石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ >>738
・「其返事ハ者や無之候つるか、少も手あてなし尓被打過たる事候」の「打過たる」は、
軍勢つまり東軍が通過したという意味ではなく時間の経過を表し、意訳すると「もう戦いが終わっていた」となる
当時の「打過」の用例も調べてみたが通過するという意味で使われているものはなく、全て時間の経過を表したものだった
・(慶長5年)9月16日付松井康之・有吉立行宛中川秀成書状
「数多大坂ニ于今在之ニ付、一日一日と打過、無念至極生々無之為躰、筆ニも帋ニも難盡事共候」
・(慶長5年)10月16日付寺沢広高宛島津義久・忠恒連署状
「依遠邦其以来無音打過候、本慮之外候」
・(慶長8、9年頃カ)8月9日付片桐且元宛付加藤清正書状
「此地へ御上御逗留之由候へ共、何角打過不懸御目、所存之外候」
まあ古文書の訳って研究者間でも食い違うこともままあるしこれが絶対とは言えないが参考まで >>847
たかが1800の守備隊が数万の軍勢相手に何が出来ると侮っていた節はある。小説的に言えば三河武士を舐めてたんだろう。
予定では伏見城をサクッと落として上方を完全に固めるつもりが落とし損ねたが故に全部の計画が狂った面は有る。 >>847
いや失敗の本質は政治的な支持を
得られなかったことだよ
西軍の多くは上方以西にいたから巻き込まれたもの
自由に去就を決めれたのに西軍に積極的に
賛同したのはごく僅かだ
何より会津征伐に参集した諸将から目立った離脱者が
真田(の半分)くらいしかいないのが痛かった
挙兵自体が自分達の影響力を過信した
政治的、戦略的な失敗
それを戦術で覆そうというのはまあかなり苦しい >>848
秀次の一族を滅殺したり、家康を関東に移したのがそもそも失敗
五大老のうち4つが束になっても家康には勝てないくらい力をもっちゃった
利家も亡くなって恐れるものもなくなったしな >>851
卓見をいつもどうも
気になった点を少々
古語の「打過ぐ」は通過するという意味もあるからどうなんだろうと思ってttps://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520205100/3520205100200050/ht000180を見ると「被打通たる事」になっている
関ヶ原スレ民の誤読の様子
確認に大日本史料を読むとttps://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/T38/1600/18-1-1/46/0070?m=all&s=0067&n=20
たしかに「通」だ
また、同文書では「一 長(長曾我部盛親)土佐殿御弓鉄炮衆ハ、一昨日内府山中へ被打越候ヲ被見候てから、人夫悉如伊勢路被退候而、山中之合戦勝手ニ成由被間候てから、無届ニ皆伊勢路ノ如ク被罷退候」ともある
こちらでは「内府山中へ被打越候」
もう一つ、吉川が同日に「重ゝ致言上候」として出した書状には、「一昨日十五日ニ、内府様直ニ山中へ被押寄被及合戦、即時被討果候」と記されていて、「被打通」「被打越」「被押寄」はすべて同一の出来事を指していると考えられる
なので、素直に「通過した」と訳すのが妥当ではないでしょうか 仮に伏見城から挽回するとしたら、越前は調略してるからそいつらに前田は何とか任せて
自分たちは急いで美濃と伊勢、尾張方面を抑えることが大事なのに、またここでもトロトロ
していて尾張まではいけなくなるし
せめて清州を抑えられていたなら、そこにいる兵糧を手に入れていたなら……まだ何とかなったかもしれんのに
大谷や島は小説とかでは名将と言われてるが、このあたりはどう考えてたんだろうか >>850
こちらの部分についてはちゃんと読み直すと「可及合戦候」の「可」は勧誘ではなく推量ですね
「此方申分ニハ、此御和談之事ハ先両人ハかり存候、長大・安国寺・長(長曾我部盛親)土御弓鉄炮衆なとハ被存ましく候間、可及合戦候、左候へハ此首尾相違之やうニ候条、一円ニ御手当なしニ被作せ候者、当陣ノ者不罷出相控候て可罷居候よし、申候て返し候へハ、其返事ハ無之候ツルか、少も手当なしニ被打通たる事ニ候」
ざっくりいえば、あいつら和談を知らないから「御手当」あったら交戦しちゃいますよ、だから一円(南宮山)に手当てしないでもらえればこっちも控えてますよ、ってことですね
だとすると、「其返事ハ無之候ツルか」の「か」は疑問ではなく「が」で、返事はなかったけどその通りになったという意味か
吉川はむしろ自分の功績を誇っていたわけですね
いろいろお恥ずかしい >>855
その部分はそこまで細かく聞かなかったな
私が東軍が通過する?時間が経過する?と質問して、「戦いが終わっていた」との回答だった
確かに大日本史料は「通」になってるね
「打通」なら間違いなく通過するという意味になるな
大日本古文書家わけ吉川家文書之二の913号の翻刻だと「過」になってるんだけどね
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0902/0066?m=all&s=0064&n=20 >>858
本当だ
「哉」ってのはこれか
こっちだとより、吉川が自分の手柄をアピールしてるように読めるね
むしろ、南宮山への徳川主力布陣を違約になるからやめてと この吉川文書案を素直に読んでみたとする
そこから分かること
誤読があったら指摘してほしい
西軍は小早川の裏切りを早くに疑い、不利とみて佐和山まで引きそうな状況だった
これは勝ち目がないと吉川が裏切りを決意
東軍は吉川の合戦前日の裏切りまでは南宮山の勢力を警戒し、家康馬廻りや井伊、本多ら貴重な身内やその他を手当てして攻撃する計画だった
ただ、それだけ南宮山に勢力を割いても福島、黒田、加藤、藤堂のいわゆる外様衆だけでも小早川の手引きもあって山中では勝てると踏んでいた
家康は裏切りの申し出を信用し、池田らは一応残しつつ、計画を変更して合戦当日には山中方面に進出
合戦はすぐに終わった
南宮山の勢力は家康本隊が関ヶ原に進むだけで狼狽し、敗軍の報が入ると次々逃げた 西軍首脳陣は誰も彼も見通しが甘かったが
それにしてもいきなり江戸まで攻め下って制圧
とまで誇大妄想的だったとは思わんのよね
勢多の普請にしてもそこに天下の兵を迎えて決戦
という構想と取るのは早計でしょう
挙兵当初は遥か遠く関東の家康よりも
前田の上洛の方が早い訳だし
他にどこが敵になるかも分明ではない
政権から家康を排除は後退だというのは
単に豊臣政権にとってそうなだけで
それ言ったら武力で政権奪取の時点でそう
でも徳川から政権奪いたかった連中からしたら
それこそが前進なんよ
>>856
清洲を攻略しても東海道は東軍の城が連なってるし
単に東軍先鋒を完全に敵に回して
家康の出馬を早める程度の意味しかないだろね
伏見に家康の家臣が居座ったままじゃ
政権奪取と言っても説得力ないし
最悪東軍先鋒+家康本隊と尾張で睨み合う中
大津城が寝返って田辺城-伏見城と連動
って展開もあり得ちゃって
さほど有利じゃないのではないかと 関ヶ原の輝元の失敗のツケを一番多く払う羽目になったのは毛利ではなく豊臣宗家だけど、そもそも遺言体制が家康と利家の二人が健在であることに全てがかかってる属人性の高すぎるものだからもう戦乱勃発した時点で東西どちらが勝っても豊臣の天下が崩壊することだけは確定なんだよな
>>856
大谷や島は関ヶ原を先祖の武功として誇るに足る激戦にするためにかなり盛られていると思う 広家は家康が来たと聞いて絶望したと思う。広家のところに家康から書状が来たという話は無いからこれは家康は毛利を問題外と判定してたことになる。要は「毛利が敵でも西軍に勝てる」という話で毛利軍が何しようが西軍の敗北は確定したに等しい(少なくとも広家・秀元には思い付かなかった)
広家は毛利の領土保全を図っていたけど事ここに至れば攻撃して全滅(若しくは奇跡的勝利)するか降伏して僅かな領土を許されるかの択一。そりゃ降伏ですよねー… >>854
秀次の件は突発的で明らかに大失敗だけど家康の関東転封は悪くない選択肢
あの段階で徳川を関東に追いやれたのは明らかに成功だと思うけどね むしろ徳川を最悪ここさえ味方についてれば他の全員から背かれても問題ないくらいまでにして豊臣存続のための第一の藩屏にするつもりだったのでは
なお秀忠 >>860
吉川の発言の真偽の程は別にして、通しで読んだけど自分もそのように読んだよ
それで最後に本来なら直接輝元や輝元の側近と相談したかったが、時間もなく通行も不自由だったので
先ずは御家第一で家が続くよう吉川と福原で和睦を調えたと手柄を念押しして締めてる >>865
秀忠は豊臣を討っても秀の字をあらためなかったな 秀忠、綱吉、慶喜
家の字でない将軍もいくらかはいる 石田三成の子孫はいるけど真田幸村や大谷刑部の子孫はいるのかね?
真田は信之の系統は残ってるけど >>862
奉行がそれをわかってなかった無能なのか
それでも自分達で権力握りたい野心家なのか
どっちか気になる
いずれにしろ従来のイメージとはかなり異なるのは確か >>867
秀吉の秀だし秀吉に対して表立って批判めいた事を言ったりしたりする理由も無い
あくまでも秀頼体制以降の公の話で豊臣家と対立しただけだしな >>865
実際そうだよね
渡海絡みの紆余曲折でも徳川前田が身を挺して
止めたって形で治めてるわけで
それが狂ってくるのが秀吉の最晩年
奉行毛利が両大老の動きに制限つけて権力分散させて
西軍挙兵で排除独占を決行して頓挫した >>861
確かに瀬田で決戦ではなく、佐和山もしくは敦賀への後詰の為の布陣であったかもしれない。
だが西軍主力伏見攻城に向かう中、
野戦用決戦兵力もしくは後詰戦力として最東部にいたことは、
毛利にやる気があった表れと見ている。 秀元はやる気満々だったんじゃないの
だからこそ吉川はずっと毛利一門で変な立ち位置になったんじゃなかったっけ 毛利の運命を決する議決に秀元が居ないとは考え難いしそも秀元がやる気だったら広家を押し退けてでも出撃したろう。尤もその場合、秀元と恵瓊や豊臣軍で南宮山を押さえている徳川本隊約四万と戦争せねばならずやる気があっても勝ち目が無いと思った可能性はあるが…
広家と秀元は険悪だったとかでそれで戦後、責任を押し付けあった結果じゃなかろうか。 秀元と恵瓊に黙って徳川と交渉してたんだろ?秀元は輝元に大坂城への籠城も主張してたみたいだし
結局まんまと徳川に騙されて自分が分知されてた所領も全部没収されちゃったんだからそりゃ秀元は広家を憎むわな 家中一族内であっちは戦う気、こっちは和睦降伏する気とバラバラなんてお話にならない
意思統一され指揮命令系統が機能していた東軍とは雲泥の差だな
そりゃ西軍勝てないわ
西軍内だけでなく毛利家中でも同床異夢だったんだから 国とかある程度でかい組織はそういうもんでしょ
あっちと結美ついてる奴がいれば
こっちと結ぼうとしてる奴もいて
トップの判断でどっちかのラインの話が進む
んで失敗したらそのラインの奴らの責任で
別のラインに切り替えて収拾図る
関ヶ原の毛利は単にそういう状態じゃないかな
しかもそれなりにうまく機能した例
うまく機能してなかったのは徳川や奉行と
連絡してたラインじゃなくて
豊臣恩顧と言われる東軍先鋒の切り崩し ただ秀元に広家を憎む道理は無いかと。最終的に徳川との総和談を決めたのは主人の輝元であって広家じゃない。そんなに戦争したけりゃ勝手に突撃すれば良かった訳で広家を憎むのはお門違いだろうさ。もし決戦して予想通り負けてたら輝元は切腹、毛利は改易だったかも知れない訳で。 勝手に突撃できねーように広家が先陣に陣取ってたんだよなあ そもそも毛利グループを語るには小早川の位置付けをハッキリさせとかないと色んな前提条件が変わるんよな 別に広家は陣敷いて止めたとかはしてないんだよなぁ。 前面に布陣して背後を突こうとする秀元を止めたんだろ?じゃなきゃあんなに長い間確執が続いたりしないだろ 真面目な話、吉川広家と毛利秀元の間に確執があったなどという史料は無い。 山に布陣してる軍団を止めようとしたら広家は麓に布陣しないと止められない。広家は麓より上に布陣してるから攻撃したいという奴を止められない。広家は別に家康に「兵を押さえる」とかは約束してないから秀元も攻撃したかったら出来た…尤も広家の軍団が居ない状況で圧倒的兵力を有する徳川を攻撃したらどうなるかなんて秀元だって分かってたろうし内心攻撃したくても広家が降りた時点で勝ち目ゼロと諦めてたって可能性はまぁある。 >>885
関ヶ原の時の話じゃないが(元和3年)9月3日付吉川広正宛吉川広家書状とか見たら広家と秀元が仲悪いの分かるよ
長いんで一文だけ抜き出すけど他でも秀元に対して色々文句言ってる
「御家れきれきをも役不立、公儀を我一人仕、別ニかたをならへ候者無之様尓仕なし、
公儀内儀共仕度様可計との分別と相聞候事」
家中のお歴々を無能者扱いして、公儀のことは秀元一人で差配をし、
秀元に肩を並べるような者はいないかのように振る舞い、
公儀・内儀共に秀元のしたいように計らう分別だとこちらにも聞こえている 秀元と広家の確執が関ヶ原に由来してるかは我々にはわからない。でも正直怪しいとは思う。仮に南宮山の毛利軍が徳川を裏切るとしてどうなるかと言うと南宮山東麓の徳川軍約四万と交戦、徳川軍を数キロ以上後退させ東山道を5キロ行軍して東軍背後を強襲する事になる。若しくは出来るかはわからんが南宮山を南に降りて裏道を通って松尾山を攻撃するか。結果論だがこれは2時間以上掛けたらアウト。
秀元から見てもまず前者はいきなり家康を討ち取る様な奇跡が起きないと結局徳川軍に背後を突かれるから危険、後者は道が険しくて間に合うか不明なのは明らかだったはず。しかも失敗したら毛利は改易、配下の全員が牢人になる訳で… 秀元と広家の仲がわるいとか関係なく
関ヶ原の時点で停戦は毛利全体の方針でしょ
秀元は戦うつもりで広家の和睦が独断
ってのは小説ならおもしろいけど非現実的 家康が輝元はアレ過ぎるから広家に周防長門を与えて毛利軍団を仕切らせるつもりだったとか色々言われてるよね 少なくとも恵瓊は外されていたのは確か。ただ秀元まで外されていたかは不明。秀元がヤル気だったら広家には止められないんだから共有くらいはしておかないと危なかったわけだし。勿論秀元がそんな馬鹿な戦をする筈が無いと広家が信じてた可能性はあるけどそれよりは一言通してた可能性の方が高かろう。 秀元は秀包や立花宗茂と一緒に大坂城で籠城することを輝元に進言したってのは? 関ヶ原の戦況を秀元がどう考えていたか。
まず十四日、徳川家康が赤坂に着陣。東軍先手衆は垂井に移動する。これは大柿からも見えたので夕刻までに軍議が開かれて大柿・南宮山で決戦と戦略決定する。ところがその後、小早川秀秋が松尾山を占拠したとの報が大柿に届く(松尾山から大柿まで10キロ以上ある事と東山道を東軍に押さえられていて報告が遅くなった)
でどうも西軍はミスを犯した。本来直ちに軍議を行うべきところをそれをしなかった。石田三成ら西軍主力部隊は連絡無しに出発してしまう。 南宮山に連絡が無いから秀元がこれをどう解釈したかだけど二つしかない。一つは大柿衆が敵前逃亡したというもの。家康に恐れをなして毛利(と豊臣)軍を見捨てて佐和山に逃走したというもの。この場合秀元は絶対に動かない。二つ目は松尾山が秀秋に取られた事を知っていて大柿衆はこれを討ちに行ったというもの。ただこの場合、毛利軍も即座に山を降りて東山道に展開しないと東軍を止められない。東軍先手衆が東山道を西上し出した時に騒いでも遅いのは分かってた筈だが… 秀元が輝元に徹底抗戦を叫んだって書状はどこにあるんだろうか?原文分かる方居たら教示頂けると幸いです。もし広家が秀元を無視してまたその行動を阻んだなら書状は広家への憤激で溢れてるはず。逆に秀元も納得していたなら大坂城への籠城は「関ヶ原は負けが見えてたので戦力を温存した」程度の認識だったことになる。 関ヶ原本戦の時点で広家が引き出してた条件は
「本領安堵」な訳だから秀元も恵瓊も
あえて異をとなえる立場にはないだろうよ
のちに詰め腹切らされる恵瓊にしても
この時点で和睦の条件にされてたわけではない
その交渉自体を知らないというのはなかろう
それじゃ広家の交渉は毛利家に無断で
なんの実効性もないことになる 要するに本領安堵で皆納得させたけど実際は吉川に周防長門で他は取り潰しって裁定だったから秀元は広家に騙されたとブチ切れたってこと? 安堵は表向きで実際は減封は受け入れてたらしいけどな、毛利 ていうかマジで「本領安堵」してくれるとか思ってたら底無しのバカだろ。少し調べりゃ毛利軍が主体となってることはバレる訳で無事で済む筈が無い。 輝元って小早川隆景からも吉川元春からも豊臣秀吉からも徳川家康からもアホだと思われてるよね まあその輝元を甘く見たせいで豊臣政権は終わったわけだけどな
家康も輝元を甘く見たことで一時的にはやべー状態になったのは確かだし
輝元自身もやらかしたツケをしっかり払う事になるが(なお、本人は生き残る模様) 戦国期こいつほんとしょうもねーな大名四天王だわ
毛利輝元
上杉景勝
北条氏政
織田信雄
揃いも揃って半端に威勢が良かったせいで父の遺産を潰した無能。土下座するなら徹底して土下座しろっての 威勢ばかりよいけど統一政権も主家も
潰した奉行が入らないのは
そこまで大物じゃないからかな? 家康からすりゃ先に誓紙破っておいて自分の方は守ってくれとか馬鹿にしてんのか◯ね、みたいな話だったろうしまぁよく潰されずに済んだね そりゃ甘すぎる見通しでリスクも考えず、奉行の挙兵にホイホイ付き合った恵瓊(輝元)
の尻ぬぐいのつもりだろ、本人視点では
「全く、俺が東軍に渡りをつけておいたからよかったものの、もし伝手がなかったら
どうするつもりだったんだ、御家が残っただけ感謝せえよ」とか普通に思ってそう
(そうとでも思わなきゃ、やってられなかった可能性もあるが) 吉川が残した広家のおかげで毛利は救われた的な史料は自己肯定感が強すぎてアテにならん それは一面事実だろう
その成り行きが気に食わないにしても
>>906
というか実際上洛して調べてみたら
思った以上に主犯格だったってだけよね 関ヶ原まで出張って来てる時点でもうアウトなんだよな
一面みるならむしろ広家は戦犯とも言える 広家に毛利の所領すべてを与えるって約束したけどそれじゃバランス悪いから2カ国ぐらい与えるわ、みたいな書状があるんじゃなかったっけ?偽書かもしれないけど >>912
吉川家譜所収の10月2日付吉川広家宛黒田長政書状だな
吉川家文書にも原本は伝来してないし光成氏は偽書の可能性を指摘してる >>911
その見方も否定しないけど
広家がやる気満々で毛利一族総出で
決戦してても勝てたかは微妙やで すまん言葉を濁す悪い癖だ
毛利一族総出で血栓に及んでも
勝てない可能性の方がずっと高いし
局地的勝利を得てもその後茨の道で
もっと酷い状況いくらでもあり得るで 広家は八月から徳川と交渉してたけど内通にまでは至ってない。多分輝元の所業を鑑みて余程の戦況にならないと本領安堵は取れないと分かってたんじゃないか。それで南宮山まで来て徳川が「本領安堵するから味方してくれ」と言ってくるのを待っていた。ところが蓋を開けてみたら徳川は既に小早川を落としていて東軍と小早川で西軍を詰ませにきた。毛利は敵対していても構わんって訳でここから土下座外交で何とか家を残すところまで持っていった広家の外交手腕は中々じゃなかろうか。 三成が隠居して石田家の家督はだれだったの?
隠居が西軍を率いられた権力の源泉はなに? 三成が佐和山蟄居になってからは兄の正澄が石田家を差配していたらしい(家康が大坂の石田屋敷を借りる時の交渉口は正澄だったはず) 三成が兵を使えたのは西軍、名目上は秀頼実質的には輝元らから任されたからに過ぎん。しかも指揮権の範囲は美濃にいる一万から二万程度に限られてる。こいつには西軍のほんの一部しか動かす権利は無かったさ。 三成が西軍を率いてたと言うのは文学的表現だろ?
秀頼も輝元も三成に指揮権を委ねたというわけではない 西軍はお題目は秀頼様のためと言ってるので名目上は秀頼が指揮官、ただ実際は秀頼の意思ではなく輝元を頂点とした合議制だったらしい…ここら辺の不明確さが西軍の敗北を招いたのかもしれない。 >>920
すごい納得した
どこの小説でも「石田三成率いる西軍と激突」って書くけど
率いてないんだよな、実際 輝元や秀家の代わりに処刑されたようなもんだ。日本は昔から上級無罪 そりゃ三成はすでにイエローカード貰って後がない立場だからな
この状態で反乱に参加したら温情なんて期待できるわけがない >>922
奉行は関ヶ原前の動きを見る限り、奉行中心による合議での政権運営を企図してるから
輝元に全権を与えるとマズい、輝元を第二の家康にしたら関ヶ原を起こした意味がないからな
この点、東軍はとりあえず家康主導でいいという立場に一応なってるからこの辺は楽だ
>>924
輝元とは広家を通じて手打ちが成立してるからな、問答無用で処刑はさすがにまずい
また、東軍はあくまで豊臣正規軍として反乱を起こした西軍を討伐するという体裁だから、
豊臣一門格の秀家処刑をするのはちょっと微妙だろう、改易程度ならともかく
かといって誰だコイツみたいな小物処刑でなあなあも無理だろう、これだけの大戦乱に
はっきりと決着がついてしまったのだから、こう考えると秀吉子飼いの大物である
石田や小西(長束も一応含む)、そして毛利の外交僧を務めている関係上、
対外的な毛利の顔といえる恵瓊処刑は、実にバランスが取れているように思える 輝元が処刑されないのがアンフェア
という感覚はまあわかる
なんたって総大将なんだから
でも石田の処刑はいたってフェアだろw 結局日本は中世以来常に家格次第なんよね
石田とか小西はその出自で生け贄にされたようなもんだ どっかで精華成の大名だから死罪にできなかったとのレス見た気がするがそういうことも関係あるんかな 西軍の軍事指揮権は、実質的には曖昧だった、
という表現が近いと思う。
形式的にはおそらく主謀グループの合議で決める、
辺りだったんだろうけど、
宇喜多が長島攻城やめて美濃に向かったのも、
大谷が北陸から山中村に向かったのも
石田からの要請じゃないの?
あと、関ヶ原前夜で光成氏が指摘してたけど、
増田と吉川で安濃津の二ノ丸だかの占拠で揉めたりしないでしょ、
輝元と長束、増田、玄以が指揮権あるというなら。
さらに瀬田の守備隊九州勢に大垣入城依頼も石田じゃなかったっけ?
マイナー峠から大垣南方へ抜けるルート使って。 総大将が大坂城にいたまま動かないのではどうしようもない
現場監督が必要、それが三成だったんでしょ 三成には石田軍と豊臣公儀より与えられた大柿軍の指揮権はあったはず。少なくともこの二つを三成は動かしてる。
でも西軍全体の指揮権は三成には無いし関ヶ原前の状況でもそれは変わってない。厄介なところで西軍の指揮系統は輝元>毛利家臣>三奉行>三成なんだけどこれは明文化されてないからいざという時は相談になる。つまり相談の結果で指揮系統が変わる訳で徳川家康に一本化されてる東軍に比べると余りに脆かった。 >>931
現場監督が三成とかあまりにもしょぼい
三成が家康に戦で勝てると思ってるなら尚更 三成に発言権はあっても決定権は無かったと思うよ
毛利としては自分達に無い三成の良い所だけ利用するだけだしな >>928
生贄って言うけど普通に主戦派で
他の西軍諸将が恭順の道探り始めても
ノリノリで本戦戦った面子やん >>935
毛利は彼らに何も言わずに土壇場で勝手に土下座した。生け贄という表現が適当だと思うけど 後々徳川が豊臣滅ぼしたことが本来何も知らないまま毛利輝元にいいように使い捨てにされて滅んでいった連中の集まりだった西軍諸将を幼君を守るため忠義の心で立ち上がったヒーローたちというストーリーにすることができるようになった 大西泰正『宇喜多秀家 秀吉が認めた可能性』
「念のため補足しておくが、この史料は、秀吉の死去前後に「大老」らが提出した起請文の一通で、政権=秀頼への忠誠を誓うのが目的である。私的徒党を組むためではないので、大名相互の起請文交換を禁じた「御掟」には抵触しない。
家康や利家・秀家らも五「奉行」を宛所にして同趣旨の誓いを立てている点、同年七月十五日付で家康・利家に宛てた起請文(前書)と一緒に書き留められている点からも明瞭だが、この史料によって毛利輝元が四「奉行」と私的な盟約を結んだわけではない。
彼らは便宜上、政権組織の一部としての奉行たちを、おそらく相互監視の意図もあって宛所に設定したのである。」 >>936
別に毛利のためにやった訳でも
毛利に操られてた訳でもない
彼ら自身の決断の結果だし
それに見合った最後だろ? 安国寺恵瓊ならまだわかるが
そう言ってもらえないのは
ハゲだからだろうな >>935
西軍の総大将である毛利が関ヶ原という土壇場で降参するとは流石に予想できんでしょ。まだ三奉行も諦めてないのに。 家康ヲタのいかれた視点だとそうなんだろうけどな
上にも有る通り毛利は遺訓破りはしてないし
上杉が上洛せず国替後2年は治政に専念するのは秀吉の命
年貢を持ち去るのは全国的に起こってた事
むしろ遺訓破りで利家&恩顧大名と対立したり異常な毛利家介入で荒らしてたのは家康 >>942
輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
秀吉は勝手に徒党を組むなと遺訓していたはず
あの時点で家康はまだ大した行動してなかったはずだが
しかも奉行の内、なぜか浅野長政には輝元は送ってないし >>942
上洛せず国替後2年は治政に専念せよ、ってソースは何?
それなら家康なんか移封2年どころか連年のように豊臣政権に協力していたのに
秀吉って物凄い差別してたんだな
しかも治政に専念せよ、はわかるんだが、牢人雇えとか遺訓あったのか? >>942
そもそも2年なら既に期限切れだろ
景勝が国替えされたのは1598年1月
家康の上洛命令は1600年4月
既に2年以上過ぎてるぞ >>943
>輝元が1598年8月28日に勝手に諸大名に誓紙出してるのはいいのか?
その書状はスレ内でバッサリ否定されてるよ…
>938
いいのか?じゃなくてスレ読もうな 宇喜多も毛利秀元も長束も島津も脇坂朽木らも小早川同様に
「なんでおめーが仕切ってんだよ」
的な目で三成みてたわけだ >>941
そこが甘いんだよ
お家潰す大博打なんてする訳ないじゃん
決定的に情勢が見えてない 関ヶ原で日和って動かないのは流石に酷いと思いますよ
やる気が無いなら関ヶ原から事前に撤退しとけよと思う >>948
領土大幅削減されてるし、吉川が懇願しなきゃ潰されてたじゃん
煽った張本人が勝手に離脱することまで想定していたら何も出来ないよね?輝元みたいなのを信じたのがバカだったって言われたら何も言い返せないが レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。