東軍には影響を与えてない。東軍は徳川家康を主君と仰ぐ者達で秀頼は形だけの主人に過ぎなかったから。だから東軍諸将は家康の指揮で動いていて秀頼の指揮では動いてない。つまり諸将が奉公するのは家康で御恩を出すのも家康。秀頼はまぁ、御恩の担保みたいなもんだ 家康との対立はともかく、利家とも不仲
恩顧とは険悪で淀との接点も薄い
これだけで考えると、三成こそが豊臣の異分子だったように見える
秀吉の寵臣以上にはならなかったのか、なれなかったのか 西軍は家康が関東に釘付けなりさえすれば本望だったのではないか
先遣隊に岐阜城を落とされた時点で命運は尽きた まさか西軍がそんな、って感じるけど考えてみるとやれるからやっちった!で大失敗した明智光秀さんとかもいるからね… 豊臣政権の公儀性を担保してたのが関白or太政大臣という官職だとするなら
秀頼を抱き込んだだけじゃ公儀にはなれんよね
「室町殿」みたいに、羽柴宗家家督=天下人とする図式は秀次事件で壊れちゃったし >>49
官職で支配してたのも全部ぶっ壊しちゃったんだよなあ
だって頂点であるはずの天皇の代理人関白を処分しちゃったんだから
豊臣関白の権威なんて地に落ちたよね >>50
そのわりにゃ近衛信尹なんかは徳川の専横に憤ってたりするからなあ
現代人の感覚で捉えるのは危険だと思うよ 豊臣政権の公儀としてのあり方は
官位による武家の家格付けとか
積み上げてきた理屈があったけど
それをわざわざ壊してるんよね
実際その直後の御掟はそれまでは
諸大名に命じる立場になかった
大老たちの名義で出されてる
遺言にいたっては公儀としてとかじゃなく
ただただ息子を取り立ててくれという
秀吉個人のお願いでしかなくなった
西軍蜂起後は「秀頼がけしからんと言った」
で改易というとこまで後退する でっかい光秀でしかなかったんか、秀吉くん
何だかんだ言って行き当たりばったりだもんな
永続的な統治機構を完成させちゃった徳川が変態なのか 西軍は人質をとって絶対有利のはずが、細川ガラシャの死で狂いが生じた 戸田左門覚書では「家康は秀頼や淀殿と和睦した」とあるから、豊臣家に反逆していたことを
徳川家康の家臣が認めている
簒奪者家康 >>54
あんま知られてないけど人質作戦自体は続行されてるんだよなぁ…罪深い話だ >>55
わ‐ぼく【和睦】
〘名〙
@ 人々がなごやかな気持で、親しみ合うこと。なかむつまじくすること。和合。かぼく。
※家伝(760頃)下「上安下泰、鬼神和睦、乃国乃家、爰労爰戮、忠貞籍甚、其人如レ玉」
※十善戒相(1774)「家も和睦し、四海も泰平に、草木まで花果うるはしき」 〔春秋左伝‐成公一六年〕
A 仲直りをすること。争っていた人や国が、争いをやめて親しくすること。和解。講和。かぼく。 そもそも三成の挙兵が予想外って、家康は全く予期してなかったとでもいうの?
光成も渡邊も専門家はみんなそう言ってるけど
Enpediaにあった「霜女覚書」
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E9%9C%9C%E5%A5%B3%E8%A6%9A%E6%9B%B8
細川忠興が三成が挙兵するのを読んでいて、家康は読んでなかったとかあり得ないだろ
しかも、7月12日の時点で噂になってたということは、既にこの時点で畿内ではもう三成らの動きが掴まれていたことになる
それで家康は「ヨソウガイデスー」とでも言うつもりか?
家康は絶対に何らかの動きはつかんでいた
だから逆用したとしか思えない
家康の「天下の謀逆が露見した」と光成氏も言ってるし まず霜女覚書は関ヶ原後に書かれたもので西軍=石田三成軍で書かれてるからそこをしっかり呑み込まないといけない
次に細川忠興が考えたことが正しいかなんて誰にもわからん。証拠も無しに謀叛だとかいえない。史料上家康は三成が挙兵するとは思ってなかったのは確か。もしそうなら三成を先陣にしてるわな >>59
そんなこと言いだしたら「当代記」も「板坂卜斎覚書」も信用できないことになるんだがな
特に板坂は後年に吉宗が改ざんしてるからどこまで真実かわからなくなってしまう 霜女覚書だと何故か七月十二日に石田三成が人質取ろうとしてたみたく書かれてたりするけどそんなことあり得ないよねって話。当時人質取ってたのは本来徳川方の筈の三奉行で三成じゃない
家康が動けば何かが起きるとは誰もが思っていたけど証拠は何一つ無いので家康を信じさせる事は出来なかった。家康が三成謀叛と思ってたら佐和山から追い出すなり先陣を命じて拒否したところを叩き潰すなりしてる。やってないのは三成は此方の味方と信じていたからという話 謀反起こされた側が事前に知らなかったはずない
冷静に考えたらめっちゃ奇妙なこと言ってるんだが
フィクションの力って本当すごいな >>62
そこだけ聞くと信憑性に疑問がつく低品質な史料としか思えないな… >>62
当時の家康の立場で強制はできんだろ
佐竹義宣が怪しいと見て家康が弟の芦名か岩城を差し出せ、と命じた際にも、義宣は拒否して
家康はそれ以上は強く出れなかっただろ 家康が公儀だとすれば普通に出せるでしょ少なくとも佐竹義宣には先陣を命令してるしそれは西軍決起まで変わらんもの
怪しかったら予め人質を要求する(前田利長)、先陣を命じる(佐竹義宣)といった対抗手段はある。後世にあるように三成に挙兵させて自分に逆らう奴一掃とかそんなの未来予知者じゃないとできん >>58
こいつほんと平気で嘘つくな
戸田左門覚書に家康と秀頼が和睦したなんて記述はないし(あるのは言経卿記)、
天下の謀逆云々は恐らく舜旧記の記述だろうけど、伏見城籠城が豊臣公儀
への反逆と見なしていたと解釈してるのは光成氏じゃなく白峰氏 公儀なんて1か0かじゃないでしょ
東軍を公儀だと思えば東軍についたし西軍が公儀だと思えば西軍についた
秀吉死後明確じゃなくなったから割れた それな
結果東軍が公儀とする側が優位に立った
というだけのことなのに 西軍が公儀性の獲得を前提に戦略立ててるんだからあれこれ言われるのはしょうがない 西軍が公儀を主張したというのは間違いない
それが受け入れられたとか
東軍の公儀性が否定されたとみなされたとか
それはまた別の話なのにごっちゃにしてるのが謎 西軍の場合秀頼を擁立(したように装うこと)には成功しており
それをどのように喧伝しどのように受け入れられたのかが
人によっては関ヶ原の一番の肝であり興味深いところでもある以上
議論が起こることに文句を言っても仕方ない
過疎版でいちいち別スレ立てろというのも野暮な話だし 議論するなとか別スレ立てろとか
>>72は誰と戦ってるんだ?
そんな話にはなってないだろ
白峰氏やここで書き込んでる人みたく
西軍の主張だけ着目して
だから西軍が公儀で東軍の公儀性は否定されたとか
それが受け入れられてたとか言うのは違うと言うだけ >>72
西軍という挙兵から壊滅までたった2・3ヵ月の集団が、その短い期間「公儀」だったか否かを論じる必要性をあまり感じないが
議論したいってんなら勝手にやればいいだろ
まずは、何をもって「秀頼を擁立(したように装うこと)には成功」したと解釈するのかお前が論じてみろよ どっちが公儀かなんてのは豊臣が家康に救援要請を送ってない事や家康自身が公儀を主張してない事を見りゃすぐわかる
ただ既に家康の人望が高過ぎて豊臣が家康追討を命じても従わない者が多かったという話 確か淀殿が家康に奉行らが謀叛起こしたから何とかしてくれって書状送ってたんじゃなかったか
西軍挙兵に際して豊臣家の人間が公式に発言した唯一の例で
その後大坂城を占拠され軟禁状態になってからは沈黙してる
それに当時最高官位で秀頼と直接縁戚関係を結んだ豊臣一門筆頭であるとともに
秀吉から遺言で政務を任され天下人の格式も譲られていた家康は存在そのものがすでに公儀なんで
西軍のようにわざわざ主張する必要が無かったとも言える 沈黙したのが最悪だったね。これで豊臣は強者に阿る存在と認知された。まぁ豊臣は西軍に好意的だったんだろうが。三奉行は諸将の人質を大坂城天守閣に集めたっていうから そもそも大坂城占拠後淀殿らが西軍を公儀として認め家康追討も認めたって明確な証拠何かあるんだろうか
逸話レベルでも金銭兵糧の拠出を拒否したとか西軍に協力的だったとは到底 途中で書き込んでしまった
西軍に協力的だった痕跡がどうも見られない 家康不在時にクーデター起こした挙句あっという間に鎮圧されただけなのに公儀も何もあったもんじゃない 豊臣って軍事力(馬廻衆・弓鉄炮隊)や正統性(人質の大坂城天守閣収容許可、親徳川大名改易の許可、家康追討書状発布、豊国社参拝)と様々な面で西軍を支援してるし
これが豊臣の意思と無関係なはずが無いし無関係だったらヤバい。それで徳川にコンタクトとらんのはもっとヤバい その辺も足元に大軍擁して居座られてるわけだからなあ
暗黙の脅迫で黙認せざるを得なかったともとれるし無理からぬこととも思える
何しろ秀吉死後秀頼はもちろん淀殿ら周囲も政権運営からは離されてて政治的動きをする能力ないんだから
城占拠されて命の危険感じて傀儡人形になってもおかしくない
ただ本当に淀殿らが西軍を積極的に支援したのなら
勝利した家康が自家を守るためにも豊臣の枠組みから脱して独自の政権立てることを決意するのはある意味当然
そのことを察したからこそ将軍になってもいないのに諸侯が我先に江戸に伺候したのかも知れんね
確か清正からしていの一番くらいに江戸行ったんでしょ
あれ見ても関ヶ原後も諸侯があくまで家康を豊臣家の大老と見なしていたなんてことはないと思うな え、じゃあ関ヶ原のあとも秀頼が生かされたのは家康の温情ってこと? むしろ西軍蜂起から家康が入城するまではら
秀吉、淀の動向がよくわからない期間なのよね
西軍当事者が秀頼の意向を喧伝してるけど
上杉討伐前夜の家康に対する謁見や下賜の動きさえ
西軍諸将との間には観られない
当時少年でしかない秀頼ではあるし
元々淀は家臣と政治向きの連絡するような
女性ではなかった
(一部の勇ましいイメージとは完全に真逆に)
とはいえ後の大阪の陣までの期間には
当たり前に家臣に働きかけている
それもなかったと言うことは
つまり母子の西軍東軍の戦争への支持は
積極的なものとしてはなかったってことかと 豊臣本家から見れば家臣の間の諍いにしかすぎない
織田家の後継者が三法師の時に羽柴秀吉と柴田勝家が争ったようなもの
秀吉はその後関白になり織田家を離れた
歴史は繰り返すということがわかっていれば豊臣家は積極的に関わるべきだったが立ち回れる知恵者が秀頼直参にいなかった まあ頼りにならない主君から離れるのは戦国の習い
朝廷も民草も守護してくれる天下人が必要だから 脅迫されてた可能性は無い。脅迫を感じていたらそれこそ死に物狂いで家康に助けを求めてる。仮に西軍=豊臣が成立して家康が孤立、敗死なんてことになって西軍が勝ったら次は豊臣が消される番だから。脅威を感じないから助けを求めなかったと解するべきだろう >>82
>豊臣って軍事力(馬廻衆・弓鉄炮隊)や正統性(人質の大坂城天守閣収容許可、親徳川大名改易の許可、家康追討書状発布、豊国社参拝)と様々な面で西軍を支援してる
ソースは?たぶん白峰本からの引用なんだろうけど 前スレでこの史料上げてた人がいたが、萩藩閥閲録の国司隼人の項にある書付には輝元が
大坂在城の間、児玉元兼・国司元蔵・児玉元次の三名が秀頼に付けられている
しかし後見とは言いながら実際は監視役に近いものだったろう
「慶長五年、関ケ原御陣之時、輝元公ハ大坂被成御上候、(中略)
此時児玉若狭元兼・国司隼人元蔵・児玉宮内元次、以上三人を為御後見被成御付」
妄想くんは脅迫されてないと断言してるけど、物が言えない無言の圧力のようなものはあったと思うがね >>90
同意
さすがに本丸は最後まで「秀頼様御人数警護云々」だが西の丸には毛利兵がうようよ
輝元は本領安堵などを条件に西の丸を譲ることを呑んだが、家康が来る前日まで西の丸に粘っている
秀頼を人質にしたようなもんだとすら思わせる 淀殿は妹(と松の丸殿)が籠る大津城の開城交渉には高台院と共に関与してるんだから
この時点でもう一人の妹の嫁ぎ先の没落を望むとは考え難い >>67
ちゃんと読んだか?
左門は10月15日に家康が秀頼、その母(淀)と対面し、家康と豊臣が和解したと書いてる
言経は9月27日が和睦したとなってるから、日にちがずれすぎてるとは思うがな
あと、戸田氏鉄は家康を正当化するためか、「家康は孫娘を秀頼に嫁がせて自ら秀頼の後見となったため
豊臣の諸侯も家康が秀吉の後継者であることを認めた」とある >>86
積極的に関わっていたら
そこで秀頼の命運尽きた可能性
西軍総大将になって結局負けて死
西軍に囲まれて東軍支持表明して死
西軍勝ったけど実権は毛利に握られ
さらに西軍同士の内紛に巻き込まれ・・・
結局傀儡なので舵取りは極めて難しいのよね >>89
有名な話ではある
豊臣軍が動員されてる話は義演准后日記(蜂須賀家政の兵が秀頼馬廻衆と共に北に送られる)や吉川家文書(関ヶ原直前に豊臣弓鉄炮隊が南宮山に配置)等で明らかになってる
また秀頼筆頭に豊臣は何度か豊国社に参拝してる(舜旧記)個人的には単なる参拝に過ぎないという感もあるが西軍に与したからという説もあるようだ。おそらく宇喜多秀家、毛利輝元、大谷吉継といった西軍首脳部が参拝してるからじゃないか? >>93
あんたこそちゃんと読んでるか?
単に家康と秀頼親子の対面の様子が記述されてるだけで、和解や和睦したなんて記述はどこにもない
原文でその箇所書いてみてよ
「15日の対面で互いに献杯し合って家康が秀頼への献杯を恐れ多いと辞退した。
それを淀殿が今後は家康のことを太閤とも思うので是非秀頼へ献杯してと言うので、家康も秀頼へ献杯した。
家康は中座して御礼があった。その後雑煮が出されまた献杯を互いにした。
その後西湖の間に移った。この座敷は利休好みの柱や狩野右京の絵が描かれていてそこでお茶を過ごされた。
そして家康は座を退去して京都で北政所と対面し、天下の仕置きなどについて話され家康に仰せ付けられた」 >>96
西軍も東軍も豊臣家臣なので豊国神社参拝はどうでもいい
豊臣旗本の参戦も豊臣本家からの命令なのか独断なのかがわからない
豊臣本家の意思を確認できる書状が無いのが問題 毛利三奉行大谷石田らが参戦したのは
別に秀頼が命じたからじゃない
でも馬廻参戦は秀頼ないし淀の命?
なぜそう言えるのか謎 そもそも豊臣本家が西軍に加担してるなら東軍から大量の大名が離脱してないのがおかしい 池田 家康の婿
細川 妻が自害に追い込まれる
西には付かないだろう
豊臣恩顧が大量に西に付くようなら秀忠隊も東海道経由だったかもしれん >>98
むしろ秀頼の命令じゃない方がヤバい
本来豊臣軍の編成指揮監督は豊臣家つまり秀頼が行うもの
彼等が西軍に参加してるということはイコールで秀頼が西軍に与してることになる
仮にこれらが豊臣家と無関係に行われていたとなるとそれは豊臣家が軍事指揮能力を喪失していたって話になる
つまり武家としての豊臣の死であり公儀としての格はこの時点で西軍首脳部しかも実力者に移ったことになる 豊臣家が西軍なら東軍は瓦解していたはず!ってのが人間的におかしい。西軍は「徳川家康は太閤遺言に背き秀頼を見捨てた」「秀頼さまは家康に親しい者は許さないと言った」事を大義名分にしてる。それで東軍は瓦解しなかった。「徳川に親しい者は討伐」なんだから。まず東軍は福島正則、池田輝政、蜂須賀至鎮らといった徳川縁戚者、浅野長政、細川忠興、藤堂高虎のような政治的理由で家康と親しかった者達、寺沢広高の様に利益を求めて家康に近付いた者まで徳川と親しい者ばかり
彼等からすれば秀頼は何の意味もない。仮に西軍の首魁だとしてもだから土地と首を差し出すなんて馬鹿は戦国大名になれん。反徳川をお題目にした以上東軍は一枚岩になってしまった >>102
秀吉子飼いで家康不在時に秀頼を直接支えるはずだった奉行衆が蜂起してるから旗本直参がそれに付いていってもおかしいことでもない >>103
その理屈でいくと西軍は会津征伐軍の切り崩しを放棄してることになるから負けて当然 >>103
「秀頼様は家康に親しいものは許さないと言った」
ソースを原文でよろしく >>102
特に最終行が意味不明
なぜ「豊臣家が軍事指揮能力を喪失していたって話になる」と「公儀としての格はこの時点で西軍首脳部しかも実力者に移ったことになる」のか 秀頼の扱いの軽さについては西軍が秀頼の朱印状を使わなかった事で表されてる。仮に西軍が豊臣の意思を制圧していたなら西軍は秀頼の全ての命令文書を出せる。つまり西軍は出せなかったのではなく意図的に出さなかっただけ。ただ豊臣が西軍の首脳部だった時には拒否された可能性が出てくるが…
つまり「秀頼さまの命令」と言って従わない奴に秀頼の朱印状を送っても何の効果も無いと判断していたことになる。まぁ秀頼なんて所詮は秀吉の息子、何の意味もない 「西軍が豊臣の意思を制圧して」いなかった、つまり秀頼に西軍加担を拒絶された&西軍に翻意させることが出来なかった可能性を無視する理由が分からん
あと、秀頼と豊臣を使い分けているっぽいが、そうすると「豊臣の意思」ってのが具体的に何を指してるのかも分からん 昔は子供に人権無かったからな
一般的に女、子供は発言権など無い 豊臣が西軍に与して無かったら不可能な位の破茶滅茶やってるし脅迫されてたんならどんな手段を使ってでも家康に助けを求めてるはずだからね
西軍としても「秀頼さまが仰ってる」と言えば諸将がわかりましたと従うなんて考えてない。そんなアホは戦国時代を生きていけない
西軍の狙いは徳川に不満を持つ連中に「秀頼さまが仰った」という大義名分を与えること。領土を拡大したい連中、主人に不満のある連中、そんな連中に暴れるお題目を与えてやること。要は公儀の名において惣無事令を無効化しただけ
そうしたら豊臣公儀は雲散霧消して徳川幕府ができましたよと 西軍に組みしてないのなら家康に助けを求めてるはずという謎理論 仮定と想像をどれだけ積み重ねてもなにも論証したことにならんのだが
「豊臣が西軍に与して無かったら不可能な位の破茶滅茶」ってのは具体的に何のことだ?
お前の文章は全般的に具体性に欠けている 豊臣は西軍に軍事指揮権(秀頼馬廻衆・弓鉄炮組)を与え、大名を改易してる。これが豊臣と無関係の筈がないつまり最低でも豊臣は許可を与えているはず。逆に許可無く行われたなら武家としての豊臣は死んだことを意味する
言うまでも無く、豊臣は西軍に与してる。これは豊臣奉行が西軍の首脳であり十人衆の内六人が参加してることからも導かれるもの。ただしこれと豊臣家は別問題という話もある
ただそれなら豊臣家から家康に救援要請が送られてないとおかしい。自分達を脅迫してる強盗が、家康亡き後何するかなんて考えるまでもないだろう? まるで秀頼や淀が主体性を持っているかのような書き方だな ○○じゃないとおかしいってのは何の根拠にも基づかない単なるお前の妄想に過ぎないな
そりゃ色々ツッコミも入るわ >>114
「豊臣」が指示するものが不明確で意味分からんと言ってるだろ文盲
秀頼なのか?輝元なのか?三奉行なのか?淀や且元とかの秀頼周辺なのか?それ以外の誰かなのか?
自分が書いた文章中の「豊臣」を全部具体的な人名に書き換えてみろ 「秀頼」の馬廻衆が動いてるから確実に秀頼は西軍
秀頼がガキで指揮権が無い場合豊臣家の何者か
だがその行動は秀頼の行動と同一視されるので結論は変化が無い。無駄な論議
豊臣家が西軍の行動に異議を唱えてないのとその後徳川と戦争する事から考えて既に親西軍・反徳川だったんだろ 豊臣ってのが具体的に誰を、何を指すのかがはっきりしないと駄目だよな
東軍の場合は政権運営代行者である家康を指すパターンが多いけど
西軍の場合、それが奉行なのか(そのうちの誰が言ってるのか)毛利なのかあるいは宇喜多か
仮にそのうちの誰かだとしてそいつに豊臣を名乗る権利があるのかとか
その権限を行使していいのかとか、かなりややこしい部分が多い
秀頼が幼少すぎるのが結局は根本的な問題になっちまうな >>118
つまり、お前は『「秀頼」の馬廻衆=豊臣』という理解をしているというだな
あえて否定はせんが、それってあなたの(ry 秀頼が跡継ぎだが幼いので一時的なトップを決めるべきなのにそれができなかった
秀次を信用できず抹殺して五大老五奉行なんて作ったがトップがいなければまともに動くはずない
おまけに秀吉は家臣同士を競わせる=争わせるのをよくやっていたが、強力なトップなしでは内乱の原因になるだけ
武将だった頃は自分の代理を秀長に任せることができたが秀長がいなくなってからは誰にも任せられなくなってしまった >>102
本来豊臣政権が行うべきことを
無断で行ってるのが西軍の挙兵やんけ >>103
そりゃ西軍の主張は軍事的に大阪城押さえて
勝手に言ってるだけと見做されてたからだろね
そこで秀頼なり淀なりがはっきりと
支持を表明してないので
よほどのお人よしがシンパ以外信じないよ >>108
何その理屈
西軍は「秀頼の意向」をお題目にしてるんだから
それにそれなりの期待をしてる
にも関わらずお墨付きはもらえないのだから
単にその程度のコミット具合でしかなかった
というのが自然な形だろう
あと朱印状にこだわるけどそこまでいかなくても
謁見して下賜の品を賜るとか家康にも与えた
支持表明でもいいのにそれさえ記録ないよね >>114
西軍はそう主張してたという記録はあっても
「豊臣が」それしたという記録はない >>118
天下の大名は全て豊臣家臣だけど勝手に動いてる
馬廻衆だけはそれができないと言う設定はなに? >>121
それが徳川前田じゃん
それに文句付けて十人衆起請文体制に持ち込んで
それを軌道に乗せるどころか即座に
徳川→前田の追い落としを図り
挙げ句の果て軍事クーデターで政権取ろうとしたのが西軍じゃん >>125
否定しないと肯定したことになる定期
時代劇みたく西軍がただ秀頼様御為をお題目にして徳川と勝手に戦争してるならそれも通る
ただ史料では西軍は大名を改易し土地を収奪、豊臣秀頼の兵隊を動かしてる。これが豊臣家の意思に反してやられてたら戦後徳川が勝っても西軍が勝っても豊臣は一大名に落ちる。てか西軍が勝ったら豊臣は滅びていたろうな。結果は変わらんかったけど >>128
>否定しないと肯定したことになる定期
それはただの思いこみ
肯定したことをを証明できるものが無い
不明、あるいは意思を表明しなかったというのが認識できる事実
大阪は毛利の制圧下で豊臣の使者が往来できる状態でもない
淀はただのお姫様で大坂の陣でも穏健派
豊臣は毛利が来た時点で実質死んでる >>128
この人の文章って論理的でないというか、思い込みが激しいというか日本語が頭に入ってこない
読んだ後いつも?となる >>128
ならないよ
実際東軍の諸将が家康に加増を
「秀頼にとりなすこと」を期待してる >>123
クソ問題なのは秀頼や淀君、北政所といった豊臣家トップが西軍の行いに文句付けてないところ。どころか毛利輝元・宇喜多秀家・大谷吉継といった西軍首脳部と仲良く豊国社に参拝している始末でどう見ても不支持じゃない
だから戦後に厄介なことになった >>131
それは自身の恩賞が担保される事を期待しているだけだぞ
御恩と奉公は先に御恩の提示があってそれを請けて奉公する
だから奉公した時点で恩賞は確約されてる謂わば傭兵の契約
何が言いたいのかといえば東軍諸将は家康に奉公しているから主人は家康ってこと
それで大坂の陣で「秀吉には恩があるが秀頼には無い」「今の我々があるのは家康あってこそ」って結論に繋がってる >>132
豊国社参拝は北政所だけで秀頼や淀はしてないだろ
前文から変化している場合は主語を省略しちゃいかんよ
「北政所が西軍を支持していた(そう見なされた)」という話なら論として成り立つが
それをイコール「豊臣」の支持と解釈するのは論理の飛躍 頑張って細分化して個人レベルで東軍派を見つけたとしても豊臣家全体として西軍派なんだから正直意味が無い
それが許されるのは泡沫小名だけで少なくとも天下人がとる立場じゃなかった。まぁだから徳川に取って代わられた訳だが…
肝心なのは家康が勝ったのは豊臣公儀だったからじゃないってこと。正当性は戦争を決めない。秀頼の命令無くして家康が勝った、逆に秀頼の命令があった輝元が負けたのはそれ自体不思議なものじゃない >>131
まさか幼児の秀頼が軍功を吟味して全国の所領配置を決められると本気で信じているのか?
決めるのは全て家康であり、秀頼へのとりなしを期待する大名などいない
最大限好意的に解釈しても秀頼への事後報告くらいはしてくれる期待でしかない >>135
>逆に秀頼の命令があった輝元
史料無し
つか妄想三点リーダーだったのか
変わんねえな >>132
徳川の振る舞いにも何ら文句をつけてないから
西軍を討伐してほしいと支持してたってことだな
とも言えちゃうでしょ
豊国神社参拝を秀頼、淀が行っていたら
支持してると表明したと言えだろうけどね >>133
そしてその恩賞は秀頼からで
家康ではないと認識してた
つまり東軍も秀頼軍であると言う認識
少なくとも東軍方ではそうなのよ >>136
論点を逸らさないでね
あなたは無知だからいないと言ってるだけで
実際に書状が残ってる >>133
豊臣政権と江戸幕府の区別が出来てないな 関ヶ原で豊臣政権ではなく徳川が支持された
というのはわかりやすいが正確ではない >>135
>「豊臣家全体として西軍派」
例えば家康も秀忠も豊臣一門だぞ。家臣に過ぎない「馬廻衆」だの出家隠居済みの北政所よりずっと豊臣家中枢の人間
知識はいい加減、論理的思考力は壊滅的な奴が何を語っても滑稽なだけ 舜旧記によると秀頼は8月3日は祈祷、6日は立願のため豊国社を参拝してるな 「豊臣家全体として西軍」←結構なパワーワードで笑えたw
難しそうな言い回しなんだが理解出来ないの俺だけ?
俺はアホなのかね? >>144
参拝なんてしてないぞ
金払って行事させただけで
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/21/0003?m=all&s=0003
8月3日祈祷は秀頼の誕生日だからその関係だろ
湯立神事で釜が割れて不吉だって次の日に朝早くからもう一度やった
6日の立願でも割れた
北政所が参拝したというのはこれか?
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/20/0024?m=all&s=0024
上記の前日の記事
輝元は金払って里神楽やらせただけで、次いで北政所は湯立神事を参詣した上でやらせてるな
史料読む限り、いずれも秀頼誕生日に絡んだ別個の動きってだけで、西軍になんらかの権威を付与する動作に思えないんだけどな
いや大日本史料読んでるだけだから分からないんだが、白峰氏あたりがなにか言ってるのか? 豊臣家が西軍だという主張だと、
通説や司馬史観よりさらに踏み込んだ話だからな……
畿内で軍事クーデターなんぞ起こした天下を混乱させた上に、形勢か悪くなればまず毛利や奉行たちは秀頼を裏切り、秀頼は三成を見捨てスケープゴートにして自分たちは助かった。という話になるからな…… >>147
舜旧記(慶長五年)
ttps://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000053069&ID=&NO=6&TYPE=JPEG&DL_TYPE=pdf
十八日、天晴、早朝政所社参、・・・
ちなみに秀吉の月命日に豊国社では毎度祭礼をやってる(北政所は参加したりしなかったり) >>148
読んだけどまた湯立神事してるだけだね
つまるとこ恒例行事をやっただけでしょう
朝廷が特別に朝敵を調伏させるようなものとは同一視できないと思います >>146
自分も同意見
読んでみたけど西軍に絡んだ行事ではなく、あくまで豊臣家中の恒例行事を執り行った
だけであって、この史料を以て西軍に与していた証左であるとするのは難しいと思う
白峰氏は公家や僧侶の日記における関ヶ原の戦いについての論文書いてるけど、そこでも特に言及はしてないね あくまで個人の日記だからそれが正しい情報かはわからんのよな
人から聞いたという話だから まあよくわからんけど家康は悪くないって結論でもういいやろこのスレ 実際このスレはずっと誰々が悪い、誰々は悪くないってアホみたいな話続けてるだけだから仕方ない 今してたのは西軍が豊臣の命を受けてないという話だぞ 自分で吹っ掛けた話題で言い負かされて、ID変えて捨てゼリフか
頭が悪い人間ってのはとことん惨めだな >>151
誤読君がなんども繰り返すから何か別の史料があるのかと思ったら、ないのか
呆れる
>>152
ぼんしゅんは豊国神社の関係者だよ
6日記事の3釜のうち1釜割れた記事には「云々」とあるから、こいつは伝聞だけどな
てか、実際に史料を読んだ上で語ってる?
はなはだ不可解 >>157
数え8歳のガキに命令なんて不可能だろ
要はその命令を出す神輿を手に入れた時点で公儀
これは秀吉が数え3歳の秀信を手に入れたのと同じこと
つまり西軍=公儀、東軍=逆賊なだけ
当時の書状でも公儀は明らかに西軍
毛利輝元・宇喜多秀家連署書状(島津忠恒宛)
「玉薬兵糧の儀は公儀より仰せつけられ候」
石田三成書状(真田氏宛)
「貴殿(真田昌幸)のことを公儀は粗略には致しません」
「この節、その方の儀、公儀御奉公有り」
三奉行書状(真田氏宛)
「内府公は秀頼様を見捨てられ出馬された」
つまり、会津征伐をして家康は公儀を放棄した、ということになっており
西軍は公儀を自称しているし、秀頼を擁して実際に化粧を施している
家康は公儀を名乗っても秀頼がいないから自称でしかない、つまり逆賊 >>161
西軍の書状から明らかってそれ単に
プロパガンダ鵜呑みにしてるだけだから
あと単純な事実関係として
秀吉の秀信擁立はフィクションね
三法師の家督は秀吉だけの主張ではなく
清洲会議で争点になったのはその後見
信孝がその取り決めを破って
単独で三法師を擁立したことで
対抗上秀吉長秀恒興らは
信雄の家督を認めて擁立した
そして軍事的に秀頼のいる大阪城を制圧すれば公儀
というのがあなたの主張なのは分かったよ
そういう政治信条を持ってるなら別に構わない
が、それがどこまで当時の共通認識なのかは
また別の話として検証がいるよ
今その話をしてたので是非参加してくれ ついでに言うと個人的には
秀頼の身柄=公儀というのは
甚だ疑問だとも付け加えておこう
一般的には公儀とは公権力を指し
秀頼一人の身柄だけではあくまで豊臣家だけの
私的な問題になってしまう
秀吉の作った政権とその実効性は
秀頼の身柄を押さえても手に入らない
西軍は公儀を主張したけども
そこまでの存在にはなれなかった
もちろんあなたの政治的信条に
文句をつける気はないけど
もうちょっと考える余地はないだろうか 革命じゃなくてクーデターだというのも西軍の勝手な主張だしね
トップを奪われた豊臣政権東軍 トップを奪われた豊臣政権(東軍)としては秀頼を奪還するか
新たなトップを立てるかの選択肢があった >>164
クーデターが西軍の主張?
東軍と言いたいのかな?
双方主張しあって東軍により多くの大名が付いた
と言うのが実情だと思うよ
他に言いようがないのに片方の主張と
それに追随した動きだけを調べて
その主張通りとしちゃうのは
歴史の扱いとしてあまりに粗雑 >>163
後鳥羽が蜂起したら上皇の謀反だし、義昭が蜂起したら将軍の謀反になる
公儀というのはそういうもので、御輿の身柄がどこにあるかは意外と関係ない
まして関白でも何でもない幼児一人の身柄など公儀には関係ない
家康の政務による統治が進んでいるのに勝手に蜂起して破壊を企むことは謀反であり
豊臣家の意思でそれをやるなら豊臣家による謀反というだけ 双方に互いの主張があるってだけの話だろうに絶対にこっちが正しい!と言い続ける今の話題は不毛すぎない?
何が公儀か、何が謀反かなんて明確な定義も無いのに自分たちで勝手に定義付けて実際はこうだったと語ってる
結局の所勝てば官軍負ければ賊軍の言葉通り勝った側に後で正当性が付与されるだけ 家康不在時にクーデター起こした挙句あっという間に鎮圧されただけの雑魚どもが公儀も糞もあるかよ 明確な定義が無いから言い方次第で何とでも言えちゃうんだよな
ぼくの考えた公儀はこうってあたかもそれが唯一絶対的な事実かのように主張するんだけど
このスレがフワフワ同じ事繰り返してるのもそれが原因か >>161
天正10年10月14日付、同月18日付秀吉書状読んでみなよ
秀吉の秀信擁立の件は創作だとわかるよ 家康が慎重で気を遣う性格だったことで謀反を起こした豊臣を一度は許してしまったのが
西軍が公儀だの豊臣が公儀だの言い出す奴が現れた原因だからね
義時みたいに謀反を起こせば天皇だろうが上皇だろうが一発アウトの島流し処分にしておけば
こんな議論は起きなかった
秀頼だって関ヶ原で島流しにあった方が結果的には幸せな人生だったろうに 個人的には家康は従属し付き従う者の気持ちがわかるから改易よりも減封で恩売った統治を選択した印象
今川、織田、豊臣と経験してきた事で思う節があった気もする 榊原康政が遠藤氏に宛てた書状で
「天下の仕置をすることが西軍はできるだろうか」と述べている
できるだろうか、と言ってるから西軍が公儀であると認めてはいないが、西軍が
天下の仕置をしようとしていると東軍の重鎮が認識していたと見ることはできる >>169
うんその通りだけど
それは秀頼の身柄押さえたから
西軍が公儀だと主張してる人に言ってよ >>177
可能な実力があるかどうかはともかく天下の仕置をしようとしないなら
何のために西軍は蜂起したんだよw
毛利あたりは瀬戸内海周辺の領土拡張できれば満足かもしれないが
奉行は天下の仕置がしたいから蜂起したに決まっている
単に奉行の権力欲が分不相応だったというだけ 天下の仕置が したい or したくない
天下の仕置が 出来る or 出来ない
>>177のは毛利の実力的に出来るか出来ないかの疑問を呈する文書だろ
健常者は普通にこう読む
わかりきった事から考える>>179はアスペの思考 最上義光物語とかいうのは、上杉と三成が結託していたとか言ってるらしいな そんな事言い出すなら、西軍挙兵なんかしなきゃよかったのにって言うけど
豊臣政権内でいくら権限や立場を強化しても、徳川の御家安泰に繋がらない事を
よりにもよって西軍が証明したんだから、徳川が独自政権を構築しようとするのは当たり前だ
こういうこと言うとすぐ「それじゃみんな各個撃破される!」とかいう奴がいるけど
それって要するに「豊臣政権なんかより自分の立場や利益の方が大事です」って
言ってるようなもんだぞ(つまり、西軍の豊臣御為は嘘であるということ)
本気で言うけど、本当に豊臣政権のことを思うのなら反家康派のような不穏分子なんか
黙って排除されて政権の礎という名の犠牲になった方がマシだとおもうけど
結果論で言うが、西軍挙兵こそが家康が豊臣政権の枠組みを見限るきっかけなのだし 各個撃破は時間がかかる
上洛した信長の時のように若ければ実行することも可能だが
もうすぐ60歳になる家康に対して各個撃破を心配する必要など本来はなかった
単に上杉がヒステリックになり周囲とトラブルを繰り返したのと
奉行連中が家康を排除すれば豊臣を乗っ取って我が物にできるという権力欲を抱いただけ 家康は悪くないから!って話はもういいよ
ほとんど同一人物なんだろうけど何回同じこと語ってるのか 家康よりも悪いやつが多すぎる
明に関白降表という降伏文書出させた三成小西とか 家康は悪くないってよりも
三成や毛利上杉にも思惑なり下心があったということがわかってきてるってだけでしょ 「西軍の場合秀頼を擁立(したように装うこと)には成功しており(>>72)」と断定する奴があらわれたから
白峰の「西軍=豊臣公儀」論に深化でもあったのかと思って突っついてみたが結局新ネタは何も出てこんかったか 「擁立します」と宣言して
擁立された方から公然と拒否られる
ということは起きなかった
これで擁立成功と見るかだな そりゃ秀頼というか豊臣が西軍に反抗しない限り西軍=豊臣公儀だからね。家康は秀頼の意思を実力で封殺して会津征伐を強行した、というのが西軍の主張
これかなり巧妙で家康は否定する手段が無い。豊臣が家康に救援要請を出さない限り家康は反論の根拠が無いから。多分豊臣家が親西軍だったから出来たんだろうが
ところが家康が予想以上に強かったから西軍は負けた 家康が強かったというよりは、西軍の連中が秀頼の御為といいながら、やってることは、自分たちの勢力伸ばしだったから支持を受けなかっただけなのでは。 じゃあ裏切られた東軍が秀頼から権力没収しても悪くないよな >>191
仮に秀頼が西軍に味方しても西軍が豊臣政権になるわけじゃないんだよ
そこは理解出来るよね? >>186
なぜ同一人物だと思った?
一人一回しか言ってないぞ >>194
理解出来ないと思うよ
理解出来てたら
こんなにスレ続いてない ほんといつまで同じ話繰り返すんだって感じだな
全員一方的な意見垂れ流すだけの酷い有様が何スレ続いてるんだろう >>191
輝元が大坂城本丸に踏み入れられていないことが「豊臣が西軍に反抗」した証だろ
主君の城に入って挨拶しようとしないとかありえんし、秀頼(の周辺)に対面を拒否されたとしか解釈できん
コピペ元の白峰がこの点に言及したのかスルーしたのか知らんが >>177
ちょっと弱気になってて草
お前前スレで「認めてる」と断言してるじゃん
989 人間七七四年 2023/04/16(日) 16:52:44.06 ID:5tHaAIbA
家康の謀反は明らかだぞ
「舜旧記」慶長5年7月15日条で「天下への謀逆」が「露見」したとある
家康の軍事行動は豊臣氏への反逆行為に他ならない
他にも慶長5年8月日付不明付で榊原康政が書状で
「別心の衆」が「天下之仕置」をしていることを認めている
徳川四天王の1人が認めるくらいだから、家康はれっきとした反逆者である
ただ、戦争に勝って大義名分を手に入れて簒奪しただけ 上でも触れられていたが
>>198
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0075?m=all&s=0074&n=20
本丸で輝元は秀頼にあいさつしてるよ
このときに輝元家臣3人を本丸に「御後見」として残している
後見というよりは監視役に近いと思うが
会津征伐前に家康に対してされたような公式な授権行動(朝廷や秀頼本人からの贈与行為など)は輝元には確認されない
かといって秀頼という玉を握ってるのは輝元西軍なのも事実(ごく消極的に馬廻り出したりも)
じゃあそれをもって東軍が自分たちが賊軍になったとは捉えないでしょ
近衛第一師団が皇居占領したとして、近一師が官軍だとは誰も思わないのと一緒だ
朝廷も豊臣本家も様子見してただけだ
それだけのことでズルズル繰り返す話じゃないと思うけどな >>191
金と食料がない限り戦はできない、戦国大名なら紙の上の大義名分より現実的な証拠を重視する
そのため豊臣家が西軍に軍資金と兵糧をばらまかない限り西軍=豊臣公儀にはならない
なにせ豊臣家は家康に対して軍資金2万両と兵糧2万石を差し出しているのだから
西軍に家康以上の軍資金と兵糧を差し出さない限り豊臣公儀と認めることはできない
家康には軍資金も兵糧も差し出すけど西軍には出さないなんて態度を見て
西軍大名が自分たちは豊臣家のために戦う公儀の軍だなんて信じるわけがないだろ
三成の軍資金・兵糧支援要請が無視されることで西軍は豊臣公儀でも何でもないことが露呈した >>200
本丸に入って輝元が秀頼に挨拶したなんて書いてないのだが
輝元は西の丸に入った、とある明記してある
とりあえずお前が持ち出した「豊臣が西軍に与してる(>>111)」という意見を「朝廷も豊臣本家も様子見してた」と取り下げたんなら「西軍=豊臣公儀」話はこれで終いだな
俺は元々、西軍が「公儀」だったか否かを論じる必要性をあまり感じてない(>>75)のでそっちの方がうれしいよ 家康が受け取った金と米は家康が恫喝して出させた物で秀頼の意思じゃないって話になるだけじゃないの?
それに豊臣軍が西軍として動いてるのは史料から明らかでその費用を西軍の誰かが親切にも負担したとは思えない。豊臣家奉行の増田長盛が西軍なんだし豊臣の資本がそのまま西軍にも使われたんだろう
豊臣家が西軍の首脳部なら拒否も出来るだろうが仮に恫喝されていたなら資材供託を拒絶出来るわけもないしね >>203
その理屈だと西軍が秀頼の名前を騙り奉行の増田が豊臣家の資産を横領だけじゃないの
西軍のために豊臣家の公式行事が行われてないのはどうしようもない 家康支持したのは脅されたからで
西軍支持は豊臣の意志だと言える根拠は?
そこは何ひとつ出せずにいるじゃん 会津征伐は後陽成天皇から晒布100反の下賜があって朝廷も公儀による征伐と認めてるが
西軍は挙兵してから朝廷に何らかの働きかけやったのかな
家康の内大臣を褫奪させるとか会津征伐の公認を取り消させるとか
それやってない、やれなかったのなら依然として権威は家康の方にあって
豊臣家などより上の朝廷が認めた公戦を妨害する挙兵をした西軍のほうが逆賊とさえ言えるだろう >>203
まだ続ける気かよw
「それってあなたの(ry」 そもそも豊臣公儀ってちゃんとした定義としては何なんだよ
そこが分からないまま正当性がどうのこうの語ってるからあやふやな話になってるんじゃないの >>205
それで豊臣が西軍に与してるのが効いてくるって話
家康が「会津征伐は秀頼さまに認められたものでそれで資金も貰った!」って言っても西軍は「秀頼さまはそれは徳川軍が大坂に居て脅されて認めざるを得なかったと言ってる。もし違うって言うなら秀頼さまからのお墨付きをだしてね」って言うだけ。家康にはそんな書状が無いから家康は公儀を名乗らなかった >>204
西軍が豊臣家を脅迫してるなら大坂城の資材は何をおいても確保される。毛利輝元がどれほど滅私奉公の徳仁を有してたとしても自分のカネで戦争するはずがないからね
つまり大坂城の資材が使われてないとするならそれは豊臣家が西軍に協力していたことを意味する。少なくとも脅迫はされてない
西軍が豊臣家を脅迫していたというなら大坂城の資材が使われてない云々は大嘘だろう >>210
効いてないから会津征伐軍がそのまま東軍主力になり
先鋒が動き出したら離反者内通者続出したんでしょ
豊臣が西軍て結局西軍の主張でしかないし
西軍が実効支配した畿内の一部でしか
そのように扱われてもいないじゃん 白峰氏が言うように西軍=豊臣公儀なのは明らかなんだが実は「関ヶ原は豊臣公儀の内紛」という人と白峰氏は同じ勘違いをしてる
それは「秀吉恩顧の武将は秀頼を主君としてる」というのと「武士は公儀に従う」って二点。この勘違いがトンチンカンな結論を招いてる
武士が公儀に従うならそもそも下剋上の世にならない。武士が味方するのは自分を守る力がある存在であってその力が無い者は天皇だろうが将軍だろうが見捨ててる
つまり確かに家康は豊臣公儀から追放された、がそれで家康の人望は失墜しなかった。そして家康の戦略が西軍の戦略を凌駕したので勝った。まぁ歴史を見るとよくある話よ >>212
それが勘違い
何で西軍に豊臣家がいるなら会津征伐軍が瓦解する?そんなことは起きない
重要な事実の一つに東軍は殆ど家康若しくは徳川と親しい連中で構築されてると言うものがある。秀頼が家康討伐を叫んだが家康に親しい連中は家康に就いたというだけで特別おかしな話じゃない
新当主が家老を討伐しようとしたら逆にやられた、ってのが全国版になっただけ >>211
>西軍が豊臣家を脅迫してるなら大坂城の資材は何をおいても確保される。
>つまり大坂城の資材が使われてないとするならそれは豊臣家が西軍に協力していたことを意味する
さっぱり解らん
理屈になってない
意味不明 >>202
なんか別人と勘違いされてるようですが
それとは別に
輝元は本丸に顔出してるがな、上記史料だと
ちゃんと読んだ?
どう読んでるんだ? 「豊臣恩顧の大名は秀頼に従うはず」というのはかなり頭お花畑な思考回路で正直小説を真に受け過ぎだと思う
というか当の西軍すらそんな考えは持ってない。もし秀頼にそんな人望があれば東軍諸将に秀頼直筆の家康討伐命令書が山の様に送られて現代まで残ってるだろう。西軍が豊臣家を制圧してるならそれくらい簡単に出来た
つまり西軍は「秀頼は西軍」と言えば皆西軍につくなんて考えてない。それで東軍を切り崩せるとは考えてなかった
要は「秀頼は西軍」というのは西軍と志を同じにする者にしか効果が無い。徳川と親しい連中、福島正則や池田輝政、浅野長政なんかには何の効果も無い。おそらく当主に反感のある連中が当主に反旗を翻す動機になれば御の字だったんだろう。例えば前田利政みたいな奴がね >>214
いやだから秀頼が家康討伐を叫んだなんて
そんなの何の根拠もないだろ?って話してんの
あなたが思い込みでそう言い続けてるだけじゃん >>216
いずれにせよ「ズルズル繰り返す」のかw
>本丸に顔出してる
どの部分? >>219
「輝元公は大坂被御上候、秀頼公御六歳にて大坂の本丸秀頼の方へ被成御出候、此時…」
ここでどういうやり取りがあったかは知らん
一次史料ではないが、このときの褒美に輝元からもらった鞍がまだ家にありますなんてあるから概ね信じていい史料と思います
そっちこそいろいろ断言していた部分の根拠史料よろしく
このスレの「論争」とやらには興味ないんだが、事実として史料にありますよって指摘ね >>217
自分たちが公儀とか言ってる奴が西軍だぞ
東軍で公儀とか言ってる奴いたか? >>220
まさか二次史料を持ち出すとは思わんかった
下二介書状だと「秀頼公御六歳にて大坂の本丸秀頼の方へ被成御出候」の部分存在しないよね
いろいろ断言したってなに? >>221
西軍が豊臣公儀軍なら三成個人が討伐されても公儀であることに変わりはない
逆に西軍が石田謀反軍なら三成さえ討伐されれば消滅する
つまり西軍が豊臣公儀かどうかを確かめる最も有効な方法は三成を討伐することなんだよ
だから東軍はまず三成を討伐して西軍が豊臣公儀かどうかを確認しようということになった
むしろ東軍は西軍に自分が公儀だと証明できるチャンスを与えてあげたとも言える
西軍は三成が討伐された後も自分たちは石田謀反軍ではなく豊臣公儀軍なんだという信念を貫けばよかっただけ
それをやらなかったのは西軍自身なのだから東軍が自分こそ公儀だと主張する以前の問題なんだよ >>222
書いてないから書いてあると示したわけなんですよ
二次史料って、リンクはったもの読めば分かるでしょうよ
ついでに下なんちゃらは知らないので原文教えてくれると助かります
読んでみたい 豊臣政権の正当性争いに公儀って言葉使うからアホにはわかりにくいんだろ
ラーメン屋の元祖と本家の争いレベルの話 家康が野心家なのをこのスレは否定しすぎ
1600年10月4日の黒田如水の吉川広家宛書状でその野心が著されているように、家康も簒奪を狙う野心家 東軍は三成と派閥一党を奸臣だから排除すると言っているだけで
公儀がどちらかなんて主張していないし気にもしていない
あくまでも西軍が勝手に叫んでいるだけ
西軍が自分たちを公儀と信じるなら三成討伐後も主張し続ければいいし
実は三成の謀反でしたと主張するのも西軍の自由だろう
西軍が勝手に公儀だと主張したり引っ込めたりしているだけで東軍には全く関係ないことだよ それは無い
何故なら三成と吉継を撃ち破ってるのに作戦行動を止めてないから
東軍は全員倒すべきは毛利輝元と知ってるしその為には大坂城攻撃もあると思ってるよ。その過程で秀頼が死んだとしても仕方ないの精神で >>231
>その過程で秀頼が死んだとしても仕方ないの精神で
司馬遼太郎もそこまで妄想はしてない >>228
その家康の野心を上回ったのが石田三成の野心 東軍は石田大谷の謀反と認識してたのは最初期で
その後すぐに三奉行謀反総大将毛利と認識されてるよね
大阪を攻めたら自暴自棄になった西軍が
秀頼を弑するという心配はあまりない
仮にも公儀を名乗ってるのを台無しにする行為だから
実際に秀頼が陣頭に立つようなことがあれば
東軍にも動揺はあっただろうけど
そもそも碌な判断力ない幼児に何させてんねん
って案件なのは変わらない >>231
三成の派閥舎弟である秀家が逃亡中だから
吉継を殺害して三成と行長を捕縛してもまだ作戦行動が続くのは当たり前だろ
それに東軍の誰も輝元を倒すだなんて言っていないよ
輝元が三成と心中したいというなら話は別だが
そうでないなら輝元を倒す必要がないのは東軍大名も認識している >>225
はあ。二次史料にはそう書いてあるものがあるんだね
200は「本丸で輝元は秀頼にあいさつしてるよ」としてるが
やっぱり一次史料からそれは確認できないということで良さそうね
200に張ってあるリンク先の74後半から75前半に載ってるのが下二介書状の内容だね
実物がどこかにアップされてるのかは知らん >>236
以下引用
>>191
輝元が大坂城本丸に踏み入れられていないことが「豊臣が西軍に反抗」した証だろ
主君の城に入って挨拶しようとしないとかありえんし、秀頼(の周辺)に対面を拒否されたとしか解釈できん
コピペ元の白峰がこの点に言及したのかスルーしたのか知らんが
ここまで断定できる根拠の一次史料を挙げてね
違うよと二次史料は示したんで
私は豊臣本家は超消極的に仕方なく西軍に与したと考えてるんですが、「西軍に反抗」した一次史料が見つかれば論文書けますよ
頑張ってください 大坂城本丸に入らないのは当然じゃないの
何故なら豊臣公儀は秀頼の要請によって毛利に「守護」を頼んだから。義演准后日記七月十八日条に「大坂城西の丸へ毛利宰相が御守護」とあるからこれは大々的に発表されていたことがわかる
だから輝元が本丸に入る理由が無い。西ノ丸に居て充分に西軍=豊臣は示威出来てるから。これを否定するには例えば秀頼が馬廻衆と天守閣に立て籠もったとか西ノ丸を攻撃したとか大坂城から逃げたとかそう言う明確な敵対行為が必要
そういう動きが無かったから上方では「秀頼が家康追討の軍を挙げた」と解釈されてた >>238
秀頼の依頼~?
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/8/0049?m=all&s=0048&n=20
この2通の書状に秀頼の依頼だなんてでてこないけどな
三奉行が「大坂御仕置之儀付而、可尋御意儀候間」はやく輝元に来てくれ~という要請はしてるけども
輝元は三奉行の要請に「兎角秀頼様へ可遂忠節之由言上候」と返したそうだが、秀頼の要請なんて一つも出てこないな
あとね、義円の引用間違えてる部分ありますよ
細かいことだが、文法としておかしいから気づくだろう
「が守護」じゃなく「為守護」な >>238
おら出てこいIDチェンジして逃げるなよ 下二介(吉川広家家臣)書状の内容は200のリンク先にある輝元の大坂入城のことだけじゃないけどね
広家が作三という使者を駿河府中に遣わしたことや、東国衆が攻め上ってきた時
に瀬田で一戦するため、瀬田の普請を仰せ付けられたことなんかも書いてある 西軍が秀頼擁立を「主張した」のは事実でしょ
それに秀頼やその近臣の「実質的なコミット」があったか?
これは大阪城という密室の外への秀頼らの連絡の
痕跡がないのだから「わからない」としか言えない
毛利への入城要請は奉行らのものだし
動員令も残ってない
毛利と奉行らは例の秀頼に忠義でも
方針が違えば討つという密約の関係だし
大阪城占拠後コミットを得られなかったからって
馬鹿正直にそう発信するかというとそんなわけない
んで秀頼擁立が実質的なコミットを得たものと
受け入れられていたかというと
それは「ケースバイケース」
少なくとも早々に西軍の実効支配下に置かれた
畿内の公家の日記ではそのように記録された
ただ家康側も「西軍の天下の仕置きを認めてた」
とするのは反語を文字通り受け取る胡乱な解釈
地方の東軍勢力では家康を依然政権首班と認めて
彼に奉公するのが秀頼からの恩賞に繋がる
と認識されていたのが文書で確認できる >>238
秀頼や輝元の真意とか、西軍が本気で自分たちを公儀だと主張しているかどうかなんて
大坂に行って事情聴取しない限り分からないことなんだよ
だからこそ東軍がやるべきは家康を大坂に送り届けることだった
大坂に言って話し合えば、実は冗談であり本当は戦う気などなかったとなるかもしれない
西軍の主張については大坂に行くまで判断保留というのが東軍の最初からのスタンスだった
もちろん家康の大坂行きを妨害する三成が死刑になるのは当然のことだが
それを除けば西軍の主張については、大阪に行きさえすれば話し合いで解決する余地があることばかりだった 豊臣公儀の意向=秀頼の意向なんだよなぁ
八歳のガキが直接天下を差配していた訳ないし、もしそうならそれこそ西軍の決起を防げなかった事を恥じて切腹しなきゃいかんかった
結果的に切腹してたら豊臣の名は汚れなかったろうが 何この家康擁護スレ
どんなに家康を擁護しようが、家康が簒奪者なのは変わらない
家康が簒奪者で無いというならば、畠山満慶みたいに政権返せよ
簒奪者の奸臣家康 >>245
んな話してねえだろ
脳みそ縮んでそうだなおまえ >>237
一次史料で裏の取れない二次史料の記載を信用してないだけだけど?
輝元が本丸に入ったと書かれた一次史料を俺は見たことないぞ。あるのか?
お前が引用した1・2行目を読めばわかるように、「だろ(う)」と自分の解釈を述べたのであって『断定』なんてしとらんぞ
・・・それ以前に「ある(この場合本丸に入った)」と主張する側に証明責任があるという議論のルールは理解してるか? >>245
文句があるなら
ちゃんと反論しなよ
悪口言うとこじゃねーぞ 毛利が大阪城に入り西軍が伏見城を攻撃し始めた時点で豊臣家の天下は終わった
豊臣家を天下人の家から追い落としたのは西軍
空位になった天下人を誰にするか決めたのが所謂関ケ原の戦い どこまでが豊臣公儀?っていう実質的には何の意味もない話もあるけど西軍は豊臣奉行が指導してるんだから西軍と豊臣を切り離すのは難しい。というか豊臣が西軍を主導していないならこのまま西軍が勝っても、反対に東軍が勝っても豊臣家は天下人の位から転がり落ちる。部下に全員裏切られて何もできないような武士に仕える奴は居ないんだし
まぁ現実そうなった訳だからどうしようもないが 反乱を止められず大坂城占拠されてるからどっちみち豊臣の威信は地に堕ちてるが ちゃんとした政府が存在する状態で無理やりクーデターを起こしても
成功はしないし政府が崩壊することもないわけで 毛利が公儀代理、後見なのは明らかなのに何言ってるの?
島津に公儀から弾薬や米をあげると言ってる
つまり豊臣から支給されてる
この時点で間違いなく政権後見は毛利だから
徳川は逆賊 三奉行が公儀かどうかはともかく、毛利を呼んでしまった時点で豊臣政権の威信は地に落ちたことになるからな……
西軍が勝っても毛利のおかげだし、東軍が勝っても徳川のおかげだし。豊臣家は戦乱を治めことが出来なかったことになるし。
家康打倒のためには、純軍事的には毛利の力が必要だったけど、豊臣家の事を考えるなら自分達だけですべきだったんだろうけど、なかなか難しいな。 >>254
豊臣政権側(東軍)から見れば秀頼が逆賊だな 「秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる」 >>256
逆賊は家康だぞ
まあ、家康の野心を見抜けなかった秀吉の責任でもあるがな
こんな評価がされてるのに、秀頼の後見人に家康を選んだんだから 家康はもちろん東軍諸将も恭順してないのに公儀と言えるのかね
天下の諸侯全てを従わせてこその公儀だろう
情勢として天下が二分されてる以上どちらが公儀とも言えない
Brnng475から見れば西軍に走らなかった東軍諸将も逆賊ということになるわけかな
ていうか逆賊なんて朱子学イデオロギーな用語使ってるとバイアスかかったアレな人にしか見えないな 室町幕府も応仁の乱で外部からの大兵力を抑えられなかったせいで権威が大きく失墜して明応の政変で実質的な終焉を迎えてる
明応の政変での細川勝元が西軍で足利義材が東軍
西軍にしてみれば同じ結果を目論んでたんだろうが結果は真逆になった
関ケ原の戦いは応仁の乱と明応の政変がまとめて起こったようなもの
どちらにしろ権威が失墜した豊臣家の天下は無い >>247
引用した萩藩閥閲録は史料価値が高いんですよ
挨拶しない方が不自然なわけで、そうだったら一次史料に残ったかもしれないね
国司隼人が挨拶のときに同行し、そのまま本丸詰めになったから記録されていたわけで
鞍つきの馬をこのときにもらって、鞍はいまも家にあると証拠を提示している部分もポイント高い
たとえば家康が関ヶ原後に秀頼に挨拶した記事
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0016?m=all&s=0016
大日本史料に依拠すると一次史料には確認できず、卜斎覚書以下の二次史料にしか見えないんだが、これも否定なさるのですか?
輝元のよりはるかに重要な会見のはずなのに、一次史料ってのはそういうもんで、史料批判しつつ二次史料も適宜使っていくしかないんですね
むしろ、挨拶したという二次史料があるのに「一次史料にないー、拒否されたに違いないんだー」という筋立てがまともですか?
白峰氏は一次史料とそれに準ずるものだけで関ヶ原を分析してますが、だからこそ書いていないことには言及しないんですよ
妄想誤読くんも一緒ですが、✕✕がないから○○じゃないとおかしいというのはね、価値のない妄想です 公儀に力が無けりゃただの仲良し倶楽部
太閤の息子ってだけじゃ人は従わないよ >>262
西軍の首謀者が挨拶したと主張したのは
一次史料でなくても信用できるよね
そしてその際に具体的な支持表明や
下賜品による暗黙のそれもなかったことも 同じ萩藩閥閲録でも
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-6-3/12/0009?m=all&s=0002&n=20
上記は杉杜伊織(椙杜元縁)の記事
伏見城攻めに関し、「伏見の城御取詰之時、輝元様為(秀頼の)御名代人数三千御付候而、伏見へ出」とある
以下、諸将と「仕寄場」(攻城拠点)を視察して、城に近づいたときに元縁が「手負手柄」を立てたという
本当なら重要な記載だが、その他多くの一次史料にはまったく見えない(帝大もそう指摘している)輝元の御名代としての視察を信じるべきか信じるべきでないか
総大将の軍事動静が記載から漏れるとは考えにくい
元縁が負傷する手柄はあったのかもしれないけれども、輝元前線視察については誤伝と考えるのが筋でしょう
二次史料だって重要な史料なんですよ
対して一次史料にも事実誤認や誤記載、場合によっては嘘がある
一次史料を盲信するなら、秀吉が清秀に与えた書状に基づき、本能寺で信長親子は逃げ延びたこととなってしまう
>>264
そうなりますよね
小早川秀秋宛て黒田、浅野書状には「政所様へ相つづき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候」とあることからも、北政所については西軍を支持していないのは明白
一部外形的には「豊臣vs徳川」になってしまっただけで
身柄取られてるんだから仕方ないですよ 家康は慶長5年7月15日から9月27日までは反逆者
秀頼と和睦して公儀に復帰しただけ 萩藩閥閲録に収録されてる感状類の中には怪しいものもありそれは研究者も指摘してるが、書状に関しては一次史料と見て間違いない
実際閥閲録に収録されてる書状写しでも原本が現存してるものも数多くある
原本の破損が激しく不読部分があるものなんかは閥閲録から補ってるものあるしね
閥閲録内の書付の信憑性に関しては記事の内容によるだろうな
ただ二次史料だからと言ってそれだけで全く顧みないのは違うな 家康が豊臣公儀から追放された事を重く受け止め過ぎ
公儀に追放されたところで実力があれば逆に粉砕出来る、というかそれをやってきたのが下剋上の戦国時代なんだから
豊臣家としては自分達を侵食してた徳川を削りたくて毛利に乗ったんだろうが予想以上に家康が強かっただけ
それは簒奪でも掠奪でもなく、自業自得 >>262
第一段落は、お前がそう思いたいなら敢えて否定しないよ同意もしないけど
第二段落は、卜斎記の記載から家康が秀頼に挨拶したとは断定できんよ当然
ただ、もし挨拶しなかったんなら西軍側がその非礼を諸大名に喧伝しないのはおかしいとは思う
あと、「輝元のよりはるかに重要な会見のはずなのに」というお前の感想にも同意しない
家康よりずっと立場が弱い輝元にとって、秀頼や淀から自身の行動を承認してもらうことはより重要だったろうと思う
ついでに「使っていく『しかない』」というのは理解できん。一次史料に見られない記述を真だとする『しかない』とお前が思う理由はなんだ?
三段落目は、俺は閥閲録を「使っていくしかない」とは思わないというだね。素直に一次史料に見れないんだから挨拶してないとするだけ
四段落目は特に意味不明だし、がんばって読解する気にもなれないんで、はあ、とだけ。 >>269
同意
いっちゃあ悪いが、史学のことをてんで知らない人間ほど「一次史料がー」と言うんだよな
それだけ言ってりゃさも考察した雰囲気が出ると思ってるんだろ
どうせ史料を読めもしないのにな
あげく、一次史料にないから拒否されたに違いないんだという暴論に発展する
妄想誤読くんとなんら変わらないよ
誰が正義だ悪だ、強いだ弱いだ、そんなことはどうでもいい
何が実際にあったかを検証するのが史学なんだけどなあ >>271
第一段落について、あなたが肯定しないのはそれでもいい
第二段落は、豊臣vs徳川のピリピリした関係が、あなたの好きな一次史料に書いてあるでしょう
ソース示したんだから読んでますよね?
一部外形的にはそういう対立になっちゃったわけで、家康の行動が注視されていたのが分かるわけで
戦後処理については、一次史料では毛利輝元は謀略を知らなかったのでノーカン(ということにした、吉川の働きね)
二次史料では秀頼も幼少で知らなかったんでーすとしているし、細部はともかくその後の動静と符合する
三段落以降の反論は意味不明なので解答せず 主君の秀頼が家康らを裏切って西軍を公儀にしたなら裏切られた東軍に負けたら領地没収されるの当たり前だよな >>254
毛利が本気で公儀代理をする気があるどうかは関東からではわからないので
家康が大坂に行って直接確認する必要があるだろ
大坂で家康が確認したら実は冗談で本気ではなかったという可能性もあるからな
毛利が公儀代理であることは大坂に来た家康が確認して初めて確定すること
だからこそ東軍大名は家康を大坂に送り届けたわけで
そこで毛利が家康に対して自分こそが公儀代理だとはっきり主張すればよかっただけ
逆に毛利が家康に対して公儀代理であることを主張しなかった時点で本気ではなかったことが証明された >>273
繰り返し同じこと書かせるなよ「豊臣」って誰だ?
史料から、ピリピリした関係を、お前が、読み取ってるんだろ?
解釈するのは勝手だが、それを客観的事実が如く書くなよ
お前の文章は全般的に事実と解釈をごっちゃにしてて、無駄に読み辛くてイライラするわ
まあつまるところ、お前は「輝元が本丸で秀頼に挨拶した」と解釈したほうが「その後の動静と符合する」と思っていると。
正直『しかない』とする理由に全くなってないと思うけど、そこは解釈の違いと理解しておくよ。 小説を書くなら推測でもいいが史学だとそうもいかない >>267
だからそれは何ら事実の指摘になってなくて
あなたの政治的立場の表明にしかなってないのよ
当時そう言う立場に立って主張してた
西軍がいたことは間違いないのだが
400年も経った今同じレベルで
あなたが主張するのは馬鹿げている >>275
冗談で改易してたらサイコ過ぎるしそれを認めてた豊臣家の責任問題になる
八月までには家康は三成は主犯では無く主犯は毛利と分かってたよ >>282
輝元はよく考えずに突拍子もない行動を取ると広家も愚痴をこぼしているし
百聞は一見に如かずのことわざ通り、輝元の真剣さを見極めるためには
大坂に行って視察する必要があるだろ
家康が大坂での視察を終えるまでは、西軍が公儀だとか輝元が公儀代理だとかは判断不能だろ
公儀というのは遊びじゃないんだから、口先ではなく実地調査によって判断されるのは当たり前 輝元がそんなキ◯ガイな訳無いだろう
こいつやってること知的でかつかなり狡猾だから >>276
私のいう豊臣本家は秀頼と淀と北政所、そしてそれをサポートする家政機関な
言経卿記「内府大坂へ御出也云々、秀頼公和睦也」
義演准后日記「大坂本丸は秀頼様御人数警護云々、但治定未聞」「内府大坂へ御入云々、輝元は本国へ帰云々、治定未聞」
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-2/54/0016?m=all&s=0016
この見開き2ページ読んだだけでも外形上は豊臣対徳川と認識されていたことが分かるし、ピリついた空気が伝わるでしょ
それと史料の取り扱いに疎すぎやしないか?
一次史料しか信じませんってのは史学かじったことすらない証拠だよ >>285
つまり家康は秀頼に裏切られたので簒奪されても仕方ないと
てめー家康信者かよ >>284
狡猾ならなおさら東軍が大坂に来て、この目で直接確かめないと
公儀代理だとか後見だとかを判断することはできないな >>283
大阪行くまでもなく毛利と奉行は東軍にとっては敵だよ
大阪占拠して改易沙汰してあちこち出兵した後で
今更「そんなつもりはなかったんです」とか言っても
意味ないし真剣じゃないから赦されるようなことでもない
関ヶ原毛利軍と交戦しなかったのは
内通者がいて交戦を避けたからであって
敵が味方か確認できてなかったからではない
兵を引かなきゃ普通に責められてたろうし
吉川が話通してなきゃ追撃されてたろう >>285
言経や義演の認識はそうだけど
それが当時の統一的な見解ではないし
多数派の見方かどうかもわからない
当の東軍の中には内府に奉公(見方)して
秀頼から加増を貰う(内府にとりなしてもらう)
という認識もあった訳でな
公家のほとんどがいる京洛含め畿内は
早々に西軍に占領されていた
なので西軍の主張をよく聴いていて
その敵対勢力の声は届きにくいし
西軍の主張を否定するのも危険を伴う
なので西軍のプロパガンダに沿って
事態を理解し行動してたと理解していい筈 奉公する相手が重要で自身の恩賞が何処から出てるかは問題じゃないからなぁ…
西軍の作戦に協力している以上豊臣は敵って認識は東軍全体にあったろう。少なくとも味方では無い
家康が優しかった事と輝元が降伏したこと、豊臣家に何ら人望が無かったから生き残れたけどどれか一つ欠けていたら処断されていたろう 大阪入りするまで「本当に敵対してるか不明」
「敵対してない可能性がある」と観られていた
というならそれは毛利輝元ではなく
豊臣秀頼とその周辺「豊臣家」そのものだよ
なんせトップはほんの子ども あるいは
これまで表向きに口出してこなかった生母
さらに本人たちから直接大阪城外に指示はでてない
出回ってるのは西軍が聴いたという伝聞情報のみ
客観的に観ても判断しにくい状況よ
東軍としても「実態確認して事実無根だった」
とする方が穏当で早期解決に繋がる落とし所だしね
その方向で動いてる >>291
西軍に協力してるのは奉行や馬廻であって
豊臣家、豊臣政権はまた別なんよ
少なくとも東軍の主張としてはそう
西軍の主張とは真逆ではあるがね
実際に豊臣家(秀頼、淀)の行動や真意が
どうであったかはまた別だが
少なくとも史料上は判断できない 秀吉死後の豊臣政権の
トップは家康なの?
それとも秀頼?
それをはっきりさせるだけで
このスレの議論は終わるかも 自身の軍団を統制出来てなかったとするならもう武家としての豊臣は死んでいたということになるな 豊臣政権のトップが誰かってのが一番難解だから論争になってる
豊臣公儀が誰にどの様に運営されるかは秀吉の場当たり的な遺言と秀吉死後の朝鮮撤退やゴタゴタによって確立する事なく成立した十人衆合議制で決定されることになった。ただあまり研究を知らなくて申し訳が十人衆合議において秀頼がどんな立場なのかが不明。秀頼に政治決定権は無いのだから将来かなり危険な事態を招いたろうが…例えば秀頼が愛臣を加増しようとして十人衆が反対したらどうなるのか?といった観点があったのかどうか それで鍵になりそうなのが慶長四年の家康私婚事件と三成襲撃事件だと思う
慶長四年一月に四大老五奉行が家康に婚姻について使者を出して糾弾、それを受けて家康は「婚姻については奉行にも通知して伺いは立てたろうが!」と激怒して訴人糾明を求めた。結果五奉行出家、四大老謝罪で終わった訳だが太閤御掟には大名の縁辺には許可を得よとある。つまり政治決定者が許可を出せば縁辺していい。ならもし秀頼が政治決定者なら「秀頼の許可は得たのか」「秀頼の許可があったのに」になるはず
つまり秀頼は豊臣公儀から断絶してる訳で果たして豊臣政権のトップと言えるかと問われれば否となるんじゃないか 現代より大人と見なされる年齢が早い当時でも
さすがに6歳かそこらが最終決定の意思表示できるわけないというのは共通認識だったろう
まして豊臣政権の真正なトップである関白になってないんだし法的にも秀頼はトップではない
そうであれば生前に与えた官位や秀頼との縁戚関係といった待遇を見れば
秀吉の構想では家康が秀頼成人までの暫定トップだったとしか思えない
少なくとも徳川を秀頼の後ろ楯にするつもりだったのは明らか
三成ら奉行や毛利がその秀吉の構想を認めず踏みにじって十人衆をゴリ押ししたから混迷が始まった もし三成らが挙兵しなかったら
つまり関ヶ原が起きなかったら
家康は秀頼が成人したら
政権を返したんだろうか >>300
政権を返すというのがどういう事かにもよるが、少なくとも徳川の立場や権威が
豊臣政権によって保障されている状態なら、徳川が幕府という新たな権威を作る動機はない
徳川は政権内において朝廷における藤原氏のような感じになると思われる
そもそも徳川が権力を行使して豊臣がそれを権威をもって保証する形で充分政権は回るので
お互いがそれぞれの立場をわきまえてれば対立する動機や必要すらないと思われる
ぶっちゃけ豊臣家視点だと家臣団豊富な徳川を優遇して取り込んだ方が
家臣団の薄さが課題の豊臣の欠点を補えるので豊徳合体を目指した方が得 豊臣家が西軍に与したのもそれが理由だろうね。このままだと豊臣は徳川に侵食される。そうなったらもう豊臣が真に天下を差配することはできない。だから今のうちに徳川を排除ないし弱体化させたかった
豊臣家の誤算はそもそも豊臣に天下人たる力が無かったことで故に徳川派の大名を寝返らせることが叶わなかった 秀頼「家康が裏切ったのではない、私が家康を裏切ったのだ…」 というより自分の家臣が自分の命令を聞かなくなった時点で…
かといって家康を頼らないようではね 戦場で子分共と苦楽を共にしか、勝利し、知行分配を行うことで初めて武家のトップと認められる
戦場に出ても来ない秀頼は天下人の子として尊重される存在ではあるが自分たちのボストとは崇められない
三好が足利将軍抜きでわずかな期間とは言え天下を差配したことで血統ではなく実力者が天下を差配する時代になった。秀吉は身分を固定化する前に死んでしまったんだから秀頼は1度は戦場に出て実力者たちを黙らせる必要があった >>291
少なくとも清正、福島の二人は「秀頼様のため」と書状ではっきり意思表示してるけどね
東軍の共通認識として秀頼は敵であるというものがあったならこういう言い方はする必要ないよね
全て内府御為でいいわけだし その2人だけってのが寂しい限りだけど真に受けるのも危ないかと
秀頼が家康に救援要請して家康が公儀として西軍討伐に向かうなら筋は通る。問題は家康は一切豊臣家から公儀性を与えられてない上に西軍が秀頼様御為を打ち出してること
それまでの家康の振舞いが専横と見られてたのは蜂須賀家政書状にもあるから本当に豊臣家が家康を排除しようとした可能性は否定できなかったはず
でも東軍諸将は豊臣家の意向を確認せず要は無視して家康に付き従った訳でこれはかなり注目されていい出来事だと思う
彼等にとっては秀頼の意思は家康が決めるべきものだったと 秀頼が会津征伐を命じて、家康が遠征軍を率いて出立し、西国大名も従うはずだったんじゃないの
その命令が取り消されてないのに大坂に入って遠征軍の大将を罷免しようとするってどうなのよ 家康討伐令も出てない
内府ちかひの条々などにも豊臣家の印が無い
あるのは西軍の言いっぱなしのプロパガンダだけ
そうなると各々で方針を決めるよりない
そしてそれは各大名に豊臣家への見限りを加速させる 三法師を信孝が抱えてても秀吉は無視して信雄に織田家の家督を継がせるし動けない幼君は扱いが軽い そもそも子供に発言力が無い時代なんで誰も秀頼の意見とか気にもしてないやろ
秀頼を尊重するのと秀頼の意見を尊重するのは全く違うからな >>275
全く意味不明
伏見城攻め落としたり
蜂須賀改易したり
瀬戸内占領しまくったり
冗談でやってる可能性を考える必要あるのか?
本気だろうと冗談だろうと許されんのだし
対応は変わらんだろ >>290
だからそう言ってるんだろうが
あくまで対立は「外形的」と強調して史料も挙げてきてるだろう
その上で、なぜ頑なに輝元と秀頼が会っていないと言いきれるのかが疑問なんだよ
中世惣村の研究みたいな狭い範囲なら一次史料だけで論文を構築できる
しかし通史となると二次史料がないとやっていけんよ
繰り返すが史料は一次だろうが二次だろうが史料批判した上で用いるもんだよ
一次史料に記載がないから認めません~なんてのは知ったかぶりのド素人の言うことです >>290
だいたい君はさかしらに一般論を述べるだけでまったく史料に依拠していない
全然史料が引用されないことからも明白
なのに一次史料偏重主義という化け物
おそらく君は自分で史料を読んだりはしないんだろうが、君が知っている「知識」には研究者が二次史料を読み解いたものが多数あるんですよ
もしくは質の悪い作家の駄文か >>313
個人的には会ってるとも会ってないとも
断定できないと思ってるよ
いずれにしろそこで決定的な支持表明になる
「何か」を引き出すことはできなかった
(引き出してるならリアルタイムで喧伝したろう)
なのでそこにこだわる意味はあまりないかな >>314
悪いが別の人と勘違いしてるよ
一次史料も二次史料もバイアスや誤謬はあり
鵜呑みにはできない総合的に判断すべきものだろ
目に映る気に食わない意見全部
同じ人に見えちゃうのはまずいので頑張って >>307
その言い分なら蜂須賀書状の「勿論近年内府無御届儀共可有御座候」も真に受けるのは危険だな
当該書状は蜂須賀が輝元に対して石田、大谷と同心したことを諌めたものだが、
輝元の行動を全否定して諫言するの
ではなく、一旦輝元に寄り添い内府にも落度があったかもしれんがとやんわり諫めてるという風にも取れなくはない やんわり諌めても幽閉されて強制改易されるのかよ…
ゲスすぎるだろ輝元 >>290が「だからそう言ってる」内容なのであれば
何に怒って攻撃してるのか謎だな ただ加藤清正と福島正則にはちょっとした共通点があって
それは両者とも徳川家康の養女を妻にしてるという点。まぁこの2人に限ったものじゃないが
つまり両者とも西軍に敵対認定された徳川の縁戚者で故に西軍に負ける訳にはいかない立場にある
秀頼云々を考えている余裕なんか無かったんだろう。加藤清正に至っては豊臣に出した人質を脱出させてる。実質的な豊臣への縁切なんじゃないか >>308
確か会津征伐でも秀頼の命令書は無かったはず
当時秀頼は八歳程度だった。だから秀頼は飾りで実質的には家康が天下を差配していた
この仕組みには一個重大な問題があった。つまり大坂城を握った者が「秀頼の意思」を主張できる。勿論、豊臣家が死を覚悟で反抗すればこの限りでは無いが… 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる
家康の野心は1586年の時点で既に明らかだった
それを見抜けなかった秀吉の失策と、家康の狡猾な野心が全て
家康は簒奪者 >>321
それってあなたの感想ですよねとしか言えんな
自分は秀頼様御為と言ってる東軍側の史料があることを示しただけだし
そのような認識は東軍全体で共有していなかったと考えてる
個々では知らんけどね >>325
お前これが何の史料言ってるのかわからんのだろ?
それなら黙ってろよ 権力が豊臣家に紐付けで見てる人達は中韓とかの外国人だろ
簒奪もなにも公儀は豊臣家のものでもない
家康が征夷大将軍になったのが全て >>327
関ヶ原の戦後処理で豊臣家の蔵入地を残らず奪った簒奪者家康
自分の直轄領と譜代家臣、一門に大幅増領して1万石以下の譜代家臣を
20名も大名に昇格させた簒奪者家康 >>328
蔵入地については、謀反を鎮圧した東軍大名への恩賞として豊臣家自身が支払ったものだから奪うも何もない
むしろ朝鮮でタダ働きさせた分も含めれば、豊臣は全財産を渡しても大名への恩賞が足りないくらいなのに
それを豊臣が財産を残せる程度に抑えた家康は豊臣家にかなりの情けをかけている
本来なら豊臣家は家康に感謝しないといけないんだよ 蔵入地簒奪ってなんの話?
あれって管理担当の奉行が関ヶ原の敗戦で失脚したんで管理担当がいなくなったんで
管理を各大名に任せただけって話なんだけど
実際加藤清正なんかはちゃんとその後も豊臣家にその分を渡したりしてるらしいし
あ、先に言うけど徳川が管理担当しろは無しね、それ奉行の仕事だから
徳川に豊臣政権を専横してほしいなら話は別だが
勿論徳川が代わりの奉行を定めろも無しね、理由は上と同じ
大体、西軍の挙兵理由の一つが家康の政権専横の糾弾なんだから戦後の家康に
豊臣政権を専横しろって本末転倒でしょう
まあ豊臣家に残った連中が引き継ぎも無しに奉行の仕事できるのかとか、
そもそもできそうな人材残ってるのかとか、仮にいたとしてもそいつの指示を
諸大名が聞いてくれるのかとか、そんなことは一切知らんけど そもそも論になるが、秀吉死後、秀頼の名前で命令を出したことがないので、
秀頼を擁した方が公儀になる、という主張自体に根拠がない。
家康も他の大老・奉行も、秀頼の代理として権限を行使しているのでなく、
「豊臣公儀」のトップとして権限を行使している。
王朝や幕府と違って、この人が政治的トップという役職が存在せず、
なんとなく秀頼の義祖父で太閤の義弟で、実力トップの家康が
最高決定者っぽくなっているけど、他の大老や奉行が団結すれば
家康に反抗できる、というふわっとした組織が「豊臣公儀」。
そもそもどうすれば「豊臣公儀」の支配者になれるかがわからない。
なんとなく既成事実を積み上げたものでしかないから。
結局、世間様が「公儀」と認めた方が「公儀」なんじゃないかね。 あやふやで根拠もないが秀次死後も秀吉そのものが太閤ってだけで公儀やったんよな
まー世間様が秀吉が公儀と誰しも認めてるから確定なんだけど問題は秀頼
王朝や幕府だとそのまま権力の継承が行われるが摂関家の立ち位置だと微妙すぎるんだよな
でも西軍蜂起さえなければなんだかんだ豊臣政権が存続したとも思えるんよな
結局の所は簒奪もなにも毛利や奉行が豊臣政権をぶっ潰しただけだけれどな そもそも簒奪も何も豊臣は主権者じゃないんで用語からしておかしい そんなふわっとしたいい加減な組織とも言えないものが天下政権じゃ家康より先に他の諸侯が豊臣を見限るわな
あまりに頼りなさすぎる
関ヶ原後諸侯が強制されてもないのに江戸へ伺候したのがまさに諸侯の方から豊臣を見限った象徴 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる 実際問題、秀吉死後の公儀において豊臣の立ち位置がかなり不明なの結構問題だと思う。十人衆が秀頼と仲良くするとは限らないのに まあ奉行の方は一応は豊臣政権ありきの存在とは言えるんだが、
問題は彼らはあくまで秀吉子飼いであり、譜代ではないという点なのよな
つまり秀吉側近ではあっても秀頼側近とは到底言えないので、
秀頼側の視点だと、とてもじゃないが全幅の信頼を置ける相手とは言えないんだよ
結局豊臣政権自体が秀吉があまりに偉大過ぎたせいで、秀吉ありきの政権構造から
ついに脱却できなかったのだろう、唯一の脱却チャンスだった秀次継承は秀吉自ら潰したし 秀頼の側回には政権運営能力が無い
更に言うなら豊臣家そのものを運営する能力がない
運営するはずだった徳川と奉行衆が争うことになったんだから秀頼と側回は身を潜めて傍観するしかない 結局どんな屁理屈を言おうが不法に武力を用いて一方的な現状変更を試みた西軍が
反乱軍・クーデター軍であるということには変わりがないわな 田端泰子によると三奉行が諸将から集めた人質の中には大坂城天守閣に集められた者がいるらしいが
豊臣家が西軍に与していたのかもはや大坂城すら自分達で支配出来なくなっていたのか 秀吉は王になり、宰相殿は関白になり、家康は将軍になる
天正14年の時点でこういう評価されてる家康
既に野心は見え見えだった >>343
関白と将軍は朝廷から任命されるが、王は自称するのか明の皇帝から任命されるのか天皇家を討ち倒すものと見なされたのか
王になるだけ浮いている
秀吉の危うさを危惧した表現だな 結局結果がすべて
西軍は負けたから家康が擁護される
家康が負けていれば全く逆だっただろうに 逆だろ
これまで司馬遼太郎を最典型に何十年も創作捏造偏見てんこ盛りで擁護されてきたのは西軍の方
創作捏造偏見を外して検証してみたら決して擁護できるようなものでなかったのがはっきりしてきただけ
天秤が極端に傾いてたのがようやく平行に近づいてきたってこと 西軍が勝てばそりゃ西軍が持て囃されていたろうさ
ただ毛利が政権握って豊臣は没落の一途だったろうけど >>347
よくそれ言うけど、隆景も元清も既にいない
輝元にそんなことできるのか?
中国の太守にしても隆景がいたから良かったようなもので
事実隆景が死んだら秀元の処遇と隆景の遺領問題でやらかしてる
輝元にそんな野心も能力もあるとは思えんが 能力ないから現実に関ヶ原で大坂城と秀頼押さえながら負けてるんだろ
あそこで勝てるような胆力と能力と統率力あれば普通に政権握れるわ 皆史実みたいに一戦で全部終わるなんて思ってなかったってことでしょ
家康ですら当初は北関東の防備を固めて秀忠には信州の制圧を指示して自身は中々出陣せずに手紙を書くことに精を出してたわけで 西軍が関ケ原で勝ってたら安土桃山時代を挟んで後期戦国時代に突入してたと思います 輝元の野心は四国・九州への出兵で明らかだから西軍が勝ちさえすればそのまま天下取ってたろうな
豊臣奉行は味方だし豊臣家は御用聞きだし 増田長束前田玄以あたりは毛利の兵力で徳川を牽制するつもりでしかないでしょ
毛利が勝ちすぎたら徳川の代わって秀頼をないがしろにするだろうし
毛利に担がれるくらいなら縁戚の徳川のほうが秀頼にとってはずっと安心感あるんでないの 豊臣三奉行がどうして家康に反抗したのかはわからん
毛利の下について栄達を図ったのかもしれないし
徳川を嫌う豊臣家から命令を受けていたのかもしれない 朝廷「盗まれた関白を取り戻したい」
家康「侵略した豊臣の看板だと明朝との和平交渉が進まないな…」
利害の一致で家康は将軍に >>353
奉行は秀吉の側近として栄達はしたが
それはあくまでも秀吉の引き立てによるもので
徳川や前田と違い来るべき秀頼時代の地位は保障されていない
豊臣家が安泰でもそこに奉行の場所がないなら彼らにとって意味がない 実際秀吉って朝鮮だと簒奪者として認識されてた(日本国王は源氏で秀吉は源氏じゃないという認識)からそうした面もあったんだろう
ストーリーはそれっぽいし 源氏が云々なんて全部徳川のでっち上げだろ?
信長は源氏じゃなかったけど将軍相当だったじゃん 秀吉は間違いなく日本史上最高峰の天才なんだが最後に悪手を連発して内外全てが敵になって死んでいったかわいそうなやつ
自分の腹心であるはずの奉行ですら権力欲のために秀吉を裏切りまくる >>354
三成含む4人の奉行が毛利を
引き込んだ意図は明確でしょ?
秀頼へ忠義な者でも奉行と意見が異なれば討つ
起請文を提出させた通りだよ
自分たちで政権を思い通りにしたかった
という以外に何かあるだろうか? 奉行は秀次を追い落として畿内とその周辺の重要拠点を豊臣一門からぶんどったという成功体験があるからなあ
豊臣のために働いていたとは到底思えんね >>360
いや、秀吉はきっと幸せに死んだと思うよ
天下統一して大明すらもうすぐ降伏するって聞いてるし
最愛の嫁と律儀者の義弟と古馴染みの親友と若くて美人の二号が手をとって
一粒種のかわいい息子の行く末はお任せくださいと誓書まで書いてくれて
もし徳川殿に二心あったとしても忠義に篤い小飼の家来がきっとなんとかしてくれる
大金持ちで位人事を極めて巨大な城で畳の上で天寿を全うして逝くんだって
なお >>360
何気に朝廷と公家の領域まで侵入して同化図ろうとした数少ない人物なんだよな秀吉
豊臣政権続いてればおそらく5摂家は良くて形骸化悪ければ潰されてたろうし
そんな状況になれば数代後には天皇の領分へ浸食始めた可能性も在ったろうしな >>359
注意せんといかんのは「外国では」ってこと
中華・朝鮮は日本の歴史とかあんま詳しく無い。だから彼等の中では「日本国王は源氏という一族」っていう認識だった
だから秀吉が突然朝鮮を属国扱いして明攻撃を手伝えとか言ってきた時に彼等は
「日本国王の位は簒奪者の秀吉に奪われた。秀吉は欲深い簒奪者だから他国に侵掠しようとしている」
という風に解釈したのよ
その後家康が和睦交渉するけど家康は源家康と名乗ってる。これを彼等は
「簒奪者の秀吉は日本国王正統後継者である家康に倒された」
と受け取った。それで交渉が進んだという面は確かにあるらしい >>355
実際関ヶ原終わった後は迅速に豊臣政権と朝廷官位の分離を進めて
その権力基盤のはく奪に成功してるんだよ家康とそれに協力した公家
この辺は秀吉存命時に中途半端に追い込んだ公家たちから逆襲喰らった形か >>362
輝元が明らかに自己領土欲で動いてるから輝元が三奉行に誑かされたとは考え難い
それに三奉行が家康に刃向かう動機があんまり無い。徳川倒すのに毛利の力を借りたら主人が徳川から毛利に変わるだけで三奉行の立場が劇的に変わるとは思えないもの
貴重な兵力を四国・九州に振っておきながら秀頼様の為というのも… >>368
全く同意できない上に謎の思考だな
その後万事うまく行くなんて保証
もちろんないけど
三奉行は思い通りにならない
家康をのぞきたかった
(すでに利家はなく利長は追った)
毛利は兵を動かし自己の権益を増したかった
WinWinじゃん 家康を除けたとしても毛利が代わりに入るだけで三奉行には何の得もない。輝元が三奉行を家康以上に手厚くもてなしてくれるなんて保証も無い >>370
奉行が家康を排除しようとして逆に自派閥が追い詰められていることを忘れちゃいけない
家康より与しやすい相手なら誰でもいいけどあの状況だと毛利しか組む相手の選択肢がない 足利義満が明から冊封されたとき名乗ってたのが源道義だったからな
日本国王は源氏という認識だったろうから交渉に都合良かったのは間違いない 奉行は15年近く秀吉の威光で威張り散らして権勢を握ってきたから
秀吉が死んだからといって今更ただの官僚として生きていくことはできない
ただの官僚に戻りたくないから手あたり次第に権力拡張を企てた結果が関ヶ原というだけ 元はと言えば輝元と奉行衆の利害が一致したことから始まってる
輝元は秀元の所領問題に対する秀吉の遺命を覆したかったし、奉行衆は輝元との関係
を深めることで家康・利家の寡頭制を牽制し、政権内での権力強化を図りたかった
その結果が慶長3年8月28日付起請文だな .>>371
秀吉死亡直後に浅野以外の四奉行と輝元が誓紙を交わしてる事を考えると
選択肢も何も最初からつるんでるんじゃないの?
正直、徳川のみならず、前田や浅野をも追い落とすつもりだったとしか
思えんな、それもかなり早い段階で >>371
一見論理的に見えて実はかなり非論理的なのよねそれ
だって輝元が家康の代わりになるだけで何も変わらん、どころか輝元の方が若いから状況は悪化する
そもそも輝元と三奉行らが仲良しかと言えば結構怪しい。三成襲撃事件の時我が身可愛さに逃げやがったんだし
単純な領土野心で迎合したんだろうけどだとしたらもう秀頼とかどうでも良かったことになり、つまるところ豊臣公儀は滅んでたろう >>376
論理的な選択をした結果毛利が選ばれたなんて言ってないよ
論理的に考えればそもそも格上の家康に対抗しようとすること自体困難なわけだし
豊臣家が安泰でもそこに自分の居場所がなければ意味がない
彼らが欲していたのは自分が能力を発揮できる場所としての豊臣政権であり
家康首班の豊臣政権ではないというだけのこと 輝元には徳川の代わりに何てなれない、毛利の独裁は無理、
って認識があったんじゃない?
宇喜多や上杉、前田、滅んだわけじゃない徳川、と毛利の間で
パワーバランスが釣り合って集団指導体制に戻れば、
奉行も政治的に泳げる状況になる >>371
輝元とは少なくとも死後すぐに
秀頼への忠誠より奉行の考えを優先
と起請文を交わせる関係のいわば謀略仲間
家康とは利家担いで追い落としを狙った過去がある
何故あなたがそんなことにこだわって不思議がるのか
そのほうが不思議だな
もちろん完全にうまく行く保証なんてないけど
起請文見ると元々そんな慎重で良識的ではない >>376
何で輝元と家康同じ関係にあると仮定してるの? >>376
あと別に豊臣公儀のためとかじゃなく
豊臣公儀で権力握るための闘争と考えたら
全く不思議ではないと思うよ
権力握って政権思い通りにしたいのであって
豊臣はそのための道具でしかない
本人たち言ってるように秀頼に忠義であるとか関係ない >>380
大坂城に毛利軍入ってる状況なのに何で同じじゃ無いと思うんですかね
まぁ徳川より悪いんだけど 奉行との関係の話だろ
輝元と4奉行の密約関係指摘されてるのに
何でそれは無かったことになるんだろ? そりゃその起請文とやらが実在したとして、毛利の大軍には何の力も与えられないからね
史実として輝元は三成含め奉行衆を徳川に売って保身に走った。なら仮に勝ったとしても同じ様に処するのは明らか
現実として大坂城を占拠(守護)してる毛利軍を退かせるだけの力は豊臣にも奉行にも無いし 単に奉行が他人の戦力当てにする間抜けってだけだべ
政権内でお互い弾劾で陥れる権力ゲームしてたのに
劣勢になったら軍事力で覆そうってのがすでにな まぁ輝元は既に家康と交わした起請文を「家康に無理矢理書かされた」と反故にしてる訳でつまりそういう人間だということ。都合が悪い物はそうして処理して実利を取りにくるという結構厄介なタイプ よく関ヶ原までの流れで徳川が毛利や豊臣を騙したとか言ってる人がいるけど
毛利の方が余程徳川や奉行、その他豊臣も含む諸大名を騙したりごまかしをしてると思える 毛利と奉行衆が組んで秀頼の身柄を押さえるという初手のインパクトを政治的軍事的な優位までもっていけなかった
野心はあれど知恵が無い 奉行衆には毛利を退ける実力が無い。つまり西軍が勝っても徳川の代わりに毛利が入るだけで豊臣が天下人になるという事は考えにくい、というか有り得ない。豊臣と縁戚にある徳川より毛利の方が豊臣を立てる訳ない
つまり奉行衆は己の栄達の為に豊臣を売った、って話になる。西軍が勝ったら毛利が豊臣を滅亡させるのを傍観して毛利公儀で然るべき地位を得ようとしていたと そもそもとして史実の輝元の能力では家康に勝つことなど出来ないわけで
それなのに家康に勝った輝元が史実の能力のままってのはおかしいよね 輝元って普通にクズだからな
関ヶ原では西軍を裏切り単独で家康に擦り寄り、大坂の陣では保険で大坂城に入れてた家臣を戦後尻尾切りで処分してるから 石田三成は豊家を守ろうとした忠臣である
これは家康の孫、徳川光圀が言ったこと 当時をろくに知らんで
徳川宗家へのコンプレックスで
逆張り乙って感じだよな 結果的に見れば家康が簒奪者なのは変わりません
以上 >>392
組織にとって最も有害な人間は無能な働き者というが
石田三成がまさにそれだよな
豊臣を守ろうと三成が働けば働くほど豊臣が傾く
三成が怠けてくれていれば逆に豊臣は守られていた 理屈で言えば家康が関白にでもなれば簒奪と言ってもいい 家康の野心で流されがちだが毛利輝元が家康に起請文入れさせられたのは何故なんだろう?政権トップになりたいなら他の大老衆からも取ってるはずだし 怪しかったからとか?
まあ実際奉行とズブズブだったし
関ヶ原以前から大坂占拠とか画策してるし 家康擁護しすぎだろ
家康は簒奪者、奸臣
家康が秀吉の遺言通りにやるというなら、石田三成やその一党を処分するのはいい
毛利輝元や上杉景勝の処分もいいよ
でも、だからといって自分の所領や親族の所領を以上に増加させたり、政権まで奪うのは
どうかねえ
家康があくまで豊臣家に尽くすというならば、豊臣政権内で実権まで握るのはいいが
それ以上はNGだろ 朝廷から関白を五摂家の争いに乗じて騙し取った秀吉こそ簒奪者
しかも全くの私的都合で官位叙任停止させて朝議も開けないほどの大迷惑かけてる 真正な織田の子飼いだった秀吉がそれをやってたならね
清洲会議以降の秀吉の織田家への仕打ちを諸侯は見てたから家康が政権とることも当然て空気があった
だからこそ関ヶ原後に大名が争って江戸へ行ったんだろう
家康よりも先に諸大名のほうが豊臣を見限ったんだよ >>405
江戸幕府が広めた朱子学に洗脳されて家康を叩くという愚かな行為 家康を天下人にしたのは権威失墜した豊臣と庇護者を求めた朝廷と諸大名
朝廷の意向が一番大きいよな
徳川は朝廷における藤原家でもいいんだし
朝廷は秀頼がいない方がメチャクチャ都合がいい 家康一人が野心で突っ走るだけで天下人になれるわけがないんだよ
朝廷から大名に至るまで家康を押し上げ推戴する空気や機運がなければあんなに素早く政情がまとまるわけない
こういうのはなかなか史料から窺うことは難しいんだろうけど間違いなくあった
そしてそれは秀吉が天下人になるときにもあったもの
豊臣はその空気や機運を維持することに失敗してしまったということ
それを家康一人の責任にするのこそやり過ぎというもの >>404
正直奉行衆に売られたんじゃないかと思う
この件で少なくとも三成は輝元を頼ったけど輝元に見捨てられてるし、同じく伏見に籠った増田長盛は輝元に三成が退けばなんとかなると庇う気ゼロ
家康に保護を求める上で輝元が裏で何してたか奉行衆に都合が良い話に変えた上で売ったんじゃないか >>411
で、関ヶ原の時は逆に奉行ら含めた西軍を毛利が売りとばすと
因果は巡るなあ(石田は踏んだり蹴ったりだし西軍参加者はいい迷惑だろうが) >>405
家康が遺言通り?誰もそんなこと言ってないよね
そもそも誰も遺言なんて守ってないてだけ
十人衆合議は遺言されてないし
奉行からして勝手に誓詞交換して徒党組んで
しかもその内容は秀頼への忠義より
奉行の思い通りにならなきゃ討つってもの
誰も豊臣家に尽くしてたりしないんだよ
家康にしても豊臣政権のトップとして
君臨するのがいちばんの栄達で
そこから転げ落ちると最悪滅亡だから
政権トップとして振る舞ってる訳 >>405
視野が狭いねえ
現実の生活もうまくやれてないだろ? 三成に救援求められた時に「内府に辻褄合わせしないとマズい」って話なので前々から怪しい動きがあると思われてたのか、三成が有る事無い事ぶち撒ける危険性があったのか 盗将大権現様を必死で擁護しているスレとはこちらですか? >>416
スレの肥やしの例え話君久しぶり
またスレ進行のための叩かれ役になってくれるのかな >>418
それだけ?もっとなんか書いてよ色々
以前みたいに自信満々上から目線でさ >>420
そんな司馬遼太郎の嘘をまだ信じてんの?
阿弥陀ヶ峰の秀吉の墓は破壊されてないし豊国社を「朽ち果てるまま」と神道として祀ることを禁じただけ 50-60代の爺さんの若い頃が司馬遼ブームだったし知識をアップデートしない狂信者が多い印象 秀吉が最高の極楽浄土をイメージして作ったのが聚楽第なのだから
豊国社が聚楽第のようになるのは秀吉の本望だろ
司馬遼太郎のように知識も乏しく芸術も理解できない人間のせいで
秀吉の最後の芸術表現が誤解されてしまったのは許せない >>416
おまえが世間からズレてるという可能性は考えたことないのか? >>426
三成は忠臣だったが自分の能力を図れない身の程知らずだったのは確かだね
家康に勝つならひたすら忍従して時を待つしかなかったと思われる 仕えていた先代からの遺言も守らず、政権から役職解任を命じられたのに
政権事業を妨害して政権崩壊を誘発するような大乱を起こした挙句、
謀反人として処刑される奴のどこをどう解釈したら忠臣になるんだ
〇〇が忠臣って言ってたもん!みたいな下らん反論はいらんぞ >>5
西軍が形成されると島津義弘から即連絡が届いたり三成からは堀が西軍に誼を通じた事も景勝に届いてるので
情報交換はそれなりにやってるよ
送られてきた内府ちがひの条々を東国にばら撒いたのも上杉
ただ直江が最上陣へ出陣してしまうとその情報ルートが拙くなったせいか古い戦況や誤報等で勘違いを引き起こしてる なんせ秀頼に忠義の者でも奉行の
思い通りにならなきゃ排除する
と誓紙書かせる人だからな
少なくとも秀頼に忠義ではない
豊臣政権としても大打撃の秀次事件でも
糾問を担当した4奉行の中で
随一の出世を遂げ中心人物と取れるし
秀吉個人への忠義についても
朝鮮との講和交渉観ると
露骨に欺いてる
どれもこれも忠義ゆえに
良かれと思って・・・とか
いくらなんでも好意的すぎるだろ 過去十年間、三成は秀吉の威光を借りて無敵の存在になったも同然の生活を送っていたわけだから
秀吉が死んだからといって態度を改めることなんてできない
むしろ秀吉の死後も以前と同様の振る舞いが許されると考えていた
関ヶ原の日まで自分は何でも許される存在だと思っていたのだから
秀頼への忠義というより、秀頼が自分のために関ヶ原に来て当然という思考だろう >>433
状況的に秀吉の死から関ヶ原までは
豊臣政権でNO.1の実力者で一門筆頭として
政権の安定に寄与していたのは確かだが
秀吉や秀頼への忠節というよりは
より大局的な天下の運営考えて
そう振る舞ってると観るべきかと
だから自身とその直径一族が
トップの政権の方が良い状況になれば
躊躇わずに征夷大将軍に就いた だってなぁ、今までは秀吉の宿老衆ってことで合議体が権威をもってたのに、
ワントップになっちゃったら自分が権威を持つしかないじゃん
そもそも、秀吉の関白の権威で官位を持った大名を統制するシステムって、
五摂家に関白がもどったら、摂家に大名が従わなくちゃいけないことになるから
豊家が未来永劫関白を独占しないと武家政権が維持できない欠陥システムだし。
幕府体制に戻さないと、皇室も武家もみんなが困る。 関白って摂関家にとっても『上がり』の地位だから、秀吉生前ならともかく
秀吉死後に(しかも政権が揺らいでる状態)摂関家が取り返しに来ない訳がないしな
摂関家側の動きもかなり早いし(家康の将軍就任よりも早い) ふと思いついたが、家康含む豊臣家で関白を回り持ちするシステムにすれば、
五摂家からは文句出るだろうけど、豊臣公儀を回せたかな?
関ヶ原で生き残った豊臣家の福島や小早川にも関白になる可能性が出て来るけど。
あるいは、武家官位制を取り入れて、正規の関白と別の武家関白を作れば、
幼少の秀頼を武家関白にしても朝議に影響がでない。 >>438
秀吉は日本史上空前の大権力者だったから、その辺のリスクが最後まで見えなかったんだろ
結局誰彼にせよ、政治情勢が大きく動いたのは秀吉死後の話だし
家康はこの有様を見て、公家の取り分(官職や官位という名の飯のタネ)を必要以上に
奪い取ると、落ち目になった際に大きなしっぺ返しを受けるリスクがあることに気が付いて
武家官位制度を打ち立てた、と考えた方が辻褄が合う 1600年9月12日に三成が出した書状を見ればわかるけど、あれくらい自分で事前に何とか
しとけよという内容なんだよな
結局、三成は忠臣だったが、無能な働き者すぎた
単に官僚として有能だったのを、軍人や政治家としてまで優秀と勘違いしていたふしがある 三成は唐入りに関しては講和内容を正直に言った上で諫言すべきだった
あれでは主君を欺く奸臣だ
まともだった頃の秀吉と相性が良かっただけで耄碌した秀吉や他の豊臣家臣団が相手だと勝手に振る舞ってるも同然 Enpediaにこんなのあったんだが
「文禄3年(1594年)、小西行長は朝鮮出兵における対明和平工作を担当していたが、その際に秀吉嫡子を『日本国王世子』とし、関白の秀次をその下に置く要望書を明に提出した。行長はこれについて、『関白が秀次なのは動かせなくても、国際的に通用する日本国王を継承するのは秀頼である』と述べた」
これはさすがにやばすぎないか? 三成は己の身の程を知らなかったのがいけなかった
忠臣だが周りと協調できない性格に加えて、やはり害のほうが大きかったな
梶原景時や本多正純みたいなタイプかな 三成は秀吉に対しても誠実とはいえないから
奉行の役職を重視しすぎて忠義から外れた行動をしてる >>444
いや秀吉には忠実誠実でしょ
じゃないとあんなに重用した秀吉がバカだって話だし
少なくとも行政官僚としては有能、優秀 >>445
耄碌した秀吉はバカ同然
文禄の役までは擁護も出来るが秀次殺害以降は擁護できない
三成は秀吉の失態を承知してるから秀吉を欺くような行動をとってる 歴史上の人物の行動を精神医学的に分析した研究あるのか知らんけど
特に秀頼誕生以降の秀吉は精神に変調来たしてると見ていいんじゃないかと思うな >>447
全ての目的が秀頼のためになったんだろうな >>446
秀次殺害は正しいと同時代の太田牛一が認めてるぞ
全て秀次の不行跡が天道の報いとして訪れただけの話だと >>445
そんなものは忠義とは呼べない、仕事に対して有能であることと忠義はイコールじゃない
なぜならその組織に対して逆らわない方が得である、或いは逆らうと損をするのなら
組織やトップに忠誠など誓っていなくても、そこで仕事を続けることを否定する理由が
特に存在しないからだ
当たり前のことを言うけど、己の損得を理由に組織やトップに仕えていることは
忠義でも何でもありません、そんなものはただの利害関係の一致にに過ぎない
三成はあくまで『内政に長けた野心家』であり、忠云々で評価すべき人物ではない
少なくともその方向では否定する事しかできない >>449
太田牛一の評価は三成は忠臣であると評価した徳川光圀と同じこと
一面の評価ではあるがそれ以上ではない
それと秀次事件は連座した人々への秀吉の処置が狂気に走ってる 慶長15年頃成立の『大かうさまくんきのうち』は秀吉最古の軍記であり
秀吉の顕彰を主として書かれてるからバイアスは当然かかってるでしょ
史料の性質上牛一が秀吉の事跡、つまり秀次に対する処罰を公然と批判する
とは考えにくいし、秀次の暴虐を捏造している可能性も考えられる
これが秀次の生前に書かれてるなら信憑性もあるだろうけどね 秀次は盲人を殺害したり、高野山で平気で狩りをした
天道の報いである
これが太田の評価 大かうさまは誰に読ませるためのものだったか考えてみようか
あと別に秀吉最古の軍記はダウト 『大かうさまくんきのうち』は「原本が現存する最古の軍記」に訂正するわ
最古の秀吉軍記は大村由己の「天正記」だしな >>455
まあ細かいとこはともかく
バイアスありありだからね
そこは同意
秀頼に読ませるためのものなんだから >>445
あんなに重用っていうけど
十人衆とか言い出すの秀吉死後だし
あくまで秀吉は奉行として扱ってた
秀吉生前の三成は天下の舵取りを
任されるような要職ではなく
あくまで秀吉の決定に沿って差配する立場だよ 中野等が著書で秀吉は天皇の御慮を題目にしていたから朝廷特に天皇の意思を無視できなくなったと書いていたけど
だとすりゃ秀吉死んだら豊臣政権が消え去ったのも道理かな 秀吉の忠臣だったかも知れないけど
豊臣家の忠臣じゃなかったよね>三成 秀吉が官位叙任停止させて朝議も開けないほどの大迷惑かけてるからな 秀吉個人に対して忠実ってたとえば?
明との和平交渉での欺きとか
その見方だとどういう理屈なん? 三成かわいそう
でも仕方ないのか
結果を出せなかった無能な忠臣だから
歴史は勝者が全て
ましてや三成みたいな軍事無能なのにでしゃばった忠臣は
ある意味害物だった 三成が忠臣であると断言するには、意見が別れるところだよな。
家康を排除して、自分達が実権を奪うことが正義と思って毛利と組んで軍事クーデターなんぞ起こしてしまったんだから。
三成たちが豊臣家よりも、自分たちが実権握る方が重要と考えていたなら、野心だし簒奪だしな。 三成は光秀みたいな思いを胸にいだいて挙兵したと思う 奉行なんて中間管理職いつまでもやってられっか!って感じだった気がするw
佐和山でずっと引っ込んでりゃ長生きできたろ 権勢欲というか自分の能力に自信があるなら
規模の大きい仕事をしたいっていう意味での野望はあるだろうからな
徳川や前田がいたら結局は頭が上がらないだろうし 三成は役人的に考えればわかりやすい。
主君でなく、豊臣公儀という組織を守るのが目的。
豊臣家なんてどうでもいい、公儀という組織を守りたい。
家康は自分の家臣を使って政治運営を始めていて、
このままでは自分たちの組織が崩壊する。
家康を排除すれば、天下を運営する能力のない
他の大老は豊臣公儀をそのまま維持するだろう。
組織防衛しか頭にない、典型的な官僚 >>461
明に要求した官位の序列を見ると
日本国王秀吉の次に来る大都督を三成たちの派閥で占めて
秀次を三成たちより低い都督にするように要求しているあたり
秀吉個人に対して忠実というよりも正確に言うなら
自分達よりも上にいるのは秀吉個人以外に一切認めないという考えだろう
家康だろうが秀次だろうが自分達よりも上に立って命令することは受け入れないし
秀頼だって傀儡としては上に置くけど、自分達が戦をしたければ秀頼の方が賛成して協力すべきというのが三成の考えだよ 三成の野望はもっと大きかったと思うな
官僚ポジション守るために全て投げ出して兵を挙げるとは思えん 7将事件が面白いよな。あえて敵の親分ってか、後見人みたいなやつに自分の命を委ねる。
あれ、もしかしたら首切られる可能性があったと思うんだよ。それを狙ったのが三成。
それ、家康は野心もった黒いやつだと天下に知らしめることができるって。
しかし家康は三成を凌駕していた。良い悪い、正義悪とか言うのはおいておいて人間の格にものすごい
格差があるんだよ。多分そう思う。いうなれば2000ccの乗用車が自分のキャパを目いっぱい超えて
サッーキットでf1と一騎打ちするみたいな。
三成は官僚として優秀だったが政治家でも将軍の器でもなかった。
その器でもない人間の割りには狭い範囲では人望があったりしてキャパを超えて挙兵の主役として急成長していった。 三成が大坂ではなく伏見を頼りにしたってのは割と意味深なものがあるとは思う。豊臣家お膝元の大坂ではなく十人衆体制の要所だった伏見の方が安全だと踏んだ
逆に言えば大坂城に逃げ込んだ場合救済は得られなかったと三成は見ていたことになる。既にこの時から豊臣家の力は落ちていたんだろう >>468
組織を守るなら秀頼を主君のまま
家康が決定権持つ体制の方が安定する
意思決定を自分たち奉行がすることに
4奉行が強く拘ってるのは
毛利との誓紙から明らかでしょう >>476
なんで
戦闘が起きてるわけでもないし
家康が仲裁してるのに 襲われた三成が家康の屋敷に逃げ込んだ、ってのは創作だけど
万が一家康が黒幕だったら死が確定しているのにそれでも伏見に逃げた辺りはそれなり以上の覚悟と信用があったのは確か 三成「わしを殺せば豊臣は一つにまとまる、家康はわしを生かすであろう」てのが定説だったよね >>480
まずおまえがみんなと仲良くしろw
分断の原因が自分だって気づいてるじゃねーかw だから大谷吉継にもお前総大将は無理だって止められてたんだろw 一次史料ベースだと
逃げたのかも不明確では?
兵を集めてたのが七将だけと決まっておらず
それ以前に利家の元に集まった武将たちは
すでに兵を集めてて三成もその1人
三成の移動以前に訴訟や襲撃の話はない
それ以前の騒動を伝えるものは
利家生前から兵を集めてるというのみ 閏三月五日浅野幸長宛徳川家康書状で家康は幸長が伏見に兵を連れて来ることを認め、委細は浅野長政が伝えるとしている。また同日、七将宛家康書状で家康は七将が前々から行なっていた陳情を認めて三成が伏見に来ていることを認めてる
これは従来家康黒幕説の根拠とされてきた。ただそれはかなり偏った見方で公平とは言えない >>476
殺せねえよ。屋敷は伏見城内。
殺そうと思えば、伏見城を攻め落とすしかなくなる。
秀吉が政治を執っていた伏見城を攻め落としたりしたら、
完全に謀反で言い訳のしようがない。 家康がどうせ馬鹿ども(加藤清正ら)をけしかけたんだろ
家康の野心は蜂須賀家政すら認めている
慶長5年7月16日付堅田元慶宛家政書状に「近年、家康が好き勝手に振舞っているというのは
言うまでもないことですが」と書かれている
家康は汚い野心家
忠臣三成を排除しようとしただけ 兵を挙げた毛利の家臣に宛てた書状の一節だけ切り取って印象操作しようとしても
このスレに集まってる人には全く通用しないと思うよ 七将襲撃事件での家康の動きは公平かつかなり自然なものだから正直これで家康が黒幕だったとは言えない。七将の手綱握らないと次は内乱だったろうし 一度学んだ内容をアップデートできない人が居るんだよ >>486
まーた適当なこと言ってんな
>家康が好き勝手に振る舞っているというのは言うまでもないことですが
どこにそんなこと書いてあんの?
「勿論近年内府無御届儀共可有御座候、雖然被奉對秀頼公、余相違之題目、拙者式不承候」
蜂須賀が言及してるのは家康が届けなく縁組したことに対してだけ
その後に家康が秀頼に対して相違の題目、つまり逆意を抱いたとは聞いていないとも言ってる >>491
訳おかしいだろ
近年家康が好き勝手に振舞っているというのは言うまでもないが
秀頼に対する家康の違背の条条に私(家政)は同意できません
だろ >>489
古いというか
日本人のほとんどは
フィクションしか知らないから
三成忠臣説は生き続けるよ
君達はこれからも
論破し続けるだろう 髙橋陽介氏も「家康が勝手してるのは知ってるけど弾劾状には同意出来んわ」って訳してたね。正直どっちでも大して違いは無いけど
十人衆合議は僅かな期間で崩壊、上杉景勝と前田利長が帰国って状況で家康以外に政治を行える人が居ないし。政治バランスで言えば利長は家康の後見を受けていて宇喜多秀家もこれに同意、毛利輝元は家康を父と思うと書いてる訳だし ヤフコメでも家康絡みの記事に司馬遼太郎の偏見と決めつけをまんま受け売りでコメントしてるのがいまだに多い
旧説を否定する有力な説が出たりすると売名のためだろとか本当のところは誰にも分からないとか
ちゃぶ台ひっくり返すようなこと言って結局暗に旧説に固執してるだけだったり
人間の宗教感情と科学的思考について格好の研究素材になり得るな >>492
前半で家康の縁組の届けがなかったことを指摘していて、その後に「雖然」と続いてる
「しかし」と言っているのに更に家康に同意できないっておかしいよね
しかしの後は普通同意したり擁護するような文意になるでしょ
届けがなかったこということがあったが、それは秀頼に対する謀叛
であると私は承知していない、または聞いていないと取るのが自然だよ
あと別に当該書状は7月16日付、ちかひの条々は7月17日付だから蜂須賀がちかひの条々に言及できるわけない そもそも「秀次が秀吉の言葉を無視して好き勝手に振舞っている」といって殺したのに
今度は舌の根も乾かぬ内に「家康が秀吉の言葉を無視して好き勝手に振舞っている」とか騒ぐのだから
開いた口が塞がらないとはこのことだよ
家康がどうこうの問題ではなく、豊臣そのものが腐っているのが問題なんだよ 三成が何もしなくても豊臣政権は崩壊していたのだし
どうせ家康に負けるんだから忠臣でも奸臣でも同じことや >>502
三成、というか奉行と毛利が結託して大乱を起こさなきゃ
家康が豊臣政権を見限る理由が特にないんだけど
この時期の家康の大義名分って政権の第一人者(筆頭大老)である事位だし、
家康の権威や立場を保証してるのが豊臣政権なんだから、この時期の徳川は
豊臣政権の権威が拡大、強大化しないとむしろ困る立場だよ
そう言う意味ではこの時期の徳川と奉行は政権の権威や権力の増大を望むという点で
利害が一致するので、立場が近いとさえ言える
ただ、徳川の場合は豊臣政権が無力・無実、或いは崩壊したとしても
最悪地方大大名としてやっていけるという、奉行と決定的に違う点があるのは確かだけどさ
けれど、関ヶ原前のこんな時点でわざわざ政権を潰すメリットが家康に全くない >>502
三成たち奉行連中は家康が筆頭大老になるより10年以上前から誰よりも豊臣政権中枢で働いていたのだから
奉行連中が豊臣を守る意欲に満ち溢れた忠臣だったらその間に豊臣を守ることにより
豊臣政権が家康に頼る必要がない状態になっていたはずだろ
むしろ奉行連中がまったく豊臣を守らなかったため家康が三顧の礼で招聘されたのだから
家康が三成たちを奸臣として排除するのは当然のことといえる
そもそも家康が筆頭大老になった時点で三成が忠臣でないことは証明されている そもそも毛利は豊臣政権内でも警戒勢力の扱いだろ
秀吉的には取り込みたいのは徳川、前田
そこそこ信を置いてるのは宇喜多
毛利、上杉は監視対象やったと思うけどな
ここさえ抑えれてれば政権も安定する理屈 秀吉死後の状況は本能寺清洲会議以後の状況と似ている。
関ヶ原、賤ヶ岳で勝った方が天下取った。
10人衆合議同様、織田重臣合議もあっという間に崩壊したでしょ。 今では一周回って三成は別に天下を望んだ訳ではなく単なる一官僚で単に公儀の言うままに従っていただけって説もある
三成がもっぱら敵視していたのは政敵の浅野長政であって徳川家康は政敵の後ろ盾に過ぎず敵ではあるが倒したい敵では無かったという 大坂の陣の秀頼見てると、関ヶ原がなくてものちのち何かやらかしそうな気配はある
まあ架空戦記並の空想になるけど 戦国時代どころか日本史オールタイムワースト無能最有力候補だしな…
あまりに不可解な知能すぎて20過ぎてたけど本当は母親のいいなりだったんだろ?そうに違いないという頭のおかしい擁護しかできないレベル 秀頼の場合、部下を制御出来なくなった挙句雇い入れた牢人衆に乗っ取られるというよくある実力なき二代目がやっちゃうやつ >>505
奉行が豊臣守ってないのは同意なんだが
「だから家康が政権に招かれた」
というのは時系列おかしいかと
奉行はあくまで秀吉の政策を
実行する立場で政権の意思決定に
関わるのが具体的に定まるのは
秀吉死後の十人衆起請ではなかろうか
家康もあくまでNo,2、No3だけど
政権の序列で明確に位置付けられてきた 景勝が安田や甘粕に宛てた書状からも家康の逆心は明らかだろ
景勝は「上洛するから、その讒人の糾明だけはさせてほしい」と言ってる
なのに家康は「上洛しないなら武力行使あるのみ」の一辺倒
しかも期日まで定めてる
家康にとって武力行使する絶好の機会だから許す気もなかったんだろうが >>517
讒人の糾明というのは上杉の都合であって惣無事令違反を問いただしてる公儀の都合ではない
コンプライアンス違反で出頭命令が出されてるのに内部告発者の究明まで待ってくれという愚かな言い分 景勝のは嘘というか時間稼ぎなのがバレバレだからね
というのも西笑承兌書状に「堀監物が再三謀反の報告をしているので謝罪なしには釈明は受け入れられない」とあって誰が訴人なのか何を訴えてるのかは一目瞭然
つまりもう訴人の糾明とか言ってられない、崖っぷちだったりする 例によって「西軍方一方の言い分だけを鵜呑みにしたら」
「家康の逆心は明らか」なのよね
そりゃそうなるわっていう 頭が悪いからどんだけ反論受けても理解できないのよなこいつ >>522
仕えるべき存在の為に命の一つも平然と差し出せないような奴に
そんな賢しげなこと言われたら「あ、こいつ信用できんな」ってなるだろ、普通 豊臣公儀の問題点として公儀担当者が誰かわからないことがね
秀頼なのか?と言えば秀頼じゃない。十人衆は既に解体状態
結果、大坂城を占拠してる奴が公儀になった >>525
秀吉の遺言で「秀頼のことをたのむ」ってあるんだから、
担当は秀頼だろ
そして家康は秀頼の外祖父としての地位を約束されてるから、後見人でもおかしくはない
その地位を悪用したのが家康だが 秀頼のことを頼むとあるだけで秀頼が天下人になるかどうかはまた別問題
秀吉の作った豊臣公儀は関白を頂点とするものだった。それは秀次を粛清したことで破壊されたけど
じゃあ何をもって豊臣公儀の頂点は決まるのか?だれもわからないままだった。多分秀頼が関白になれば、だったんだろうけどそんなチャンスはなかったし >>526
徳川家の地位を盤石なものにしなければ豊臣政権を維持していくことは出来ないからね >>526
悪用してないんだが
いつまで言ってるんだ >>526
秀頼は三法師だよ
三法師は後見人の信雄と信孝が争ったから天下人といえる織田家の当主の座を秀吉たちから剥奪されて秀吉に漁夫の利をとられた ここは家康を賛美するためのスレ?
家康が野心を抱いたこと、結果論だけど家康が豊臣氏を滅ぼしたことは事実です 御所柿は、独り熟して落ちにけり、木下に居て拾う秀頼
この落首が家康の焦りをよく表しているといえる
家康は生きているうちに豊臣をつぶす気満々だった >>532
お前は歴史を知りたいのか?
違うだろ欲しいのは自分への賛同だろ >>531
逆だな
野心を抱いたのも
豊臣政権を滅ぼしたのも三成 秀次が野心を抱いているだの家康が野心を抱いているだのと騒ぎ出し
奸臣たちが後先考えずに暴走したことで豊臣が滅びた >>531
熱狂的な、盗将大権現信者が暴れるスレです。
兎も角、盗将様が悪く言われると暴れだします 淀は置物だろ
出しゃばった話あるのか?
小説や映画のベースで話してないか? 秀頼の関ケ原出陣拒んだり片桐且元追放したり秀頼の大阪城退去拒んだり
真田丸や堀破却させたり大坂の陣の秀頼出陣拒んだりしたんじゃないの
淀って大野三兄弟とかの操り人形だったのか エンタメとして悪女とか老獪な悪党とか薄幸の貴公子を出してドラマティックにすると受けるから人口に膾炙する
現実は地味でしょうもない事が多い 淀が影響力ゼロのお飾りならそれはそれで教科書やら歴史学習書やら書き換えてほしいな
素人が情報知るにはそういうのしかないんだからさ 淀が秀頼に指図してたとか教科書にはないでしょ?
あなたの使ってた教科書なに? >>539
出しゃばってないのに大坂の陣で殺されたのか
それはかわいそうだな >>545
自害じゃないの、淀って
あれ秀頼に巻き込まれただけだと思うけどな
息子の国松もそうだけど、秀頼のわがまま(無知で無謀な側近も含む)のとばっちりで
死に追いやられたようなもんだから、ある意味可哀想だと思うわ
身の程をわきまえない愚か者が身内にいるとこうなるって典型例だ 落城の際に淀だけで投降してきたら命は救われただろうな 淀君も立場が割と曖昧で解釈困難にしてる気がする
家康との婚姻を拒否した云々とかで重要視されてたみたいだけど 「伝聞、太閤御所御不例不快「」云々、珍事珍事、祈念之外無他事、浅野弾正、増田右衛門、
石田治部少輔、徳善院、長束大蔵大夫五人被相定、日本国中ノ儀申付了、昨日右五人縁辺各
罷成云々、是御意也」
これを見ただけでも、石田三成らが秀吉にどれだけ信任されていたかどうかがわかる
家康は逆臣、逆賊である 三成は豊臣家のことしか考えてない説に昔から違和感あった
歴史家や小説家はこれを題材にしてほしい >>549
家康との婚姻ってどの小説に書いてるの? >>556
小説ばっかり読んでないで少しは勉強したら? >>554
そりゃあ三成だって野心はあっただろうさ。
その野心が豊臣家の家臣で留まる限り忠臣というべきでしょう。 >>556
ここにいる奴らは史料も知らずに三成を奸臣とか家康を忠臣
とか言ってるから救いようがない
それくらい調べろよ
多聞院日記慶長四年9月17日条 家康が忠臣とか言ってる奴らは、家康がどれだけ専横を極めたか勉強してくれ >>559
偉そうで草
婚姻の件は別にしてもお前も史料読めないじゃんw
史料もお前の都合のいいように扱うし、誤読や矛盾点指摘すると逃げる
お前は下手に史料引用せずずっと家康は簒奪者だー逆臣だーって鳴き声だけあげてろ 小説かどうか知らんけど多聞院日記と看羊録に記述があるらしいな
秀吉は家康をポスト秀吉の座に着けようとしていたから淀君との結婚は有り得る話、というかそれをやらないと家康が秀頼を守る理由が一つ消える >>562
多聞院日記の慶長四年九月十七日条に家康と淀の婚礼に関する記事があるね
「(前略)大坂ニテ去十日、秀頼之母家康ト祝言在之候、大閤之書置在由候、
大野修理秀頼之母ヲ連候、高野へ参候由珍重、無殊儀候、大名之由候」 >>558
豊臣家臣であっても主君を蔑ろにするなら
それは忠臣とは呼べないだろ
三成は少なくとも朝鮮との交渉では秀吉を欺き
秀頼に忠義でも奉行と方針が違うものは討つ
と毛利に誓わせてる >>560
逆だ、家康は豊臣をもっと徹底管理すべきだった
周りから専横だといわれるレベルで豊臣を徹底的に縛って自分の意のままに
コントロールできる操り人形にするべきだったんだよ、秀吉が秀信にやったようにな
家康はある意味豊臣に対して徳川に従う自由、現実を受け入れる自由を与えたから
大坂の陣が起きたんだよ、家康は甘すぎるしもっと豊臣に対して屑であるべきだった
家康が与えた自由を豊臣は反抗する自由、破滅する自由にしてしまったんだから >>561
だから史料出してるだろ
「太閤御所御不例不快「」云々、珍事珍事、祈念之外無他事、浅野弾正、増田右衛門、
石田治部少輔、徳善院、長束大蔵大夫五人被相定、日本国中ノ儀申付了、昨日右五人縁辺各
罷成云々、是御意也」
これは秀吉が三成ら奉行を信頼していた証である
政治は奉行に任せているのに、口出して専横したのが家康 >>567
「是御意也」ってなに?
こんな表現、史料上で見たことないんだが
読み下しと訳文よろしく >>566
わかりみ
江戸と大坂で距離が拡がりすぎてたんかな >>568
史料読んだらわかるだろ
「是は太閤殿下の御意である」だよ
ちゃんと史料全て読んでからいいましょうね
恥ずかしい >>561
史料出さずに言ってる人よりはマシだろ
貴方と私以外、ろくに史料も出さずに石田が悪い
家康は正しいと言ってるだけじゃん
後年の軍記を根拠にして >>569
それも大きな原因だろうが、あえて家康を小さく見るのなら秀吉への対抗心だろう
旧主である秀信を徹底的に洗脳した秀吉を見て「俺は秀吉ではない、秀吉とは違う」
とある種の自由を与えたのではないか、そんな事までしなくてもいいと
実際政宗は早い段階で豊臣に強く介入すべきだと忠告しているし、秀忠の方が
豊臣に対しては強硬派だったようだしね、そして結局は彼らの方が正しかった
だから大坂の陣が起きた事そのものが家康に一種の敗北感を与えたかもしれない
「殿下、あなたは正しかった、あなたが織田にしたように豊臣も徹底管理すべきだった」と そもそも何の史料なんだこれ
「太閤御所御不例不快「」云々、珍事珍事、祈念之外無他事、浅野弾正、増田右衛門、
石田治部少輔、徳善院、長束大蔵大夫五人被相定、日本国中ノ儀申付了、昨日右五人縁辺各
罷成云々、是御意也」 ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/17/0059?m=all&s=0059
7月27日付秋田宛榊原康政書状
「然は於上方、石治少(三成)、大形少(大谷)別心仕に付而、大坂より御袋様(淀殿)并三人の奉行衆、北国肥前殿(前田利長)なと早々内府被致上洛尤の由申来候間」、上方衆連れて上洛し両人を成敗すると報じている
まだ流動的な時期の中央の動きを遅れて語ってるわけだが、この段階では淀殿(秀頼、豊臣本家)の立ち位置はこうだった
石田大谷が叛逆したから家康は早く取って返してきてくれ、と
奉行衆や毛利がなんといおうが豊臣本家の本音はこれでしょう >>571
別に誰が良いとか悪いとかには興味ないわ
お前みたいに一部分を切り取って自分に都合よく解釈するくらいなら
史料出さない方がマシだな、というかお前みたいなやり方はむしろ害悪
>>93の戸田左門覚書のありもしない内容の捏造とか、前スレの10月13日付戸沢政盛宛秋田実季書状
を全文読まず「内府様へ無二御奉公尤候」の一節だけを切り取って印象操作しようとしたりとかね 石田が豊臣の忠臣なのは、文禄四年七月十二日増田との連署血判起請文で明らか
御ひろい様へ対し奉り、聊不存表裏別心、御為可然様もりたてまつるへき事
諸事、太閤様御法度御置目之通、無相違可相守事
ほか何条かあるけど、豊臣の忠臣なのは明らか 三成は忠臣というよりストーカーの方が近い
クビにしてもしつこく付きまとって無理心中も辞さない
豊臣にとって迷惑な粘着ストーカーだった >>574
豊臣家の思想は明らかじゃない
七月十二日に大坂三奉行は毛利輝元に挙兵を促すと諸将の人質を収監、同月十七日には大坂城に毛利軍入城、三奉行が内府違いの条々を発布、十九日には輝元が大坂城西ノ丸に入ってる
時系列で見て三奉行は家康の味方では無い。元々家康派だったなら輝元を呼ぶ必要が無いし数日で立場が変わるとも思えない
問題は秀頼・淀君・北政所らだけど彼等はこうした三奉行の動きに抵抗せずむしろ同調し、また家康に報告すらしてない >>576
そりゃ秀頼への忠誠をアピールするための起請文だもの
そんなん忠誠の証拠になるなら不忠者など存在しない
一方で毛利に秀頼に忠誠な者でも
奉行の意見と異なるなら討つ
と誓わせてたり
唐との和睦交渉で秀吉を欺いてる
合わせて考えたら表裏あるとなるだろう >>578
最後の段落までは同意なんだけどね
「抵抗せずむしろ同調し」という根拠となる史料はあるかい?
以後、淀殿が積極的に動いたのは妹を助けるための大津開城交渉だけじゃないかな その辺りの史料はないしなあ
ID:EOc9tjlZは「家康に報告せず沈黙していたことが三奉行に同調していた証拠」みたいなこと言うか、
少し後の話になるが、豊臣家中の動きとして秀頼の馬廻衆が大垣城に籠城したこととか、蜂須賀家政の逼塞処分に伴い家政の
家臣が秀頼の馬廻衆に編入されて北国に出陣したこととか既に何度もスレで挙がってるような話を持ち出すと予想してみる
まあ決定的な史料がもしあるなら自分も見てみたい 仲良く豊国社に参拝してるからなぁ…抵抗してない時点で割と致命的なんだけどね 豊臣家の方針を決めれる者が居ない、あるいは不在だったので、豊臣家としての方針は存在しなかった。
豊臣馬廻衆も含め、各々が各々の判断で動いた。
史料がないということは方針は存在しなかったという捉え方もできるかも。
白峰氏の小山評定と同じ理論になってしまうが。 つか利長が秀頼の後見役なんでしょ?
こいつが金沢行ってる時点でもうだめやろと思う。 前田は代替わりのゴタゴタで家中が揉めてたそうだから後見役自体が無理
かといって上杉放置も駄目だから家康は奉行衆に大阪を任せたんだが 既に秀頼を守るという名目で関白が妻子まで含めて虐殺されているのに
奉行衆は舌の根も乾かないうちに同じ名目で更なる殺戮を繰り返そうとしているのだから
秀頼と奉行衆は社会にとっての脅威でしかない
世を乱す秀頼と奉行衆を排除することが日本国とその安寧を願う朝廷への忠義になる
豊臣への忠義だとか秀頼への忠義だとかの方がおかしい 北政所は西軍敗北を聞いて京に逃亡してるから西軍を指揮してたって自覚はあったんだろ。毛利輝元や大谷吉継なんかと仲良く豊国社詣りしといて(しかも秀吉の伏見城が焼かれた後でもやってる始末)わたしは騙されたは通用せんと女でも分かったんだろう
問題はババを引かされた淀君がどっちにいたかってことだが別に淀君も徳川と親しいわけでもなし、西軍派とみて間違いは無いだろう 舜旧記に載ってる。当たり前だけど仲が悪かったらそもそも参拝せんわ。お忍びでって訳にはならないから直ぐ「豊臣は西軍に与してる」って噂になりそれは西軍を利する
現に貴族はそう解釈して徳川vs豊臣だと認識してるからね
輝元がイケメンだからついうっかり、なんて話もまぁあるのかもしれないけどさぁ… >>589
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/20/0024?m=all&s=0024
舜旧日記をすべて読んだわけじゃないが、大日本史料からはこれくらいしか確認できないのだが
これも仲良く一緒に参拝なんてしていない 豊臣家の行事だから豊臣家がやるとなったら西軍が妨害するわけにはいかないからねえ
むしろプロパガンダになるから積極的に参加して利用するのが上策
静観は中策
妨害は下策 淀君と北政所は大津城に開城命令を携えた使者を送ってるけどね
これで西軍じゃなかった、は無理があるな >>592
「開城命令」みたいなあやふやな用語使った言い捨てじゃなく史料示してよ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-3/41/0004?m=all&s=0004&n=20
これでしょ
一次史料では「あつかい」「扱」
扱いの意味については自分で調べてみようね
少なくとも「開城命令」ではないですから >>592
もし開城命令なら当時の表現は「下城申付」、開城を勧めるものなら
下記の家康書状のようにマイルドに「菟角先有下城」と表現してる
・(天正18年)6月7日付北条氏規宛徳川家康書状
「此上者被任我等差図、菟角先有下城、氏政父子之儀、御侘言専一候」
・(慶長5年)9月15日付宍戸元行宛毛利輝元書状
「猶以丹後玄旨、是又種々懇望付而下城申付」
いずれにせよ「扱」とは違うよ 木下一族の東軍派が木下延俊と小早川秀秋、後は全て西軍に属してる。北政所が西軍に与していたのも当たり前と言えば当たり前。宇喜多秀家、大谷吉継といった大物とも縁者なんだし
残りの有力者淀君だけど実は大坂の淀君と京の北政所は綿密に連絡を取り合っている。この事から淀君も西軍派だった可能性は非常に高い。淀君がSOSを送ったけど北政所が握り潰したとも思えないし 白峰ですらこんな馬鹿なこと言ってないからこいつの妄想かな >>587
>>595
妄想に妄想積み重ねてないで史料くれ
正義だ悪だとかどうでもいいんで、史料くれ
8月28日付小早川秀秋宛黒田浅野書状
貴様何方に御座候共、此度御忠節肝要候、二三日中に内府公御着に候条、其以前に御分別此処候、政所様へ相つづき御馳走不申候ては、不叶両人に候間、如此候
北政所が「西軍を指揮してた」なら、この書状おかしいだろう
いわば、家康の到着前に、北政所の寵愛する秀秋を東軍に引き込んで助けることが北政所への我々の奉公になるって言ってるんだぞ 奉行衆や淀・北政所は秀吉が我儘を押し通す姿を誰より間近で見てきたからな
朝令暮改で関白をクビにしたり、諸大名を海の向こうまで行かせて戦わせるところを目の当たりにすれば
自分たちも豊臣の権威を振りかざせば似たようなことができると考えるのも無理はない
関白をクビにできたなら家康もクビにできる、関ヶ原は朝鮮より近いのだから行かせて戦わせるのは簡単だと
世間知らずな連中が秀吉ごっこを始めただけにすぎない
奉行衆や淀・北政所の世間知らずを基準に考えようとするから無理が生じる
秀吉死後の秀吉ごっこには意味がない
何より秀吉自身がそれを理解しているから家康を厚遇して迎え入れたのだから >>597
いきなり「指揮してた」なんて飛躍しないでくれ
北政所は西軍に与していて西軍の為(もしくは西軍の首脳である宇喜多秀家・大谷吉継や西軍に与した木下家の為)に活動していた。それは北政所が徳川とは全く通信していない事、西軍首脳と共に豊国社で種々の活動をしている事から明らかになっている。北政所はそれによって「自分は西軍を支持している」ひいては「西軍は豊臣公儀軍」と表明しようとしていた
これは成功していた。少なくとも上方ではね。白峰氏が主張するように上方では西軍は豊臣公儀と認識されている。豊臣家がもっと西軍に反する行動をとっていたらそうはならなかった >>599
「指揮してた自覚」って書いたのあなたでしょ?
「西軍首脳と共に豊国社で種々の活動をしている事から明らかになっている」
明らかになっているなら史料を示してくれっていってるんですよ
分かります? >>599
北政所の参拝なら>>144->>159で話題になって西軍参加は否定されてるだろ
読み直してこい >>597
その文だけで北政所が東軍派だったということにはならない
史料として北政所が家康、もしくは浅野幸長に書状を送ったものが残っているなら別なんだが逸話レベルで確認されてない
じゃあそれをどう解するのか?笠谷和比古氏真は「北政所様に縁続きであり、北政所様のために「御馳走」しなければならない我ら両人であるので、このようにあなたに説得工作をしているのですよ」と訳している
ここで割と重要なのは司馬遼太郎が造った「関ヶ原は西軍が圧倒的に優勢だったのに小早川秀秋が裏切ったから負けた」という妄念を捨てる事。八月二十八日時点で西軍は窮地にある。垂井・赤坂まで東軍に占拠されてるから
つまり黒田長政・浅野幸長は「このままだと徳川が勝つんだけど、どうする?お前が徳川に着かないと西軍の北政所は助からないよ?」って言ってる >>600
種々の活動が「指揮」に見えるって、ヤバくね?史料読める云々のレベルじゃない。理解力が終わってるやん 北政所が西軍なのは当時誰もが分かってた。西軍の為に豊国社や北野天満宮に参詣・祈祷を繰り返し、また東軍の城に降伏勧告をした女を東軍とは見做さない。北政所はただの女ではなく豊臣公儀で対朝廷交渉や家臣間の調停を行っている重鎮なんだからその振舞いは私人の私見じゃ済まない。徳川に何らかの書状を送っていればまだ中立を言えたが…
だから浅野幸長は北政所が大事なら少しでも言い訳出来るようにしろと小早川秀秋に勧めてる。北政所に近しい秀秋なら北政所の罪を贖えるぞと。幸長も北政所には近しいので多分北政所のことを心配はしていたんだろう 独自の主張を繰り返す人は何を証明したいのだろうか。
豊臣家の人々は、都合悪くなると石田三成たちに全責任を押し付け、自分達は助かった恩知らずだということなのだろうか。
石田三成は、主君のために頑張ったけど見捨てられた、惨めな人であるということなのだろうか。 >>605
また随分「大きな守護を使い」「断定した」ものだな
文字通りの意味で考えたら矛盾がおこるでしょ
「北政所が西軍である」ことが「確実な事実」として
「 「東西両軍と世間隅々まで周知」だった場合
そりゃ東軍としては北政所の処遇に
曖昧な部分はなく処罰せざる得ないよ
そしてそれを避けたいなら西軍を勝利させるしかない
が、実際には北政所を慮って
東軍についたり東軍につくことを
勧めたりしてる者たちはいるし
実際に東軍は処罰していない
つまり北政所の去就については
「西軍に与していない」か
少なくとも「与していないとも解釈可能」と
認識されていたと言うこと 北政所は西軍だったという結論ありきで考えてるからこういう偏った解釈になるんだろうな
日記類からも参詣や祈祷は西軍のために執行していたとは読めんし、8月28日付
書状も当該部分を読んだけじゃ「北政所を助けるため」とまでは読めない >>606
秀吉本人は秀吉のいない豊臣には権威も公儀も感じておらず
まして奉行など単なる官僚としか考えていなかった
だから自分の死後に諸大名を力で抑えるために家康は必要不可欠だと考えていたが
秀吉以外の豊臣家の人々は、秀吉死後も豊臣の絶対権威を信じており
奉行にいたってはその権威を使って全国を統治する大幹部だと考えていた
だから家康なんて必要ない、排除しても大丈夫だと思い込んでいた
三成も淀・北政所も単に現実を理解していない人間だったというだけ
関ヶ原で現実を見せつけられて、各々が処刑されたり保身に走ったりしたに過ぎない >>605
勝手に断定せずに「西軍のため」繰り返したという史料的根拠をくれって繰り返し言ってるでしょ
こちらはなにか述べるときは逐一出してるんだから
北政所は京都新城を決戦前に破却したり、中立の動きを取っている
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/32/0039?m=all&s=0039
大津開城については「あつかい」
扱いってのは東西どちらでもない第三者による調停って意味だぞ?
妄想の前にきちんと史料(普通の日本語も)を読める力つけようね たまたま遅れてて西軍に巻き込まれた長曾我部ってホント運悪いよな >>526
>そして家康は秀頼の外祖父としての地位を約束されてるから
素でバカなのか?
秀頼の外祖父は浅井長政
秀頼の岳父は徳川秀忠 日本語が不自由なのは外国人なんだろ
色々なスレで日本下げが目的やからな >>597
その書状から浅野幸長が北政所から支持を受けていたとすると破綻が大きい。例えば「何故徳川に助けを求めないのか」「何故北政所から小早川秀秋に説得をさせないのか」といったね
つまり幸長も黒田長政も北政所の意向とは関係無しに動いているわけでそれは全くおかしな話じゃない。彼等は「家康が上洛すれば西軍は負けます。そうなると西軍に与していた北政所は大変なことになりますよ?」と言ってるわけ
北政所が西軍派なのは明らかだったから北政所と近しい秀秋を説得するには良いネタだったというだけ
北政所の行動で東軍が「北政所は東軍派」と信じる根拠が無い以上そう判ずるしかない。書状一つ送ってないんだから >>613
なんで京都新城を破却することが「中立」を表すのかまずわからんけれど、仮にそうだとして理由は至って簡単
義演准后日記に北政所が京都新城を破却して資材を分配する話が出てきたのは八月二十九日。この日、京で何があったかが肝要
というのも言経卿記では同日「岐阜城陥落」の話が出てる。岐阜城陥落は同月二十三日、京に伝わるのが二十九日だが豊臣政権上位である北政所にはもう少し早く届いていてもおかしくない。つまり北政所が京都新城を破却したのは岐阜城陥落と関係してる可能性が高い(西軍が負けそうだから言い訳工作を始めたのか)
また京都新城を破却することが中立宣言を意味するならこの二十九日まで北政所は西軍派だった事になる。どうして毛利軍が大坂城に入った時点で中立宣言しなかったのか? >>618
そもそも論理が飛びすぎて理解できんが
ゼロか一かで(しかも後世の結果を知った上で)考えるから君みたいになる
私がさいさん史料を引用してきて、そこから窺えるのは淀殿、北政所はほぼ中立
ただし秀頼が西軍に身柄を押さえられている以上は危うき緊張関係の上の中立だったってことだ
とにかく東にも西にも積極的に関わらない態度
残存史料を読む限りはそうとしか取れない
>>619
城の破却の意味を考えろよ
「北政所には情報が早く入っていた可能性が~」とか無価値な妄想を叩き台にするんじゃダメ
君は西軍首脳と北政所が仲良く参拝したと断定して西軍派だという根拠にしてるんだろ?
繰り返すが、その史料出してくれよ
出しゃいいだけの話だろ?
あれがあれだからあれに違いない、君はこればっかりだけどそんなの無価値なんですよ
史料を示しなさい 舜旧記に普通に「北政所と大谷吉継が八月十八日に参詣」って書いてあるじゃん。大谷吉継については代理だった可能性があるけどそこに大した差は存在しない
また北政所は毛利輝元とも豊国社に神事依頼(輝元は里神楽、北政所は湯立神楽)をしてるね 城の破却で中立を表明出来るとは思えないし(またその根拠も示されてない)、中立宣言にしては八月二十八日は遅過ぎる
北政所は単なる秀吉の愛妾ではなくて政治家としての側面があった、例えば小西行長の赦免・石田三成襲撃事件解決等でも活躍してる。北政所は淀君と共に東軍に降伏を命令してる
これを「勧告だからセーフ」というのは首肯できない。一私人なら兎も角、豊臣公儀の上位者が言葉がそこまで軽い筈もない。豊臣公儀に仕える者にすればそこに差は無い(そもそも中立なら開城勧告をしてはならない。西軍は豊臣公儀軍なのだから)
北政所は大坂の淀君と交信しているが徳川との交信は見当たらない。これもまた北政所が東軍と西軍どちらを支持していたかを表してるね
内府違いの条々が発布されたら即座に京都新城を破却、宮廷に逃げ込んでいたならまだ中立は主張出来たかもしれないが…
岐阜落城から西軍不利の空気が流れ出した訳で風見鶏的転向と受け取るのが世の常では? 石田と大谷は豊家の忠臣
家康は秀吉の遺言に叛いて政権を奪った奸臣 >>622
あのさあ
参拝問題についてはあとで示す(というかもうとっくに書き込んでるんだが)
というより吉継参詣の条は自分の目で確認できないので原文を教えてほしい
大津開城については「あつかい」だって言ってるだろ読めないのかよ
淀殿、北政所の使者に加えて高野山の木食小人も入っているの分かってる?
高野山も西軍寄りなのか?
だったら京極はなぜ高野山に落ちたのか、あり得ないだろ
あくまで東西と距離を置いた存在としての「あつかい」だって分かるだろ
だいたい「北政所は人よりも早く情報に接していたに違いない~」というなんの根拠もない妄想の上に何を立てても悪いけどゴミなんだ
史料に書いてあることは読まず、書いていないことを読む
これさ、小学生でも許されない赤点だって理解できる?
できないんだろーけど
とりあえずネットの辞書でいいから「扱い」の意味引いてこい >>624
何か勘違いしてない?北政所が豊臣とは全く関係ない例えば帝の女房とかなら「勧告」で済むよ?
問題は北政所は秀吉の愛妾でしかも政治運動もしてる政治家であり、そして西軍は豊臣奉行衆が中核の「豊臣公儀軍」なところ。豊臣家の軍隊に降伏するよう豊臣家の女が言って「勧告なんですぅ!」が通ると思う?
当然通らないよね? あと確か木食応其は大津城や安濃津城開城要求をした事で西軍認定されて近江飯道寺に逃走してなかった?一説には徳川から追放命令を受けたとも言われてるけど
この時彼がしたのがお約束の「三成が全部悪い」だったとされてるけど
開城「勧告」だから!西軍じゃないから!は子供の世界では通用しても大人の世界では通用しない。だから北政所も木食も逃げた。逃げて許してくれるよう言い訳するしかなかったんだね
そうなると、京都新城の破却で中立云々も怪しい。それで中立を表明出来るなら逃げる必要も無いからね ヒデキチ頼むから飛行機飛ばさないでくれ
誰が誰だかパッと見わからん 仲良く参拝問題について
舜旧記8月2日条
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-1/20/0024?m=all&s=0024
読めないだろうから全文記してやる
「八月二日天晴、毛利輝元公里神楽執行、百廿貫来、役人方三十貫渡之、次政所より湯立二釜、大原巫女申付之、同御参詣、神官共に帷被下、次予帷二つ被下了」
輝元は里神楽を執行させた、百廿貫「来」ると記載があるから輝元は参詣せず、金だけ遣わしたことが分かる
北政所は「御参詣」しているから「帷被下」という表現になる
どこが仲良く一緒に参詣しているんですか?
前にも記したが、次の日が秀頼の誕生日だからそれを別個に祝ったものだろう
「情報が早く来ていたに違いない~」という吐き気のする妄想よりはなんぼかましな仮説だろ
少なくともこれをどう読み解けば西軍を支持する動きになるわけ?
あと吉継参詣の原文よろしく
こっちは全部、原文出してるんだからさ
逃げないでくれよな だいたいさ、突っ込むのも野暮かと思ったんだが「北政所は秀吉の愛妾」とか繰り返してる件、この程度の日本語力のやつがまともに史料も論文も読めるわけがないんだよ
「妾」の漢字の意味すら知らないってことだろ
「扱い」一ついまだに理解できないようだし
あなたに何かを語る資格はない だからそいつは外祖父だの愛妾だの日本語出来ない外国人なんだよ 8月18日吉継参詣問題について
原文全文を載せたHPがあったが個人サイトのようなので、いまのところは引用を避ける
「舜旧記 大谷吉継」で検索すれば上位にでてくる
まず「早朝政所社参」してお金配りをする
それとは別に「朝神供奉弊」があり、吉継も一員として「如常奏之」
次いで里神楽があり、これは「政所御見物」
よく読むと北政所と吉継になにか接触があったとは実際には書いていない
八月十八日とは何か
秀吉の命日ですよ
北政所が参詣するのは当たり前で、神供に吉継が参加したのも北政所親族=秀吉親族としての「如常」の独自の行動とすれば不審ではない
これを以って北政所が西軍に支持を与えたとはまったく言えない
仲良く一緒に参詣なんかしていないんですよ、輝元も吉継も
旦那の命日に駆けつけたら自分の親族である吉継もいました
それだけのこと 家康が政権を奪ったのは事実なのに見苦しい言い訳スレだな >>587
北政所が京に逃げた?どこに居たと思ってるの?
大坂から京都に木下家定が人数を率いて北政所の護衛に来て、その晩に
北政所は勧修寺晴子の元に逃げた(言経卿記慶長五年九月十七日条)
逃げた理由だけど、別に家康からの処罰を恐れての逃亡なんかではなく、京都新城に放火の
危険性があったから慌てて逃げただけ(お湯殿の上の日記慶長五年九月十七日条)
何者による放火なのかは不明だが、同日の義演准后日記九月十七日条で
「橋本辺ニテ美州表破軍之由粗風聞了、淀ノ辺マテ迎来、京方悉破軍之由
慥申之、其ヨリ道ヲ急テ未剋帰寺了、彼落徒数多罷通、哀敷躰ナリ」
と、義演は醍醐寺付近で多くの京方の落人を見たと言ってる
落人に放火される危険性があったから万一に備えて北政所は慌てて逃げたということだろう >>621
輝元と吉継の件について史料使って論証したんですが、反論は?
君はこれが大きな柱で、そこにあとは妄想継ぎはぎしてたけどさあ
その柱すりゃ史料読めばてんで根拠となる事実でなかったことはここで明らかにした
君は残念な人だから一応書いておくけども、私は以上の論証をもって北政所が東軍寄りだった、なんて言いたいわけじゃないぞ
「現存史料を読む限り明らかに西軍に与した証拠はない」といっているだけだ >>624
史料史料って自家中毒に陥ってるぞ
「京都新城を破却したことが中立を」表す一次史料って何があるんだ? >>640
北政所が秀吉の愛妾だった史料を出してくれ なお、義演准后日記には破却の理由が記されている。「禁裏御近所のため」
つまり中立表明とかではなく単なる朝廷工作の一環だったらしい。言うまでもなく西軍から離れる訳でも東軍のためでもない >>641
まさかと思うけど、
秀吉の正室が自分の振舞いがどんな影響を与えるか考えてませんでした、なんて本気で言う訳ないよね?
北政所が最初から西軍なら当然理解していたろうが、まさか「西軍の為にあれこれ働いて東軍の為には全く働かない」ことが何を意味するか理解してなかったとしたら
頭が相当悪いのか?まぁ所詮はその程度の女か? 家康が会津に出馬したが、景勝が上洛を拒否したのは太閤殿下の仰せにより領国の仕置を
優先するように命じられ、三年間は全ての軍役を免除されていたからである
景勝は秀頼に叛くつもりはないので、和談の使者を送り釈明しましたが、家康はそれを一切
聞き入れずにこのたびの出馬(会津征伐)を取り決めました
このようなことでは諸大名は領国の仕置すらままなりません。秀頼の将来も危ぶまれます
これが事実なら戦乱を起こそうとしたのは家康だろ >>640
>>642
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/32/0039?m=all&s=0039
これだろ?
自分で答え書いてるじゃないか
禁裏の近くだったから=ここいらを戦場に巻き込まないでくれ
故に儀礼的に城郭機能は破却した=ここは城でもないし、東西両軍ともに陣取りしないでください
実質的には西軍が陣取りすることを警戒してるものだが、立場は中立だろ
アンダースタン?
あと、仲良く参拝問題を論証したので反論よろしく
逃げずにね >>643
君のこのレス、一つだけ正しいことが書いてある
「秀吉の正室」というところで、愛妾ではないよ
妄想誤読めかけ君 >>643
愛妾と思ってたのは海外の文献からということでいいのかな
日本人で歴史に興味がある人間は北政所に対して絶対に愛妾などとは言わない 妄想くんから妾くんへのクラスチェンジとか草生えるわ >>636
秀頼と淀君は太閤の命日も弔わない薄情者…ってコト!?
まぁ秀吉の子供じゃないならそりゃそうか 市松 そう言われてもなあ
誰じゃ今の銃声は
は 井伊直政殿の鉄砲隊の様です
わしが先陣のはずなのに
裏切って西軍につくぞ 福島正則は反転 藤堂、京極の陣をすり抜け寺沢の陣を横切り本田忠勝の陣に襲いかかった 不意を突かれた本多忠勝はあっと言う間に総崩れ
福島正則はその勢いで家康本陣に襲いかかる
宇喜多勢も道が開けたので家康本陣に突き進む
他の東軍は何が起こったのかわからず
一歩も動かない 東軍不利と見た金森長親が井伊直政隊にそしてわれもわれもと
田中、筒井、稲葉、寺沢らも加わり
井伊直政を取り囲んだ
京極は家康本陣に
大谷小西もそれに続く
黒田、竹中、細川は開戦すぐさま三成に向かっていたのでそのまま対戦 これはまずいと家康は
中村、山内、蜂須賀、浅野を本陣に呼び寄せる それを見た吉川広家
浅野に突っ込む
われもと南宮山組、全軍広家に続く 本陣に戻った本多忠勝
殿 池田隊が持ちこたえているこのすきに大垣までお引きなされ
裏切った正則の首は必ず捕ります
ささ はよう
家康は本陣を忠勝に任せわずかな供回りと大垣に向かった 都合が悪くなれば無意味な連投で発言流すんだよな
とりあえず外祖父や愛妾などわからないのは半島系の人だろ
英語中国語圏は色んな意味で直接訳すからあんまり変な勘違いしなさそう 中立って東軍にも西軍にもつかないことであって
東軍に西軍に降るよう言ったら西軍認定されるのは当たり前
だから木食応其も高野山から逃げた訳で だから「扱い」は第三者による「仲裁」であって紛争当事者の行う「勧告」じゃないんだって言われてなかったか? 妾と正室の区別もつかない日本語力しか持ってないから そういや城を破却したら中立ってのは何に書いてあるんだ? >>664
豊臣奉行が起こしてる戦で豊臣家か第三者…?
何言ってんだこいつ… >>624
木食応其は関ヶ原で大津・安濃津開城「勧告」の罪で高野山追放されてる定期 >>667
豊臣家から見たら家臣筆頭の家康と奉行衆が勝手に始めた内紛
豊臣家の立場としては争う必要はなにもない
その内紛に主家として介入も仲裁も出来なかったから豊臣家の権威が地に落ちた 全部史料を使って解説しました
妄想だけの君と違って
いい加減見苦しいよ、めかけ君 >>667
豊臣の奉行というとこだけ重要視してるけど
家康だって豊臣政権トップで一門筆頭だぞ
何言ってんだお前... 豊臣奉行は15年間人材の入れ替えも何もなく閉鎖的で硬直した集団だった
そのため特権階級意識と公私混同だけが強くなり
豊臣政権は自分達の私物であり、何をやっても許されると思い込むようになった
豊臣奉行の特権階級意識と公私混同が極限まで高まった結果が関ヶ原だった >>671
三成は、あれでも豊臣家の子飼いだぞ。
子犬の時から育ててる犬と、潜在的な敵の外様は全然違うでしょ。
姻戚も、家康が怖いから孫娘を人質にとるという意味合いが強い 真性織田子飼いの秀吉が織田家をどうしたか見れば子飼いだから野心がないとは到底言えないな
秀吉晩年時点では千姫はあくまで許嫁で実際に豊臣家に送られてたわけじゃないし
その前から公武唯一最高官位に天下人の格式を与えるなど単に警戒して繋ぎ止めるというだけでは理解できない優遇
秀吉が自分の代わりを家康に務めて欲しいと考えていたとしか思えない >>673
子飼いであって譜代じゃないだろ、秀吉に譜代なんている訳ないけど
あくまで秀吉に採用された新参者でしかないんだから、豊臣家視点で
全幅の信頼なんか置けないのは当たり前の話だよ
最大限でも徳川と同程度の信用にしかならないだろうね、先代の新規採用組なんて
ましてや当代(秀頼)だって当然自分の家臣団で執政をしたいだろうから
先代の側近扱いだった奴なんてむしろ邪魔だ、大半を排除したい位だろう >>673
言い換えるとたかが飼い犬と
主人が後を託した後見人の争いじゃん
そんなことで無条件で豊臣を背負ってると
全肯定してやらにゃ奸臣そのもののムーブを
三成がしてるってことなんよ 念のため補足するが俺の言ってるのは
家康が肯定されるべきとかじゃなく
誰を肯定する論理だって存在し得るし
互いに自分の正当性を主張するのが争いだという話な >>645
史料から外れてるぞ
禁裏の近所だから城を破却した、ってあるだけで戦いに巻き込む云々は君の想像 >>624
君の想像力の問題
北政所が中立っていうためには東軍にも西軍にも力添えをしないか、両方に力添えをしないとならない
じゃあ大津城はどうか?北政所の裁定は「京極高次は出家、城は西軍がとる」というもの。これを「中立」と取るものは居ない
君に分かるように喩えれば、お前さんが学校で喧嘩して君だけが「退学しろ」って言われたようなもの。これが自主退学が強制退学かは学校には意味があっても君には何の意味も無い
貴族たちは「西軍=豊臣公儀」だからこれを何とも思わなかったがやられた東軍はあぁそうですかで許すことはない ちなみにこの大津城開城に関わった者の末路だけど戦後、
木食応其は高野山追放
使者新庄直忠は改易
という処分が下されてる >>669
三奉行は豊臣家の家臣なんだから「関係ない」は通用しません
秘書が勝手に、なんて言い訳は戦国時代では無能の代名詞
だから上方では西軍とは京御方であり、東軍つまり徳川は敵という扱いをされてた >>678
白峰氏の論文だと「おそらく城郭としての防備をはずして、戦乱の巷になることをさけた」とあるけどね
ちなみに白峰氏は内藤昌・油浅耕三両氏の「豊臣家京都新城−武家地の建築」から引用してる
両氏のことは知らなかったが、調べたら工学の専門家で城に関する著作もあるみたいだな
お前のゴミみたいな妄想よりはこっち信じるわ >>681
それだったら、ますます主君幼少で、主君の意向も定まってない時期に毛利と組んで軍事クーデターなんてすべきではなかったのでは。
実際、毛利さんは自分の領土拡大に勤しむし、状況が悪くなったら毛利家が助かる道だけを模索してるし。
毛利家に奉行や豊臣家と心中する筋合いはないけど、なんで毛利家を盟主に組んだんだろうな。 伏見政権での家康は
秀吉生前は政権の代執行人を約束されているのに
秀吉本人が死んだら >>573
自分なりに訳してみた
「太閤殿下がご重病とのことだ。大変だ大変だ。お祈りするしかない。
浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の5人が太閤殿下の
ご命令で、日本の国政をお任せになられた。昨日、この5人はお互いに縁戚に
なったようだ。これは太閤殿下のご命令である」
かな?
書状というより、誰かの日記じゃないのかこれ? これが事実なら、五奉行は秀吉から国政を委任されていたということかな? >>684
状況が悪くなったらというより、最初から毛利は徳川に通じてるから
吉川広家が慶長5年7月14日の時点で榊原康政に書状を出してるし
輝元はいつ広家の内通を知ったのかしらんけど、9月15日の時点で広家は
重臣の人質を出してるから、この時点では知ってたのかね? >>679
中立ととるものはいない?また奇妙な断定だな
その条件の介入であっても中立的な「扱い」(仲裁)と記されてるし
実際に攻城側の立場に立った勧告ではなく仲裁と東軍も理解したからこそ北政所を処罰しなかった
通常落城したら城主は殺されるわけ
だから防衛側不利な場合その条件は中立的な仲裁であって攻城側に立った命令とはならない
あなたはそんな当たり前の話を捻じ曲げて(あるいは理解できず)中立ではないと断じてるだけだよ >>689
そもそも北政所を誰が処罰するんだよ
秀吉の正妻だぞ
家康でも無理だろ >>690
関ヶ原が東軍が豊臣家と豊臣公儀と戦う戦だったなら戦後なんとでもなる
北政所が西軍でありそれが周知だったという主張通りであればそうなる
しかしそうではなかったという話をしてる
戦中戦後含めて北政所も淀も秀頼も西軍に対してそこまでのコミットをしておらず
したがって東軍も西軍を豊臣家や豊臣政権そのものとは考えてなかった >>689
東軍に西軍に降れって言うだけで西軍認定されます本当にありがとうございました
本当に中立なら「城主と兵士は関東に逃げろ」だからね
これが北政所と淀君の「降伏勧告」ってのはあくまで西軍の理屈で東軍からしたら豊臣公儀が西軍に加担した証拠でしかないわ 古今東西において中立とは第三勢力の事
どちらにも味方しないってのは敵なんだよ
豊臣政権下の争いでまず中立ってのが成立しない >>671
面倒な問題だが徳川家康は豊臣の一門じゃない
「一門」ってのは宗家と血が繋がってないといけないけど徳川と豊臣はそうした関係にない
家康は秀吉と縁戚関係にあったけどそれはもう解消されてる
旭姫が死んでその間に子供が居なかったから
そんで家康は自身が秀吉の一門じゃないとはっきり宣言してるから厄介で一例だと家康は秀吉が死んだら早々に豊臣姓を捨てて源氏に戻してる
つまり関ヶ原時点では家康は単なる「有力外様大名」だった
ところがそれが豊臣を超えた実力者だったから西軍は粉砕される羽目になり豊臣は天下人から転げ落ちた 豊臣家と豊臣公儀が不可分だと考えているからおかしなことになる
義昭が信長を排除しようとして逆に公儀への謀反人として追放されたのと同じ
豊臣家が家康の運営する豊臣公儀に対して謀反を起こした
家康が慎重で気を遣う人間だったからから公儀への謀反人である淀・北政所を1回だけは見逃してあげたに過ぎない 北政所の政治活動の賜物か上方だと西軍が「京御方」、だかんね
西軍が豊臣公儀軍で徳川は敵方となってる >>696
秀吉の愛妾が西軍のためにせっせと政治活動に勤しんでたってマジ? >>696
そりゃ後鳥羽上皇や足利義昭だって自分が公儀だと信じて謀反を起こしたわけだからね
上方の無知な人間は後鳥羽上皇の方を公儀軍だと思い込んでいたし
北政所の政治活動も後鳥羽上皇の政治活動の半分くらいの価値はあるかもしれない >>692
>>694
また勝手な思い込みだな
高野山は当時の第三者機関扱いだし
東国の人間じゃない京極が東国に行く意味はない
また一門というのは生物学的な繋がりではない
社会的な氏族を表す言葉
血が繋がってても別の家に出されたら一門から外れる
豊臣の場合母系の血のつながりがあっても豊臣の氏を与えられてない例もあれば
血のつながりがなくても氏を与えてる例がある その高野山ですら大津城開城に関わった木食応其は追放されてるんだよなぁ…
西軍の主張を鵜呑みにすれば許せても東軍からしたら別問題だからね 第三者機関として仲裁を行なったことと
その裏に西軍への加担があったことは矛盾しない
木喰応其の流罪は後者を疑われたもので
西軍として勧告を行ったからではない >>681
無能と判断されたから諸大名と朝廷に見放されて家康を天下人にしたんだろ
合ってるじゃん 西軍は大津城を攻めあぐねたから開城交渉したわけじゃないからな
開城交渉は西軍の助けにはなってない
救われたのは京極高次と竜子やお初といった豊臣家にとって近しい人物たち 豊臣公儀が西軍に加担してると確信させるには充分だったね 豊臣家と豊臣公儀を混同している奴がいるけど
豊臣家が西軍に加担して豊臣公儀に謀反を起こしたのが関ヶ原だからな
豊臣家は昔に豊臣公儀の創立者がいただけで当時は別に豊臣公儀の運営者じゃないし
運営権を武力で取り戻そうと豊臣公儀に謀反を起こしたというだけ 北政所が西軍に肩入れするならそもそも反乱を未然に防ぐとか
戦闘行為に至る前に即座に翻意させないと意味がない
むしろ京阪の目と鼻の先で起きた反乱で10日以上もなにしてたんだって話 北政所の一族はかなりの数が西軍に与してるし
そもそも北政所は家康と不仲って話もある
関ヶ原通じて北政所は一切東軍に通信してないって話だし西軍に与していてなんらおかしくない
てか本当に西軍決起に反対してたら内府違いの条々が出た時に逃げてないとおかしいんだよなぁ… >>692
本当に中立なら関東に逃げろ?何いってだこいつ >>704
誰にとって確信?
史料上は「扱」なので第三者扱い
また公儀が加担とは?
西軍が公儀を名乗ってるのは明らかだけど
やはり西軍は公儀ではなかったという認識でいいの? >>707
秀吉が関白をクビにしたり、海の向こうまで諸大名を送り込んで戦わせる姿を見て
三成はもちろん淀・北政所まで自分たちも同じようなことができると思い込んでしまった
そこで家康を相手に危険な秀吉ごっこを始めたのが関ヶ原というだけ
朝鮮に比べたら関ヶ原に行かせて戦わせるなんて簡単だと思っているから
北政所が西軍決起に反対するわけがない >>710
本能寺の変から18年
三法師も織田家の家督も秀吉のオモチャにされた織田家の内紛から何も学習しなかったのが豊臣家
学習した三成は俺が秀吉になると毛利を巻き込んで挙兵
豊臣家は没落して当然 >>709
北政所は東軍に西軍に降るよう言いました
その際東軍には報連相一切無く西軍の要求通りに全て行われました
これで東軍がキレないなんて虫の良い話はないわ
だから関ヶ原の後木食応其は高野山から降りたし北政所も宮中に助けを求めて裸足で逃げ出すハメに
豊臣公儀として裁定した結果徳川に喧嘩売った訳で小早川秀秋が居なかったらどんな目に遭ってたことやら >>712
秀吉の愛妾wが「カチハタシノ躰」で逃げたのは東軍方の処罰を恐れてのことじゃないよ 大津開城については「あつかい」で済んでる話なんだよ
北政所が輝元、吉継と仲良く参拝したということに史料を使ってこちらは反論しました
ぜんぜん仲良く一緒に参拝なんてしてないんですよ
しかも秀頼誕生日と秀吉命日なんだから北政所が参拝するのはごく自然
西軍を支持した動きなんてあり得ないわけですよ
こっちへの反論くれ
開城の「あつかい」や、城割りの儀礼が行われた京都新城の話はもうとっくに証明が終わった話なのでいまさら粘られても
城割りの儀礼については詳しい指摘は書き込んでないが、いずれにせよ禁裏を巻き込まないように中立の立場を表明したなんて当たり前
仲良く一緒に参拝していたというのが妄想誤読めかけ君の根拠だったんだから、そっちよろしくね 一応城割りについて書いておくと
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/17-7-2/32/0039?m=all&s=0039
「南城の廉石垣壊由候」「南西御門崩了」とある
このほか塀も壊したそうだが、隅っこの土塁や石垣だけ崩すのは城割りの儀礼と一致します
なんせ北政所はこのあとも京都新城にいたわけで、両軍による陣取りを儀礼的に避けたのは明らか
もっといえば、西軍が洛中に最終防衛線を引いて京都新城に立て籠り、禁裏も質に取って徹底抗戦するというキ○ガイシナリオを事前に封じたんですね 大津開城を北政所・淀君の扱いつまり命令として発布したのは明らかに西軍の情報作戦。これのおかげで一層西軍が豊臣公儀であると示すことができた
出来たけどそれが東軍に通用するかと言えば通用しないというだけ 公儀と称したけどそれが調略の結果に全く繋がらないのでほとんど認められなかっただけよな
明智光秀みたいなもん 大津開城した次の日に壊滅してるんだから世話ねーやな >>719
>>720
なんで自演してるの?
めかけ君が事実誤認をいくら吹聴したところで「あつかい」は「あつかい」で未来永劫変わらないんだよ
そんな終わった話より北政所が仲良く一緒に参拝していたってのに答えてくれよ
無視しないでさ
こっちは史料つけて反論してるんだから 扱を命令と曲解しないと成立しないくらい無理筋って認めてるようなものだなw どのように述べても家康が簒奪者であることは変わりません >>719
同時代史料での「扱」ね
お前は都合よく命令と置き換えてるけど、勧告や命令というようなニュアンスは当然ながら全く含まれてない
※噯、刷は「あつかい」で扱と同義
(天正13年)12月13日付毛利輝元宛島義久書状
「豊・薩防戦之立柄、先年以京都之御刷和睦之筋、于今無変易候」
(天正20年)10月27日付九鬼広隆他宛加藤清正書状
「父王之方へ為噯、両王子之使二三度差遣候」
文禄3年4月29日付下川元宣他宛加藤清正書状
「爰許御扱之躰も、今日迄ハ何共不相届候、然上ハ兵粮・玉薬・冬用意、又ハ越年之用意、
やかて跡より可申遣候条、兵粮なとハとたへなく、山付ハ皆海者たへ可出置候事」 >>725
自分も浅学ながら「北政所は秀吉の愛妾」にはさすがに負けるぜ 慶長5年7月27日付秋田実季宛榊原康政書状に『「御袋様」と三奉行と前田利長が家康に
早く上洛してくれと要請している』という文面があるけど、この御袋様って高台院?
だとしたら家康方、あるいはこれはブラフで三奉行側と見るべきか? >>728
それ先にも一部引用してるけど(秀頼の)御袋様だから淀殿
簒奪がどうのこうのより基礎知識を学ぼうか
少年探偵団ごっこはさぞ楽しかろうが迷惑 ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1598/17-4-3/6/0058?m=all&s=0058
この義演准后日記という出所も知らずに「秀吉は奉行に日本を~」と騒いでたのと同じ人物だと思う
秀吉の遺言はほかにもっと具体的かつ身近な人物が記したもんがある
それによると家康が国政を、利家が豊臣家政を任されている 秀吉は執政を家康一人に任せて、奉行に任せる気など全くなかった
それを不満に思った三成たちが謀反を起こして政治権力を自分たちで独占しようとした
三成たちの謀反は鎮圧されたが、豊臣家は統治能力を疑われ政権として存続不可能になった
これが小説やドラマによる脚色をなくした関ヶ原の経緯の全てだよ 官位で見ても奉行なんか重要視されてないからな
手足として動くことは期待されてても頭にする気は全然ない >>716
君の想像にはもう少し付け加えないといけない要素があってな
それはなぜ北政所は八月二十八日に京都新城の破却をしたかという点よ
仮に京都新城破却が東軍にも西軍にも新城を使わせない為なんだとしたら、つまり北政所は八月二十八日までは京都新城を使われても良いと思っていた事になる。西軍は七月十七日には伏見城を攻撃してるので京の城が使われる事は認識していたろうから
唐突に八月二十八日に北政所が急に気分が変わった、という説もあるけど(北政所は痴呆症を罹患していたという説)そうでなければつまり、北政所が京都新城を破却したくなる何かが直前に遭ったことになる
それは岐阜落城以外考えられない。つまり岐阜が落ちた事で事情が変わったんだな >>734
相変わらず結論ありきの酷い妄想だな
あとこいつには自演できないようにコテつけて欲しい 北政所中立云々で一番問題なのは、
北政所が中立を表明できたってこと自体にある
つまり豊臣家は関ヶ原で西軍よりの行動ばかりしてる。弓鉄炮隊派遣、秀頼馬廻衆派遣、東軍諸将改易…
これらは全て「西軍が(明示しなくとも)脅した」とされてきた
ところが北政所が中立を表明できたとなると話は変わってしまう。中立ということは西軍を裏切る事を意味してる。そんなことが出来るなら何故北政所は徳川に通報しなかったのか?何故徳川に救援弁明等をしてないのか?
何故伏見城が攻撃されているのに傍観してたのか?
豊臣家が脅されてたというのはどうにも怪しくなってきた >>734
>>737
おい、仲良く参拝していた説は根拠からしれっと抜いてるけど、取り下げるということでよろしいか? >>436
研究者でも意見が分かれてるからなあ
白峰旬氏が「直江状についての書誌的考察」って論文書いてて色々考察してる
「白峰旬 直江状」で検索すればすぐ出てくるし、PDFで見れるから一読してみては
>>437
連動はしようとしてたよ
ただ通説で言われるような早い段階からの挟撃作戦がなかったというだけ
8月末に景勝が西軍首脳へ宛てた書状読むと、とにかく最上と伊達をなんとか
しなきゃならんので、関東乱入はその対処が終わってからと景勝は言ってる
この時点では上杉と佐竹の間には密約があり表面上は良好な関係にあったが、最上伊達が元気な状況では佐竹が景勝にそう簡単に
協力するとは思えないし、最上伊達を無視して南下した場合、佐竹からも攻撃を受ける可能性もあるしリスクが大き過ぎる 有名な話ではある
豊臣軍が動員されてる話は義演准后日記(蜂須賀家政の兵が秀頼馬廻衆と共に北に送られる)や吉川家文書(関ヶ原直前に豊臣弓鉄炮隊が南宮山に配置)等で明らかになってる
また秀頼筆頭に豊臣は何度か豊国社に参拝してる(舜旧記)個人的には単なる参拝に過ぎないという感もあるが西軍に与したからという説もあるようだ。おそらく宇喜多秀家、毛利輝元、大谷吉継といった西軍首脳部が参拝してるからじゃないか?
この書き込みとはまた別に
クソ問題なのは秀頼や淀君、北政所といった豊臣家トップが西軍の行いに文句付けてないところ。どころか毛利輝元・宇喜多秀家・大谷吉継といった西軍首脳部と仲良く豊国社に参拝している始末でどう見ても不支持じゃない
だから戦後に厄介なことになった
この根拠示してくれますか?
めかけ君の書き込みでしょ明らかに >>741
大坂城が毛利軍をはじめとした西軍兵に支配されてるのに、どうやって文句つけるんだよ
そもそも慶長5年7月21日付松井康之宛細川忠興書状で
豊臣公儀=石田・毛利連合政権と見て取れるような記述があるし、
西軍挙兵時点で石田と大谷、あるいは毛利の名があるから、この3人の連合政権とみんな見てたんでしょ >>742
?連合政権
○連合軍
奉行衆毛利連合など明智と同じ存在
公儀を自称し一時的に表面上畿内を制圧してる存在にすぎない
明智同様に畿内の外からの大軍に敗北する運命なのは歴史が証明してる
関ケ原は所詮、織田家内紛のリピートにすぎない >>743
明智と違うのは、秀頼という珠玉を抑えているのが西軍ということじゃない?
明智の場合は立てる神輿すら存在しない状態だったから違うと思う >>745
そこは三法師を抑えた織田信孝が当てはめられる
秀頼が全く役立たずだったのは三法師と一緒
織田家の重臣たちが退場して当時蚊帳の外だった外様大名が入ったのが関ケ原
本能寺の変から始まり秀吉信雄講和で終わる織田家の内紛を分解して凝縮したのが関ケ原
騒動のど真ん中にいた秀吉の正室だった北政所が関ケ原で中立を保とうとしたのも道理 そういう話がしたいのではなくて
秀頼や北政所が西軍首脳と仲良く参拝していたと断定しているところ
めかけ君の「豊臣」(何を指すのか不明なのだが)が西軍寄りという主張の中核だから 分かりやすく言うなら、淀・北政所・輝元は心の中で家康死ねと思っているが
そのために自分の命を直接賭けるのは嫌だ
三成が殺しに行ってくれるのは大賛成でどうか家康を殺してくれと願っているが
かといって連帯責任で三成と一緒に滅亡するのは受け入れられない
だから家康に敵対しているように見えたかと思えば、ビビッて中立みたいな態度を取ったり
ブレまくった中途半端な態度に終始するわけ >>748
人の心の内は誰にも分からないから史学では内面には触れない
そのかわりに何があったのかなかったのかを徹底的に史料などを使って探っていく学問なんだよ
内面なんて無責任な小説家に任せておけばいいし、その真似事をしてもしょうがない
秀頼らが仲良く豊国社に参詣していたと断定したのがめかけ君なのだが、史料に見えるのは八月十八日に北政所と大谷吉継が豊国社にいたということだけ
故に強く釈明ないし反論を求めている >>749
というか、史料って確か梵舜記だったよね
大谷は浅井畷の越前工作やってそれから京都に引き返して
豊国社まで参拝したのか
かなりハードスケジュールだけど、病気の身でよくやれたもんだ >>750
白峰氏は「社参」と書かれてないので大谷本人ではなく代理が参詣したのではと言ってるけどね
北政所は社参と書かれてるから本人が参詣してる >>750
大谷吉継は別に病気でもなんでもなかったというだけでは
あいつ伏見城攻めの時島津と深酒をして二日酔いになったわとか書状に書いてる
病気で苦しい時にまして命懸けで友人を救いたいってやつが深酒するはずもないからこの時の吉継は元気溌剌としてたんだろう >>741
東軍の行いにも文句をつけてないじゃん
つまり西軍にもとうぐんにも同じように接した
なのに西軍に味方したとか言い張るのおかしいな >>742
豊臣公儀が実際にどうなっているかなんて大坂に行かなければ分からないのだから
家康が大坂に到着した時点から判断されるんだよ
西軍が豊臣公儀だとか石田・毛利連合政権だというなら大坂に来た家康にそう言えばいいだけ
逆に家康に何も言わなかった以上は公儀でも政権でも何でもないということ ずっと下らない話してるな
西軍が公儀だったと想定して何か意味があったか?
公儀なら伏見城が数日で降伏してくれるのか? 多分、西軍は豊臣家のために戦い、豊臣家もそれを支持した。ということを証明したいんだと思う。
しかし、西軍が負けた時に豊臣家は三成たちを庇いもせず、見捨てたんだよな…… 公儀性で言えば家康>北政所>淀は確定してるんよな
家康が公儀 >>757
それは乱暴だろ
豊臣公儀は家康がトップではあるが、独裁者ではないんだから、
大老・奉行その他大勢含んで豊臣公儀。
公儀が分裂して、東西に分かれた、どちらが正統か決める権威が誰にも
なかった、と解釈すべき。
そもそもトップを決めるルールも無いし、意思決定ルールも決まってない、
ふわっとした組織が豊臣公儀なんだから、ペーパー上でどっちが正統か
決めるのは無理。
北政所や淀は公儀の組織上、いかなる意思決定権限もないし、
アドバイスを求められたこともない。
よって、北政所や淀が東西どちらかを支持しても、豊臣家が支持している証拠
にはなっても、公儀としての正統性の証明にはならない。 秀頼と家康は上下の関係でしょ
で、幼少の秀頼の代弁者として北政所も茶々も奉行も、家康も振る舞っている
代弁者たちが好き勝手に違うことを主張して争うかたちになったときに
本来摂政である家康と利家が責任もって見なきゃいけなかったんだけど
その体制が機能しなかったわけだよね 西軍が豊臣公儀なのは疑う余地はない
ただ日本人は「公儀は負けない」「公儀は正しい」って謎の観念があるから何故豊臣公儀が徳川に負けたのか理解できないってだけ
秀頼筆頭に豊臣公儀が実力以上の事をしたら負けて滅んだという話で大しておかしな話じゃない 野党が首相の外遊中に国会議事堂と皇居を占拠して与党欠席のまま内閣を罷免した的な感じ 挙兵直後の書状を見る限りは、石田大谷、それに毛利の連合軍あるいは連合政権軍と
認識されていたみたいだがね 特に公儀としての実績がないからな
光秀ですらやってた朝廷工作すらない >>758
クーデターを起こした側と起こされた側が同等だというのはおかしい 毛利と宇喜多が島津に出してる武器兵糧
あれ書状では公儀が出すと言ってるけど、誰が出したんだ?
豊臣か?
あるいは毛利と宇喜多か? >>766
同等とは自分も思わないが、公儀性がゼロと断定するのも難しい
西軍首脳部は間違いなく豊臣政権における大老・奉行ではあるので
一定レベルの公儀としての立場はむしろ持ってもらわないと困る
ただし、いくら彼らが少々団結した所でその力をもって直ちに徳川を政権から
排除出来るかと言われれば、やはり疑問が残る(あくまで公儀性は徳川>その他だと思う)
自分は西軍公儀説を全否定まではしないが、この論を唱える人たちが
しばしば結論とする『西軍による家康の公儀性の否定・消滅』はやはり受け入れられない >>752
何でもなくはないだろ
文禄3年10月1日付直江兼続宛大谷吉継黒印状
「眼相煩候間、乍慮外印判ニて申上候」
とこの頃から眼病を発症しており、これ以降の吉継発給書状は全て黒印が使われている
慶長4年10月2日付島津忠恒宛大谷吉継黒印状でも
「近年病中故、何方へも無音之条、非疎意候」
と言ってるので、眼病は最後まで治ることなく患っていたと思われる
眼病なんだから寝たきりとかではないし、不便は感じても移動や飲酒は可能だったというだけ 三成たちは自分が公儀だという自己暗示にかかっていただけ
三成本人は死んでも解けないほど強力な自己暗示状態だったが
他のほとんどの人間はすぐに解けて公儀でも何でもないことに気付いた >>762
野党じゃないだろ
総理大臣不在時に、総務大臣と財務大臣と官僚が武装ほう起した、ぐらいだろ 余り知られてないけど大津城降伏の一件では単なる使者だった新庄直忠が改易処分を受けてる
高野山の木食応其が追放、使者が改易で主犯の北政所・淀君が無罪放免なのは異質に見えるけど北政所は小早川秀秋が東軍に属したからその取りなしで許されたんだろう
淀君は秀頼の母だから見逃された
それだけだったのにまだ自分たちに威光があると思ったからあんな最期を迎えることに 西軍はプライドだけは高いので、どんな些細な場所でも言うことを聞かない奴がいるのが許せない
だから畿内各地はもちろん四国や九州だろうがしらみつぶしに兵を送り込もうとする
そのため東軍が美濃に入っているのに各地の城に兵を送り込み続けて
決戦場所でも何でもないところで北政所・淀の名前で権威を振るったつもりになっている隙に東軍本隊が攻め込んできて終了だからな
いくら奉行が戦を知らない素人でも酷すぎて諸大名に見限られて当然だろう >>768
双方公儀を主張したのは間違いない
結果きた方が残り認められた
公儀性などという微妙な要素を想定する必要がわからないな >>766
前の年の7将蜂起時点で徳川のクーデターといえるからねえ。
まああそこで合議制が完全に崩壊したんだし伏見城占領してる徳川軍の方がクーデター軍だよ 七将は三成に対して訴訟を起こしただけ
ブチ切れた三成が兵を集めて襲撃を企てたので奉行をクビになったに過ぎない
合議制も秀吉はそんな指示を一切出していないのに奉行連中が勝手に捏造した
家康としても奉行の捏造には付き合えないので無視するのは当然だろう 強訴ってのはようは武装蜂起。実際少なくとも浅野幸長が伏見を包囲してる。 合議制を強要したことで秀吉の遺言の価値の低下とともに公儀の威信も豊臣家の権威も低下した
武力の価値と徒党の価値が増したからこその集団訴訟だっったんだろう
合議制導入でタガが外れたが、そのために合議制は潰された というか西軍は挙兵後の行動が酷すぎる
周りと連絡を取り合うのは当然なんだけど、なぜ素早く行動を移さないのか
伏見城などは短時日で落とす、無理なら抑えを残して進軍する
とにかく尾張と美濃、うまくいくなら三河か遠江あたりまで進出して、あちこちに堅固な陣を作り持久戦に持ち込む
秀頼という玉を抑えてるのは事実なんだから、秀頼をその上で無理やり出陣させるとか、
秀頼の花押を使用して調略するとかやることいくらでもあるだろ
なのに伏見城落城は8月1日。三成が大垣城に入城したのが8月9日
この時点でこいつら何してんのというような状態 豊臣弓鉄砲隊や秀頼馬廻衆使って東軍に何の影響も無いんだから秀頼の価値がそんだけ低いってだけでは? そもそも豊臣軍ってそんなに強かったのかね
秀吉は九州征伐あたりから諸大名に戦争を任せるようになって、小田原征伐なんか徳川、上杉、前田あたりが働いてるし
朝鮮出兵でもこれといって豊臣軍は参加してない
秀長が亡くなり、秀次もぶっ殺して一族の所領や軍隊は自分から解体したし
豊臣七手衆ってそんなに強かったのか? 銀河英雄伝説のラインハルトの艦隊は最初は無敵だったけど使える連中を前線に抜擢しまくって補充の教育が間に合わなかったのか
バーミリオン会戦では同数でヤン艦隊にボロ負けして途中参加したミュラーに外から奇襲してもらって兵力でも優勢になったのに崩せなくて二人そろってボコボコにされてたな
豊臣本軍も優秀なのから大名などに抜擢されて抜けていくからこんな状態になっててもおかしくない 三成や輝元は秀頼を抑えて公儀を称したら勝てると思ってたんだろうなあ 輝元としては岐阜城と大垣城で家康食い止めてる間に瀬戸内に根を張るつもりだったんだろう というか秀頼の威光で東軍動揺して一丸になって上洛とかないと見てたんだべ? 秀頼というか、奉行が秀頼担いだ豊臣公儀にそれだけの権威があると踏んでたんでしょ 東軍中核の諸将は徳川家康と縁が深いから豊臣公儀を持ち出しても動揺が無い
ただその下の連中、主人に不満を持ってる連中まではわからんからね。「あいつは太閤の恩を忘れ、秀頼さまを裏切った」と反旗を翻すかもしれない。前田家でそんな話があるし
まぁそんな甘い統制してる家が無かったのが意外だったかもだが 秀吉がそんなに慕われてないんだからそう考える人あんまりいなそう 秀頼を手中に納めても、やってることが私欲丸出したから嫌われただけなのかな。 >>788
前に史料示したけど、西軍の自信は人質を取っているから
そんだけなのよ
最初から最後まで >>795
どこで愛妾の知識を仕入れたん?
教えてほしいわ 実際どうだったかより家康をはじめ東軍諸将からどう見えていたんだろうな
戦勝後大坂城に入ってから秀頼周囲や北政所が何やってたかは逐一わかっただろうし
女子供のことだから咎めだてはしないと「和解」したかのような話聞いたことあるが史料的根拠あるのかな
その文脈だと淀殿ら(北政所も?)が家康に敵対する行動をとったかのように認識されていたようにも思えるが 北政所愛妾説をはっきりさせないことには話が進まないな その文脈やら認識とやらは何を元にしてるんだ?
咎めだてしないとされた行動とは具体的に何?
すでに観てきた通り北政所、淀、秀頼いずれも
西軍にお墨付き与える文書や下賜の記録はない
豊国社参拝は他の期間にも行われてたし期間中のものも
東軍調伏や打倒東軍を祈念したものとは確認できない
北政所は大津城に対して第三者による「仲裁」である
「扱」をしておりこれを西軍としての
「命令」「降伏勧告」と取るのは根拠のない曲解 いやどっかでそういう話を読んだか見たことあった気がするから何か根拠あるのかなと思っただけ
なんの根拠もない逸話レベルなわけね 慶長5年8月18日付下地右衛門宛来杉氏秀書状に以下のようにある
8月1日に伏見落城し、秀頼が「京都御仕置」を残るところなく仰せつけられている
家康に一味立てする奴らは上方の様子を聞いて、みんな逃げのぼっている
秀頼が仕置を仰せつけたというのがかなり重要
つまり、秀頼の意思が働いていた、そして西軍は秀頼を擁した正式な公儀だったということでは? >>802
来次ね
白峰氏はその書状を大きく捉えてるが、出羽にいた景勝家臣の一書状だからなあ
そこから氏はほかの史料使いつつ発展して、家康は軍事指揮権を喪失していた、大坂城の受け取りは豊臣諸将であり家康は勝者ではない、と論文に記している
どうかね 西軍が公儀を称してたから(秀頼が)仕置を仰せ付けられたとなるのは理解できるけど
あくまで便宜上のことであってガキの秀頼の意思が働いてのことだとは誰も思わんよね
「伏見城ニ鳥井彦左衛門尉与申仁、人数弐千計ニて相籠候、罷出ハ被相助候て、
自然ハ物かへにも可被成と思召、様々御理候へ共、合点不申て、先月廿三日ゟ人数
四五万ニてとりまかれ、此朔日ニ落城ことことく討果、京都御仕置無残所被仰付居候事」 >>802
秀頼(主君)のクーデターだとしても東軍に勝つまでは正式ではない >>798
北政所については小早川秀秋が東軍に属したから罪を免じた
それは八月二十八日の浅野幸長らが秀秋に宛てた書状から間違いない
淀君に関しては秀頼の母親なので罪に問うより許してやって政治的な影響を狙ったんだろう
どのみち豊臣軍は実質解体状態で徳川の天下は防げないし >>803
家康が豊臣公儀から軍事指揮権を奪われた事と諸将が豊臣と徳川どっちを選ぶのかはまた別問題だしなぁ というか秀頼の名義で何らかの命令が下ったならその文書は残るよね?
蜂須賀改易の時の伝聞の秀頼がけしからんと言いましたとかじゃなく キリスト教側の記録では「石田三成らは完全に天下の主となり、極めて大きな権力を手にするに至った」とある
つまり三成や輝元ら西軍が政権主宰者
家康は反逆者である
要は家康は反逆者という立場を力で覆しただけ 現代でも中国や北朝鮮の言い分を信じて日本政府を叩く人も多いからな >>811
確かにロシア中国韓国北朝鮮の言うことは
まるで信用ならない 秀頼の意思云々は言ったもん勝ちじゃないの
家康の会津征伐だって秀頼からの書状は何もなくて「秀頼さまが言った」だけじゃない?
それで通ってたんだから西軍の「秀頼さまが言った」と言うだけで秀頼の命令として機能してたことになる。現に蜂須賀・生駒は改易され反逆者は処罰されてるんだし 前に誰かが書いてたが敵と味方、好きと嫌いって別々に考えれないのは発達障害の特徴とか言っててなるほどとは思った
二極の対軸でしか思考できない人にとってはどちらかが善ならもう片方は必然的に悪になるんだよね
両方が悪いとか良いとかの概念自体が理解出来ないらしいから善悪の結論付けをしないと精神が崩壊するらしい
だから暴れるんだとさ >>813
「秀頼さまが言った」の根拠は?
めかけくん 三成は忠臣だったけど結果が出せなかった
結果が出せなかった人間の後年の評価は哀れだ 西軍が言ってるんだからそうなんだろう
秀頼が従前から朱印状で命令発してたなら徳川も西軍もそれを持ってるはず
そうしたものが無いなら豊臣公儀ってのは実力者が秀頼さまが言ったの一言で政治をしていたってことになる。一見豊臣家の力が強い様に見えるが実態は大坂城に兵を入れた奴の勝ち 宇喜多秀家は慶長四年九月六日に家康から伏見に移動するよう命令され、秀吉から秀頼を守れと遺言されたと抗弁するも聞き入れられず伏見に移った。また北政所も同月二十六日に大坂城西ノ丸から京都新城へ移動させられている(西ノ丸には家康が入る)
豊臣贔屓の皆さんはこれを家康の天下簒奪の証拠として捉えてる。家康は秀吉の遺言(在伏見三年の遺言)を反故にするべく秀家を伏見に送り、また豊臣を支配するべく淀君には再婚を要求して拒否されると不義密通のスキャンダルを流し
北政所は北政所派の宇喜多秀家・小早川秀秋を北政所ごと伏見に、浅野長政は流罪にして影響力を削った
これに怒った豊臣は家康の天下簒奪を阻止するべく関ヶ原の振舞いに及んだ、と >>816
そもそも三成は関ヶ原の前から忍城や幸州山城の戦いなど失敗しかしていないのだから
それよりも規模が大きい関ヶ原で都合よく結果が出るわけがない
三成が本当に忠臣だったら失敗続きの自分が結果を出せるはずがないと冷静に分析して関ヶ原に手を出すことなどしない 秀家については島津義弘の国許への第一報でも三奉行、石田大谷小西、輝元と並んで名前が出てる
なので挙兵当初からの首謀者の一味だというのは考慮すべき
宇喜多騒動は秀家が側近を重用してこれまで執政してきた重臣たちが反発したものだが
秀家としては自分に刃向かった重臣は処断したいところを家康の裁断で国外退去で済まされた
この辺の流れも関係してるんじゃないかね
>>817
まさに西軍はそう思って挙兵して秀頼様が言ってるで従うと思ったんだろね
もちろんそれで諸将さら信用されたり服従を受けたりするほどに甘くはなかったけど たまには石田擁護派からの家康叩きもなるほどと言えるような意見が欲しいんだよね
現状は家康が叩かれるほど株が上がってるんだよな… >>820
実の所、史実の流れはよく見ると危ういと思うんだけどね。家康が一度江戸に戻った後で
東海道の豊臣恩顧を国元に返した事を考えなよ。
あれは、あの時点では豊臣恩顧大名に離反する物が出るかもって警戒してたんだと思うんだけど。
一度家康の本体が東海道に出た後で退却する事態になれば戦闘が無くても政治的には敗走と
同じ事に成りますので
岐阜落城までは混沌としてるし、あの段階で西軍本体が尾張まで出てれば家康は如何したのかな。 >>822
考えなよってw
何で考えてない前提なんよwww
離反は家康も想定してた
でも東軍先鋒は高い士気を維持したまま攻め上った
武力で幼君を抑えときゃいいんだろ?的な考えは通用しなかったてこと 仮に東海道の東軍先鋒諸将に離反が出た場合どうなるかという想定で言うと
離反する大名家がどの程度になるかによるとしか言いようがない
・離反武将たちが東軍を圧倒する規模であれ
東海道への救援は間に合わず伊豆(と甲斐)で
防衛ラインを引くことになる
・東軍西軍が拮抗した場合双方が援軍を送り合う
・東軍優勢の場合さほど史実と変わらない
前二つの場合長期化があり得る
それがあり得たからこそ家康は警戒して岐阜陥落まで動かなかったし
西軍も別の戦線に力を入れて勢力圏を伸ばそうとした 石田三成は忠臣だったが、結果を出せなかった
結果を出せなかった忠臣は害悪である >>825
秀吉の忠臣だった三成には大いに意味があります いや秀吉公儀ではなくやはり豊臣公儀なのよ
秀吉は絶大な権力持った独裁者だったけど
その権力を公儀たらしめたのは
朝廷を巻き込み関白位や豊臣賜姓で権威づけして
天下の諸侯を武家官位や公家に倣った家格で統制したからこそ
「うるさいワシは偉ぇて強いだぎゃみんな従え」
とか欲望剥き出しで周囲に迫っても
その場は屈服させられても無理を通すたびに影響力を失い
権力を維持することはできない
その意味で秀次事件はせっかく政権が積み上げた
公儀としてのロジックをわざわざ否定する暴挙
そして幼君を暴力で制圧したら自分らが公儀
という西軍挙兵もまた同様
「豊臣公儀」はそれによって無価値で無用のものと成り果てる >>830
秀吉って独裁者かな?
豊臣家以外にはあまり
命令出来ないのでは? 秀吉の弱点として自分の権勢が天皇、朝廷に依るものだからその意向を無視できないってのがあるんだとか
文禄の役では天皇に渡航を止めるよう要請されて結果手詰まりになってしまった >>831
徳川を関東に転封できたり、仮にも内大臣だった信雄を転封拒否を理由に追放したり、
関白だった秀次を死に追いやったり、右大臣だった菊亭晴季を流罪にできる程度には
独裁者だったんじゃないの? 慶長5年7月17日から9月25日までは、西軍が豊臣公儀だった
家康はその豊臣公儀に逆らった反逆者
関ヶ原で勝利したことで反逆者で無くなっただけ >>835
反乱軍である西軍がそう思っているだけだな >>835
「俺が先に言ったんだから俺が正しい」「最後に発言した奴の勝ち」というニートの理論は西軍に通じるよな
結果が出せないやつの共通項 >>835
西軍が豊臣公儀だったという言い方自体がおかしいんだよな
三成たちは西軍を作ろうとして蜂起したわけではない
豊臣公儀になろうとして蜂起したが、公儀よりも格落ちした西軍でしかなかったという言い方が正しい >>836
現実には、前の年の前田利家死去からの7将蜂起、そして国元からの増援を勝手に伏見城に
入れた時点で徳川のクーデターだぞ
公家の日記に「天下様になった」と書かれてる様に豊臣家第二の城塞が徳川軍に占領された
んだからね
そして、その横暴に豊臣家が何も出来なかったので徳川のクーデター軍に伏見城が占領されて
其の儘というのが正しい
西軍は、直接的には徳川のクーデター軍排除「だから最初が伏見攻め」を目的に挙兵してるし。
実際、西軍勝利なら資料に徳川の謀反軍排除したと書かれたろうさ >>839
合議制を導入しようとした時点でクーデター
秀吉の遺言を無視したんだから >>839
つまりは家康が豊臣公儀だったということやな 政治は家康で家中は利家にザックリ託してたんじゃないの
船頭2人要らんから伏見と大坂で棲み分けさせてた体制やったからな 豊臣も参加してる以上西軍は公儀を名乗れる
ただし公儀の力は絶対じゃないというだけ 西軍は「公儀」や「天下御仕置」を自認する書状を多数送っている一方で
東軍はそういう正当性を主張する書状は一切出してない >>845
物は言いようだが
東軍はそもそもどっちが公儀とか気にする立場ではないやん。何故なら東軍こと上杉討伐軍は豊臣政権筆頭徳川家康が率いておりまた豊臣政権の武力行使として結成されてる。正当性を主張する必要は無い。
対して西軍は単なる反乱軍なので、この挙兵が豊臣公儀への反乱では無いと主張しないといけない。
その差なんじゃないかな。尤も、豊臣公儀とは関係ないところで決着がついてしまったが。 >>845
そりゃあそうでしょ、家康の本音は明らかですし。
豊臣家の権威を強める様な行為をするはずがない。
徳川の権威は武力で支えられてるんであって、豊臣家の支持ではないもん。
豊臣家の支持が必要と思ってるなら、形だけでも合議制維持するでしょ。
家康一人の花押の文書の権威って、徳川の武力以外の裏付けあるのかい 徳川の権威は秀吉から推挙された公武唯一最高の内大臣という官位
秀吉から託された政務担当及び唯一秀頼と結ばされた秀頼との縁戚関係
これだけの根拠に基づいてるんでただの武力などではなく立場として既に正当性がある
西軍の連中は権威の根拠として上記いずれも家康に遠く及ばず
秀頼と大坂城を占拠したことによる公儀性の強弁で明らかにクーデター軍 西軍が政庁を占拠したから公儀と呼んでもいいって説もあるけど
その説に寄っても西軍は軍事クーデタをした側なので積極的に正当性を主張しなければならないってのは言われてる
また西軍が公儀を主張しても東軍の公儀性が失われるわけではなく、家康指揮で一本化している東軍はことさら「公儀」と書状に書く必要もなかったって事も同様
白峰先生発の西軍の公儀性は認める学者はいるけど、東軍の公儀性が消失したとの見解は違うからね むしろ西軍こそ依拠しているのは大坂城を占拠したという武力だけ
家康の内大臣を褫奪することもできておらず朝廷からも認められてるとは言えない
豊臣家及び秀頼だけが権威の源泉でここさえ押さえれば天下だと思い込んでいたんだろうか >>850
その辺に関しては正直家康も勘違いしてた節があるからな
自分が豊臣政権の第一人者であるからこそ、諸侯にある程度命令できると考えてたっぽいし
だからこそ、関ヶ原前の家康はひたすら政権内での権勢を高める方向で動いていた訳で
明確に政権(豊臣)を超えようという動きを見せてるのは関ヶ原の後になってからだから
ぶっちゃけ西軍はいらん事して秀吉がかけた家康の枷を外してしまったようにしか見えん >>845
あなたはいちいち私は人間ですって言って回ってるのか? 西軍が自分を公儀と名乗っている以上、東軍も同じ様に喧伝するのは定石なのでは?
それをしなかったのは豊臣公儀に頼らなくても事態を収拾できると言う自信ともしかしたら後の徳川幕府への布石
豊臣公儀を名乗ったり、豊臣家からSOSが届いて鎮圧に向かったら家康は形の上では豊臣公儀の下になる
公儀を名乗らなければ家康が公儀になる
当然それ相応の実力が必要だった訳だが、これが上手く行ったと 家康・東軍大名らは反乱も何も起こしていないのだから豊臣政権の一員のままじゃん
それで何を喧伝しなきゃいけないのだ 西軍の主張に同調しないのであれば
(東軍から見て)西軍のやってることはただの空き巣行為だから
自分たちの行為を正当化する必要がある西軍と違って
東軍は空き巣退治に説明を必要としない 西軍は本当に必要なことを何もやっておらず、ただ大阪城を囲って騒いでただけ
・本丸に乗り込んでの秀頼の身柄確保
・秀吉が使ってた朱印の確保
・秀頼と千姫の婚約破棄
・朝廷からの支持
・家康の官位剥奪と追討令
以上をやってないので東軍は西軍に謀反軍のレッテルを貼るだけですむ 豊臣家が西軍に参加してたからそこまでやる必要が無かっただけかもよ
西軍が決起前に集めた諸将の妻子は大坂城天守に集められてたって話もあるし
天守まで利用されて文句も言えない、ってんじゃ豊臣の凋落極まれりだよなぁ いやそこまでやらなきゃ何のために挙兵したんだってレベルだと思うんだが
本当に豊臣家を取り込みさえすれば後は何もしなくていいと思っていたのならちょっと政治センスが疑われる 大阪城を囲って内府違ひの条々で東軍がバラバラになると思ってたやつらだ
西軍に色々とセンスが無いのは間違いない >>856
四国の蜂須賀やら生駒やら相手に朱印状バラ撒いてなかったっけ >>860
秀吉が使ってた朱印を使ったものは確認できない そもそも、どうすれば豊臣公儀の執行者になれるかのルールが決まっていないので、
議論してもどうにもならない。
トップの秀吉が関白の官職をもって、官位についた諸大名を統率するシステムだったのに、
関白秀次ぶっ殺して、単に自分の実力で統率するだけの組織にしてしまった。
よって、秀吉が死んで、関白が誰もいなくなった時点で、官職トップの内大臣の家康が
トップになるしか、組織を維持する方法が無い。
家康に変わって誰かがトップになろうとするなら、家康以上の官位官職につくしかないんだが、
西軍の誰かが右大臣とか左大臣とかになろうとした形跡はあるのかね? 三成たち奉行連中は豊臣という名前が誕生した瞬間から誰より中枢にいて
15年間ずっと豊臣公儀を振りかざして威張り散らす立場だった
逆に誰かに豊臣公儀を振りかざされた経験自体がない
西軍が豊臣公儀になったというのではなく
三成たちにとって豊臣公儀というのは空気のように自分の近くにあって当たり前のものなので
自分が豊臣公儀ではないということ自体が想像不可能なものだった
だから過去15年間やってきたのと同様のノリで豊臣公儀を叫んでいるだけで特別な意味はない >>860
秀吉の朱印どころか蜂須賀、生駒宛の西軍首脳書状がない
まあ西軍首脳の発給書状で現存してる真田や島津、松井宛のものは全て花押が使われてるし
蜂須賀や生駒宛のものがあったとしても朱印が使われていないだろうことは想像に難くない >>858
公儀抱き込んでるんだからそりゃ優位に立ってると思うだろう
これに徳川が対抗するには秀頼か豊臣家からの救援要請が無いと不可能
後は東軍に不満がある連中が「秀頼さまのため」を理由に戦争すれば徳川は戦争どころじゃなくなる
謂わば、秀頼の名で秀吉の惣無事令を破壊したことになる。それが何を産むかなんてわかってたろうに 後継者が明確でないので序列二位だったものが
序列一位がいなくなってその仕事を果たすというのも
そんなにおかしな話ではないのよね
>>863
空気のように当然と思ってるなら殊更に主張する発想にならないよ
自分達とともにあり好きにできると思っていた権力が失われたことは理解してたってこと この時期の騙し合いって調べると実に面白いんよな。
大河とかではスルーされて、太閤死去、関ヶ原、二条城会見、大坂の陣って
感じで巻き進行ですが
ピカレスクな魅力で光り輝いてる盗将様と、意外と度胸もあるし、不屈の闘志もある三成の
騙し合いは其れなりに面白いんよな。
会津征伐は明らかに挙兵させる為の隙、でも罠を承知で動く三成も凄いし
こういう騙し合いってどちらが読み勝ってるのかって感じで熱い >>863
幕閣中枢にいた本多正純もよもや自分が失脚するとは思っても無かったろうにね >>856
高台院西軍・淀東軍説で全部説明つくやで
たぶん・・・ 本当に不思議よな、この時期の盗将様はある意味ピカレスクロマンと割り切れば面白い小説
書けそうなのに、意外と存在しないのがな。
無理に聖人君子東照大権現に書こうとすれば、この時期はスルーするしかないのは分かるが。
寧ろ、ピカレスクロマンな盗将様として生き生きとした謀略を書けば良いのに
一度調べ始めたら実に面白いもん、まあ普通のピカレスク小説はバッドエンドにしないと駄目なので
書かれないんだろうが ピカレスク連呼する馬鹿って前スレにもいなかったっけ 三成って家康と細川忠興にどうも怨みを向けていたとしか思えんのよな
慶長5年8月に真田昌幸に宛てた三成書状
細川忠興に対して「遺恨深候」とある。理由は秀吉の御法度を破り秀頼から新領をかすめ取るなどしたからとかある
しかもガラシャの人質を取ろうとした件も「大坂に居たから焼き討ちにしてやったぜ」とか書いてるし
あと、意味不明なのが「幽斎は助命して流罪にした」とあること
この時点の幽斎って確か田辺城にいたよね
これどういう意味?
この時期の三成書状って偽書なん? 細川幽斎の助命は確定事項だっただけでは
田辺情報は囲まれて絶体絶命、ただ幽斎は玉砕戦を覚悟の徹底抗戦
西軍は蜂須賀・生駒と同様に扱うと提案したけどこれも拒否
ただ幽斎は天下に聞こえた文化人だったので朝廷までしゃしゃり出てきて交渉に入ってしまった
となるともう三成の手には負えない。取り敢えず力攻めは不可能になった >>874
偽書じゃないぞ
幽斎の件はよくあるポジショントークでしょ
まーた適当なこと言ってるけどそんな誇るような言い方はしてない
ガラシャを人質に取ろうとしたところ、留守居が生害せよと聞き違えて
ガラシャを殺し、大坂の家に火をかけて相果てた、と言い訳をしてる
「長岡越中妻子ハ人質ニ可召置之由申候処、留主居之者聞違、
生害仕と存御しころし、大坂之家ニ火をかけ相果候事」 >>874
普通に三成視点で見れば許し難い逆臣に成ると思いますよ、不思議がってる方が(。´・ω・)?と
いいますか?
7将蜂起事件の当事者の一人で、事件後盗将様から豊後で6万石の加増受けてるからね。
第三者視点から見れば、7将蜂起事件の論功行賞を受けた様にしか見えない。
でも、抑々明智の娘のガラシャ正室にしてる事を不問にされてるだけでも豊臣家に格別の恩顧と
見られてもしかたない。
そういう奴を露骨に寝返らせる事の政治的効果を盗将様は狙ったのでしょうが。
実の所、ガラシャ自殺は逆に開きなおって宣伝してもよかったかもしれない。
裏切り者の細川の嫁がふさわしい最後を遂げたと。 史実に忠実な関ヶ原のドラマを描こうとすると、
お互いに情報不足で場当たりと思い込みで行動して
訳の分からないことになるという、シン・ゴジラ前半
みたいなグダグダな政治ドラマになるんだろうな
で、四国の河野、九州の大友が負けた時点で
輝元が敗戦処理に入って、実質終わりと。
盛り上がりに欠けることはなはだしい。 徳川家康が関ヶ原に来たのと同日に小早川秀秋が松尾山入ってるしドラマ性はあるんじゃないか
これで西軍はパニックだもの。偶然じゃない >>878
実の所、ガラシャの自殺事件も実は事故説があったりするんですよね。
当時細川家に有名な砲術家が居て、屋敷に大量の火薬が貯蔵されてたみたいで。
其の火薬に「どうしてこなた」という感じで引火した説がな
第三者視点から見ると「ガラシャは覚悟の自殺した」という風にしか見えないけど まあ史実というのも、調べたら単なる偶然や勘違いで事態が動いたように思える事が多くて
調べると面白い。
有名な昆陽の戦いでも、そもそも新王朝の討伐軍が包囲する方がおかしいのよな。
討伐軍の目的は劉秀の兄が率いる反乱軍主力が攻めてる宛の救援。
で昆陽は別に此処落とさないと駄目な要衝でもなんでもないから無視して進むのが
当然で「何故包囲するんだよ」でしかない
しかも籠城軍が降伏申し出たのに無視して攻撃続行中に劉秀の援軍が城外から奇襲という
分けわかめ状態。
こんな謎の状況で新王朝の主力が壊滅して歴史が変わってしまう。
戦場の霧とはよく言ったものというか 連投君は在日だから細川家に嫁いだガラシャは明智一族とみなして色々言ってるのがズレてる
第三者が忠興の正室の事を持ち出すのがおかしいんよな
特亜の夫婦別姓の概念によくある嫁はどこまでいっても別一族の考え方 大坂三奉行は石田三成・大谷吉継謀反を理由に諸将の人質を収容しようとしたけど
細川玉子にはバレていて自害された
影響は無かったけど >>879
それなんだよな
三成や西軍は家康の動きを何にも掴んでなかったのか?
東軍は西軍の動きが筒抜けだったのに >>883
三成は福島正則を調略しようとしたらしいが、人質をぶっ殺すような奴の調略に誰が応じるのよ
武田勝頼と同じで無闇に人質を扱ったらその後の調略が不可能になる
9月12日に出した書状でも三成は人質を丁寧に扱いすぎてるとか不満述べてるし 福島調略は無理
さっさと清須を落とすべし
できれば7月じゅうに >>886
伏見城に8月1日までかけてるのに、そんなの無理だよ
それと確か8月の書状だったと思うけど、確か佐竹義宣に宛てた書状で三成は尾三国境で家康迎え撃つから、あんたは
景勝や真田と協力して悠々と江戸に攻め込んで下さいねとか書いてる書状なかった?
三成って余りに戦況を楽観視してて話にならない やっぱり秀頼出陣を決めてたんじゃないの?
それに猛烈に反対してひっくり返した人が大坂中枢にいたと
そりゃパニックよな >>887
三成たち奉行連中は十数年間、豊臣の威光に日本中の大名が平伏し
豊臣の命令で海の向こうまで諸大名を行かせて殺し合いをさせてきたことを
誰よりも中枢部で体験しているんだよ
そんな三成が戦況を悲観するわけがない
自分も豊臣の威光を振りかざせば同じことができるとしか考えていないよ 三成は西軍の美濃方面軍の司令官に過ぎないので楽観的な事しか言えない
西軍の兵力分配すらできないんだから >>884
西軍の中に実は東軍シンパはたくさんいるけど、
東軍の中で実は西軍シンパ、なんて佐竹の当代ぐらいしかいないし。
情報源がないやろ 三成は忠臣だったが軍人としては無能すぎて出しゃばりすぎたのが問題だったね
官僚や行政人としては超有能だったけど
その分野と軍事は全く違うからなあ…… 大垣衆二万少しくらいしか指示出来ないんだからどうしようもできない
輝元がもう少し兵を振っていれば防げたかもだけど >>892
先代の遺言を平然と破って、そのくせ他人にはあやふやな根拠で厳守を主張して
自分の行動を平然と棚上げするわ、政権から役職を解任されても無視して復帰しようとするわ、
政権の正式事業を武力をもって妨害するわで政権崩壊を引き起こすような奴の
どこをどう解釈したら忠臣になるんだ、どう考えても違うだろ 秀吉個人に対しては明らかに忠臣です
ただ、軍事的に超無能なのが問題でした >>895
どこが?徳川を政権排除するのが正しいと思うなら秀吉生前にそれを強く公的に主張すべきでしょう
出来ないとは言わせない、立場的に秀吉に諫言は出来るでしょ、秀吉側近なんだから
そんなことしたら殺される?主君の為に命一つ平然と差し出すことも出来ない奴のどこが忠臣?
主君や主家の行く末より自分の命や立場が大事とか忠臣が聞いてあきれるわ
三成は権力欲や権勢欲を持つ内政に長けた野心家だろう、それ以上でもそれ以下でもない ワグネルの親分が消息不明だとさ、あのまま一路モスクワ目指すのが唯一の勝ち筋でしたか。
あれよなあ、前進あるのみが実は唯一の勝ち筋だったという。
三成も「目指せモスクワ」じゃなくて「目指せ清須」やるのが一番勝率あったのかもな >>887
長束の忍者を使って伏見場内の忍者を買収
城内から火が上がる
その頃三成は美濃勢とともに清須攻め
8月になると岡崎城を取り囲んだ >>897
そして小田原城の戦い
決戦江戸城の戦いと続いていく いつまでもごちゃごちゃ公儀だとかなんだとかうけるなw
家康擁護派の大前提が天下取りの野心が全くなく仕方なくそーなっていったってのがあるから話が終わらない
秀吉死後の家康の行動見れば明らかに天下取りにいってる
その事を考えると家康擁護は無理がありすぎる 後継者が余りに年少で大坂に引きこもった以上
一門筆頭が陣代となるのは常なること
結局秀次処分が一番悪い
次に大和大納言家に末期養子を充てず取り潰したこと >>901
合議で運営していけるという間違った考えがあるから
家康の動きが何でも天下取りに見えてしまうんだよ 家康の野心云々以前に秀吉及び豊臣の側にも天下人から転がり落ちるだけの要因や自業自得があったのに
そういうことには一切目を瞑ってひたすら家康の野心だけをエクスキューズにしてるのが必死すぎて見苦しいんだよな ロシアの騒動で御所巻きがツイッターのトレンドになるんだな
三成が合議制をねじ込んだせいで秀吉体制がどうでもよくなったから七将が御所巻に及んだのかもしれない 七将は私婚問題で家康と一緒に咎められた奴らだったからな
外征で苦労して帰ってきた挙句に粛清される可能性まであったらそりゃ怒るよ 家康に野心があったかは定かじゃないからね
よく言われる三成襲撃事件もかなりの危険事態で家康は全力で事態収拾にあたったんだろう
本気で三成を潰したかったにしては甘過ぎる。幾ら三成の息子と仲良しだからといっても
万が一七将が爆発したら豊臣家の力量的にそのまま戦国時代に真っ逆様だったろうしね >>901
『政権内部での権勢を高める野心』と『政権を超える野心』ってのは全く違うから
秀吉死後から関ヶ原前までの家康は前者にしか見えん、その後なら後者だろうけど
関ヶ原で区切る意味?人間は極めて重大な出来事や体験をすると、それまでの認識や
考え方をいくらでも変える生き物だからだよ、関ヶ原は充分にそのレベルの出来事に値する
他ならぬ秀吉がそうでしょう、本能寺前と後で秀吉の行動は全く違います
本能寺やそれに類する出来事(要は信長父子の突発的死亡)が”一切起きなくても”、
秀吉は関白就任して天下人になるだろう、なんていう奴はまずいないでしょう
だから『反家康派が関ヶ原なんて馬鹿な事をしなければ』家康が豊臣政権の担ぎ手のままで
終わった可能性は高いと思いますよ、藤原氏とかの例を見る限り >>895
朝鮮との和平交渉は嘘の報告で騙したけど? >>901
明らかにとか強い言葉を使いつつ
具体的には何も言えないよねいつも >>907
加藤浅野らは私婚問題で家康弾劾して前田邸に参集してるよ
七将全部が家康の与党で一貫してるというのは司馬遼太郎の間違い >>908
それは、政権その物を乗っとる野心と地方で独立する野心の違いじゃないですかね。
丁度、アレキサンダー大王死後のディアドコイに、二種類の方向性があったようにね。
家康は、関東で自立する目的じゃなくて全国政権を乗っとるつもりだから豊臣家の権威が行き成り
消滅してもらっては困る訳で。
豊臣家の大名を徐々に徳川の外様にしたい訳だから。 >>913
例え話くん久しぶりに見たな
相変わらず小説読んでそのゴミ知識を惜しみなく披露してるようで何よりw >>896
奉行を無視して内儀を進める利休を排除するのが正しいと主張したり
奉行を無視して自分と側近だけで政治を進める秀次を排除するのが正しいと主張することに忙しすぎて
徳川に構っている暇はなかったのだから仕方がないだろ プリゴジンは謀反失敗というか、途中で諦めたね
伝家の宝刀 核持って 家康は野心というより
豊臣政権のトップという
責任感でしょう 七将襲撃が家康の描いた絵なら石田三成が生きてるのはおかしい。三成は処刑なり七将に襲撃されて死んでるはず
それを家康は無茶苦茶寛大な裁定を出してる
家康に野心のようなものは無かったんだろう
史料から見る限り、家康が天下取りを決心したのは関ヶ原の後だろう 七将事件で三成に罪を問うなら、騒動起こした七将にも問わないといけなくなるのにか?
七将は現在諸説があるからメンバーが異なる場合があるけど、福島は家康の縁戚
池田は娘婿、加藤も縁戚だぞ
こいつらも罪に問えると? 七将の申し立てを鵜呑みにするなら三成切腹でおわるだろ
それやると七将処罰しなきゃいけないとか謎ルールすぎ W加藤や池田浅野は七将事件の直前には家康を糾弾する前田を支持した
福島は逆に私婚問題で家康と一緒に前田や他の七将から糾弾されてる側
なので七将が一味同心するようになったのは前田徳川の和解後
両巨頭の和解に沿って動いていたとも言える
>>915のいう一連の粛清劇を主導したのが奉行であるかは一考の余地はある
が、少なくとも4奉行は秀次事件では発端となった糾問の使者となり事件後出世、政権の中枢に座り続けてた
実態はともかく責任を問われる立場と見られる素地はある
実は福島も秀次切腹の使者として大出世してる
慶長の役にも出征しておらず立場としては常に前線にいた加藤より奉行に近い
なので私婚糾弾は福島にとっては後ろから撃たれたようなものでその後報復に動くのもまあ自然よね 喧嘩なら両成敗がこの時代の決まりだが、一次史料によると「訴訟」だからなあ
ttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1599/17-5-3/12/0008?m=all&s=0002&n=20
「閏三月十日、晴石田治部少輔江州サヲ山の城へ隠居、大名十人とやらん申合訴訟云々、内府異見云々」
同じページに写ってる義演じゃなく言経だと「伏見雑説、大閤政所御あつかいにて無事成也云々」
主導したのが家康なのか秀吉の愛妾なのかしらないが、「異見」「御あつかい」で決着してる 敢えて言うなら三成が死んでるのにその原因の七将が死んでないのはおかしいという死に損ってことで七将にも責任を取らせろという倫理的な問題
ただそれを家康に訴えることが出来る肝のある奴が多分居ない そもそも七将事件は三成よりその娘婿の福原と熊谷に問題があったのに、なぜか三成に対して行動を起こしてる七人
そしてこの事件で福原と熊谷は改易されてるから三成は十分処罰は受けてると思うが
そもそも改易とか誰が決めたの?
所領とかは秀頼が成長するまで特に判断するなとか言われてなかった? そもそも七将の訴状が明確ではないので福原熊谷が問題だったかも明確ではないのだがそれは置いといて
ふたりが問題だったとする説をとるのであれば彼らが石田の親戚でその与党と見做されたからというのがセット
何も不思議がないと思うのだけど何が「なぜか」なの? 七将が求めてるのはあくまで三成の処刑、その一派の改易はそもそも求めてない(増田長盛みたいな大物は狙ってたみたいだけど)
だから福原らの改易は家康が三成処刑を諦めさせる代わりの落とし所だった可能性がかなり高い
これを蹴ったら蜂須賀・黒田の名誉回復は永遠にされないんだから七将としても呑むしかない >>928
あくまで三成のしょけーを求めたという史料のソースお願いします 慶長3年5月26日付福原・垣見・熊谷連署状にある内容が七将事件
の契機になり、対立がより深まったのは間違いないところだろう
七将の要求に福原らの処罰が含まれていた可能性も考えられると思うがね
ただ七将が要求していたもの何なのか不明な以上結局不明としか言えんわな >>925
そこよな、論功行賞する権限こそが主君の主君たるゆえん
これって建前は兎も角、盗将様のクーデターだろ 別に秀吉死後、諸大名に対する加増は一切行われていない訳じゃないから
その辺のことを言われてもなんともな、少なくとも、森、島津、宗には加増されてる
で、島津や宗は西軍についてるから別に西軍側もこの件を問題視してるとは思えん
つーか、本気で問題視してるなら島津らを糾弾すべきだ、西軍に味方したから許すとかしたら
それこそ政権の私物化だから家康に対する批判自体「どの口が言うか!」って話になる >>932
家康一人の花押で決済してる物は、全然違うでしょ
太閤ですら、自分一人の花押の文書は殆んどだしてないのにさ
盗将様一人の花押の文書の意味って「文句いう奴は俺の軍事力で踏みつぶす」って事だ。
受けた時点で、事実上徳川に臣従したも同じ そもそも朝廷の官位叙任停止もそうだが大名の所領関係も秀頼成人まで手をつけるなってのが非常識
ただ秀頼が幼いからって私的都合だけで停滞させちゃいけない国家の重要事を無理やり停滞させるとか
日本は秀吉の豊臣家の私物じゃないし関白も当然豊臣の私物じゃないんだから
関ヶ原後家康が五摂家へ関白を返還したのも当然だしもともと秀吉が約束していたことでもある
所領に手をつけるななどは武家の御恩と奉公の契約不履行もしくは遅延行為で武家の棟梁失格
家康は子供可愛さのあまり公私の別を弁えられなくなった秀吉と武家の棟梁たる資格を失った豊臣家に代わって
国家を正常化させたまでのことでそのことをどうこう言う者は日本を豊臣家の私物だと言ってるのと同じ 後水尾天皇践祚の儀に出席するため京都にいく。大坂の秀頼も二条城へ来るようにとの大御所様のおん下知である。 毛利も秀元の所領問題があるから秀頼成人まで待ってられない
むしろ秀吉の遺命を反故にするよう奉行衆に働きかけてた可能性が大
そしてそれは成功した 秀吉が天下人としてはどうにもならない奴だと思うのは
もし秀頼が成人する前に死んだ場合どうするのかを何も言い遺してないこと
兄鶴松の例もあり当時秀頼が成人する保証などどこにもなく秀頼が子を儲ける前に死ぬ可能性は十分ある
秀吉はそうなった場合の継承順位を何も定めてないから秀頼が死んだ瞬間豊臣家も豊臣政権も消滅する
公言こそしないが当時朝廷から大名まで全てその危惧懸念は持っていたはずで
だからこそ 途中で書き込んでしまった
だからこそ家康はじめどの大名も「そうなった場合」生き残るためにどうするかも視野に入れて行動していたはずで
単に豊臣への忠不忠や野心の有無だけでは片付けられない機微がある 関ヶ原戦後処理で豊臣政権があっさり解体されたのをみるに
もう誰もが当事者能力を欠いていたのかもね チェーン店の看板に価値が無いならロイヤリティの無駄
独立するか乗り換える 結局は徳川を大きくし過ぎたのが問題だった
秀吉死後に徳川を守ろうと考えたらトップに立つしかないもん そうなった原因はそもそも豊臣家に人材がいなかったから >>940
そう考えると秀次処分が本当に悪手の極みなんだよな
成人男性、かつ関白に就任しているから徳川含めた諸大名とは格が違うし
子供も多いから後継者にも困らない、独自の家臣団を有しているから大老・奉行制度も不要
秀頼に万が一が起きた時の保険としてはほぼ完璧なのに、どっかの誰かが死なせちゃうというね
家督争いのリスク?御家断絶と比べてどっちがマシですかって話だよ
一門っていうのは確かに管理・整理・制御の難しい厄介な存在ではあるけど、
面倒だからとむやみに排除すると結局は御家が詰むってのが頼朝や秀吉を見てるとよくわかる
長期政権を築くなら、やはり一族、一門を豊富にしてそいつらをうまくコントロールして
活用していくのが一番だ、それが後継作成と並ぶお家の当主の最も大きな仕事だろう 秀吉は武家の出身じゃ無かったろうからそういった意識は希薄だったろうし
頼朝の場合は清和源氏では一族内で殺し合いをしまっくてた経緯もあって
今更兄弟仲良くという気にもならなっかたんじゃないかなあ そもそも秀吉遺言自体は秀頼の引き立てだけを頼んでる
家康が政権牛耳って秀頼が傀儡になってもそれはそれで安泰でしょ?
マジでそれでいいんだよ
秀頼が成人できない場合はもうどうでもいいのが本音でしょ
その場合の後継なんて縁の薄い母系から跡を入れようと摂関家から入れようと
秀吉にとってはマジで全くもってどうでもいい
その時の政権のトップが好きにしろよ
そんなことより秀頼の今後だけはよろしくねって遺言 仮に関ヶ原がなくても、成人した秀頼のヤバさだと大坂の陣と関ヶ原をミックスしたような大乱が起きるだろうな。傀儡や象徴としての存在を理解せず徳川家と対立。 >>948
まあ正直それに関しては、秀頼を徹底管理して洗脳をしなかった家康にも多少責任はあるかと
関ヶ原直後はともかく、将軍就任後位の時点で、大坂城に徳川の息がかかった家臣を
大量に送り込んで『適切な教育』をすべきだったように思う >>945
普通に沢山いる秀次の娘の一人が秀頼の正室で問題なさそうなんだよね。
それと、秀頼は織田の血筋って要素が有るので秀次が息子に無理に継がせたがるのかって
問題もある。
あの場合、織田の血筋が当主の方が絶対安定するからねえ。
そして、豊臣家の古参家臣は殆んど秀次に付けてたので最古参を粛清した形になったと
いうのもある
本当、余計な事しなければ家康の出る幕ないんよね、家康に都合よすぎというか 秀次がいなくなって都合よかったのはむしろ三成ら奉行のほうだろう
家康は秀次とも連携取ってたし東の押さえとして秀次政権が続いていたとしても一定の地位は保てるだろうが
三成ら奉行はお払い箱になった可能性が高いから何らかの策動をする動機は充分あった 信雄改易後の織田血筋なんぞそこまで重要なものでもない
そもそも秀頼に織田血筋の云々言ってるのが後世からのよくわからん下駄を履かせ評価
秀頼の外祖母が信長の妹とかもはや別一族だし遠いからな わが伯父、信長公にさんざん世話になった、三河の田舎大名めが、無礼であろう! 秀頼と千姫の子ができると
浅井長政の3×3
織田信秀の4×4のインブリード >>952
連携というか、秀次の弟の秀勝の妻が江だから、がっつり次世代の縁戚関係だね。
秀次が粛清されたのは朝鮮戦役に反対していたから、という説もある。だとすれば秀次政権になると三成たちは責任を取らされただろうね(実際、戦後に加藤ら突き上げられているが) 三成が武将として糞なのは一次史料からわかるけど、秀吉にとっては忠臣だったのは理解してあげよう 三成は小西と一緒に明との和睦偽造で秀吉の降伏文書を明に提出した
まさに忠臣だな >>958
のぼうさまに水攻めして、返り討ちになった時の話なら、
あれは秀吉の指示だぞ 明に勝てないんだから和睦で済むなら万々歳
文禄の役で自己満足で終えていたら傷は浅かった >>960
秀吉「水攻めの指示は出したけど負けたのはワシのせいじゃなくね?」 関ヶ原見る限り三成は糞だぞ
慶長5年8月に真田昌幸宛石田三成書状
「内府は上杉や佐竹を敵にしてわずか3万で20日もかけて東海道を上るだろう。街道筋の面々や上方衆は内府次第とはいえ
20年来太閤様の御恩を被っていたから内府の懇切で心変わりしたり、秀頼様を粗略にしたり、大坂の妻子を見捨てることが
できましょうか」
「分別の無い軍勢(東軍のことか?)を尾三で討ち取るのは、天の与えです。そうなると会津、佐竹、貴殿は袴をはいたまま
関東に乱入できるでしょう」
「家康ほどの者10人上り候共お心安かるべく候。討ち果たし候よりこれほか他事これあるべからず候」
佐竹義宣宛三成書状でも「万一、内府がうろたえて上洛するようなら尾三国境で討ち果たします」とかあるし
それと、同じ書状に妙な記述もある
「会津から何度も連絡があり、伊達最上相馬なども昵懇であり、内府を討ち果たすのはこのときだと思います」
伊達や最上が上杉の味方とか書いてるんだけど
どうなってんのこれ?
書状が8月7日付だから情報としてそれ以前に入ってきたんだろうけど、その時点で伊達はもろに上杉に敵対してたはずだが
これだけ無能だと救いようがない
まるで危機感が無いし 書状では調子いいこと吹かすのは多くの大名もやってることなので… 問題は8月上旬の時点でこんなこと書いてること
伏見城で余計なタイムロスしててよくこんなこと書けるな
しかも尾三で迎え撃つって、清州はどうする気だったんだ…… しかも袴を履いたまま関東乱入って
これは楽々と乱入できるでしょうとか言ってるわけ?
いくら何でも家康なめすぎでしょ?
家康が四方に出した書状でこんな楽観視した書状なかったはずだが 味方してもらうために調子いいこと書いてんでしょ
ちょっと前出てた宇都宮国綱改易時の佐竹宛の書状もそうじゃん
俺の口利きで赦免されたよ全部うまくいくよ
とか言っといて政敵の動き次第では面倒なことになると認めてる >>965
自分で書状全文読めば分かることなんですよ >>963
ポジショントークってご存知ない?
別に三成に限らず誰でもやってること
そんなことも知らんで史料読んでもまともに理解できんでしょ
あと8月6日付真田宛三成書状の最初の部分の訳も間違ってますよ
「内府は上杉・佐竹を敵に回し、わずか三万の人数で15もの城
を抱え、更に二十日の路程を上洛などできるものでしょうか」 ポジショントークというけど、家康はこんな能天気な書状出してたか? 武田信玄、上杉謙信もやってるし情報手段が乏しいから書状だと書き放題で面白いと思うか嘘だらけと思うか 結果的に、三成たちが軍事クーデターなんて決行したものだから、豊臣家には天下を運営する能力が無いことが証明され、次の徳川政権の誕生を促した。
これは、西軍が勝っても豊臣家に関する部分は一緒なんだよな……
こういった部分は、三成たちは考慮しなかったのかな。それとも、考慮はしてたけど、軍事衝突は避けられなかったのかな。
小説なんかだと、考えが浅い三成たちが家康の挑発に乗ってしまったと描かれることが多いが。 三成は単なる一司令官で西軍の指揮権なんてない
にも関わらず西軍総大将みたく扱われてその苦心が真田昌幸宛書状に出てるというだけ
真田昌幸は三成が挙兵したからと徳川に反旗を翻し更に三成に「何故挙兵計画を教えてくれなかったのか」と不満を伝えてた大の三成贔屓、これが実は三成もなし崩しで西軍に与したんですなんて話になったら白けられるですまん
昌幸領は東軍勢力に囲まれてるから強気の発言をして味方にしないと裏切られたら詰みだからね 西軍の基本戦略そのものからくる部分もあるよね
要は徳川は上方の挙兵で疑心暗鬼になるので容易に動けない
伊達最上相馬が実際に西軍に味方してるかは関係なく「敵対するかも知れない」と家康が思えば動けなくなる
家康以外の諸将も迷うからその間にうまいこと言って取り込んでく
いくつかの大名を取り込んで関東攻めの流れを作れば日和見の連中も附和雷同する
という読み
真田への手紙はまさにうまいこと言ってるとこ 良い面だけ伝えて悪い面は教えませんってのはまぁよくある話 早く助けに来て!でないと私の城は落ちあなたのこれまでの尽力も水の泡になってしまいます
と正直に言った人もおりました
当然城は落ち自刃しました(合掌) 三成の場合諜報能力も殆どないのに対徳川の最前線にいてにも関わらず輝元は兵を送ってくれないという可哀想過ぎる立場 岐阜城陥落を聞いてすでにトカゲの尻尾切りに重心かけてるからな>輝元
輝元「奉行にだまされた!」
三成「輝元にハメられた!」
奉行「つかえねー奴らめ!」
茶々「どいつもこいつも口ばっかり!」 大名クラスが西軍に寝返るってことは起きなくとも反当主派が騒ぎ出すことは起こり得るし実際起きてるからね前田とか
小火がデカくなる前に試合を終わらせた家康の勝ち 三成の書状がポジショントークというのもわかるんだが、
その後の行動とかみるとマジでそう考えてたとも思えるんだよな 希望的観測に縋らないと決起すらできない状況の割にはよくやった方では
会津征伐軍から離反者が相次ぐか上杉が損害度外視で動くかしてくれないと
家康を止める手立てがない 三成が最初から西軍決起を知っていたら根回しも出来たかもだが
知らんうちに決起されたら打つ手は無い
信幸が徳川についたのも痛いんだが 三成も奉行も毛利も家康がいなくなってチャンス到来と決起しただけでそんなにスタート時点は変わらないだろ
史料上の時間差はほんの数日でしかないわけで >>985
実の所、予想外のチャンスがころがって来た時、直ぐに食いついた方が良い結果が出る事も
良くあるんよな。
相手が想定してないからこそ、奇襲が決まると言う事もね。
関ヶ原戦役で行くと最初の難問は毛利が乗るのか?になる。
家康は奉行衆の挙兵読んでただろうけど、毛利が西軍に付く事は予想してないかもしれない。
なら、毛利が動くなら大博打も悪い判断ではね むしろ毛利の火事場泥棒こそが考え無しに幸運の女神の前髪掴みに行った例だから
そして大失敗
地アタマが問われる 言っちゃ悪いが家康と輝元じゃ武将としても大名としても人間としても格が違いすぎ
当時の家康相手に動揺をもたらすような総大将はそれこそ信長秀吉クラスじゃないと絶対無理
毛利なら生きていれば小早川隆景が辛うじて近いがそれでも遥かに格は落ちるし
隆景なら奉行の話に乗るような愚かな真似はせずむしろ家康と連携して奉行排除に動いたかも知れない
輝元など逸話レベルでもろくなエピソードがなくしかも奉行からしたら操りやすいと思ったのかもだが
形勢不利と見るや挽回の努力もせずあっさり味方を裏切って敵に媚びる卑劣な性根の持ち主
こんな日本史上最低の小人を動かしたからって勝てると思い込んだ奉行どもの愚かさが後に残っただけ そんな全能感満載な書き方どうかと思うが
言われなくても分かってたでしょ
権力を失ったor失いつつあった立場の人間がクーデター起こしたのであって
負けた側を無能、愚かと断罪するのは簡単 秀次、隆景、久太郎、氏郷が生きていれば、ずいぶん変わってきたでござろうの? 太閤死後、毛利は誰が見ても迷っていましたからね。
徳川に臣従しても、120万石の大所領を安堵されるか不安に思うのは当然ですし。
だからと言って、徳川討伐の挙兵を行なう決断も出来ずでずるずると。
だから、家康は毛利はあの段階でも挙兵しないって舐めてたのではないのかね。
会津征伐に呼応して挙兵が起きても、毛利が乗らないなら近畿の複数の城で挙兵した大名が
籠城抗戦するのみって予想では。
毛利が大阪城まで出て来る予想はしてないと思われ、なら流れに乗るのも悪くない >>988
輝元は家康には劣るが相当な名君、名将だぞ
恐らく小早川隆景や毛利元就に匹敵するくらいの人物 毛利元就は軍事才覚が頭抜けてるからな
並べていいのか? 大友に元就両川のオールスターでボコボコにされ秀吉に両川でボコボコにされたのに隆景単独でどこまで求心力があるだろうか
指揮官としてはそこまで大物とも思えないし >>994
そんなこと言いだしたら、織田軍の援軍無くして武田に手も足も出なかった徳川は大物なのか? 信玄という不世出の名将を相手にしてあの程度の損害で済ませた怪物だろ
近い時代の史料では三方原の損害1000以下だし後から損害が増やされていったけど現実として上級武将死んでないし信玄存命中に奪われた城をいくつも奪回する程度の打撃しか受けてない 家康ほど矮小でつまらない人間が最終的に天下を盗ったのは日本の歴史でもこれ程の不幸はないよな このスレッドは1000を超えました。
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