石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 九月十二日の書状だと三成は刈田による兵糧補給を主張したけど長束・安国寺が反対して近江から運ぶ事に決まったらしいがなんで長束たちは刈田に反対したんだろう >>203
豊臣公儀の軍隊ではないぞ
秀頼は命を下してもないし支持を表明してない
対する徳川は秀頼のお墨付きもらって出陣した って訳じゃ無いらしい
秀頼配下の弓鉄砲隊が関ヶ原に参加してるから
毛利輝元が大坂城を乗っ取った時に豊臣の親衛隊も指揮権を奪われていたらしい。対外的には豊臣vs徳川なのも秀頼の軍隊が徳川に戦争してたからなんだと いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない へー
メール欄で自己主張しているつもりなのかもしんないが、出先だとメール欄確認面倒だからコテにしてくんない? メール欄に何か入ってること自体今言われて気づいたわw
とりあえずあなたは面倒な人だな 毛利公儀説だと輝元が大坂城に入って豊臣が文句言わなかった時点で毛利が公儀になったことになってるし… >>212
気付かずageていたなら指摘に感謝くらいはいいんじゃない?めんどくさいってひどいな 武力で占拠したら公儀が手に入る
ってなっちゃうとその公儀から
武力以上の正当性を奪ったに等しい
武力で言うこと聞かせるだけじゃなく
より安定で持続的な統治を実現するために
諸大名の上洛謁見やら朝廷巻き込んだ官位制やら
秀吉は豊臣公儀としての手続きを整えてきた
だから家康は秀吉死後、最大の武力を持ちながら
すでに整えられた公儀としての手続きを
踏むことで継承しようとしてたんよね
逆言うと豊臣公儀は天下の統治手段として機能した
でもその政権手続き無視してしまったことで
実は武力でなんとでもなると喧伝したに等しく
豊臣公儀の命脈は断たれてしまった めっちゃ単純な話政権内での序列争いや
秀頼や朝廷への根回しでトップ争いしてたのが
毛利と奉行らは武力で秀頼抑えた方が勝ちという
別のルールで勝ちを狙ってしまった
結局武力で決めるなら
秀頼の身柄の押さえ合いとかじゃなく
強い方がトップでええやんてなっちゃうわな 内府違いの条々を出しても秀頼を人質に取っても家康の公儀をひっくり返すことは出来なかった
そうなればもう自分がトップになってもいいんやと思うよね どちらかと言えば豊臣の仮想敵国になるのは毛利>徳川じゃないのか
少なくとも秀吉は徳川は親戚として完全に取り込もうとしてたからな もちろんクーデター起こした毛利が悪いんだが、豊臣も豊臣で徳川に西軍討伐指令を送るか毛利に乗っかるかしないとダメだった。中途半端に両建てしたから… >>206
秀頼麾下の詳細な参戦経緯とか指揮系統についてどこかに資料残ってないのかねえ 毛利公儀論者である高橋陽介氏とかの著書によると複数の史料に豊臣公儀が西軍に与した事が残ってるんだとか。
一例だと八月二十九日に保科正光が美濃方面の状況を報告したものに「大柿(大垣)に三成・秀家…そのほか豊臣家馬廻衆」とあったりしてるんだと。最後の南宮山にも豊臣家弓鉄砲隊がいて徳川と戦闘になってたし指揮系統を完全にジャックされてたのかもしれない。ただこの動きだけを捉えた研究は知らない…あるのだろうか。 豊臣公儀なんてものはない、秀吉公儀があっただけ
秀吉の残り香と家康の力で死後も全国統治を継続していたにすぎない
呆けたとはいえ秀吉も戦国の世を生き抜いた人間だからそういう現実は理解していたが
秀吉の威光で威張り散らしていた下っ端連中が理解できず
秀吉の死後も自分たちが公儀だと威張り続けられると勘違いしていた 「西軍が豊臣抗議を名乗った」
「豊臣馬廻で西軍に付いた将もいる」
これは確か
「だから西軍は豊臣公儀」
「だから豊臣公儀は西軍を支持した」
と解釈するかどうかはそれぞれの見解の領域かな
個人的には秀頼が公的に支持を表明してない
(支持を表明する文書さえ出させることができない)
のでそれはどうだろうと思うけど 北条包囲網(山内・扇谷両上杉、古河公方、今川、里見)→瓦解
信長包囲網(義昭、浅井、朝倉、本願寺、雑賀衆、武田)→瓦解
なんでや・・・ 惣無事令で私闘は禁止されて公儀が裁定する事が決まったのが豊臣公儀の骨幹。だから本来豊臣は徳川か毛利どっちかを公儀軍と定めないといけない。秀頼馬廻衆が西軍に着いてるって事は見かけ上は西軍が公儀軍となる。それが実は輝元にジャックされてましたってなるとそれは豊臣公儀がブッ壊れた証拠でそりゃあ滅びるよねっていう… 毛利が軍勢率いて入城してんだから
うっかり反対なんて出来るわけないんだがね 包囲網ってのは後世の作家が
見立てたものじゃないのかな?
まともな歴史家で包囲網
主張してる人いるだろか? 単体で勝てないなら群れて勝てはまぁ兵法だからね。機能したからしなかったかの問題はあるが >>227
それじゃ公儀は名乗れんのだ。本拠地を占拠されようが自分の法を守れないとダメなのだ 徳川に救援要請(西軍討伐指令)を送ってればまだ違ったんだろうけどなぁ 石田三成の去就もよく分かってないのよね。
大谷吉継に西軍決起計画を聞かされたのが七月三日、十一日には参加した…とされるけどこの後何処で何してたのか。
中野等によると三十日まで大坂城には来てないっていうがだとすると吉川広家書状(大坂に向かう三成と吉継を目撃)に嘘があることになるし。 >>234
斬首されてるのに東軍につくということはないでしょ
そもそも中野とか現代の史家が何言おうと無駄 秀頼か淀殿のどちらかが人質or国替えに応じれば
豊臣が織田にした方に生き残れたかもしれんが
てか三成が負けたら家康が政権を牛耳って豊臣家が乗っ取られることくらい
当時の人間でも分かりそうなものだが淀殿も豊臣武断派も気付いていないのか? >236
三成は単なる元官僚に過ぎず、淀・秀頼の了解もなく勝手に武装蜂起しただけ
散々好き勝手な振る舞いを繰り返して、自分が負けたら豊臣が乗っ取られるから従えとか
主張があまりにも理不尽すぎるだろ
淀や武断派でなくても三成の傲慢な振る舞いに拒否感を持つのは当たり前だった
当時はむしろ、三成たち奉行連中が豊臣を自分の私物かのように思い上がっていることの方が問題だった まず生前の秀吉が政権牛耳ってくださいと言わんばかりの優遇を徳川家に与えてるからな
徳川のみ将来にわたって豊臣一門の座が約束され他は前田も含めて家臣扱い
徳川に頼るしかないくらい家として落ちぶれていたのを秀吉もわかっていて仕方なかったんだろうが
それが三成たちの反発と危機感を煽ることになった
家康も秀吉からの優遇があるとは言えそれを担保する豊臣家は風が吹けば飛ぶような頼りなさなんだから
自家を守るためにも権力基盤を固める行動に出るのは当然でそれが専横と批判されたりもする
作用反作用の悪循環が積み重なった結果が関ヶ原 徳川が政権を牛耳るのと
別の政権に取って代わられるのは
またちょっと違うからね
徳川も関ヶ原までは豊臣政権内での
首班として振る舞ってるので
政権とその象徴的トップである豊臣家を
守ると言う意味では成功してた
結果的に関ヶ原で豊臣政権の価値が暴落して
新しい政権を建てられてしまったので
徳川が豊臣政権を牛耳るとそれがそのまま
徳川政権成立、豊臣政権滅亡と
考えてしまいがちだけど 晩年の秀吉が馬鹿やらかしすぎた
少なくとも秀次が生きていたなら、豊臣の家政まで家康が口出しはできなかったはずだし、
政治にしても秀次をある程度は立てざるを得なかったはず 三成がクーデターしたんじゃなくて毛利がクーデター計画したから。五大老の1人が仕組んだんだから勝ち目があると見てたんだろう。引退した元奉行にあれだけ人が動くはずもないから。 どちらにしろ結果的に石田が豊臣政権を崩壊させた
石田のやってる事は私利私欲での周りの事も考えずの権力奪取なんだよな 三成としても難しい局面だしな。大谷吉継の誘いを拒否したら殺されるだろうし。よしんば生きて帰れたとして佐和山には少数の兵しかいないから攻められたら死だろう >>241
毛利輝元が徳川家康に勝てると考えていたとしたら
当時の奴らの嗅覚を疑いたくなるな
人間が余りに違いすぎるだろ
器が 人間の格なんて見て分かるもんじゃないしそれで勝敗が決まるとも思わんだろうし…
単純な戦況だと上杉を背後に抱えてる徳川と背後がそれなりに万全な毛利なら勝負になりそうと思ってたんだろう。まさか九州で黒田がボコボコ前進して上杉は全く前進出来ないとは思わんじゃん… 無知ですまんが輝元って戦は強かったんか?
ちらっと調べても激戦を繰り広げたしか見当たらない 頑なに三成巻き込まれ設定を主張してる人がいますねw 光成氏は輝元について「野心的で強い野望を秘め、その為なら家臣を犠牲にする事も厭わない」と断じてる。その上で関ヶ原の趨勢を決めたのは輝元の人間性、つまり死線をくぐり抜けてきた家康と死地に赴かなかった3代目の輝元の差だという。だから内心の野心に反して能力というか経歴が足りんかった。それでも大国の主ではあるからね。 三成の参戦が義継の働きかけってのは何の小説だっけ? >>248
もし本当に内面を「断じて」いるなら研究者じゃないんだよ
何があったかなかったか、それだけを論じるのが史学なんでね
史資料から人の内心を慮るのは史学ではなく、よくいったところで文学
きみは簡単な史料を誤読して、指摘されても無視するし
史学に向いてないよ、というか史学に限らず学問全般に対して不敬
小説や大河ドラマに一喜一憂しているのが身の丈にあってますよ そりゃ輝元って三奉行と綿密な打ち合わせの上大坂城ジャックしてるからな。三奉行の上洛要請文が十二日、それを広島の輝元が受け取ったのが十五日、その日のうちに数万の軍勢連れて十七日に大坂城を占拠させてる。広島・大坂間を二日で移動した例はこの一件だけで事前の入念な準備が無ければ不可能。この件で輝元が西軍決起の首謀者と知れる。他にも輝元祐筆は既に大坂入りしていてたとかね。 ちなみに光成氏は輝元の上洛記録と江戸時代の参勤交代の記録から広島・大坂間の移動にかかる日数を算出してる。それによれば陸路で約10日、海路で6〜8日かかってる。2日で移動したということは潮流天候を把握した上で最も都合の良い日を予想して準備していた事になる。輝元は担がれたのではなくむしろ指導的立場にあった。三奉行が輝元にここまでの準備を命じる立場にあったとは思えん。その後の輝元の動きを見ても成る程輝元が首謀者なのだろう。 >>253
誤読を訂正もしないやつがらが偉そうに
君は誰かの論拠を引用する資格もないんだよ
誤読して反省もしないんだから
きみに実名で引用される人は迷惑なんだよ どうせ返答はなかろ
都合の悪いことは無視して、自分の勝手な妄想を辺り構わず綴るだけのBotみたいなやつだからな >>250
三成が佐和山に吉継を呼んで西軍に誘った、ってのがまず小説なのよね。この話が初出なのは落穂集って書物なんだがこいつは1700年代の編纂で面白い話だけど信用出来るかと言われると微妙。
一次史料では三成と吉継どちらが誘ったのかは不明。ただしイエズス会の記録日本諸国記には家康が関東に向かった後、奉行の一人が佐和山で三成と連絡を取りかねて仕組んでいた計略を明らかにしたとある。後世の小説の影響を排除して考えると吉継の方が主犯で三成は誘われて参加した可能性の方が高いんだろう。そもそも隠居同然に謹慎してる三成が大規模軍事計画を立てたってのがまずおかしい。 >>252
輝元って大友義統を九州に送って一揆を誘発させるわ大坂城にいた蜂須賀家政を監禁して阿波を毛利領にして蜂須賀軍も接収するわで領土野心ダダ漏れなんだよな。長宗我部に対しても「旧領は保証」といってそれ以外の領土は毛利の物にしようとした疑惑があるし。ところが負けそうになると大坂城から出て決戦とかはせずに安国寺恵瓊や石田三成、大坂三奉行を生け贄にした。ここら辺が危険を呑んで赤坂まできた徳川家康との格の差かもしれない。 >>257
自分にレスしてるけど何がしたいんだ?
あんたの文体は独特だからID変えて別人装ってもすぐ分かるよ >>245
徳川本隊が真田に足止めされて関ヶ原に間に合わなかったのは家康も誤算だったし
戦は誤算が大きい方が負ける
大坂の陣でも徳川方は圧倒的兵力を有するも大苦戦してるからな
真田が強かったことにしておけばそれに手こずった徳川も仕方ないと民衆に思わせるために
江戸時代を通じて真田人気をおさえようとしなかったわけ >>259
そもそも関ヶ原に遅参してる前提なのがおかしい
期日や待ち合わせの取り決めとか無かっただろ >>256
ただ毛利と三成の共謀関係は毛利方の史料上
三成失脚前と比定されるものがあり
かつ東軍側でもかなり早い時期に三成吉継による
策動として認識されているよね
そこを考え合わせると三成は巻き込まれただけ
という主張はかなり難しいと思う 大谷吉継こそ石田に説得されて巻き込まれたという
フィクションをもとに語られがちなのはあるが 豊臣政権を家康が仕切るのが、気に食わない。
というのはまだわかるのだが、なぜ西軍は軍事クーデターなんて手にでたんだろうな。
軍事クーデターなんて起きてしまえば、天下を安定させることが出来なかった、豊臣政権自体の弱体化が進み、豊臣家が天下を運営させる正当性も失われるのに。
そんな、大事を起こしておいて「豊臣家の御為に」と言っても白々しいし。
関ヶ原の時点だと追い詰められてるのは、豊臣家ではなく西軍の中心のメンバーだし。
それなりの理由がらあったのだろうけど。
司馬史観だと、家康に挑発されたおバカな三成はそれに乗ってしまったと、三成を酷い扱いにしてるが。 動機面で見ても面白いぞ。
大谷吉継については徳川は「宇喜多騒動に介入して領国を顧みない榊原康政を家康が「そんなに金が欲しいのか」と叱責したところ同じく騒動に介入していた吉継も気分を害して家康を恨んだ」と推測してる。対して三成は「何故か家康を恨んでいたらしい」と理由を把握出来ていない。実際三成は家康に命を救われて嫡男重家も家康に面倒見てもらってると親徳川に転んでおかしくない。吉継が三成を誘った可能性は高い。司馬遼太郎の小説だと石田三成を漢にする為にドラマチックにしてるけど。 巻き込まれたというより宇喜多秀家とかと同じく呼び掛けられて参加しちゃったというのが最近の見解だな >>261
確かに東軍は最初三成・吉継の謀叛と聞いてたけどこれが輝元・三奉行の偽情報って事も史料上明らかになってる。
七月二十九日に黒田長政に宛てて徳川家康が「大坂奉行衆が裏切ったから」と重ねて談合したい旨を記してる。三成・吉継は既に裏切りを認識してるからこれは増田長盛ら三奉行のこと。つまり以前からあった策略を徳川諜報部が掴んだのではなく、大坂三奉行のウソを徳川が真に受けてただけってのが真相らしい。ここからも石田三成首謀説が疑わしいって話に… 家康ってどのあたりから豊臣家を本気で滅ぼそうと思い始めたの?
二条城会見?自分が死んだ後、秀忠と秀頼がどうなるかとか色々考えちゃった? すまん意味がわからないので
ちょっと補足してくれ
徳川が以前からの策略を掴んでたってのは
まあいい加減な小説以外何物でもないと思う
ただ7月29日なんてとっくには内府違いも出てて
三奉行謀反が明らかになって何もおかしくない時期
それを持って何故嘘情報が流れてたとか言えるのか 嘘云々はいつもの妄想くんの戯言だとして7月29日付黒田長政宛家康書状を見ると
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」
黒田家譜によると黒田長政が小山を出発したのは27日
つまりこの書状の内容が本当なら家康が奉行衆謀叛を知ったのは27~29日と言うことになるな
ただ7月24日付中川秀成宛松井康之書状見ると
杵築に居た松井は24日の時点で既に奉行衆謀叛の情報を掴んでるんだよな
「毛利殿御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」 >>267
幕府成立時点で、放っておいても害はないと判断してるとしか思えない。
喜連川の足利家と同じ扱いにする予定だと思われる。
片桐勝元追放時点で武力制裁を決意、夏の陣開始時点で滅ぼすと決意。
それ以外では武力でつぶすことを検討した形跡すらない。 最初期の認識は石田大谷が怪しい書状出してる
その後入った情報で三奉行謀反へ変化
その間に三奉行が内府違い等明確な行動をしてる
赤の他人に罪をなすりつける欺瞞情報のせいだ
とするには状況証拠にはならないでしょ
別にそれらは新史料でなくて
石田大谷の文書が三奉行の行動より先んじて
東軍に認識されてたというのが普通の解釈
欺瞞情報を主張するならそれにあたる
新史料が出てるとかなのか? >>267
家康個人としては
あえて潰そうとすれば反感は買う、カネはかかる、万が一ということもある
それに孫の婿で、太閤との約束もある
豊臣家に天下人としての能力が結果的なかったのに
本人達がいつまでたっても厨ニ病的な反抗姿勢崩さないし
自分の年齢考えてやるしかなくなったんじゃないかね
幕府の意志はまた別で
さっさと地雷踏んでほしいと思ってたかも 天下統治の体制としてもはや武家関白制が破綻していたんだし
朝廷も見切りをつけて(関白を五摂家に取り返したいとの思惑もあったはず)徳川の公儀を認めた、というか後押しした
家康も例え本人にその気があってもいきががり上立場上愚直に豊臣家を天下様などと奉れなくなったろう
全ては秀吉が豊臣家を他人に寄生しなきゃやってけないスカスカの家にしたことの当然の帰結でしかない >>268
七月二十七日秋田実季宛榊原康政書状で「上方で三成・吉継が家康様を裏切ったので三奉行とおふくろ様(淀君)が上洛を要請…」とあり徳川は当初三成・吉継が謀叛をしたと判断していた。これに対して大坂三奉行は十二日に輝元を大坂に呼び十七日には大坂城を占拠させ同日には内府違いの条々を出した。つまり徳川が大坂から受け取った情報は三奉行による偽装情報だった。毛利軍による大規模クーデターと知られないようにするためのね。 なんで三奉行が謀反の中心人物と掴めなかったかと言うと内府違いの条々にある。内府違いの条々には二種類あって、宛名署名が整ったものと無いものとある。宛名があるものは九州の諸領主に宛てられている。だから九州の大名は「毛利と三奉行が謀叛した」と掴んでる。三成の名が出てこないのはソースが条々だからだろう。これには三成の署名が無い。
対して宛名の無い物は署名も無い純然たる怪文書になる。掴まれたところで証拠にはならない。
尤も三奉行の偽情報は毛利軍入城までの時間稼ぎが第一目標だから入城した時点で目的は果たした事になる。後は西軍配置が間に合えばいいので徳川がまんまとハマってくれて助かったというところだろう。 >>271
逆にそれで三成首謀説は有り得んって話もあるな。
一次史料には載ってないけど吉継が三成に会ったのは二日から十一日の間で、それだけで徳川に「三成に怪しい動き」って報告がいってる。吉継があってるだけでこの騒ぎなのに大坂と西軍決起計画とか立てられないって話。 三成の親戚の熊谷直盛って1599年に改易されているけど、1600年に復活してるよね
あれ誰が復活させたの?
改易は家康が最終決定しただろうけど 今月大阪行くけど、大阪城は一応見るとして
他に大阪市の北部でおすすめの観光名所があれば教えてちょ 何か新しい情報は出ていないのに
三成は巻き込まれたというバイアスで
情報整理しなおしてるだけに見えるな
7月2-11日 大谷石田会談
7月12日付 三奉行毛利に大阪入城要請
7月13日付 毛利軍東下を中止し大阪へ帰るのを
毛利家臣が徳川家臣へ注進
7月15日 輝元国元出立
7月17日 内府違い条々
人質騒動で細川ガラシャ死亡
7月19日 伏見城攻め開始
とまあ西軍が「こと」が起こす前に
大谷石田は結びついているのは確かだ
これら西軍の動きの東軍側からの観測だが
7月27日榊原書状「三奉行からの上洛要請」は
確かだがそれを持って三成を首謀者から
外す理由とするのはわからないな
時期的にも毛利軍が怪しい動きを始めたら
何らかの疑惑は生じるのは避けられない
そこで石田三成謀反のためという口実が使われた
それは良い
がその時点で石田は既に共犯だろう
それを巻き込まれただけとするのは無理がある もちろん西軍として最初期から動いてる連中は
史料の残ってない時期から動いてると
考える方がその後の動きから自然
でもそれらのうち誰が先に働きかけたか?
というのは史料上わからないとするしかない
なのに何故三成は違うとなるのか? 石田正澄による愛知川の関所設置が三奉行の毛利招聘と同日の12日なんだから
決起前の初期段階から関わっていると考えるのが自然で
三成と正澄を別行動と考える根拠も特に存在しないからな 西軍結成と行動開始の状況証拠は
ある程度史料的に残ってる
それみると案外戦後仕置きは妥当なんじゃね?
という気もするのよね
最大勢力の毛利を追い詰めきれなかったけど
それは力関係的なものであって >>275
適当なこと言い過ぎだろ
内府ちかひの条々に発給者の署名と宛名の記載があるのは歴代古案所収の内府ちかひの条々のみ
この他に署名・宛名の記載があるものは全くない
ちかひの条々の原文見たら分かるけど文末は「慶長五年七月十七日」の日付の記載のみ まず一次史料が無い。故に学会では信用されない。
そんで言われてるのは三成はある種の監視下に置かれていて大谷吉継が佐和山にいるだけで徳川に報告されてる。それなのに佐和山と大坂で連絡が出来るわけも無い。またもし三成が西軍決起計画を知っていたなら上杉との連絡は必須で最低でも真田と連絡しておかねばならないが一次史料で否定されてる。
後世の作り話によって信じられてきたが、考えてみれば引退同然に蟄居して何ら実権も持たない三成に西軍決起計画を首謀どころか知り得たかすら怪しいよね?ってことで石田三成の決起ではなく毛利輝元のクーデターというの最新の学説になると。 その西軍決起計画とやらはいつどのように
誰と誰の間で話されたんだ?
普通に大谷石田会談で詰められて
大急ぎで進展してるように見えるけどね
少なくとも一次史料上は他にない
先に三奉行と毛利が連絡してる文書は見つからない
ただし毛利方の史料だと前年から失脚前の三成と
毛利は対家康の謀略仲間だった >>281
石田正澄の話は複数の方向から疑問視されてる。
まずはお馴染みのソース問題でこの話が出てくるのは1700年代に佐賀藩が編纂した『鍋島勝茂公御年譜』らしい。二次史料だからと切り捨てる訳にはいかないが問題はこの年譜、特に関ヶ原のところが潤色激しいんだと。中西豪曰く鍋島家は一貫して西軍として行動してたので幕府の目を考えて史料編纂したという。正澄が関を作っていたのかどうか、はおろかそもそも勝茂が本当に足止めされたのかから怪しいとなるとね… 石田正澄は西軍に与して諸将を足止めした、石田三成は正澄の弟である、だから命令したのは三成だ、というのは論理的に見えて短絡的過ぎる。正澄は足止めしたのが事実と仮定した上で二つめの問題点、正澄が何故足止め出来たのかを考えないといけない。
仮に正澄が三成から足止めを要請されても正澄は拒否するだろう。軍事行動中の軍隊を止めるのは難しい。極端な話謀叛と言われて攻撃されかねない。つまり正澄には「諸将が停まる強制力」が必要。それを出せるのは大坂三奉行しかいない。
豊臣公儀として命令書を出せば諸将は止まるしかない。だから実は正澄は三奉行から直接に命令された可能性がある。三成が大坂に命令書を要求したのでは史料に合わなくなってしまう。 秀頼は1600年の時点で数えで8歳。満で7歳。
まだ政治を見るには確かに少し早いけど、織田秀信の3歳よりマシなはず
自分でそのあたり秀頼がやろうとかしなかったのかな? >>283
内府違いの条々は複数種類がある。その一つが福岡市博物館所蔵の内府違いの条々でこれは全十三条で大坂三奉行の署名もついてる。乃至政彦が「天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった」で取り上げてる。これらは九州の諸領主に宛てて出されたもの。俗に内府違いの条々は全国に出されたものだと言われているが実際には九州を対象にしたもの。何故九州を対象にしたものには署名があるのかは考察の余地がある。 >>286
先行した軍勢が関所で足止めされて街道を引き返して来てるのだから
そこで後続との情報交換は当然行われる筈だし
鍋島にしか正澄と遭遇した記録が残ってないのは可能性としてはありうる話
他の史料に奉行からの連絡がきたので引き返しましたとかいう記述でもあれば話は別だけど 鍋島勝茂公御年譜だと奉行衆からの命令で大坂に行ったことにはなってる。史実だとしても正澄は三奉行からの指示でやったんだろう。三成がそうした指示を出しても強制力が無いのは正澄だって分かってた事だもの。元奉行ではね。ただ年譜は鍋島家が西軍に加担した鍋島勝茂を擁護する為にした潤色があるから史料として認められるかというと…
一次史料では宇都宮から引き返した連中が居たことは確かみたいだが。 >>289
小野寺義道宛や秋田実季宛の7月17日付三奉行連署状がある
これらも西国大名に宛てたものと同様の内容で「内府公御違之条々別帋ニ相見候」とある
西国大名中心に出されたものってのは事実だが、ちかひの条々が九州限定で出されたものってのは間違ってる
福岡市博物館所蔵の内府ちかひの条々(筑紫文書)は原本じゃなくて写しだぞ
写した人がちかひの条々に三奉行連署状を合わせて写しただけ
その証拠に筑紫文書のものは三奉行の花押(前田玄以は黒印)が据えられてない
元々は真田家文書や中川家文書にある三奉行連署状のように別紙になっていたと思われる >>289
筑紫文書のものは13条に三奉行連署状が付いてるのはあんたが指摘した通り
筑紫文書の三奉行連署状にも「内府公御違之条々別帋ニ相見候」と書かれてる
筑紫文書のちかひの条々は別紙ではないよね
これがもし原本であれば「内府公御違条々如右相見候」と書くはず >>291
軍勢を引き返させる理由(法的根拠)が奉行の命令であることには異存はないんだけど
それは三成の関与を否定する根拠にはならないし
鍋島の史料を捏造とするなら別視点(鍋島以外)の史料による反証はいるでしょ
鍋島が嘘をついている=鍋島の記録は全て嘘にはならないんだから
そこを放置して論を組み立てるのは勇み足というか
鍋島のやってることと大差ないよね 石田正澄は創作物ではなんか
実家で弟の手伝いしてる素朴なにいちゃん
みたいな描き方をされてること多いが
実際には三成とは別個に所領を与えられて
豊臣政権の奉行のひとり
なので石田正澄が動いてるから
三成の命令であるとは必ずしも言えない
が、それをもって三成は関係してないとも言えない
>>294
その通りだよね
いずれにしろ三成は西軍結成の
文書上最初期から合流してて
軍勢差し戻しはその後に起きてる >>294
まず鍋島家の年譜にしか話が無いってだけで眉唾物と判じられる訳で。しかも鍋島家は意図的に歴史を歪めてる。徳川幕府に対してそして鍋島勝茂の名誉の為に。一次史料では勝茂は一貫して西軍に与してるのに「東軍につきたかったのに止められた」ってそんなムシの良い話があるかな?
それを無理矢理是としてなお問題がある。 正澄が関を作って、って話は怪しい。一次史料で言えば佐和山に不審な動きという報告が徳川にはいったのは七月十二日。具体的には吉継が佐和山に立ち寄ってるというもの。
それだけで徳川に報告が入るなら正澄が軍勢集めて関を作ろうとしただけで報告が入るだろうし三奉行も何らかの釈明をしてないとおかしい。
更に言うと正澄が西軍の為に行動したからといってだから三成から命じられたとは言えない。例えば正澄と三成間の書状なんかがあれば証明は出来るが…三成が全く活動してないところからすると正澄は三奉行から命じられたと見るのが自然じゃないか?上杉とも真田とも三奉行とも外交してない三成が正澄に指示が飛ばせる筈がないもの。 詳しくないのだが石田正澄の関所の話って
時系列的に三成が大谷と会って
西軍結成する前の話なの? 鍋島勝茂公御年譜には七月十二日の事となってる。一次史料では増田長盛が徳川に「大谷吉継が病で垂井で療養、石田三成が代理で出陣予定だけど拒否してる」と報告した日。 サンクス
どんなに遅く見積もっても
三成と大谷の共謀は成立してる時期
輝元家臣が家康家臣へ安国寺恵瓊による
東下中止と大阪へ向かうことを注進する
前日ということになるな >>298
三成は公的には失職中だから自分の家臣ならともかく
奉行として他家の人間に対して指示を出せる状況にない
従って三成の関与があろうがなかろうが
正澄が軍勢を引き返させるには現役の奉行による裏付けが必要 一番の問題は仮に正澄の関所が真実だとしてもそれで三成の関与を証明する事にはならないという点にある。三成は関ヶ原全体を観ても三奉行より下の序列として扱われてる。つまり正澄に関を作らせようとしたらまず三奉行にお伺いを立てて、それから三奉行に正澄へ命令書を発付してもらう事になる。ソースが二次史料のみなので何とでも言える話だが三成が全く動いてない以上三奉行が正澄に命令した可能性の方が高かろう。少なくとも三成・正澄の独断では無い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています