石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ 兵站無視はよくハンニバルのアルプス山脈越えを挙げられるけど
あれ結局、兵站欠乏によりローマ本拠地を攻撃できず
重要港を制圧&制海権を得ていないことからカルタゴ本国から増援と物資も呼べずジリ貧になって負けたんだよな
天才的な戦術による連戦連勝を重ねても戦略的な劣勢を覆せなかった 今川家は稀代の人材をみすみす逃してるよね
秀吉とか山本勘介とか 山本勘助?キツツキ戦法やらをやろうとして謙信に裏をかかれて討ち取られ、信玄の弟の信繁も死なせた無能か? 三成に出来ることと言ったら自分の軍と大垣にある西軍勢力を使うことくらいで後は大坂の増田長盛か毛利輝元に相談するしかないっていう感じ。そこに東軍の大軍が襲来で勝てるはずが無い >>181
三成のいい話ってみんな後世のものなのに
なぜか軍記類でも信頼性ありとされてる疑問 三成は九月十二日増田長盛宛書状で私は大分金使っています早く金を送ってください、と言ってる。どうも分不相応に金を使っていたらしい。織田秀信や織田信雄の逸話から察するに本来大坂が払うべきものすら三成が自腹切ってたんじゃないか。同書状には兵糧の輸送についても重ねて書いてあるから大坂から見捨てられてたんじゃ。 豊臣家の金穀って政権の金穀でもあるわけだろ?
政権の中枢にいる奉行が拠出を求めても拒否できるものなんだな
つまりは豊臣家として西軍を公儀軍として認めなかったということにもなるのでは
西軍が公儀になったとする研究者はこの豊臣家の金穀拠出拒否をどう解釈してるんだろう >>184
主家に金出せって
奉行でも無いのにそんなことできるのか? >>185
三成以外の現役三奉行は拠出を求めてなかったってこと?
家康は会津征伐にあたって豊臣家から黄金2万両と米2万石を下賜されたそうだが
その辺の違いがよくわからん >>186
三成 奉行でも何でもない一家臣
家康 秀吉の義弟で妹婿、秀頼の外祖父(予定)、秀吉の遺命で政権任されてる
格が違いすぎる 基本的に兵糧は各武将が用意する、のだけどそれだと兵糧を用意出来なかった隊が落伍して戦争にならないので最終的にはトップが用意する。それは貸しになったり恩寵米になったりと形は様々だけど要はトップが兵糧を用意する事になる。だから三成が兵糧や資金を要求してもおかしくない。仮に人を調略で引き入れてたなら支払いは豊臣になるし。 >>187
それはものすごくわかるんだけど、じゃあ三成の言う金送ってくれは誰の金なんだろうかと
三成自身は身上はたいてるから三奉行や毛利らの私財から送ってくれと言ってるのか
豊臣家から金出すよう働きかけてくれと言ってるのかどっちなんだろう >>189
そりゃ豊臣の金でしょ
毛利や宇喜多は朝鮮のために財政がそこまで
余裕ないはずだし 9月12日付増田宛三成書状(古今消息集所収文書)って当時は使われてない表現
「遠慮深く」、「ちゝミたる」等があったりして白峰氏は偽書扱いしてるな
高橋氏の主張に白峰氏が検証反論したものだが、5,6年前の話だし今は話がまた進展してるかもしれんが 度々申し入れたってあるから大坂の増田長盛は三成からの度重なる要請を黙殺してたって話で三成からすると不気味というか嫌な予感してたろうな >>183
本来大阪が払うべきものって何?
反乱軍の戦費は払うべきでないと思うけど 石田三成は毛利輝元・増田長盛と同調してる仲間なんだから反乱軍でもなんでもないし。秀頼が西軍討伐命令出してればそれを盾に出来たかもしれんけどね。戦況不利を知って三成達を切り捨てる腹算用だったんだろう。 公儀(家康)に反乱を起こしているのだから西軍は反乱軍だよ >>190
家康の会津征伐は秀頼に事前の許可を取って朝廷にも届け出たから
豊臣家も軍資金や兵糧を出したけど
西軍は何の許可もなく勝手に集まって勝手に暴れているだけ
別に淀・秀頼が三成に「家康と戦ってくれ」と頼んだわけでも何でもない
豊臣家が西軍に軍資金や兵糧を出すなどありえない話だった >>195
それは外部から見たらの話で増田長盛は正にその西軍に参加してるんだぜ。長盛は内府違いの条々にサインしてる反乱の首魁、徳川家康が来たら下手すりゃ首が飛ぶ立場にいる。
「このままだと俺は斬首だ。だが石田三成ら大垣衆を差し出せば罪一等は免れるかもしれない」と考えていたのでは?というならその可能性はあるけど長盛の人間性っていうかその本性ってのが…下劣というか 勝ってるんならともかく敗色濃厚なのに公金つぎ込める道理がない 秀頼も淀君も西軍支持してないからな
大阪城押さえられてもそんなんなんだから 西軍の蜂起のせいで惣無事を掲げた政権の
存在意義が否定されてしまったからな 渡邊大門だったかと思うけど増田長盛は大坂城の蔵を押さえていて金銀兵糧は長盛が一手に担っていたらしい。要は兵站担当なんだがそれが負けそうだからで前線を切り捨てたとなると結構えげつないお話になりそう >>193
反乱軍てw
基礎知識もないバカが無理に口出すなよw 九月十二日の書状だと三成は刈田による兵糧補給を主張したけど長束・安国寺が反対して近江から運ぶ事に決まったらしいがなんで長束たちは刈田に反対したんだろう >>203
豊臣公儀の軍隊ではないぞ
秀頼は命を下してもないし支持を表明してない
対する徳川は秀頼のお墨付きもらって出陣した って訳じゃ無いらしい
秀頼配下の弓鉄砲隊が関ヶ原に参加してるから
毛利輝元が大坂城を乗っ取った時に豊臣の親衛隊も指揮権を奪われていたらしい。対外的には豊臣vs徳川なのも秀頼の軍隊が徳川に戦争してたからなんだと いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない へー
メール欄で自己主張しているつもりなのかもしんないが、出先だとメール欄確認面倒だからコテにしてくんない? メール欄に何か入ってること自体今言われて気づいたわw
とりあえずあなたは面倒な人だな 毛利公儀説だと輝元が大坂城に入って豊臣が文句言わなかった時点で毛利が公儀になったことになってるし… >>212
気付かずageていたなら指摘に感謝くらいはいいんじゃない?めんどくさいってひどいな 武力で占拠したら公儀が手に入る
ってなっちゃうとその公儀から
武力以上の正当性を奪ったに等しい
武力で言うこと聞かせるだけじゃなく
より安定で持続的な統治を実現するために
諸大名の上洛謁見やら朝廷巻き込んだ官位制やら
秀吉は豊臣公儀としての手続きを整えてきた
だから家康は秀吉死後、最大の武力を持ちながら
すでに整えられた公儀としての手続きを
踏むことで継承しようとしてたんよね
逆言うと豊臣公儀は天下の統治手段として機能した
でもその政権手続き無視してしまったことで
実は武力でなんとでもなると喧伝したに等しく
豊臣公儀の命脈は断たれてしまった めっちゃ単純な話政権内での序列争いや
秀頼や朝廷への根回しでトップ争いしてたのが
毛利と奉行らは武力で秀頼抑えた方が勝ちという
別のルールで勝ちを狙ってしまった
結局武力で決めるなら
秀頼の身柄の押さえ合いとかじゃなく
強い方がトップでええやんてなっちゃうわな 内府違いの条々を出しても秀頼を人質に取っても家康の公儀をひっくり返すことは出来なかった
そうなればもう自分がトップになってもいいんやと思うよね どちらかと言えば豊臣の仮想敵国になるのは毛利>徳川じゃないのか
少なくとも秀吉は徳川は親戚として完全に取り込もうとしてたからな もちろんクーデター起こした毛利が悪いんだが、豊臣も豊臣で徳川に西軍討伐指令を送るか毛利に乗っかるかしないとダメだった。中途半端に両建てしたから… >>206
秀頼麾下の詳細な参戦経緯とか指揮系統についてどこかに資料残ってないのかねえ 毛利公儀論者である高橋陽介氏とかの著書によると複数の史料に豊臣公儀が西軍に与した事が残ってるんだとか。
一例だと八月二十九日に保科正光が美濃方面の状況を報告したものに「大柿(大垣)に三成・秀家…そのほか豊臣家馬廻衆」とあったりしてるんだと。最後の南宮山にも豊臣家弓鉄砲隊がいて徳川と戦闘になってたし指揮系統を完全にジャックされてたのかもしれない。ただこの動きだけを捉えた研究は知らない…あるのだろうか。 豊臣公儀なんてものはない、秀吉公儀があっただけ
秀吉の残り香と家康の力で死後も全国統治を継続していたにすぎない
呆けたとはいえ秀吉も戦国の世を生き抜いた人間だからそういう現実は理解していたが
秀吉の威光で威張り散らしていた下っ端連中が理解できず
秀吉の死後も自分たちが公儀だと威張り続けられると勘違いしていた 「西軍が豊臣抗議を名乗った」
「豊臣馬廻で西軍に付いた将もいる」
これは確か
「だから西軍は豊臣公儀」
「だから豊臣公儀は西軍を支持した」
と解釈するかどうかはそれぞれの見解の領域かな
個人的には秀頼が公的に支持を表明してない
(支持を表明する文書さえ出させることができない)
のでそれはどうだろうと思うけど 北条包囲網(山内・扇谷両上杉、古河公方、今川、里見)→瓦解
信長包囲網(義昭、浅井、朝倉、本願寺、雑賀衆、武田)→瓦解
なんでや・・・ 惣無事令で私闘は禁止されて公儀が裁定する事が決まったのが豊臣公儀の骨幹。だから本来豊臣は徳川か毛利どっちかを公儀軍と定めないといけない。秀頼馬廻衆が西軍に着いてるって事は見かけ上は西軍が公儀軍となる。それが実は輝元にジャックされてましたってなるとそれは豊臣公儀がブッ壊れた証拠でそりゃあ滅びるよねっていう… 毛利が軍勢率いて入城してんだから
うっかり反対なんて出来るわけないんだがね 包囲網ってのは後世の作家が
見立てたものじゃないのかな?
まともな歴史家で包囲網
主張してる人いるだろか? 単体で勝てないなら群れて勝てはまぁ兵法だからね。機能したからしなかったかの問題はあるが >>227
それじゃ公儀は名乗れんのだ。本拠地を占拠されようが自分の法を守れないとダメなのだ 徳川に救援要請(西軍討伐指令)を送ってればまだ違ったんだろうけどなぁ 石田三成の去就もよく分かってないのよね。
大谷吉継に西軍決起計画を聞かされたのが七月三日、十一日には参加した…とされるけどこの後何処で何してたのか。
中野等によると三十日まで大坂城には来てないっていうがだとすると吉川広家書状(大坂に向かう三成と吉継を目撃)に嘘があることになるし。 >>234
斬首されてるのに東軍につくということはないでしょ
そもそも中野とか現代の史家が何言おうと無駄 秀頼か淀殿のどちらかが人質or国替えに応じれば
豊臣が織田にした方に生き残れたかもしれんが
てか三成が負けたら家康が政権を牛耳って豊臣家が乗っ取られることくらい
当時の人間でも分かりそうなものだが淀殿も豊臣武断派も気付いていないのか? >236
三成は単なる元官僚に過ぎず、淀・秀頼の了解もなく勝手に武装蜂起しただけ
散々好き勝手な振る舞いを繰り返して、自分が負けたら豊臣が乗っ取られるから従えとか
主張があまりにも理不尽すぎるだろ
淀や武断派でなくても三成の傲慢な振る舞いに拒否感を持つのは当たり前だった
当時はむしろ、三成たち奉行連中が豊臣を自分の私物かのように思い上がっていることの方が問題だった まず生前の秀吉が政権牛耳ってくださいと言わんばかりの優遇を徳川家に与えてるからな
徳川のみ将来にわたって豊臣一門の座が約束され他は前田も含めて家臣扱い
徳川に頼るしかないくらい家として落ちぶれていたのを秀吉もわかっていて仕方なかったんだろうが
それが三成たちの反発と危機感を煽ることになった
家康も秀吉からの優遇があるとは言えそれを担保する豊臣家は風が吹けば飛ぶような頼りなさなんだから
自家を守るためにも権力基盤を固める行動に出るのは当然でそれが専横と批判されたりもする
作用反作用の悪循環が積み重なった結果が関ヶ原 徳川が政権を牛耳るのと
別の政権に取って代わられるのは
またちょっと違うからね
徳川も関ヶ原までは豊臣政権内での
首班として振る舞ってるので
政権とその象徴的トップである豊臣家を
守ると言う意味では成功してた
結果的に関ヶ原で豊臣政権の価値が暴落して
新しい政権を建てられてしまったので
徳川が豊臣政権を牛耳るとそれがそのまま
徳川政権成立、豊臣政権滅亡と
考えてしまいがちだけど 晩年の秀吉が馬鹿やらかしすぎた
少なくとも秀次が生きていたなら、豊臣の家政まで家康が口出しはできなかったはずだし、
政治にしても秀次をある程度は立てざるを得なかったはず 三成がクーデターしたんじゃなくて毛利がクーデター計画したから。五大老の1人が仕組んだんだから勝ち目があると見てたんだろう。引退した元奉行にあれだけ人が動くはずもないから。 どちらにしろ結果的に石田が豊臣政権を崩壊させた
石田のやってる事は私利私欲での周りの事も考えずの権力奪取なんだよな 三成としても難しい局面だしな。大谷吉継の誘いを拒否したら殺されるだろうし。よしんば生きて帰れたとして佐和山には少数の兵しかいないから攻められたら死だろう >>241
毛利輝元が徳川家康に勝てると考えていたとしたら
当時の奴らの嗅覚を疑いたくなるな
人間が余りに違いすぎるだろ
器が 人間の格なんて見て分かるもんじゃないしそれで勝敗が決まるとも思わんだろうし…
単純な戦況だと上杉を背後に抱えてる徳川と背後がそれなりに万全な毛利なら勝負になりそうと思ってたんだろう。まさか九州で黒田がボコボコ前進して上杉は全く前進出来ないとは思わんじゃん… 無知ですまんが輝元って戦は強かったんか?
ちらっと調べても激戦を繰り広げたしか見当たらない 頑なに三成巻き込まれ設定を主張してる人がいますねw 光成氏は輝元について「野心的で強い野望を秘め、その為なら家臣を犠牲にする事も厭わない」と断じてる。その上で関ヶ原の趨勢を決めたのは輝元の人間性、つまり死線をくぐり抜けてきた家康と死地に赴かなかった3代目の輝元の差だという。だから内心の野心に反して能力というか経歴が足りんかった。それでも大国の主ではあるからね。 三成の参戦が義継の働きかけってのは何の小説だっけ? >>248
もし本当に内面を「断じて」いるなら研究者じゃないんだよ
何があったかなかったか、それだけを論じるのが史学なんでね
史資料から人の内心を慮るのは史学ではなく、よくいったところで文学
きみは簡単な史料を誤読して、指摘されても無視するし
史学に向いてないよ、というか史学に限らず学問全般に対して不敬
小説や大河ドラマに一喜一憂しているのが身の丈にあってますよ そりゃ輝元って三奉行と綿密な打ち合わせの上大坂城ジャックしてるからな。三奉行の上洛要請文が十二日、それを広島の輝元が受け取ったのが十五日、その日のうちに数万の軍勢連れて十七日に大坂城を占拠させてる。広島・大坂間を二日で移動した例はこの一件だけで事前の入念な準備が無ければ不可能。この件で輝元が西軍決起の首謀者と知れる。他にも輝元祐筆は既に大坂入りしていてたとかね。 ちなみに光成氏は輝元の上洛記録と江戸時代の参勤交代の記録から広島・大坂間の移動にかかる日数を算出してる。それによれば陸路で約10日、海路で6〜8日かかってる。2日で移動したということは潮流天候を把握した上で最も都合の良い日を予想して準備していた事になる。輝元は担がれたのではなくむしろ指導的立場にあった。三奉行が輝元にここまでの準備を命じる立場にあったとは思えん。その後の輝元の動きを見ても成る程輝元が首謀者なのだろう。 >>253
誤読を訂正もしないやつがらが偉そうに
君は誰かの論拠を引用する資格もないんだよ
誤読して反省もしないんだから
きみに実名で引用される人は迷惑なんだよ どうせ返答はなかろ
都合の悪いことは無視して、自分の勝手な妄想を辺り構わず綴るだけのBotみたいなやつだからな >>250
三成が佐和山に吉継を呼んで西軍に誘った、ってのがまず小説なのよね。この話が初出なのは落穂集って書物なんだがこいつは1700年代の編纂で面白い話だけど信用出来るかと言われると微妙。
一次史料では三成と吉継どちらが誘ったのかは不明。ただしイエズス会の記録日本諸国記には家康が関東に向かった後、奉行の一人が佐和山で三成と連絡を取りかねて仕組んでいた計略を明らかにしたとある。後世の小説の影響を排除して考えると吉継の方が主犯で三成は誘われて参加した可能性の方が高いんだろう。そもそも隠居同然に謹慎してる三成が大規模軍事計画を立てたってのがまずおかしい。 >>252
輝元って大友義統を九州に送って一揆を誘発させるわ大坂城にいた蜂須賀家政を監禁して阿波を毛利領にして蜂須賀軍も接収するわで領土野心ダダ漏れなんだよな。長宗我部に対しても「旧領は保証」といってそれ以外の領土は毛利の物にしようとした疑惑があるし。ところが負けそうになると大坂城から出て決戦とかはせずに安国寺恵瓊や石田三成、大坂三奉行を生け贄にした。ここら辺が危険を呑んで赤坂まできた徳川家康との格の差かもしれない。 >>257
自分にレスしてるけど何がしたいんだ?
あんたの文体は独特だからID変えて別人装ってもすぐ分かるよ >>245
徳川本隊が真田に足止めされて関ヶ原に間に合わなかったのは家康も誤算だったし
戦は誤算が大きい方が負ける
大坂の陣でも徳川方は圧倒的兵力を有するも大苦戦してるからな
真田が強かったことにしておけばそれに手こずった徳川も仕方ないと民衆に思わせるために
江戸時代を通じて真田人気をおさえようとしなかったわけ >>259
そもそも関ヶ原に遅参してる前提なのがおかしい
期日や待ち合わせの取り決めとか無かっただろ >>256
ただ毛利と三成の共謀関係は毛利方の史料上
三成失脚前と比定されるものがあり
かつ東軍側でもかなり早い時期に三成吉継による
策動として認識されているよね
そこを考え合わせると三成は巻き込まれただけ
という主張はかなり難しいと思う 大谷吉継こそ石田に説得されて巻き込まれたという
フィクションをもとに語られがちなのはあるが 豊臣政権を家康が仕切るのが、気に食わない。
というのはまだわかるのだが、なぜ西軍は軍事クーデターなんて手にでたんだろうな。
軍事クーデターなんて起きてしまえば、天下を安定させることが出来なかった、豊臣政権自体の弱体化が進み、豊臣家が天下を運営させる正当性も失われるのに。
そんな、大事を起こしておいて「豊臣家の御為に」と言っても白々しいし。
関ヶ原の時点だと追い詰められてるのは、豊臣家ではなく西軍の中心のメンバーだし。
それなりの理由がらあったのだろうけど。
司馬史観だと、家康に挑発されたおバカな三成はそれに乗ってしまったと、三成を酷い扱いにしてるが。 動機面で見ても面白いぞ。
大谷吉継については徳川は「宇喜多騒動に介入して領国を顧みない榊原康政を家康が「そんなに金が欲しいのか」と叱責したところ同じく騒動に介入していた吉継も気分を害して家康を恨んだ」と推測してる。対して三成は「何故か家康を恨んでいたらしい」と理由を把握出来ていない。実際三成は家康に命を救われて嫡男重家も家康に面倒見てもらってると親徳川に転んでおかしくない。吉継が三成を誘った可能性は高い。司馬遼太郎の小説だと石田三成を漢にする為にドラマチックにしてるけど。 巻き込まれたというより宇喜多秀家とかと同じく呼び掛けられて参加しちゃったというのが最近の見解だな >>261
確かに東軍は最初三成・吉継の謀叛と聞いてたけどこれが輝元・三奉行の偽情報って事も史料上明らかになってる。
七月二十九日に黒田長政に宛てて徳川家康が「大坂奉行衆が裏切ったから」と重ねて談合したい旨を記してる。三成・吉継は既に裏切りを認識してるからこれは増田長盛ら三奉行のこと。つまり以前からあった策略を徳川諜報部が掴んだのではなく、大坂三奉行のウソを徳川が真に受けてただけってのが真相らしい。ここからも石田三成首謀説が疑わしいって話に… 家康ってどのあたりから豊臣家を本気で滅ぼそうと思い始めたの?
二条城会見?自分が死んだ後、秀忠と秀頼がどうなるかとか色々考えちゃった? すまん意味がわからないので
ちょっと補足してくれ
徳川が以前からの策略を掴んでたってのは
まあいい加減な小説以外何物でもないと思う
ただ7月29日なんてとっくには内府違いも出てて
三奉行謀反が明らかになって何もおかしくない時期
それを持って何故嘘情報が流れてたとか言えるのか 嘘云々はいつもの妄想くんの戯言だとして7月29日付黒田長政宛家康書状を見ると
「先度御上以後、大坂奉行衆別心之由申来候間、重可令相談与存候處、御上故無其儀候」
黒田家譜によると黒田長政が小山を出発したのは27日
つまりこの書状の内容が本当なら家康が奉行衆謀叛を知ったのは27~29日と言うことになるな
ただ7月24日付中川秀成宛松井康之書状見ると
杵築に居た松井は24日の時点で既に奉行衆謀叛の情報を掴んでるんだよな
「毛利殿御奉行衆被仰合、内府様へ御謀叛之由申候」 >>267
幕府成立時点で、放っておいても害はないと判断してるとしか思えない。
喜連川の足利家と同じ扱いにする予定だと思われる。
片桐勝元追放時点で武力制裁を決意、夏の陣開始時点で滅ぼすと決意。
それ以外では武力でつぶすことを検討した形跡すらない。 最初期の認識は石田大谷が怪しい書状出してる
その後入った情報で三奉行謀反へ変化
その間に三奉行が内府違い等明確な行動をしてる
赤の他人に罪をなすりつける欺瞞情報のせいだ
とするには状況証拠にはならないでしょ
別にそれらは新史料でなくて
石田大谷の文書が三奉行の行動より先んじて
東軍に認識されてたというのが普通の解釈
欺瞞情報を主張するならそれにあたる
新史料が出てるとかなのか? >>267
家康個人としては
あえて潰そうとすれば反感は買う、カネはかかる、万が一ということもある
それに孫の婿で、太閤との約束もある
豊臣家に天下人としての能力が結果的なかったのに
本人達がいつまでたっても厨ニ病的な反抗姿勢崩さないし
自分の年齢考えてやるしかなくなったんじゃないかね
幕府の意志はまた別で
さっさと地雷踏んでほしいと思ってたかも 天下統治の体制としてもはや武家関白制が破綻していたんだし
朝廷も見切りをつけて(関白を五摂家に取り返したいとの思惑もあったはず)徳川の公儀を認めた、というか後押しした
家康も例え本人にその気があってもいきががり上立場上愚直に豊臣家を天下様などと奉れなくなったろう
全ては秀吉が豊臣家を他人に寄生しなきゃやってけないスカスカの家にしたことの当然の帰結でしかない >>268
七月二十七日秋田実季宛榊原康政書状で「上方で三成・吉継が家康様を裏切ったので三奉行とおふくろ様(淀君)が上洛を要請…」とあり徳川は当初三成・吉継が謀叛をしたと判断していた。これに対して大坂三奉行は十二日に輝元を大坂に呼び十七日には大坂城を占拠させ同日には内府違いの条々を出した。つまり徳川が大坂から受け取った情報は三奉行による偽装情報だった。毛利軍による大規模クーデターと知られないようにするためのね。 なんで三奉行が謀反の中心人物と掴めなかったかと言うと内府違いの条々にある。内府違いの条々には二種類あって、宛名署名が整ったものと無いものとある。宛名があるものは九州の諸領主に宛てられている。だから九州の大名は「毛利と三奉行が謀叛した」と掴んでる。三成の名が出てこないのはソースが条々だからだろう。これには三成の署名が無い。
対して宛名の無い物は署名も無い純然たる怪文書になる。掴まれたところで証拠にはならない。
尤も三奉行の偽情報は毛利軍入城までの時間稼ぎが第一目標だから入城した時点で目的は果たした事になる。後は西軍配置が間に合えばいいので徳川がまんまとハマってくれて助かったというところだろう。 >>271
逆にそれで三成首謀説は有り得んって話もあるな。
一次史料には載ってないけど吉継が三成に会ったのは二日から十一日の間で、それだけで徳川に「三成に怪しい動き」って報告がいってる。吉継があってるだけでこの騒ぎなのに大坂と西軍決起計画とか立てられないって話。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています