石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 輝元とすりゃ四国と九州を支配下に置けりゃそれで良かったんだろ 輝元って確か所領に関する秀吉の裁定を反故にしてるから豊臣に忠誠心があったとは思えない
三成は自前の勢力なく豊臣の看板なきゃやれないから豊臣を立てようとするだろうが
もともと独立勢力の毛利も上杉も島津でもしかたなく豊臣に臣従してたんで忠誠心などあるはずがない
せいぜい自家の利益に繋がるなら豊臣家を利用しようとする程度で以前のように切り取り勝手の好き放題したいはず
西軍が勝っても三成(豊臣家)の権益と毛利らの権益が衝突して戦国に戻り豊臣が滅ぶ確率のほうが高い
当たり前だけどどこの大名も名家でもなく何の実力もなくなった豊臣なんぞより自家の利益最優先なんで
西軍が勝ってたら豊臣政権安泰なんて考えるのは全くのお花畑妄想でしかない 毛利輝元って毛利家が本来有してた瀬戸内海の権益を秀吉に取られていて秀吉をというか豊臣を恨んでいた可能性はかなら高い。三奉行決起の後輝元は素早く四国・九州を掌中に収めようとしてるけどこれもかつての毛利家の権益を確保しようとしていたのかもしれん。
だとすると恨みは深い訳で前々から豊臣政権崩壊のネタを仕込んで回ってた可能性も高いんじゃなかろうか。 結局の所、根本的に器が地方大大名程度だったとしか思えない、輝元は
勿論天下取れたらいいな程度の思いはあっただろうけど、逆に言えばその程度
ただ、だからこそ奉行が輝元に接近したってのはありそうだがね
輝元が大局観を持つという事は、要は天下というものを強く意識するのと同義だから
必然的に家康と思考回路が近くなる、というよりならざるを得ない
そしてそうなる事が三成をはじめとする奉行たちにとって本当に喜ぶべき事なのか、
というのは関ヶ原を考える上では必要だとは思う 政争で負けて追い詰められて決起しただけの集団が
家康倒した後の政権運営なんか考えても仕方ない
元が反家康だけが共通項の同床異夢状態なんだから つーか奉行にとっちゃデリヘルのチェンジよろしく
好き勝手許してくれない嫌な上司を
チェンジしたかった訳でしょ
いくらなんでも三成なり三奉行の誰かが
秀吉や家康に取って代わるって
そこまでは思い切って(思い上がって)ない
総大将引き受けた以上輝元もその気だろう >>421
秀吉で勝てなかった家康に、輝元で勝てるとか
どういう神経してるんだ奉行は。豊臣家をさらに
追い詰めて窮地に追いやるだけじゃねーか 有名な「秀頼の為でなくても」の起請文(慶長三年八月二十八日起請文)だけど起請文で他にあんな風に添削されてるものってあるのかな? >>425
奉行視点だと『絶対的存在である豊臣政権から徳川を排除し、これを討伐する』だもの
要は豊臣対徳川だから敗北することはあり得ないんだよ
そもそも関ヶ原前の時点では豊臣の権威はまだ絶対的なものだ、家康だってこれは否定できん
だから奉行は大坂城を抑えることで(本丸制圧は出来なかったが)諸大名に
『豊臣に従うか?逆らうか?』って形に持ち込もうとしたんだよ
実際は奉行のやり方に反感を持った諸侯が『本当に豊臣恩為を名乗れるのはどちらか?』
という形、つまり豊臣の看板争奪戦という形にしたことで失敗に終わったが >>426
そんな文言、8月28日の案文にはないと思うんだが
疑問の向きは「見せ消ち」で検索するのをお勧めします 「もしこの度(秀吉が)決められた五大老の内、秀頼様へ逆心を企てるということでなくとも、
増田・石田・徳善院・長束と心を異にする輩があれば、私(輝元)はこの四人の衆と相談して秀頼様へ御奉公する」
「秀頼の為でなくても」ではなく「秀頼へ謀叛を企むわけじゃなくても」だな 起請文で添削とかあんま聞かないってかそれは起請文と呼んでいいのか >>430
起請文には三種の形態がある
まず誓約する内容を記した前書(まえがき)
次いで神罰を受けると神仏の名前を列挙し、署名や花押、判を捺す起請文本文
それから誓約をあとから再確認する請状
この文書は、実質的に内容を規定する前書で、しかも案文(草稿、下書き)だからなんの不思議もない
細かい文言の調整からいろいろ読み解くことができるのでは、って価値はあれども 仮にこの添削が三成によるものだとしたら、実は輝元が奉行派の発起人だったことになるのか >>432
どういう意味で言ってるのか解釈に苦しむが
下記で検索すると研究者の見解を読めるぞ
それが学界の定説なのかどうかは把握してませんので悪しからず
考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について もう西軍が勝てるのって運しかなくない?
もし家康が清州か小山で病気で急死したらとか >>431
言いたい事はわかるし理論的には納得できるんだけど、
見せ消ちされてる起請文って他に何があるんだい? >>436
そうかな?逆に家康が輝元を甘く見てた部分もあったんじゃないかな
まさかここまでの事はしないだろうと
少なくとも大坂を抑えた(ように見えただけで実際は違うが)時点では、
西軍は政治的に徳川を政権から排除しうる可能性自体は一応あったわけだから
家康視点ではしてやられた!という状況ではあっただろう
実際家康が上杉征伐に向かったタイミングは毛利は完全フリーだったとは言えるしね
とはいえあの時点の家康に対毛利の対策なんか取りようがなかっただろうが 三成が輝元を奉行派に引き込んだように見られがちだが
もしかしたら本当は輝元が三成らを操って奉行派を作ったのかもしれない。家康・利家体制を破壊する利益は実は輝元に多くある。三成ら奉行衆には自分達の政治的地位が上がるくらいしか無いけど輝元には遺領問題や毛利の既得権益を取り戻すというかなり具体的な利益がある。輝元は単純に担がれていた訳じゃ無いのではないか。 ・淀殿をなんとか説得して秀頼を出陣させる
・小早川を寝返らせない
三成が勝つには他に何をすればよかったんやろ? 三成の場合関ヶ原で勝ったらそれでハッピーエンドじゃないからなあ
その後の方が茨の道修羅の道かも知れない >>429
秀頼への逆心がなくても4奉行と意見が違うなら討つ
というのはほぼ奉行による寡頭制だな
輝元と奉行の間に交わされた文書で
豊臣政権としてのものではないとは言え
奉行はそれを狙ってたようにみえる
いくら家康への警戒からのものだと言っても
ここまで行ったらもう
御掟の禁じた徒党でないと言うのも苦しい 関ヶ原自体が予想外の展開だから防ぎようもない無理ゲー。
裏切った小早川を討伐する為に松尾山攻撃に行ったら東軍が何の妨害も受けず関ヶ原に突入とか奇襲もいいとこ。 もし三成が関ヶ原で勝ってたら、自分に大加増したのだろうか? それについては昔、学研()がシミュレーションしていた。三成は近江一国78万石、上杉は越後回復で175万石、毛利は豊前一国加増、大谷は越前一国、秀信は約束通り美濃尾張、秀秋は筑前にくわえ、播磨一国加増、、宇喜多はなぜか関八州250万石。 白峰氏は増田長盛宛書状を偽書とする理由に文調が三成らしくないって主張していたけど
当時の三成って前々から指摘していた危険性が顕在化していてその上毛利の動きがおかしいときてるから弱気になってもおかしくない 9月12日付三成書状は心情的な表現の問題もあるが「遠慮深く候」の用例が気になる
「加遠慮」とか「致遠慮」は当時よく使われる表現だが、遠慮深いは見たことない
白峰氏は他にも「はいくん」をわざわざ平仮名で表記せず漢字で「敗軍」と
書いたはずと、疑義を呈し偽書である根拠の一つとして挙げてる
しかし天正9年7月29日付家族宛吉川経家書状に「はいくん」が使われている
子供宛の書状だからという見方もできるがこちらは根拠としては少し弱いか >>449
「遠慮」については現代的な意味より、深い思慮というような使われ方が多いという感想
「加遠慮」「致遠慮」は後者の用例で多いのではないか
あと気になるのは「体」の乱用が過ぎること
「躰」の方が用例が多いんじゃないかとも思うし
しかし、大日本史料は関ヶ原軍記集成による本書状の東軍による奪取を肯定してるようだ
稿本段階だけど >>450
仰る通り当時の遠慮は深謀遠慮の意味で使われることが多いね
「致遠慮」については辞退するという意味で使われてるが
・「加遠慮」の用例
(天正14年)9月25日付上杉景勝宛石田三成・増田長盛連署状
「真田事、是又㝡前如被仰出候、表裏者候ニ付而、
御成敗之儀雖被仰付候、先今度之儀、被加御遠慮候事」
・「致遠慮」の用例
(天正10年)5月27日付森乱丸宛織田信忠書状
「中国表近々可被出御馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候」
白峰氏によると「遠慮深い」は国木田独歩の『二老人』(1908年)
で登場する近代になってから使われ出した用語らしいので、これは偽書説の根拠の一つになり得るかと
体の乱用か
確かに見返してみるとかなり多いな
「~のようだ」と断定できないところを見ると、
当該書状が偽書でないとすれば三成の自信の無さの表れになるのかね
「躰」は「体」の異体字だし「処と處」や「万と萬」、「珍と珎」と同様に翻刻する際は
「処」や「万」と表記する場合もあるし、またその逆もあるからこれはあまり問題ではないかな
原文に忠実に翻刻するなら「躰」で間違いないんだけど、それは翻刻する人の裁量に任されるな 所詮三成と家康、ゴミ同士の戦いだからロマンが無いんだよな
信長が天下統一してたら鎖国なんかしなかったくらいのロマンがあったらなぁ >>453
石田三成的には小早川秀秋の裏切りよりも毛利輝元の裏切りの方が遥かにダメージデカかったというね。本来壁になる筈の南宮山が動かないで東軍を素通りさせるとは思ってなかったろうし。 >>454
家康は鎖国なんてしてないし信長よりも優秀だよ 現代で例えるなら
石田三成←地位を失った財務省事務次官矢野
大谷吉継←矢野に媚びへつらう腰巾着
だからなぁ、こんな小物糞役人どもが一世一代のライバルなんだから
家康が信長秀吉よりショボく見えちゃうのは仕方がない 西軍の主は毛利輝元だしなんなら豊臣すら敵なんだよなぁ ウンコ漏らす程の死線をくぐり抜けてた猛者に立ち向かう実績ではないな 伏見城落とすのに何日掛けておるのだ!まったく!私の手際を見せてやる。よおく見ておくのだな。 伏見城攻めてるのは毛利や宇喜多、三奉行で三成はまず伏見を攻めてることを知っていたのかから怪しいっていう 秀吉なんておっ死んだ時点で過去の人やぞ。
尤も伏見を攻撃した事で毛利に豊臣を立てるつもりが無かった事が露見したのも事実。伏見を焼いてどうやって朝廷と協議する気だったのか。 毛利輝元が降伏した時点で西軍に勝ち目が無いんだから仕方ない。輝元が大坂で死んでも良いと腹括ってたら話は別だったけど。 キエフのちんぽ事件見てからおもうよな。
普通に覚悟決めて大阪籠城してたらな。
瀬戸内の水軍は西軍だけだし、落とせないだろ 大阪が一丸なら落ちないと思う
でも秀頼と淀の協力が怪しいなら
相当厳しい賭けだね
んでやらんかったってことは
つまりそう言うことでは?と思う 大阪城〜京都あたりで第二戦やるにしても、両軍の戦力はどの程度だ?
双方とも分散してた戦力を集めたり、中立や慎重派も動くだろうし、
関ケ原での東軍勝利や、西軍による秀頼の擁立で裏切りも発生するだろ
東北〜北関東、信州、九州あたりは膠着状態だろうけど 西軍が勝ったところでそれは決して豊臣家の勝利ではないのが虚しいな
結局奉行なり毛利なり上杉なりの権勢が強大になるだけで秀頼は傀儡になる未来しか見えない
まあよくて傀儡悪くすれば殺される運命だろう 輝元が降伏したのは関ヶ原の前だからつまり大坂決戦をするという事は南宮山の毛利隊も打撃を受けてる事になる。まず大垣城から佐和山城が落城してるのも確定でその残存兵力を大坂に掻き集めることになる。
後は秀頼を担ぎ上げるしか無いけど西軍は一貫して秀頼の意向として動いているのに東軍に影響を与えられなかった。て事は恐らく余り効果は無いだろうから…凄いことにはなると思う。大坂は灰燼に帰したんじゃないかな。 立花さんは早々に徳川に降伏してるから物の役に立たない説がなぁ… >>472
毛利や上杉に秀頼傀儡にして操るような政治テクニックあるのか?
傀儡って結構難しいんだぞ
上杉憲政を殺すような景勝、足利義昭を持て余すような輝元にはそんなの無理だと思う 秀頼を傀儡にってならもう成功してるし問題無かったんじゃないかな。西軍は「秀頼が蜂須賀が家康と親しいのはけしからぬといった」として毛利軍が蜂須賀領を占拠したり秀頼馬廻衆を南宮山に置いたりしてる。これを傀儡と言わずしてなんと言おう。しかもこの戦に勝つということは徳川の戦力はかなり減衰してるハズで尚の事豊臣が口出す余地は無い。何なら秀頼なんて大坂城で病死させても良いくらいよ。 >>471
元々大垣城は東軍勢力に囲まれていて絶体絶命、既に西軍は浮き足立っていたらしい。この状況で西軍が負けたとなると… 東軍がほぼ離脱者が出ずに西上してきた時点で西軍の戦略は崩壊してる そもそも西軍に戦慣れした奴がいないのが問題
唯一いた島津義弘は無視されるし、これで勝てるわけない 猛将扱いされてる島左近だって
家康から見たらシロウト童貞みたいな奴だからな そりゃ実戦経験なら毛利だって豊富だし。それがまさか全く通用しないとは思わんでしょう。
島津にしろ鍋島にしろ立花にしろ国力や動員数で毛利の遥か下だから発言権が無い事はそこまでおかしくはない。 毛利が覇権握ったら、秀包を小早川の後継者に
復帰させるつもりだったのかねえ 島津が提案した夜襲ってのも圧倒的な戦力差考えるとなぁ 島津による夜襲の提案は『落穂集』(1727年成立)が出典 政治的に支持者獲得で負けてんのだから
それひっくり返すのに戦慣れやら実戦経験やらが
頼りというのは特攻精神と変わらん
それに当時で言ったら徳川の兵たちは
天正19年(1592)の東北再仕置以来戦場から遠ざかり
しかもその前年の関東入府で大量の新規雇用が
あったのだから実戦経験などろくにない >>479
大坂に籠城したら離脱者出るんでは?
彼らは名目上未だ秀頼の家来なんだぞ。
大坂攻めに成ったら士気はどん底に落ちると思いますよ
更に家康の性格だと、自分の子飼い温存して攻めさせようとするでしょうし 東軍は既に豊臣が西軍に与してる事を知ってる。それでも彼らは徳川を選んでるワケで大坂城だって「秀頼さまを助ける」為に攻めていたと思う。その過程で秀頼が死んでも輝元のせいになるし。 大体、自分の命惜しさで命令出すような奴を主人に仰ぐか?って問題がね。秀頼が大坂城に立て篭って徳川に救援要請してたらまだ主人として認められたかもしれない。 秀頼からの命令って出てたんかね?
関ヶ原前後の西軍への秀頼なり淀の文書って
確認されてたっけ?
そりゃ同じ城に兵を詰められて
命令出さなきゃ殺すとまでなりゃ
出さざる得ないだろうけど
そこまでやったのかな? 現状確認されてるのは、奉行集が秀頼の名前で命令書を出していることだけ。
これをもって秀頼が西軍についた、と解釈している先生もいるけど、
奉行が勝手に名前を使ったって解釈もできる。
豊臣は秀頼の名前が使用されることはおろか豊臣配下武将の土地収奪や秀頼馬廻衆の派遣などを許してる。これらが豊臣の意志でなかったならば討伐ものだがそうした命令は現在確認されてない。ということは豊臣は西軍に与していた事になり少なくとも東軍はそう見ていたことは間違いない。 少なくとも清正は秀頼が幼いことをいいことにという認識だな
東軍全体が共有してた認識かは不明だが、豊臣は西軍側だと東軍が認識していたとは断定できない
(慶長5年)9月15日付中川秀成宛加藤清正起請文
「秀頼様御幼少ニ付而、大閤様御置目をそむき、内府公へ別心仕衆有之ニ付而」 小学校あがるかどうかの幼児だからな
そもそもまともに命令できるとみなされてるなら
遺言もその後の権力争いも無意味だ
>>494
流石にその理屈はどうなんだ
脅して従わせれば全ては望み通りとはならんやろ やっぱ幼君の場合誰からも認められる直系の成人した親族がいないと駄目だな
主家としての意思表示ができないからその時近くにいる実力者の意のまま追認するしかなくなり
簡単に傀儡化してしまう、つまり政争が起きやすくなる
恐らく秀吉はその親族の役割を家康と徳川家に期待したんだろうけど他の大老や奉行には全く認められなかった >>496
冷徹な話だが豊臣が否定してない以上、西軍の動きは豊臣の認可があったものと見なすしかない。
そもそも西軍の動きを拒否するのは簡単で本丸にでも篭って輝元と三奉行の動きは謀反だと叫べばいい。西軍が正当性に秀頼ら豊臣公儀を使おうとしてるのは火を見るより明らかでということは西軍は秀頼に害を加えられない。もし豊臣を武力攻撃すれば西軍の正当性は完全に消失し家康に鎧袖一触に滅ぼされる。つまり豊臣が「許さない」と言えばそれで全てが終わってたのよ。 >>500
冷徹とか、どう見做すかとかの話じゃなくて
俺がしてるのは実際どうなのかな話だよ
あなたの言ってる「簡単」な方法は
同じ城の大兵力を敵に回し襲撃される危険と
背中合わせで全然簡単ではないよ
逆に本当に積極的に支持してるなら
もっと簡単に出陣せずとも文書で命令出すなり
西軍支持を表明すればよい
でもそういう証拠を残すことはしなかった
大阪の周りどころか大阪城内まで西軍の兵がいて
大義名分を求めてたにも関わらずね イヤミな比較になるが室町幕府の3代義満、江戸幕府の4代家綱7代家継も幼君だったが
周りを固める運命共同体たる一門譜代の質量ともに秀頼とはまさしく雲泥の差天地の違い
あれくらい充実していないと幼君で政権維持は不可能というのが歴史的な定理
秀吉が秀頼に遺したものは政権などではなく傀儡となって飼い殺しされるか殺されるかのどちらかしかない運命だけ
その意味では実に哀れだが逆に言えばやはり秀頼は産まれてくるべきではなかった >>497
だったら何故秀次を殺した、という話になるな
こういう事言うとすぐ秀次と秀頼で跡目争いが、とか言い出す奴がいるが
そもそも譜代のいない豊臣で身内以外に幼君を誰に託せばいいというのだろう
信用信頼できる部下?そいつはいったいどこのどなたですか?って本気で聞きたいわ
ここで三成とか言い出したら腹抱えて笑うけどさ
秀家?お前はまず豊臣だの天下だの語る前に宇喜多家の内情どうにかしろよって話だな ていうか直系の成人が誰からも認められてるなら
幼児ではなくそちらが後継ぐわな 直系の成人というのは徳川家のようにもともと赤の他人なのに押しかけ一門化したのではなく
秀長とかそれこそ秀次のように秀吉と直接血縁がある縁者という意味で傍系としたほうがよかったかも
秀吉のエゴ的にも最もよかったのは鶴松が夭折しないことで
秀次が一門の代表として鶴松成人まで後見するという体制だったろう
ただその場合でも鶴松成人まで関白をどうするのかという問題はあるんだが
それは関白という職を政権トップに選択した豊臣政権の構造的欠陥でまた別の話 >>501
西軍というか毛利は「家康に味方するとはけしからぬと秀頼が言った」として蜂須賀領を収奪してる。これこそ積極的な参加に他ならない。土地の保証・配分は武士にとって正に一所懸命の価値があるからね。
仰る通り豊臣はビビって両建てして身の安全を確保したかったんだろうがその真の意味を理解してなかったんじゃなかろうか。この後豊臣は諸将の支持を失っていくわけだがそれは関ヶ原のこの動きに理由があるとしても不思議じゃない。 直系というのは家系図上で一直線で表せる
親子関係でのつながりのこと
なので秀吉にとって秀長は直系ではない
>>506
その命令を豊臣家が文書化してるか?
それがあればこの上ない正当性を主張できるが
そのお墨付きがないと単に西軍が秀頼の命令だと
称してるのと変わらない
そのレベルのコミットメントなんよ なんで大名が公儀に従うかっていうと土地を保証してくれるからだぞ?逆に言えば保証してくれないなら従う事はない。
秀頼が蜂須賀を改易にしたことは書状で残ってる。これは実際に実行された。豊臣が西軍に与して無いならそれこそ書状に残してこれを否定しないといけない。ところがその形跡はなく蜂須賀領を回復させたのは徳川家康ときてるからなぁ >>508
だからそれは秀頼自身の発給文書でもなんでもない
そもそも秀頼が知ってたかどうかも定かでない
秀頼の命令を西軍が騙っただけかもしれんし
秀頼や淀も承知で加担していたけど
具体的なお墨付きは与えなかったのかもしれない
実情はそれでわからないのだから
だら豊臣が西軍に加担してた、とはいえない 豊臣家の人間がかかわったのって身内のいる大津城の開城以外にあったっけ
東軍も西軍も関が原前に領地を失ってる者がいるけど
彼らに対して豊臣家がなにか保証してやったという話はあるの?
そういうのがないなら西軍が秀頼の意向と称しているだけに過ぎないと思うが 蜂須賀領が収奪された時点で「秀頼は西軍についた」のが確定したのよ。輝元が大坂城に入って一緒に豊国社に参拝した程度ならまた豊臣が西軍についたとは言えなかった。でも土地の収奪はそうした範囲を遥かに越えてる。改易は公儀の権能なんだから。
「秀頼の名を騙った」なら即座に毛利・三奉行討伐命令を発付しないとならない。ところが豊臣はその様な動きを全く行ってない。そもそも、大坂城に籠城すれば西軍は攻撃できないのに戦ってすらいないどころか秀頼馬廻衆は西軍についてる。これで「豊臣は西軍では無かった」というのは相当難しい。上方では豊臣vs徳川と捉えられていたらしいが当然なんじゃなかろうか。 豊臣家が東軍と西軍にしたことって
対東軍→特に無し
対西軍→北政所が西軍首脳部と豊国社参拝(秀頼も同時期に参拝している)・西軍に秀頼馬廻衆を与える・西軍に四国九州での土地収奪権を付与・徳川に情報工作を行い石田三成、大谷吉継による小規模騒動と誤解させる・大坂城物資の供与
こう見てみるとあからさまに西軍なのよね豊臣は。ていうか徳川を排除する為に毛利輝元を呼び寄せたと見ても良いかも。少なくとも東軍はそう見たろう。 >>511
確定したと言うのは誰にとっての話だ?
あなたはそう解釈してるし
そう解釈してる同時代人もいたろう
でもそのことと実際にどうだったかは別の話 表向きは西軍側に見えるってだけで、秀頼発給文書でも出てこない限り実情は不明としか言えんと思うがな
義演准后日記七月十九日条によると大坂城には6万の毛利兵が居た
数の誇張はあるかもしれんがそれでも相当数の毛利兵が居た状況下で、
秀頼やその周囲の側近に毛利や三奉行に追討令を出すだけの胆力はないだろ
(慶長5年)9月22日付前田利長宛徳川家康書状
「大坂も一両日中相澄可申候、即乗懸雖可責崩候、秀頼様御座所ニ而候間、致遠慮候」
仮に家康が完全に豊臣を西軍と見做してたんならこんな遠慮なんかしなくてよかったのにな 胆力云々の問題では無く公儀としての資質の問題だからな。
まず毛利軍が居たから怖くて言う事聞いてたってのは論外。そんなの豊臣に公儀たる資格は無いって言ってるに等しい。大坂城に籠れば西軍は攻撃出来ない。攻撃したら西軍の「秀頼のため」という正当性は失われるから。徳川に助けを求めずあまつさえ西軍の行動に助力してる以上豊臣は西軍に属してた。東軍だってこれは分かってた。だから誰もが秀頼では無く家康を主人と仰いだのさ。 >>515
東軍も分かってたって史料はないよね
あくまであんた個人の解釈であり主観でしょ
個人的には東軍全体でも清正のように幼君を出しに使いやがってと、
秀頼は利用されてると感じてた人が多かった可能性の方が高いと思うがね
あんたの言う大坂城に籠もればいいってのも現実問題として輝元と毛利兵がいる状況で簡単にできる事ではない
結局実情は不明としか言いようがないし断定は難しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています