石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 関ヶ原当日に、石田から再三督促したのに島津が動かなかったのは真実なのか、真実なら、墨俣合戦の時に島津軍を見棄てたことにヘソを曲げたという話は合っているのか >>362
それは白峰氏の論考だな
『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その3)』のP5に載ってるよ
その主張の根拠となる書状は8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
当該書状に「この度別心の衆は始終天下の仕置をすることができるだろうか」という記述があるらしい
白峰氏はこれを以て榊原康政は西軍が天下の仕置をしていることを認め、
家康がこの時点で公儀から排除されていたことを自ら認めていたことにもなると述べてる
個人的にはちょっと強引な主張かなと思うが、自分も原文見たことないんで何とも言えない 関ヶ原の戦いは松尾山の小早川を排除しようとした石田三成らの背後を東軍が強襲してきたもの。だから三成には島津への救援を頼む暇すらも無かったんじゃなかろうか。東軍を待ち受けていたなら暇もあるけど…三成らからすると南宮山の毛利隊が東軍進軍を静観するとは思えないから思考的には完全な奇襲が成立した。島津からしても予想外だし戦うどころじゃなかったろう。 >>365
読んだけど、じゃあ別心之衆ってなにかってならんかね?
他の文書にもあるように京都の仕置ともある
畿内、もっといえば京都と大坂の治安維持なり支配ができるのかどうかくらいの意味じゃないのかな
じゃないと誰への別心なのか意味が取れない >>358
上杉との戦端が開くのは天下の大名ほとんどの
軍が徳川の指揮下に入った後だぞ
毛利軍自体引き返さなきゃその指揮下で
上杉攻めに参加するはずだった
>>367
もっと単純に「今後仕置きができるのか?」
というのを「今仕置きしてると認めた!」
ってかなり無理あるよな >>368
九月二十七日条の言経卿記も読んでみたけど、「内府大坂へ御出也云、秀頼卿和睦也」と確かにあるにはあるが
「和睦」って表現が気になる
いまの感覚でいう和睦は当時、「調」とか「扱」(仲介のニュアンスだが)使うのが普通で、単純に親しく仲良くしたくらいの意味ではないだろうか
なんせ二ヶ月前には自分で金銭や兵糧を与えて公儀の軍事行動だと認定してる立場だし >>369
ちょっと調べてみたが、当時の和睦の用例見ても現代の意味とそう大差ない感じだな
あと当時は「御無事」もよく使われてて、こちらの方が多く使われてる
・(天正10年)2月26日付上杉景勝宛蘆名盛隆書状
「随而新發田因幡守被抛御不足、御和睦念願候」
・(天正10年)7月18日付蜂須賀正勝宛毛利輝元書状
「今度和睦之儀、秀吉申談本望候」
・(天正11年)9月9日付吉川広家宛毛利輝元書状
「今度京藝和睦之儀、以御方御上洛之旨、弥令入眼候」 >>371
なんか忘れてると思ってたら「無事」だった
しかし私が無学なだけで「和睦」の用例も多いんだね
だとすると言経の中では秀頼と家康は交戦状態だったという認識なのか 関ヶ原は関東では当初石田三成・大谷吉継の謀反(7/29に三奉行・毛利輝元の乱と判明)、上方では豊臣と徳川の戦争、九州では毛利輝元と三奉行の謀反と認識されてる。上方での認識はおそらく豊臣が西軍に加担していたからじゃなかろうか。側から見ると豊臣による攻撃だったんだろう。 豊臣家が西軍に加担していたのならその西軍に勝った家康はどういう存在になるんだろ
もはや秀吉の遺言も豊臣政権の枠組みも超えてしまったんではないか 単純に西軍のプロパガンダが秀頼の支持受けてます
って言ってたから公家はそう見てたってことでは?
豊臣が西軍加担と言うけど具体的に何を指すか?
秀頼から西軍に対して家康追討を命じたり
馬廻動員のための命令を発したり
支持表明になり得る軍資金や物品の下賜があったり
そういう事実があれば格好のプロパガンダなのに
全く記録に残っていないのではないかと
>>369
アンカミスかな? 西軍は秀頼の命令で土地の収奪を行ってる。一例だと蜂須賀家政は「秀頼が家政が徳川家康と親しかったのはけしからんと言った」として改易処分を受けてる。そして秀頼馬廻衆は西軍に配属されてたとか。関ヶ原の南宮山に居たんだと。それに石田三成は大坂の増田長盛に兵糧・資金の援助を申し出てるけど長盛が自腹切るとも思えないから大坂城の豊臣資産は西軍に使われていた可能性がある。 つまり対外的には豊臣は西軍だったワケだけどこれは秀頼や淀君の意思じゃない、これが豊臣の寿命を絶ったのかもしれない。実力で脅せば言う事を聞く、こんな連中を公儀と認める程戦国大名甘くは無いし。 奉行衆の謀反であって豊臣秀頼や淀君の指示ではない
というところがポイントよね
少なくとも家康自身が豊臣vs徳川の図式が
あからさまになるのを嫌って公的にはそうした
淀君と秀頼もそう取られてる物的証拠になる
文書は残さなかった そういうことなら家康が豊臣を上に戴くことをやめたとしても非難される謂れは無いな
本心はどうあれ敵対行為とられて豊臣政権の枠組みから放り出されたわけだから
西軍公儀説ってかえって家康が独自の政権つくる動機の根拠にしかならんのじゃないか まず豊臣家が西軍に加担する理由が無くないか?
西軍は大義名分が無いから豊臣家の名前を利用しただけだろ
なぜ秀頼サイドが徳川を排除する必要があんの? 豊臣家奉行が大名に書状を送って軍勢を大坂城にいれた。これで秀頼の意思では無いというのは難しい。もし三奉行の行いが豊臣の意思と違うなら豊臣は奉行謀反として討伐しないとならん。がそうした動きが無い。それで豊臣は徳川を敵に回したと判じられた。豊臣の意思決定機構が不完全な隙を毛利輝元に突かれた、最悪のタイミングでクーデターが起きたのかも。 安倍のほうからきたセールスマンから、消火器と布団と印鑑を購入しました。36万9000円しましたが、月賦で払っていますし、快眠できて本当に良かったです 淀が家康に謀反を通報してるからセーフ
ただその後の行動は豊臣家の存続を第一にしたと思われ天下人としての権威を地に落とすには十分だった >>381
そもそも同じ城に軍勢居座られてるんだから
討伐とかどうやっても無理だろ
主君の城を武力制圧しておいて討伐されなかったから
主君の意を受けてる証拠って・・・ そこら辺が事を複雑にしてるわな。公家から見るともし西軍が豊臣の意思に反してるなら豊臣は徹底抗戦してないとおかしい。仮に豊臣が西軍に同意しないで大坂城に籠城したら西軍には打つ手が無い。大坂城を攻めれば謀反になって諸将からの信奉は喪われる。それをしないのは豊臣が西軍を容認してるからだろう。ていうか豊臣が徳川討伐の為に毛利を呼んだと見てたんじゃないか。ただそれとは別に家臣一同に反乱されたら主君はどうすりゃいいの?って話があるわけなんだけどやっぱり命より名誉を取っとけってことに 奉行が反乱→豊臣政権のトップである家康が討伐
何も問題ない 問題は担がれた豊臣秀頼が全く動けなかったこと。豊臣家の存続の代わりに公儀の位から落とされたに等しい。つまり大坂の陣に至る遥か前に秀頼は天下人たる資格を喪っていたっていう。 >>376
百歩譲って秀吉時代ならともかく、秀頼になっても
トップがけしからんと言った(と言い張れば)大名を改易できると考えているあたり
奉行の脳味噌には蛆が沸いていたとしか思えない
三成たちは秀吉時代の強権政治が秀吉死後も続けられるという妄想に侵されていた
精神異常者たちがいかれた妄想を現実にしようとして起こしたのが関ヶ原だと言える 戦国時代ってそんなもんだし。実力があれば何しても良い。大義名分はその後ろからくるもんだもの。秀吉が作り上げた惣無事令は毛利らに否定されてぶっ壊れた。 >>388
西軍の挙兵で豊臣公儀は単なるお題目となった >>390
実力がないけど幼児の威光を振りかざせば何でもできると信じていたのは
さすがに三成たちだけだろ まあ、秀頼の威光と毛利の武力が合わされば無敵!くらいの気持ちだったんだろう 毛利に大坂城制圧されたとき戦闘はなかったんだろうか七手組は何してたんだ >>395
味方だと思ったのかな
「あ、毛利様こんにちは」みたいな これまで味方、それも重役みたいな連中が旧に敵になるってどんな感じかね 守備隊からすると組織上自分達の上司が引きこんでるから防ぐのはかなり難しかったのでは。 >>395
関ヶ原時の七手組って戦闘経験あるの?
秀吉の天下取りの時は主に配下大名が戦ってるし
代替わりも進んでて無力だったんじゃないの? >>399
青木一重とか速水守久とかそれなりに
むしろ政治センスのあるやつがいなすぎてなー ゲームじゃないから政治センスとかあんまり必要じゃない 実践経験のない軍勢なんて役に立たない
歴戦の猛者が来たら虐殺されて逃げ散るしかない
みたいな世界観が既にマンガ >>398
ちなみにおんなじことがチョイ前に伏見城でも起きてる。
伏見城を占拠して金銀がなぜか家康が使いまくったし。
それ考えると大阪城占拠より伏見城占拠の方が大きいけどスルーされがちである。
大阪の玉(秀頼)握ったほうがあとあと有利だと当時だれも思っていたけど
関ケ原でそんな忠誠心当てにならないとわかって意味が薄くかったという流れだからしょうがないけど。 関ヶ原で秀頼無意味とわかったというか
西軍の挙兵が秀頼と豊臣公儀から
意味を奪ったんよ
西軍挙兵まで皆んな秀頼立てて
遺言と政権の枠組みの中で
実権奪い合うゲームをしてた
そこを逸脱したら一斉に叩かれる恐れ
その恐れがあるから家康だって例外ではなく
秀頼の最大の家臣として
政権の法度を破るものを討つという建前で動いてた
ところが毛利も奉行も武力で
秀頼の身柄抑えりゃ勝ち
って戦いを始めてしまった
結果秀頼は武力持つ者がなんとでもできる
トロフィーに過ぎなくなってしまい
西軍もより大きな武力に潰された 輝元からすりゃ大坂城さえ押さえればいけると思ったんだろうけどそこまで甘くはなかった 多分輝元が思ってたほど、「豊臣公儀」には権威も権力も無かった。
それを秀吉なり家康なりが個人の権威でカバーしていただけ 三成さえいなければ
福島も黒田も金吾も西軍だっただろう 福島正則→秀頼から清洲を明け渡せと命令来たけど断固拒否
黒田長政→毛利輝元がクーデターの主犯と睨んでいて九州勢で連携を進めていた。大友義統がやってくると聞いて確信すると徹底抗戦する。
小早川秀秋→そもそも三成と面識無い可能性まである。伏見城攻めに少し参加した後行方をくらませて出てきた時には松尾山を占拠してた。
正直三成がどこに居ようがさほど違いは無かった可能性が高い。三成が東軍についてたら徳川はほぼフリーパスで大坂まで来れるから鎮圧が早かったかもくらい? 多分だがその理由はまず福島正則は三成と吉継の乱なら参加する理由というか勝算が無いし、輝元と豊臣の乱となっても自分が最前線になるから参加する気にならない。毛利領から遠いから援軍が間に合わないだろう。
九州勢はまたちょっと違うベクトルの話になる。九州は基本的に西軍勢力が強い。逆言すると西軍に与しても利益が出る見込みが無い。確かに毛利が出てくる可能性があるが徳川が攻める限り毛利主力は東に向かう。その間九州は切り取り放題やりたい放題。腕に自信があるなら獲れるだけ獲っちまえのボーナスタイムだったろう。 家康でさえ畿内の動静を全て把握できず、西軍首脳部は上杉討伐軍が崩壊すると思ってるお花畑
地方の連中なんて出たとこ勝負が関の山
そしてあっというまに崩壊する西軍本隊の脆弱さ 石田三成は美濃方面の拡充を要請したけど西軍は大局観に立って伊勢から西国の支配を優先したからね。そしたら百戦錬磨の東軍諸将に速攻で岐阜城落とされて大垣城は孤立させられて謂わば詰まされてた。まだそれでも輝元が滅亡覚悟で戦争すりゃ何か起きたかもしれないけど。 三成はまだわかる
幼君奉戴して家康を遠ざけて、あるいは徳川家取り潰して秀吉型政権の家老に座ろうとしてるんだろ
輝元がわかんないんだよな
挙兵したはいいけど
家康に勝てたとしてその後何がやりたかったんだろ
秀頼の忠臣として豊臣政権の柱石に座ろうとしたのか
毛利幕府みたいなものを志向したのか
さっぱり見えない 輝元とすりゃ四国と九州を支配下に置けりゃそれで良かったんだろ 輝元って確か所領に関する秀吉の裁定を反故にしてるから豊臣に忠誠心があったとは思えない
三成は自前の勢力なく豊臣の看板なきゃやれないから豊臣を立てようとするだろうが
もともと独立勢力の毛利も上杉も島津でもしかたなく豊臣に臣従してたんで忠誠心などあるはずがない
せいぜい自家の利益に繋がるなら豊臣家を利用しようとする程度で以前のように切り取り勝手の好き放題したいはず
西軍が勝っても三成(豊臣家)の権益と毛利らの権益が衝突して戦国に戻り豊臣が滅ぶ確率のほうが高い
当たり前だけどどこの大名も名家でもなく何の実力もなくなった豊臣なんぞより自家の利益最優先なんで
西軍が勝ってたら豊臣政権安泰なんて考えるのは全くのお花畑妄想でしかない 毛利輝元って毛利家が本来有してた瀬戸内海の権益を秀吉に取られていて秀吉をというか豊臣を恨んでいた可能性はかなら高い。三奉行決起の後輝元は素早く四国・九州を掌中に収めようとしてるけどこれもかつての毛利家の権益を確保しようとしていたのかもしれん。
だとすると恨みは深い訳で前々から豊臣政権崩壊のネタを仕込んで回ってた可能性も高いんじゃなかろうか。 結局の所、根本的に器が地方大大名程度だったとしか思えない、輝元は
勿論天下取れたらいいな程度の思いはあっただろうけど、逆に言えばその程度
ただ、だからこそ奉行が輝元に接近したってのはありそうだがね
輝元が大局観を持つという事は、要は天下というものを強く意識するのと同義だから
必然的に家康と思考回路が近くなる、というよりならざるを得ない
そしてそうなる事が三成をはじめとする奉行たちにとって本当に喜ぶべき事なのか、
というのは関ヶ原を考える上では必要だとは思う 政争で負けて追い詰められて決起しただけの集団が
家康倒した後の政権運営なんか考えても仕方ない
元が反家康だけが共通項の同床異夢状態なんだから つーか奉行にとっちゃデリヘルのチェンジよろしく
好き勝手許してくれない嫌な上司を
チェンジしたかった訳でしょ
いくらなんでも三成なり三奉行の誰かが
秀吉や家康に取って代わるって
そこまでは思い切って(思い上がって)ない
総大将引き受けた以上輝元もその気だろう >>421
秀吉で勝てなかった家康に、輝元で勝てるとか
どういう神経してるんだ奉行は。豊臣家をさらに
追い詰めて窮地に追いやるだけじゃねーか 有名な「秀頼の為でなくても」の起請文(慶長三年八月二十八日起請文)だけど起請文で他にあんな風に添削されてるものってあるのかな? >>425
奉行視点だと『絶対的存在である豊臣政権から徳川を排除し、これを討伐する』だもの
要は豊臣対徳川だから敗北することはあり得ないんだよ
そもそも関ヶ原前の時点では豊臣の権威はまだ絶対的なものだ、家康だってこれは否定できん
だから奉行は大坂城を抑えることで(本丸制圧は出来なかったが)諸大名に
『豊臣に従うか?逆らうか?』って形に持ち込もうとしたんだよ
実際は奉行のやり方に反感を持った諸侯が『本当に豊臣恩為を名乗れるのはどちらか?』
という形、つまり豊臣の看板争奪戦という形にしたことで失敗に終わったが >>426
そんな文言、8月28日の案文にはないと思うんだが
疑問の向きは「見せ消ち」で検索するのをお勧めします 「もしこの度(秀吉が)決められた五大老の内、秀頼様へ逆心を企てるということでなくとも、
増田・石田・徳善院・長束と心を異にする輩があれば、私(輝元)はこの四人の衆と相談して秀頼様へ御奉公する」
「秀頼の為でなくても」ではなく「秀頼へ謀叛を企むわけじゃなくても」だな 起請文で添削とかあんま聞かないってかそれは起請文と呼んでいいのか >>430
起請文には三種の形態がある
まず誓約する内容を記した前書(まえがき)
次いで神罰を受けると神仏の名前を列挙し、署名や花押、判を捺す起請文本文
それから誓約をあとから再確認する請状
この文書は、実質的に内容を規定する前書で、しかも案文(草稿、下書き)だからなんの不思議もない
細かい文言の調整からいろいろ読み解くことができるのでは、って価値はあれども 仮にこの添削が三成によるものだとしたら、実は輝元が奉行派の発起人だったことになるのか >>432
どういう意味で言ってるのか解釈に苦しむが
下記で検索すると研究者の見解を読めるぞ
それが学界の定説なのかどうかは把握してませんので悪しからず
考察・関ヶ原の合戦 其の三十六 秀吉死去前後に作成された起請文について もう西軍が勝てるのって運しかなくない?
もし家康が清州か小山で病気で急死したらとか >>431
言いたい事はわかるし理論的には納得できるんだけど、
見せ消ちされてる起請文って他に何があるんだい? >>436
そうかな?逆に家康が輝元を甘く見てた部分もあったんじゃないかな
まさかここまでの事はしないだろうと
少なくとも大坂を抑えた(ように見えただけで実際は違うが)時点では、
西軍は政治的に徳川を政権から排除しうる可能性自体は一応あったわけだから
家康視点ではしてやられた!という状況ではあっただろう
実際家康が上杉征伐に向かったタイミングは毛利は完全フリーだったとは言えるしね
とはいえあの時点の家康に対毛利の対策なんか取りようがなかっただろうが 三成が輝元を奉行派に引き込んだように見られがちだが
もしかしたら本当は輝元が三成らを操って奉行派を作ったのかもしれない。家康・利家体制を破壊する利益は実は輝元に多くある。三成ら奉行衆には自分達の政治的地位が上がるくらいしか無いけど輝元には遺領問題や毛利の既得権益を取り戻すというかなり具体的な利益がある。輝元は単純に担がれていた訳じゃ無いのではないか。 ・淀殿をなんとか説得して秀頼を出陣させる
・小早川を寝返らせない
三成が勝つには他に何をすればよかったんやろ? 三成の場合関ヶ原で勝ったらそれでハッピーエンドじゃないからなあ
その後の方が茨の道修羅の道かも知れない >>429
秀頼への逆心がなくても4奉行と意見が違うなら討つ
というのはほぼ奉行による寡頭制だな
輝元と奉行の間に交わされた文書で
豊臣政権としてのものではないとは言え
奉行はそれを狙ってたようにみえる
いくら家康への警戒からのものだと言っても
ここまで行ったらもう
御掟の禁じた徒党でないと言うのも苦しい 関ヶ原自体が予想外の展開だから防ぎようもない無理ゲー。
裏切った小早川を討伐する為に松尾山攻撃に行ったら東軍が何の妨害も受けず関ヶ原に突入とか奇襲もいいとこ。 もし三成が関ヶ原で勝ってたら、自分に大加増したのだろうか? それについては昔、学研()がシミュレーションしていた。三成は近江一国78万石、上杉は越後回復で175万石、毛利は豊前一国加増、大谷は越前一国、秀信は約束通り美濃尾張、秀秋は筑前にくわえ、播磨一国加増、、宇喜多はなぜか関八州250万石。 白峰氏は増田長盛宛書状を偽書とする理由に文調が三成らしくないって主張していたけど
当時の三成って前々から指摘していた危険性が顕在化していてその上毛利の動きがおかしいときてるから弱気になってもおかしくない 9月12日付三成書状は心情的な表現の問題もあるが「遠慮深く候」の用例が気になる
「加遠慮」とか「致遠慮」は当時よく使われる表現だが、遠慮深いは見たことない
白峰氏は他にも「はいくん」をわざわざ平仮名で表記せず漢字で「敗軍」と
書いたはずと、疑義を呈し偽書である根拠の一つとして挙げてる
しかし天正9年7月29日付家族宛吉川経家書状に「はいくん」が使われている
子供宛の書状だからという見方もできるがこちらは根拠としては少し弱いか >>449
「遠慮」については現代的な意味より、深い思慮というような使われ方が多いという感想
「加遠慮」「致遠慮」は後者の用例で多いのではないか
あと気になるのは「体」の乱用が過ぎること
「躰」の方が用例が多いんじゃないかとも思うし
しかし、大日本史料は関ヶ原軍記集成による本書状の東軍による奪取を肯定してるようだ
稿本段階だけど >>450
仰る通り当時の遠慮は深謀遠慮の意味で使われることが多いね
「致遠慮」については辞退するという意味で使われてるが
・「加遠慮」の用例
(天正14年)9月25日付上杉景勝宛石田三成・増田長盛連署状
「真田事、是又㝡前如被仰出候、表裏者候ニ付而、
御成敗之儀雖被仰付候、先今度之儀、被加御遠慮候事」
・「致遠慮」の用例
(天正10年)5月27日付森乱丸宛織田信忠書状
「中国表近々可被出御馬由候条、我々堺見物之儀、先致遠慮候」
白峰氏によると「遠慮深い」は国木田独歩の『二老人』(1908年)
で登場する近代になってから使われ出した用語らしいので、これは偽書説の根拠の一つになり得るかと
体の乱用か
確かに見返してみるとかなり多いな
「~のようだ」と断定できないところを見ると、
当該書状が偽書でないとすれば三成の自信の無さの表れになるのかね
「躰」は「体」の異体字だし「処と處」や「万と萬」、「珍と珎」と同様に翻刻する際は
「処」や「万」と表記する場合もあるし、またその逆もあるからこれはあまり問題ではないかな
原文に忠実に翻刻するなら「躰」で間違いないんだけど、それは翻刻する人の裁量に任されるな 所詮三成と家康、ゴミ同士の戦いだからロマンが無いんだよな
信長が天下統一してたら鎖国なんかしなかったくらいのロマンがあったらなぁ >>453
石田三成的には小早川秀秋の裏切りよりも毛利輝元の裏切りの方が遥かにダメージデカかったというね。本来壁になる筈の南宮山が動かないで東軍を素通りさせるとは思ってなかったろうし。 >>454
家康は鎖国なんてしてないし信長よりも優秀だよ 現代で例えるなら
石田三成←地位を失った財務省事務次官矢野
大谷吉継←矢野に媚びへつらう腰巾着
だからなぁ、こんな小物糞役人どもが一世一代のライバルなんだから
家康が信長秀吉よりショボく見えちゃうのは仕方がない 西軍の主は毛利輝元だしなんなら豊臣すら敵なんだよなぁ ウンコ漏らす程の死線をくぐり抜けてた猛者に立ち向かう実績ではないな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています