石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ >>450
仰る通り当時の遠慮は深謀遠慮の意味で使われることが多いね
「致遠慮」については辞退するという意味で使われてるが
・「加遠慮」の用例
(天正14年)9月25日付上杉景勝宛石田三成・増田長盛連署状
「真田事、是又㝡前如被仰出候、表裏者候ニ付而、
御成敗之儀雖被仰付候、先今度之儀、被加御遠慮候事」
・「致遠慮」の用例
(天正10年)5月27日付森乱丸宛織田信忠書状
「中国表近々可被出御馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候」
白峰氏によると「遠慮深い」は国木田独歩の『二老人』(1908年)
で登場する近代になってから使われ出した用語らしいので、これは偽書説の根拠の一つになり得るかと
体の乱用か
確かに見返してみるとかなり多いな
「~のようだ」と断定できないところを見ると、
当該書状が偽書でないとすれば三成の自信の無さの表れになるのかね
「躰」は「体」の異体字だし「処と處」や「万と萬」、「珍と珎」と同様に翻刻する際は
「処」や「万」と表記する場合もあるし、またその逆もあるからこれはあまり問題ではないかな
原文に忠実に翻刻するなら「躰」で間違いないんだけど、それは翻刻する人の裁量に任されるな 所詮三成と家康、ゴミ同士の戦いだからロマンが無いんだよな
信長が天下統一してたら鎖国なんかしなかったくらいのロマンがあったらなぁ >>453
石田三成的には小早川秀秋の裏切りよりも毛利輝元の裏切りの方が遥かにダメージデカかったというね。本来壁になる筈の南宮山が動かないで東軍を素通りさせるとは思ってなかったろうし。 >>454
家康は鎖国なんてしてないし信長よりも優秀だよ 現代で例えるなら
石田三成←地位を失った財務省事務次官矢野
大谷吉継←矢野に媚びへつらう腰巾着
だからなぁ、こんな小物糞役人どもが一世一代のライバルなんだから
家康が信長秀吉よりショボく見えちゃうのは仕方がない 西軍の主は毛利輝元だしなんなら豊臣すら敵なんだよなぁ ウンコ漏らす程の死線をくぐり抜けてた猛者に立ち向かう実績ではないな 伏見城落とすのに何日掛けておるのだ!まったく!私の手際を見せてやる。よおく見ておくのだな。 伏見城攻めてるのは毛利や宇喜多、三奉行で三成はまず伏見を攻めてることを知っていたのかから怪しいっていう 秀吉なんておっ死んだ時点で過去の人やぞ。
尤も伏見を攻撃した事で毛利に豊臣を立てるつもりが無かった事が露見したのも事実。伏見を焼いてどうやって朝廷と協議する気だったのか。 毛利輝元が降伏した時点で西軍に勝ち目が無いんだから仕方ない。輝元が大坂で死んでも良いと腹括ってたら話は別だったけど。 キエフのちんぽ事件見てからおもうよな。
普通に覚悟決めて大阪籠城してたらな。
瀬戸内の水軍は西軍だけだし、落とせないだろ 大阪が一丸なら落ちないと思う
でも秀頼と淀の協力が怪しいなら
相当厳しい賭けだね
んでやらんかったってことは
つまりそう言うことでは?と思う 大阪城〜京都あたりで第二戦やるにしても、両軍の戦力はどの程度だ?
双方とも分散してた戦力を集めたり、中立や慎重派も動くだろうし、
関ケ原での東軍勝利や、西軍による秀頼の擁立で裏切りも発生するだろ
東北〜北関東、信州、九州あたりは膠着状態だろうけど 西軍が勝ったところでそれは決して豊臣家の勝利ではないのが虚しいな
結局奉行なり毛利なり上杉なりの権勢が強大になるだけで秀頼は傀儡になる未来しか見えない
まあよくて傀儡悪くすれば殺される運命だろう 輝元が降伏したのは関ヶ原の前だからつまり大坂決戦をするという事は南宮山の毛利隊も打撃を受けてる事になる。まず大垣城から佐和山城が落城してるのも確定でその残存兵力を大坂に掻き集めることになる。
後は秀頼を担ぎ上げるしか無いけど西軍は一貫して秀頼の意向として動いているのに東軍に影響を与えられなかった。て事は恐らく余り効果は無いだろうから…凄いことにはなると思う。大坂は灰燼に帰したんじゃないかな。 立花さんは早々に徳川に降伏してるから物の役に立たない説がなぁ… >>472
毛利や上杉に秀頼傀儡にして操るような政治テクニックあるのか?
傀儡って結構難しいんだぞ
上杉憲政を殺すような景勝、足利義昭を持て余すような輝元にはそんなの無理だと思う 秀頼を傀儡にってならもう成功してるし問題無かったんじゃないかな。西軍は「秀頼が蜂須賀が家康と親しいのはけしからぬといった」として毛利軍が蜂須賀領を占拠したり秀頼馬廻衆を南宮山に置いたりしてる。これを傀儡と言わずしてなんと言おう。しかもこの戦に勝つということは徳川の戦力はかなり減衰してるハズで尚の事豊臣が口出す余地は無い。何なら秀頼なんて大坂城で病死させても良いくらいよ。 >>471
元々大垣城は東軍勢力に囲まれていて絶体絶命、既に西軍は浮き足立っていたらしい。この状況で西軍が負けたとなると… 東軍がほぼ離脱者が出ずに西上してきた時点で西軍の戦略は崩壊してる そもそも西軍に戦慣れした奴がいないのが問題
唯一いた島津義弘は無視されるし、これで勝てるわけない 猛将扱いされてる島左近だって
家康から見たらシロウト童貞みたいな奴だからな そりゃ実戦経験なら毛利だって豊富だし。それがまさか全く通用しないとは思わんでしょう。
島津にしろ鍋島にしろ立花にしろ国力や動員数で毛利の遥か下だから発言権が無い事はそこまでおかしくはない。 毛利が覇権握ったら、秀包を小早川の後継者に
復帰させるつもりだったのかねえ 島津が提案した夜襲ってのも圧倒的な戦力差考えるとなぁ 島津による夜襲の提案は『落穂集』(1727年成立)が出典 政治的に支持者獲得で負けてんのだから
それひっくり返すのに戦慣れやら実戦経験やらが
頼りというのは特攻精神と変わらん
それに当時で言ったら徳川の兵たちは
天正19年(1592)の東北再仕置以来戦場から遠ざかり
しかもその前年の関東入府で大量の新規雇用が
あったのだから実戦経験などろくにない >>479
大坂に籠城したら離脱者出るんでは?
彼らは名目上未だ秀頼の家来なんだぞ。
大坂攻めに成ったら士気はどん底に落ちると思いますよ
更に家康の性格だと、自分の子飼い温存して攻めさせようとするでしょうし 東軍は既に豊臣が西軍に与してる事を知ってる。それでも彼らは徳川を選んでるワケで大坂城だって「秀頼さまを助ける」為に攻めていたと思う。その過程で秀頼が死んでも輝元のせいになるし。 大体、自分の命惜しさで命令出すような奴を主人に仰ぐか?って問題がね。秀頼が大坂城に立て篭って徳川に救援要請してたらまだ主人として認められたかもしれない。 秀頼からの命令って出てたんかね?
関ヶ原前後の西軍への秀頼なり淀の文書って
確認されてたっけ?
そりゃ同じ城に兵を詰められて
命令出さなきゃ殺すとまでなりゃ
出さざる得ないだろうけど
そこまでやったのかな? 現状確認されてるのは、奉行集が秀頼の名前で命令書を出していることだけ。
これをもって秀頼が西軍についた、と解釈している先生もいるけど、
奉行が勝手に名前を使ったって解釈もできる。
豊臣は秀頼の名前が使用されることはおろか豊臣配下武将の土地収奪や秀頼馬廻衆の派遣などを許してる。これらが豊臣の意志でなかったならば討伐ものだがそうした命令は現在確認されてない。ということは豊臣は西軍に与していた事になり少なくとも東軍はそう見ていたことは間違いない。 少なくとも清正は秀頼が幼いことをいいことにという認識だな
東軍全体が共有してた認識かは不明だが、豊臣は西軍側だと東軍が認識していたとは断定できない
(慶長5年)9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」 小学校あがるかどうかの幼児だからな
そもそもまともに命令できるとみなされてるなら
遺言もその後の権力争いも無意味だ
>>494
流石にその理屈はどうなんだ
脅して従わせれば全ては望み通りとはならんやろ やっぱ幼君の場合誰からも認められる直系の成人した親族がいないと駄目だな
主家としての意思表示ができないからその時近くにいる実力者の意のまま追認するしかなくなり
簡単に傀儡化してしまう、つまり政争が起きやすくなる
恐らく秀吉はその親族の役割を家康と徳川家に期待したんだろうけど他の大老や奉行には全く認められなかった >>496
冷徹な話だが豊臣が否定してない以上、西軍の動きは豊臣の認可があったものと見なすしかない。
そもそも西軍の動きを拒否するのは簡単で本丸にでも篭って輝元と三奉行の動きは謀反だと叫べばいい。西軍が正当性に秀頼ら豊臣公儀を使おうとしてるのは火を見るより明らかでということは西軍は秀頼に害を加えられない。もし豊臣を武力攻撃すれば西軍の正当性は完全に消失し家康に鎧袖一触に滅ぼされる。つまり豊臣が「許さない」と言えばそれで全てが終わってたのよ。 >>500
冷徹とか、どう見做すかとかの話じゃなくて
俺がしてるのは実際どうなのかな話だよ
あなたの言ってる「簡単」な方法は
同じ城の大兵力を敵に回し襲撃される危険と
背中合わせで全然簡単ではないよ
逆に本当に積極的に支持してるなら
もっと簡単に出陣せずとも文書で命令出すなり
西軍支持を表明すればよい
でもそういう証拠を残すことはしなかった
大阪の周りどころか大阪城内まで西軍の兵がいて
大義名分を求めてたにも関わらずね イヤミな比較になるが室町幕府の3代義満、江戸幕府の4代家綱7代家継も幼君だったが
周りを固める運命共同体たる一門譜代の質量ともに秀頼とはまさしく雲泥の差天地の違い
あれくらい充実していないと幼君で政権維持は不可能というのが歴史的な定理
秀吉が秀頼に遺したものは政権などではなく傀儡となって飼い殺しされるか殺されるかのどちらかしかない運命だけ
その意味では実に哀れだが逆に言えばやはり秀頼は産まれてくるべきではなかった >>497
だったら何故秀次を殺した、という話になるな
こういう事言うとすぐ秀次と秀頼で跡目争いが、とか言い出す奴がいるが
そもそも譜代のいない豊臣で身内以外に幼君を誰に託せばいいというのだろう
信用信頼できる部下?そいつはいったいどこのどなたですか?って本気で聞きたいわ
ここで三成とか言い出したら腹抱えて笑うけどさ
秀家?お前はまず豊臣だの天下だの語る前に宇喜多家の内情どうにかしろよって話だな ていうか直系の成人が誰からも認められてるなら
幼児ではなくそちらが後継ぐわな 直系の成人というのは徳川家のようにもともと赤の他人なのに押しかけ一門化したのではなく
秀長とかそれこそ秀次のように秀吉と直接血縁がある縁者という意味で傍系としたほうがよかったかも
秀吉のエゴ的にも最もよかったのは鶴松が夭折しないことで
秀次が一門の代表として鶴松成人まで後見するという体制だったろう
ただその場合でも鶴松成人まで関白をどうするのかという問題はあるんだが
それは関白という職を政権トップに選択した豊臣政権の構造的欠陥でまた別の話 >>501
西軍というか毛利は「家康に味方するとはけしからぬと秀頼が言った」として蜂須賀領を収奪してる。これこそ積極的な参加に他ならない。土地の保証・配分は武士にとって正に一所懸命の価値があるからね。
仰る通り豊臣はビビって両建てして身の安全を確保したかったんだろうがその真の意味を理解してなかったんじゃなかろうか。この後豊臣は諸将の支持を失っていくわけだがそれは関ヶ原のこの動きに理由があるとしても不思議じゃない。 直系というのは家系図上で一直線で表せる
親子関係でのつながりのこと
なので秀吉にとって秀長は直系ではない
>>506
その命令を豊臣家が文書化してるか?
それがあればこの上ない正当性を主張できるが
そのお墨付きがないと単に西軍が秀頼の命令だと
称してるのと変わらない
そのレベルのコミットメントなんよ なんで大名が公儀に従うかっていうと土地を保証してくれるからだぞ?逆に言えば保証してくれないなら従う事はない。
秀頼が蜂須賀を改易にしたことは書状で残ってる。これは実際に実行された。豊臣が西軍に与して無いならそれこそ書状に残してこれを否定しないといけない。ところがその形跡はなく蜂須賀領を回復させたのは徳川家康ときてるからなぁ >>508
だからそれは秀頼自身の発給文書でもなんでもない
そもそも秀頼が知ってたかどうかも定かでない
秀頼の命令を西軍が騙っただけかもしれんし
秀頼や淀も承知で加担していたけど
具体的なお墨付きは与えなかったのかもしれない
実情はそれでわからないのだから
だら豊臣が西軍に加担してた、とはいえない 豊臣家の人間がかかわったのって身内のいる大津城の開城以外にあったっけ
東軍も西軍も関が原前に領地を失ってる者がいるけど
彼らに対して豊臣家がなにか保証してやったという話はあるの?
そういうのがないなら西軍が秀頼の意向と称しているだけに過ぎないと思うが 蜂須賀領が収奪された時点で「秀頼は西軍についた」のが確定したのよ。輝元が大坂城に入って一緒に豊国社に参拝した程度ならまた豊臣が西軍についたとは言えなかった。でも土地の収奪はそうした範囲を遥かに越えてる。改易は公儀の権能なんだから。
「秀頼の名を騙った」なら即座に毛利・三奉行討伐命令を発付しないとならない。ところが豊臣はその様な動きを全く行ってない。そもそも、大坂城に籠城すれば西軍は攻撃できないのに戦ってすらいないどころか秀頼馬廻衆は西軍についてる。これで「豊臣は西軍では無かった」というのは相当難しい。上方では豊臣vs徳川と捉えられていたらしいが当然なんじゃなかろうか。 豊臣家が東軍と西軍にしたことって
対東軍→特に無し
対西軍→北政所が西軍首脳部と豊国社参拝(秀頼も同時期に参拝している)・西軍に秀頼馬廻衆を与える・西軍に四国九州での土地収奪権を付与・徳川に情報工作を行い石田三成、大谷吉継による小規模騒動と誤解させる・大坂城物資の供与
こう見てみるとあからさまに西軍なのよね豊臣は。ていうか徳川を排除する為に毛利輝元を呼び寄せたと見ても良いかも。少なくとも東軍はそう見たろう。 >>511
確定したと言うのは誰にとっての話だ?
あなたはそう解釈してるし
そう解釈してる同時代人もいたろう
でもそのことと実際にどうだったかは別の話 表向きは西軍側に見えるってだけで、秀頼発給文書でも出てこない限り実情は不明としか言えんと思うがな
義演准后日記七月十九日条によると大坂城には6万の毛利兵が居た
数の誇張はあるかもしれんがそれでも相当数の毛利兵が居た状況下で、
秀頼やその周囲の側近に毛利や三奉行に追討令を出すだけの胆力はないだろ
(慶長5年)9月22日付前田利長宛徳川家康書状
「大坂も一両日中相澄可申候、即乗懸雖可責崩候、秀頼様御座所ニ而候間、致遠慮候」
仮に家康が完全に豊臣を西軍と見做してたんならこんな遠慮なんかしなくてよかったのにな 胆力云々の問題では無く公儀としての資質の問題だからな。
まず毛利軍が居たから怖くて言う事聞いてたってのは論外。そんなの豊臣に公儀たる資格は無いって言ってるに等しい。大坂城に籠れば西軍は攻撃出来ない。攻撃したら西軍の「秀頼のため」という正当性は失われるから。徳川に助けを求めずあまつさえ西軍の行動に助力してる以上豊臣は西軍に属してた。東軍だってこれは分かってた。だから誰もが秀頼では無く家康を主人と仰いだのさ。 >>515
東軍も分かってたって史料はないよね
あくまであんた個人の解釈であり主観でしょ
個人的には東軍全体でも清正のように幼君を出しに使いやがってと、
秀頼は利用されてると感じてた人が多かった可能性の方が高いと思うがね
あんたの言う大坂城に籠もればいいってのも現実問題として輝元と毛利兵がいる状況で簡単にできる事ではない
結局実情は不明としか言いようがないし断定は難しい >>514
というか発給文書で秀頼の
西軍方の動きが確認できても
大阪城占拠されてる訳で
脅迫されてる可能性は捨てきれない
>>515
論外とかではなく普通にその可能性はあるだろ
信頼してた奉行と大兵力持つ毛利が脅してきたら
実際のところ女子どもが抵抗できるかと言う話
それでも跳ね除けて従わせる超人的な資質が
秀頼の天下には必要でそれがなかった
というのならまさにその通りと思うけど
そうあるべきなのにしてないから
協力してたんだとか断定されても・・・ 実際のところ大軍で主君の城を占拠する
ってのはそう言うことだと思う
主君からしたらクーデターみたいなもので
自分の意思を通すどころか迂闊に表明もできない
支持を表明しても額面通り受け取れるか疑問符付くし
むしろその状態で具体的な支持表明してないなら
圧力に屈してなかったとさえ取れてしまう
もちろんそれは会津征伐前の家康についても同様だが
秀頼も淀も自分の意思を表明することも
ままならない状況だった可能性は普通にありえる 9月の時点で西軍に勝機はほとんどない
どうせなら破れかぶれで夜襲するとか、刺客送って家康殺るとかしたら良かったのに
家康さえいなくなれば挽回も可能だったろうに じゃあ伏見に抑えの兵をおいて
清州から東海道を江戸まで一気に攻めるって積極策はどうよ >>520
以前あった関ヶ原スレでの記録を見る限り、東軍の前田が南下して終了だな
近江が東軍に染まった時点で西軍崩壊だろ >>514
それはものの言い様じゃろ。例えば何故家康は秀頼に遠慮しないといけないのか?豊臣が単純に東軍に属しているなら家康は遠慮する必要なんて無い。八月八日より行われていた毛利との和睦交渉は関ヶ原で合意に達してる。後は毛利軍が大坂から退去するのみ。徳川軍は解放軍として大坂に入るだけではないか?何故遠慮するかといえば秀頼が西軍と誰もが思っていたからだろう。つまり毛利ごと秀頼を粉砕してしまえという風潮が徳川、下手すると東軍全体に存在し家康は苦慮していたのかもしれない。結局のところ豊臣が東軍に属していた証拠にはならないのだ。 >>516
大坂城に籠るなんて簡単に出来る。三奉行や毛利は秀頼を攻撃出来ない。攻撃して秀頼らを殺害すれば西軍の正当性は潰えるんだ。また徳川に「毛利と三奉行が謀反している。伏見城も攻撃された」と伝える事だって出来たろう。何故やらなかったのか?「怖かった」なんてのは戦国時代だと大罪に等しい。少なくとも天下人たる資格は無いな。豊臣が徳川を信じていたなら本丸に親衛隊を集めて立て籠り全ての手段を使って太閤恩顧衆に討伐命令を出す。それをしなかったので豊臣は西軍に属してると見做された。だから家康は公儀を主張してないし東軍は家康の指示で動いてるだろう? 西軍が公儀名乗ってんのに東軍が名乗ってないのが物語ってる気がする >>523
単純に、どちらかに属していると
言える状態じゃないんだって
公式に文書も出してなきゃ自身も動いてない
西軍は秀頼の命令を喧伝してるけど
それはクーデターなら当たり前のこと
>>524
奉行も西軍周りも西軍に取り囲まれて
どうやって関東の家康に連絡すんの?
毛利や西軍が暴挙に出ないというのも
希望的な観測でしかないしな
奉行「我々の正当性を根底から覆す書状を
内府にお出しになる。宜しいお通りください」
なんてことが起きると思うの?
恐怖という個人の感覚の問題だけではなく
その状態で軽々に行動することは
豊臣の権威や政権の命脈を断ちかねない 秀頼の命令で西軍によって改易が行われてる以上西軍じゃないって言うのは不可能だろう。脅されて仕方なくなんて言い訳が許される立場じゃ無い。毛利が大坂城に入った時点で豊臣は死んだんだ。 そもそもこの時期秀頼の名で出てる書状って何あったっけ >>523
「致遠慮候」を現代人の感覚でいう秀頼への「遠慮」と捉えている時点で基礎知識もないし、古文書読みのセンスもない
間違った解釈の上に憶測に憶測を重ねれば壮大なゴミができあがる 関ヶ原以前で秀頼名義の書状って確かにあんまり思いつかん。 というか輝元が大坂城に籠城しようと言い出しても広家に秀元とか福原をはじめとした宿老達が付き合うとは思えんのよな ああすまん秀元が徹底抗戦主張してたとされてたのか
だとしたら関ヶ原での対応は何だったのだろう? 秀元が後世「俺はヤル気だったけど広家が止めた」って自己弁護しただけ。広家も言ってたらしいが南宮山では既に秀元含めた毛利軍は誓紙人質出して降伏を決定してる。輝元含めた毛利軍は降伏した以上戦闘は出来ないから動かなかった(この事実を知らない、若しくは知らされなかった者達は南宮山で徳川軍と小競り合いを起こしてる) >>529
その秀頼の命令って西軍が言ってるだけやん
脅されて云々は単にその可能性あるってだけで
西軍が捏造した可能性だって普通にある
その可能性を排除するには正式にでも私的にでも
秀頼自身の文書を出させるしかないのだが
西軍はそれを引き出すことはできてない ちょっと謎なんだけどこの時期秀頼って自分の意思で書状出せてるのかな?「西軍に対する秀頼の書状が無い」って事は逆言すればそれまで秀頼は領地宛外や事件解決において書状を出していた筈だけど…尤も、東軍にも秀頼の書状は無かったんだが。秀頼が自分の意思で書状を書けるならどうして西軍の横暴を徳川に訴えなかったのか。秀頼は輝元が降伏してからもそうした書状は書いてなかった気がする。逆に秀頼が書状を書けなかった場合「秀頼さまの意思」と言えばそれがそのまま公儀の意思だったことになる。 秀頼を抑えてる以上表向きは西軍が公儀を名乗ることは別に否定してないよ
ただその内実は分からんよねってことなんだが妄想くんは断定しないと気が済まないんだな
7月27日付秋田実季宛榊原康政書状で三成・大谷の別心により淀殿と三奉行が家康へ上洛要請をする
同月29日付黒田長政宛家康書状では三奉行も騒動に加担していた情報を掴み長政にその旨を知らせている
情報が錯綜する中、家康としては秀頼・淀殿の真意が掴めない以上文書の上では
「公儀」や「秀頼様御為」等の文言を安易に使用せず差し控えてたって見方もできると思うがな 内実とかイタコで秀頼の霊でも呼び出さないと判らないものを長々論じても仕方ない。秀頼は西軍と行動を共にして東軍と敵対している。であるからして豊臣は西軍だよねって話。実は心の内側では違ったんだとか想像逞しくしても東軍には何の影響も無いわ。しかも秀頼若しくは豊臣関係者が徳川に救援要請した史料も無いのに幼児の心情を語られてもなぁ。 一個思い付いたのは三成襲撃事件を家康が裁定した時に輝元と取り交わした起請文。この中に「天下の儀について秀頼さまから粗略には思わないと仰せ頂いて重畳」とある(ただし家康が送った起請文には「秀頼がいうのはもっとも」とあり恐縮してない)しかし秀頼が真に事態を解明した訳じゃ無い。この一件は家康・輝元・北政所による会議で解決されてる。おそらくこの時期は「秀頼さまが仰った」と言えばそれが秀頼の意思と同視されてたんだろう。つまり西軍の「秀頼さまが仰った」事は全て秀頼の意思と見てなんら問題無い。少なくとも諸将にはそれで通ってたことになる。
この効力を否定するには秀頼が否定するしかない。ところが豊臣は日和って若しくは内心に反徳川の思考が有ったが故に機を逸した。それが太閤恩顧衆の離反を招いたのは間違い無い。 幼児といえる秀頼が緊急事態を自分で判断して政治的な指示を出すのは不可能というのは誰が見ても明らか
当時の政治は秀吉の遺言もあって家康が担ってきたわけで
秀頼の側近たちは秀頼の命を守ることを優先させるだろうから戦火を交えることはさけるはず
その状況で上方で大阪城に乗り込んできた西軍が勝手をしても止められる勢力は無い
そしてそれは秀頼の天下人としての権威喪失とイコール >>537
秀頼自身の発給文書がこの当時ないよ
なのに西軍は急に「秀頼の命令」を持ち出した
何の文書的裏付けもなしに >>539
実際に協力したかわからないのだから
協力したかはわからないが正解
何故協力したと言い切れるのよ
あなたこそ降霊術でも使ってるのか? >>540
嘘はいかんよ
闕字や平出こそないが「様」は付いてる
あと「秀頼が言うのはもっとも」って何?「秀頼様に対して疎略なきことは尤もだ」だけど
(慶長4年)閏3月21日付毛利輝元宛徳川家康起請文
「今度天下之儀、各申分在之處、被對秀頼様、無御疎略之通尤候」 >>538
つまりお前さんはあの殺人者は心の中で泣いていたのだという。その心は大変美しい。だが私が言っているのは心の中で何してようが殺人に及んだなら最早意味は成さないということだ。
そもそも秀頼が脅されていた可能性からして怪しい。それは西軍の主張、内府違いの条々を読めば分かる。西軍は明確に「秀頼の為に」徳川と戦うのだと宣言してる。つまり西軍は絶対に秀頼、豊臣には手を出せない。豊臣が西軍の行動を不服としたなら「太閤の遺言に逆らうなら我らは大坂城を枕に討死にする」と叫べば良い。そうなったら西軍に出来るのは下手に出て説得するくらい。大坂城が燃えれば西軍の寿命も尽きる。つまり豊臣が西軍に同調していた可能性はかなり高い。残る可能性は豊臣が西軍の行動に全く関心が無かったというものだがだとすると怠惰というより無能ではないか。太閤遺言を反故にされ、土地は勝手に収奪され、馬廻衆すら使役され、大坂城の物資は使われている。これを見過ごす程豊臣は政治に無関心だったのだろうか? ここでいう豊臣家って具体的に誰のこと言ってるの?
秀頼は幼いし三奉行のことか? >>506
徳川政権では武家諸法度の何条に違反したと法治主義を前面に出して進めるけど
豊臣政権というのは法も何もない人治主義政権なので
「〜がけしからんと言った」というのがまるで法律のように前面に押し出される
こんな無茶苦茶な人治主義政権には東軍大名はもちろん西軍大名の大半もついていけないのは当然だろう
豊臣には元から法治という概念自体が存在していなかった >>545
それは西軍の主張を鵜呑みにしすぎだね
脅して命令を引き出してるかもしれないし
(というか同じ城に兵を入れてる時点で
脅してるのと同じ効果ぎある)
そもそも命令なんてないのに捏造してるかもしれない
手出しできないというのも希望的観測でしかなく
拒否されたら暴発する危険はある
その仮定の上でそれでも屈しない英雄的存在であれば
豊臣の威信は守られた(はず)というなら
それは一面正しい
でもそれをもって秀頼は西軍支持してるとは言えないよ >>548
その辺の法治主義の破綻は重要な指摘と思う
ただ「元々」というのはちょっと考える必要がある
政権発足からながらく秀吉という一個の
巨大権力者による支配が続いてたのは確か
でも秀次事件以降は御掟や秀吉の遺言を
基にした政治を行うという「建前」はあった
特に奉行らは序列、実力ともに二位の権力者である
家康への権力集中を阻止するために
御掟や遺言違反だと牽制してきた
つまり本質は権力争いであっても建前は法治
ところが西軍挙兵以降は「秀頼がけしからんと言った」
という非常に雑な人治主義で大名を攻めてる
「建前」は以前とコロッと変えられてしまった
そりゃ付いてけない人増えるよね
ってのは確かにあなたの言う通り ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています