石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ そう考えると毛利輝元はよく斬首されなかったよね
三成だけ斬首されて 三成は当時謹慎(あるいは隠居)の身
現代で言ったら執行猶予中の再犯みたいなもんで
クーデターに参加して穏便に済ませてもらえる立場にない >>327
そらま関ケ原合戦前にさっさと和睦したし大阪城も即座に明け渡したからな、輝元 例えばロシアだって、口先でプーチン万歳・ウクライナを倒せと叫ぶ人間は大勢いるけど
そいつらの大多数は自分がウクライナに行って戦うことは拒否しているんだよ
それで刑務所の囚人に金と釈放を餌にして戦わせるなんてこともしている
西軍も同じような内情だと考えればわかりやすい
あくまで自分が家康と戦わない前提で豊臣万歳・家康を倒せと言っているだけ
それで政権返り咲きを餌にして危険な戦いを石田一派に押し付けて、負けたら責任も擦り付けているに過ぎない >>327
斬首されないように、織田がしくじって美濃が落ちた時点から
さっさと終戦工作してるんじゃないか 輝元は三成と恵瓊、三奉行を見捨てる事で何とか命拾いをした。輝元がこれを決断したのは東軍が僅かな皆無と言って良い犠牲で岐阜城を落とした事と、毛利軍が安濃津城一つ落とすのに大損害を出してしまったことによる。家康は八月八日には和睦工作を始めてたけどこれに乗っかれたのも大きかった。 見捨てるっつーか、
「周防と長門だけでいいから、家名存続は認めてくれ。
さもないと大坂城に立てこもって徹底抗戦すっぞ」
「わかった。悪いのは三成。それでいいね?」 せめて西軍は家康本隊が会津征伐を開始(上杉軍と交戦開始)するまで待てなかったのかと
思う
徳川と上杉が戦端開いたら少しは違ったのに 西軍敗北を知ってるから特にそう思えるけど見方を変えれば上杉がヤバいから決起を急いだとも言える 西軍の思惑通りに家康から会津征伐軍が離反すれば
上杉との戦がなくても家康の西上は困難になる
西軍首脳が重要視したのは上杉との挟撃より
秀頼の擁立と毛利の力を背景にした多数派工作
そこがうまくいってないのでああいう顛末になったわけだから
少し経緯が変わったところで同じ結果になる可能性もある >>336
戦端開いたらさすがに家康でもいきなり兵を引き返すなんて不可能でしょ
上杉には大した武将いないからそこまで苦戦しないとは思うけど
ただ、西軍の戦略は誰が主導してたんだろ
上杉と徳川が戦端開いてる間に漁夫の利を得る
こんな初歩的なこともできないようなのが戦略主導してる時点で詰んでるけど
伏見城攻めて貴重な時間を10日以上も浪費するし 時間をかけると史実で無理やり引き込んだ連中がみんな東軍に合流しちゃうんだな 一次史料では大坂三奉行どころか石田三成すら上杉と交信出来ていない。だから「上杉がどれだけ頑張ってくれるか」も分からなかったんだろう。 三成の子孫は青森に落ち延びたのね
真田は信繁は討ち死にしたけど徳川方についた信之の系統が残ってる >>339
上杉が負けるのはわかってること
問題は戦端開いたらさすがにすぐには戻れないだろうということ
史実では引き返すのに1か月弱かかってるし
そもそも、西軍側は江戸城にスパイとかは配置してなかったのか
家康は1600年7月頃に病気に倒れてるのだが、そのあたりの情報は入手してなかったのか?
だけど西軍は戦端開くのを待たずに挙兵している
話にならない 上杉はろくな開戦準備をしていなかったので「東軍が会津国境に来た瞬間戦わず降伏」
の予定だったんじゃないかという説もあるぞ よく言うスマホも無い時代なんで連絡一つ出すのは苦労する
基本は各々の自己判断で動く時代 >>343
信長は足利義昭の挙兵を待って周到に用意していた
こういう戦略家が西軍にはいなかったのか >>337
戦端開くってことは西軍ついた諸将も
毛利軍でさえその戦線に投入されてるってことだぞ 戦端すら開かれない危険性もあるんじゃないか。徳川と上杉間でどの様な交渉されてるか三奉行は探知出来ないもの。
先陣が着くか着かないかで降伏されたらクーデターは失敗になる。出来れば戦争して欲しいけど戦争にすらならなかったら元の木阿弥… 関ケ原の逆で
会津が瞬殺されるパターンも有り得るよね
徳川、福島、黒田、真田ほかの下野口本隊の他に
堀、伊達、最上も戦意旺盛だし 西軍には畿内を押さえられればなんとかなるという見通ししか無かった感が強い >>333
本丸制圧できてないのにそんなことしたら笑い者だよ 輝元の狙いからするとまず大坂城を制圧して公儀を得る。
その上で四国・九州を毛利派勢力で掌握する。そしてゆくゆくは徳川と戦争する。ところが家康の軍才の方が高かった。 家康は会津征伐からたびたび病気に倒れたらしいし、その際に死んでくれたらあるいは、が
あったのかもねえ >>350
家康の軍才より輝元の先見の明の無さだろう
戦国の再来を求めた地方大名が毛利上杉真田ぐらいでほとんどいなかった
家康はサラリーマン並に順序だてて動いただけな感じ もし家康が負けていたら毛利幕府の大名として生き残ることが出来ただろうか
そこが輝元の凄さなんだよね >>350
徳川と戦争する、まで考えてなかったんじゃない?
豊臣政権で徳川をナンバー2以下に落として、自分がナンバーワンになる。
そのうち徳川も復権するだろうけど、それまでに自分の勢力をもっと強めておく。
室町政権下の守護大名なら当然と言える思考。 たとえ分が悪いとしても政変からの権力取りチャレンジした毛利は評価出来るけどね
細い事を言えばきりがないが形にはなってるのは評価に値すると思う やたら輝元を評価してる奴がいるが、輝元は「盲蛇に怖じず」の典型だろう。
大局的に言えば「内府違いの条々」が不発に終わった7月末の段階で戦いの大勢は決しちゃってるんで、
戦略自体に無理があったとしか言えんし。 >>341
それこそが西軍と上杉が繋がってなかった証なのかもね。仰る通り本当なら東軍と上杉軍が戦闘に入ってからクーデターした方が遥かに優位に立てる。それをしない理由は今のところ思い付かないからしなかったのではなく出来なかった。
でもどうして出来なかったのだろう。承兌書状によると家康と話をしているのは増田長盛・大谷吉継。話をするチャンスはありそうだが…景勝は中央と関わりが薄かったからつながれなかったのかもしれんが。 言経卿記に家康は戦のあと秀頼と和睦したと書かれてるから
主君である秀頼に家康が弓を引いた形になったのは確定してる 上杉との交通は沼田で止められていたらしいがこれも三成が事前になんとかできなかったのだろうか 矛先を逸らしたい上杉に情報を売られる可能性だってあるんだから
事前に連絡すりゃいいってもんじゃない 8月下旬の徳川家臣の榊原康政書状では天下仕置ついて述べる記述があって
徳川サイドの認識として石田が政権運営してると認めてる
という主張を見たんだがあり得るのか? 関ヶ原当日に、石田から再三督促したのに島津が動かなかったのは真実なのか、真実なら、墨俣合戦の時に島津軍を見棄てたことにヘソを曲げたという話は合っているのか >>362
それは白峰氏の論考だな
『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その3)』のP5に載ってるよ
その主張の根拠となる書状は8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
当該書状に「この度別心の衆は始終天下の仕置をすることができるだろうか」という記述があるらしい
白峰氏はこれを以て榊原康政は西軍が天下の仕置をしていることを認め、
家康がこの時点で公儀から排除されていたことを自ら認めていたことにもなると述べてる
個人的にはちょっと強引な主張かなと思うが、自分も原文見たことないんで何とも言えない 関ヶ原の戦いは松尾山の小早川を排除しようとした石田三成らの背後を東軍が強襲してきたもの。だから三成には島津への救援を頼む暇すらも無かったんじゃなかろうか。東軍を待ち受けていたなら暇もあるけど…三成らからすると南宮山の毛利隊が東軍進軍を静観するとは思えないから思考的には完全な奇襲が成立した。島津からしても予想外だし戦うどころじゃなかったろう。 >>365
読んだけど、じゃあ別心之衆ってなにかってならんかね?
他の文書にもあるように京都の仕置ともある
畿内、もっといえば京都と大坂の治安維持なり支配ができるのかどうかくらいの意味じゃないのかな
じゃないと誰への別心なのか意味が取れない >>358
上杉との戦端が開くのは天下の大名ほとんどの
軍が徳川の指揮下に入った後だぞ
毛利軍自体引き返さなきゃその指揮下で
上杉攻めに参加するはずだった
>>367
もっと単純に「今後仕置きができるのか?」
というのを「今仕置きしてると認めた!」
ってかなり無理あるよな >>368
九月二十七日条の言経卿記も読んでみたけど、「内府大坂へ御出也云、秀頼卿和睦也」と確かにあるにはあるが
「和睦」って表現が気になる
いまの感覚でいう和睦は当時、「調」とか「扱」(仲介のニュアンスだが)使うのが普通で、単純に親しく仲良くしたくらいの意味ではないだろうか
なんせ二ヶ月前には自分で金銭や兵糧を与えて公儀の軍事行動だと認定してる立場だし >>369
ちょっと調べてみたが、当時の和睦の用例見ても現代の意味とそう大差ない感じだな
あと当時は「御無事」もよく使われてて、こちらの方が多く使われてる
・(天正10年)2月26日付上杉景勝宛蘆名盛隆書状
「随而新發田因幡守被抛御不足、御和睦念願候」
・(天正10年)7月18日付蜂須賀正勝宛毛利輝元書状
「今度和睦之儀、秀吉申談本望候」
・(天正11年)9月9日付吉川広家宛毛利輝元書状
「今度京藝和睦之儀、以御方御上洛之旨、弥令入眼候」 >>371
なんか忘れてると思ってたら「無事」だった
しかし私が無学なだけで「和睦」の用例も多いんだね
だとすると言経の中では秀頼と家康は交戦状態だったという認識なのか 関ヶ原は関東では当初石田三成・大谷吉継の謀反(7/29に三奉行・毛利輝元の乱と判明)、上方では豊臣と徳川の戦争、九州では毛利輝元と三奉行の謀反と認識されてる。上方での認識はおそらく豊臣が西軍に加担していたからじゃなかろうか。側から見ると豊臣による攻撃だったんだろう。 豊臣家が西軍に加担していたのならその西軍に勝った家康はどういう存在になるんだろ
もはや秀吉の遺言も豊臣政権の枠組みも超えてしまったんではないか 単純に西軍のプロパガンダが秀頼の支持受けてます
って言ってたから公家はそう見てたってことでは?
豊臣が西軍加担と言うけど具体的に何を指すか?
秀頼から西軍に対して家康追討を命じたり
馬廻動員のための命令を発したり
支持表明になり得る軍資金や物品の下賜があったり
そういう事実があれば格好のプロパガンダなのに
全く記録に残っていないのではないかと
>>369
アンカミスかな? 西軍は秀頼の命令で土地の収奪を行ってる。一例だと蜂須賀家政は「秀頼が家政が徳川家康と親しかったのはけしからんと言った」として改易処分を受けてる。そして秀頼馬廻衆は西軍に配属されてたとか。関ヶ原の南宮山に居たんだと。それに石田三成は大坂の増田長盛に兵糧・資金の援助を申し出てるけど長盛が自腹切るとも思えないから大坂城の豊臣資産は西軍に使われていた可能性がある。 つまり対外的には豊臣は西軍だったワケだけどこれは秀頼や淀君の意思じゃない、これが豊臣の寿命を絶ったのかもしれない。実力で脅せば言う事を聞く、こんな連中を公儀と認める程戦国大名甘くは無いし。 奉行衆の謀反であって豊臣秀頼や淀君の指示ではない
というところがポイントよね
少なくとも家康自身が豊臣vs徳川の図式が
あからさまになるのを嫌って公的にはそうした
淀君と秀頼もそう取られてる物的証拠になる
文書は残さなかった そういうことなら家康が豊臣を上に戴くことをやめたとしても非難される謂れは無いな
本心はどうあれ敵対行為とられて豊臣政権の枠組みから放り出されたわけだから
西軍公儀説ってかえって家康が独自の政権つくる動機の根拠にしかならんのじゃないか まず豊臣家が西軍に加担する理由が無くないか?
西軍は大義名分が無いから豊臣家の名前を利用しただけだろ
なぜ秀頼サイドが徳川を排除する必要があんの? 豊臣家奉行が大名に書状を送って軍勢を大坂城にいれた。これで秀頼の意思では無いというのは難しい。もし三奉行の行いが豊臣の意思と違うなら豊臣は奉行謀反として討伐しないとならん。がそうした動きが無い。それで豊臣は徳川を敵に回したと判じられた。豊臣の意思決定機構が不完全な隙を毛利輝元に突かれた、最悪のタイミングでクーデターが起きたのかも。 安倍のほうからきたセールスマンから、消火器と布団と印鑑を購入しました。36万9000円しましたが、月賦で払っていますし、快眠できて本当に良かったです 淀が家康に謀反を通報してるからセーフ
ただその後の行動は豊臣家の存続を第一にしたと思われ天下人としての権威を地に落とすには十分だった >>381
そもそも同じ城に軍勢居座られてるんだから
討伐とかどうやっても無理だろ
主君の城を武力制圧しておいて討伐されなかったから
主君の意を受けてる証拠って・・・ そこら辺が事を複雑にしてるわな。公家から見るともし西軍が豊臣の意思に反してるなら豊臣は徹底抗戦してないとおかしい。仮に豊臣が西軍に同意しないで大坂城に籠城したら西軍には打つ手が無い。大坂城を攻めれば謀反になって諸将からの信奉は喪われる。それをしないのは豊臣が西軍を容認してるからだろう。ていうか豊臣が徳川討伐の為に毛利を呼んだと見てたんじゃないか。ただそれとは別に家臣一同に反乱されたら主君はどうすりゃいいの?って話があるわけなんだけどやっぱり命より名誉を取っとけってことに 奉行が反乱→豊臣政権のトップである家康が討伐
何も問題ない 問題は担がれた豊臣秀頼が全く動けなかったこと。豊臣家の存続の代わりに公儀の位から落とされたに等しい。つまり大坂の陣に至る遥か前に秀頼は天下人たる資格を喪っていたっていう。 >>376
百歩譲って秀吉時代ならともかく、秀頼になっても
トップがけしからんと言った(と言い張れば)大名を改易できると考えているあたり
奉行の脳味噌には蛆が沸いていたとしか思えない
三成たちは秀吉時代の強権政治が秀吉死後も続けられるという妄想に侵されていた
精神異常者たちがいかれた妄想を現実にしようとして起こしたのが関ヶ原だと言える 戦国時代ってそんなもんだし。実力があれば何しても良い。大義名分はその後ろからくるもんだもの。秀吉が作り上げた惣無事令は毛利らに否定されてぶっ壊れた。 >>388
西軍の挙兵で豊臣公儀は単なるお題目となった >>390
実力がないけど幼児の威光を振りかざせば何でもできると信じていたのは
さすがに三成たちだけだろ まあ、秀頼の威光と毛利の武力が合わされば無敵!くらいの気持ちだったんだろう 毛利に大坂城制圧されたとき戦闘はなかったんだろうか七手組は何してたんだ >>395
味方だと思ったのかな
「あ、毛利様こんにちは」みたいな これまで味方、それも重役みたいな連中が旧に敵になるってどんな感じかね 守備隊からすると組織上自分達の上司が引きこんでるから防ぐのはかなり難しかったのでは。 >>395
関ヶ原時の七手組って戦闘経験あるの?
秀吉の天下取りの時は主に配下大名が戦ってるし
代替わりも進んでて無力だったんじゃないの? >>399
青木一重とか速水守久とかそれなりに
むしろ政治センスのあるやつがいなすぎてなー ゲームじゃないから政治センスとかあんまり必要じゃない 実践経験のない軍勢なんて役に立たない
歴戦の猛者が来たら虐殺されて逃げ散るしかない
みたいな世界観が既にマンガ >>398
ちなみにおんなじことがチョイ前に伏見城でも起きてる。
伏見城を占拠して金銀がなぜか家康が使いまくったし。
それ考えると大阪城占拠より伏見城占拠の方が大きいけどスルーされがちである。
大阪の玉(秀頼)握ったほうがあとあと有利だと当時だれも思っていたけど
関ケ原でそんな忠誠心当てにならないとわかって意味が薄くかったという流れだからしょうがないけど。 関ヶ原で秀頼無意味とわかったというか
西軍の挙兵が秀頼と豊臣公儀から
意味を奪ったんよ
西軍挙兵まで皆んな秀頼立てて
遺言と政権の枠組みの中で
実権奪い合うゲームをしてた
そこを逸脱したら一斉に叩かれる恐れ
その恐れがあるから家康だって例外ではなく
秀頼の最大の家臣として
政権の法度を破るものを討つという建前で動いてた
ところが毛利も奉行も武力で
秀頼の身柄抑えりゃ勝ち
って戦いを始めてしまった
結果秀頼は武力持つ者がなんとでもできる
トロフィーに過ぎなくなってしまい
西軍もより大きな武力に潰された 輝元からすりゃ大坂城さえ押さえればいけると思ったんだろうけどそこまで甘くはなかった 多分輝元が思ってたほど、「豊臣公儀」には権威も権力も無かった。
それを秀吉なり家康なりが個人の権威でカバーしていただけ 三成さえいなければ
福島も黒田も金吾も西軍だっただろう 福島正則→秀頼から清洲を明け渡せと命令来たけど断固拒否
黒田長政→毛利輝元がクーデターの主犯と睨んでいて九州勢で連携を進めていた。大友義統がやってくると聞いて確信すると徹底抗戦する。
小早川秀秋→そもそも三成と面識無い可能性まである。伏見城攻めに少し参加した後行方をくらませて出てきた時には松尾山を占拠してた。
正直三成がどこに居ようがさほど違いは無かった可能性が高い。三成が東軍についてたら徳川はほぼフリーパスで大坂まで来れるから鎮圧が早かったかもくらい? 多分だがその理由はまず福島正則は三成と吉継の乱なら参加する理由というか勝算が無いし、輝元と豊臣の乱となっても自分が最前線になるから参加する気にならない。毛利領から遠いから援軍が間に合わないだろう。
九州勢はまたちょっと違うベクトルの話になる。九州は基本的に西軍勢力が強い。逆言すると西軍に与しても利益が出る見込みが無い。確かに毛利が出てくる可能性があるが徳川が攻める限り毛利主力は東に向かう。その間九州は切り取り放題やりたい放題。腕に自信があるなら獲れるだけ獲っちまえのボーナスタイムだったろう。 家康でさえ畿内の動静を全て把握できず、西軍首脳部は上杉討伐軍が崩壊すると思ってるお花畑
地方の連中なんて出たとこ勝負が関の山
そしてあっというまに崩壊する西軍本隊の脆弱さ 石田三成は美濃方面の拡充を要請したけど西軍は大局観に立って伊勢から西国の支配を優先したからね。そしたら百戦錬磨の東軍諸将に速攻で岐阜城落とされて大垣城は孤立させられて謂わば詰まされてた。まだそれでも輝元が滅亡覚悟で戦争すりゃ何か起きたかもしれないけど。 三成はまだわかる
幼君奉戴して家康を遠ざけて、あるいは徳川家取り潰して秀吉型政権の家老に座ろうとしてるんだろ
輝元がわかんないんだよな
挙兵したはいいけど
家康に勝てたとしてその後何がやりたかったんだろ
秀頼の忠臣として豊臣政権の柱石に座ろうとしたのか
毛利幕府みたいなものを志向したのか
さっぱり見えない 輝元とすりゃ四国と九州を支配下に置けりゃそれで良かったんだろ 輝元って確か所領に関する秀吉の裁定を反故にしてるから豊臣に忠誠心があったとは思えない
三成は自前の勢力なく豊臣の看板なきゃやれないから豊臣を立てようとするだろうが
もともと独立勢力の毛利も上杉も島津でもしかたなく豊臣に臣従してたんで忠誠心などあるはずがない
せいぜい自家の利益に繋がるなら豊臣家を利用しようとする程度で以前のように切り取り勝手の好き放題したいはず
西軍が勝っても三成(豊臣家)の権益と毛利らの権益が衝突して戦国に戻り豊臣が滅ぶ確率のほうが高い
当たり前だけどどこの大名も名家でもなく何の実力もなくなった豊臣なんぞより自家の利益最優先なんで
西軍が勝ってたら豊臣政権安泰なんて考えるのは全くのお花畑妄想でしかない 毛利輝元って毛利家が本来有してた瀬戸内海の権益を秀吉に取られていて秀吉をというか豊臣を恨んでいた可能性はかなら高い。三奉行決起の後輝元は素早く四国・九州を掌中に収めようとしてるけどこれもかつての毛利家の権益を確保しようとしていたのかもしれん。
だとすると恨みは深い訳で前々から豊臣政権崩壊のネタを仕込んで回ってた可能性も高いんじゃなかろうか。 結局の所、根本的に器が地方大大名程度だったとしか思えない、輝元は
勿論天下取れたらいいな程度の思いはあっただろうけど、逆に言えばその程度
ただ、だからこそ奉行が輝元に接近したってのはありそうだがね
輝元が大局観を持つという事は、要は天下というものを強く意識するのと同義だから
必然的に家康と思考回路が近くなる、というよりならざるを得ない
そしてそうなる事が三成をはじめとする奉行たちにとって本当に喜ぶべき事なのか、
というのは関ヶ原を考える上では必要だとは思う 政争で負けて追い詰められて決起しただけの集団が
家康倒した後の政権運営なんか考えても仕方ない
元が反家康だけが共通項の同床異夢状態なんだから つーか奉行にとっちゃデリヘルのチェンジよろしく
好き勝手許してくれない嫌な上司を
チェンジしたかった訳でしょ
いくらなんでも三成なり三奉行の誰かが
秀吉や家康に取って代わるって
そこまでは思い切って(思い上がって)ない
総大将引き受けた以上輝元もその気だろう >>421
秀吉で勝てなかった家康に、輝元で勝てるとか
どういう神経してるんだ奉行は。豊臣家をさらに
追い詰めて窮地に追いやるだけじゃねーか 有名な「秀頼の為でなくても」の起請文(慶長三年八月二十八日起請文)だけど起請文で他にあんな風に添削されてるものってあるのかな? >>425
奉行視点だと『絶対的存在である豊臣政権から徳川を排除し、これを討伐する』だもの
要は豊臣対徳川だから敗北することはあり得ないんだよ
そもそも関ヶ原前の時点では豊臣の権威はまだ絶対的なものだ、家康だってこれは否定できん
だから奉行は大坂城を抑えることで(本丸制圧は出来なかったが)諸大名に
『豊臣に従うか?逆らうか?』って形に持ち込もうとしたんだよ
実際は奉行のやり方に反感を持った諸侯が『本当に豊臣恩為を名乗れるのはどちらか?』
という形、つまり豊臣の看板争奪戦という形にしたことで失敗に終わったが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています