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石田三成の挙兵 ★2
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0630人間七七四年
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2022/10/16(日) 15:54:23.90ID:nwHRowBT
豊臣vs徳川の戦と思いたいんだろうな
0631人間七七四年
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2022/10/16(日) 16:06:00.07ID:jPX5Zd3S
三成って1600年の挙兵の段階では奉行に復職してるの? してないの?
0632人間七七四年
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2022/10/16(日) 16:29:51.39ID:RXYJ6RFe
家康以外の東軍から西軍をみてもエゲつない行動とられているからな
むしろ家康にどうにかしろと頼られる雰囲気さえあるだろ
0633人間七七四年
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2022/10/16(日) 17:37:06.31ID:mPqm2xsf
>>631
してない。三成は終始奉行衆の指示で動いてるし。
0634人間七七四年
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2022/10/16(日) 18:08:32.31ID:jPX5Zd3S
毛利輝元が大老の立場から復職を認めるとか無理だったのかな
宇喜多秀家と上杉景勝(名義借り)して
0635人間七七四年
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2022/10/16(日) 18:40:15.37ID:SzqLdt5z
>>629
蜂須賀の件なら多勢に無勢というだけだろ
家政は阿波本国じゃなくて大阪にいたんだし

>>634
豊臣家の奉行への復職は秀頼の名前が必要
秀頼と豊臣家が西軍に与してたらやったはずだがやってない
0636人間七七四年
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2022/10/16(日) 19:17:50.87ID:/V/VMWBo
会津征伐は至鎮が僅かの兵力で従軍(光成氏によると18騎)、家政は大坂屋敷に居た
阿波本国には相当数の兵がいたはずなんだが、家政に危害が及ばないよう留守居は軍事行動を控えたのかね

輝元は地下人と相談して仕置するよう指揮官の佐波広忠や村上元吉らに命じてる
けど大した騒動も起きてないし阿波占領は割とスムーズにいったんだよな
0637人間七七四年
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2022/10/16(日) 19:56:41.29ID:IWJw4EJk
ていうか大名の留守に隠居の身柄押さえて
接収されたらそりゃ抵抗できんわな
0638人間七七四年
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2022/10/16(日) 20:07:17.92ID:SzqLdt5z
無理やり西軍に参加させたり大名の妻子を人質にとったやつと同じこと
0639人間七七四年
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2022/10/16(日) 21:17:19.72ID:2gQcJ3Gq
秀頼を担いで行動すればその行為は正当化されるというなら
家康の専横を批判できる理屈がなくなる
西軍の行動原理は家康が好き勝手に振舞うなら
こちらもやらせてもらう以上の道理にはならないよ
0640人間七七四年
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2022/10/16(日) 21:49:24.02ID:jPX5Zd3S
なぜ大坂城を抑えたなら、無理やりでも秀頼を担いで美濃にまで出陣しなかったんだろ
輝元じゃそういう政治テクニックは無理なのかな
0641人間七七四年
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2022/10/16(日) 22:58:41.72ID:RlQbnV2t
「大軍が入っているから豊臣の意思が歪められた」ってのは余り堂々と言える話じゃない。今でも言う人いるが「徳川が軍勢入れてるから会津征伐が決まった」って話になる。じゃあ何をもって豊臣の意思だと言える?既に豊臣には意思決定機構が無かった。となると大坂城を握って豊臣と連携してる奴が「豊臣の意思」を出せる。
0642人間七七四年
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2022/10/17(月) 07:49:35.24ID:65Mapnom
>>640
普通に考えたらそこまでの協力関係が
気づけなかったからだろう
0643人間七七四年
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2022/10/17(月) 07:50:53.83ID:65Mapnom
>>641
ていうか大軍が入ったら支持が覆るってことは
つまりそう言うことだから
豊臣政権、豊臣公議なんて意味ないねとなった
0644人間七七四年
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2022/10/17(月) 08:29:40.79ID:rHX/K7/y
秀吉が死んだ時点でもう終わりよ
0645人間七七四年
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2022/10/17(月) 09:11:02.98ID:q0KAdYDn
その前の秀次事件から豊臣のオワコン感が決定的になった
その後何をやっても行き当たりばったりの弥縫策でしかなく政権としての安定感重厚感頼もしさが失われた
次に取って代わるだけの実力者がいなければワンチャン室町幕府のように権威だけでダラダラ続いたかもだが
それはすなわち政争紛争戦乱の世の再来でもある
徳川という全てにおいて豊臣を上回る圧倒的な統治能力を持つ存在がいたからそれが回避された
0646人間七七四年
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2022/10/17(月) 10:12:04.53ID:Ppk+isNM
本来惣無事令で騒動特に土地に関しては公儀のみが裁定する。それで西軍は蜂須賀家政を改易した。これが秀頼、ないし豊臣の意思でなかったならこれは越権行為どころの話じゃない。即座に毛利・三奉行らの討伐を行わないといかん。
でも豊臣はそうした動きを全く見せていない訳で豊臣が西軍でなかったと言うのはかなり難しい。
尤も既に豊臣家が組織として終わってたという解釈も出来る。既に豊臣は戦国大名としては終わっていてただ強い者に従うだけだったんだと。だとすると秀頼は幼少期、何も出来ない時に天下人ではなくなっていたのだ…
0648人間七七四年
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2022/10/17(月) 10:36:01.79ID:9xTs5M3i
上杉も三成も秀頼が成長するまでじっと我慢だよ

関ヶ原はなく
大阪の陣で家康を討ち取る
0649人間七七四年
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2022/10/17(月) 11:04:50.80ID:q/LUa8ne
石田の思惑、石田の勝算

とかについて書けないのか?
関ヶ原スレじゃねーぞ
0650人間七七四年
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2022/10/17(月) 12:04:25.32ID:ncrd5UXo
>>646
関ヶ原の頃だって秀頼が6,7才なら幼少期、何も出来ない時といって差し支え無いと思うが、
豊臣が大名、政権として終わったのがその時であっても、それ以前であってもそれは同じ
0651人間七七四年
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2022/10/17(月) 12:44:43.64ID:TTXlTV/F
勝算については有識者がいろいろ議論してたけど無さそう
今は勝算がない戦いに挑んだ責任転嫁で話題が逸れてるフェーズ
0652人間七七四年
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2022/10/17(月) 12:55:25.68ID:Ppk+isNM
>>640
まず西軍首脳部は軍議で軍団を伊勢・四国・九州に振ることを決定してる。これは石田三成が提案した勢力を東、つまり美濃に集中して徳川と決戦する戦略を却下したことを意味する。豊臣が西軍に与した事で家康はまず戦力の再選定を行うと思ったんだろう。実際家康は江戸から動かなかった事で彼らに一種の油断を産んだのかもしれない。ところが東軍に動揺無く福島正則・池田輝政ら攻撃隊が岐阜城を強襲して戦局が決まった。この状況から輝元が動かなかったのはまぁ輝元が安全圏に居たかったからなんだろうけどどの道そんなに結末は変わらなかったといえる。
0653人間七七四年
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2022/10/17(月) 13:23:14.73ID:XaY3lMvJ
他に同意も得られてないのに豊臣が西軍に与した前提で話進めようとしてて草
流石妄想野郎と言われるだけあるわ
0654人間七七四年
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2022/10/17(月) 17:52:11.07ID:Ppk+isNM
よく「西軍は何故秀頼のお墨付きを得なかったのか」と言われるけどそれは太閤恩顧衆が家康に従った事を曲解してるから。つまり「太閤恩顧衆が家康についていったのは家康が豊臣公儀だと信じたからだ」というもの。だがこれには根拠が無い。豊臣は徳川に西軍を討てといった命令を一切出してない。逆に西軍は秀頼が家康を討伐せよと言ったとして行動してる。つまり西軍=豊臣であり東軍=反豊臣とみて間違いない。秀頼が脅されていたとか妄想してる人も居るけどこれも根拠が無い。あくまで史料に忠実であるなら豊臣は西軍に与してる。
0656人間七七四年
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2022/10/17(月) 18:44:57.10ID:upIp05Vm
戦争の勝敗と正当性の有無に関係あるとか現実を知らな過ぎる。正しい者が勝つんじゃなくて勝った者が正しいんだぞ。
0657人間七七四年
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2022/10/17(月) 19:24:19.14ID:fscgXpZJ
どちらが反豊臣かなんていうのはどうでもいい話やな
毛利に付くか徳川に付くかの選択があるだけや
0658人間七七四年
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2022/10/17(月) 19:24:22.06ID:We1fYnrq
>>654
史料読めるようになってから御託を並べようね
解釈の問題とかじゃない、明らかに赤点の誤読だから
0659人間七七四年
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2022/10/17(月) 19:50:01.97ID:rHX/K7/y
秀頼の馬廻りが西軍として参加してる時点で少なくとも形式上は豊臣家は西軍なんだよな
0660人間七七四年
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2022/10/17(月) 20:35:45.71ID:upIp05Vm
しかも豊臣弓鉄炮隊は南宮山で徳川隊を攻撃してるし。
0661人間七七四年
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2022/10/17(月) 20:36:06.39ID:FIcKHaoz
徳川家を関東移封したときに譜代を引き剥がせればよかったのかな

大友家から立花家を直臣にしたり
毛利本家から小早川家に親類筋送り込んだり
第二の石川数正釣り上げるとかさ

指揮権が一本化された250万石の大勢力を放置した時点で
秀次でも秀頼でも秀長でもどうしようもない気がしてきた
0662人間七七四年
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2022/10/17(月) 20:46:01.82ID:GtsIxwqn
>>660
君は邪魔だから黙ってて
0663人間七七四年
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2022/10/17(月) 20:57:26.65ID:upIp05Vm
親豊臣派なら秀頼が言ってると言えば従うし逆に言えば秀頼が言ってるといって聞かん奴に何しても無駄。
「秀頼は毛利軍に脅されてる」「所詮幼児」って言い訳は強いからね。秀頼のお墨付きとやらがあったとしても「毛利が強要した」「幼児だから訳もわからず書いた」でお終い。
0664人間七七四年
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2022/10/17(月) 21:28:31.22ID:Ppk+isNM
毛利軍が入ってきたことは仕方ないにしても諸将の妻子を人質にしようとして死者がでる、親徳川派を理由に蜂須賀家政を確保改易処分にする、反徳川戦争を仕掛ける、これだけのことをお膝元でやられて豊臣軍を与えた訳で豊臣もそれなりに腹括って戦争しようとはしたんだろ。宇喜多秀家や毛利輝元と仲良く豊国社詣もしてアピールもしたし。
0665人間七七四年
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2022/10/17(月) 22:54:12.06ID:65Mapnom
>>646
いや実際討伐しなかったことで
豊臣公儀は地に落ちたやん

豊臣は西軍の見方って思いたいんだろうが
正直あなたずっと願望を力説してるだけだそ
0666人間七七四年
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2022/10/17(月) 22:55:38.45ID:65Mapnom
>>654
西軍が書状で書いた以外には
豊臣が家康を討伐せよと書いたものもないぞ
0667人間七七四年
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2022/10/17(月) 22:57:53.34ID:65Mapnom
>>663
奉行や毛利が「〜と言ってる」と言うだけで
本人から一切の発信がない状態で
奉行や毛利を信じるかどうかは全く別だぞ
0668人間七七四年
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2022/10/17(月) 23:36:55.34ID:KMf5ibQI
>>660
9月12日付増田長盛宛石田三成書状写
「今度勢州口より被働衆、中国ハ不及是非、其外長大・大刑并御弓鉄炮衆も、
長大・安国寺一手ニ被引向様ニ相見へ候間、大人数廻り兼候、
人数も少々そつ尓罷成躰ニ候事」

長束と安国寺は長束・大谷と(秀頼の)弓鉄炮衆まで引き寄せようとしているように見える

当該書状では引き寄せたとは書いてないし、ましてや徳川に攻撃したとはどこにも書いてない
確実に南宮山に秀頼の弓鉄炮衆が居て徳川に攻撃したという根拠となる史料出してみてくれ
0669人間七七四年
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2022/10/18(火) 03:54:03.56ID:gNynRaXd
秀吉は大事だったが秀頼なんぞはぶっちゃけどうでもいいと思ってる大名が大半だろ
秀吉死去後は主従関係が個人から家(組織)に落とし込めてない状態だからそもそも秀頼が絶対的公儀でもない
0672人間七七四年
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2022/10/18(火) 11:48:01.16ID:+GBVr+D6
もし秀頼もしくは豊臣公儀が自身の意思で政治を決められるなら西軍討伐指令を徳川に送ってないとおかしい。西軍は秀頼の命によって動いてるからこれを否定する物証を徳川に送らないと徳川が兵を集められない危険性があるから。
秀頼が幼くて物事を決められないんだとしたらそもそも会津討伐軍は誰の命令に従っていたのかが問題になる。物事を決められない秀頼の命令に従う道理は無いから要は徳川家康に従っていた事になる。つまり既に豊臣公儀は徳川公儀になっていて秀頼は単なるお飾りと化していた。
0673人間七七四年
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2022/10/18(火) 11:52:42.61ID:nTyyqP4K
>>672
家康が決めて、秀頼の承認を得たってことじゃないのか
王と宰相の関係では
0674人間七七四年
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2022/10/18(火) 12:03:40.89ID:4yAgWyKC
劉禅と諸葛孔明の関係と同じだね
李厳は輝元か
0675人間七七四年
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2022/10/18(火) 12:43:43.29ID:u8CAvuKS
>>664
腹を括ったのなら東軍大名の妻子が大坂から脱出したことに対して何も言わなかったのは何故?これ本来ならかなりの重大事案だと思うが
0676人間七七四年
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2022/10/18(火) 12:51:46.09ID:+GBVr+D6
>>668
卜斎記には関ヶ原の一年後に家康が田中吉政が南宮山の部隊を撃退した事を賞した事が記述されている(実はこれにより関ヶ原に家康は居なかった事が証明される。記述から導き出される家康本陣は南宮山より東だった。つまり家康は南宮山毛利軍の督戦、東軍先手衆の退路の維持をしていた)
これは毛利との講和違反なのではないか?これに対して吉川広家は「この和睦は我々しか知らない事で長束、長宗我部、豊臣は知らないこと」と答えたという。つまり毛利軍は戦闘に参加せず、それ以外の者達が戦闘に及んだのだという。
0677人間七七四年
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2022/10/18(火) 15:26:42.00ID:urySgvMx
>>642
普通に考えたら大坂の陣でさえ陣頭に立たなかったぐらいだから淀がよっぽど戦闘頭に加担させるのが嫌だったんだろうと思うんじゃね
頭の働きがあれでそこは全く頭に浮かばないって感じ?
0678人間七七四年
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2022/10/18(火) 17:23:38.04ID:5OEKRz2P
毛利や宇喜多とかに、家康に勝てるような人間が全くいないしな
戦歴で何とか家康と互角になりそうなのは島津義弘だけど、こいつも主力率いてないから論外だし
夜襲は作り話かどうか知らんが、もうあの時点でまともにやっても全く勝ち目無いんだから
やったほうがよかった
0680人間七七四年
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2022/10/18(火) 18:12:45.14ID:7aGOP9yG
>>675
大坂から脱出した妻子ってのが黒田親子・加藤清正しか知らんので何ともだがこれは豊臣が徳川派でも西軍派でも説明は出来る。徳川派なら西軍へのささやかな抵抗って話だし西軍派なら徳川派の武将が謀叛的行動をしたにすぎない。だが細川ガラシャの死はちょっと問題がある。西軍派なら説明は簡単なんだが徳川派だとすると説明ができん。
0681sage
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2022/10/18(火) 18:53:57.49ID:u8CAvuKS
ささやかな抵抗て豊臣に人質としての役割の大名の妻子が勝手に逃亡したら大問題で、
豊臣家がなにもしないのはおかしくないか?
一部の旗本が勝手に参戦したことよりも重大事だと思うが
0682人間七七四年
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2022/10/18(火) 19:16:39.42ID:ei5Lh1Sn
豊臣公儀への人質を西軍は普通に自分達のために使って豊臣は抗議とか一切してない。剰え死者まで出してるのにね。
0683人間七七四年
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2022/10/18(火) 19:46:46.64ID:u8CAvuKS
そうなんよね豊臣宗家は東やら西にかかわらず主体的な行動してないのよね
まあそもそも何かしようとしても出来ないというのが正しいのだろうけど
0684人間七七四年
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2022/10/18(火) 19:55:33.33ID:x289EflC
>>676
また嘘か、いやお得意の誤読か
慶長年中卜斎記には「船越猪子申候は」、田中が三町ばかり敗軍したが、誰の掛け声もないのに「引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働き見事に御座候つると申し候へは」とある
このあと、家康が金森の旗印を知らず、敵と誤認したという本人の愚痴が載っている
まず、田中の働きを誉めたのは船越と猪子、家康は愚痴っただけで賞してなどない
次に、家康前衛にいた田中勢が後退したが「引返」て敵を追い崩したとあるのだから、南宮山の敵であるはずがない
田中勢は300メートルばかり後退したともあるんだから、これが南宮山の部隊のことだったら前後挟撃で後方崩壊の危機だよ
あほくさい

古文書読解とかいう以前の、日本語の読み書きに疑いがあるレベル
0685人間七七四年
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2022/10/18(火) 20:23:07.49ID:+GBVr+D6
黒田・加藤の人質が逃げた事は西軍すらも問題にしてない。その理由は恐らく西軍の戦略にある。確かに西軍はガラシャの死にショックを受けた…らしいんだが代わりに質になりそうなものを取っていた。つまり全然効いてなかったようだ。黒田・加藤からも何かを受け取っていたのかもしれない。
0686人間七七四年
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2022/10/18(火) 20:31:10.16ID:f7gDj+Yf
676に反論しようと思ったら684の人が全部言ってくれてたわ

妄想くんが正しく読めるか甚だ疑問だけど、卜斎記の該当部分を載せとくからちゃんと読んでみろ
これ読んで田中隊が追い崩したのは南宮山の部隊だとは誰も思わんでしょ

「船越・猪子申候ハ、田中か人数敵合三町余敗軍仕候か、誰返し候へと下知仕体も見え不申候に、
引返敵を追崩し申候事、田中か勢の働と見事尓て御座候候つると申候へハ」

この時の家康の様子
「家康公被仰候ハ、間近く金森法印か吹貫を立備候、敵と心得て馬を不寄、法印手と知たらは先へ押立、
法印居候處へ馬を寄候ハヽ、敵ハ一人も洩す間敷事を、法印備を不知故と御挨拶總て」
0687人間七七四年
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2022/10/18(火) 20:35:18.66ID:u8CAvuKS
>>685
まあ一部の豊臣旗本が勝手に西軍に参加していても東軍も特に問題視してないしな
0688人間七七四年
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2022/10/18(火) 20:44:39.63ID:+CyBi3QU
>>677
なんで自分が馬鹿みたいに見える煽り入れてるのかは謎だけど
普通にそこまでの支持がなかったってことだね
0689人間七七四年
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2022/10/18(火) 20:53:17.24ID:f7gDj+Yf
秀頼馬廻衆に関する記事って9月12日付増田宛三成書状と下記のものくらいかね
南宮山の方は秀頼馬廻衆が居たかどうか断定はできんけど

・義演准后日記八月十一日条
蜂須賀家政の逼塞処分により家臣団が豊臣馬廻衆に加えられ北国へ出陣した

・8月29日付黒河内長三(正光家臣)宛保科正光書状写
「大柿之城、石田治部少輔・備前中納言殿・筑前之中納言殿・嶋津兵庫助・
小西摂津守、其外秀頼様御馬廻衆も随一之衆五三輩楯篭候」

この時保科正光は浜松城の留守居として在番していた
0690人間七七四年
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2022/10/18(火) 21:12:18.04ID:+GBVr+D6
>>684
まず吉川家文書から南宮山東麓で長宗我部・豊臣・恵瓊の部隊と東軍が戦闘した事が記されてる。南宮山から攻撃できるとしたら東くらいしかないからこれは妥当だろう。そしてこれを家康は見ていたというのが卜斎記の記述になる。南宮山東麓は軍記物で家康が本陣を置いたという桃配山からは見えない。そもそも家康は十四日に美濃・赤坂に布陣しておりそこから関ヶ原に進む事は有り得ない(毛利が裏切ったら絶体絶命のため)つまり家康は、赤坂から垂井に掛けて布陣しておりそこで田中吉政・堀尾忠氏の部隊が南宮山の豊臣軍と戦闘に及んだところを見ていた。これは別に窮地でも何でもない。田中隊は家康本隊を背後にしてるのだから。
0691人間七七四年
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2022/10/18(火) 21:14:25.06ID:+GBVr+D6
>>687
馬廻衆が居るって事の意味を考えた方が良いぞ。馬廻は大将直属の親衛隊みたいなもんで豊臣馬廻衆ということは秀頼がそこにいるようなもん。これが大坂を離れてるってことは秀頼を護る必要が無いって言ってるに等しい。
0692人間七七四年
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2022/10/18(火) 21:17:37.64ID:tX5VzUVC
馬廻の誰が居たんだ実際
本当に居たのか?
0693人間七七四年
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2022/10/18(火) 21:20:33.83ID:ei5Lh1Sn
居なかったという史料は何も無い。居たと言う史料はあるが。
0694人間七七四年
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2022/10/18(火) 21:38:41.15ID:+CyBi3QU
>>691
そんなことはないぞ
徳川幕府の旗本に相当するもので
必ずしも主君に供奉することが前提ではない
0695人間七七四年
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2022/10/18(火) 22:16:45.80ID:x289EflC
>>690
まず、あなたの史料紹介はまったく信用できないから、吉川文書の原文を示してくれるか?

では、仮に南宮山東麓で戦闘があったとしよう
そこで交戦したのが田中隊だと卜斎記にはないし、吉川文書には記載があるのか?
卜斎記にあるのは、300メートル敗走してきた田中隊が押し戻して敵(誰かの記載はない)を壊滅させた
そのことを家臣が振り返って誉めると、家康は「金森の馬印を知っていればなあ。敵だと思ったから寄らなかったけど、味方だと知っていたら寄っていって敵を打ち破ったのになあ」という趣旨の愚痴を漏らした

どこにも南宮山の戦闘を見たなどと出ていないし、敵を打ち破ったのにという愚痴がある以上、田中隊が反撃に転じる前の敗走段階を見ていたと捉えるのが当然
流布している布陣図では田中と金森隊は家康の前衛におり、隣接している
関ヶ原正面で押された田中隊と脇にいた金森隊を桃配山の家康が見ていたとしか解釈できない

そもそもさ、田中隊の働きを家康が賞したって、卜斎記のどこに書いてあるの?
そういうのにはいつも通り知らんぷりするんだろうな
卜斎記には南宮山での田中の働きを家康が賞したことが載っており、これによって桃配山にいなかったことが証明される
はなから史料誤読した上で証明もくそもないだろ笑える
0696人間七七四年
垢版 |
2022/10/18(火) 22:19:23.76ID:f7gDj+Yf
>>690
この部分か、なるほどな
この吉川広家の記述が正しければ南宮山方面にも秀頼の弓鉄炮衆がいて、田中隊や堀尾隊と交戦していたことになるな

吉川広家自筆書状案
「南宮山へ之手あてハ、先手池田三左衛門尉・井伊兵部・本多中書・其外内苻馬廻、
此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安国寺陣田中兵部・堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」

南宮山の手あてとして、先手に池田輝政・井伊直政・本多忠勝、その他内府馬廻
これらの衆にて長宗我部盛親の陣から(秀頼の)弓鉄炮衆の陣へ、
安国寺の陣へは田中吉政・堀尾忠氏が好位置にいるので、
これを攻撃してこれを切り崩し、山上の陣へ切り上るようだ。

卜斎記の記述には家康が田中隊の奮戦について言及してないから恐らく家康本人は直接見てないだろ
猪子や船越、若しくは他からの報告によるものだと思うがね
0697人間七七四年
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2022/10/18(火) 22:38:05.62ID:x289EflC
>>689
形式上はみんな豊臣公儀対徳川とは捉えていたようで
あなたが引用された徳川方の保科にしてもそうだし(先手からの通報を家臣に報じる内容だから、少なくとも先手の認識)
白峰氏の論文「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」なんか読むと朝廷、寺社もそうだし

かといって徳川が朝敵扱いされたり豊臣戦勝祈願が寺社に命じられるわけでもなく
後陽成天皇も「平和にしろや」くらいしか言わない
東軍についた大名も動揺している様子でもない

西軍が公儀と広く認識されていても実質がまったく伴っていないから、ここのところの議論は不毛にしか思えないんだよなあ
0698人間七七四年
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2022/10/18(火) 23:16:59.21ID:f7gDj+Yf
>>697
あくまで表面上はってことだね
実際清正や松井康之も細川の丹後領召上について「秀頼様が曲事に思われたことにより」とはっきり書状に書いてるしな
ただ中身が全く伴ってないってのはあなたが指摘した通りだと思う

九州を例に見ても東軍勢力は少ないはずなのに如水を中心として、
清正や杵築城代の松井康之・有吉立行にも全く動揺は見られない
松井は輝元や奉行衆から杵築を明け渡すよう遣わされた書状を投げ返し、
また使者が来るようなら斬り捨てるとまで言って不退転の覚悟を示してるしね
0699人間七七四年
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2022/10/18(火) 23:40:05.36ID:x289EflC
>>696
だまされちゃいけないぞ
この書状案の当該部分だけ読んでも仕方ない
あまりに勝ち目がないと悟った吉川が無断で徳川方に内通して誓約が完了
そこで取り次ぎの井伊、本多に吉川が「此上は御行(てだて、軍事行動の予定)之様子如何候哉と、兩使へ相尋申候處」、山中方面は小早川が手引きする、南宮山へはこいつら、安国寺と秀頼の御弓鉄砲衆にはこいつらを宛がうと井伊、本多が明かした
その上で「もう和談しちゃったから攻めたら違反かな?」と言われたので、吉川は「和談を知ってるのはうちらだけなんで、どーぞやっちゃってください」と答えたので、井伊、本多は「じゃあ、君んところは手出ししないで控えていてね」と応じ、吉川は帰陣した
そうしたら「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」

つまり、南宮山で戦闘があったどころか、むしろ徳川本隊はなんの手立てもすることなく通過して関ヶ原に布陣したと書いてある
妄想太郎は何度でも誤読する、実際は真逆のことが書いてある
0700人間七七四年
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2022/10/18(火) 23:41:32.73ID:Z7VukSLJ
そもそも秀吉没後の豊臣政権の機能についてだけど

1599年に三成の妹婿の熊谷直盛が朝鮮渡海組からの訴えで職務怠慢で改易されてるよね
そして、三成挙兵により大名復帰している

改易は主宰者の家康が決めたんだろうけど、復帰はこれ誰が決めたの?
0701人間七七四年
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2022/10/18(火) 23:48:00.88ID:5pnKLkd4
妄想野郎はまた誤読してんの?
いい加減に消えてくれないかな?
0702人間七七四年
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2022/10/18(火) 23:48:41.21ID:f7gDj+Yf
>>699
サンキュー
やっぱ全文読まないとダメだね
該当部分と思われるとこしか読んでないから時間ある時に全文読んでみるわ
0703人間七七四年
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2022/10/19(水) 00:18:26.42ID:zWze6289
吉川裏切り前の徳川方による単なる攻撃計画を田中による攻撃が実際にあったとすり替える(誤読する、そもそも「可」が入っている時点で過去形ではないと普通はすぐ分かるわな)
単なる攻撃計画が変更されて、吉川が困惑している(井伊、本多との会話を報告したのに違って気まずかったみたいな文言がある)のはスルーする
はっきり言えば誤読以前に自分で読んでないんだろう

「長大、安國寺は人數たかり候つけ共、兩人面白おかしく申候て、御人數打出候はて、敵手ふり聞合(照会する、つまり窺っているだけ)申候」ともあるから、秀頼の御弓鉄砲衆がどうしたかはともかく、ろくな戦闘はなかった
引用は関ヶ原スレからなので多謝多謝

>>702
あなたが紹介してくれた史料に秀頼の御弓鉄砲衆のことがよく出てきました
安国寺陣の近くにいたのだけは確実
ただ、この書状では、西軍は二手に陣を分けたが、早くも小早川が逆意の色を立て、山中方面にいられなくなった
大谷陣も引いた、「是は佐和山へ二重番引(二段階で佐和山まで引き上げる意でしょう)可仕覺悟と相見え候」
それに「さ候へは御弓鐵御味方として被出候○衆○○衆は、多分心合之樣子と相聞え申候」とあるから、佐和山に引くつもりで戦意は低かったように個人的には感じられる
そういったもろもろの様子を見て吉川は「一つとしてはや御弓矢御勝手に可成立ふり無御座候」と判断して裏切りを決めましたって文書
0704人間七七四年
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2022/10/19(水) 00:43:52.91ID:zWze6289
>>690
南宮山東麓で戦闘があったかどうかはしらないが、田中隊がいて近くに家康本陣があったなんてことは史料上にない
少なくともあなたが引用しただろう吉川文書は真逆のことを記している
田中隊が安国寺、秀頼馬廻りを攻撃するってのはあくまで事前の計画であることは明確に書いてある
でだ、「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
これ、どう訳す?
試しに訳してくれ、無視せずに

卜斎記の訳もデタラメ、吉川文書の訳もデタラメ
もう書き込まないでくれ
0705人間七七四年
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2022/10/19(水) 00:46:05.60ID:xhI3mu5O
奴はどうせ無視して暫くしてまた妄想ダラダラ書き始めるよ

教えてもらったのに有難う御座いますの一言すら言えない
0706人間七七四年
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2022/10/19(水) 11:47:31.69ID:w0QrDdcy
>>684
問鉄砲とか信じてそう。徳川家康が関ヶ原に陣取っていて指揮してたなんてのは幕末・明治記に書かれた軍記物を司馬遼太郎が間に受けて小説にしただけ。家康が何処に本陣置いたのかは当たり前だが史料には残ってない。だが何処にいたのかは分かってる。南宮山の吉川広家によれば家康は南宮山の押さえとして布陣していた。
0707人間七七四年
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2022/10/19(水) 11:53:19.79ID:w0QrDdcy
さてここで問題がある。家康が布陣していた赤坂から関ヶ原は約4〜8キロほどの距離がある。それ程の遠距離から文字通り「山中」の関ヶ原での戦いをしかも小雨降る中どうして家康は視認出来たのだろうか?これは超人的な視力と言わざるを得ない。もしくは最新の軍事衛星でも使わないと無理だろう。PADを使う家康というのは確かに面白い図だが小説のネタにしかならない。
つまり家康が目撃した田中吉政の戦闘はその眼前で起きたものでしか有り得ない。赤坂から出撃した東軍先手衆を南宮山の豊臣軍が攻撃したのがそれだろう、って話。司馬遼太郎の小説に毒されていると中々受け入れ難いだろうけど、家康は毛利が裏切るリスクもちゃんと折込んでの布陣を敷いていたに過ぎん。
0708人間七七四年
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2022/10/19(水) 12:54:04.86ID:46DTdeXv
>>699
珍説披露ご苦労様って感じやな。書状一つを頑張って切り貼りしてるからこうなるのか?講和の席で戦闘計画を話したりそれを「約条違反だ」というようなアスペルガーは戦国時代におらんぞ。
家康が美濃赤坂に到着したのは九月十四日。時同じく小早川秀秋が松尾山を占拠した。この時点で西軍は大いに動揺。広家はここで徳川との和睦を行う。これは時間がタイトだった。何しろ石田三成らが大柿より出撃していて東軍先手衆も出動してる。夜を通して何とか本領安堵、少なくとも改易回避を勝ち取る。ところが十五日早朝、豊臣軍が東軍先手衆を攻撃する。これを徳川使者は「約条を反するのか」と確認すると広家は「この和睦は豊臣は知らぬ。約条違反に見えるが気にせず通り抜けてくれ」と誓った。結果豊臣軍は謂わば見殺しにされた(俗に言う宰相殿の空弁当)
十五日の朝にもなって和睦交渉してたんじゃ遅過ぎる。
0709人間七七四年
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2022/10/19(水) 22:02:16.27ID:JmGSYewW
吉川家文書のは毛利と徳川の不戦条約であって豊臣とは関係無いじゃろ。長束や豊臣弓鉄炮衆が戦闘しなかった証拠にはならん。
0710人間七七四年
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2022/10/19(水) 22:25:57.75ID:zWze6289
>>707
あのー
何から手をつけたらいいか分からないレベルなんだが
司馬とかどうでもよくて、史料の話でしょ
卜斎記には家康が賞したなんて記述がないし、直接見たかも不明確な家康の愚痴が載っているだけ
もちろん南宮山付近にいたという記載もない

あなたが原文ではなく一部の訳だけ書いた吉川文書は、南宮山への田中隊その他の攻撃「予定」が記されているだけで、実際には「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」とある

日本語読めないのデスカ?
0711人間七七四年
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2022/10/20(木) 20:01:39.75ID:mjCb8tsL
>>683
豊臣奉行が扇動してるのに主導的で無いとかヘソで茶が沸くだろ。良くて西軍派悪けりゃ主犯やぞ。
0712人間七七四年
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2022/10/20(木) 20:53:06.39ID:xjXkjCwa
>>709
別の吉川書状案がある
以下、関ヶ原スレから一部引用

一 長土佐殿御弓矢てつほう衆は、一昨日内府山中へ被打越候を披見候てから、人夫悉如伊勢地被退候て、山中之合戦勝手に成候由被聞候てから、ととけなしに皆伊勢路のことく被罷退候、
一 長大大蔵殿も、山中合戦悪敷候由到来候へは、即ととけなしに如伊勢路被罷引退候、
一 安國寺も。長大同前に中途まてのかれ候つるか、いかか被存候哉、自中途被引帰候而、南宮山被罷越候、

普通に読めば、戦闘なんかしてないな
それとは別に、秀頼御弓鉄砲衆の戦闘参加の有無なんて重要事項か?
西軍に与したことは大事かもしれんけど
0713人間七七四年
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2022/10/20(木) 20:56:00.19ID:P0Rw5bYu
1600年9月の時点でどうあがいても西軍に勝ち目はほとんどない
関ヶ原で野戦なんかもってのほか
やるならとにかく時間稼ぎして家康の暗殺を謀るとか考える奴はいなかったのか
0714人間七七四年
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2022/10/20(木) 21:34:22.65ID:208Lzawf
>>710
はぁ…良いかい?家康が田中吉政を賞したかどうかなんてどうでも良いの。重要なのは家康は関ヶ原で吉政の戦闘を観てるってこと。上の珍訳でもそこは否定出来てないだろ?
そして家康は関ヶ原に居ない。吉川家文書から家康は南宮山の押さえとして南宮山東に布陣していた事がわかる。
0715人間七七四年
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2022/10/20(木) 21:39:52.70ID:208Lzawf
さてここで問題がある。南宮山から関ヶ原までは5キロ以上ある。もし吉政の戦闘が関ヶ原だとしたら家康は5〜8キロ先の吉政馬印を視認したことになる。ということは家康は視力5以上、最低でも3以上あったことになる。また5キロ先でも視えたという事は吉政の馬印は相当巨大だったことになる。しかもこれは平地の話で関ヶ原は山中にある。更に当日は雨、霧の天候。この状況下ではこんな遠距離を観測出来ない。
ということで家康が見た吉政の戦闘は関ヶ原では無い。なら何の場面なのか?
0716人間七七四年
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2022/10/20(木) 22:01:46.97ID:xjXkjCwa
>>715
誤読くんなのにずいぶん高飛車だな
以下の吉川書状案を訳してみてくれるかい?君が引用したところもあるから、当然訳せるだろ

両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多ね)い相尋申候處、両使申事には、山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候、於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは、其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候

で、さっき引用したところに続く
御弓鉄砲衆は家康が「山中」に進出するのを見ると伊勢路のときと同じく人夫が逃げ出した
山中で味方が敗勢だと聞くと、伊勢路のごとく届けもなしに陣を払った
史料を読めないのに子供探偵団みたいな推理ごっこしても無駄だよ
0717人間七七四年
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2022/10/20(木) 22:19:15.11ID:xjXkjCwa
>>714
ほんとに一つも読めないんだな
関ヶ原一周年に家臣が田中の働きを誉めたら、家康は金森の馬印を覚えてたらなあと愚痴った
会話としてはずれているんだが、逆にそこに脚色性のなさ(卜斎が実際に見たこと)が感じられるし、卜斎が語った趣旨としては後段にある、家康はあまり戦の話を好まなかったのに珍しいって部分
まあそういう御託はともかく、流布する布陣図では田中隊と金森隊は近いので、後退してきた田中隊を見て、近くの金森隊に近寄って敵(重ねていうが誰かは書いてない)を破ろうと思ったんだろうな、と推測できる程度

田中隊の働きを見ていたと断言まではできないし、南宮山近くにいたとはまったく読めないし(むしろ卜斎記では桃配山に布陣したけど霧でなにも見えなかったと書いてたはず、確認は面倒なのでそっちでやってね)、君が引用した吉川書状案では攻撃計画はなかったことになって南宮山はスルーされたとある

あのね、悪いけど君の全部間違ってるから
もう無理するな、仮想戦記でも読んでるのがお似合いだよ
0718人間七七四年
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2022/10/20(木) 22:50:56.51ID:xjXkjCwa
>>714
仕方ないから卜斎記読み直したよ
14日に赤坂丸山に家康は陣取り
翌日早朝、勝手に出陣し、出向く場所はと聞かれて「敵の方へ」
垂井あたりで軍勢がほぼ追い付いた
家康が本陣を置いた場所と石田、小西、宇喜多、大谷の陣とは一里ばかり
陣立てが終わってときの声をなんどか聞いていたら合戦には勝っていた

垂井で大形の人数が揃ったとあるから、逆に垂井が終着点じゃないと分かるな
0719人間七七四年
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2022/10/20(木) 22:56:05.28ID:xjXkjCwa
>>714
で、その家康が南宮山東麓に布陣していたとする吉川文書とやらを「原文で」示してくれるか?
それが一番話が早いでしょ
どうせ知らんぷりするんだろうけど
0720人間七七四年
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2022/10/20(木) 23:22:39.05ID:t7BDXXje
保身の吉川の信用性はあんまり無いな
西軍贔屓の奴等がコイツを叩かないのがよくわからん
0721人間七七四年
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2022/10/20(木) 23:26:02.91ID:Gk1l9FfP
西軍首脳部が調べるほど能無し揃いだから吉川広家はむしろ同情してしまう
0722人間七七四年
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2022/10/21(金) 00:43:57.32ID:e5yF3coS
まあまだ気は早いが、訳してくれってのはどうせ無視すんだろう

「両人請紙仕使者帰○○も右四人之誓紙之返事仕調遣候て、爰元候此上は御行之様子如何候哉と、両使(井伊と本多)い相尋申候處、両使申事には」とあるんだから、和談が調い、吉川側から「御行(軍事行動の予定)」の様子を井伊、本多側に尋ねたことが分かる
そこで両使は「山中へ之先手は、福左太、黒甲、其外加左馬、藤佐、其外上より罷下候衆中筑中納言殿御手引之事に候条、打合中にたて候て可討果候、可合戦仕候、南宮山へ之手あては、先手池田三左衛門尉、井伊兵部、本多中書、其外内府馬廻、此衆にて土佐侍従陣から御弓鉄炮衆陣、安國寺陣田中兵部、堀尾信濃足かかり能候条、是を切崩候て、かさ陣へ可切上之由にて候」と作戦計画を説明した

そもそも、前段を読まずとも「可」という助動詞が使われている時点で、この場合は意志の用法だが、いずれにせよ「過去に起こったこと」とは古文を知っていれば読めない

次いで、「於干今此分候者、御和談調候はは間、相違可仕候条哉と申候、先此分にて候つると申候条此方申分には、此御和談之事は、○○先両人計存候、長大、安國寺、長土御弓てつほう衆なとは被存間敷候条、御手あて衆已下被出候は、可及合戦候、さ候へは、此首尾相違の様候条、○○○○一円に御手あてなしに○被作せ之候者、當陣之者不打出様相(手偏に只)候て可罷居候由申候て帰候へは」
それはあくまで事前の計画で、ここにいたって南宮山を攻撃するのは違約かなあと井伊、本多が言うので「此方申分」(吉川の言い分)では「うちらしか知らないんでやっちゃってください。うちらは交戦しないんで」と話して帰陣した
そうすると「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」
ここ大事ね
少しも手あてなく、事前に聞いた計画と違って(翌朝に)打ち過ぎられたる(通過された)のはどこか、南宮山でしょ

そう聞いたからそう報告したのに違うから困ったぜ、という内容が続く
つまり、南宮山方面に攻撃予定だったものが吉川の裏切りで(吉川が把握できない家康本陣の中で、一晩のうちに)方針ががらっと変わった
続くところで秀頼御弓鉄砲衆は伊勢路のときみたいに逃げたと罵倒されているから、なんもしなかったんだろ

反論ある?
0723人間七七四年
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2022/10/21(金) 00:59:14.66ID:e5yF3coS
妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな
0724人間七七四年
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2022/10/21(金) 00:59:32.13ID:e5yF3coS
妄想くんが>>676で書いた内容は、この吉川文書案であるのが明白
なのに、同じ文書内に書かれたことすら把握していない、もしくは否定する根拠はなんだろうか?
できれば早めに、家康が9月15日、南宮山東麓に布陣していたという史料を示してもらうとうれしいな
0726人間七七四年
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2022/10/21(金) 09:49:25.01ID:D8xA6Kox
吉川家文書のは凄い誤訳だな。広家と徳川大使の話がトンチンカンな事になってる。広家と徳川の講和条約は毛利と徳川しか拘束しない。じゃあここで出てくる長宗我部や豊臣弓鉄炮衆、また長束は毛利家の支配下なのか?そうじゃない。もしこれが十四日夜の話なら広家の答えは「戦闘が起きない様に努力する」しかあり得ない。この和睦は二人しか知らないから通り抜けてくれ、とした場合どうして長宗我部ら南宮山麓の部隊は攻撃しなかったのかを説明しないといけなくなる。
0727人間七七四年
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2022/10/21(金) 10:06:05.88ID:e/pNsx7z
>>726
横からだけど会話もできないなら書き込みやめなよ
0728人間七七四年
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2022/10/21(金) 11:43:55.23ID:oXQvBCUB
>>716
普通に家康は南宮山の押さえと書いてあるな。少し応用になるけど。家康が美濃赤坂に着いたのが十四日(東軍先手衆は垂井に移動)、同日松尾山を東軍が占拠、同日夜大柿衆松尾山奪還に向けて出発、それを見て東軍先手衆は東山道を西進する。
家康が関ヶ原に居たとすると家康は先陣切って行ったことになるけどその手の話は明治以降の作り話。家康は南宮山に居た事は間違いない。
0729人間七七四年
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2022/10/21(金) 18:42:40.57ID:rISZDcdi
>>728
応用てw
さすがに草生やさざるを得ん

私はタイムマシンを持っていないので家康がどこに布陣したか断言はできないが、あなたが秀頼御弓鉄砲衆が戦闘に参加したとして引用した吉川文書案
それを読む限り、南宮山に池田や徳川譜代、馬廻りを当てるのは情勢が変わる前の計画であって、何度でも繰り返すが「其返事ははや無之候つるか、少も手あてなしに被打過たる事候」と明確に書いてある
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