石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 九州にいた加藤清正が実際に見てるわけでもないし
そもそも「秀頼の命令が出た」ではなく
「西軍方がそう言ってる」という
限定的な物言いをしてる >>553
死の覚悟がどうこうの話は
何も断定する根拠にはならんよ
ガラシャの死はむしろ当時武家において
最も大切な家の邪魔にならないためのもの
秀頼の死は家の断絶を意味する
必要とする覚悟の質も引き起こす事態もまるで異なり
それを個人の死の覚悟という意味で一緒くたにするのは
現代人的な勘違いだとしか言いようがない とりあえず関ヶ原に勝って大坂城に乗り込んだ家康はどう思っていたんだろう
「女子供のことゆえ」お咎めなしとしたのは史実なんだろうか
史実なら西軍に与していると見たが女子供だから許したるよ、ともはや主家に対する態度ではない感じがするが >>555
豊臣が単なる平民ならそりゃこんな事は言わんよ。でも豊臣って一応天下人なんだろう?なら彼等はこれに対処する義務がある。抗議や抵抗して当たり前でそれをしないのは同意してるのと同じ。まぁこれは平民でも同じなんだけどさ。 西軍の行動を黙認、もしくは協力した時点で豊臣は謀反人として処罰されるか無能なトップとして天下人の位を明け渡すしか残ってない。で、家康に天下人の座を明け渡して延命させてもらった。家康からしても義理の孫を殺したくは無かったんだろう。身の程を知ってくれればそれはそれで使い道もあるしね。東軍諸将としては不満もあるだろうが、謀反人秀頼の土地を取り上げて分配してくれた家康には頭は上がらんし。 >>560
伊達政宗が秀頼の自殺知った時の書状の内容からして
家康に秀頼を殺したくないという気持ちがあったとは思えんがな 秀頼が自殺ってそれ家康に刃向かった後じゃん。
しかも一度許してやったのに。そりゃ愛情も冷めるだろ。 どこを擁護してんだこのバカ
何で5周遅れみたいなことドヤ顔で言いだすのか謎過ぎる 秀頼の配給文書が無いなら「秀頼が言った」ことがそのまま秀頼の意思として認識されるのは当たり前だし脅されてたんだとか想像が行きすぎてる。馬廻衆筆頭に豊臣親衛隊をかき集めて籠城戦しても良いし決死行覚悟で使者を徳川に送っても良い。そうした動きが全く無いからには豊臣は心情的には西軍だったんだろ。北政所なんて宇喜多や毛利と豊国社参りしてるからな。 ID変えて妄想垂れ流さないで欲しい
貴方の書くことには興味ないから 確かに「秀頼が脅されてる」なんて妄想は良くないよな。
そんなこと書いてる史料無いし。 >>540
輝元の起請文にも「秀頼様から仰せ頂いた」なんて文言はどこにもない
誤った解釈の上にあんたの妄想が加わって酷いことになってんな
(慶長4年)閏3月21日付徳川家康宛毛利輝元起請文前書案
「今度天下之儀、各申分御座候処、我等事、秀頼様御儀不存疎意之旨申入之通、
被聞召分、重畳御懇意之段、誠以過分存候」
天下の儀について各々申し分もあるところに、私(輝元)が秀頼様に対し疎意なき旨を(家康へ)申し入れましたが、
それを(家康が)お聞き入れになり、重ねてのご懇意誠に過分に存じます >>545
何このくそ気持ち悪いポエム
頭おかしいんじゃね
ちかひの条々に秀頼のために徳川と戦うなんて文言はないぞ
ちかひの条々と同日付で出された三奉行連署状の方は
「家康は誓紙と秀吉の置目に背き、秀頼を見捨てて会津征伐に向かったから戦うことにした」
と、秀頼のためにとは言ってないもののそれに近いニュアンスは多少含まれてるが
あんたこそちゃんと読んだらどうだ 秀頼が脅されてたって話の史料はなんなんだろ?
誰がそんな事を言い出したんだか。 >>571
ちゃんとレス返しなよ
そういうところだよ君が嫌われるのは >>559
どうあるべきか?を論じるのは歴史じゃない
どうであったのか?の話をしてくれ >>566
それはおかしい
発給文書もない上に
「秀頼が言ったと言ってる人がいる」だけ
心情的に西軍であったなら
それこそ西軍の行動にお墨付きを与えるために
文書を発給すれば良い
死を覚悟する籠城なんかよりよほど簡単だが
それをしなかった >>568
秀頼が脅されたかどうか関係なく
軍隊で居城を占拠されたら圧迫されるだろ 脅されたと断定してる人もいないからな
一方あなたは西軍を支持したと断定してる
それを証明する発給文書もないのにね >>569
解釈というより単なるひどい誤訳だね
「申入之通」ってあるんだから「我等」(私、つまり輝元)が秀頼に疎意がないと申し入れたとしか読みようがない
「秀頼様被仰出之旨」とかならともかく
双方の起請文から、秀頼を互いに粗略なく扱おう、盛り立てようという誓約だ
ここに秀頼の意思や、秀頼の意思に仮託されたものなんて一切ないね
まあそもそも妄想さんがなにを言いたいのかもよく分からないんだよな
たぶん本人もクリアに思考立てされてない
それだけならともかく、誤読を垂れ流されるのだけは勘弁なんだが >>563
盗将大権現様の生き方って、野望の為にここまで情を捨てられるかですもんね。
漢の武帝は「仙人に成る為には妻子を捨てる覚悟」といわれて、即答で「ぞうさもない」と
言ったそうですが。
嫁も、息子も、孫娘も、ノータイムで捨てられる人だけが挑戦者になれるんだろうなあ...
こういう人って最後の時に何を思うんだろ 豊臣VS徳川の図式に囚われすぎだよね
調べるほどに関ヶ原時点まではあくまで
豊臣政権を牛耳るための権力闘争で
劣勢の側が武力蜂起に踏み切っただけ
秀頼はこの時点では自発的な支持表明もしてない
少なくとも記録されてない 家康はそもそも豊臣の大老で一門筆頭者
会津征伐軍を率いるにあたっては
秀頼と淀に拝謁してせん別を与えられ
それによって両者の了解の下の
政権としての出兵という大義名分とした
回りくどいようだがそれが当時として
家康を支持する表明であったわけだが
その後の蜂起の際に家康は大老の地位を追われ
秀頼の支持も失った、あるいはなかった
というのが対する西軍の主張
であればそもそも「秀頼の支持」は
状況によって変わり得流ことになってしまい
何ほどの意味があるんか?となる
また政治的に無意味になった家康への支持より
一層のコミットメントが秀頼になされたか
となると疑問符がつく 西軍に豊臣馬廻衆が参加してる事を知らないんだろ。馬廻ってのは親衛隊で乱暴に言えば大将がいる様なもの。豊臣が西軍に属してなかったら絶対に参加させんわな。平和な現代日本人からすると「軍勢が来たら降伏するのは当たり前」かも知らんけど当時はバリバリの戦争してる訳でナメられる訳にはいかない。大坂城本丸に豊臣親衛隊集めて籠城しつつ徳川に密使を送るくらいやらないと豊臣が西軍に反対してたことにはならん。少なくとも歴史的には行われてるしな。 あの秀頼馬廻衆の参戦ってあんま重要視されないよね
もっとスポットライト当たってもいいと思うんだが
西軍が松尾山に迫った時も三成が大将で馬廻衆が後備の位置に見えてきてしっくりくる >>574
西軍は徳川派と見做した大名の領土を改易し、豊臣馬廻衆を動員し、大坂城物資を使用してる。これに対して豊臣は抗議反抗、面従腹背の行動等一切を行っていない。
これが大坂城を占拠して豊臣の意思を脅迫した結果なら、なんで西軍は秀頼のお墨付きを出させない?改易や軍役は豊臣公儀の権能でこれを行使させた時点で公儀を乗っ取ったようなもの。これらに抵抗せずお墨付きだけは死守するとか意味不明過ぎる。この時期、秀頼のお墨付きなんて無いからそもそも必要が無かったんだろうけど。 西軍に脅されてたならそれこそ秀頼のお墨付きを徳川に届けてるだろ。乱終わった後毛利が自分達をどうするかわからん豊臣じゃないわ。 >>585
全く同じことが言える
それらが全て秀頼の支持や命令によるのであれば
何故ちゃんと秀頼名義で命令を出さない?
それさえあれば完全に西軍は豊臣正規軍で
内府は反逆者というお墨付きになるというのに >>588
西軍を支持していたならそれこそ
お墨付きを与えていただろ
それをしていないということは
支持はしておらずせいぜいが日和見だということ >>577
この場合は誤訳だね
指摘サンキュー
妄想くんが史料引用すると度々誤訳や誤読があるし
その上曲解もあるからそのまま素直に信じられないんだよな
ほんと厄介 どちらにしても西軍が蜂起して敗北したことで十人衆誓詞の枠組はもとより
秀吉の遺言覚書体制自体が完全に崩壊してしまい 途中で送信してしまった
秀吉の遺言覚書体制が崩壊したことで勝った家康に新たな体制づくりのフリーハンドが与えられたのは確か
秀頼とその周囲にはそんな能はないからな ていうか幼児に天下を差配する能力なんて
ある訳もないわけで
元よりそれ前提の政局でしょう
秀頼は変に誰かに肩入れなんてせず
政治を担うものに奉られていればそれでよかった
幼君に政治の主導権なんてはなから必要ない
担ぐ権力者にとって神輿あって権力安定してるなら
あえて波風立てて神輿を壊したり辱める利点はない
秀吉はそれはわかってるから生前に
家康の力を削ぐ為の政争なんて仕掛けない
家康も心得てるから実権は握るけど
秀頼の立場を脅かしはしなかった 岐阜中納言ぐらいの扱いを家康がしてくれりゃいいなあぐらいに思ってたんじゃねーの?
もちろんそんなこと口に出したら終わりだから口には出してないだろうけど そもそもこの時期秀頼は命令書自体発給してないんだから西軍が秀頼の命令書を出さなかった事はおかしな事じゃ無い。
それに豊臣は西軍に加担してるのに東軍には全く加担してないことよ。豊臣が反西軍だったとは言えない。徳川に密使すら送ってない。これらから西軍の行動を豊臣は黙認してたことになる。思うに豊臣は元々徳川が権勢強めるのを苦々しく思っていて毛利のクーデターを認めたんだろう。豊臣の狙いは徳川と毛利が消耗し合う事にあって頃を見て和睦を命令する気だったんじゃないか?ところが余りに早すぎる展開が豊臣の政治処理能力を超えてしまった。 >>596
誤訳についてはスルー?
返事もしないならROMってろよ 家康は西軍と違って反乱軍をおこしたわけじゃないのだから
改めて秀頼に認めて貰う必要などない そもそも西軍は朝廷工作はしていたのか?
そのあたりが全く論文とかもないのかな? >>596
その論法だと軍事行動自体してないから
毛利の入城に抵抗してなくても西軍支持してないし
政治発言する私的文書も発見されてないので
徳川に助けを求めてなくても西軍加担したと言えない
ということになるね
あと元々話してたのは「豊臣は西軍を支持した」かどうか
スレには西軍支持派とどちらとも言えない派がいると思うが
何故「反西軍だったか」という論点に変わってるんだ 徳川も毛利も豊臣公儀だった説は司馬遼太郎の『関ケ原』が元ネタ。これは家康を簒奪者に描きたい著者が一次史料を見ずに書いたものでハッキリ言って事実でも真実でもない。
そもそも徳川は豊臣公儀では無い。毛利が大坂城に入って豊臣が徳川追放を宣言した時点で徳川は公儀たる資格を失ってる。その証拠に家康は公儀を称してない。だから東軍は豊臣公儀ではなく徳川家康を主人と仰いだ集団ということになる。
思い出してほしい。武士は理屈には従わない。それは後鳥羽上皇や後醍醐天皇が証明しただろう。 豊臣が家康に軍資金2万両、兵糧3万石を送ったのに比べれば
豊臣は石田や毛利に金も食糧も渡していない
ドラマのように豊臣が家康を脅威に思って倒したくて仕方がないなら
家康に送った以上の金と食糧を西軍に渡さないと辻褄が合わない
西軍蜂起というのは単にテロリストが大坂でテロを決行したに過ぎない 何故西軍が秀頼のお墨付きを使わなかったのかと言うとそんなもの要らなかったから。秀頼は「家康と親しい者は許せぬ」として蜂須賀家政を改易、その領土は毛利預かりとした。これが実行され豊臣が黙認した時点で秀頼は家康を見限った事になり豊臣=西軍となる。実は秀頼お墨付きが必要なのは家康の方で家康には「秀頼が家康を見限った」事への反論が出来ない。豊臣は徳川に一切の支援を拒否したのでこの事実は満天下に知れ渡る。
これをもって白峰氏なんかは「徳川は窮地に陥った」と言うんだがそうはならなかった。何故ならそも戦国大名は理だけで動かない。大量の利益に少しの理があればそれで良い。却って豊臣が西軍に与した事が東軍を結束させたかもしれない。勝てば上杉領に毛利領、更に豊臣領まで分配となれば… >>603
西軍に豊臣四奉行が参加してるのに何故大坂城物資が使われてないと思うのか。豊臣が西軍に与していても西軍に脅されていても金蔵も食糧庫も武器庫も明け渡してるに決まってるだろう。例えば毛利軍六万の食糧は何処から賄ったと思う?
九月十二日増田宛石田書状から大坂城の物資は西軍が使っていたと考えられてるがまぁ正しいだろう。わざわざ毛利が国許から兵糧を運ばせるとは余り考えられん。 >>606
じゃあ東軍の食糧は何処から?
何で国元から運ばせてないと思うのか 毛利が蠢動してたのに土壇場で煽ってた三成たちを裏切ってこっそり家康と手打ちしてたんだろ?戦後に影でセコセコ策動してたのが全部バレてたのを家康に示されて家を潰されそうになってたけど
大坂の陣でも保険で大坂城に送り込んだ家臣を尻尾切りで殺してるしクソみてえな野郎だな輝元って 東軍の場合は街道沿いに諸将の城があるからそこの備蓄を使っとるだけじゃね?それでも足りないかも知らんから家康は長束に食糧を渡してくれと言ってたけど >>605
必要なかった?あっただろ
実際お墨付きのない西軍が言ってるだけの「命令」で
西軍が諸国の大名の支持を得られたか?
答えは史実が語っている 西軍というのは現代で例えるならイスラム国が蜂起したのと同じ
イスラム国がどこの都市を占拠して支配しようが公儀にも政権にもならない
西軍も同様にどこまで行っても武装テロリストが暴れているだけだ 筋で言えば毛利も宇喜多も上杉討伐の話を断固反対すれば良かったんよな
西軍決起は豊臣に対する背信行為に他ならんよ >>613
輝元は最初反家康ノリノリだったけど、無理に決まってんだろの吉川の意見が通って関ヶ原土壇場で家康に頭下げた
で、吉川は恵瓊と対立してたから丁度いいと始末されたんだろうな >>613
毛利の外交僧だから対外的には毛利の顔だといえるからな
西軍の敗北が見えて奉行の没落もほぼ確定してるから、奉行とのパイプが太いであろう
恵瓊は毛利家視点でも存在価値が低下しているし、そのうえ毛利一門という訳でもない
責任の押し付け先としてみた場合、ほぼ完璧ではあると思う 戦闘以前の多数派工作で負けてんのよ
東軍先鋒が切り崩せなかった時点で
そいつらは最初から家康派っていうのは
結果知っての逆算でしかない
生きるか死ぬかの博打より
損害あっても生き残れる道を探るのは
当たり前と言えば当たり前 西軍からすると豊臣を担いだ時点で徳川よか優位だとは思ったろうさ。ただ徳川は正当性とか関係無く勝っただけで。
徳川が勝った=徳川に正当性があったってのは間違いだからね。正当性なんて勝利の後に着いてくるわな。 関係なく勝ったのかというのはまた別の話
東軍についた諸将は豊臣に対する謀反人として
覚悟を決めて戦ったのか?
だとしたらその後の振る舞いが謎すぎる
単に西軍の唱える正当性が無視されただけでしょ 正当性は必ずどちらかにある
というものではない
むしろ双方が自分の正当性を掲げるのが政治対立 そりゃ覚悟決めてるだろ。徳川にはこの時秀頼からのお墨付き含めて何も正当性主張出来る物証無いんだぞ。対して西軍は秀頼のお墨付きを持って来てる。これを「奉行が勝手してる」の一言で無視してるんだぜ?公儀に敵対したら天から裁きが降ってくるとかそんな訳でも無いからな。むしろ弱い豊臣を倒して土地を増やす大チャンスと見てたろ。 ちなみに言うと徳川は一切自分が公儀、正当性があると主張してないんだと。これが何を意味するかって話よ。 上杉討伐軍に参加してた諸将としても
コソコソ留守を狙った空き巣まがいの蜂起には寝耳に水の横っ面張られたような不快感あったろうし
加えて公儀の正当性を標榜する割には妻子を人質にとろうとする犯罪的な卑劣さ
いかに戦国の風が残っていたとしても武士の風上にも置けぬ陰湿さで到底新しい時代の担い手とは思えず
感情的にも恭順しようなどとは思えなかったろう
よくよく見るとやってることマジでカッコ悪いよ、西軍て 政権側は西軍だぞ。秀頼の名によって改易してるし豊臣軍も西軍についてる。対して徳川は豊臣に切り捨てられた反乱軍扱い。でも徳川の方が実力があったし能力も高かったねって話。政権の敵に回ったら負ける訳じゃない。 家康は西軍蜂起した時には
豊臣公儀としての行軍中だからな
それが三成別心、三奉行謀反というなら
それは豊臣公儀に対するものと理解すべきだろ 秀頼からは文書一つも、面会しての下賜も引き出せず
パフォーマンスとしてもせいぜい豊国社参拝
しかも秀頼と一緒に参ってるわけでもない
それでお墨付きをもらってるってのは
はっきり言って相当弱いぞ >>625
必ずしも傀儡の秀頼=政権側とはならないよ 豊臣軍まで参加して改易も実行出来てるならこれ以上のお墨付きは無いだろう。徳川にはそうした動きが全く無いのだから尚のことね。秀頼が幼年とかお飾りとかはあんまり関係無い。東軍は豊臣が敵に回った事は知っていたろう。それでも東軍は徳川を主人と認めて戦っただけで。だから豊臣公儀はブッ壊れた。家康のせいという訳ではなく罪を見逃してもらう代わりに公儀たる資格を捨てたってだけで。 三成って1600年の挙兵の段階では奉行に復職してるの? してないの? 家康以外の東軍から西軍をみてもエゲつない行動とられているからな
むしろ家康にどうにかしろと頼られる雰囲気さえあるだろ >>631
してない。三成は終始奉行衆の指示で動いてるし。 毛利輝元が大老の立場から復職を認めるとか無理だったのかな
宇喜多秀家と上杉景勝(名義借り)して >>629
蜂須賀の件なら多勢に無勢というだけだろ
家政は阿波本国じゃなくて大阪にいたんだし
>>634
豊臣家の奉行への復職は秀頼の名前が必要
秀頼と豊臣家が西軍に与してたらやったはずだがやってない 会津征伐は至鎮が僅かの兵力で従軍(光成氏によると18騎)、家政は大坂屋敷に居た
阿波本国には相当数の兵がいたはずなんだが、家政に危害が及ばないよう留守居は軍事行動を控えたのかね
輝元は地下人と相談して仕置するよう指揮官の佐波広忠や村上元吉らに命じてる
けど大した騒動も起きてないし阿波占領は割とスムーズにいったんだよな ていうか大名の留守に隠居の身柄押さえて
接収されたらそりゃ抵抗できんわな 無理やり西軍に参加させたり大名の妻子を人質にとったやつと同じこと 秀頼を担いで行動すればその行為は正当化されるというなら
家康の専横を批判できる理屈がなくなる
西軍の行動原理は家康が好き勝手に振舞うなら
こちらもやらせてもらう以上の道理にはならないよ なぜ大坂城を抑えたなら、無理やりでも秀頼を担いで美濃にまで出陣しなかったんだろ
輝元じゃそういう政治テクニックは無理なのかな 「大軍が入っているから豊臣の意思が歪められた」ってのは余り堂々と言える話じゃない。今でも言う人いるが「徳川が軍勢入れてるから会津征伐が決まった」って話になる。じゃあ何をもって豊臣の意思だと言える?既に豊臣には意思決定機構が無かった。となると大坂城を握って豊臣と連携してる奴が「豊臣の意思」を出せる。 >>640
普通に考えたらそこまでの協力関係が
気づけなかったからだろう >>641
ていうか大軍が入ったら支持が覆るってことは
つまりそう言うことだから
豊臣政権、豊臣公議なんて意味ないねとなった その前の秀次事件から豊臣のオワコン感が決定的になった
その後何をやっても行き当たりばったりの弥縫策でしかなく政権としての安定感重厚感頼もしさが失われた
次に取って代わるだけの実力者がいなければワンチャン室町幕府のように権威だけでダラダラ続いたかもだが
それはすなわち政争紛争戦乱の世の再来でもある
徳川という全てにおいて豊臣を上回る圧倒的な統治能力を持つ存在がいたからそれが回避された 本来惣無事令で騒動特に土地に関しては公儀のみが裁定する。それで西軍は蜂須賀家政を改易した。これが秀頼、ないし豊臣の意思でなかったならこれは越権行為どころの話じゃない。即座に毛利・三奉行らの討伐を行わないといかん。
でも豊臣はそうした動きを全く見せていない訳で豊臣が西軍でなかったと言うのはかなり難しい。
尤も既に豊臣家が組織として終わってたという解釈も出来る。既に豊臣は戦国大名としては終わっていてただ強い者に従うだけだったんだと。だとすると秀頼は幼少期、何も出来ない時に天下人ではなくなっていたのだ… 上杉も三成も秀頼が成長するまでじっと我慢だよ
関ヶ原はなく
大阪の陣で家康を討ち取る 石田の思惑、石田の勝算
とかについて書けないのか?
関ヶ原スレじゃねーぞ >>646
関ヶ原の頃だって秀頼が6,7才なら幼少期、何も出来ない時といって差し支え無いと思うが、
豊臣が大名、政権として終わったのがその時であっても、それ以前であってもそれは同じ 勝算については有識者がいろいろ議論してたけど無さそう
今は勝算がない戦いに挑んだ責任転嫁で話題が逸れてるフェーズ >>640
まず西軍首脳部は軍議で軍団を伊勢・四国・九州に振ることを決定してる。これは石田三成が提案した勢力を東、つまり美濃に集中して徳川と決戦する戦略を却下したことを意味する。豊臣が西軍に与した事で家康はまず戦力の再選定を行うと思ったんだろう。実際家康は江戸から動かなかった事で彼らに一種の油断を産んだのかもしれない。ところが東軍に動揺無く福島正則・池田輝政ら攻撃隊が岐阜城を強襲して戦局が決まった。この状況から輝元が動かなかったのはまぁ輝元が安全圏に居たかったからなんだろうけどどの道そんなに結末は変わらなかったといえる。 他に同意も得られてないのに豊臣が西軍に与した前提で話進めようとしてて草
流石妄想野郎と言われるだけあるわ よく「西軍は何故秀頼のお墨付きを得なかったのか」と言われるけどそれは太閤恩顧衆が家康に従った事を曲解してるから。つまり「太閤恩顧衆が家康についていったのは家康が豊臣公儀だと信じたからだ」というもの。だがこれには根拠が無い。豊臣は徳川に西軍を討てといった命令を一切出してない。逆に西軍は秀頼が家康を討伐せよと言ったとして行動してる。つまり西軍=豊臣であり東軍=反豊臣とみて間違いない。秀頼が脅されていたとか妄想してる人も居るけどこれも根拠が無い。あくまで史料に忠実であるなら豊臣は西軍に与してる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています