石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ すまん意味がわからないので
ちょっと補足してくれ
徳川が以前からの策略を掴んでたってのは
まあいい加減な小説以外何物でもないと思う
ただ7月29日なんてとっくには内府違いも出てて
三奉行謀反が明らかになって何もおかしくない時期
それを持って何故嘘情報が流れてたとか言えるのか 嘘云々はいつもの妄想くんの戯言だとして7月29日付黒田長政宛家康書状を見ると
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」
黒田家譜によると黒田長政が小山を出発したのは27日
つまりこの書状の内容が本当なら家康が奉行衆謀叛を知ったのは27~29日と言うことになるな
ただ7月24日付中川秀成宛松井康之書状見ると
杵築に居た松井は24日の時点で既に奉行衆謀叛の情報を掴んでるんだよな
「毛利殿御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」 >>267
幕府成立時点で、放っておいても害はないと判断してるとしか思えない。
喜連川の足利家と同じ扱いにする予定だと思われる。
片桐勝元追放時点で武力制裁を決意、夏の陣開始時点で滅ぼすと決意。
それ以外では武力でつぶすことを検討した形跡すらない。 最初期の認識は石田大谷が怪しい書状出してる
その後入った情報で三奉行謀反へ変化
その間に三奉行が内府違い等明確な行動をしてる
赤の他人に罪をなすりつける欺瞞情報のせいだ
とするには状況証拠にはならないでしょ
別にそれらは新史料でなくて
石田大谷の文書が三奉行の行動より先んじて
東軍に認識されてたというのが普通の解釈
欺瞞情報を主張するならそれにあたる
新史料が出てるとかなのか? >>267
家康個人としては
あえて潰そうとすれば反感は買う、カネはかかる、万が一ということもある
それに孫の婿で、太閤との約束もある
豊臣家に天下人としての能力が結果的なかったのに
本人達がいつまでたっても厨ニ病的な反抗姿勢崩さないし
自分の年齢考えてやるしかなくなったんじゃないかね
幕府の意志はまた別で
さっさと地雷踏んでほしいと思ってたかも 天下統治の体制としてもはや武家関白制が破綻していたんだし
朝廷も見切りをつけて(関白を五摂家に取り返したいとの思惑もあったはず)徳川の公儀を認めた、というか後押しした
家康も例え本人にその気があってもいきががり上立場上愚直に豊臣家を天下様などと奉れなくなったろう
全ては秀吉が豊臣家を他人に寄生しなきゃやってけないスカスカの家にしたことの当然の帰結でしかない >>268
七月二十七日秋田実季宛榊原康政書状で「上方で三成・吉継が家康様を裏切ったので三奉行とおふくろ様(淀君)が上洛を要請…」とあり徳川は当初三成・吉継が謀叛をしたと判断していた。これに対して大坂三奉行は十二日に輝元を大坂に呼び十七日には大坂城を占拠させ同日には内府違いの条々を出した。つまり徳川が大坂から受け取った情報は三奉行による偽装情報だった。毛利軍による大規模クーデターと知られないようにするためのね。 なんで三奉行が謀反の中心人物と掴めなかったかと言うと内府違いの条々にある。内府違いの条々には二種類あって、宛名署名が整ったものと無いものとある。宛名があるものは九州の諸領主に宛てられている。だから九州の大名は「毛利と三奉行が謀叛した」と掴んでる。三成の名が出てこないのはソースが条々だからだろう。これには三成の署名が無い。
対して宛名の無い物は署名も無い純然たる怪文書になる。掴まれたところで証拠にはならない。
尤も三奉行の偽情報は毛利軍入城までの時間稼ぎが第一目標だから入城した時点で目的は果たした事になる。後は西軍配置が間に合えばいいので徳川がまんまとハマってくれて助かったというところだろう。 >>271
逆にそれで三成首謀説は有り得んって話もあるな。
一次史料には載ってないけど吉継が三成に会ったのは二日から十一日の間で、それだけで徳川に「三成に怪しい動き」って報告がいってる。吉継があってるだけでこの騒ぎなのに大坂と西軍決起計画とか立てられないって話。 三成の親戚の熊谷直盛って1599年に改易されているけど、1600年に復活してるよね
あれ誰が復活させたの?
改易は家康が最終決定しただろうけど 今月大阪行くけど、大阪城は一応見るとして
他に大阪市の北部でおすすめの観光名所があれば教えてちょ 何か新しい情報は出ていないのに
三成は巻き込まれたというバイアスで
情報整理しなおしてるだけに見えるな
7月2-11日 大谷石田会談
7月12日付 三奉行毛利に大阪入城要請
7月13日付 毛利軍東下を中止し大阪へ帰るのを
毛利家臣が徳川家臣へ注進
7月15日 輝元国元出立
7月17日 内府違い条々
人質騒動で細川ガラシャ死亡
7月19日 伏見城攻め開始
とまあ西軍が「こと」が起こす前に
大谷石田は結びついているのは確かだ
これら西軍の動きの東軍側からの観測だが
7月27日榊原書状「三奉行からの上洛要請」は
確かだがそれを持って三成を首謀者から
外す理由とするのはわからないな
時期的にも毛利軍が怪しい動きを始めたら
何らかの疑惑は生じるのは避けられない
そこで石田三成謀反のためという口実が使われた
それは良い
がその時点で石田は既に共犯だろう
それを巻き込まれただけとするのは無理がある もちろん西軍として最初期から動いてる連中は
史料の残ってない時期から動いてると
考える方がその後の動きから自然
でもそれらのうち誰が先に働きかけたか?
というのは史料上わからないとするしかない
なのに何故三成は違うとなるのか? 石田正澄による愛知川の関所設置が三奉行の毛利招聘と同日の12日なんだから
決起前の初期段階から関わっていると考えるのが自然で
三成と正澄を別行動と考える根拠も特に存在しないからな 西軍結成と行動開始の状況証拠は
ある程度史料的に残ってる
それみると案外戦後仕置きは妥当なんじゃね?
という気もするのよね
最大勢力の毛利を追い詰めきれなかったけど
それは力関係的なものであって >>275
適当なこと言い過ぎだろ
内府ちかひの条々に発給者の署名と宛名の記載があるのは歴代古案所収の内府ちかひの条々のみ
この他に署名・宛名の記載があるものは全くない
ちかひの条々の原文見たら分かるけど文末は「慶長五年七月十七日」の日付の記載のみ まず一次史料が無い。故に学会では信用されない。
そんで言われてるのは三成はある種の監視下に置かれていて大谷吉継が佐和山にいるだけで徳川に報告されてる。それなのに佐和山と大坂で連絡が出来るわけも無い。またもし三成が西軍決起計画を知っていたなら上杉との連絡は必須で最低でも真田と連絡しておかねばならないが一次史料で否定されてる。
後世の作り話によって信じられてきたが、考えてみれば引退同然に蟄居して何ら実権も持たない三成に西軍決起計画を首謀どころか知り得たかすら怪しいよね?ってことで石田三成の決起ではなく毛利輝元のクーデターというの最新の学説になると。 その西軍決起計画とやらはいつどのように
誰と誰の間で話されたんだ?
普通に大谷石田会談で詰められて
大急ぎで進展してるように見えるけどね
少なくとも一次史料上は他にない
先に三奉行と毛利が連絡してる文書は見つからない
ただし毛利方の史料だと前年から失脚前の三成と
毛利は対家康の謀略仲間だった >>281
石田正澄の話は複数の方向から疑問視されてる。
まずはお馴染みのソース問題でこの話が出てくるのは1700年代に佐賀藩が編纂した『鍋島勝茂公御年譜』らしい。二次史料だからと切り捨てる訳にはいかないが問題はこの年譜、特に関ヶ原のところが潤色激しいんだと。中西豪曰く鍋島家は一貫して西軍として行動してたので幕府の目を考えて史料編纂したという。正澄が関を作っていたのかどうか、はおろかそもそも勝茂が本当に足止めされたのかから怪しいとなるとね… 石田正澄は西軍に与して諸将を足止めした、石田三成は正澄の弟である、だから命令したのは三成だ、というのは論理的に見えて短絡的過ぎる。正澄は足止めしたのが事実と仮定した上で二つめの問題点、正澄が何故足止め出来たのかを考えないといけない。
仮に正澄が三成から足止めを要請されても正澄は拒否するだろう。軍事行動中の軍隊を止めるのは難しい。極端な話謀叛と言われて攻撃されかねない。つまり正澄には「諸将が停まる強制力」が必要。それを出せるのは大坂三奉行しかいない。
豊臣公儀として命令書を出せば諸将は止まるしかない。だから実は正澄は三奉行から直接に命令された可能性がある。三成が大坂に命令書を要求したのでは史料に合わなくなってしまう。 秀頼は1600年の時点で数えで8歳。満で7歳。
まだ政治を見るには確かに少し早いけど、織田秀信の3歳よりマシなはず
自分でそのあたり秀頼がやろうとかしなかったのかな? >>283
内府違いの条々は複数種類がある。その一つが福岡市博物館所蔵の内府違いの条々でこれは全十三条で大坂三奉行の署名もついてる。乃至政彦が「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」で取り上げてる。これらは九州の諸領主に宛てて出されたもの。俗に内府違いの条々は全国に出されたものだと言われているが実際には九州を対象にしたもの。何故九州を対象にしたものには署名があるのかは考察の余地がある。 >>286
先行した軍勢が関所で足止めされて街道を引き返して来てるのだから
そこで後続との情報交換は当然行われる筈だし
鍋島にしか正澄と遭遇した記録が残ってないのは可能性としてはありうる話
他の史料に奉行からの連絡がきたので引き返しましたとかいう記述でもあれば話は別だけど 鍋島勝茂公御年譜だと奉行衆からの命令で大坂に行ったことにはなってる。史実だとしても正澄は三奉行からの指示でやったんだろう。三成がそうした指示を出しても強制力が無いのは正澄だって分かってた事だもの。元奉行ではね。ただ年譜は鍋島家が西軍に加担した鍋島勝茂を擁護する為にした潤色があるから史料として認められるかというと…
一次史料では宇都宮から引き返した連中が居たことは確かみたいだが。 >>289
小野寺義道宛や秋田実季宛の7月17日付三奉行連署状がある
これらも西国大名に宛てたものと同様の内容で「内府公御違之条々別帋ニ相見候」とある
西国大名中心に出されたものってのは事実だが、ちかひの条々が九州限定で出されたものってのは間違ってる
福岡市博物館所蔵の内府ちかひの条々(筑紫文書)は原本じゃなくて写しだぞ
写した人がちかひの条々に三奉行連署状を合わせて写しただけ
その証拠に筑紫文書のものは三奉行の花押(前田玄以は黒印)が据えられてない
元々は真田家文書や中川家文書にある三奉行連署状のように別紙になっていたと思われる >>289
筑紫文書のものは13条に三奉行連署状が付いてるのはあんたが指摘した通り
筑紫文書の三奉行連署状にも「内府公御違之条々別帋ニ相見候」と書かれてる
筑紫文書のちかひの条々は別紙ではないよね
これがもし原本であれば「内府公御違条々如右相見候」と書くはず >>291
軍勢を引き返させる理由(法的根拠)が奉行の命令であることには異存はないんだけど
それは三成の関与を否定する根拠にはならないし
鍋島の史料を捏造とするなら別視点(鍋島以外)の史料による反証はいるでしょ
鍋島が嘘をついている=鍋島の記録は全て嘘にはならないんだから
そこを放置して論を組み立てるのは勇み足というか
鍋島のやってることと大差ないよね 石田正澄は創作物ではなんか
実家で弟の手伝いしてる素朴なにいちゃん
みたいな描き方をされてること多いが
実際には三成とは別個に所領を与えられて
豊臣政権の奉行のひとり
なので石田正澄が動いてるから
三成の命令であるとは必ずしも言えない
が、それをもって三成は関係してないとも言えない
>>294
その通りだよね
いずれにしろ三成は西軍結成の
文書上最初期から合流してて
軍勢差し戻しはその後に起きてる >>294
まず鍋島家の年譜にしか話が無いってだけで眉唾物と判じられる訳で。しかも鍋島家は意図的に歴史を歪めてる。徳川幕府に対してそして鍋島勝茂の名誉の為に。一次史料では勝茂は一貫して西軍に与してるのに「東軍につきたかったのに止められた」ってそんなムシの良い話があるかな?
それを無理矢理是としてなお問題がある。 正澄が関を作って、って話は怪しい。一次史料で言えば佐和山に不審な動きという報告が徳川にはいったのは七月十二日。具体的には吉継が佐和山に立ち寄ってるというもの。
それだけで徳川に報告が入るなら正澄が軍勢集めて関を作ろうとしただけで報告が入るだろうし三奉行も何らかの釈明をしてないとおかしい。
更に言うと正澄が西軍の為に行動したからといってだから三成から命じられたとは言えない。例えば正澄と三成間の書状なんかがあれば証明は出来るが…三成が全く活動してないところからすると正澄は三奉行から命じられたと見るのが自然じゃないか?上杉とも真田とも三奉行とも外交してない三成が正澄に指示が飛ばせる筈がないもの。 詳しくないのだが石田正澄の関所の話って
時系列的に三成が大谷と会って
西軍結成する前の話なの? 鍋島勝茂公御年譜には七月十二日の事となってる。一次史料では増田長盛が徳川に「大谷吉継が病で垂井で療養、石田三成が代理で出陣予定だけど拒否してる」と報告した日。 サンクス
どんなに遅く見積もっても
三成と大谷の共謀は成立してる時期
輝元家臣が家康家臣へ安国寺恵瓊による
東下中止と大阪へ向かうことを注進する
前日ということになるな >>298
三成は公的には失職中だから自分の家臣ならともかく
奉行として他家の人間に対して指示を出せる状況にない
従って三成の関与があろうがなかろうが
正澄が軍勢を引き返させるには現役の奉行による裏付けが必要 一番の問題は仮に正澄の関所が真実だとしてもそれで三成の関与を証明する事にはならないという点にある。三成は関ヶ原全体を観ても三奉行より下の序列として扱われてる。つまり正澄に関を作らせようとしたらまず三奉行にお伺いを立てて、それから三奉行に正澄へ命令書を発付してもらう事になる。ソースが二次史料のみなので何とでも言える話だが三成が全く動いてない以上三奉行が正澄に命令した可能性の方が高かろう。少なくとも三成・正澄の独断では無い。 正澄って言うほど弟思いって人間じゃない気がする。家康が大坂城行った時石田邸を提供したのは正澄だけどだから三成や正澄が親徳川って話でも無いし。要は正澄は典型的官僚で上から言われた事は善悪理非を問わず実行してただけなんじゃないか。家康に邸を貸せと言われたら貸すし三奉行に西軍決起の呼び掛けをしろと言われたらやってしまう。この手の人間ほど使い易い奴はいない。最期は使い捨てに出来るし。実際使い捨てにされた。 人物評価は主観でしかないが石田正澄は義理も筋も通してそうだけどな
そこまでおかしい所があんの? 三成って真田にすら書状送ってないからね。てか真田に西軍参加を促したのは三奉行と大谷吉継で三成は梨の礫。元々西軍決起計画を知らなかったからなんだろうけど。 筋とか道理とか通してるかな?家康に屋敷貸してたのに毛利が決起すると毛利につく。面従腹背を気取っていたのかもしらんけどさ。余りに影が薄いから注目されてないけど。 >>285
大坂三奉行が輝元に上洛要請文を送ったのは七月十二日、これが輝元に届いたのが十五日。注目するべきは輝元は十七日には大坂に着くと秀元に大坂城を占拠させてること。僅か2日で広島・大坂間を移動したのは驚異的。俗に「会議を開いたが恵瓊に押し切られた」とか言われてるけど会議なんか開く暇は無い。輝元は最初から三奉行からの書状が届く事を知っていて用意していた事になる。つまりこの四人は完全に共謀関係にあった。対して三成と輝元もしくは三奉行の間で何らかの共謀があった一次史料は無くむしろ共謀が無かった史料の方が多い。 三奉行と輝元が自分の死や自家の滅亡を賭けて大坂占拠に打って出たわけではないことは明らか
大坂を襲撃すれば全て解決というプーチンみたいに甘い見通しと軽い気持ちで始めただけ
三奉行と輝元に家康と直接戦闘するという覚悟は最初からなかった
当然ながら大坂襲撃では事態が解決せず家康が攻めてきたが
政権返り咲きをしたい石田一派だけがやる気満々だったので
石田一派に責任も何もかも擦り付けて逃げ出したに過ぎない 光成氏は毛利輝元は秀吉死後から豊臣公儀が一つにならないよう政治工作していたんだと >>308
史料ベースでは三奉行と毛利の間にも
共謀の証拠はないし
三成の共謀がなかったという
悪魔の証明をしてる史料もない
単に史料を状況証拠として類推してるだけで
三奉行や毛利の共謀が類推されるからって
三成が共謀してない証拠にはならない
毛利方が以前三成と共謀関係にあった史料や
三成自身の急な出兵の割に積極的な動きはある 三奉行から書状が来たその日に出発して大坂城を占拠してるのでどうみても共謀です本当にありがとうございました 三成って佐和山に蟄居してから交友関係かなり制限しとるじゃん。上杉とも連絡してないし。それで毛利や三奉行とクーデター計画練れるかって話よ 三成首謀説なんてもう逆張りしてる人か史料より小説読んでる人くらいしか信じてないだろ。上杉はおろか真田とも連携できてないってか真田含め諸将を誘ってるのは毛利輝元・三奉行・大谷吉継で三成が誘った奴って誰が居たっけレベルなのに。 首謀者どうこうよりも
三成は巻き込まれただけVS巻き込まれただけとは考えにくい
の論争だと思う
毛利や三奉行の共謀なんてだれも疑ってない >>315
まぁ日本人のほとんどは
フィクションしか知らないから
未だに三成が首謀者だと思ってるだろうけどね >>317
教科書で毛利輝元になってるんじゃなかった?
あれは総大将だっけ? 西軍の具体的な行動としては最初期のものは
7月12日の毛利輝元入城要請と
その直後の毛利軍の東進中止
(他の諸将の東進も止めたという説があるが
江戸時代に成立した史料にしか存在しない)
7月17日の内府違い
ちょうどこの間の7月15日の島津義弘書状では
三成も首謀者の一人として挙げられてる >>307
「新年一発目の挨拶は大老首座の俺だろ?」と言われたら断れないじゃね?
このころの家康は立派なパラハラ上司だよ。
>>316
寺沢広高以上か未満かだな。
あれ東軍についた三成だよ。 巻き込まれたというか誘われたから乗ったというだけの話で総大将って訳じゃない。ただ俗説とは逆に三成は西軍決起計画を知らず、大谷吉継が計画に誘ったのだとすると三成は
「佐和山城を大谷軍に包囲されている」「大坂にいる嫡男重家は人質に等しい」「徳川に救援を乞うても間に合わないしまず救援要請が出来るかすら不明」っていうかなりキツい状況に置かれてる訳でこれで西軍に与せずに済むかと言われると… 淀も三奉行も「石田と大谷が謀反を起こしました」という手紙を家康に差し出している
石田が首謀していないなら最初から責任を擦り付けるための捨て駒扱いということ 毛利軍数万が大坂城を占拠してるのに「石田三成と大谷吉継の謀反」と伝えてるんだから三奉行ともしかしたら淀君も事実を矮小化して誤魔化そうとしたんだろう。 俗説でも三成総大将なんてないだろ
総大将は毛利輝元で初めっから疑問もない >>322
淀殿と親交があんまないしね。
伏見城のカギ持ってたの長束正家だったりする。パワハラ上司の家康に奪われたけどね
大阪城は増田で毛利に献上した(だから2日で大阪城に入れた)。
三成が首謀者というのが無理あるけどね。 そう考えると毛利輝元はよく斬首されなかったよね
三成だけ斬首されて 三成は当時謹慎(あるいは隠居)の身
現代で言ったら執行猶予中の再犯みたいなもんで
クーデターに参加して穏便に済ませてもらえる立場にない >>327
そらま関ケ原合戦前にさっさと和睦したし大阪城も即座に明け渡したからな、輝元 例えばロシアだって、口先でプーチン万歳・ウクライナを倒せと叫ぶ人間は大勢いるけど
そいつらの大多数は自分がウクライナに行って戦うことは拒否しているんだよ
それで刑務所の囚人に金と釈放を餌にして戦わせるなんてこともしている
西軍も同じような内情だと考えればわかりやすい
あくまで自分が家康と戦わない前提で豊臣万歳・家康を倒せと言っているだけ
それで政権返り咲きを餌にして危険な戦いを石田一派に押し付けて、負けたら責任も擦り付けているに過ぎない >>327
斬首されないように、織田がしくじって美濃が落ちた時点から
さっさと終戦工作してるんじゃないか 輝元は三成と恵瓊、三奉行を見捨てる事で何とか命拾いをした。輝元がこれを決断したのは東軍が僅かな皆無と言って良い犠牲で岐阜城を落とした事と、毛利軍が安濃津城一つ落とすのに大損害を出してしまったことによる。家康は八月八日には和睦工作を始めてたけどこれに乗っかれたのも大きかった。 見捨てるっつーか、
「周防と長門だけでいいから、家名存続は認めてくれ。
さもないと大坂城に立てこもって徹底抗戦すっぞ」
「わかった。悪いのは三成。それでいいね?」 せめて西軍は家康本隊が会津征伐を開始(上杉軍と交戦開始)するまで待てなかったのかと
思う
徳川と上杉が戦端開いたら少しは違ったのに 西軍敗北を知ってるから特にそう思えるけど見方を変えれば上杉がヤバいから決起を急いだとも言える 西軍の思惑通りに家康から会津征伐軍が離反すれば
上杉との戦がなくても家康の西上は困難になる
西軍首脳が重要視したのは上杉との挟撃より
秀頼の擁立と毛利の力を背景にした多数派工作
そこがうまくいってないのでああいう顛末になったわけだから
少し経緯が変わったところで同じ結果になる可能性もある >>336
戦端開いたらさすがに家康でもいきなり兵を引き返すなんて不可能でしょ
上杉には大した武将いないからそこまで苦戦しないとは思うけど
ただ、西軍の戦略は誰が主導してたんだろ
上杉と徳川が戦端開いてる間に漁夫の利を得る
こんな初歩的なこともできないようなのが戦略主導してる時点で詰んでるけど
伏見城攻めて貴重な時間を10日以上も浪費するし 時間をかけると史実で無理やり引き込んだ連中がみんな東軍に合流しちゃうんだな 一次史料では大坂三奉行どころか石田三成すら上杉と交信出来ていない。だから「上杉がどれだけ頑張ってくれるか」も分からなかったんだろう。 三成の子孫は青森に落ち延びたのね
真田は信繁は討ち死にしたけど徳川方についた信之の系統が残ってる >>339
上杉が負けるのはわかってること
問題は戦端開いたらさすがにすぐには戻れないだろうということ
史実では引き返すのに1か月弱かかってるし
そもそも、西軍側は江戸城にスパイとかは配置してなかったのか
家康は1600年7月頃に病気に倒れてるのだが、そのあたりの情報は入手してなかったのか?
だけど西軍は戦端開くのを待たずに挙兵している
話にならない 上杉はろくな開戦準備をしていなかったので「東軍が会津国境に来た瞬間戦わず降伏」
の予定だったんじゃないかという説もあるぞ よく言うスマホも無い時代なんで連絡一つ出すのは苦労する
基本は各々の自己判断で動く時代 >>343
信長は足利義昭の挙兵を待って周到に用意していた
こういう戦略家が西軍にはいなかったのか >>337
戦端開くってことは西軍ついた諸将も
毛利軍でさえその戦線に投入されてるってことだぞ 戦端すら開かれない危険性もあるんじゃないか。徳川と上杉間でどの様な交渉されてるか三奉行は探知出来ないもの。
先陣が着くか着かないかで降伏されたらクーデターは失敗になる。出来れば戦争して欲しいけど戦争にすらならなかったら元の木阿弥… 関ケ原の逆で
会津が瞬殺されるパターンも有り得るよね
徳川、福島、黒田、真田ほかの下野口本隊の他に
堀、伊達、最上も戦意旺盛だし 西軍には畿内を押さえられればなんとかなるという見通ししか無かった感が強い >>333
本丸制圧できてないのにそんなことしたら笑い者だよ 輝元の狙いからするとまず大坂城を制圧して公儀を得る。
その上で四国・九州を毛利派勢力で掌握する。そしてゆくゆくは徳川と戦争する。ところが家康の軍才の方が高かった。 家康は会津征伐からたびたび病気に倒れたらしいし、その際に死んでくれたらあるいは、が
あったのかもねえ >>350
家康の軍才より輝元の先見の明の無さだろう
戦国の再来を求めた地方大名が毛利上杉真田ぐらいでほとんどいなかった
家康はサラリーマン並に順序だてて動いただけな感じ もし家康が負けていたら毛利幕府の大名として生き残ることが出来ただろうか
そこが輝元の凄さなんだよね >>350
徳川と戦争する、まで考えてなかったんじゃない?
豊臣政権で徳川をナンバー2以下に落として、自分がナンバーワンになる。
そのうち徳川も復権するだろうけど、それまでに自分の勢力をもっと強めておく。
室町政権下の守護大名なら当然と言える思考。 たとえ分が悪いとしても政変からの権力取りチャレンジした毛利は評価出来るけどね
細い事を言えばきりがないが形にはなってるのは評価に値すると思う やたら輝元を評価してる奴がいるが、輝元は「盲蛇に怖じず」の典型だろう。
大局的に言えば「内府違いの条々」が不発に終わった7月末の段階で戦いの大勢は決しちゃってるんで、
戦略自体に無理があったとしか言えんし。 >>341
それこそが西軍と上杉が繋がってなかった証なのかもね。仰る通り本当なら東軍と上杉軍が戦闘に入ってからクーデターした方が遥かに優位に立てる。それをしない理由は今のところ思い付かないからしなかったのではなく出来なかった。
でもどうして出来なかったのだろう。承兌書状によると家康と話をしているのは増田長盛・大谷吉継。話をするチャンスはありそうだが…景勝は中央と関わりが薄かったからつながれなかったのかもしれんが。 言経卿記に家康は戦のあと秀頼と和睦したと書かれてるから
主君である秀頼に家康が弓を引いた形になったのは確定してる 上杉との交通は沼田で止められていたらしいがこれも三成が事前になんとかできなかったのだろうか 矛先を逸らしたい上杉に情報を売られる可能性だってあるんだから
事前に連絡すりゃいいってもんじゃない 8月下旬の徳川家臣の榊原康政書状では天下仕置ついて述べる記述があって
徳川サイドの認識として石田が政権運営してると認めてる
という主張を見たんだがあり得るのか? 関ヶ原当日に、石田から再三督促したのに島津が動かなかったのは真実なのか、真実なら、墨俣合戦の時に島津軍を見棄てたことにヘソを曲げたという話は合っているのか >>362
それは白峰氏の論考だな
『慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について(その3)』のP5に載ってるよ
その主張の根拠となる書状は8月24日付遠藤慶隆宛榊原康政書状
当該書状に「この度別心の衆は始終天下の仕置をすることができるだろうか」という記述があるらしい
白峰氏はこれを以て榊原康政は西軍が天下の仕置をしていることを認め、
家康がこの時点で公儀から排除されていたことを自ら認めていたことにもなると述べてる
個人的にはちょっと強引な主張かなと思うが、自分も原文見たことないんで何とも言えない 関ヶ原の戦いは松尾山の小早川を排除しようとした石田三成らの背後を東軍が強襲してきたもの。だから三成には島津への救援を頼む暇すらも無かったんじゃなかろうか。東軍を待ち受けていたなら暇もあるけど…三成らからすると南宮山の毛利隊が東軍進軍を静観するとは思えないから思考的には完全な奇襲が成立した。島津からしても予想外だし戦うどころじゃなかったろう。 >>365
読んだけど、じゃあ別心之衆ってなにかってならんかね?
他の文書にもあるように京都の仕置ともある
畿内、もっといえば京都と大坂の治安維持なり支配ができるのかどうかくらいの意味じゃないのかな
じゃないと誰への別心なのか意味が取れない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています