石田三成の挙兵 ★2
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石田三成が上杉討伐で挙兵をしない、もしくは合戦
勃発後に挙兵していたらどうなっていたか。
※前スレ
石田三成の挙兵
https://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1646589302/ まず前提として朝鮮出兵は秀吉の指揮下で行われているので加藤清正から毛利輝元、小西行長や伊達政宗まで全員「秀吉の統率する軍隊」に相当する。相当しないという事は秀吉の命令を無視して行動する軍団がいた事になる。
これをかなり限定して「豊臣家の武将」とする事も出来る。しかしだとすると加藤清正が除かれる理由が無い。清正は秀吉子飼衆の最たる例で秀吉から国を任されている。つまり彼はこの兵糧を使う権利がある。にも関わらず清正は国許に兵糧催促をしてる。秀吉は「兵糧が足りなかったら送る」とまで言っているのに何故なのか。 加藤清正ですら使えないならこの兵糧は何の為にあるのか?
筆者はこれに手を付けると「借米」になるとする。ここはかなり悪意がある。つまり秀吉は大量の物資を集めながらそれを大名には与えず貸し付けていたと言っているのだから。
これは無茶苦茶に悪質で秀吉が嫌いだとしてもここまでは…何しろ自分で諸将を地獄に送り付けておきながら食糧は自弁、山と積まれた物資は使わせずに困窮した大名に貸し付けていた…となる訳で幾らなんでも酷いんじゃないか? だから私としては東京大学教授とやらをしてる高木昭作氏の説の方が説得力があると感じる。彼は著作「公儀権力の確立」の中で「最終的には中央権力が兵糧の補給に責任を持つ」としてるがこれが妥当だろう。秀吉は確かに悪党かもしれないが兵糧三十万石を貸付の原資にするほど我利我利亡者じゃ無かったはずだ。 >>132
> >>127
> 私も秀吉は嫌いだけどこの論文は秀吉への嫌悪感で満ちていると思う。
満ちてません
君の妄想です 好き嫌いとかひどい云々で論文書くわけないだろ
史学というか学問に携わったことないだろ
大学すら出てないんじゃないか?
きっちり先行研究に言及した上で批判するところは史料を挙げて批判しているし
難癖つけるなら慶長がほぼなく文ろくに片寄っているとか、言い様はあるのにこのざま
頼むから消えて >>133
>も関わらず清正は国許に兵糧催促をしてる。秀吉は「兵糧が足りなかったら送る」とまで言っているのに何故なのか。
それが御恩と奉公だから
高級取りのくせに会社にスーツ代と夕飯代くださいと頼むようなものだから
どうしても兵粮が用意できないのなら秀吉が有償で貸す
清正は自分の評価上げるためにも自分で用意しようとする
大前提は各大名が自分で兵粮を用意する >>134
> 加藤清正ですら使えないならこの兵糧は何の為にあるのか?
戦国時代、城には米を備蓄することが日本全国共通の常識
いざというときの籠城のためであり、通過する軍に食べさせるためのもの(もちろん有償)
> ここはかなり悪意がある。つまり秀吉は大量の物資を集めながらそれを大名には与えず貸し付けていたと言っているのだから。
各大名は所領を貰い、或いは所領安堵されて所領に対し強力な徴税権を有する
各大名が兵粮を自弁するのは当然
公儀の米に手をつけるのは恩賞を受けてるのと同義だから公儀として公平性を保つため、有償でなくてはならない
> 幾らなんでも酷いんじゃないか?
君の妄想 しかしまあ、業界向けの論文で基礎を共有している人間に読まれると思って書いているのだろうけど
悪意がどうのとか理解不能な解釈される筆者に同情する
紹介したことに後悔すら感じる 高木先生の論考は未読だが、こいつが書いているとそのままの内容なのか極めて怪しい
史料も実際に読むと真逆の解釈とか平気でするからな ま~たスレタイとは全然関係ない話ししてるな
家康マンセーや朝鮮の話ししたけりゃあ当該スレでやってくれや そもそも関ヶ原のIFスレいくつ立てたら気が済むんだ?
スレタイどーのこーのよりも、「ゴミスレ乱立させんなクズ」って話では? >>117
116のレスの者だけど、やっぱ借米か
釜山から漢城までの輸送は大変だったようで最終的には海路で輸送しやすい南岸側の倭城に防衛ライン引く有り様はやっぱ秀吉の戦略は最初から失敗してんだな
海路も海路で途中で水夫が大量死して秀吉や奉行から日本軍に自分で兵糧確保しろと言った辺りからもうヤバかったな >>121
文禄の役に出兵して渡航もしてるのに知られているのが乱取り報告書くらいの佐竹さんも思い出してあげてください… そういや半島南岸に拠点だけ築いてそれが終わったらそのまま帰国したの結構いたんじゃなかったけ?5万ぐらいだったかな? 御城米については中野等氏や服部英雄氏が既に述べているけど基本的に御城米は城主が受け取って管理するもので借米のように見える。「見える」というのは御城米は政権側が輸送から貯蓄までを担っている点が単なる借米とは違う。だから「御城米が無くなる」ことは政権側の落ち度で城主の落ち度とまでは言えなかった。 >>148
> 御城米については中野等氏や服部英雄氏が既に述べているけど基本的に御城米は城主が受け取って管理するもので借米のように見える。
見えない
御蔵米は御蔵米で公儀のもの
原則手をつけてはいけない
各大名は厳密に管理して数量を定期的に報告し、使ったら報告しろと命じられている 江戸幕府なんて島原の乱で各大名に兵糧米を配ってるからね。秀吉が江戸幕府以下なのは時系列上仕方ないがそれでも似た様な事はしてるさ。服部氏によればまず各大名の陣中兵粮が大名負担なのは当たり前として城の備蓄米は政権側が責任を持つとしてる。この備蓄米は籠城用の米なので気軽に手を付けてはならないが禁止されてるものじゃない。戦になればこれらの物資は当然に消費されるしその補充は政権が責任を持つ。
天正二十年正月の秀吉書状では「全国の武将に兵粮を渡す」と書いてるけど上記の江戸幕府と同じで物資援助を約束してたんだろう。何故かといえば政権にとって戦争に勝つ事が重要で大名を甚振りたい訳じゃ無い。兵粮援助で勝利が買えるなら安いもんだろう。負けたけど。 借米だからとケチで秀吉が意地悪してるように妄想してるようだが、御蔵米に手をつけたら日本でその分返すだけのことだよ
ちゃんと管理してるからこそ勝手に使うなということでもある 御城米は籠城用の物資なので基本的にその全ては政権が担当する。敵に攻められて使用した場合は直ちに政権が補充しないとならない。それで小西行長も「兵糧が無い」と石田三成に報告してるわけだね(名護屋城博物館所蔵)
「手を付けてはならない」は間違いでだとすると何の為にあるのかわからない。籠城用なので気軽に使う事は許されないが使えない訳では無いよ。政権にとって重要なのは戦争に勝つ事でこれはその一環なんだから。 三成は挙兵するにあたり、なぜ伏見城を20日近くも攻める愚行をしたのか
もうあれで挙兵失敗が決まったようなもの
なんで伏見城なんか後回しにして、さっさと濃尾から東海道を抑えようとしなかった >>154
そもそもトットと落とせない体たらくでクーデターなんか起こしたのが間違い 挙兵して味方を集める計画だったけど
結果思うように集まらんかったってだけだわな 関ヶ原で負けたことよりその後陣営を維持できずあっさり崩壊したことのほうが問題
南北朝や応仁のように長期化させればまだ芽があったかも知れないのに 南北朝や応仁と違って豊臣の後継者は秀頼で確定しており
元官僚に過ぎない三成が俺を政権に戻せと我儘を言っているだけだからな 東海道を抑えろというけどそもそも
東海筋の大名が靡かないわけで
留守居の城なら簡単に落ちるでわけじゃなく
内応させられなきゃ時間がかかる
落ちない城が増えるだけかと >>159
清須城だけ落とせれば全然違うぞ。
史実の動きは清須の兵糧あてにして東軍動いてるからね。
西軍が抑える事が出来たら、家康はウルトラマンにしか成らない そもそも石田って奉行席順は4位だろ?秀吉死亡~利家死亡まであんま動いていない。
浅野が主導だしぶっちゃけ七将蟄居後も動いていない。石田の暗躍も基本憶測だしな。
関ケ原は西軍は宇喜多・毛利が主導で中央で都合よく残っていた奉行枠で使われたとかなんじゃね。
後東軍は都合よく首謀者格にできそうな奴だった都合よく切った。
関ケ原の戦いは斜めに見ると大坂の陣より暗闇が深い。 >>161
確か関ヶ原で誰かが伊勢路から清州攻撃言ってたよな
美濃方面制圧前だったから無茶だけど、採用してもよかったんじゃないか
家康に勝つこと自体ばくちみたいなものだし 三成は主力部隊を東進させて徳川を上杉と挟み撃ちにする作戦を提案したけど伊勢制圧を訴えた安国寺らの案が採用されて万事休す。三成の単なる短期決戦志向じゃなくて味方になってる真田家が対東軍最前線になっていて兵を送りたいし岐阜城の織田秀信が兵を集められなくて頼りにならんっていう状況から来てる面もあるんだろうけど 家康に勝つこと自体博打って…
その後の悲惨な結末知ってるからそんな事を言えるだけであって
あの時の西軍の戦略って上杉が関東で暴れることを期待した持久戦でしょ >>163
博打を打つのにも全軍従えてないと無理だろ >>165
それ自体部の悪い博打以外の何者でもないやんw >>163
言ってる奴が大谷吉継とかならいいんだけど確か吉川広家と毛利秀元なんだよな…この2人徳川との内通を疑われてたから採用されんかったんだと >>163
宇喜多らが伊勢路から攻めてたけど時間切れで大垣に集結やん
まさか兵糧運搬の海路のために港掌握しながら順に落として行くのは古来からの常套手段であり常道
未来予知して間に合わないから素通りして行けとかいう話? 伊勢掌握しとかんと東海道から上方に抜けられるやん、九鬼の息子は東軍だし 情報戦で西軍は押されてるからねぇ。三成は単に佐和山、大垣の司令官で他の隊に命令出来たかも怪しいのに単体で東軍に立ち向かえって方が >>169
普通にそういう主張と思ってた
常識はずれの奇策だから博打と言ってるんだと 西軍の中でだれか家康と刺し違える奴はいなかったのか
要は家康さえいなくなれば、秀忠なら何とかなったのに 常識外れの奇策って戦術においてはあるが
兵站無視などの戦略段階の常識外れの奇策ってあるんか? >>173
刺し違える遥か手前で死ぬから無理。無駄死には誰だって嫌だろう 三成って私財を投じて戦争してるからね大坂に捨てられたけど 兵站無視はよくハンニバルのアルプス山脈越えを挙げられるけど
あれ結局、兵站欠乏によりローマ本拠地を攻撃できず
重要港を制圧&制海権を得ていないことからカルタゴ本国から増援と物資も呼べずジリ貧になって負けたんだよな
天才的な戦術による連戦連勝を重ねても戦略的な劣勢を覆せなかった 今川家は稀代の人材をみすみす逃してるよね
秀吉とか山本勘介とか 山本勘助?キツツキ戦法やらをやろうとして謙信に裏をかかれて討ち取られ、信玄の弟の信繁も死なせた無能か? 三成に出来ることと言ったら自分の軍と大垣にある西軍勢力を使うことくらいで後は大坂の増田長盛か毛利輝元に相談するしかないっていう感じ。そこに東軍の大軍が襲来で勝てるはずが無い >>181
三成のいい話ってみんな後世のものなのに
なぜか軍記類でも信頼性ありとされてる疑問 三成は九月十二日増田長盛宛書状で私は大分金使っています早く金を送ってください、と言ってる。どうも分不相応に金を使っていたらしい。織田秀信や織田信雄の逸話から察するに本来大坂が払うべきものすら三成が自腹切ってたんじゃないか。同書状には兵糧の輸送についても重ねて書いてあるから大坂から見捨てられてたんじゃ。 豊臣家の金穀って政権の金穀でもあるわけだろ?
政権の中枢にいる奉行が拠出を求めても拒否できるものなんだな
つまりは豊臣家として西軍を公儀軍として認めなかったということにもなるのでは
西軍が公儀になったとする研究者はこの豊臣家の金穀拠出拒否をどう解釈してるんだろう >>184
主家に金出せって
奉行でも無いのにそんなことできるのか? >>185
三成以外の現役三奉行は拠出を求めてなかったってこと?
家康は会津征伐にあたって豊臣家から黄金2万両と米2万石を下賜されたそうだが
その辺の違いがよくわからん >>186
三成 奉行でも何でもない一家臣
家康 秀吉の義弟で妹婿、秀頼の外祖父(予定)、秀吉の遺命で政権任されてる
格が違いすぎる 基本的に兵糧は各武将が用意する、のだけどそれだと兵糧を用意出来なかった隊が落伍して戦争にならないので最終的にはトップが用意する。それは貸しになったり恩寵米になったりと形は様々だけど要はトップが兵糧を用意する事になる。だから三成が兵糧や資金を要求してもおかしくない。仮に人を調略で引き入れてたなら支払いは豊臣になるし。 >>187
それはものすごくわかるんだけど、じゃあ三成の言う金送ってくれは誰の金なんだろうかと
三成自身は身上はたいてるから三奉行や毛利らの私財から送ってくれと言ってるのか
豊臣家から金出すよう働きかけてくれと言ってるのかどっちなんだろう >>189
そりゃ豊臣の金でしょ
毛利や宇喜多は朝鮮のために財政がそこまで
余裕ないはずだし 9月12日付増田宛三成書状(古今消息集所収文書)って当時は使われてない表現
「遠慮深く」、「ちゝミたる」等があったりして白峰氏は偽書扱いしてるな
高橋氏の主張に白峰氏が検証反論したものだが、5,6年前の話だし今は話がまた進展してるかもしれんが 度々申し入れたってあるから大坂の増田長盛は三成からの度重なる要請を黙殺してたって話で三成からすると不気味というか嫌な予感してたろうな >>183
本来大阪が払うべきものって何?
反乱軍の戦費は払うべきでないと思うけど 石田三成は毛利輝元・増田長盛と同調してる仲間なんだから反乱軍でもなんでもないし。秀頼が西軍討伐命令出してればそれを盾に出来たかもしれんけどね。戦況不利を知って三成達を切り捨てる腹算用だったんだろう。 公儀(家康)に反乱を起こしているのだから西軍は反乱軍だよ >>190
家康の会津征伐は秀頼に事前の許可を取って朝廷にも届け出たから
豊臣家も軍資金や兵糧を出したけど
西軍は何の許可もなく勝手に集まって勝手に暴れているだけ
別に淀・秀頼が三成に「家康と戦ってくれ」と頼んだわけでも何でもない
豊臣家が西軍に軍資金や兵糧を出すなどありえない話だった >>195
それは外部から見たらの話で増田長盛は正にその西軍に参加してるんだぜ。長盛は内府違いの条々にサインしてる反乱の首魁、徳川家康が来たら下手すりゃ首が飛ぶ立場にいる。
「このままだと俺は斬首だ。だが石田三成ら大垣衆を差し出せば罪一等は免れるかもしれない」と考えていたのでは?というならその可能性はあるけど長盛の人間性っていうかその本性ってのが…下劣というか 勝ってるんならともかく敗色濃厚なのに公金つぎ込める道理がない 秀頼も淀君も西軍支持してないからな
大阪城押さえられてもそんなんなんだから 西軍の蜂起のせいで惣無事を掲げた政権の
存在意義が否定されてしまったからな 渡邊大門だったかと思うけど増田長盛は大坂城の蔵を押さえていて金銀兵糧は長盛が一手に担っていたらしい。要は兵站担当なんだがそれが負けそうだからで前線を切り捨てたとなると結構えげつないお話になりそう >>193
反乱軍てw
基礎知識もないバカが無理に口出すなよw 九月十二日の書状だと三成は刈田による兵糧補給を主張したけど長束・安国寺が反対して近江から運ぶ事に決まったらしいがなんで長束たちは刈田に反対したんだろう >>203
豊臣公儀の軍隊ではないぞ
秀頼は命を下してもないし支持を表明してない
対する徳川は秀頼のお墨付きもらって出陣した って訳じゃ無いらしい
秀頼配下の弓鉄砲隊が関ヶ原に参加してるから
毛利輝元が大坂城を乗っ取った時に豊臣の親衛隊も指揮権を奪われていたらしい。対外的には豊臣vs徳川なのも秀頼の軍隊が徳川に戦争してたからなんだと いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない いや秀頼直属の家臣団で参戦してないのもいて
参戦してる連中も秀頼の下命は確認できない へー
メール欄で自己主張しているつもりなのかもしんないが、出先だとメール欄確認面倒だからコテにしてくんない? メール欄に何か入ってること自体今言われて気づいたわw
とりあえずあなたは面倒な人だな 毛利公儀説だと輝元が大坂城に入って豊臣が文句言わなかった時点で毛利が公儀になったことになってるし… >>212
気付かずageていたなら指摘に感謝くらいはいいんじゃない?めんどくさいってひどいな 武力で占拠したら公儀が手に入る
ってなっちゃうとその公儀から
武力以上の正当性を奪ったに等しい
武力で言うこと聞かせるだけじゃなく
より安定で持続的な統治を実現するために
諸大名の上洛謁見やら朝廷巻き込んだ官位制やら
秀吉は豊臣公儀としての手続きを整えてきた
だから家康は秀吉死後、最大の武力を持ちながら
すでに整えられた公儀としての手続きを
踏むことで継承しようとしてたんよね
逆言うと豊臣公儀は天下の統治手段として機能した
でもその政権手続き無視してしまったことで
実は武力でなんとでもなると喧伝したに等しく
豊臣公儀の命脈は断たれてしまった めっちゃ単純な話政権内での序列争いや
秀頼や朝廷への根回しでトップ争いしてたのが
毛利と奉行らは武力で秀頼抑えた方が勝ちという
別のルールで勝ちを狙ってしまった
結局武力で決めるなら
秀頼の身柄の押さえ合いとかじゃなく
強い方がトップでええやんてなっちゃうわな 内府違いの条々を出しても秀頼を人質に取っても家康の公儀をひっくり返すことは出来なかった
そうなればもう自分がトップになってもいいんやと思うよね どちらかと言えば豊臣の仮想敵国になるのは毛利>徳川じゃないのか
少なくとも秀吉は徳川は親戚として完全に取り込もうとしてたからな もちろんクーデター起こした毛利が悪いんだが、豊臣も豊臣で徳川に西軍討伐指令を送るか毛利に乗っかるかしないとダメだった。中途半端に両建てしたから… >>206
秀頼麾下の詳細な参戦経緯とか指揮系統についてどこかに資料残ってないのかねえ 毛利公儀論者である高橋陽介氏とかの著書によると複数の史料に豊臣公儀が西軍に与した事が残ってるんだとか。
一例だと八月二十九日に保科正光が美濃方面の状況を報告したものに「大柿(大垣)に三成・秀家…そのほか豊臣家馬廻衆」とあったりしてるんだと。最後の南宮山にも豊臣家弓鉄砲隊がいて徳川と戦闘になってたし指揮系統を完全にジャックされてたのかもしれない。ただこの動きだけを捉えた研究は知らない…あるのだろうか。 豊臣公儀なんてものはない、秀吉公儀があっただけ
秀吉の残り香と家康の力で死後も全国統治を継続していたにすぎない
呆けたとはいえ秀吉も戦国の世を生き抜いた人間だからそういう現実は理解していたが
秀吉の威光で威張り散らしていた下っ端連中が理解できず
秀吉の死後も自分たちが公儀だと威張り続けられると勘違いしていた 「西軍が豊臣抗議を名乗った」
「豊臣馬廻で西軍に付いた将もいる」
これは確か
「だから西軍は豊臣公儀」
「だから豊臣公儀は西軍を支持した」
と解釈するかどうかはそれぞれの見解の領域かな
個人的には秀頼が公的に支持を表明してない
(支持を表明する文書さえ出させることができない)
のでそれはどうだろうと思うけど 北条包囲網(山内・扇谷両上杉、古河公方、今川、里見)→瓦解
信長包囲網(義昭、浅井、朝倉、本願寺、雑賀衆、武田)→瓦解
なんでや・・・ 惣無事令で私闘は禁止されて公儀が裁定する事が決まったのが豊臣公儀の骨幹。だから本来豊臣は徳川か毛利どっちかを公儀軍と定めないといけない。秀頼馬廻衆が西軍に着いてるって事は見かけ上は西軍が公儀軍となる。それが実は輝元にジャックされてましたってなるとそれは豊臣公儀がブッ壊れた証拠でそりゃあ滅びるよねっていう… 毛利が軍勢率いて入城してんだから
うっかり反対なんて出来るわけないんだがね 包囲網ってのは後世の作家が
見立てたものじゃないのかな?
まともな歴史家で包囲網
主張してる人いるだろか? 単体で勝てないなら群れて勝てはまぁ兵法だからね。機能したからしなかったかの問題はあるが >>227
それじゃ公儀は名乗れんのだ。本拠地を占拠されようが自分の法を守れないとダメなのだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています